空閨残夢録 -18ページ目

空閨残夢録

上層より下層へ 
中心より辺境へ 
表面より深淵ヘ 
デカダンよりデラシネの戯言





 1993年製作のファミリー・エンターテイメント映画である『秘密の花園』は、フランシス・F・コッポラが製作総指揮の大作である。ポーランドの女流監督であるアニエスカ・ホランドのハリウッドでの初仕事となり、イングランドの美しい風景描写には息をのむ映像作品。
 
 米国の女流作家F・E・H・バーネット(1849-1924)が描いた小説の『小公女』と並ぶ名作である、『秘密の花園』は、インドで父母と乳母を亡くしたメアリーが、大資産家の伯父クレイヴンにひきとられて、イギリスのヨークシャーへ渡るが、映画ではイングランド南西部のダートムーアが舞台になっている。。

 『少公女』を原作にした1995年製作のディズニー映画『リトル・プリンセス』は、ファンタジックでロマン ティックな演出であったが、子供が楽しむにはステキなメルヘンの如き要素が鏤められていた作品であった。






 このディズニー映画では具体的に表していなかったが、寄宿舎はキリスト教的なストイックで謹厳な生活と教育に束縛された世界だが、主人公の少女セーラが幼い時に生活していたインドは夢幻の如き奔放で甘美な世界である。インドの神話や物語はキリスト教的世界観とは異なり、寄宿舎で生活する女の子たちは、そんなセーラの学友たちは、異世界の夢幻的な、異邦的な魅力をセーラが語ることで魅惑され魅了されてしまう。

 『秘密の花園』でも主人公の少女はインドで幼少期を生活をしていたが、両親と乳母の死により英国に帰還するところは『小公女』と類似している。『秘密の花園』では閉ざされた庭園で子供たちが行う秘術的儀式が描かれるが、バーネットは厳格なキリスト教的な世界感よりも、インドの、東洋の、爛漫で、神秘的な、汎神論的な世界観に関心が高いのだと感じてしまう。

 さて、『秘密の花園』の主人公メアリーは、『小公女』のセーラのように可愛く健気で明るく優しくて朗らかで果敢な行動的な少女ではない。しかも心を閉ざして泣くことも笑うこともない女の子である。それは1906年のインドを舞台に映画のオープニングとなる。

 インドでの生活は何不自由のない豪奢なもので、10歳のメアリー・レノックスの世話はマーヤというインド人の乳母が全てお世話していたが、母と父であるレノックス夫妻は夜毎、パーティーや社交に忙しい日々を送っている。メアリーは母の愛情を強く求めているのだが、母はあまりにも自分の娘には関心をしめさなかった。

 そんな或る日、インドに大地震が襲い、メアリーの両親も召使いたちも、皆亡くなってしまい、生き残ったメアリーはインド領から英国へと帰還することになる。メアリーの母には双子の姉で、10年前に既に亡くなった妹、つまり、メアリーには、叔母にあたる嫁ぎ先のクレイヴン伯爵に引き取られることになった。

 伯爵家の館は、イングランドの南西部に広がる荒涼とした折りしも厳冬のムーアという広大無辺の草原地帯であった。インドの温暖な土地から厳寒の荒野に訪れたメアリーは、お城のようなお屋敷では、お姫様扱いはされなかった。

 その館では主人の伯爵は10年前に妻を失ったことで、心を閉ざしてしまっていた。館には殆んど住まわずに諸国を遍歴しているのだ。そして伯爵の一人息子は病弱で、閉ざされた城に幽閉されたように生活していた。外に出ることもなく、部屋から出ることもなく、ベットからさえ出ることもない生活をしているのは、メアリーの従兄弟であるコリンであった。

 コリンは生まれてこの方、ベットからも這い出たこともないから、10歳でも歩けない超過保護な幼児みたいな存在で、メアリーとて衣服を自分で着られないお嬢様でわがままだったが、自分のわがままぶりよりはコリンの幼さと臆病さに驚きを覚えるのであった。

 そんな伯爵の不在で、病弱な伯爵の子息がいるお屋敷で絶対的な権力を持っているのは、家政婦長のメドロック婦人であった。

 メイドの小間使いであるマーサがメアリーのお世話担当係になるのだが、マーサは15歳 くらいであろうかしら、まるで天使の如き優しき女の子である。このマーサの弟であるディコンとメアリーは、やがてお友達になる。

