八瀬地区の歴史を伝える企画展 | がいちのぶろぐ

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今夜からは台風2号が進路を北東に変え、北上を始める影響を受けて、梅雨前線に向かって南の湿った空気が流れ込み、明日にかけて京都府全域が大雨という予報が出ている。

 

土曜日になれば回復してくると思われるが、とりあえず明日は、どこにも出掛けられそうにないほどの、荒れた天気になるという予報だ。

 

そんなことだから、今日の午前中に京都市歴史資料館で行われている「八瀬の歴史をまもり、伝える」という企画展に行ってきた。

 

この歴史資料館は、京都御苑(御所)の東側の寺町通りに面していて、すぐ南には同志社創立者の新島襄先生の旧邸がある。

 

 

 

歴史資料館に行こうと思って歩いていたら、「新島襄旧邸 特別公開」と書かれていたので、とりあえず入ってみた。

 

先年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」が放映されていた頃は、多くの観光客がここを訪れていた。それにしても新島襄旧邸は、明治期には珍しい洋館風の建物。

 

 

 

だから洋間風の応接室があったり、当時は珍しい床張りの台所があったりもする。明治の半ばごろと言えば、台所は土間になっているのが普通だったから。

 

 

 

ところが、そんな洋館風の建物のひと間が茶室となっていて、「寂中菴」という扁額まで掛かっているあたりが、〝明治期の知識人〟の住居らしいと言えるだろう。

 

 

 

そんなことで、ほんのちょっとここに寄り道をしてから、すぐ北側にある京都市歴史資料館に向かった。この資料館も1982年に開設されてから、すでに40年余りが経った。

 

 

 

 

展示室の中は撮影禁止なので、展示されている品々は写真で伝えられないが、今回の企画展示はいわば「八瀬地区の歴史展」である。

 

 

 

京都市左京区の比叡山の西麓、高野川沿いの狭い谷あいに集落をなしている八瀬地区。ここは歴史的に「八瀬童子」と言われて、天皇の大葬や大礼に輿丁(よちょう)を務めてきた。

 

 

 

 

つまり、長く天皇のご遺体の輿や、即位の大礼の際の輿の、担い手を務めてきた歴史的な経緯から、御用を果たすと同時に、地区は租税免除地だった歴史も持っている。

 

この租税免除となった件については、そもそもの源流としての後醍醐天皇の綸旨に始まり、それ以後の天皇の綸旨や、織田信長の朱印状等が展示されていた。

 

 

 

このように八瀬地区は比叡山麓にあって、延暦寺の御用を務めたり、皇室とも縁が深かったりしたために、御用を務める見返りとして租税免除となっていた地区なのだ。

 

ところが、江戸時代に八瀬地区と延暦寺の間で、比叡山一帯の入会権(柴などを得る権利)を巡って対立が起こり、京都奉行ではらちが明かないため、住民は江戸まで訴えて出た。

 

そこから年単位での訴訟となり、江戸幕府の老中は延暦寺側の顔も立てつつ、実質的に八瀬側が後醍醐天皇の時代から続く租税免除を認められる(赦免地)という裁定を下した。

 

このいわば〝実質勝訴〟という裁可状も展示されていた。その時の老中が秋元但馬守喬知で、八瀬の住民はこの秋元に感謝して神社に祀り、今日まで「赦免地踊り」を奉納している。

 

 

 

「赦免地踊り」は頭に「切子燈籠」を載せた少年の踊り手が、夜に頭上の燈籠の灯を揺らしながら秋元神社へ向かい、神社で踊りを奉納するというお祭りである。

 

まさに数百年の時を超えて、今もなお秋元但馬守に感謝を捧げている、ということになる。今日はこの「切子燈籠」の実物が展示され、「赦免地踊り」の映像も流されていた。

 

 

 

さらに明治天皇の大葬の時の写真や、昭和天皇の即位の大礼で着用した、輿丁の装束も展示されていた。展示物の点数こそ多くないけれど、実に凝った企画展で充実した内容だった。