日々を生きる。~大切なものを失って得たもの。 -70ページ目

労働基準監督署

その日は、雨だった。


俺は目覚めると、労働基準監督署へ提出するための、解雇に至る経緯説明のメモを作成した。

そんなものが必要かどうかはわからなかったが、そうするように教えてくれた人がいた。


その人は、即日解雇などあり得ないし、法律に抵触するといった。


メモはパソコンで作り、プリンターがないのでUSBに格納したデータを、コンビニで印字した。


労働基準監督署には、相談を受ける「客」は俺一人だった。


解雇通告書をみせ、俺は状況を説明した。


答えは明白だった。


法律上、解雇通告はひと月前で、即時解雇する場合、三十日分の給与を支払えばそれで良いという事になっている。

つまり、会社側は何の落ち度も、ない。

労働基準監督署もお手上げらしい。

唯一、不服を申し立てて、話し合いの場に持ち込むという方法があるが、強制力はなく、拒否されればそれで終わりだという。

会社側は、完璧な仕事をしている。

つまり、これで終わりだった。

「古狸が」

俺は思わず呟いていた。


何も出来ないと知ると、俺は逆に気分が良くなった。


今朝作った書類は、何の役にも立たなかったが、俺はその書類も、解雇通告書と一緒に、相談員に提出した。


外に出た。

雨はさらに強くなっている。


頭の悪い、お坊ちゃん社長だと侮っていたが、それくらいの事は、労務士を使って処理出来る。


当たり前の事だった。


その日の朝に、古狸から携帯に電話があった事を思い出した。


多分、健康保険証の事だろう。


俺は放って置くことにした。


そんな事より、やらねばならない事が、あった。


俺は車に乗り込み、職安へ向かった。

解雇

午前零時を過ぎた。

今夜も眠れなかった。

俺は、今日一日の出来事を思い出していた。





二千十年六月十七日十時五十分。

俺は出社し、タイムカードを押した後、社長に声をかけられた。

「三時に大事な話がある」

俺はわかりましたと、笑顔で答えた。


職場に着いても、俺はその事ばかり考えていた。

胃が痛くなった。

また、血を吐きそうだった。

話の内容は、おそらくは、解雇通告だろう。

いや、解雇という手段はとらないような気がした。

自主的に退社するように、迫るに決まっている。
(しかしながら、俺に退職を迫るような材料は無かったようだ。例えば仕事上のミスとか)

解雇ならば、会社側は金を払わなければならないからだ。

この会社が、そんなものに金を払うはずがなかった。


俺は胃の痛みに耐えながら、ただ時間が過ぎるのを待った。

三時五分前に、社長のもとへ行った。

部屋へ入る前に、携帯の録音機能をオンにした。

社長と対面し、一枚の紙切れが俺の目の前に差し出された。

解雇通知書だった。

驚いた事に、解雇通知書には今日の日付をもって解雇とあった。


信じられなかった。


通常、解雇通告は、最低でもひと月前ではなかったのか?


それでも俺は、承諾する以外になかった。


もうたくさんだった。


健康保険証も今すぐ出せと言われた。

健康保険証はいつも持ち歩いていたが、俺は家に置いてあって出せないと嘘を付いた。


解雇通知書には、労働基準法第二十条による解雇手当は現金で払うと、書いてあった。

こんな意味のない計算式も、それなりの信憑性を演出し、次の行に続いていた。

三ヶ月総支給額÷三ヶ月総日数×三十日

その下に、実際の金額が書かれてあったが、もらえる金額は、ひと月分より少なかった。

俺はその場で、現金を受け取り、職場に戻った。

この仕打ちは、いったいなんなのだと思いながら、

ひと月前に解雇を通告され、ひと月間働き続けるよりはましかもしれないとも、俺は思った。


俺は上司とパートのおばさんの眼を盗んで、トイレでもう一度解雇通知書を読み返した。


~売り上げ低下により、現時点では人件費がでないため、また~

~最近の経済情勢から全体的に不振であるため配置換えが出来るほど会社に余裕がありませんので~


もっともらしく書かれた会社の事情も、俺にとっては何の意味もなかった。

ワープロで印字された解雇通知書の言っていることは、要するにこうだった。




今日でクビだ。明日からこなくていいから。



深夜三時

デーブルの上には、月給を上回るクレジットカードの請求書。


安物のウイスキーのボトル。
(飲んでも、酔っぱらわないな。くそったれ!)



おっさんがカリフォルニアでワインを飲み歩くという、ハリウッドリメイクの、邦画のDVD。
(劇中で、ピノだのカベルネだの偉そうに言っても、焼酎で言えば芋と麦の違いだろうという台詞で、俺は腹をかかえて笑った)



二週間前。


娘の母親から、電話があった。

「カードが引き落とされていないって、連絡がきたじゃない。何で口座に入金していない訳!
私の自動車保険が払えないじゃない!あんたはもう、私や娘がどうなろうと知ったとこじゃないわけね!私は働いてないのよ。手当だけで生活出来る訳ないでしょう!!」

「金がないんだよ。払える訳が無いじゃないか」

俺は、正直に言った。


なんてことだ。

娘の母親が使っていたカードは、一つだけじゃなかったのか。


俺は卒倒しそうになった。


金は無かった。

自転車操業だった。


俺は、ウイスキーを注ぎ、飲む。

いくら飲んでも、酔えはしなかった。


これは、絶望か。

それとも、希望、か?



別れる前に抱いていた、娘の母親に対しての、憎しみは消えていた。


俺は、娘の母親を許したのかもしれない。



そうさ。


俺は、誰も憎んでいない。



しかし、

疲れていた。


俺は、眠る事が出来なかった。


酔えば、眠れるだろうとおもって、安酒を飲んでいるのだが……。


もしも、眠る事が出来たなら、


そのまま、死んだように眠り続けたい。


それが、地獄だろうと、

天国だろうと。