きっと地域によって温度差があるのだろうな。

私はもう3ヶ月東京に行っていないので都会の状況は感じられないのだけれど。

 

22日からの「GO TO キャンペーン」に対して、各地域から、国民から非難の声が上がっていた。が、

今日になっても、実行すると政府は発表した。

 

そもそもコロナ対策に数億円、数百億円の予算しか計上しないのに、

GO TO キャンペーンだけは、当初から1.7兆円が計上されていて、

そのお金を医療関係に回せとか意見する人たちは数多くいた。

 

都知事選が終わってから、東京都の感染者数は軒並み上がり、

上がり続けて、今日は感染警戒度を最高に引き上げた。

この時期に、始まるGO TO キャンペーンに、特に感染者の少ない田舎が反対をしている。

それでも実行するのは…

やはり強い力が働いている。

それ以外に、理由がないじゃないですか。

 

そもそもの予算にしても、強行突破することにしても、

経済を活性化することに対しては、どこかの強い力が必ず押し進める。

つまり経済第一主義にいつも政治は向かっていく。

 

観光業会とか、実際厳しい状況になっているからというのは、言い訳ですよね。

だって、中途半端に今やっても、それほどの効果は出ないし、経済のV字回復になるわけがないもの。

それよりは、いつになるかは分からないけれど、

コロナに対しての恐怖感がなくなってから一気に引き上げたほうがいい。

こういう誰が考えても分かることが、実施されない。

いつもどこかで一部の人の意見で、政治が決められていく。

そんないやーな感じが、ずーっと続いているのです。

 

コロナ対策については、はっきりは言えないことばかりだから失敗しても仕方がないと思うけれど、

とりあえず最近かなりはっきりしてきたこともあるはず。

明らかに感染が多いのは、多人数の飲み会ですよね。

控えましょう!

 

あと政治家に求めることは、

失敗しても仕方がない初めてのウィルスなのだから、

方向転換する時に、きちんと説明するべきです。

「以前は、こう言っていたけれど、こういうことがわかって来たので、対策をこのように変えます」

って普通に言えないのはどうしてなんだろう?

一度言ったことを撤回してはいけないのかな?権力者と言うものは?

 

それにしては、失言した大臣とかは、すぐに撤回だけはするけれどね。

 

コロナでモヤモヤ、

政治にモヤモヤ、

梅雨でモヤモヤ。

 

気持ちを晴らしたいですね。

ここ数日やけにキセキレイがうるさいので、まさかと探してみたら、

北側の昨年まで巣作りしていた薪棚に、キセキレイの雛を発見しました!

通常5月に巣作りをして巣立っていくのに、なんでこんな季節?

 

今年も5月にひと家族(確認した雛は3羽)巣立って行きました。

雛が巣立つと数日(一週間くらい)は、毎日庭に来て餌をついばんだり遊んだりしているのだけれど、

その後、姿は見えなくなり、

次の年の同じ時期になるとやってくる。

 

それなのに、それなのに。

 

今回は、北側の薪棚の裏に巣を作っていたので、表から全く分からない分、

目線の高さにあり、裏に回るとかなり観察しやすい場所。

ということで、毎朝(キセキレイには迷惑な話だが)挨拶に行く。

そして間近で写真も撮れる。

 

黄色いものも見えるので、もう巣立つのは間近だと思われる。

 

家の北側の窓を開けていると、しょっちゅうキセキレイの親たちの泣き声が聞こえる。

そこにはあるルールがあり、段々に聴き慣れていく。

ある一定の泣き声の後、雛たちの大騒ぎ「ピーピーピーピー」

親が餌を咥えてやってくると雛たちは大騒ぎする。

声が聞こえ、窓から外を覗くと、親が頭を巣の中に入れている。

そして、しばらくすると、巣箱が分からないように少し回り道をして出ていく。

巣に入る回り道も、巣から出る回り道もそれなりにルールがある。

巣が敵に見つからないように色々な努力をしているのが観察できる。

 

私が一番気に入っている形はこれ。

5羽がお供え餅のように積み重なっていて、全部の顔が見える。

私が覗くと、近くで見守っている親が泣いて危険を知らせる。

だから私が来た時には、こうして身動き1つしない。

こうしていれば誰も気づかないと思っている。

私がいなくなった後は、きっと

「ほおら、気づかれなかった」と思っているに違いない。

 

とにかく元気で巣立って行ってもらいたい。

巣立った後にたくさんの天敵がいるのだけれど、

負けずに一羽でも多く生き残って、

来年また巣作りにやって来てね。

都知事選が終わって、SNS上で、山本太郎が叩かれている。

おかしいよねぇ。

 

考えられる叩かれる理由はひとつ。

彼の存在が怖いから(邪魔だから)

となると、叩いているのは…?

