1993年製作のファミリー・エンターテイメント映画である『秘密の花園』は、フランシス・F・コッポラが製作総指揮の大作である。ポーランドの女流監督であるアニエスカ・ホランドのハリウッドでの初仕事となり、イングランドの美しい風景描写には息をのむ映像作品。
米国の女流作家F・E・H・バーネット(1849-1924)が描いた小説の『小公女』と並ぶ名作である、『秘密の花園』は、インドで父母と乳母を亡くしたメアリーが、大資産家の伯父クレイヴンにひきとられて、イギリスのヨークシャーへ渡るが、映画ではイングランド南西部のダートムーアが舞台になっている。。
『少公女』を原作にした1995年製作のディズニー映画『リトル・プリンセス』は、ファンタジックでロマン ティックな演出であったが、子供が楽しむにはステキなメルヘンの如き要素が鏤められていた作品であった。
米国の女流作家F・E・H・バーネット(1849-1924)が描いた小説の『小公女』と並ぶ名作である、『秘密の花園』は、インドで父母と乳母を亡くしたメアリーが、大資産家の伯父クレイヴンにひきとられて、イギリスのヨークシャーへ渡るが、映画ではイングランド南西部のダートムーアが舞台になっている。。
『少公女』を原作にした1995年製作のディズニー映画『リトル・プリンセス』は、ファンタジックでロマン ティックな演出であったが、子供が楽しむにはステキなメルヘンの如き要素が鏤められていた作品であった。
このディズニー映画では具体的に表していなかったが、寄宿舎はキリスト教的なストイックで謹厳な生活と教育に束縛された世界だが、主人公の少女セーラが幼い時に生活していたインドは夢幻の如き奔放で甘美な世界である。インドの神話や物語はキリスト教的世界観とは異なり、寄宿舎で生活する女の子たちは、そんなセーラの学友たちは、異世界の夢幻的な、異邦的な魅力をセーラが語ることで魅惑され魅了されてしまう。
『秘密の花園』でも主人公の少女はインドで幼少期を生活をしていたが、両親と乳母の死により英国に帰還するところは『小公女』と類似している。『秘密の花園』では閉ざされた庭園で子供たちが行う秘術的儀式が描かれるが、バーネットは厳格なキリスト教的な世界感よりも、インドの、東洋の、爛漫で、神秘的な、汎神論的な世界観に関心が高いのだと感じてしまう。
さて、『秘密の花園』の主人公メアリーは、『小公女』のセーラのように可愛く健気で明るく優しくて朗らかで果敢な行動的な少女ではない。しかも心を閉ざして泣くことも笑うこともない女の子である。それは1906年のインドを舞台に映画のオープニングとなる。
インドでの生活は何不自由のない豪奢なもので、10歳のメアリー・レノックスの世話はマーヤというインド人の乳母が全てお世話していたが、母と父であるレノックス夫妻は夜毎、パーティーや社交に忙しい日々を送っている。メアリーは母の愛情を強く求めているのだが、母はあまりにも自分の娘には関心をしめさなかった。
そんな或る日、インドに大地震が襲い、メアリーの両親も召使いたちも、皆亡くなってしまい、生き残ったメアリーはインド領から英国へと帰還することになる。メアリーの母には双子の姉で、10年前に既に亡くなった妹、つまり、メアリーには、叔母にあたる嫁ぎ先のクレイヴン伯爵に引き取られることになった。
伯爵家の館は、イングランドの南西部に広がる荒涼とした折りしも厳冬のムーアという広大無辺の草原地帯であった。インドの温暖な土地から厳寒の荒野に訪れたメアリーは、お城のようなお屋敷では、お姫様扱いはされなかった。
その館では主人の伯爵は10年前に妻を失ったことで、心を閉ざしてしまっていた。館には殆んど住まわずに諸国を遍歴しているのだ。そして伯爵の一人息子は病弱で、閉ざされた城に幽閉されたように生活していた。外に出ることもなく、部屋から出ることもなく、ベットからさえ出ることもない生活をしているのは、メアリーの従兄弟であるコリンであった。
コリンは生まれてこの方、ベットからも這い出たこともないから、10歳でも歩けない超過保護な幼児みたいな存在で、メアリーとて衣服を自分で着られないお嬢様でわがままだったが、自分のわがままぶりよりはコリンの幼さと臆病さに驚きを覚えるのであった。
そんな伯爵の不在で、病弱な伯爵の子息がいるお屋敷で絶対的な権力を持っているのは、家政婦長のメドロック婦人であった。
メイドの小間使いであるマーサがメアリーのお世話担当係になるのだが、マーサは15歳 くらいであろうかしら、まるで天使の如き優しき女の子である。このマーサの弟であるディコンとメアリーは、やがてお友達になる。
その広大な邸宅には、ひとつだけ、入り口に鍵のかかった庭があり、この庭でクレイヴン伯爵夫人が事故死したために、夫は悲しんでそこを“開かずの庭”としたのであった。
メアリーは或る日、小鳥に導かれて、その庭に入り込み、“秘密の花園”と名付けて遊び場にした。やがて、夫人の忘れがたみで歩けない男の子コリンと、遊び相手のディコンと三人で、子供だけの秘密の花園を共有することとなる。
歩けなかったコリンが秘密の花園で歩けるようになり、魔力ある「閉ざされた庭」は、魔法の花園として子供たちの閉じた世界がやがて開顕していくという筋書きなのである。
薔薇の蔓が木々にからんで花づな模様をつくる美しい庭は、放置された荒庭であったが、自然のままの庭園と化して、天然のあらゆる美と荒々しさの宿る花園へと姿を取り戻す。
子供たちの感性は自然の庭にある「魔力」を感じたのは当然であろう。『秘密の花園』はロマン派好みの「閉ざされた庭」を彷彿とさせるロマンであるが、これはファンタジー作品ではないリアリズムの物語である。
その「閉ざされた庭」を魔法により、いや現実的に種を蒔き、メアリーとディコン、そして昔の庭師だった小父さんとの協力で、やがて来る春の為に作業を行う。
そして春の到来と共にコリンは車椅子で当初は庭を散策するのだが、花や動物たちとの触れ合いを通じて、コリンのママの閉ざされていた庭で一人歩きできるまでになる。
・・・・・・閉ざされた庭、愛を受けず閉ざした心、喪失した愛のために閉ざした心、そんな閉ざされた内なる世界が開顕される物語が『秘密の花園』なのである。それはすべて愛による魔法が心を癒すのである。
この『秘密の花園』はメルヘンでもファンタジーでもないリアリズムの作品である。また児童文学を単に映画化した作品でもなく、重厚な珠玉の名作を永遠に語り継がれるように表した愛の魔法の映画大作である。
さて、この映画では、舘に主人が居ないし、その息子は病弱で寝たきりであるからして、執事やメイドや使用人は数多く居れども、正餐も晩餐も映画のシーンには無い。あるのは使用人たちの平民の庶民的な普通の食卓の風景しか映しだされていない。
インドから帰還したメアリーをメドロック婦人が港まで迎えに来て、その帰りの馬車で魔女みたいにローストした骨付きチキンを貪るように食べるシーンが印象的だが、このチキンは多分こっそりと婦人が私的に食べていた彼女の秘密のご馳走に思える。
家政婦たちの朝食は燕麦のお粥が主食だったし、つまり、燕麦とはオーツ麦であり、燕麦をシリアルにしたオートミールを粥状にした料理のポリッジのことである。クレイヴン伯爵家の館は豊かな財政にある感じはしないから、そこで働く使用人たちの食生活も斯様な描写でうかがわれてくる。