空閨残夢録 -19ページ目

空閨残夢録

上層より下層へ 
中心より辺境へ 
表面より深淵ヘ 
デカダンよりデラシネの戯言

 




 サイゴンを舞台とした映画『青いパパイヤの香り(原題:L'ODEUR DE LA PAPAYE VERTE)』は、監督がベトナム系フランス人のトラン・アン・ユンによる1993年の作品である。カンヌ映画祭でカメラ・ドール賞(新人監督賞)を受賞した映画。

 物語のあらすじは、10歳の少女ムイが片田舎から、1951年にサイゴンの資産家の家を訪れる場面から物語は始まる。ムイは家政婦の見習いの使用人として、その家へ訪れたのだが、そこの主人は仕事はせず、その夫人が裁縫などをしながら没落寸前の家を支えていた。

 夫人は奉公人のムイにとても優しくしてくれた。それは夫人の三人の男の子のほかに、亡くした娘のトーと同い年であったからだ。ムイが奉公して間もなく主人は愛人宅へと失踪する。主人の母である大奥様も亡くなり、やがて10年の月日が流れた・・・・・・。

 少女の頃、奉公している長男の友人であるクェンにムイは心惹かれ恋心を抱く。そのクェンの家へとムイはやがて没落する奉公先から、家政婦として働くように配慮され勤め先となった。

 それまで働いてきた家の夫人はムイに晴れ着と首飾りを門出に贈り、自分の娘のように慰めのような存在であったとムイとの別れに泣きむせび送られた。

 前半部のあらすじは斯様に描かれているが、カメラワークが舞台セットだけのとても美しい映像である。この映像は詩的で愛と自然が描写されて、優しさに満ち溢れている。そしてムイという少女の可愛らしいことこのうえない温かい描写。奉公人として健気に働くムイの姿は愛らしくてたまらないのである。

 そんなムイの視線は熱帯の自然に好奇心と優しさをたたへてそそがれる。青いパパイヤの実る木、蟻の蠢き、蟋蟀の囀り、小鳥の歌声、蛙や、蜥蜴などの動きに、その映像と少女の視線が重なる。言葉では説明されない優しい眼差し。人と人の会話よりも背景による自然が物語りは、静かに心情の全てが語られているように・・・・・・。

 自然といってもカメラワークは、近隣の街と、その通りの、ほんの一角である奉公先の家と庭だけしか映し出されていないが、それでも十分に熱帯の穏やかな自然と実りが描かれ写されている。この美術なりセットは全てフランスで撮影されていて、ベトナムでの映像は全くないのだけれども、それでも熱帯の雰囲気は自然に醸しだされている。

 映像には、サイゴンの街にある猥雑さや悪意は現れない。映し出されるのは品のある格調高い世界だけである。それでも少女ムイは没落寸前ではあるが、ブルジョワジーの使用人であり、貧しさとか格差を感じさせてはいるが、差別的な印象は全くない。

 少女ムイは家政婦のおばさんに、日々、料理を中心に仕事を伝授するが、得意な料理はおばさんや使用人のご婦人に教わったパパイヤと豚肉のサラダである。

 そんな、穏やかな物語として進行するも、この映画のなかで最も人間的に激しい場面は、ムイが10年後に雇われたクェンというフランスに留学していたピアニストの恋人との葛藤であろう。クェンは恋人を捨て奉公しているムイを見初める。ムイは初恋の相手と相愛となり物語は終える。

 ムイは料理は得意だが、無学で少女時代を過ごした。クェンはそんなムイに語学を指導する。そして、やがて文学的な素養を培ったムイは、以下の詩を朗読して映画は終る。その詩はムイの生きてきた人生の象徴として言葉は輝き彩りを生じて幕はおりる。