 

私はれいわ新選組を指示しているし、山本太郎を応援している。

そういう立場にいるとおかしいことがたくさん見えてくる。

 

例えば、

SNSなどで、現安倍政権や、政権与党の自民党について

批判、批評、反対意見を述べていると(私という意味ではなく)

「なんで、安倍ばかり叩くんだ、野党のこともきちんと批判しろ!」

みたいなことを言ってくる輩がいる。

 

いやいや、私たち(メディアや国民)が、監視して批判すべきは、

権力(金力)を持った政権と与党なのだ。

別に野党を責める必要はない。

野党は、いつか政権を取った時に監視して批判すればよい。

それまでは、放っておけ!って話。

そもそも何を言ようが、政権与党のように権力がない以上、

それを実行に移せないことも多々あるのだから。

 

昨日起訴された河井前法務大臣に自民党本部から渡された政治資金は1億五千万円

今回の都知事選で、山本太郎の政治資金として、国民から集まった寄付が1億数千万円と言われている。

つまりほぼ同額。

自民党にはそれだけのお金と力があるのだ。

それが政権与党。

だから、何があっても政権や与党の座を受け渡さない。

公明党なんて、現政権のやり方とそもそも意見合っていなくたって、

与党でい続けたい。

そうすることに意味があるわけですね。

 

その権力を持った政権与党と、野党のいち政治家を同列に扱う必要がないのです。

れいわ新撰組が政権を取った時には、どうぞ批判してください。

何かミスがあったらバッシングしてください。

でもそれは今ではない。

 

今のこの国の政治には問題が山積みです。

でも、そうなった原因は、政治家というよりは、メディアや国民に大きな責任があるように感じる。

だっておかしいもん。

なんで、このタイミングで山本太郎を叩く?

 

山本太郎がこれまで言い続けて来た政策と同じことが、

少しずつ実行に移されています。

彼の名前は出ないけど。

 

彼が政治家として存在していることの意味は計り知れない。

彼を嫌いな政治家が、敵対意識から頑張り始めたりする。

彼を怖がっている政治家は、彼をはじいて、自分の周りを固める。

 

山本太郎の発言、行動を見続けていると、そんな構図が見えて来て面白い。

 

彼の言っていることは一貫しています。

だから私は指示している。

 

力はないけど、一生懸命頑張っている政治家を叩いている暇があったら、

どうか力のある政治家が何をやっているか監視してください。

そして、山本太郎の発言も時々きちんと聞くだけ聞いてください。

そしたら10年後、彼の一貫性に気づいて貰えると思います。

 

政治家には、政党に関わらず優れた人はたくさんいます。

そして最初は、この国を良くするために政治家になったのだと思います。

しかし、実際に政治家になると、変わっていく。

そうしなければ生き残れないことがたくさんあるのであろうと推測されます。

 

だから少なくとも私は、政治家になった時から7年間一貫した言動を取る

山本太郎のような政治家をこれまで見たことがない。

 

ずっと応援していくつもりです。

 

 

 

 

 

 

 

今回の新型コロナウィルスで、国民全員に10万円が返ってくることになった。

確かに私も4月から仕事がなくなり、収入はないのだけれど、

とりあえず生活できているので、これも半分以上は寄付に回すと決めている。

とりあえず、ユニセフに寄付したところで、

今回また九州地方で大変な災害が起きてしまった。

立て続けで、どうにもならない感じ。

 

