全体の感じ
「人と人との間には本当は言葉はない、ただ、全体の感じがあるだけだ。
その全体の感じをやりとりしているだけなんだ。」
と、よしもとばななの本にあった。
すごくこれが腑に落ちた。
私は今まで誰かと話すときには、完全に言葉に頼り切っていた。
私は会話の中で一番気にするのが
「人によく思われたい」
「人に不快感を与えたくない」
「人に嫌われたくない」
「人に認めてほしい」
って気持ちだった。
そういう気持ちを託した言葉を操って、その場の雰囲気が一瞬でもマイナスにふれないようにバランスを取るのが私のもう名人芸とも呼べる会話術だった。
でも、そうやって相手の気持を推し量りながら言葉をこねくりまわしてみても、相手に伝わっていくのは、本当は言葉じゃなくて、その言葉を使おうと思った私の気持ちなんだと思う。
たとえば、相手によく思われようとして「うんうん私もそう思う」って言った場合、その言葉によって伝わるのは、「私もそう思う、ってこと」ではなくて「私が相手によく思われようとしていること」なのだと思う。
もっと言うと、そういう気持ち、思惑、感情を持つ「私自身」が言外ににじんで、まっさきに伝わっていくものだと思う。
そういうふうに、人は人を判断するとき、本当は相手の言葉じゃなく相手からなんとなく伝わってくる感じを「勘」や「感覚」でとらえて判断してる。
言葉でうまくつくろえてると思うのは、早計。
たぶん、今の私の全体のかんじは、薄くて弱くて、揺れている。
自分に自信がないから。
まぁそればっかりはよし直そう!と言って直せるもんでもないけど、とりあえず、今までのように人と会話するときに言葉に思いっきり頼るのはやめよう。
言葉より、自分の感情に頼って、感情に沿って、言葉を作る。
(赤ちゃんみたいに感情をぶちまけるわけには行かないから、言葉を「作る」ことになるのは仕方のないところ。音楽も絵も小説も、感情をぶちまけた結果じゃなくて、感情を手なり頭なりによって再構成した結果なのだから)
IKEA
あれこれ雑貨やずっと目をつけてた家具なんかを物色。
どうも今までは
「近いうち引っ越すから今の部屋にお金かけるのももったないでしょ」
的な発想でずるずる来てしまったわけだけど、来るはずの「近いうち」はなかなか来ず、モノは増える一方。
あふれた本やCDや服なんかは行き場をなくしてかなり積み重なってたんだけど、気持ちを入れ替えて
「来るはずのいつかより、今!できることをしよう」
なのです。
というのも。
私の今のだめさ加減とか、悩みすぎる性格とかそういうのを分かってくれてる大事な友達に、
「将来ああなりたい、こうなりたい、今それができてない自分はなんてだめなんだ。・・・って、理想を追いすぎて今の自分を否定しちゃいけないと思うの。今の自分がだめ、とか、決め付けないで、今の自分は今の自分。受け入れてあげることが大事だよ。」
と言われて、まぁなんだかとっても心にしみて。
ということで。
自分自身ではないけど、まずは部屋から。
「来るんだか来ないんだか分からない引越し後の理想の部屋を思い描くよりも、今の部屋を受け入れよう!」
一念発起。
IKEAで雑貨、大人買い。
(大人買いしても良心的な価格。IKEA万歳。)
やっぱり気持ちのいい部屋で過ごすことって大事だよなぁ。
あと、将来したいことがあるなら、今完全でなくてもできることはやっておくことが大事なのだなぁ。
人が誰かを理解するのはしかるべき時期が来たから
本に、
「人が誰かを理解するのはしかるべき時期が来たからであって
その誰かが相手に理解して欲しいと望んだからではない」
とあって、なるほどなぁと。
とくに
「人が誰かを理解するのはしかるべき時期が来たから」
というのは当たっているように思った。
私が私を理解して欲しいと思う人から必ずしも理解してもらえるわけでもなく、私も、私に広く心を開いてくれる友達を必ずしも理解してあげられるわけでもない。
それは時期の問題。
今だからこそ分かるようになった人がいて、また逆に今は少し分からなくなってしまった人もいる。
それはそういうもの。
冬に夏野菜を食べてもおいしくないというような、どうしようもないもの。
だけど私はついつい相手に対して「あなたに私を理解して欲しい」
という理解を強要するような気持ちを強く抱いてしまうことがある。
その気持ちはまっとうなものだと思うけど、
そう願えば理解してもらえるというわけではない。
煮詰まった末に「あなたはどうして私を理解してくれないの」
いう理不尽な憤りを感じてしまうこともある。
なにが伝わるか(理解してもらうこと)より、なにを伝えるかだ。
伝える内容そのもの。
つまり自分がなにを感じなにを言いたいのか?