「春の清水が岩陰から、湧き出して、静かに揺らめく、

 大地の鼓動は、大きなうねりとなり、水を揺り動かすが、水面は静寂そのもの、

 調和ある水の戯れの煌く美しさ、日陰に一本の桜の木、

 やがて成長して、満開の花ざかり、水の旋律に共鳴して、みごとに咲き誇る。

 たとへ水がうねり、逆巻いても、桜の木は凛とたたずむ。」  




・・・・・・FIN 









 『ビリティスの歌』(仏語:Chansons de Bilitis)は、ピエール・ルイスによる1894年発表の散文詩集。サッフォーの同時代の女流詩人による詩をギリシア語から翻訳したとして発表されたのである。これは146歌の散文詩からなる詩集であり、ビリティスは紀元前6世紀のギリシャに生まれた女性で、少女時代から死に至るまでの間に書き残した詩篇が19世紀になって発見されたということになっていた訳である。

 
 『ビリティスの歌』は、古代ギリシア文芸研究者でもあるピエール・ルイスによって創作された実は偽書なのであった。ルイスは人の悪い性格で、当時の知識人や古典学者を欺き、この偽書にすっかり騙された学者たちは、知ったかぶりの恥さらしを演じるハメとなった次第で、そんなインテリの輩を陰で嘲笑し毒舌で揶揄して楽しんでいたようだ。

 いずれにしてもこの偽書は古代ギリシア語からフランス語に翻訳された体裁を保ちながらも、文学的には傑出した作品であり、優雅な美文は気怠くも眩く退廃的でありながら高踏的にして、そのエロティックな芳香は芸術的な捏造遊戯として存分に楽しめる作品でもある。

 このルイスによる『ビリティスの歌』に触発されて、ドビュッシーがそのうち3篇を歌曲に仕立て、その他にも付随音楽などを作曲している。






 さて、ピエール・ルイスの偽作『ビリティスの歌』は、サッフォーという女流詩人の存在が前提となった散文詩集でもある。サッフォーは、今を去ること2600年前あまりの昔にレスボス島に生まれた実在の女性で、ギリシヤで“女流詩人”といえばただそのひとのみ指す。

 サッフォーの名声は旧く西欧では遍く知られていて、同時代のアルカイオス、ソローンによる賛辞に始まり、プラトーンによって《十番目の詩女神(ムーサ)》とまで称えられて以来、彼女の名前は全ての時代を通じ、ヨーロッパの詩人たちの憧れを呼び起こしている。

 レスボスの詩女神サッフォーは神話的古代からヨーロッパ文学の中に息づいて、歴史上もっとも有名な女流詩人だと述べても過言では ない。そんなサッフォーの教え子という形式をとってピエール・ルイスはビリティスという架空の少女を創作して、彼女による詩作という形式で『ビリティスの歌』という散文詩を偽作した訳である。

 サッフォーはレスボス島のミュティレネ(あるいはエレソス)の生まれで、人生の大半をミュティレネで過ごした。裕福な家の生まれであったようで、そこで結婚してクレイスという娘をもうけている。夫は商人で仕事のため不在がちであったともいわれるが、この夫についての履歴や職業的な根拠ははっきりしていない。

 今日でもよく上流階級の婦人が行うように、サッフォーは、現地で多くの女性を集めた茶会やサロンのようなものをよく催しており、常連の若い娘さんが結婚して島を去るなどと いう時には祝婚歌を贈ったりしたようだ。このお茶会のようなものは、今でいえばフィニッシング・スクールのようなものではないかということで、19世紀頃の西欧のフィニッシング・スクールでは、サッフォーの肖像画を女子教育の元祖として掲げていた所もあったそうな。

 サッフォーの詩はさすがに2600年の月日が流れているだけあって、あまり多くは残っていない。現存の詩で恐らく完全なものであろうといわれているのは『アフロディーテに捧ぐ』という7連からなる詩で、彼女はアフロディーテを愛でる詩を多く表しているのだが、その中のひとつがBC1世紀のディオニュシオスという人の本の中に丸ごと引用された状態で残っていた。