この国は、寄付をするという習慣がない。

理由は分からない。

有名人には、積極的に寄付活動をしてもらいたいと思っている。

そもそも有名だから頂いた桁違いのお金は、有名税として還元した方がいいと思っている。

そして、影響力のある人たちがそういった行動をとることで、少しずつ変わっていけばいいと思う。

 

お金がないから寄付できないというのは、全くの嘘だと思う。

実際、町の募金箱にお金を入れる人は、お金持ちの人たちではないだろう。

自分の稼ぎに見合った金額を寄付するのがいいと思う。

そして、自分の気持ちに見合った金額を。

 

お金は出せないけど、何か手助けをしたい人は、ボランティア活動に被災地に行っていることだろう。

私は、手指がかなり厳しい状態なので、ボランティア活動では役に立たない方の人間なので、

少しのお金を寄付することにしている。

 

昨年は、生まれて初めて政治団体にも寄付をした。

自分たちのために一生懸命働いてくれる人(この場合、山本太郎)に

やはり無力の私が出来ることは、まず寄付だった。

次の衆議院議員選挙の時は、今の国から戻って来た10万円のウチから

それなりの額をれいわ新選組に寄付するつもりだ。

これは、考えただけでちょっとウキウキする。

 

世界中で貧富の差が広がり、

自然災害が増え、

寄付金を募るような事態が多くて、なかなか実行には移せないけれど、

心が動いた時に、少額でも寄付するといい。

確実に心の中に何かが広がる。

 

上記のようにウキウキする寄付だって存在するのだから。

 

完(最後まで読んでくださった方ありがとうございました)

募金より以前から、義援金は送るようになった。

きっかけは、1997年、阪神淡路大震災。

衝撃的な映像を見せられた。

あれらの映像を見て、普通でいられる人はなかなかいないと思う。

「義援金」という言葉は、その時から私の語呂に加わったが、

一体いつから使われている言葉なのだろうか?

 

何処に送ったらいいかよく分からなかったが、

郵便局に行くと義援金を送るための振り込み用紙があったように思う。

日本赤十字社とかに送ったと思う。

 

その後、大きな地震災害が起きると、義援金を送っていた。

5000円とか、その程度。

 

そして東日本大震災が起きた。

最初の津波の映像を見た時、これはただ事ではないぞと思った。

5000円でもないと感じた。

 

ネットバンキングを利用して、とりあえずすぐに2万円送った。

そしたら後日、その銀行の担当の人から、お礼を言われた。

これは私には衝撃的だった!

いろんな機関で義援金や寄付を集めて被災地に送るわけだが、

そうか、私がやったことは、銀行からお礼を言われるようなことだったのか…と気づいた。

 

それからは、どこに義援金を送るべきかしっかり考えて送るようになった。

岩手県宛なのか、それとも市町村宛なのか、

災害があったことでとても印象に残ったいくつかの被災地、

それも小さな市にあてて、やはり5000円ずつ送っていた。

それでも災害も私の気も治らず、どうしたものかと考えていた時に出会ったのが、

地元の小さな企業に投資するという方法だった。

津波で被災した小売店や中小企業

銀行が貸してくれないような小さな企業

私が投資したのは、1万円投資すると、半分の5千円は寄付で、

残りの5千円は、10年間貸し出す投資というシステム。

うまくすれば利息がつくし、うまくいかないと元本割れする。

投資だから当たり前。

でも、その代わり、投資家特典という商品が届く。

はっきりいってこれにかなり惹かれた。

 

震災から一年後、小さなわかめを作っている会社から

投資家特典という名の「わかめ」が届いたときには感動して涙が溢れた。

 

つまり寄付した相手と繋がりが感じられる。

日本赤十字や銀行やスーパーの義援金箱に入れるよりも、

ひとつひとつの市町村に送るよりも、

もっと身近に感じられる義援金の送り方だった。

 

東日本大震災の時は、私の年収の半分くらいは寄付しようと、

いろいろ探して、いろいろな形の寄付や投資をした。

 

しかし、その後、そう多分3年前の西日本豪雨災害あたりから、

日本中のあちこちで、地震、河川氾濫、土砂崩れ、洪水などなど

自然災害の被害が立て続けに起き、

それまでのように5000円寄付するようなことはできなくなってしまった。

 

続く

以前も書いたが、プラスチックの削減のためにどうしてレジ袋ばかりが目の敵にされているのか?