これまた引用だけど
「通信とは通じたと信じること、伝達は伝えたら達するのだ
それ以上を望んではいけない 」
たとえば、本のように。
「ノルウェイの森」なんてくだらねぇと思っていた人が、ある時期が来て「ノルウェイの森」を読み直して心を打たれることもあると思う。
本は、くだらねぇと思われようが感動されようが「書かれている内容を理解して!!」と声高に叫んだりしない。
ただ、それは、書かれているだけ。
中身が確かならば、時期が来れば人は書かれていることを理解する。
時期が来なければ書かれてることは理解されないまま。
それはそれでしかたのないことなんだ。
だから私は相手の心に近づくより、自分の心に近づくことにした。
会話
自分の考えがあってそれを言葉にすることもできる、頭のいい人と話した。
私はたいてい自分の考えを瞬時に言葉にできなくて、そういう人と話していてもコール&レスポンスがのろくなってしまう。
もちろんあたりさわりのない定型文な会話だったり、社交辞令だったりのコール&レスポンスはできるけど、そうではなくて、きちんと話をしたいと思う相手に、自分の考えを説明するための言葉がなかなか出てこないことがある。
その人に、印象深い話をいろいろ教わった。
でも私は多くの話に、うなづく以上はできなかった。
長い話の中で、
「答えは、そのことがいいか、悪いか、じゃないんだ。
いいとか悪いとかは、一概に決められるものではないから決めつけてはいけない。完全にいいものも完全に悪いものもない。」
「したいなら、すればいい。」
という二つはとくに心に残ったのだけど、
私はこれにもろくな返事ができたかどうか。
心の近くにいく
なにかで感情が高ぶって、自分と自分の心があまりにも近いときに文章を書くと、とてつもなくナルシスティックというか、自己陶酔しちゃってるというか、自意識過剰というか…になってしまう。
その文章からは本当の「自分」じゃなくて「自意識」が芬々とにおいたつ。
「自分」と「自分でーす!」は違う。
それは「自分」じゃなくて、自意識フィルターを通した「なりたい自分」「見せたい自分」だろ、ということが、他人にはうんざりするほど分かるのに、自分自身では気づけずにそれを自分だと思って、せつせつと書き連ねてしまう。
極端な例で言えば、不倫をしていて自分の不倫を報われない純愛だと思っている人の文章とか、あとは心療内科でもらっている大量の薬を人に見せまくってる人の文章だとか、ミクシで自己紹介系コミュニティに100も200も入りすぎてる人の文章にそういう傾向は顕著だけど、まぁまぁ、多かれ少なかれそういう部分は誰にでもあるもんだと思う。
かく言う私も同じで、気づくとそういうモードに入りがちだ。
「私はこう考える」を書いているつもりが、「さぁ、私はこう考えようと思う!」というお題目を書いてしまっていることが多く。
文章は難しいなと思う。
心を揺さぶられるなにかがあって、それを書いておきたい気持ちでビリビリしてるときに、自意識フィルターや理屈フィルターに引っかかってそこで自分のビリビリを文章化してしまわずに、うまくそういったフィルターを避けてスっと心に近づいていって、心の近くでビリビリを文章化できると、いいんだと思う。
本でも、そういう「自分でーす」臭の薄い文章は、読んでいてもはっとするもの。
言葉
言葉は、本心を伝えるためと同じくらい、本心を隠すために使われることが多い。
たとえば「面倒くさい」という本心は「忙しいから」という言葉に代わられる。
