**これまでの話**

父が脳出血で深夜から明け方にかけ、救急搬送された。
コオは妹・莉子に頼まれた入院手続きを済ませ、意識のない父に話かけながら短い面会時間を終えた.長い間断絶していた実家だったが、今は感情に蓋をして、娘らしいことをしようと考えるコオ。

 ひと時、家族のもとに戻り日常に戻ったコオは、父に万が一のことが起こることを考え、今すべき事のリストをFAXにして莉子に送り、長い1日を終えた。、

 

*******************************************************

 

 莉子は数年前まで大手楽器店の開くピアノ教室の講師をしていた。それを辞めたというのをコオが知ったのは、わずか数ヶ月前のことだ。もう、2,3年になるらしい。

 20代中盤でピアノ講師になったはずだが、20年は務めていたはずの講師を辞めた理由はよくわからない。実家を完全に縁を切った状態でいたコオは、細かい話は主に夫の遼吾からの又聞きでしか知らないのだ。母が、脳梗塞で倒れたのは、コオが腰の手術をしたのと同じ年だったと記憶しているから、彼女がやめたのは、少なくとも母が脳梗塞で倒れた数年後になるはずだ。 

 ただ、母が四か月前になくなったときに、聞いたところでは、楽器店から、莉子が独立してピアノ教室をひらき、生徒を引き抜こうとしている、といういわれのない疑いをかけられ、辞めざるを得なかった、というような内容だったように思う。それはひどく奇妙な話で、コオには正直理解不能だった。しかし、相談されたわけでもないし、コオは、莉子の仕事人生は、自分には関わりないと割り切っていた。職種も、仕事への向き合い方も。コオと莉子は違いすぎるから、相互理解など求めるだけ無駄だ。

 

 今思うと、それは後にコオを大きな嵐に巻き込んでいく、莉子の病気の前兆だったのかもしれない。もっと前に実は発症していて、それが莉子が辞めることになった直接の原因だった可能性は、高い。退職理由そのもがひどく奇妙だったのは、それが彼女の被害妄想からくるものだったのかも知れないのだ。でも、それがわかったからと言って、コオに何ができたのだろう?父も母も、莉子が病気だとは微塵も思っていなかったのだ。

 

 いずれにしても、この時点でコオがわかっていたのは、彼女は、もともと大した収入のないピアノ講師を辞めて、今はほそぼそと、ショッピングモールに入っているカフェでアルバイトをしているいわば、フリーターであること。そして、なぜか、彼女は、ピアノを辞めてからパイプオルガンを学んでいる、ということだけだ。もともと実家ぐらしでなければ、やっていけないような収入しかなかった莉子は、今はさらに少ない、小遣い程度しか稼いでいないはずだ。


 一方、決して裕福ではないが、仮にも共働きだから、子供をごく安い私立になら通わせられる・・・それが現在の遼吾とコオ、そして二人の子供の家族4人の経済状態だ。父の病院代・介護費用の一部は、母がコオの名義で持っていたお金を当てよう、とコオは考えていた。もともと、縁を切っていたつもりだったのに、母が亡くなったときに父が持ってきた。コオの名義になったいるその通帳には、そこそこまとまったお金が入っていた。コオはそれを使うことはなく、一切合切、貯金した。これからは父のためにそれを使うことになるだろう。そもそも、もらおうなんて思っていなかったお金だ。

 

**これまでの話**

父が脳出血で深夜から明け方にかけ、救急搬送された。
コオは妹・莉子に頼まれた入院手続きを終え病院で、意識のない父に話かけながら短い面会時間を終えた.

 長い間断絶していた実家だったが、今は感情に蓋をして、娘らしいことをしようと考えるコオ。

 自分の家族のもとに帰って、ひと時、日常に戻った。

 コオは、妹・莉子のメールアドレスを知らないので、連絡のためFAXを送ることにした

 

*******************************************************

 

 

 ともかく、コオは莉子のメールアドレスも知らないから、確実に連絡するのならFAXが一番だとその時は思っていた。
 

『考えたくはないですが、父の様態を考えると、どうしてもやって置かなければならないことがあります。以下の点をチェックしてもらえますか?
1. 父の銀行口座。:通帳・カード・はんこのチェック。ありますか?
2. お母さんが亡くなったときに入ったM川セレモニーの互助会の会費について。今も払い続けてるのか、あの時限りだったのか、チェック
3. 医療保険、入っているか知っていますか?入っていれば、連絡をしなければいけません…。』

 


 更にいくつかの項目を足して、読み直した。

 

(最初の部分で、心配してるんだ、ってわかってくれるといいけど)

コオは思った。

 