 

問題は、レジ袋ではないし、レジ袋を有料にして解決する問題ではない。

 

レジ袋は、その後、最低でもゴミ袋になっている家が多いと思う。

つまりゴミ袋がなくなるから、ゴミ袋を買わなければならなくなる。

有料の袋を買って、捨てる。何も変わらない。

 

スーパーマーケットのレジ袋をすべて燃やせるプラスチック製に統一して有料化すればまだいい。

 

レジ袋は、最低でもゴミ袋として役に立っているのだ。

それよりも悪質なのは、肉や魚が入っているプラスチックの皿

刺身や寿司が乗っている豪華に見えるプラスチックの皿

惣菜を入れて持ち帰るプラスチックの皿。

どれも、スーパーで購入して、家に帰って皿に盛ったら、資源ゴミで出すシロモノ。

殆ど再利用していない。

 

そもそもスーパーから帰ると、あっという間にそういったプラスチックゴミが発生する。

これは一般の主婦には全くの無駄。

帰って来て、パックを開けて、サランラップとプラスチックの皿を分けて、

肉や魚は小分けにしてサランラップで包んで冷凍庫へ。

ああ、子どもの頃のお肉屋さんのように油紙に包んでくれたらゴミも少なくてどんなに楽だか…

そう考える主婦は少なくないと思う。

 

それなのに、その豪華であまり役に立たないプラスチックの皿は、そのままで

レジ袋ばかりが言われ続けて有料化していった。

 

理由は、予測するに、企業側の都合だろう。

レジ袋を有料化しても売り上げには影響しないが、

寿司のパックが油紙になるときっと売り上げが落ちる。であろうということで企業が嫌がるのだろう。

 

いつもそう。

いつも企業の顔色を伺ってこういった対策を考えるから、正しい方向に向かない。

誰の顔色を見ればいいか…?

決まっている。

地球のことを考えているのだから、地球の顔色を見ればいい。

そうすれば正しい答えが自ずと出てくる。

 

プラスチックは有料化するのではなく、なくすことが目的(減らす)

プラスチックでなければならないものだけに許可を出し、

それ以外のものを以前の形に戻していく。

 

一部の企業は、燃やせる素材で優れた商品を作ってくれている。

しかし、今はまだ高かったりする。

そういったものが安価になるまで国は協力すべきだ。

 

子どもの頃は、スーパーマーケットは紙袋だった。

レジの次に、サッカーと呼ばれる紙袋に商品を詰め込むバイトがいた。

どうして全てがプラスチックの袋でなければならなくなったのだろうか?

 

そんな時、どうしても思い出す法案がある。その法案の審議の過程。

あれは、家電製品リサイクル法……かなぁ?

名前違うかもしれないんですけど🙇‍♀️

 

冷蔵庫やエアコン、テレビなどを廃棄処分にする時の料金をどこに乗せるかって問題。

つまり私たち消費者が、

冷蔵庫を捨てる時にお金を払うか?それとも購入した時に先に払っておくか?

 

購入した時に決まってるじゃん!!

とその時の私はもちろん思った。

購入する時に、廃棄代金を支払ってあれば、不法投棄する人は発生しない。

つまりそれが自然のためにやるべきこと。

そもそも捨てる時にお金払うの嫌じゃない!

 

でも、結局、メーカーの反対で、購入代金に乗せる案はなくなった。

購入代金に上乗せしたら、冷蔵庫が売れなくなるというメーカー本意の意見。

結局、地球のことを考えているフリして、重要なところがどこかへ行ってしまう。

 

いつも、そう。

誰も真剣に地球のことを考えないから(一部の人は考えているしやっています)

もう手遅れというところまで来てしまった。

 

私は殆どペットボトルの飲料を購入しないが、

それでもペットのゴミはそこそこ出る。

例えば調味料が殆どペットのゴミになる。

個人でできることには限りがあるが、

それでも一人一人が、プラごみになるものを買わないように心がけることからやっていって、

地球の寿命を少しでも延命させたいものだ。

 

 

 

 

