Thinking and Sinking -3ページ目

鏡その2

私はほんとうは、彼女に少しあこがれていた。

友達に、彼女のことを説明するときには

「彼女はほんとうに頭がよくってね」

という言葉がまっさきに出てきた。

頭がキレるし、物事を自分の言葉で考えるし、いろんなことを知っている。

それが彼女。

彼女と、もう一人私が尊敬する子と、3人で仲がよくて、3人で話してると私はいつも今自分がいる次元の外を見れた。

自分の考えはまだまだ狭くて、外があるってこと。

それを知れる場があるのはありがたい。





だからたぶん、いい関係を築くことができたら、どんなに楽しかったか。

でももう、しばらく無理みたい。




彼女に会うほど、いつもいつもカチンとくるようなことばかり言われて、私をあからさまにバカにしたり見下すような発言が多くて、疲れてしまった。

それは自分を卑下してしまう、からかわれやすい私の性格のせいもあるし、私と彼女が鏡の関係だからのせいもある、その半々てとこだと思ってた。

けど、それだけじゃない、と痛感した。





ついこの間、彼女と、上に挙げたもう一人の尊敬する子と、私の3人で会った。

結果は前と同じ。

もう、私と彼女の関係がなにか狂っていて、それは私ばかりの問題じゃないようだと、こんなに冗談にならない冗談で毎回傷つけられるのは、私一人のせいにしては絶対におかしいと、思った。






そのもう一人も、彼女がなんだかおかしいと気づいたそうだ。

彼女のあんなふうな言い方、人間性を疑うと、言っていた。

昔にあんなに感じた、彼女の頭のよさも今はなんだか見えないよね、なんかあったのかな?変わっちゃったね、と言っていた。

それを聞いて心底、ほっとした。

でも、第三者にそう言われたことで、彼女を責める気持ちがムクムクわきあがって、もう悪口にしかならない。

一対一で彼女と対峙していたときは、彼女のこの態度はどういうことだろう、私はどう対処していけばいいんだろう、とそのつど一生懸命思考して毎回戦ってたけど、私側の考えをする第三者ができたことで、あっさり問題は片付けられてしまった。

グラグラしてた気持ちはいまや急傾斜がつき、まっさかさまに、

「なーんだ。私以外の人が見てもあれはおかしいんだ。彼女が単純に性格が悪くなっただけじゃん。ああ本当にくやしい。なんであんな事言われなきゃいけないの。」

と低いほうへ転がり込み、彼女について思うことはもう思考でもなんでもなくただの悪口にしかならないつまらんところに落ちてしまった。

こんなにつまらないことはない。

真剣に向き合いたい相手との真剣に考えたい問題が、今は強すぎる被害者意識のせいで、どんなに考えても彼女への怒りと悪口に終始してしまう。

もうとまらない。

こんなにつまらないことはない。

この煮詰まりが、二人の関係の限界じゃないといい。






それにしてもこういうとき、どうしたら自尊心を保てるんだろう。

彼女に、いちいちつっかかられて、笑われて、からかわれて、もともと気の弱い性格の私だけど、こんなふうに扱われたのことはそうそうないくらいの情けない扱われ方で、すっかりめげてしまった。

私自身も、私のすることも、私の好きなものも、すべてあんなふうに鼻で笑われて。

とにかくくやしい

当たり屋に当たられたようなやや一方的な事故にあった気分。

自分に非があるのか、ないのか、せいかくにはわからないまま、相手の非ばかり責めて、やりきれない行き場のない悔しい気持ちが消えなくて胸の中でずっととぐろを巻く、こういうことって、たぶん往々にしてある。