 その広大な邸宅には、ひとつだけ、入り口に鍵のかかった庭があり、この庭でクレイヴン伯爵夫人が事故死したために、夫は悲しんでそこを“開かずの庭”としたのであった。

 メアリーは或る日、小鳥に導かれて、その庭に入り込み、“秘密の花園”と名付けて遊び場にした。やがて、夫人の忘れがたみで歩けない男の子コリンと、遊び相手のディコンと三人で、子供だけの秘密の花園を共有することとなる。

 歩けなかったコリンが秘密の花園で歩けるようになり、魔力ある「閉ざされた庭」は、魔法の花園として子供たちの閉じた世界がやがて開顕していくという筋書きなのである。

 薔薇の蔓が木々にからんで花づな模様をつくる美しい庭は、放置された荒庭であったが、自然のままの庭園と化して、天然のあらゆる美と荒々しさの宿る花園へと姿を取り戻す。

 子供たちの感性は自然の庭にある「魔力」を感じたのは当然であろう。『秘密の花園』はロマン派好みの「閉ざされた庭」を彷彿とさせるロマンであるが、これはファンタジー作品ではないリアリズムの物語である。

 その「閉ざされた庭」を魔法により、いや現実的に種を蒔き、メアリーとディコン、そして昔の庭師だった小父さんとの協力で、やがて来る春の為に作業を行う。

 そして春の到来と共にコリンは車椅子で当初は庭を散策するのだが、花や動物たちとの触れ合いを通じて、コリンのママの閉ざされていた庭で一人歩きできるまでになる。






  ・・・・・・閉ざされた庭、愛を受けず閉ざした心、喪失した愛のために閉ざした心、そんな閉ざされた内なる世界が開顕される物語が『秘密の花園』なのである。それはすべて愛による魔法が心を癒すのである。

 この『秘密の花園』はメルヘンでもファンタジーでもないリアリズムの作品である。また児童文学を単に映画化した作品でもなく、重厚な珠玉の名作を永遠に語り継がれるように表した愛の魔法の映画大作である。 

 さて、この映画では、舘に主人が居ないし、その息子は病弱で寝たきりであるからして、執事やメイドや使用人は数多く居れども、正餐も晩餐も映画のシーンには無い。あるのは使用人たちの平民の庶民的な普通の食卓の風景しか映しだされていない。  

 インドから帰還したメアリーをメドロック婦人が港まで迎えに来て、その帰りの馬車で魔女みたいにローストした骨付きチキンを貪るように食べるシーンが印象的だが、このチキンは多分こっそりと婦人が私的に食べていた彼女の秘密のご馳走に思える。

 家政婦たちの朝食は燕麦のお粥が主食だったし、つまり、燕麦とはオーツ麦であり、燕麦をシリアルにしたオートミールを粥状にした料理のポリッジのことである。クレイヴン伯爵家の館は豊かな財政にある感じはしないから、そこで働く使用人たちの食生活も斯様な描写でうかがわれてくる。



 


 1939年公開の映画『オズの魔法使 (The Wizard of Oz)』で、主人公の少女ドロシーと愛犬のトトが食事をする場面が3度出てくる。

 映画の冒頭はドロシーとトトが暮らすカンザスの農場で、この場面はモノクロームの映像である。そしてドロシーのヘンリーおじさんさんとエムおばさんさんに、原作には登場しないヘンリーおじさんの農場に雇われている3人の農夫たちである、ハンク、ジーク、ヒッコリーに、近所の意地悪な大地主のガルチ婦人、そして、なにやら胡散くさい旅芸人の占い師マーベル教授が出てくる。

 農夫の3人組は、やがて、ドロシーとトトが行くオズの国で出会うことになる、つまり、かかし男、ブリキ男、弱虫ライオンで、ガルチ婦人が西の悪い魔女、マーベル教授がオズ大魔王として、やがて登場する伏線になる人物たちなのである。 

  さて、そこで3度の食事のうち2度は前半のカンザスの農場で、エム叔母さんが焼いたお菓子を農夫たちとドロシーが食べる場面に、マーベル教授が焼いているソーセージをトトが失敬する場面である。

 そして、竜巻に家ごとオズの国に運ばれたドロシーとトトが、脳みそが無いかかし男、ハートの無いブリキ男、勇気の無いライオンたちと、オズ大魔王に願いを叶えてもらうために、黄色いレンガ道を辿ってエメラルドの都に行く途中で、ドロシーはお腹が空いたので、林檎の木から実をとる場面がある。