 尚、彼女の詩はひとつの連が4行から成り、最初の3行は11 音節、最後の1行は5音節という形式を取っており“サッフォー・スタイル”と呼ばれている。大胆で時には艶めかしさを感じるようなエロティックな作品もある。それは古代ギリシャの特に周縁であるレスボス島の自由な雰囲気までが伝わってくるかのようだ。

 サッフォーの詩があまり現存していないのは、この大胆な性愛表現が災いして、中世のキリスト教会が彼女の異教的な性愛風俗を焚書にしたからだという俗説があるが、中世のヨーロッパというのは文化的には暗黒の時代で、あまり旧い文化を受け継いでいくような思想がなかったために失われてしまったとも考えられる。

 サッフォーと言えばレズビアンの教祖のように想像される昨今であるが、レズビアニスムの語源はサッフォーの生活し たレスボス島が語源である。またサッフィズムという女性同性愛者を呼ぶ言葉もあるが、本当にサッフォーが同性愛者であったのかは誰も本当の事は知らないし検証など今ではできないのだ。

 今日、“レスボス”というイメージを、あの「レスビアニズム」あるいは「レスボス風の愛」ということばで、鮮烈に脳裏へ焼き付けた張本人はボードレールの『悪の華』にある詩篇「レスボス」に他ならない。

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 ラテン人の戯れと、ギリシア人の逸楽との、母なる島


 レスボスよ、そこでは、けだるい、または愉しい接吻が、
 太陽のように熱く、西瓜のようにつめたく、
 輝かしい夜な夜なと日々の飾りとなる。
  ラテン人の戯れと、ギリシア人の逸楽との、母なる島、

 レスボス、そこでは、接吻はまるで滝のよう、
 怖れもなく、底知れぬ深い淵へ身を投げては、
 途切れ途切れにしゃくり上げ、忍び音もらして流れ行く、
 嵐をふくんでひそやかに、群なしてうごめき深々と。
 そこでは、接吻がまるで滝のような、レスボスよ!

 フリュネーたちのかたみに惹かれ合う、レスボス、
 かつて溜息に木霊の答えなかったためしのない島よ、
 星たちは、御身をパフォスにひとしく讃えるし、
 ウェヌスがサッフォーを妬むのも、まことに道理!
 フリュネーたちのかたみに惹かれ合う、レスボス、

 レスボス、この地に、暑く悩ましい夜な夜なを迎えては、
 われとわが身体に恋 い焦がれる、眼おちくぼんだ少女たちが、
 鏡に向って、おお不毛なる逸楽よ!
 己が年齢期(としごろ)の熟れた果実(このみ)を愛撫する。
 暑く悩ましい夜な夜なを迎える地、レスボスよ、

                                   (阿部良雄訳)

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 斯様に、ボードレールの『悪の華』の禁断詩篇のひとつが、近代人のレスボスのイメージの上に、ひいては、その島に生きたサッフォーの存在的なイメージを決定的に作用させたのは、世紀末のこの退廃詩人の仕業であることは間違いない。

 されど、サッフォーの残存する詩には同性である女性に対する愛の賛美と情熱を傾ける詩編が残っていることも確かで、ボードレールの妄想も致しかたないものもある。

 女性をエロティックな対象として好んだサッフォーは、その詩作品から伺えるのだが、彼女は晩年に異性である男性を愛して死に臨んだ物語が伝えられていることは、あまり、知られていない。

 それはオウィディウスの伝えるところで、ファオンという美しい青年に、年を重ねたサッフォーが恋焦がれた伝記である。

 美青年ファオンと情を通じ同衾したサッフォーは、やがてファオンに裏切られて見捨てられる。ファオンはサッフォーを捨てて、黒髪のシチリア娘とカタルーニャへ逃避する。このことで、絶望した哀れなサッフォーはレカウス島の崖から身投げして命を落とす。

 これは、多分、オウィディウスによる想像からの伝聞だと思われるが、サッフォーがファオンに手紙であてた言葉は胸に残る。それは・・・・・・



 「私を愛して、とは言いませんが、私の愛を受けてと、切に切に願うのです」





 