生きてれば。

どうして、とか、彼女に理由を詰め寄ってもどうせ、むなしい。

かといって、見返してやるぜはあまりにも単純な解決法。

ああーわからんなあ。

わからんわぁ。

わからない。

ぜんぜん、どう対処するのが正解か。

これはペンディングです。

懸案事項です。

生きてれば、そして動いたり止まったりしていれば、そしてこの気持ちを忘れなければ、どこかで答えや、ヒントに出会うかも。

これは、いったん保留します。

のど元すぎてくやしさや彼女への怒りを忘れても、この問題をどうにかしたいと今私が強く思ったって事、答えを探す気持ちは忘れないようにしよう。


仕事を欲していたらしい。

じゃぁちょっと飲みますか。

金曜だし。

なんて言って、仕事の関係の、まだ知り合ったばかりの、女の子と、おじさんと、3人で飲む。

これから仲良くなりたいかと言われると、そうでもない。けど、好奇心はある、と言う程度の二人と飲む。

ふだん何系の店にいくのか。

歩くときは左側か右側か。

座敷派かカウンター派か。

そんな形式的なルールでさえなにひとつわきまえてないほんの知り合い程度の相手なのに、一週間仕事をがんばった達成感と、それをともに戦った戦友みたいな同胞気分が不意に高まり、目がくらんで、この金曜の夜をわかちあう。

私には経験がないが、ゆきずりの関係って、こういう気持ちなのかな?

行った場所は安い居酒屋。

まだなにもお互いを知らない3人が、期待とも不安ともつかない不思議な気持ちを共有しながら、その店に通ずる俗っぽい最悪の色合わせの階段を登る。

このおかしな光景がすごく楽しくなってきた。

こんなふうに知り合ったばかりの人と、たいして仲良くもなりたくないくせに、調子よく飲みに行って、意外とお酒はおいしくって、疲れもあって2杯ですこしもうろうとするくらい、心地よい金曜の夜。

私はどうやらこういうの、好きみたいだ。

なんか劇的で、非日常だ。

働くと言うことから遠ざかっていたから、こういう付き合いの飲みとか、働くことにまつわる雑事が、逆に非日常的で、たのしい。

仕事は忙しく、私はばかみたいにミスばかりしている。

毎日残業で時間が足りない。

でも、私の体を構成する最小の単位、細胞とかのレベルで、私は仕事を欲していたらしい。

仕事っていうのは、たのしいとかたのしくないとかそういうことの前に、生きてるっていう実感を得る手段のひとつ。

恋とか旅行みたいに、心で感じるたのしいこととはまたちがうもの。

働くことで得られる生きてるっていう実感は、私の心ではなくて私の細胞とかヘモグロビンとか白血球とかなんかそういう必要不可欠な部分が喜んでる気がする。

want と need の違いに似て。

かといって働かなくちゃいけないわけじゃないと思うんだ。
すくなくとも、週5で働いて盆暮れGWに長期休暇がもらえる働き方が、すべてじゃない。
晴耕雨読もありだろ。

働かざるもの食うべからずって戒め的に思ったわけじゃなくて。

ただ、今は、働くことを私の体は喜んでるみたいだから、そういう時期なんだなっていうだけだけで、うーんなにが書きたいのかよくわからないな。

頭がよくて、文化人で、だけど会うたびにほんのすこしカチンとくることを言われて、だから過剰に意識してしまうというか、つい「負けたくない」という気持ちを持たされてしまう、そんな友達がいる。

その日一日彼女といて、何度もカチンときた。

私を馬鹿にするような、私が傷つくような言葉を冗談めかして何度か言われて。

それからというもの、ときどき、一人の時間に、心の中で彼女を完全に論破する空想をしてすかっとしたり、なんていう小さな復讐をしてしまうようになって、私の気持ちはどうやら平穏ではないな、とは思っていた。

それが、半月前の暮れの話。

今年に入って日々が急に忙しくなり、日々のストレスと、そしてやりがいと、そして日々のおいしい空気を感じながら過ごしていて、そして今日は久々にゆっくりした休日、好きな音楽を聞いてふつふつと熱くなったりして、なんだかとても健康なきもちだった。

そのとき、半月前の彼女のことを思い出して、彼女に言われたカチンとくる言葉のひとつを思い出して、そしてふとつよく思った。

「あ。あれって、冗談じゃん。」

彼女の言葉が、冗談だったような気がした。

もちろん冗談には聞こえない言葉もあったけど、それらもなんだか急にどうでもよくなった。




仲はよいのだけど、すこしカチンときて、だから過剰に意識してしまうというか、つい「負けたくない」という気持ちを持たされてしまう、思い返せばいつの年代にも、そういう友達はいた。

中学のときにそういう相手だった子は高校大学と親友になったし、大学時代にそういう相手だった子とは今は普通に友達で、つまりある時期を過ぎるとカチンとくることもなくなり「負けたくない」と思う気持ちも消えるんだけど、またしばらくして、何年かおきに、また違う子でそういう相手が現れる。

