数組の客がいるようだが、自分は一番のりだったようだ。
すでにセッティングされた料理はかなりの豪華版。
瓶ビールを注文し、早速いただくことにする。
地物の鯛をはじめ5種類の刺身の盛り合わせ。
1名向けではない量だった。
どれも新鮮で美味である。
蒸したアワビもいただく。
「この後もまだ出ます」の言葉は本当だった。
イサキのフライ。
特大サザエ。
伊勢海老汁。
どれも素材の味を生かしたシンプルな味付けで美味しい。
女将さんも、
「なるべく地物を使い、余計な味付けはしないようにしているんですよ」
と言っていた。
「その日のいいものをお出しするので、何が出るかはわからないんですよ」
とも。
特大サザエは、この日たまたま見つけて珍しいから、と食膳にあげてくれたらしい。
正直なところ料理には期待していなかったのだが、良い意味で期待を大きく裏切られた。
ビールの後には鴨川の冷酒を2本吞んだ。
大満足である。
セルフサービスとなっているご飯、味噌汁、お新香、お茶のコーナーに行く必要もなかった。
「おもてなしキャンペーン中です」
とのことで、箱に入った日本酒までプレゼントされ、ご機嫌で部屋に戻った。
少しすると、部屋の扉がノックされる。
扉を開くと女将さんだった。
「トイレ付きのお部屋が空きましたから、こちらへどうぞ。隣りですので」
と言う。
せっかくのご厚意なので、移動することにする。
散らかした荷物や衣類などをまとめて「真砂」から隣室の「若汐」に移る。
角部屋で、落ち着いた雰囲気だ。
女将さんからは部屋の鍵と共に、お茶菓子も手渡された。
「キャンペーン」など抜きにしても充分、心遣いを感じてくる。
落ち着いたところで、ふと思い出した。
旅館のパンフレットを開く。
この客室こそ「若汐」である。
「丹波哲郎も愛した」とも記され、いわばこの宿を代表する部屋のようなのだ。
一応は高めの宿泊料金を奮発してお支払いしたとはいえ、一見のこんな独り客に対しての厚情はありがたく、身に沁みる。
単に40年あまり前の記憶をたどるだけの好奇心で泊まったのに、すっかりと「今」の滞在を堪能しているのが不思議だった。
その夜、夢に祖母か丹波哲郎氏でも現れればネタになるのだが、そんなことは一切なく朝を迎えた。
「舟風呂」に行く。
ゆっくりと朝風呂に入れるのは嬉しい。
朝食も食堂でとる。
天気予報では天気は下り坂だと聞いていたが、外は青空である。
裏の駐車場へと歩みを進めて行けば、物干しざおには洗濯物がかけられていた。
この光景。
40余年の長い長い時を経て、再びこの景色を目にすることが出来た。
遠い日の祖母との思い出が、あらためて確固たるものになった。
『「幸田旅館」はとても良い宿だったよ』
近いうちに、墓前で報告しよう。