でも、言葉が使えないとき、人は隠せない本心をむき出しにせざるを得なくなる。
そのとき本心は目や空気に乗って伝わってくる。
ある人の、去り際の目を見て、気づいた。
この人は大事なものを守るために大事でないものを平気で傷つけるタイプの人だなぁと。
その本心が、言葉というオブラートがないために、直接ぶつかってきた。
あの目と、あの空気が忘れられない。
言葉がない、それは共通言語を持たないということ。
お互い、英語が母国語でない者同士の英語での会話だから、直接伝わりすぎてしまうものと、伝えることのできないものが出てくる。
英語を日常レベルより向上させたいと思った。
伝えたい本心をきちんと伝えることと、伝えたくない本心を隠すことができるくらいには。
ああいう目は、「本心を隠す言葉を使えなかったからぶつかってきた本心」ではなくて、その前の段階で「本心を伝える言葉を使えなかったから生じたゆがみ」かもしれないんだから。
そう思いたいってのも、あるけどね。
正しい・善い・強い
趣味の場で、
あ、お友達になりたいな、
と思った人ができた。
会話の流れからとんとんとミクシを聞かれ、マイミクになって、ミクシのコミュニティに誘われて、入った。
これだけのことに、神経がすりへりまくったけどどうにかできた。
最初は「私ってカンチガイちゃんになってる?」
という状態になることを必要以上にビビって、
うまくコミュニケーションが取れなかった。
今、普通の人間関係だって得意じゃないのに、
実際に話した回数の少ない人と
ミクシでうまいことコミュニケーションをとるなんて、さらに
内輪っぽいコミュニティにうまくはいりこむなんて、
難易度S級だ。
でも、ここ3日間、大げさでなく胃をキリキリさせながら
なんとか立ち回り、被害妄想の強い私にも
「よかった、歓迎されてるみたい」
と思えるくらいになった。
こうやって、胃をキリキリさせながらも
自分で新しい人間関係を切り開いてリンクをつないだ、
っていう、「正」の結果を出した自分にうれしくなる。
なんだかとても明るくて、正しくて、善くて、強いもの。
この感覚、なつかしい。
人と人間関係を築くことになんの悩みもなく、
いらない誘いは右から左へ受け流し、
仲良くなりたい人には自分から縁をつなぎ、
人あたりよくそつなくすごしていたころの自分の感覚を思い出した。
もうずっと、間違ってる・悪い・弱いの感覚に侵食されていた。
でも、ふと気づけばものごとは少しずつ変わり、
少しずつ勇気を出した結果として、
それぞれ違う場所で新しい友達が3人できたりして、
人間関係が正しく行われている感覚をときどき味わえるようになった。
今年の春、友達の結婚式の二次会で、
初対面の人との自己紹介・挨拶に追われて
帰り道、疲れて心がちぎれて泣いたことを思えば。
とげとげしい言葉ばかり発して
友達とどんどん疎遠になっていった去年の秋を思えば。
私は今少しずつ、以前慣れ親しんでいた、正しい・善い・強いの世界に戻ろうとしている。
でも、正しくがんばれる自分がうれしいのと同時に、
間違ってる・悪い・弱いの感覚をなくすことがすごく嫌だ。
間違ってる・悪い・弱い方向に心が落ち込んでいたときに感じて沁みた、
涙がずっと目にとどまって乾かないような状態で見るきれいな世界を
のみこむことはできなかったみたい。
正しいものを正しいと思い込み、世界がのっぺりとしたひとつの面だけで構成されていると信じていた無神経な時代に戻りたくない。
正しい・善い・強いだけを信じて生きて
ものを深く考えたり自分の心でものを感じたりしない、
