オーガニック・ライフ
友達にインドハーブをもらったので、今日はそれで洗髪してみた。
ここしばらくは石鹸シャンプーをしていたので、こういう無添加モノに髪も慣れていて、特別「きしむなぁ」というかんじもなくよいかんじ。
最近、オーガニックな生活に憧れる。
ちょっと遅れて来たスローライフブームなのか。
数ヶ月前まで、近年のロハスブーム・スローライフブームをしらけた目で眺めて、ジャンクな生活をしていた頃とは大違い。
どうも、ジャンクな生活っていうのは心も体も強いときにしかできないのだと思う。
近年のスローライフ・ロハスブームは、心と体が弱って、心と体の中や外にくっついたゴテゴテしたものに耐え切れなくなった人が増えたからなんじゃないかなぁ。
ここ数ヶ月、ダメダメ暗黒期だった私は、するりするりと流されて、自然とオーガニックでスローなものを体や心が求めるようになっていた。不思議。
そういう心もちになってから、流行を追うことが少し難しくなってきた。
多くの人が若い頃そうであるように、私も若い頃から今まで、
「現代的」「今風」
であることを、なりたい自分像の最優先事項に置いてきた。
だから毎シーズン変わる流行を追いかけて服を買ったし、髪型も変えた。
「自分に似合う服、似合う髪形を選んでいる」
という意識ではいても、無意識的に
「流行を踏まえたうえで自分に似合う服、似合う髪形を選んで」
いたのだと思う。
といっても別にそういう
「流行の追いかけっこ」
って特別なことでも努力の必要なことでもなくて、OLであれば10人中9人が当たり前に行っていることだと思う。
なんだか、疲れてしまった。
無意識的に自分を「今風」の範疇に収めようとしてきたことに、今まで疲れを感じたことなどなかったのに。
どうも今は疲れてしまった。
10年後に今の自分の写真を見ても「10年前の流行だ」という違和感を感じないくらい、普遍的でいられたら、それは素敵だなぁと思ってみたり。
現代への同時代性は持ったまま、少しずつ「現代的」の傘下を離脱していきたいなぁ。
きっと先進国の多くでは消費社会に疑問を持ち、
終わりのない流行との追いかけっこに疲れ、
馬車馬のように働くことに疲れた、
心の弱った人たちがこれからどんどん増えていくんじゃないかなぁ。
そしてみんなで少しずつ
不便だけど自然に寄り添った生活を始めて、
そして就労体制も
「週5日勤務」
のようなものから
「晴耕雨読」
ベースに変化してったりして。
気づいたら今の発展途上国のような清貧の暮らしを皆楽しんでいたりして。
ま、そんな暮らしに慣れた頃に、また反動で消費礼賛生活に回帰していくのだろうけど。
どうなるのかなぁ、私と、世界は。
なーんて。
下世話な話
宮藤官九郎のラジオに千原ジュニアがゲスト出演していた。
千原ジュニアは悪い意味ではなく返答にぶっきらぼうなところがあって、それであの風貌でしょう、たぶん、慣れてないとちょっと怖いんだろうなぁと思う。
応対する宮藤官九郎さんがどもったりテンパッたり間のあくを恐れてわーっとしゃべり倒しているのを聞いて、その二人の絵が浮かんでオモロ。
クラスに一人はいるサブカル好きのちょっと目立たない男子が、不登校気味の不良と放送委員が一緒になってしまって、昼休みいっぱい使って二人でトークをしなければならないことになってしまってどうしよう・・・
的なシチュエーションなんじゃないでしょうか。
さて。
中高生のころのクラス、って区切りだとたいてい
「スポーツができる男のがレベル高い」
とか
「おしゃれだとレベル高い」
とか安直なレベル分けがなされていて、こういうクドカン寄りの
「サブカル好きのちょっと目立たない男子」
っていうのは分が悪いわけですが、大人になると、めきめきとこういう男子が頭角を現したりする。