 このオズの国からカラー映像の総天然色に変わるわけだが、原作では北の良い魔女から、ドロシーは銀色の靴を貰うのだが、カラー映像の効果からルビーの色の紅い靴に変えられている。因みに原作の南の良い魔女グリンダが、北の良い魔女にも変わっている。

 さて、林檎を木から採ろうとしたドロシーは、リンゴの木の精から咎められたが、かかし男の機転で木の精からリンゴをまんまといただくのでした。この場面で流れる曲は1905年に発表されたスタンダードナンバーである。







♪リンゴの木の下で


リンゴの木の下で
明日また会いましょう
黄昏れ赤い夕日
西に沈む頃に
楽しく頬よせて
恋をささやきましょう
真っ赤に燃ゆる想い
リンゴの実のように


楽しく頬よせて
恋をささやきましょう
真っ赤に燃ゆる想い
リンゴの実のように

In the Shade of the Old Apple Tree

In the shade of the old apple tree
Where the love in your eyes I could see
When the voice that I heard
Like the song of a bird
Seemed to whisper sweet music to me

I could hear the dull buzz of the bee
In the blossoms as you said to me
"With a heart that is true
I'll be waiting for you
In the shade of the old apple tree"

(instrumental passage)

I could hear the dull buzz of the bee
In the blossoms as you said to me
"With a heart that is true
I'll be waiting for you
In the shade of the old apple tree"

作詞:Harry H. Williams、作曲:Egbert van Alstyne
訳詞:柏木みのる、唄:ディック・ミネ


  1905年にアメリカのH.ウィリアムズとE.アルスタインによって作られたこの曲は、昭和12年(1937)にディック・ミネの唄でレコードが発売されると、ダンスホールの人気ナンバーの1つになった。

 しかし、昭和15年(1940)10月31日にダンスホールが閉鎖され、ジャズが「敵性音楽」として禁止されると、表立って歌われることはなくなったが、戦後、ディック・ミネ自身や、進駐軍のキャンプ回りをする歌手たちによって、再び歌われるようになる。

 さてさて、ドロシーが食べた赤いリンゴは毒リンゴではなかったが、その後、エメラルドの都を目前にして、紅い罌粟(ケシ)の花の草原で、花の香気にある毒性の匂いで眠ってしまうのであった。









 『オズの魔法使い』(The Wonderful Wizard of Oz)は、米国の作家で、ライマン・フランク・ボームの作品、これは1900年に発表されたものが、後に、舞台化されミュージカルとして、また映画化もされたわけである。

 主題歌の『オーバー・ザ・レインボー』はあまりにも有名で、原作の『オズの魔法使い』には挿絵があり、W・W・デンスローの絵もお馴染みである。

 主人公のドロシーは映画と同じく、原作でもカンザスの大草原に、ヘンリーおじさんと、エムおばさんと、愛犬トトと幸せに暮らしていた。ところが或る日、愛犬のトトと一緒に家ごと竜巻に巻き込まれて、やがてオズの国へと辿り着く。

 そこで、脳みその無い案山子男と出逢う。更に、心臓の無いブリキの樵(きこり)と、臆病なライオンと出逢い、それぞれの願いを叶えてもらうために、魔法使いのオズに逢いに行くため、エメラルドの都へ黄色いレンガ道を辿っていく、お話しなんですが、作者のライマンは、或る日、自分の子供(男の子)を寝かしつける為に、この物語を創って聞かせていたのだが、ベッドの中のライマンの息子は、その冒険物語に質問をしてきた・・・・・・。



 「それは、どこの国のお話なの・・・・・・?」



 その時、ライマンは部屋の隅にある整理棚に目がいった。その引き出しの一番上には、《AーG》と、整理用ラベルが貼られていたが、二段目には、《HーN》、そして三段目には、《OーZ》とあり、咄嗟にライマンは息子に、三段目のラベルにあるアルファベットから、それは「《OZ》オズの国のお話さ・・・・・・」と答えた。つまり、その引き出しの中から、この物語は生まれたわけである。













 『鏡の国のアリス』は1871年に発表されたが、『不思議の国のアリス』の続編であろう作品。主人公の7歳の少女アリスと前作のいかれた帽子屋も登場する。その他のキャラクターは新たなオカシナ住人たちである。

