Gon のあれこれ -20ページ目

Gon のあれこれ

読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

年一回の神保町古書店の蔵出し、

11月1日夜コーカサス旅行で成田から帰宅して、その翌日2日、金曜日に出かける。

 

期間は10月27日から11月4日までなので、一休みしてから出かける、という手もあるのだが、

土日はゆっくり休みたい、と少し強引に出かける。

 

今回のコーカサス旅行は、宗教、という視点から見ると

アゼルバイジャンイスラム教モスクとかつての拝火教(ゾロアスター教)の史跡

アルメニアキリスト教を最初に国教とした国。古式ゆかしい教会や修道院。ユダヤ教のシナゴー       グ

         加えて、暴君ネロがローマ大火の犯人をキリスト教に押し付けた時代に繁栄したミトラ紳

         のガルニ神殿。

ジョージアキリスト教をアルメニアに次いで国教化した国。古い修道院や教会。

 

世界最古の聖典宗教ゾロアスター教が紀元前1200年だから、この三ヵ国には中世までの宗教が詰まっている。上記にマニ教やグノーシス、仏陀を加えればほぼ完ぺきになる。

 

ということで比較宗教史に関連する本がないか?とモチベーションが高まり出かけた次第。

 

結果はそう都合よく見つかるはずもないが、

1、キリスト教史第三巻。すでに1と2はアルメニアやジョージアのキリスト教会史を調べるために購入済。第五巻は日本のキリシタン殉教を知るために所有しているので、あとは第四巻を揃えれば宗教改革まで一気通貫だ。

 

2、ゾロアスター教

 

既に学術文庫の

 

を持っていて読みかけであるが、根本経典のアベスターの抄訳が入っているので購入。

3、田川建三さんの

 

 

をキリスト教関係の古書が多い「友愛書房」に立ち寄り購入。

田川さんは国際基督教大学の講師時代、教壇から「神は存在しない」「存在しない神に祈る」と説教し、大学を追放された稀有な人。

しかし、イエスの教え、愛と自由と平等と、人類普遍の教えを説いたイエス、弱者に寄り添ったイエスには満腔の敬意と信頼を抱いているが、いつも信徒信条で三位一体の核、処女懐胎と復活で信仰に躓く私には親しみを覚える人だ。

今読んでいる、

 

とも相通じるところがある。

 

アルメニア入国第一日については、ジョージア編の最終日にその行程をざっと書いたが、

この旅行記を国別の形式で書いているので、初日の記事は一部重なっている。

 

10月29日

今日は当初の日程、トビリシ市内観光後のアルメニア入りではセバン湖が夕暮れてしまうので、市内観光は最終日にして、ジョージアーアルメニア間の国境へ。

その距離75キロ。国境は徒歩で越えてアルメニア入り。入出管事務所は撮影禁止。

 

アルメニア最初の観光はセバン修道院。

登りの階段はきついが、修道院までたどり着くと湖とその奥に広がる山並みの景観が素晴らしい。

この修道院のイコンは聖母子。十字架のイエスキリストは見当たらない。

セヴァン湖畔にある、9世紀に創建されたいくつもの建物からなる複合宗教施設。現在は聖使徒教会と、聖書の物語が十字架を囲むようにして彫られている、珍しいハチュカル(十字架の碑)のある聖母教会のみが残されている。この2つの教会の横には、6本の木製の柱でできたガヴィト(回廊)の遺跡がある。

昼食後の最初の観光はハフバト修道院。

聖ニシャンによって10世紀に創設された、ハフパットにある修道院。アルメニア史上において、最も美しく壮麗な修道院の一つに数えられており、アルメニア国内にある聖十字架の中でもハフパットの聖十字架が最も有名。「ウラルトゥ王国ハフパットの聖十字架」とも呼ばれるこの修道院には、最盛期に500人ほどの学僧が集まっていました。近くにあるサナイン修道院とともに、アルメニア教会の中心的な役割を果たしたこの修道院は、1996年にユネスコ世界遺産に登録されました。

ここからさらに1時間かけてエレバンに。

ホテル到着は21時過ぎ。それからホテルで夕食。

 

10月30日(火)

今日はエレバン近郊の観光へ。

本日のハイライトはアルメニア正教の大本山、エチミアジン大聖堂と宝物館

宝物館では磔刑にされたイエスキリストを突いた槍が超目玉。

しかし出発前にメールがあって、槍は米国に貸し出し中とのこと。

事前に知っていたとはいえがっかりして、なあ~んだ、とどっと疲れが出る。

これがその槍、現物がない代わりに実物大の写真があった。

もう一つの宝物はノアの箱舟の破片。これは実在した。

もっとも、実在、と言っても、この創世記の物語、

神と契約を交わしたアダムの末裔ノアは「500歳になって、セム、ハム、ヤベテを生んだ」

しかも、水が引いたのはノアが601歳の1月1日と言うから、ちょっと信じられないので、

破片も信じる気にはなれない。今や木は石化している、とのこと。

最も、残念だったのは総本山である大聖堂が修復中で祭壇をはじめ主要構造物が

白い布で覆われていたこと。

しようがないので、売店で大聖堂と宝物館の写真集を購入。

ツアー仲間の女性が、ジョージアやアルメニアの教会が「地味」と言っていたので、

彼女にその写真集を見せる。

 