 


 イタリアン・ドルチェの “カンノーロ” を知人のパティシエが試作で作ったものを試食したのだが、このお菓子はシチリアの名物で、カンノーロ(cannolo - 単数形)、カンノーリ(cannoli - 複数形)、カンノール(cannolu - 単数形のシチリア方言)などと呼ばれるお菓子であった。

 カンノーロはラテン語の “cannna” を語源とする言葉で、「小さな筒」を意味するが、直訳すると「葦」や「植物の茎」を意味するようだ。伝統的なカンノーロはサトウキビの茎を利用していたことに由来していて、現代のシチリアから波及したカンノーロは筒型にした生地を油で揚げたものに、一般的にはリコッタチーズを詰め込んだお菓子である。

 リコッタチーズもシチリアでは羊乳の原料のものを元々は使用しているが、アメリカではマスカルポーネなどのチーズをカスタードクリームと混ぜてレストランなどでは販売していると伝わる。






 さて、ボクがいただいたカンノーロは、濃厚なリコッタ・チーズは重たいので、日本人の嗜好に合わないことから、口当たりの軽いマスカルポーネとカマンベールの2種のチーズと、これにカスタードを混ぜたクリームを、コロネ型にしたサックリと厚めに揚げた生地のものであった。生地は素朴で香ばしく、クリームはバニラの風味がほんのりする“カンノーロ”はとても美味しかった。





 このカンノーロは、1972年に公開されたフランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』(原題:The Godfather)に登場して、イタリア系米国人のほかにも、米国に広く認知されたシチリア島名物のお菓子となった。

 この映画では、カンノーロを「カンノーリ」と、コルネオーレの忠臣である暗殺者ピーター・クレメンザは発音している。

 やがて、1990年に公開された『ゴッドファーザー Part Ⅲ』では、ドン・アルトベッロを、オペラ座で、ドン・マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)の妹であるコニー・コルレオーネ(タリア・シャイア)が、自家製のカンノーロで毒殺する場面で印象深い。

 ドン・アルトベッロは生まれ故郷のシチリア島の“おふくろの味”に、ついつい気を許してしまって死に至る場面で、再度カンノーロはコッポラの映画で登場することになるのであった。








 リンゼイ・ケンプ・カンパニーの日本公演は『真夏の夜の夢』を一度だけ観ているが、できれば『アリス』と『フラワーズ』も観ておきたかった。リンゼイ・ケンプは1938年、英国のリバープル出身のシェイクスピア劇の道化役者ウィリアム・ケンプの子孫として生まれた。


 1962年にリンゼイ・ケンプ・カンパニーを結成して、演出、脚本、振付、画家、役者、ダンサーとして活躍する。カンパニーでは1969年の『フラワーズ』で話題を集めるが、ケン・ラッセルの映画『サベージ・メサイア』(72年)への出演。かつてカンパニーに在籍していた弟子のデビッド・ボウイのための『ジギー・スターダスト』(72年)の作・演出。また、デレク・ジャーマンの映画『セバスチャン』(76年)への出演など、ケイト・ブッシュ、ミック・ジャガー、フェデリコ・フェリーニ、アンディー・ウォーホール、ジョアン・ミロなどのジャンルを超えたアーティストとの多彩な交流で活躍する。

 1973年にリリースされたデビッド・ボウイのLP『アラジン・セイン』に入っている「ジーン・ジニー(The Jean Geniy)」という曲は明らかにリンゼイ・ケンプの『フラワーズ』からインスピレーションを得ていると思われる。つまり、ジーン・ジニーとはジャン・ジュネの英語による発音であり、『フラワーズ』はジュネの小説である『花のノートルダム』を原作にしているからだ。