ガサツな人間に自分が戻ってしまう気がして。
楽ちんだからって、考えたり感じたりしなくなって、鈍感になってくのは嫌だ。
でもたぶん、人は忘れやすいものだ。
人間関係も仕事も円滑で「要領よく」なったときにたぶん忘れてしまうものは、ある。
それが惜しいか惜しくないかは、人の価値観。
つぶやき
「あたしって○○な人だから」
という客観的目線にたったつもりでの自分のジャンル定義は、たいていの場合、蛇足になってしまう。
だってそれは人が決めること。
自分で宣言することではない。
「私はこう思う」
と
「私は○○な人間だ」
は大きく違う。
前者は素直な感想。
後者は客観的に見えて実は客観性ゼロの、ナルシスティックきわまりない自己愛の表明だ。
自分の表現ではない。
自己愛の表明。
たいていこういう言い方をする人は自分大好き人間だ。
気をつけよう。
ミクシ
いやいやいや・・・・
最近って、新規の人との出会いのとき、そんなに深入りする関係でもないけど、もうちょっとお互いのことよく知りたいわあ、ってなると、その続きは
「電話番号おしえて」
「メアドおしえて」
じゃなくて
「ミクシやってる?マイミクなってもいい?」
って流れなんだね。。。
ぜんぜん、これに慣れない。
ミクシを教えて、と言われると毎回ビビって胃がきりきり痛む。
だってさぁ、実際に何度も会って私という人柄をよく知ってもらうより前に、ミクシで私のプロフィールを読まれるというのは、なんか、不思議な感覚って言うか、もーね、これ。ぜんっぜん慣れない。
もー身がよじれるほど照れる。
だってさぁミクシのプロフィールにはさらっとだけど私のことがつっこんで紹介してある。
あああー照れる。
実際に会ってさ、お互い情報交換する中でプロフィールって分かってくもんじゃん。
いきなりドーンと出すって。
照れるがな。
あと。
あと。
初対面で、
あ、じゃあマイミクなってください、って言われて、
あ、ハイーじゃあ私から送りますね、なんて言って、
マイミク申請するときの、あのびっみょーーーーーーーーーーーーな空気感。
なんで初対面の人に、あらかじめプロフィールさらしてマイミク申請っていうなんか「友達契約」みたいなもんを結ばないといかんのっ!恥ずかしいわっ!!
って思いが止まらない。
なんでだろ。
慣れてないからかな。
それとも、そもそも私が初対面が苦手だからかな?
私は友達が欲しい、友達に好かれたい、と思う一方で、人との出会いに臆病だから、それがこんなところにも出ちゃってるだけかな?
本当は、恥ずかしい!と思うより強く、仲良くなれたらいいなあ、っとは思ってるんだけど。
うまくそんな気持ちは出せないねぇ。
老若男女問わず、些細な出会いからぽんぽん友達を作って飲みに行って、深入りせず疎遠にもならない細く長い縁を続けられる友達がいる。
性格上、そういうのは私には合わないけど・・・でも、出会いに際して私のようにキリキリせず、軽~いノリでライトな関係を築ける能力はぜひともまねしたいものです。
よし、「出会いに照れない」で「スカッと生きて」いこう。
相対峙
とある習い事がしたくて、主に年配の人で構成されるサークルに入った。
年配の方々はみな優しいけど、それでも
「ものを噛んでいて砂利がひとつぶ混ざっていたような違和感」
を感じられているのではないか・・・と心配する小心者な私。
予約するときにはキリキリ胃が痛む。
自分とは所属の違う人たちに1対多数で囲まれたときに、要領よく立ち回れる人になりたいなぁ。
はやくなじめればいいけど。