日々を生きる。~大切なものを失って得たもの。 -283ページ目

サイン

ああ、疲れた。

妻が言った。

それは、機嫌が悪いという妻流のサインだった。

こういうときは、何を言っても駄目なのである。

黙っているのが、一番いいと思えた。


娘を寝室に残して、子供用の歯ブラシを取りに来た。

食事の後の歯磨きがまだ済んでいなかったのである。

台所で歯ブラシと、麦茶を用意する。

「ちょっと、○○の食べたお皿ちゃんと片付けて。ゴキブリが出てしょうがないから」

俺はわかったと短く答え、娘の食べ残した食器を洗った。

寝室へ向かおうとすると、また妻が言った。

犬の世話が終わっていないという話だった。

俺は短く答えて、外に出て犬の世話をした。

玄関で妻がまた何か言ったが、今度はよく聞こえなかった。

多分、散らかったものをそのままにするなということなのだろうと思い、娘のおもちゃを簡単に片付け、自分の

私物も部屋へ放り込んだ。



寝室に、入ると娘は寝ていて、扉を開ける音で跳ね起きたのだった。

歯を磨き、麦茶を飲ませた。


やはり俺は、気が利かないのだと思った。

妻に言われる前に、用事を済ませることが出来ない。

特に、サインがあったときは。

もっとも、サインが無いときは妻が用事のほとんどを片付けていたりするのだった。


相手の気持ちを考えないから、わからないんでしょうよ。


そんなことも、以前言われたことがあった。

俺は妻のことなど、一片も考えていないのだろうか。




娘に、すぐに戻るからねと声をかけ、寝室を出た。

酒が飲みたくなった。

調理用の日本酒に手を伸ばしたが、止めた。

かわりに、インスタントコーヒーを水道の水で入れた。

氷を入れ、指でかき混ぜて飲む。

飲んだ後、すぐに後悔した。


今夜も眠れなくなるかもしれないと、しばし思った。


今夜、携帯より

布団に横たわり携帯を開いた。

暗闇では明る過ぎる液晶画面をみつめながら、俺は今、緑色に光るボタンを何度も押して文章を書いている。

妻達の寝室から、楽しそうな声が聞こえてきた。

数分前まで俺はそこにいて、娘を寝かしつけていた。

そして、妻が帰宅するまでに娘は眠らなかったのだった。

二人でいるときは、俺に抱きついてきたり、何かを言って笑ったりしていた。

妻が帰宅したことを知ると、興奮して、おかあちゃんと大声で叫び、扉を叩いていた。

乳幼児にとって、母親の存在は絶対であると何かの育児書で読んだ。

母親以外、他人であろうと父親であろうと一緒であると。

そして、娘はもう乳幼児ではなかった。

寝室からはもう声は聞こえない。


外からは虫の鳴き声と、幹線道路からトラックの唸り声が低く響いてるだけだ。

疲れていて、早く眠りたいのに、何故か頭だけが覚醒している、嫌な状態だった。

いつまでも訪れない眠気に少し苛立ちながら、俺は送信ボタンを押した。

旅行計画~夏??

その場所は、およそ、夏を連想させるようなところでは無かった。


会社で支給される、旅行補助を使うという算段だ。


補助制度の通知が来たのが8月なので、ギリギリである。


夏らしい、海辺のリゾート系はすべて埋まっているし、料金がとても高かった。


妻がそう言っていた。


この旅行計画は、妻が極秘裏に進めていたのだった。



それでも、家族3人で旅行に行くという考えがうれしかった。


少々の出費も、


旅行で得られるもの・・・・プライスレス。である。


その旅行で、妻との距離が縮まればと、思う。




娘の声が聞こえた。


どうやら、目を覚ましたらしい。



「おとうちゃん。おねえちゃんのところいくよ」



一瞬、首をかしげた。


おねえちゃんとは誰のことを言っているのだろう。


まだ、赤ん坊のようなもので、時々、わけのわからないことを言う。

娘は俺の手を握って、玄関へ歩いて行った。


外はうんざりするほど暑く、ぎらぎらとした日差しが、肌を焼きそうだった。

「おうちの中で、遊ぼうよ」


俺がそう言うと、口をへの字に歪ませて泣いてしまった。


そして、日焼け止めのクリームを探した。