 「鏡の国」の物語の軸になっているのは、ゲームの”チェス”だ。 冒頭に”チェス”の説明があって、アリスが駒となって”チェス”のゲームの進行通りに物語が進んでいく。
 
  「不思議の国」はウサギの穴に落っこちて反世界の地下に迷い込んだけど、今度は鏡をくぐり抜けてワンダーランドへと入っていく。

 チェス盤は8つの列と8つの行からなるマス目がある。前後に白の陣と黒の陣に分かれて、左右に西がクィーンの翼、東がキングの翼となる。盤の淵をバンドと呼び、その4つ角が隅で、中央の4つのマスが大中央、その周縁を小中央、8つの行を下からアラビア数字で表し、8つの行をアルファベットで左から表記する。この盤にキングが1つ、クィーンが1つ、ルークが2つ、ビショップが2つ、ナイトが2つ、ポーンが8つの駒で対局するが、日本の将棋と同じ原型のゲームである。「鏡の国」はチェス盤の8列から8章の物語へ1マスごとに進行していく。

<一つ目~二つ目のマス>

 アリスが家の外へ出てみると、そこはチェス盤を巨大化した世界だった。 マスとマ スの間は小川で仕切られている。 ここで「赤の女王」が登場して、とりあえずアリスは「白の女王」の「歩(ポーン)」になって、これから進む方向を指南してもらう。

<三つ目のマス>

 ここではいろんな動物といっしょにアリスは汽車で進む。 山羊、カブトムシ、蚊などである。あっという間に小川を越えて、四つ目のマスに入ってしまう。

<四つ目のマス>

 最初アリスは「名なしの森」に入るけど、入ったとたんに自分が誰だか思い出せなくなってしまう。 「名なしの森」を抜けると、2人の太った相似形のちび男と遭遇する。そやつらは「トゥィードルダム」と「トゥィードルディー」であった。 いきなり三人で輪になって踊ったりもするが、 だけど、 この2人のソックリさんは、新品のガラガラ(おもちゃ?)を弟が壊したとかで兄弟ゲンカになってしまう。

 お次は自分のショールを追っかけて「白の女王」が登場。 この女王さま、記憶が前後左右に働くらしく、まだ起こらない事も思い出すことができる妙な予知能力を有する。

<五つ目のマス>

 小川をわたると女王さまは、編物をしている羊になってしまう。 編棒がオールになったかと思うと、二人は小さなボートに乗って流れに乗り進んでいく。そして言葉の<買う>と<カニ>がひっかかって、アリスは卵を買うハメになる。

<六つ目のマス>

 ところが卵がだんだん人の顔みたいになっちゃって「ハンプティ・ダンプティ」の登場。 彼はアリスに次々に謎なぞを仕掛けてくるが、ここはかなり難解で苦戦する。 「ハンプティ・ダンプティ」と別れたあとは、「白の王」や使者の兎と「不思議の国」にも登場したマッド・ハッターが現れて、ライオンとユニコーンの戦いを観戦する。

<七つ目のマス>

 ここはほとんど森のようだけど、親切な「白の騎士(ナイト)」が登場。定年した騎士みたいで馬から落ちてばかりで、おかしな発明がお得意みたいだ。さて、騎士はとりあえず 森のはずれまで、アリスを無事に送りとどけてくれた。

<八つ目のマス>

 ここは最後のマスになる。気がつくとアリスの頭に王冠が乗っていて、自分が女王さまになっていた。 そして、いつの間にか両脇に「白の女王」と「赤の女王」が座っている。ここでの女王の謎々の問いかけは難題を極める。

 さてさて、アーチのある扉が開くと、いよいよアリスのディナー・パーティが始まった。ここでの飲めや歌えの大宴会はシュールなイメージの洪水で圧巻だ。 羊の腿肉がお皿の中で立ち上がって、女王アリスに会釈したりする。宴会の大騒ぎの張本人である「赤の女王」に、ついにキレたアリスは最後に女王をつかまえて”小猫”にしてしまう・・・・・・。

<おさらい>

 めくるめくシュールな会話とイメージが、あいかわらず凄くてナンセンスとペダントリーの大盤振舞である。 知性(数学&論理学)と狂気が、バチバチぶつかり合うキャロル・ワールドはあいかわらず健在だ。 ただアリスもすこし成長してしまったのか、「不思議の国」よりも大人しい雰囲気を漂わせる。






 さて、話は変わり、ビートルズの曲にマザー・グースの童謡歌が強く歌詞に影響している楽曲が2つある。その最初の1曲目は1967年はジョン・レノンの『I am the walrus (アイ・アム・ザ・ウォルラス)』である。この曲はジョンのサイケデリック・サウンドの真骨頂であり、その総決算ともいえるような作品でもあるのだが、これはアルバム『マジカル・ミステリー・ツァー』に収録されている。