だから要は、その子たちがどうこうっていうんじゃなくて、彼女たちは私の鏡なんだと思う。

私の中に定期的に「イガイガするへんなもの」がうまれて、そういうときはそのイガイガしたへんなきもちで人と接するから、私に対して「鏡」の位置にいる人たちに、そういう私が映ってしまうんだと思う。

今の私にとって鏡となる友達が久々に現れた、それが彼女なんだと思う。

彼女の冗談まで冗談に聞こえなかったのは、私の中の今の自分への自信のなさ、余裕のなさ、のせいだったんだと思う。

自分が他人に見下されてるような気がするとき、負けたくないとか、些細なことでカチンとくるとか、そういうきもちになる。

完全に、自分が自分を信頼できていないから、本当は満たされていない自分を見透かされてるような気がして、虚勢を張る。

イガイガしたへんなものの正体は、それ。

でもまぁ、自分に余裕や自信があるときは、本当にそういうことってどうでもよい。

彼女たちは私の気持ちの今現在のあり方を測るバロメーターというか、鏡というか、そんなかんじ。

(そういえば一つ前の記事は、そんな彼女へのもやもや、自分がとるに足らない人間で、もっと彼女をおそれさせるくらいの人間になりたいという気持ちからだった。)





そしてたぶんおそらくだけど・・・

私にとって彼女が鏡のとき、彼女にとっても私が鏡になっているんだと思う。

彼女みたいな私の鏡になってくれるタイプには同じ傾向がある。

それは、プライドが高くて、そして私も気兼ねしないでズバズバものが言えてしまう相手であることと、さらに、その子にとってやっぱり余裕がない時期だってことだ。

だから、半月前のあの日、彼女もやっぱり余裕のない時期に、言葉のキツイ友人から冗談か冗談じゃないか判定の微妙な言葉をいくつも投げかけられていたことになる。

私が彼女に同じことをされているときに、同時に。

きっと今頃彼女も気づいてるんじゃないかな。

自分に余裕がなかったことと、私が鏡だったことに。

自分に足りないたくさんのもの

なんか最近むしょうに「なりたい自分像」があって、でもそれが具体的にうまく説明できない。

というよりまだ自分自身よく分かってないんだと思う。

まず第一に、知識が豊富で、頭の回転が早い人と、話をして、自分の知識不足と頭の回転の遅さが、なんだかやけに恥ずかしくて、じゃぁどうしたらいいのかなぁって思ったところが始まり。





それは、

会話の引き出しが多くて、しかも知識だけ豊富ってわけじゃなくて、いろんな題材についてそれぞれ自分が興味を持って考えた形跡を残してあるような、人。

つまり、最近私は会話ホリックであって、目指せ会話の達人!なんだけど、私には圧倒的に、考えたテーマが少なすぎるのだ。

たとえば、

「環境の、ロハスというよりビジネス的なはなし」

「大使館ってなにするところ?どうあるべき?」

「なんでうるう年が必要なの?」

「日本にももっといろんな働き方があっていいと思う」

などなど。

こういう話が出たときに、だいたい一週目に思いつく表面的な言葉しか出てこない。

テーマが大きくて、手持ちの歯では噛み砕けない。





かといって、マルチになんでも知ってる人間になりたいわけじゃなくて・・・。

知識が多ければいいっていうんじゃなくて・・・。

うるう年はなんのためにあるのかを知りたければ、wikipediaがあればいい。

そういうwikipediaで代用のきく人間になりたいんじゃなくて、私という人間を証明するために、知識を自分の頭で噛み砕いて私の歯形をつけたい。

教養を持つことが目的なんじゃなくて、自分の考えを持つために、教養が欲しい。

そうだ、私は解釈がしたいんだ。

「知識」が共有しうる常識であるとしたら、「解釈」は固有の財産だ。

だから大事なのは考えること、理論的にというよりも、感覚的に。

もちろん着想を得ることは大事で、新聞や、「カンブリア宮殿」や「プロフェッショナル」や「トップランナー」を見たりとかそういうこともいいことなんだけど、それは本質じゃなくて、きっかけで。

考えて、そして人と話したい。

目標はやっぱり会話にあるから。

あれ?そう考えるとこれって単なる会話術を磨いて自分をよく見せたいっていう自己顕示欲?