 1982年に公開されたライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『ケレル(Querelle)』は、ジャン・ジュネの『ブレストの乱暴者』を原作に映画化された作品である。ジュネの文学が映画化されたのはR・W・ファスビンダーの遺作となった『ケレル』だけで後にも先にも無い。またジュネは戯曲も発表しているからパトリス・シェローが戯曲を舞台化をしているが、ジュネの牢獄で書き上げた『薔薇の奇蹟』、『葬儀』、『泥棒日記』、『ブレストの乱暴者』、『花のノートルダム』などの小説を作品化したのはリンゼイ・ケンプとファスビンダーの二人だけである。
 




 ジャン・ジュネは1910年に、父親は不詳で、未婚のガブリエル・ジュネの子としてパリに生まれる。翌年にジュネは児童養護施設に遺棄され、熱心なカトリック信者に里子として引き取られた。ジュネは孤児として、泥棒、男色家となり、犯罪を重ねた結果、終身禁固刑になるはずがジャン・コクトーの介入により、大統領から恩赦を受けて服役を免れたスキャンダラスで神話的な人物、またジャン・ポール・サルトルの『聖ジュネ』により、社会から隔絶した文学的な英雄として世間に登場する。

 『花のノートルダム』『薔薇の奇蹟』は堀口大學、『ブレストの乱暴者』は澁澤龍彦、『葬儀』は生田耕作、『泥棒日記』は平井啓之などの翻訳などで本邦では1960年代から70年代に出版されているが、フランスでは1944年にポルノグラフィなどと同じ秘密出版で当初は刊行された。これにより流通した作品をジャン・コクトーが絶賛する。

 ジュネの小説は市井の底辺を徘徊する窃盗を犯す同性愛者や、人の尊厳を捨て仲間を裏切る犯罪者たちを物語の主人公にしている。斯様な“悪徳”をジュネの小説では“聖性”に転化する魔力が文学として称揚され世間では評価された。

 三島由紀夫に言わせると、「ジャン・ジュネ・・・・・・世界を裏返しにしてみせた男。現象世界の価値を悉く顛倒させ、汚辱を栄光に転化し、泥を黄金に変え、しかもこの革命をただ言語の力によって、独力でなしとげた男。芸術の極北に立ち、しかも芸術の復活の奇蹟を実現した男。もっとも卑劣にしてもっとも崇高、もっとも卑賤にしてもっとも高貴な文学」(「『ジャン・ジュネ全集』新潮社全4巻推薦文」)・・・・・・と、賛辞を述べている。

 また、『ブレストの乱暴者』を翻訳している澁澤龍彦はジュネの小説を斯様に述べている。

「ジュネの小説の発想の基盤に、ポルノグラフィーのそれと同質のものを認める・・・・・・ジュネの小説が、技巧的に見れば明らかに一種のポルノグラフィーでありながら、しかも本質においてポルノグラフィーを超えている点は、何よりもまず、その無意識の部分の重要性であろうと思う。たとへば猥本作者は、もっぱら読者の特殊な情緒を刺激するという目的のために、手を変え品を変え、サディストとかマゾヒストとかいった人物を描き出すのに、ジュネの場合は、どんな人物を登場させても、必ずそこに作者自身が投入され、永遠に同じ一つの原型(アルケテュプス)が透け て見えるという違いである。たぶん、作者はこのことを意識していないであろう。それは深層心理学に属する事柄であろう。サルトルが言うように、精神分析学的な解釈には確かに限界がある・・・・・・」(「エロス的人間『ジャン・ジュネ論』中公文庫」)。







 『ブレストの乱暴者』のあらすじは、登場する主人公のケレルは水兵であり、或る時、殺人を犯し、その不安と孤独から贖罪者としての受身の男色家となっていく。彼には互いに愛し合うほどよく似た分身のような兄弟がいる。その分身は淫売屋の女主人の情夫であり、女主人の亭主である情夫は彼女に言い寄る若者をまず自分が奸し、その後に女に渡すのが習いである。ケレルは亭主に犯され、そして女主人の情夫になる。ケレルが性的に通じるのは亭主の他に、殺人事件で追われている警官、また、自分に似た人殺しを犯した少年を愛し、しかもこの愛した少年を裏切り警察に売る。