 『マジカル・ミステリー・ツァー』はテレビ放映もされているので、その映像も今では残っている。歌詞の冒頭は 「 I am he as you are he as you are me and we are all together.」と始まり、翻訳すると「君は彼で、君は僕で、だから僕は彼で、つまり皆一緒だ」って感じの歌詞である。

 そして、最後のフレーズで繰り返される「am the eggman, they are the eggmen. I am the walrus, goo goo g'joob g'goo goo g'joob.」の意味なのだが、「僕は卵男、彼等も卵男、僕はセイウチ、goo goo g'joob g'goo goo g'joob.」・・・・・・実にナンセンスでよくわからない歌詞なのであるが、この所以は、ルイス・キャロルの『鏡の国のアルス』にもある。それは『鏡の国のアリス』にある「セイウチと大工」のエピソードと、ハンプティ・ダンプティーのパロディーを織り交ぜた歌謡になっているみたいだ。

 日本人からすれば英国のナンセンスな童謡であるマザー・グースのなぞなぞ唄も難解だと思われるのだが、それでは、その謎々の歌詞を以下に掲載しておこう・・・・・・








Humpty Dumpty sat on a wall,
Humpty Dumpty had a great fall;
All the king's horses,
And all the king's men
Couldn't put Humpty together again.


ハンプティ・ダンプティが塀の上に座ってる
ハンプティ・ダンプティが落っこちた
王様の馬も
王様の家来も
みんな集めてもハンプティ・ダンプティを元に戻せなかった



 つまりハンプティ・ダンプティーは卵頭であるから、落ちて割れたら元には戻せないという訳であり、そんな意味なのであろうネ。この位の謎々ならカワイイのだが、ジョンの I am the walrus は謎々の域を超えて超難解な歌詞であるのだが、韻を踏んだ楽曲はサイケ・サウンドの傑作ではある。「ググーギジュー」と聴こえるのはセイウチの鳴き声らしいが、ここにも意味深長が秘められている。

 さてさて、次はポール・マッカートニーによる1969年の作品は『Golden Slumbers(ゴールデン・スランバー)』である。この曲はビートルズの最後の録音となったアルバムの『アビー・ロード』のB面でメドレーの最初の曲である。

 さてさてさて、この Golden Slumbers という曲の歌詞は、ほぼ、マザー・グースの子守唄をベースにしている。16世紀~17世紀に活躍した英国の劇作家のトーマス・デッガーが、この子守唄の作詞家なのであるが、以下にビートルズ版の歌詞そしてマザー・グース版の歌詞を載せよう。



「ビートルズ」版 Golden Slumbers の歌詞はサビ部分のみ


Golden Slumbers fill your eyes,
Smiles awake you when you rise.
Sleep pretty darling do not cry,
And I will sing a lullaby.


黄金のまどろみが君の瞳に溢れ
朝には微笑が君を起こしてくれるはず
おやすみ、かわいいルースよ、泣かないで
ぼくが子守唄を歌ってあげるから

__________________________________________________


「マザー・グース」版の子守唄


Golden Slumbers kiss your eyes,
Smiles awake you when you rise,
Sleep, pretty wanton; do not cry,
And I will sing a lullaby:
Rock them, rock them, lullaby.


黄金のまどろみが君の瞳にキスをする
朝には微笑が君を起こしてくれるはず
おやすみ、かわいい甘えん坊、泣かないで
ぼくが子守唄を唄ってあげるよ
ねんねんころりよ、おころり♪



 この曲は、ポールが実父ジムの家に遊びに行った際に、義妹・ルース(実母のメアリーはポールが14歳の時に癌で死亡している。このアルバムの製作に取り掛かっていた頃は実父ジムが再婚した女性の連れ子)にマザー・グースの絵本を読み聞かせたことで創作された楽曲と伝わる。

 いずれにしても、ビートルズも、ルイス・キャロルも、“マザー・グース”という伝承的な童謡歌に時代を超えて影響されているようで、英国の文化にこのナンセンスの影響が著しく大きく作用されているのであろう。

 ハンプティ・ダンプティHumpty Dumpty)は、英語の童謡のひとつである『マザー・グース』に登場するが、童謡のなかではっきり明示されているわけではないけれども、このキャラクターは一般的に擬人化された卵の姿で親しまれており、英語圏では童謡自体とともに非常にポピュラーな存在であるみたいだ。

