Georgeのブログ
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ビジネス人生の「実」を取ったスコッツ・ピーター

別にピーターが「名」を捨てたわけではない。しかし、私の眼から見ると、彼のこの過去17年は、彼の人生を通して、「実」を取ったものに思える。1980代から1990年初頭にイギリスのゲームメーカー、ピーターパン・プレイシング社の社長であった時代の彼から、今、HK会社のCOOとして、世界の玩具産業の十字路、HKで、地球のあらゆる所から集まる顧客との取引を楽しむ。忙しい時は一日に10人のアポ。しかもいまやHKビジターは昔の1月、10月の見本市時期だけではない。8月、X’masの休暇以外一年中になった。英国メーカー時代のファミリー・ゲーム中心から、いまやゲームは広範に多カテゴリー化して、HK/中国を代表する世界への供給元として今日も忙しい。


当人に楽しむというと怒るだろうが、世界各地の玩具産業の人物と取引に終始する一年の今の彼はイギリスだけでのドメスティックな人生に較べて、はるかに毎日が刺激的でグローバルである。そのおかげで、今年、いわゆる‘古希’を迎えた筈なのに、実に精力的で若々しい。もし、あのまま、イギリスで社長をしていたらとっくに今頃引退して‘良いじいさん’だけの姿だったろう。そういう意味で、私は「実」をとったピーターの人生だと思っている。


彼は世界第二次大戦後、若くして、いち早く日本の玩具産業を訪れた一人でもある。アメリカの業者に負けず、当時1ポンドが1,000円の為替相場で買付けたバイヤーの1人。それだけでなくタカラに当時のヒット商品、「スピログラフ」を売りつけたりしている。その後、世界の生産地は徐々にHK、中国に移り、時代とともに舞台は回るが、1990年代に吹き荒れた欧米のM&Aに巻き込まれた彼を昔のHKメーカーが巨大化して、COOに迎えて、今の彼がある。同時にその後の17年はHK, 中国にとって歴史的な発展時期と重なって、彼の活躍する舞台となった。そう振り返ると、世界の節目に身を任せた、上げ潮に乗った人生と云える。


友人として面白い観察は、彼と行動を共にするワイフの劇的変化である。ロンドンから特急で1時間半、北上するとピーターボロという中堅都市がある。その郊外にスタンフォードという歴史的にも知られた町に、優雅なカントリーハウスで最初に会った時は、ビッキーはハリーポッターに出てくるような古風なイギリス風婦人だった。しかも名門高校の数学の先生と来てるから益々その雰囲気。しかし、この17年の彼女の変化は同じ人物と思えないオドロキ。それもその筈、ファッションの最先端、九竜の著名なショッピングのファッション・センターの22階上に住み続けていれば、毎日眼が最先端に晒されて否応なく、トップ・ファッション化する。いまやファッション誌 「ヴォーグ」の熟年モデル風だ。イギリス本土、スタンフォード名門校の先生はHKインターナショナル・スクールでも大歓迎だったこともあり、Two リッチ・ポケットで、ショッピングも楽しめた17年だったんだろう。「実」のあるふたりの人生だ。


彼らの面白い所は英国籍のくせに、英国人と言って友人に紹介すると怒る。我々2人はスコットランド人であると云う。故国への誇りというのだろうか。ここのところは、知り合った30年前と変っていない。そういえば、スコッチの超銘柄、「ハートランド」の身内でもある。


凋落を知らぬ日本のサダム・カッカ


日本のサダム閣下がニューヨーク空港のパスポート検閲官に呼び止められたのは、サダム・フセインが最高に‘時の人’だった時だ。パスポートの名前を読んでいた検察官は、顔をしげしげ見て、同名でも日本のサダムは顔が違う、入国OKと云う。空港でも日本では漢字で読むから名前の‘定’は問題ないが、英語ではあのイラクのサダムと同じ‘読み’ゆえ、思わず人の興味を引く。


政権をどう解釈しようとも、イラクのフセインが、今の金正日ではないが、一国の最高の‘閣下’だった時代は、日本のサダム閣下も、そう呼ばれて満更ではなかったに違いない。私は冗談めかしてそう呼んでいたものだ。ところが、政変一過、今は本物のあの閣下は只の罪人でこの世にいない。 ところが、日本のサダムは自社の上場さえも狙う、相変わらず意気軒昂の‘閣下’なんである。


商売も、商法も、商品、ひいてはゲーム開発に至るまで、最も肝心なことは、今の時流に合っていることだ。そこに焦点が合って、初めて努力した結果が実る。「機を見るに敏」、「時を読む」ということだ。今のYK、「空気を読む」程度では小さい、小さい。我がサダム・カッカは、時の流れを読む名人である。それだけでなく、それが彼の場合、即実行となって表れる。