 この物語をファスビンダーは独特の美意識で映画化し、彼の遺作となったわけであるが、この映画はノワールではなく、高純度に悪徳の美学を映像化した作品である。主人公のケレルをブラッド・デーヴィスが演じ、淫売屋の女主人リジアヌをジャンヌ・モロー、水夫ケレルの上官をフランコ・ネロの配役とされている。初公開は82年にパリで、日本では88年に新宿シネマスクエアとうきゅうで上映された。






                               (ウド)

 「山でうんまいもんオケラにトトキ、まだうんまいもんウド、ワラビ」と都々逸で歌われているが、北海道にはキク科のオケラはないようでボクも見たことがない。オケラの根茎は漢方生薬につかわれる薬剤で白朮(ビャクジュツ)の名があり、お屠蘇のレシピにもある。


 キキョウ科のトトキはツリガネニンジンのことで、こちらは北海道でもよくみかける。しかし、道内では食用としてあまり用いられていない感じがする。


 ウドとワラビは北海道の山間部で今や山菜取りの全盛期である人気者。ワラビは山に行かなくても低地で採れる。日当りのよい場所にでるワラビは鉄道線路沿いに群生しているらしく、山菜採りの人が群れている。


 ウコギ科のウドは山奥へ行かなければ今では採れないであろう。同じウコギ科のタラノキが先日に山の方へ行くと食べ頃の芽を出していた。タラノキは陽木で道路沿いや川岸、森林の伐採地などの開けた場所に群生する。大きくても5~6㍍の小高木だけど、幼木の頃に若芽を全部マナーの悪い人に摘まれて枯れたりとか、鹿に樹皮を冬に食べられて枯れたりと、5~6㍍の大きさまでは成長したタラノキはあまり見たことはない。







(タラノキ)


 タラノキの幹には棘があり、鹿などの動物に食べられないように生やしているようだが、それでも冬に飢えた鹿は樹皮を食む。若木や春の芽立ちがタラノキにそっくりなハリギリは山菜採りの人がタラノメと間違って採るほど似ている。ハリギリもウコギ科で林業家はセンまたはセンノキと呼ぶ。高さ20㍍以上にもなり、良質な材となり、建具や家具に利用される。


 ハリギリの芽はタラノ芽より味が劣りクセが強いので、アクダラとかイヌダラと呼ぶ地方もある。地方によって山菜は好みがそれぞれあるのであろうが、東北ではシドケ(モミジガサ)、アイコ(イラクサ)、ミズ(ウワバミソウ)なんかが人気だが、これらは北海道では殆んど食べられていない。







                           (ハリギリの幼木)



 全国的に人気の山菜はウド、ワラビ、フキ、タラノメが一般的であろう。北海道で人気の山菜はやっぱり行者大蒜である。昔はこれをアイヌネギと呼んでいたが、アイヌの人々はキトピロ(ヒトビロ)と呼んでいた。これはニンニクによく似た臭気があり、ニンニクよりも臭いは更に強い。


 山菜は天麩羅にすれば大体が美味しく戴けるのだが、天麩羅という調理法を除いてボクが好きな山菜は、アイヌネギのおひたし、ウドの味噌漬け(生のまま漬ける)、ミズのたたきが粘りがあってお好みである。タラノメもウドに香気がよく似ているが、お味噌に数日ほど漬けるとアクが程好く抜けて、これを生で食べるのも旨いネ。


 先日、居酒屋でタラノメ、ウド、コゴミの天麩羅をいただく。漢字で表すと“楤芽・独活・草蘇鉄”となる。コゴミは俗称で屈んでいるような身を丸めた様子からの名前で、正式にはクサソテツというシダ類の植物である。





                           (ウドのきんぴら)





                      (タラの芽、ウド、コゴミの天麩羅)