 この童謡のもっとも早い文献での登場は18世紀後半のイングランドで出版されたもので、メロディは1870年ジェイムズ・ウィリアム・エリオット がその著書『わが国の童謡と童歌』において記録したものが広く用いられている。童謡の起源については諸説あり、あまり、はっきりとはわかっていないのが実情である。







 ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』に登上するマッド・ハッターのモデルが実在していたようだ。実際にはオックスフォード近郊の家具屋のカーターが “The Mad Hatter” のモデルだとも伝わる 。

 カーターは帽子屋ではないのだが、いつもシルクハットをかぶっていて、奇抜な発明家でもあったようである。たとへば「目覚ましベット」を考案し発明するが、それは目覚める時間にあわせて床の上に寝ている人を放り出すようなシロモノで、なんとこれは1851年のロンドン万国博に陳列されたとも伝わる。

 おかしなティーパーティーでは時間を擬人化したアリスとの論争や、眠るヤマネを起こそうとしたり、肘掛け椅子や文机の詳細な拘りには、マッド・ハッターこと家具屋のカーターである楽屋オチともいえるエピソードのようである。

 いずれにしてもヘンテコなキャラクターが登場しては、イカレタ問答をアリスはオカシナ連中と繰り返すのだが、ボクがお気に入りのミョウチクリン な 会話は『鏡の国』でのトゥイードルダムとトゥイードルディーの夢問答と、ハンプティー・ダンプティーとの存在論的な哲学問答のヒトモンチャクである。

 チェスの4目でダムとディーに出逢ったアリスは、眠るキングの夢に存在するのが、今ここにある現実のアリスで、それは幻にすぎないアリスと断定される。斬って返す刀でアリスはダムとディーに向って同じ土俵の二人とて夢と幻の存在ではないかと応戦する。

 しかしダムとディー自体が鏡像関係なので、アリスの質問には二人とも全く動じない。鏡の国では夢すら鏡像のパラレルワールドなので、アリスの夢のなかのアリスは夢像アリスであり、キングの夢のなかのアリスは夢像アリスの夢像という2重構造となっているのだ。
 
 夢の 中の夢についての問答でアリスは思わず不安になり泣いてしまったが、6目では更に押しの強いハンプティー・ダンプティーの登場である。それに、この、H・Dは、今まで、かつて登場したイカレポンチよりも、誰よりも哲学的に道理のあるペダントリーを満載した饒舌家だった。



 H・Dはアリスにこんな意地悪な質問をする場面もあったネ・・・・・・



H・D:「お前は、何歳だといったかネ?(How old did you say you were?)」

アリス:「7歳と6ヶ月よ」

H・D:「はずれ! お前は、そんなこと、一言だって言ってなかったさ!」

アリス:「『何歳だ?』と聞かれたと思ったのよ」

H・D:「そういうつもりなら、そう言ったさ」



 強気のアリスもこのハンプティー・ダンプティーにかかっては敵わないのだが、高慢ちきの卵野郎ではあるが、あの難解な「ジャバウォッキー」の詩を解読してくれた恩人でもある。

 意地悪といえば、さらに白の女王と赤の女王が、8目で戴冠したクィーンのアリスに資格テストを行うのだが、先ずはじめの、その足し算の問題はタチが悪かったネ。

 「What's 1+1+1+1+1+1+1+1+1+1=?」と、立て続けざまにあびせる問題の詰問にアリスは、「I lost count (数え切れないは)」と正直に答えるも、赤の女王は即座に、この子は足し算もできない子だと決めつけられる。

 おまけに割り算の問題では「Divide a loaf by a knife (パンの塊をナイフで割ると?)」ときたもんで、計算が言葉あそびにすりかえられる始末だ。アリス苛めは『鏡の国』では、かなりイカレタ論理学で徹底的であるのだが、ボクはそんなアリスに思わず同情してしまう。





 さて、アリスとヘンテコな住人たちでも、このマッド・ハッターが、2010年に公開されたティム・バートン監督による『アリス・イン・ワンダーランド』(Alice in Wonderland)の米国映画では、この帽子屋をジョニー・ディップが演じていたが、この物語の主要人物として描かれている。

 ジョン・テニエルによる挿絵では、小柄な体に水玉模様の蝶ネクタイをつけ、頭に異様に大きなシルクハットをつけた姿で描かれている。シルクハットには「この型10シリング 6ペンス 」(In this Style 10/6) と書かれた札がついているから、これは売り物なのであろう。