大人になった私が初めて路上で募金をするのは、もっとずーっと先、

多分、今から15年くらい前のこと。

当時私は荻窪に住んでいた。

荻窪駅を歩いていると、時々、募金活動をしている人を見かける。

いや、結構見かける。

 

ある日、私の耳に飛び込んできた声があった。

ある年配の女性の声だった。

募金箱を持ったその人は、

小児病棟に学校を作るための資金を募っていた。

その声に引き込まれて私は、子どもの頃から信じていなかった募金をした。

 

そのことがあってから、私は自分の感覚に頼るようにした。

内容は勿論大事だけれど、

それよりも、説得力のある声

私が募金したくなればすればいいのだと考えるようになった。

 

それでも、募金しよう!と感じても出来ないことは多々ある。

 

時々、子どもたちや学生たちが数人で募金を募っていることがある。

学生たちは勇気がないからなのか?それが効果的だと考えているのか

みんなで声を揃えて「お願いします!」と大声を張り上げている。

 

千円以上のまとまったお金を募金する気持ちがあるのならばともかく、

私は、いろんな場所で募金したくなるので、お財布に入っている小銭を全部とか

募金箱に入れるようにしている。

つまりそれは、700円のこともあるけれど、17円のこともあるわけだ。

何処かへ向かっている途中で、募金をしようと思っても、

わざわざバックパックを背中から下ろして財布を出し、

そこから、たった17円差し出すのには、勇気がいる。

 

更に、数人の学生たちに見つめられていたりすると大変だ。

更に、それっぽっちの小銭を投入したがために

学生たちの揃った大声で「ありがとうございました!」とか言われる恐れがあるのだ。

それで立ち止まる勇気がなかったりする。

小銭がポケットの中にでも入っていればサラッと格好良くできるのだろうが…

 

それにしても、人に気付いて貰うためにも大声で募金の内容を説明したり

「お願いします!」と大声で言うのは、ありだと思うが、

募金してくれた人に対しても同じような大声で「ありがとうございました!」

というのはやめたほうがいい。

そもそも距離感があっていない。

すぐ目の前まで行って、小さなお金をボックスに投入した人には、

その距離感で、その人に届く程度の音量で言えば良い。

 

そう言う意味でも、最初荻窪駅で遭遇した老婦人の喋りは

こちらに伝わって来たのだ。

彼女は感情を持って自分の言葉で喋っていた。

大きな声ではなかったので、目立ってはいなかったが、

私には響いた。

品のある女性だった。

 

30年くらい前、1年半ニューヨークに住むという夢を叶えた。

ニューヨークには、路上に、地下鉄の中に、物乞いがたくさんいた。

みんなコーヒーの紙コップを前に置いて座っている。

地下鉄に乗ると、車両の中を、紙コップを持った人が順次歩いて来た。

体の不自由な人などの場合は、一車両を前から後ろに移動する間、

コップの中にお金が落ちる音が途切れることがない。

そのくらいアメリカ人は普通に寄付をする。

 

日本の路上から、物乞いがいなくなったのはいつからなのだろう?

私が子どもの頃は、戦争で体が不自由になった人が、

包帯を巻いた体で、日の丸の旗を掲げ、立ったり座ったりしていた。

戦争で傷ついた人が、何故か物乞いになっていた。

今なら、それがどれほど酷いことかわかり、こみ上げてくるものがあるが、

当時は、ただ単に、ちょっと怖ろしい光景で、直視してはいけないものと感じていた。

 

都会にはホームレスはたくさんいるが、彼らは物乞いをしない。

いつからか、日本からは、物乞いをする人が路上から消え、

アメリカと違って、路上で寄付をするということが全くなくなった。

 

当時、アメリカにいた時は、そのアメリカ人の暮らしの中で普通に寄付するという状態を、

ただ、不思議に見ていただけで、

その時も私は一切寄付とかしたことはないのだけれど、

それ以降、日本人との違いについて、何度も何度も考えるのだ。

どうしてなんだろう?

 

宗教的なことなのかもしれない。

困っている人を助けることは、良いことだし、出来るならばすればいいことは、

当たり前で、日本人だってやっている人は多いはずなのに、

何故、こうも募金や寄付に対する行動に違いがあるのだろうか?