おそらくは、みんなが外でドッジボールをしてる間に、教室で書き溜めたノートや、授業中めぐらせた妄想なんかを糧に。
宮藤さんのサイトでのお悩み相談室みたいなものへの宮藤さんの回答で、こういうものがあった。
男の場合、これは俺の持論ですが
18前にセックスした人間と
18過ぎてセックスした人間は
根本的に持ってるものが違うと思います。
18前にセックスすると、
童貞と一緒に大事なサムシングを失ってしまう気がします。
とのこと。
この、「18前」「18後」っていう区切りはすなわち、
「高校時代に女の子と付き合ったりして多少モテていた連中」
と
「高校時代はモテなくて、悶々とした童貞な青春を送っていた妄想男子タイプ」
ということ。
モテる連中がデートスポットの発掘に奔走する間も悶々とマイワールドを練っていた後者の連中は確かに、後に復讐のように頭角を現し、現在のサブカル界を担ったりしている。
みうらじゅん、リリーフランキー、水道橋博士、阿部サダヲ、などなど。
そんなどうでもいいことを、考えた。
ラジオってのは、テレビと違って聴覚しか占領しないから、聞きながら物を書いたり、ご飯作ったり、はたまたこんなふうに空想したりなんだりできるのがいいね。
ありのまま
あんなにありのままの私を愛してくれる人なんて、もう見つからないんじゃないかしら。
なんてね!ちょっと前まで思ったりしてたけど。
心配御無用。
確かに、最初っからありのままを愛してくれる人なんてどんなに待ったって現れるわけがない。
でも、ありのままじゃ愛されないから女はがんばってかわいくなろうとしたり自分を磨いたり背伸びするんでしょう。
その背伸びがつまり恋でしょう。
その背伸びがごくマレに熟して愛に形を変えていくのでしょう。
なんてね!
なんのことはない、映画の俳優さんにドキドキしてるだけ。
でもどきどきする気持ちは久しぶり。
本物の恋や愛は痛かったりつらかったりするけど、恋に恋するフィクションな恋はふわふわでいいね。
バーチャルな恋愛はあほらしって思うけど、フィクションな恋愛はいいのだ。
体重
太った!!!
なくした恋を憂おうが、人間関係を悩もうが、精神的に滅入ろうが、食欲の神様は容赦しない。
センチメンタルでメランコリックな内面とは裏腹に、外見は元気満々健康的にムクムク成長を続けてくれちゃって、とうとう今日、家の洗面所の体重計はちょっと久しくお目にかかってなかった数値をたたき出した。
こりゃやばい。
マイベスト体重から3.5キロ増・・・・・・・
それにしてもさー。
もやもやしてつかみどころのない精神的な悩みの繊細さに比べると、こういう現実的な悩みってのはズケズケ心に土足で入り込んできやがってずうずうしいったらありゃしない。
けどなんだか心がどーのってウジウジウダウダしてるよりも、体重がどーのってパニクってるほうが気分いいや。
なんでだか。
でもまーこりゃがんばらねば。
4月にある友達の結婚式までにマイナス3.5キロだー!!
FAREWELL, MY LOVELY
- レイモンド・チャンドラー, 清水 俊二
- さらば愛しき女よ
前回の記事で思い立って有限実行、レイモンド・チャンドラー「さらば愛しき女よ」、本日読了。
古本屋にて100円で買ったものながら値千金。
「長いお別れ」以来、久しぶりのチャンドラー節にどっぷりハマる。
最後たたみかけるように私はもっていかれた。
家路に向かう電車の途中でここがどこだか忘れる、現実の自分と乖離する感覚が私にとっての読書の醍醐味だ。
本当にその世界に「入れる」本に出会ったときのエクスタシーは他で感じることができない。
そういえば、村上春樹がチャンドラーの「長いお別れ」を訳したそうだ。