 余談だが、アメリカのヒーローコミックシリーズ『バットマン』では、主人公バットマンに敵対する人物として「マッドハッター」が登場する。彼は『不思議の国のアリス』にのめりこみ帽子屋の扮装をするようになった怪人で、大きなシルクハットを被り、背が低く歯の突き出た姿で描かれるが、それはテニエルの描いた姿にそっくりである。

 『不思議の国のアリス』の第7章の「おかしなティーパーティー」は、マッド・ハッターに3月ウサギと眠りヤマネが6時で時間が止まったままのお茶会を過ごしているが、それはハートの女王の前で以下の歌を調子はずれで唄ったための刑罰だった。


 

Twinkle, Twinkle, Little Bat,
How I wonder what you're at:
Up above the world you fly
Like a tea tray in the sky,
Up above the world you fly
Like at tea tray in the sky.

Twinkle, Twinkle, Little Bat,
How I wonder what you're at:
Up above the world you fly
Like a tea tray in the sky.




 つまり、この歌は『きらきら星』の替え歌で、『キラキラ蝙蝠』という唄であり、アリスに途中まで披露する場面がある。「キラキラ蝙蝠ちゃん、あんたは何処ゆくの、お皿のようにお空を飛んで、キラキラキラキラキラキラキラ♪」・・・・・・という具合で、さらに帽子屋の不作法によりアリスを怒らせたのは、何といっても答えのない“なぞなぞ”の件である。

 それは、「鴉と文机は何処が似ているか?」というアリスへの質問だった。しかし、なぞなぞをしておきながら、これには答えはないと帽子屋は言って、アリスはその無責任さに怒ってしまう。

 答えについては、後にいろいろと世間では話題を呼び、文中では帽子屋は答えは出さないし、当時ルイス・キャロル自身も答えを示さなかったが、しかし、キャロルは1896年版の『不思議の国のアリス』の序文でこの答えを述べている。

 それは・・・・・・「何故ならば、どちらも少しばかりの“note”(鳥の鳴き声、調子、音色、覚え書、記録)が出せますが、非常に “flat”(平板、単調、退屈、気の抜けた音程)なものです。そして、どちらも前と後を間違えることは決して(nevar)ありません!」

 ※nevar はraven(カラス)の単語のつづりを後ろから読んだものだが、never と誤植されてその後にいろいろと誤解と誤読が生じているようだ。しかし現実には never が正しい綴りである。nevar という単語に何か秘密があるのかは謎は解けないが、何か意味があるのかも知れない。(了)




 


 


 『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』の著者であるルイス・キャロルは、本名をチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンといって、オックスフォード大学の数学と論理学の教師だった。日本ではドジソン(Dodgson)という名字は、現実にはドットソンと発音されていたようで、『不思議の国のアリス』に登場する“ドードー鳥”は彼の名に因んだ命名みたいである。それは彼が愛したオックスフォードの学寮の親交があった同僚や上司たちの子供たちが、彼を“ドードー”と渾名していたことからも推察される。


 またドジソンは英国国教会の聖職者でもあった。イギリスのチェシャー地方のデアズベリーで1832年1月27日に生まれた彼は、父親は牧師で、ドジソン家には11人の子供があって、チャールズことルイス・キャロルは第3子の長男であった。

 オックスフォード大学は、いくつものカレッジ(学寮)の複合的に集まったアカデミーで、ルイス・キャロルはクライストチャーチ・カレッジの教師であった。そこのカレッジである学長のヘンリー・リデルの2番目の娘であるアリス・リデルに請われて、『不思議の国のアリス』という物語を表したわけだが、それはビクトリア朝の1865年のことである。

 この物語を創作するにあたり、ルイス・キャロルはジョージ・マクドナルド(George MacDonald・1824ー1905)の一家の助力を得ている。ジョージ・マクドナルドはスコットランドの小説家、詩人、聖職者であり、後に、『指輪物語』のJ・R・R・トールキンや『ナルニア国物語』のC・R・ルイスが崇拝したファンタジー作家の元祖的な存在である。

 ルイス・キャロルとジョージ・マクドナルドが英国のファンタジー作家の原点であるといっても間違いはないが、それはシャルル・ペローの教訓物語、ドイツ浪漫派の文学、グリム兄弟の民話、アンデルセンの童話、英国で起こったラフェエロ前派の芸術運動などの一連の流れのなかで、神話からメルヘン、メルヘンからファンタジーという幻想の世界が物語として確立された記念碑的な作品を生みだし、ファンタジーの概念を創出した時代的な分岐点に位置したのが、キャロルとマクドナルドであったといえよう。

