本家か元祖か、和泉式部も股裂き状態で | がいちのぶろぐ

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昨日、〝吉田山横断〟の散歩に出掛けたことをブログに書いた。ここでちょっと面白い問題と出会ったので、それを書き留めておきたい。

 

昨日は吉田山にある吉田神社から、真如堂・眞正極楽寺の横を通って、吉田山の東側の錦林車庫まで歩いたが、真如堂の周囲には小さなお寺がいくつか固まって建っていた。

 

 

 

その中の一つに「東北院」というお寺があり、お寺の脇のお堂は「弁財天」をお祀りしていた。さらにお寺の前には、「京都謡曲史跡保存会」の名称で駒札が建てられていた。

 

 

 

 

この駒札によれば、「藤原道長の法成寺の東北の地」に建っていたから「東北院」という名称で、この「東北院」には道長の娘で、一条天皇の中宮の上東門院彰子が住んでいたという。

 

 

 

しかもこの「東北院」の中にあった小堂には、「彰子に仕える和泉式部が住んでいた。それが軒端梅である」と書かれている。

 

ただしこの現在の「東北院」は、江戸時代の「元禄年間に、この地に再興されたもの」であり、本堂前の軒端の梅は謡曲『東北』にちなんで植えられたもの」だと説明されている。

 

 

 

藤原道長の娘の、上東門院彰子に仕えていたのだから、和泉式部が生きていた時代というのは今からおよそ1千年前のことになる。

 

だから、今存在している「軒端の梅」は老木だけど、いくら古くてもお寺が再興された元禄時代から後に、謡曲「東北」にちなんで植えられた、と駒札でも言っている。

 

 

 

それでも「東北院」というお寺の掲示板を見る限り、ここで授与される御朱印は、和泉式部の和歌が流麗な文字で書かれたものだと思われる。

 

 

 

まずはこのストーリーというか、お寺と和泉式部に関する由来を覚えておいてほしい。

 

さて、京都の繁華街に「新京極通り」という道がある。河原町通りの1筋西になる通りで、四条から三条までの500mあまりの間を、明治時代になって新たに開かれた通りだ。

 

 

 

それでも来年は、この新京極通りができてから150年になるというので、新京極商店街でも力を入れてPRに励んでいる。

 

 

 

その「新京極通り」のちょうど中ほどに、「誠心院」というお寺がある。入口に架けられている門札には「東北寺和泉式部 誠心院」の文字が見え、並んだ幟にも「和泉式部」の文字。

 

 

 

そして駒札は、「平安時代の代表的な女流歌人、和泉式部を初代住職とする」という言葉で始まっている。

 

 

 

さらに、「藤原道長が娘の上東門院(藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当寺の起こりとされる」と続いている。

 

駒札の終わりの方は、「和泉式部の墓と伝える宝篋印塔及び歌碑が建てられている」という言葉で締めくくられている。

 

 

 

ただし、お寺がここに存在していることについて、駒札では「天正年間、豊臣秀吉の命令によりこの地に移された」と書かれ、途切れたり再興されたりしたのではないとなっている。

 

さらにこの「誠心院」の境内に入ると、和泉式部の故事来歴が〝これでもか〟というくらい大量に詳しく説明された看板が掲げられている。

 

 

 

しかも和泉式部が住職だったということで、住職姿の木像の写真までがポスターになって貼られている。木像を見ればなかなかの美人で、恋多き女性という噂もさぞやと思わせる。

 

 

 

その上こちらの看板には、謡曲「誓願寺」の舞台になっているという表現があり、一時期、一条小川という場所に誓願寺があり、そのお隣にこのお寺があったという話と合ってくる。

 

実は今もその誓願寺は、ここと同じく新京極通りにあって、この誠心院のすぐ隣と言ってもいい距離。もうお分かりですね。つまりこちらが本家本元と言いたいわけ。

 

真如堂の前にある東北院は、いったん潰れたものを江戸時代に再興したんだから、そっちは関係ないからね、という話になってくる。

 

 

(誠心院にある歌碑)

 

片や後の世ではあるけれど「軒端の梅」も史実に従って植えられていて、謡曲「東北院」の舞台だよ、と主張している。でももう一方は、ずっと続いていてお墓もあるよ、と言う。

 

どちらでも良いことだし、どちらも〝それなりに〟ということなんだけど、本家と本舗だとか、元祖と発祥だとかいうのは、当事者にとっては大変な問題なのだということで。