 最初に、<これは考えたくはないけど、必要なことなのだ>、と伝えたつもりだ。

 莉子は感情の生き物だ。事務的すぎる、と狂ったようにならないのを祈るばかりだ。誰だって、葬式の話なんて考えたいわけじゃない、それでも考えなければならないのだ。いつかは来ることで、今は、もしかしたらそれが迫っているのかも知れないのだから。葬式は、母のときと同じにやるのか、もし互助会という会費のようなものを、母のときに頼んだ葬儀屋に払い続けているのなら多分、そうなるだろう。そうでなければ、新たにどこでどうやるのかを考えなければならない。

 コオは遼太の高校のPTAで知り合った友人を思い浮かべた。彼女は葬儀所で働いている。色々教えてもらえるだろう。後で連絡を取らなければ。今のうちにいくつか、他の資料もあたってみたほうがいい。こういうことは、ドライにできるうちに片付けてしまわなければならない。

 ずっと昔、父の買ってくれたいちご大福の味が涙と一緒に込みあ上げてくる様になる前に。
 

  コオは、FAXを送信した。
 すべての始まりの日は、こうして終わった。
 

 

**これまでの話**

父が脳出血で深夜から明け方にかけ、救急搬送された。
コオは妹・莉子とともに一度は病院に向かったが、父は意識がなく、入院手続きなどの説明だけ受けた二人は病院からそれぞれの自宅に帰宅した。莉子が自分がやるといった入院手続きを、かわりにやってくれという電話をうけて、コオは病院で、意識のない父に会う。

父に話かけながら、コオは10年ほど前を思い返し、短い面会時間を終えた.

 長い間断絶していた実家だったが、今は感情に蓋をして、娘らしいことをしようと考えるコオだが、自分の家族のもとに帰って、ひと時、日常に戻っていた。

 遅い夕飯ののち、コオは莉子にFAXを送ることにする。

 

*************************************************************************

 

 コオは、初めて携帯を持つようになったとき母にメールアドレスを教えた。

 母も自身の携帯電話から一度だけテストでメールをしてきたことがあったような記憶がある。

 でも、それが最初で最後だった。

 母は携帯電話を音声通話には使っていたようだが、誰かにメールを送ったりすることがその後あったのかどうかわからない。コオの記憶する限り、コオの携帯電話アドレス帳に<母>という文字があったことはなかった。莉子や、父のものもなかった。コオは、同世代の中では(特に女性の中では)、仕事柄もあって、間違いなくパソコンを含む電気製品にとんでもなく強かったし、その便利さを余すことなく享受していた。しかし父母の世代には、それは難しいことも理解していた。それでも、娘息子や孫たちと連絡を取りたい、という一心で、コオの友人達の父母が携帯電話やe-mailを使いこなすようになった、という話を聞くたびに、コオは胸苦しくなった。自分は、連絡を取りたい娘ではないのだ、自分にはそういう価値がないのだという思いに苦しめられた。

 

 コオは、ただ母と、メールのやり取りをしたかった。

 それはとうとうかなうことはなかったのだけれど。


 今思うと奇妙だったのは、莉子のアドレスもコオは知らなかったということだ。いくらなんでも、コオの世代は少なくともE-MAIL、携帯電話かスマートホンはマストアイテムだ。持っていないわけはない。確かに、コオのレベルまでパソコンを使えない女性は多かったが、代わりに彼らは日常的にスマートホンを使う。だから莉子も持っていたに違いない。それでもコオはあまり気にしていなかった。自分が機械に強いのは、仕事柄だし、自分の妹ではあったけれど、ともかく莉子は自分とは違うのだ。

 コオが好きなもの、欲しい物、必要なもの。それらは莉子には無価値か、あるいは最初からふんだんにあって、欲しがる必要さえないのだ。つまり、莉子にとって、コオのメールアドレスは無価値で必要はなかったのかもしれない。逆に、コオにとっても莉子のメールアドレスは特に必要なかったのだと今、コオはあらためて思う。

**これまでの話**

父が脳出血で深夜から明け方にかけ、救急搬送された。
コオは妹・莉子に頼まれ入院続きを終え、コオは意識のない父に話かけながら、短い面会時間を終えた.
 長い間断絶していた実家だったが、今は感情に蓋をして、娘らしいことをしようと考えるコオだが、自分の家族のもとに帰って、ひと時、日常に戻っていた。

 

*************************************************************************

 次男の健弥が塾から帰ってきたのは、ほとんど夫・遼吾と同時だった。

 遅い夕飯を済ませた後、コオは、莉子にFAXを送ることにした。莉子が携帯電話のメールアドレスを持っているのかどうかすら、コオは知らない。携帯電話は持っているようだが、番号も知らないし、知りたくもなかった。

 莉子からの連絡はいつも電話で、コオはメールアドレスを聞かれたこともなかった。

 

 少し引っかかるのは、車で明け方病院から彼女を父の家まで送る途中、『連絡は電話にしてくれ』と言われたような気がする。『FAXは嫌い』と言ったような…?