なんかそう考えると・・・。うーん。でも、まぁいいや、がんばって、いろんな人と、話そう。

偏った考えかもしれないけど、とにかく「頭のいい人」と話がしたい。

それが答えではなくて、答えにたどり着くためのステップとして。




たぶん、私は今、自分ていう人間が揺らいでるんだと思う。

こんなんでいいのかなぁって。

すごい人に会って、打ちのめされて、自分が取るに足らなく感じたりして。

だから、なんとかして味のある人間になろうとしてる。

なんか、そうやって取るに足らない自分を脱したくてあがいた第一歩目が「知識をつける」だなんて、なんだかブルース・リーの映画を見た直後に誰しもカンフーが習いたくなるのと同じで、すごくありきたりで浅い。

なんであれなにかになろうとする向上心は大事だけど。

要は、自分がなんだかつまんない人間だって気がして、大きく見せる方法をあれこれ悩んでるだけなんじゃないの。

よく、自分自身を受け入れろ、とか、自分自身をそのまま肯定しろって、聞く。

できたらそうしたいもんだけど、でも、今の自分に満足することと、今の自分が物足らないから向上心を持つことは、両立するんだろうか?



なんだか、ボヤきつつも、とりあえず人と話したい気持ちを大事に、もうちょっといろいろ考えてみるのです。


冬至

先週の今日は、冬至だった。

今年の冬はなんも忙しくないので、夜が少しずつ長くなるのをすごく身近に感じる余裕があり、なんだか「夜が長くなる」っていう甘美なかんじにワクワクすらしてきちゃって、一年で一番夜の長い冬至をすごく楽しみにしてた。

一年で一番長い夜。

夜のこと帳(とばり)って言うけど、確かに夜は重いどん帳みたいで、それが一番長いわけだからなんか重厚で本格的で、ロイヤル度で言ったら皇室級に公式な雰囲気があるでしょう。

ということで、一年で一番長い夜の導入部分を楽しもうと、冬至の日、私は暗くなりかけた午後4時半に家を出て、近所で一番空が広く見える土手を散歩してみた。

雨が降って寒くて、傘を持つ手がキンキンに冷える中、見える景色が徐々にノイズがかって、夜になっていく。

なんかいいじゃーん。

こうやって自分で日常生活の中でわざわざ儀式をこしらえて、自分を酔わせることが私は好き。

まぁ要は映画とかドラマの影響なんだと思うけど、いわゆるドラマチックなシチュエーションを日常に持ち込みたがる癖がある。

映画の中の美しい景色を見て感動するように、実際の景色で感動したがる。

まぁ、日常を贅沢にする技術って言えないこともないので悪いことではないんだけど。

でも、最近ようやく、近所の川を散歩しながら気づいたのは、景色を見て心がなにかを感じるとき、「映画みたいな感動の仕方」だけが唯一の方法じゃないってことだ。

はっきりばっちりあからさまに感動できる景色だけがいいんでもない。

たとえば単なる川、土手のすすき、枯れかけた柿の木、カラス。

そういうものから感じる、ちいさな感じのこと。

いわゆる「風流」とか、そういうことでもなくて、なんなら、近所の家の庭の南天の実にも、近所のドブ川にもある、特別劇的な効果をくれるわけではない、ちいさな感じのこと。

RPGで言う、やっすい薬草みたいなささやかな毒消し効果。

少しだけ、目が澄む感じ。

そういう感動は、映画にはけして描かれない。
(だって、たとえ映画監督がそういうちいさな薬草効果を意図して取った映像でも、見る側は映画を見ると言う行為にすでに「映画で感じる感動」を意図してしまってるから、その映像を見てもそういう薬草みたいな効果は感じ取れないと思う。)

ありきたりな言い方だけど、子供のときは当たり前に感じてた、あの感じ。

これをようやく思い出せたことが、この無為な年の無為な暮れの掘り出し物。

会話の達人

本当はヒマなくせに、日々が充実してるふりをしてみたり、

逆に日々が充実してるときには、充実してる私を自慢したくて周りにアピールしたり、

見栄えのよい、さまざまな経験値を稼いでみたり。





イヤミにならない程度の、見栄や脚色や自慢を昔はあまりにも自然にやりすぎていた。

なにが目的だったのかな?