 

例えば、災害が起こると、アメリカのスポーツ選手は必ずと言っていいほど、

誰かが多額の寄付をする。

NFL MLB NBA NHLという4大プロスポーツ選手は、

勿論その桁違いな収入のせいもあるだろうが(実は収入と寄付は全く関係ないですね)

誰かが手をあげて、計算も出来ないような金額の寄付を申し出る。

それが当たり前のこととして起き、受け止められている。

 

どうして日本の有名人は、それをしないのだろう?と

その都度、私は感じて生きている。

これが文化の差なのか、日本人が世界で最も寄付をしないと言われるような現実なのだ。

 

つづく

 

ユニクロの柳井社長が、100億円寄付したことがニュースになった。

彼も言っていたが、この国の人は、寄付、ということをしない。

世界一寄付をしない国民とも言われているらしい。

そこで、私の寄付について書くことにした。

初回は、私が寄付(募金)をしなかった理由。

 

私は、20年くらい前まで、街頭募金を一切しなかった。

それには理由があった。

 

中学三年生の時、文化祭で喫茶店をやった。

その収益を、寄付することにした。

何故か、その時、我がクラスではバングラディッシュが流行っていた。

流行っていたという言葉は適切ではないが、確かに流行っていたのだ。

理由は思い出せないが、多分、当時、世界で最も貧しい国のような

何かそういった映像を見て、クラスで何かというとバングラディッシュが話に出て来ていたのだ。

そこで、クラス全員が、文化祭の収益をバングラディッシュの貧しい子どもたちに寄付するということで合意した。

中学の文化祭の収益なんて、大したことはない。

百円でコーヒーを売ったとして、1万円を超えていれば良い方ではないかと思う。

それを寄付するために、クラスの代表として、私と佐藤さんともう一人(何故か佐藤さんだけ思い出す)

お金を持ってバングラディッシュ大使館に出向いた。

 

ちょこんと腰をかけた中学生の私たちが待っている間、

大使館にいた年配の女性は穏やかに話をしてきた。

「こうしてお金を寄付してくれても、本当に貧しい人たちには届かないんですよ」

私は、これを寄付しても無駄なのだと理解したのだと思う。

お金は、国の偉い人に届けられ、武器とかに変わってしまうのかしら?と。

勿論、クラスのお金はそこに置いて来たのだけれど、

それ以降、私は街で募金をお願いする人々と、その募金箱を見るたびに、

募金箱に集まったお金は何処にいくんだろう?

望まれた場所には届かないのだと思うようになった。

つまりその善意を信じることが出来なくなった。

 

その後、いつだったか、募金されたお金が、実は個人の収益になり、

街頭で喧伝されている場所に正しく届けられないというような事件が起きたりもした。

それで、私は募金を一切信じなくなった。

 

とりあえず29歳まで私は募金というものを拒絶していた。

寄付なんて勿論したこともなかった。

でも30歳の時、アメリカのニューヨークに住んで、その感覚の違いを暮らしの中でまざまざと見ることになるのだ。

 

(第2回 ニューヨーク生活にいつか続く)

昨日読み終えた本 「旅猫リポート」

図書館で6冊本を借りて、一番最初に開いたけれど、その日は第一章しか読まず、

数日かけて読み終えた。

一章を読んだ時は、それほど面白くもなく、つまらなくもなく、読みやすい本だという印象。

主役の猫 ナナ が主格で進んでいくのだが、この雄猫の言葉遣いがあまり好きになれなかった。

 

数日後、第二章を読んだら、話が続いていることにまず気づき

長編小説好きの私は嬉しかった。

 

数日後、第三章、そして第四章。

 

ナナの喋り方はあまり好きではないが、もう一人の主役の人間 悟は、最初からかなり気に入っていた。

そしてこの頃から、結末の予想がついてきてしまった。

 

だから、最後は、少し時間を作り、心して読んだ。

 

泣いた泣いた。

 

映画と違って、本なので、泣いても文字を読み続けなければならない。

そのせいか、すっかり目が痛くなった。

 

猫好きが、泣きたい時に読むのにオススメの本です。