  (FAXが嫌いってなんだよ全く。しっかり記録も残るんだから。)

 

 コオはブツブツと自分に言い聞かせながら、FAXで読みやすいように少し太めのサインペンで、A4の用紙に原稿を書いた。内容が分かり難くないか、遼吾にチェックしてもらう。

  FAXにする理由はもう一つあった。

  もともと、莉子の話は分かり難い、とコオは思っていた。

 装飾が多くて、結論がわかりにくいのだ。何が一つ聞くと、それに対する答えになかなかたどり着かない。

 

 例えばこんなふうだ。『Kちゃんと出かける予定どうなってる?』と聞いたとする。

 コオとしては月曜日の7時の予定、でも忙しいみたいだから変更の可能性あり、というような答えを期待している。ところが莉子は、周辺情報を伝えるところから入る。 

 

 『Kちゃんはね、忙しくって、それで連絡何回も何回も取ったんだけどなかなか通じなくて、電話もね、Kちゃんが出られるのって、ほら、レッスンが終わってからの時間じゃない?いや、私もね、それわかってるから・・・・』

 

 コオは途中で嫌になり、

 

『だから、行くの行かないの?行くなら何曜日の何時!?』

 

と声を荒げる事になる。
 確かに自分はせっかちかもしれないけど、あの話し方は辟易する。

 文字にすれば箇条書きになる。莉子は何度でも読み直して、自分のやるべきことをチェックすれば良い。余計な周辺情報はその時点である程度落ちていくだろう。手間は口頭でやりとりするより、ずっと減るはずだ。それに記録としても残せる。…莉子がFAXで返信してくれば、なおいい。コオは、父のことはすべて記録していくつもりだった。


 結局これらのコオの思惑は、奇妙に歪められて解釈されることになるのだが、このときはコオには想像すらできなかった。

 

 

 

 

**これまでの話**

父が脳出血で深夜から明け方にかけ、救急搬送された。
コオは妹・莉子とともに一度は病院に向かったが、父は意識がなく、入院手続きなどの説明だけ受けた二人は病院からそれぞれの自宅に帰宅した。莉子が自分がやるといった入院手続きを、かわりにやってくれという電話をうけて、コオは病院で、意識のない父に会う。

父に話かけながら、コオは10年ほど前を思い返し、短い面会時間を終えた

 

*******************************************

 

 病院から戻って、遅い昼ご飯を食べると、すっかり疲れ切ったコオは眠ってしまった。

 莉子のかすかな違和感が、ずっと流れていた。自分がやるといった入院手続きを、急にコオにやってくれといったこと。しかもその理由がレッスンだったこと。お願いと電話を切ってから2時間も待たされたこと。

 (父が倒れた時間は私に電話かけてくるより多分結構前だろうから、うっかり寝ちゃったりしたのかな。)

 眠りにおちながらコオは切れ切れに思った。

 莉子は、人を待たせても・・・友達とうまくやっていける。でもコオはちがう・・・コオは小中学の9年間はいつもトップクラスの成績だったけれど、それは、あまり価値がない…だって莉子ちゃんは・・・お友達がいっぱいいて・・・お姉ちゃんは友達とうまくやれない・・・だから、莉子は、私を待たせても、遅くなっても、いいんだよね・・・?お母さん・・・お姉ちゃんだから・・・我慢しなさい・・・

 

 夕方まで眠っていた。

 

 次男の健弥は、学校から帰るとそのまま塾にでかけ、コオは遼太を車で迎えにいった。

 今日は何を夕飯にしようか。寒いし、ひどく長い1日だった。手抜きで、鍋にしてしまおうか。子どもたちは、何がいい?と聞いても、めったに答えてくれない。それは、満足しているからか、諦めているのかどちらだろう。

 コオは、デパートなどに服を見に行くのはむしろ苦手で、できることなら、全部ネットで済ませてしまいたい方だが、息子たちと食料品の買い物に行くはとても好きだ。もう今はそんなことはしてくれなくなったけれど、買い物かごの乗ったカートを押していくと、幼かった健弥など、自分の食べたいものをポイポイかごに投げ込もうとする。それを入れられないようにカートを遠ざけたり、素早く通り過ぎたりする。笑顔が自然にこぼれてしまう、そんなひとときがコオはとても好きだった。


「遼太、夕飯の買い物。荷物持ち、して。」

「ええー??、制服だぜ俺。」

「いいしょや、親が一緒だもの。」


文句を言いながらも、遼太は、しっかり荷物持ちをしてくれる。今ではコオの身長をを20センチ近く追い越してしまった遼太は、もしかしたらもう一緒に暮らせるのはそう長くないのだ、とコオはすこし寂しく、でも誇らしく思った。