虫けら
妻が帰宅し、その顔を見定めた瞬間、不機嫌だとわかった。
明確な意思表示である。
いつものことだった。
廊下ですれ違うとき、ぶつかりそうになる。
俺はごめんと一言、いった。
その言葉は、そのまま妻の耳をすり抜けていったようだ。
部屋に入り、布団に潜り込むと、妻の怒鳴り声が聞こえた。
「ちゃんと片付けてよ。ゴキブリが出るじゃない」
娘の食べ残しである。
まあいいかと思い、片付けなかった。
風呂を洗い、食器を洗い、娘に食事をさせ、風呂に入れる。
それが、限界だった。
気力を振り絞って、なんとか体を動かしたようなものだった。
物事に対して、やる気が湧かない。
どうしてしまったのか。
仕事を片付け、帰宅するとそうなるのだった。
三日以上、頭痛が続くというのも気にかかる。
まさか、鬱になりかけているのでは。
娘の食べ残したものを、袋に詰めてゴミ箱に入れる。
食器はシンクへ、重ねた。
はっきりしない意識のまま、布団へ潜り込んだ。
また、怒鳴り声だった。
「食器くらい、洗ってよね」
ゆっくりと体を起こして、台所へ向かった。
皿を洗った。
やはり、反論する気さえも起きなかった。
俺の扱いは、虫けら以下ではないのか。
虫に変身したグレゴールザムザだって、もうちょっと大事にされていた様な気がする。
目を閉じた。
家事をこなす、虫けら。
そんなものを、頭の中で想像していた。
願望充足
ちょっと厚めの唇が、ハリウッド女優を思い起こさせた。
肩まで伸びた黒髪に、スーツがよく似合っている。
俺はそっと、髪に触れた。
ちょっと微笑んで、唇を押し付けてくる。
何をやっているのだ。
そんなことは、考えていなかった。
どうにでもなれ。
そんな投げやりな、気持ちがあるだけだった。
二人で、駐車場まで、歩いた。
おもわず歩を止め、彼女に、反対方向へ歩くように言う。
前方に、知人がいたのだ。
俺は知人の目を盗みながら、車に乗り込むとキーを回した。
ゆっくりと車を出して徐行しながら、彼女を探す。
車は、国産の高級車だった。
この辺だろうと、見当をつけて車を路上に止め、ガキをかけた。
探し回ったが、彼女は見つからない。
一度、車の止めてあるところまで戻った。
俺は、立ち尽くすしかなかった。
車は、そこには無かった。
そこで、目が覚めた。
夢。
なぜ、このような夢を観たのだろうか。
アバンチュールに、溺れてみたいとも思っていない。
妻と仲よくやって行きたいと、願うだけだ。
それなのに、夢の中の俺は、火遊びを楽しんでいるようだった。
心の奥底で、妻に対する気持ちを投げてしまったという事か。
フロイトの言うように、夢が願望充足というならば、俺の願望とはいったい何なのだろう。
頭痛が酷い。
こめかみに指を押し当てて揉んでみたが、左顔面まで広がった痛みは、消えなかった。
最後に妻と口付けした時のことを、思い起こそうとしたが、思い出せない。
それなのに、さっき観た夢は、克明に思い起こすことが出来るのだった。
消失
「何して遊んでいるんだか知らないけど、玄関のチェーンくらいかけられない訳」
今日は日曜日である。
そんな言葉を浴びせられるのは嫌なので、起床後、すぐに庭の草取りをした。
その後は、一日中、車の運転だった。
帰宅後、妻が娘を風呂に入れた。
その間、遊んでいたとでも言いたいのか。
玄関の鍵くらい、気が付いたら黙って閉めればいいじゃないか。
それをあえてしないことで、俺の至らなさを攻める材料にしたいだけなのか。
一日中、頭痛に悩まされた。
途中、ドラックストアで薬を買おうと思ったが、やめた。
ガソリン代が無くなり、通勤出来なくなるからだ。
一ヶ月分のガソリン代を、一度に渡すということは、何故かしない。
5千円くらいずつに分けて渡されるので、薬も買えないのだった。
毎月、3千円ほど余る。
それが自由に使える金だった。
それでも、俺の稼ぎからすれば恵まれているといっていい。
反吐が出るほど憎いのならば、憎めばいい。
言いたいだけ言って気が済んだのなら、冷房の効いた部屋でゆっくり休めばいい。
俺に出来ることは、妻の隣で一緒に寝ることではなく、妻の目に触れぬように別の部屋で寝ることくらいのものだ。
頭痛による吐き気を、堪えた。
窓を開け放つ。
風が止んでいる。
馬鹿げた考えが、頭の中に渦巻いていた。
いくら考えても、たいした名案は浮かばない。
ただ、妻の前から消えたいと思う。
そして、寝ている間だけ、消えることが出来るのだった。