村上春樹は嫌いではないけれど、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」もそうだったけど私は「春樹色」を意識しすぎて物語に入り込めないので訳者としての彼は好かない。
別に春樹訳がいい・悪いというのではなくて、私が意識しすぎてしまうということだが、春樹訳はもはや
「作者と翻訳者のコラボレーション」
というふうに感じられてしまうのだ。
私にとって本は、入り込み堪能し尽くす「呪術」みたいなものだ。
「翻訳」とは超えられない言葉の壁を一足飛びになかったことにしてそっち側の世界に入り込むための「入信の呪文」みたいなもので、翻訳が存在感を持ちすぎて「入信の呪文」に雑念が入ると入り込めなくなってしまう。
訳者が見事に訳者自身を消していて、うまく訳せば訳すほど作者と本を際立たせることができる、そんな訳が私の好きな訳だ。
まぁ、最終的には好みだから、ひとつの作品につきいろんな人の訳が出回るのはいいことだと思うけどさ。
しかし、まぁ、興奮冷めやらぬ。
家に買ったまま「積ん読」されていた「プレイバック」も読み始めよう。
あの名セリフ、
「男はタフでなければ生きていけない。 やさしくなければ生きていく資格がない」
が出てくるはず。
きっとまた私は一気に「ここがどこなのか分からない」という感覚にもっていかれるはず。
最後
「返すものがあるから少しだけ出てこいよ」
「会いたくない」
「一分でいいからさ」
「わかった、一分ね?」
とメールでやり取りしてる間も、もちろん会って一分で帰りたかったわけでは毛頭なかった。
単に久しぶりに会うことへの不安が私に「強気」という防御を取らせたのだと思う。
そして会った。
一分で済むはずもなく、とりとめのない話をした。
彼は悲嘆にくれてるわけでもなくもう諦めの境地にいるようで、辛そうな彼を見るのは忍びなかったのでそれはホッとした。
そして思いもかけず些細な言葉のやり取りの中でケンカをした。
本当に私たちはケンカをなくしては存在できない関係なのだと改めて思った。
順調に回る歯車のなかで一部分、どうしようもなく相性の悪い凹凸のあるようなかんじだ。
辛らつで取り返しのつかない言葉でお互いを傷つけた後で、どうにか仲直りをした。
別れたせいか、彼の性格の欠点も、私の欠点も、鮮明によーーーく見えた。
「こりゃぁうまくいかないはずだわ」
そう思った。
それでも私は会ってる間せつなさがこみあげてホロホロ泣いて、胸がズキズキ痛んだ。
彼はこれからは私と友達になりたそうなかんじだったけど、私はせめて何年かたたないと彼と友達になれそうにはないと思った。
もう、なんの連絡も取り合わないでいたほうがいいと思った。
「もう放っておいて。連絡もしないで。メールも、電話も。」
と約束した。
ギュッと抱きしめられて、キスを少しして、そして別れてきた。
抱きしめられても私の好きな彼の香りや彼の温度はなかったし、キスもとてもなつかしい人との挨拶のようだった。
もちろん、幸せではあったけど、昔同じことをしていたときの幸せにはまるで及ばない。
私と彼の幸せだった空間は、もう今の二人の間には存在していないのだ。
私と彼がこつこつ作り上げてきたあったかい二人の世界は、もうこの世のどこにも存在していない。
私が今でも思い返してせつなくなったり恋しくなったりしているのは、過去の彼、過去の二人への追憶であって、今の彼を求める気持ちではないのだと、思い知った。
今までで一番好きだった人との「終わり」「消滅」「喪失」っていうのはとてもむなしく、砂を飲まされているような気持ちになるのだと知った。
まったくダラダラといつまでつらいんだろう。
年を取ると、傷の治りも遅くなるみたいだ。
(今レイモンド・チャンドラーを読んだら酔いまくれるな、きっと。)
携帯電話の存在感
メールを自分からは送らないんだから!
