あいさつ
玄関を開け、ただいまと声をかける。
返事はなかった。
それでも、娘の話をし、食事の支度をして、妻は出掛けて行った。
俺は風呂を洗い、夕飯を済ませた。
娘は少し前に食べていた様子で、食が進まなかった。
晩に少し話がしたい。
夕飯を持て余し、手で飯をこね始めた娘を見ながら思った。
風呂に湯を張り、その間、汚れた食器を手早く洗った。
安酒を煽る。
こうして、風呂に入る前に酒が飲めるのは、妻がいないからだ。
風呂へ入る前に飲むと、なぜか嫌がるのだった。
風呂の中で、娘と話した。
内容は半分もわからない。
それでも、今日一日の出来事を健気に話しているのだった。
そうだね。
本当に。
などと、大袈裟に相槌を打った。
お前の話しは、お父さんがちゃんと聞いてるからな。
娘を寝かし付け、二杯目を飲むのを耐えた。
妻と飲もう。
気まぐれにそう思ったのだった。
玄関で音がした。
俺は、お帰りなさいと声をかけ、出迎えた。
返事はなかった。
「それ、片付けておいてよ」
俺の靴に、空のペットボトルが捻じ込まれていた。
出かけた時、妻の車の中で飲んだペットボトル。
俺は黙って、そのペットボトルを掴み、自分の部屋へ向かった。
「人生なんて、こんなものだ」
呟いていた。
どうすれば、昔のように笑って話せるのか。
いくら考えても、わかりはしなかった。
頭の中では、拒絶され続ける俺が、大声を上げていた。
もう一度、二杯目の安酒を飲もうと思った。
ストレートで煽った。
俺には、お似合いの酒だ。
そして、酔うことはなかった。
ガキ
車の運転が苦痛だった。
前方の信号が赤なのに、なぜアクセル開ける。
なぜ、停止線をオーバーする。
なぜ、左により過ぎる。
なぜ、急ブレーキをかける。
助手席側では運転している者よりも、危険を感じやすい。
狭い道路ではすぐ左側がガードレールだったり、
ブレーキを踏むタイミングが、自分の感覚と違ったりするからだ。
運転には細心の注意をはらっている。
それでも妻の注意は止まない。
車を止め、降りると同時に、捨て台詞を吐く。
「そんなに俺の運転が気に喰わなければ、自分で運転しろ」
頭の中で想像するだけだった。
その後、さらにひどい言葉を浴びせられるところで、空想は終わった。
目的地まで、まだ距離があった。
眠気を紛らわすため、ガムを取り出し、口の中へほうり込んだ。
取り留めのないものが、頭で渦巻いている。
こんなもので、眠気を追いやることは出来なかった。
「両手をハンドルから離す癖やめなさいよ」
いきなり声が降って来て、俺は硬直した。
ほんの一瞬だった。
それでも、危険な行為であることに、かわりはなかった。
俺は、反省していた。
それでも、俺の顔は歪み、破れた皮膚から流れたす膿のように、
不快な感情を、露にしていたのかもしれない。
「どうせ、わたしの言うことは耳に入らないと思うけど」
窓に板を張り付け、台風が過ぎ去るのを、
ただじっと耐えるかのように、俺は押し黙っていた。
数十分後、郊外のテーマパークに到着した。
娘ははしゃぎ、妻も、俺も笑っていた。
ひとつでも、良いことがあればいいじゃないか。
他愛無いことでも、幸せを感じられればいい。
心の中で、呟いた。
昼食は、バイキングだった。
肉ばかり食らっている俺に、妻が言った。
「野菜も食べな」
「ガンの発生率が全然違うんだから」
俺は、妻から観ると頼りない、子供のようなものなのか。
自分を恥じていた。
男として、最低な奴だよ。
また、心の中で呟いていた。
外は強風で、桜の花びらも砂埃とともに、吹き流されていった。
空の色
ハンドルを握る腕が、日差しで少しひりついていた。
娘は、これから始まるプールを楽しみにしている。
妻は助手席で、この暖かさのせいか、眠り込んでいた。
晴れた、桜咲く、一日。
これだけ晴れているのに、空は灰色だな。
最近、気付いたことだった。
空は決して、蒼くはなかった。
勝手に蒼いと錯覚しているだけなのだ。
都市部へ車を走らせていくと、驚くほどその灰色が濃さを増し、
遠くのビルが霞んで見えたりする。
向かい合う横顔のシルエット。
そんな絵を、心理テストか何かで見たことがあった。
見方を変えれば、ワイングラスに見える。
それと、同じなのかもしれない。
物を見つめているのは、眼ではなく心なのだ。
空は蒼いという思い込み。
何の疑いもなく、灰色の空を、
晴れた清々しい空だと思ってしまう。
心の状態で、美しいものも醜く見える。
その逆も、また、あるのかもしれない。
灰色で埋め尽くされた心に、蒼い空は見えるのだろうか。
空に向けた視線を、真上の方へ移していった。
すると、徐々に薄い青味を帯びてくるのだった。
本当は蒼いんだ。
破れた所から覗いた、薄青い空が言っていた。
きっと見えるさ。
心の中で、呟いていた。
「信号、青だよ」
妻だった。
よく観ると、青色じゃなく、薄緑色だった。