たとえば


「来月のどこかの土曜にみんなで集まろう、いつがいい?」

ってメールが来たとしたらいつでもヒマなのにもかかわらず、「土曜なのに一ヶ月まるまるなんの予定も入ってない」って思われるのが恥ずかしいから

「できれば一周目じゃない日がいいかな、でももし一週目でもどうにかなるから大丈夫」

みたいな遠まわしな言い方をしてみたり。

他にも。

「ここ一ヶ月くらい、週末何してるの?」

って聞かれて、

「ずっと寝てるわーー」


って答える勇気がなくて


「まぁ適当に出かけたり」


ってにごしたり。

日々が充実してたらしてたで、それを口にせずにはいられなかったり。

さりげない料理自慢、経験自慢。

などなど。

こういう些細な脚色や見栄や自慢が、積もり積もってた。

たしかに友達からすれば、「週末いつも寝てる子」よりも「週末買い物に出かける子」のほうが、アンテナ張ってるかんじがして魅力的に映るだろうけど。

「週末いつも寝てる子」は、なんだかかわいそうだしそこだけ切り取れば、魅力は薄い。

と、そういう表面的なことに気を取られて、自分の魅力を割増で見せる最短の方法だと思ってたのかも。




でも。


言葉には言葉の仕事がある。


「私の魅力を伝えること」は、言葉の仕事じゃない。


「私の魅力を伝える」ために、言葉に脚色とか自慢っていう仕事をさせたところで、言葉一枚で隠したり飾ったりできるほど言葉は頑丈じゃないから、私っていう人間は、言葉より、私自身を通じて伝わってしまうものだから、意味がない。

そうやって言葉の仕事を間違えると、言葉のせいで自分自身が不鮮明になって相手に届かなくなって、また相手からも届かなくなって、そうこうしているとせっかくおもしろくなるかもしれない会話が、だいなしになってしまう。

お互いの、お互いに対する「この人はどんな人なんだろう」っていう興味を満たしあうのが会話なのだと思うから、相手の問いに対してウソや脚色が混じると、お互いが満たされない。

寝てるなら寝てると、寝て週末を無駄にしたときのちょっとした自己嫌悪や、でも寝てスッキリした気持ちも込みでそのまんま伝えることが、周りまわって人と人との会話をおもしろくするこつ。



だからつまり、そういう脚色や見栄や自慢をしなくなったのは、自分に自信がついたからではもちろんなくて、単純に、つまらない会話より、おもしろい会話がしたくなった。


そういうこと。













それを気づかせてくれた友達がいる。


彼女と話してると、本当に思っていることが、言葉になってどんどん伝わっていった。


会話しながら、言葉にならない部分でたくさん分かり合っていった。


その子とは見栄や脚色をしたとしてもそういうのもすべて透けて見えて、そういうのも込みでお互いの気持ちを吸収しあう、そんな会話をした。



それがあんまり楽しかったから忘れられなくて、そういう会話ホリックになってる部分はあるのと思う。




ともだち

私が今もってるあっちやこっちの友達との関係は、ぜんぶ、

「かわらないよねぇ~」

なんて言い合いながら、変わらないことに安心しながら、でも実は不変でも不動でもなくて、流動的で一定のところにとどまることなくちょっとずつ変化している。

そうしてお互いが変わった結果、関係が深まることもあれば、いつのまにかちょっとずつズレて私に合わなくなって、なんだかしっくりこないなぁって思うようになることもある。