と意地を張ってみても1時間も持たなかったり、
電話がかかってこないことにやきもきして
1分の間に10回くらい携帯をチラチラ見たり、
なーんて、何をしていても常に携帯を目の端に留めておかないと心の平静が得られなかったころが信じられないなぁ。
今はかばんの中に入れっぱなしで、半日以上放置しておいてもなんにも気にならない。
メールがたまってても、まとめて夜にでも返せばいい。
着信も、緊急なら何度でもかかってくるだろうし、用件だけ留守電かメールに入れておいてくれれば後でチェックするからさ。
携帯なんか気にしてるより、暇つぶしに耳かきで耳を掘りながら、ラーメンズのコントでも見てたほうがよっぽど有意義だよ。
だってもう私にとって大事な電話はかかってこないからさ。
恋をしていないとき、携帯電話の存在感はあまりにも薄い。
多分、またいつか誰かを好きになると思う。
彼の夢も最近見ないなぁ。
でももう一度彼を好きになれる日が来たらいいのになぁ、彼ともう一度恋がしたいなぁ、と思ってるよ。
まっすぐな友達
まっすぐ生きてきた友達がいる。
自分本位な考えや歪んだ経験やズルい恋の仕方などとは無縁で、正しくて一生懸命な子。
本当に、真面目。
今日、別の友達のとあるカミングアウトがあり、どよめいた仲間内の中で。
人生の裏側まで経験した人の経験を基にした深い「言葉」よりも、間違ったことはなにも経験していないために語るべき言葉を持たない真面目な彼女のしてきた「行動」のほうがずっと、人から信頼されるのだと感じた。
言葉よりも、行動のほうが信頼を形作る強い武器になるのだ。
彼女が好きだなぁと思った。
霧で雨で横浜
元彼から、電話が来た。
なんの心積もりもなく、電話に出た。
世間話をした。
「そうそうこの人との会話ってこういうかんじだったっけ」
と懐かしむような気持ちは起こらない。
だって、全然過去の人にできていないもの。
生傷はまだカサブタにもなっていない。
むかしむかしの恋で相手に振られたときには、自分の気持ちをを精一杯伝えることができた。
すきだって、一緒にいたいって、余すところなく伝えることができた。
でも、振った相手には、こんなに不自由なんだな。
思ってることをほとんど我慢しなくてはいけない。
好きだとも一緒にいたいとも会いたいとも言えない。
おれも12月は忙しかったし、なによりつらかったって言われた。
私もつらかったって話した。
どうしてそっちがつらいの?嫌になって離れたんでしょ?
と聞かれた。
そうじゃない、けどうまく説明できなかった。
私だってつらいんだから、なんて振った側が言うのはひどいし自分に酔っているだけだし愚かだなって思った。
電話したい。会いたい、とごねられた。
会いたいけど、それを言うのはずるいから「会わない」ってつっぱねた。
だけど私は弱かった。
本音がときおりもれた。
「もっと鬼みたいにおれをつっぱねればいいのに」
と言われた。
強くなくてごめん。
心がかきまぜられるような、問答が続いた。
「本当に言いたかったことがある」
「もう一度やり直したい」
と言われた。
歯を食いしばって
「もう戻る日はこないよ」
そう答えた。
期待を持たせないのが優しさなんだって思った、だからそう言った、けどそれでお互いつらいなら、そんなのはただの見栄にしか過ぎないの?
でも、そのときの私はそう言うことを選んだ。
ここ何年もの間で、一番泣いた。
目から何筋も何筋も涙が流れた。
たくさん泣きながら
「こうやって電話が来ると忘れられない、また気持ちが戻ってしまう、だからもう電話もしないし、会わない。忘れさせて、あなたも、もう、私のこと忘れて。」
言った、この言葉、ようやく私の気持ちを変な我慢をぬきで伝えられた。
振った側は、何を言っても、どんなにつらくても、つらいよって会いたいよって言えば、余計に相手を傷つける。
なにより自己満足だ。
だから歯を食いしばってでも、自分の気持ちに正直になることよりも、相手がどう受け止めるかを重視して言葉を選ぶんだ。
これは奇麗事?
理想論?
そうじゃない。
その行動の意味は、ちがう。
会いたいって本音を言って、喜ぶ彼の顔を見たいけど、そのあともしがっかりする彼を見ることになってしまったら、って思うと、もう耐えられない。
それだけ。
この先、自分があの人以外と、恋愛ができると思えない。
想像がつかない。
あの人を置いて、私が他の人と幸せになるなんて、全然絵空事みたいだ。
曇って小雨が降る横浜の、霧が出て先の見えない道を暗い気持ちで歩く夢を見た。
幸せがくると思えない。
あの人を置いて幸せになっても、それが幸せだとは思えない。
あの人と幸せになりたかったなぁ。
でも今、振っておいてそんなことを思うのは、意味が分からないだろうか。
でも嘘じゃない、奇麗事じゃない、心底あの人と幸せになりたかったんだ。