昭和21年の経済復興から平成20年の今日まで、我々の産業の商流にも大きな節目があった。まず直後のアメリカバイヤーの買付け大ブーム。蔵前のかっての大店は全てこの時流に乗った連中と云える。その後、国内市場の勃興期に全国支店展開で伸ばした東京の問屋。そして黒船の来襲、トイザラスの国内席巻の時代である。もうひとつ脇の大きな流通の流れはセブンイレブン等によるコンビニ大量販売網の出現であろう。今はカメラ屋による動きがあるが。


我がサダム・カッカの面目躍如たるところは、この新しい時流が起上がってきた瞬間をいつも見事に捕らえ、しっかり物にしていることだ。トイザラスがまだ皆が遠目で様子見の時代、親分衆では‘カッカ’だけだったろう。一号店の準備に自分が倉庫を這いずり廻り、手伝い、品揃え調査に徹したのだ。殆どの競合メーカーの親分とはセンサーが違う。大手卸が捨てたコンビニの初期の胎動の時期に、他社社員ごと引取り見事ビジネスにしたコンビニ・ルート商売も、彼の時代の読みの判断による乗り。


そんなカッカは誰にも遠くから大声で呼びかける。入ってくる人をみつけて真先に声をかける。「先んずれば人を制す」の精神。 人を魅了する愛嬌。しっかり相手の心を捉える。日本では絶対に凋落しないカッカは今日も業界を動き回って声を駆け回る。じっくり1時間座って、今の彼の時流を読みを聞かせてもらう。30センチの距離で向き合うと、燃える眼だけが見えて、周りの顔のしわが目に入らない。もう70過ぎているだろうに。

活きの良い‘麻雀渡世人’ベンジャミン


勿論、当人は時代劇に出てくる昔の放浪ヤクザ稼業の職業ではない。しかし、‘麻雀’でこの世を放浪する様と、このまま着流し姿で、長ドスを差せば、どこか、そのままクロサワ映画に出てくるような雰囲気は、そんな男に思わせる。ところがご本人はアメリカ東部の生まれ育ちで、今日本の京都大学に‘麻雀学’で留学に来たという生粋の知性派ゲームマンだから意外や意外。しかし、なんとも活きの良い、きびきびした青年である。


麻雀で世界の選手権を渡り歩く。その足はヨーロッパの各地まで行くのだから、私の‘放浪’という表現も満更うそではない。その彼がスウェーデンに行った時のこと、彼が云うには、感激の瞬間の出来事は、スウェーデンのゲーム・セレブのダンに会うことが出来たことだったそうだ。前回のブログで書いた、あのダンである。知ってますかと云うから、古い友人だよと云ってやったらびっくりしていた。世界は広いけれど、ゲームの世界はグローバル(?)に狭い。彼も麻雀という‘道’を求めて放浪して行く世渡りにはスウェーデンのダンは輝かしい存在なのだろう。


日本でのフルブライト資金による京都大学留学というのも、彼の流浪人生の一幕。フルブライト奨学基金といえば、我々のイメージでは昔から、学問を目指す青年への奨学プログラムで、大昔から竹村健一をはじめ多くの人材を生み出した事で有名。しかし、「麻雀で京大へフルブライトで留学?」 と聞くと、正直、なるほどそういう世の中なのだ、という感想。しかし今やゲームも学問化して、そのゲームの世界で、こうして元気にのし歩いている、活きの良い若者が出て来ているのだ。自分の趣味という域を超えて、自己の跳躍に活用する。ゲームの世界がこういう風にインフラとして広がっている。


アメリカ東部の名門、アイビーリーグのひとつ、ブラウン大学の卒業生だから、マナーも話し方を東部的。しかも生まれも育ちも東部で、大学はブラウンがあるロードアイランドという、アメリカでも一番小さな州だが、歴史と文化度の高い土壌。我々にはロードアイランド州といえば、ハスブロの本社というイメージしかないが、古い伝統の地域から、こういう青年が飛び出して来るのも面白い。


日本に来て短期間住んだ多くの外国人が、日本の魅力に取り付かれて住み続けたいと希望するケースが多いと聞くが、彼もそんな様子だ。京大の課程を終わった今、もう一年、今度は自費で、関東は横浜に住んで、日本語学校で本格的に勉強すると云う。この一年はフルブライトがないからきついだろう。活きの良い彼のことだから、めげずに日本語学習だけに埋まることなく、ゲームの精進も目指すだろう。しかし、アメリカのエリート育ちのインテリ青年だから、まさか、‘賭け麻雀で渡り歩いて稼ぐ渡世人‘、なんてことはないだろうな。「日本語」と「麻雀というゲーム」という身についたふたつの武器。まだ25歳、いわば人生のスタート。彼はどんな選択をして行くかわからないが、ゲームの世界に魅せられて、それを自分の跳躍に活用して行く一生には間違いない。

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