あんなに毎日のように一緒にいたけど、いつのまにか、この関係はおかしいなって、感じるようになって、そうなるとあとはもうなしくずしに、毎回、違和感がつのっていく。

私が、変わればよくなる部分もあるだろうけど、たぶん、直感的に、これはいったん距離を置いたほうがいい。

一生ではなく、いったんね。

友達関係も、メンテナンスが必要なときもあるってことね。

つぶやき

ねたみとか、ライバル心とか、とくに自分を大きく見せたいっていう虚栄心とは、もう縁が切れたつもりでいた。

一時期、みょーに「人生のステージをいっこ上がったなぁ」と自分に酔ってる時期があって、もう今の私はせっまい了見で生きてないもんね♪と、いい気になってたけど。

案外まだまだ狭くて、小さくて、自分が見下されてると感じるとすぐムキになってしまうことに気づいた。

イライラしすぎですよ。

相手を、尊重すること。

親しき仲にも、礼儀をわきまえること。

伝えよう伝えよう!とやっきにならないこと。

対人関係に関するまとまりのないハナシ

趣味の集い。

初対面の人も毎回いるし、毎回顔をあわせる人もいて、それなりに楽しみなんだけど、今回はなにも感じることのない会合だった。

やはり、自分を殻に閉じ込めて守っていては、人と会ってもなにかを感じるというのは難しいんだな。

人と対峙するときには、心を開いて初めてなにかを感じることもできるんだろうな。

でも、胸を開くと万が一切りつけられるかもしれない。

と私はとても思ってしまう。

私みたいに、それを恐れて閉じたままじゃ、お互いの全体の感じを交換することもできない。

ただ、この人はおびえて自分を守ってるんだな、という感じだけが伝わっていく。

はぁー。

りらっくすりらっくす。

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あと、私は「この人はどんな人なんだろう」という相手への興味が薄いのもあるかも。

自分でいっぱいいっぱいになってしまって。

相手を知る、というのは、自分を知られる、ということだ。

少なくとも面と向かってコミュニケーションをとっているときには、相手に自分を知られるときに自分も相手を知ることができるんじゃないかな。

だから自分を知られることにびびって、相手を知れずに終わってしまうわけだけど。

てことは。

人と話すときに、最初っからバーンと心を開くのはとても難しそうだけど、相手に興味を持つことはできる。

だからまずは、相手を知りたいなって思うことからでいいんじゃないかな。

知りたいなーって思う人のところに情報は集まってくる。

なるほどなぁ。
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まったくいつもいつも、どうも実体のないものを恐れている気がする。

たぶん、余計な個性がはみでて疎ましがられるのが怖いんだろうけど。

極端な卑屈や謙遜や卑下は、嫌われない免罪符じゃないよ。

しかし合う合わないもあるよなぁーーーーー、

まぁいいや、とりあえず、私がしゃべった言葉以上に、今の自分てものはがっつり場に漏れて伝わっているもんなんだ、人間関係なんてそういうもんだから気にしてもしかたない、あとはもうちょっと気楽にいきゃいいのよ。

うん。

りらっくす。

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とまぁ そう考えると、コミュニケーションて言うのは言葉じゃなくて空気によるものなんだなぁと強く思う。

ネットでのコミュニケーションが危ないとか言われてるのはそこなんだろうな。

理屈っぽい私パート2

今日は鬼門だった履歴書を仕上げて、喜ばしい日なんだけど、ちょっと反省していることがあり。

なんだか一年あれこれあって、私もちっとは考え方が変わったかしらね、なーんて思ってたけど。

今日、人と話してて、全然変わってない自分に気づいた。

30才の人の悩みや愚痴を聞いていたとき。

ただただ共感して欲しいという感じじゃなかったので、適度にこうかしらああかしらと意見してみたけど、すべてに「うーーんでもねぇ」「それは無理」と否定されて、結局いい会話にはならなかった。

相談なんて、何を言うかじゃなくて誰が言うかだよなぁ、私の言う言葉じゃなく私という人間に説得力がないってことかなぁ。

と思ってみたりしたけど、たぶん、それだけじゃない。

その人は30年生きてきた中で考え方のくせができあがっていて、私にも私が生きてきた中でのくせがあって、そんなくせもん同士が話せば会話は互いのくせに沿ってねじれたり意地になったりして理路整然となんか進まないもんだって、分かってたはず。

でも私はまだ、理路整然と話してしまって、失敗した。

それじゃ人の心は動かないって。

今日の敗因はまたもや、そこ。

正論の応酬で答えにたどり着くことなんて、ほんと、ないもんだ。

私の脳は、問題を与えると、瞬間的に最短でたどり着く正論を導き出してしまうけど、そうじゃなくってそうじゃなくって、もっとちみちみちみちみ考えて、小さなことを拾って、自分の意見を導き出すようにしよう。

まぁなんにしても、人は簡単に変わらないんですね。

右往左往だなぁ。