**これまでの話**
父が脳出血で深夜から明け方にかけ、救急搬送された。
コオは妹・莉子に頼まれた入院手続きを済ませ、意識のない父に話かけながら短い面会時間を終えた.長い間断絶していた実家だったが、今は感情に蓋をして、娘らしいことをしようと考えるコオ。
ひと時、家族のもとに戻り日常に戻ったコオは、父に万が一のことが起こることを考え、今すべき事のリストをFAXにして莉子に送り、長い1日を終えた。、
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莉子は数年前まで大手楽器店の開くピアノ教室の講師をしていた。それを辞めたというのをコオが知ったのは、わずか数ヶ月前のことだ。もう、2,3年になるらしい。
20代中盤でピアノ講師になったはずだが、20年は務めていたはずの講師を辞めた理由はよくわからない。実家を完全に縁を切った状態でいたコオは、細かい話は主に夫の遼吾からの又聞きでしか知らないのだ。母が、脳梗塞で倒れたのは、コオが腰の手術をしたのと同じ年だったと記憶しているから、彼女がやめたのは、少なくとも母が脳梗塞で倒れた数年後になるはずだ。
ただ、母が四か月前になくなったときに、聞いたところでは、楽器店から、莉子が独立してピアノ教室をひらき、生徒を引き抜こうとしている、といういわれのない疑いをかけられ、辞めざるを得なかった、というような内容だったように思う。それはひどく奇妙な話で、コオには正直理解不能だった。しかし、相談されたわけでもないし、コオは、莉子の仕事人生は、自分には関わりないと割り切っていた。職種も、仕事への向き合い方も。コオと莉子は違いすぎるから、相互理解など求めるだけ無駄だ。
今思うと、それは後にコオを大きな嵐に巻き込んでいく、莉子の病気の前兆だったのかもしれない。もっと前に実は発症していて、それが莉子が辞めることになった直接の原因だった可能性は、高い。退職理由そのもがひどく奇妙だったのは、それが彼女の被害妄想からくるものだったのかも知れないのだ。でも、それがわかったからと言って、コオに何ができたのだろう?父も母も、莉子が病気だとは微塵も思っていなかったのだ。
いずれにしても、この時点でコオがわかっていたのは、彼女は、もともと大した収入のないピアノ講師を辞めて、今はほそぼそと、ショッピングモールに入っているカフェでアルバイトをしているいわば、フリーターであること。そして、なぜか、彼女は、ピアノを辞めてからパイプオルガンを学んでいる、ということだけだ。もともと実家ぐらしでなければ、やっていけないような収入しかなかった莉子は、今はさらに少ない、小遣い程度しか稼いでいないはずだ。
一方、決して裕福ではないが、仮にも共働きだから、子供をごく安い私立になら通わせられる・・・それが現在の遼吾とコオ、そして二人の子供の家族4人の経済状態だ。父の病院代・介護費用の一部は、母がコオの名義で持っていたお金を当てよう、とコオは考えていた。もともと、縁を切っていたつもりだったのに、母が亡くなったときに父が持ってきた。コオの名義になったいるその通帳には、そこそこまとまったお金が入っていた。コオはそれを使うことはなく、一切合切、貯金した。これからは父のためにそれを使うことになるだろう。そもそも、もらおうなんて思っていなかったお金だ。