 メルヘンとファンタジーの違いを述べるに、メルヘンとは、動物と人、妖精と人間とが、いとも簡単に会話して、物語のなかで世界を形成しているのだが、ファンタジーは現実原則と幻想世界にはっきりとした境界線があり、境界を越え、異世界に現実的な道理が混濁することであろうと思われる。つまり、メルヘンとは神話世界の延長に過ぎない伝承物語ともいえるが、ファンタジーとはリアリズムの扉に通じている世界が開顕した文学のカテゴリーなのだ。

 たとえば、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』では、ウサギの穴への下降により地下の国なり、不思議な国、鏡の国へと物語はすすむ入口があり、ライマン・フランク・ボウムの『オズの魔法使い』では、主人公 の少女ドロシーが竜巻で上昇して異世界へ到達する。
 
 異界、魔界、異境、魔境に通底するには、 境界と、そこを渡る装置なり、装備があり、道具仕立てが演劇的に企てられるのがファンタジーの法則である。ジャン・コクトーは映画『オルフェ』で異世界を通り抜けるのに鏡を境界にして、手袋を魔術的な装備とした。

 此岸と彼岸、現実と死の境界なり領域を、水や鏡のオブジェ、月や銀の象徴を介して、これらを通底する観念的な装置や幻想の物体を、ペダントリーな法則を周到に用意しながらも、衒学的なレトリックで別世界を編みだしたのが現代に通じる幻想文学の道理であり、ファンタジーの出自でもあろうともいえる。

 ファンタジー文学の記念碑的作品として『不思議の国のアリス』をみるに、7歳と6ヶ月の少女が主役であるのも大きな特徴であり、この女の子の個性が際立って面白いのも魅力的な要素である。

 たとえばアンデルセンの童話で、『野の白鳥(De vilde Svaner)』に出てくる11人の兄たちが、継母の魔女に魔法で白鳥にされ、末娘のエリサが兄たちを助ける旅に出る物語があるが、これはグリム兄弟のお話と同じ下敷きの伝承民話であるけれども、グリム兄弟は民話や伝承を、口承の語りべのお話を忠実に編纂をしたのに対して、アンデルセンの童話集は原話を元に、アンデルセン流に創作し編纂されているのが特徴的である。

 このアンデルセンの描いた少女の物語は、苦難と試練にみちた旅によるビルグンドゥスロマンの構造をもつ形式となっているが、ルイス・キャロルの描いた少女の物語はナンセンスであるのが大きな特徴であろう。つまり、物語性よりも言葉による遊びが重点となり展開する構造となっているのが、それまでにないメルヘンの面白さのプロットとして主体となっている。

 メルヘンという構造に論理学的でペダントリーな言葉で編み出されたナンセンスな物語は、ジョン・テニエルの描いた挿絵の少女でファンタジーのイメージを更に増強し創出した。アーサー・ラッカムやディズニー映画など、その他にも多くの“アリス”像を描いている作家は古今東西多いのだが、テニエルの“アリス”が未だに不動の位置にあるのは、かわいらしいビクトリア朝の少女の姿と子供らしくない無表情のアンバランスでアンビバレンスなのが、へんてこなナンセンスである物語性にあまりにもマッチしているからだと思われる。

 身なりの可愛いアリスを描いたテニエルだが、不思議の国や鏡の国のヘンテコリンな住人たちと、物おじせずに可笑しな理屈に切り返す負けん気をみせたり、また心優しい交流もある。お上品にすましたクールな表情のほかにも、好奇心旺盛な子供らしい姿も全開する。そんなアリスを的確に表現して描いたのはジョン・テニエルだけである。

 さて、アリスが出逢ったヘンテコリンな住人たちで今回はドードー鳥を紹介しよう。この鳥はオックスフォード大学のアシュモレアン博物館に収蔵されていて、ルイス・キャロルとアリス・リデルはこの鳥の剥製を観たに違いない。この鳥は大航海時代の初期である1507年にポルトガル人によって生息地のマスカリン諸島で発見された。しかし、人類に対して警戒心の無かったこの鳥は人の食糧にされて間もなく絶滅した。

 ドードーの名の由来は、ポルトガル語で「のろま」の意味。またアメリカ英語では「DODO」の語は「滅びてしまった存在」の代名詞でもある。ドードー鳥は絶滅しても、アリスはファンタジーのなかの少女として永遠に不滅である。(了)