もちろん西ヨーロッパの教会と比べて地味なのは間違いない。

それはローマカトリックが中世に政治権力と表裏一体化し、信者から金を集めるために

赦免状まで乱発して、それがルターの宗教改革に繋がったのだが、

ジョージアにせよ、アルメニアにせよ、キリスト者の修行の場所修道院と教会と信者が

密接に繋がっている両国には、派手な金集めをする意図も信者の余裕もなかっただろう。

 

宗教改革の波は、プロテスタントの宣教師が両国に入ってきても布教の土壌はなかったらしい。

 

昼食後はガルニ神殿。このギリシャ風の建物、その由来は、

 

エレバンから約28キロの町、ガルニにある遺跡。現在アルメニアに残る唯一のヘレニズム建築で、神殿を含む建築物は三角形の高台に建っています。この場所に要塞が築かれたのは紀元前3世紀のこと。紀元1世紀にはアルメニア王ミトリダテスの離宮が置かれました。この神殿が建てられた頃のアルメニアは、ギリシャやローマの大きな精神文化の影響を受けてた時代でした。神殿は「太陽の神殿」と呼ばれ、異教の神である太陽神「ミトラ(ミトラス)」に捧げられたものです。17世紀の地震で倒壊しましたが、1970年代に再建され現在に至っています。ガルニ神殿のそばには「ストンシンフォニー」という名前で世界自然遺産に登録されているアザット谷があります。 

ガイドさんが、ミトラ神はアルメニア由来、というのでエジプトかギリシャ由来ではないか、

とやんわり訂正を促しても、頑として聞き入れなかった。

彼女の中で固定観念が出来上がっているのだろう。

そこで気になって、アルメニアのガイド資格について聞いたのだが、大学で4年間日本語を学び、

一度一般の会社に勤めたのち再度大学で日本人教師について学び、ガイドの資格は日本大使館で

、と得た、とちょっと信じられないきもちだが、それ以上追及するわけにもいかず黙り込んだ。

ゲガルト修道院は、ここで「槍」が発見されたことから、槍という意味の「ゲガルト」と命名された、とのこと。

ここで、コーラス隊の4人の重唱を聞く。

男女二人ずつの声は洞窟に良く響き、厳粛な気持ちに誘われる。

報酬はCDの販売で一人しか買う人がいなかったので、チップとしてCDの半分の額を渡す。

音楽家というものは、極々少数の人を除いて、それで身を立てるのは難しい。

例えば、N響の団員でも然りだ。

 

次はエレバン市内観光

エレバンについて観光情報局の案内から。

アララト平野の南東に位置するアルメニアの首都です。その歴史はアルギシュティ1世によって要塞が築かれた紀元前8世紀にまで遡り、バグラト朝の中枢として栄えました。イルハン朝の中心都市となった後は、オスマン帝国とサファヴィー朝の角逐の場となり、サファヴィー朝ではエレバン・ハン国に編入されました。1679年に見舞われた大地震により多くの建造物が倒壊しましたが、エレバンの街にはそうした歴史を感じさせる重要な建造物が数多く残されています。また、郊外には、エチミアジン大聖堂、リプシマ教会、ズヴァルトノツ古代遺跡の3つのユネスコ遺産があります。

最初は共和国広場にあるカスケードへ。

見ての通り階段状の構築物。内部にはエスカレーターがある。

天辺に見えるのはソヴィエトアルメニア50周年を記念して建てた塔。

これが健在であるということは、今もロシアとは良好な関係を保っているということだろう。

何しろ石油資源の豊富な隣の国アゼルバイジャンとはナゴルノカラバフ紛争を抱えていることもあり、

エネルギーはロシアに頼らざるを得ないのだ。

 

ここから、ややシドニーのオペラハウスに似たモチーフの建物が遠望できる。

それはオスマントルコの時代、アルメニア人が虐殺された記念館

ではあるが、トルコとの関係はさほど悪くない、とのこと。

それよりはナゴルノ・カラバフ紛争の相手国アゼルバイジャンに敵愾心が強いらしい。

余談だが、アゼルバイジャンで買った「I love BAKU」の野球帽はカバンにしまって、

ハフバト修道院で買ったアルメニアの国旗、国名入りの野球帽を被っている。

 

 

夕食はフォルクロアショー付き。

打楽器の演奏者の技が素晴らしい。

ここはチップを差し出す雰囲気ではないようだ。

 

ホテル帰着は21時30分。

明日はエレバンに戻って観光後トビリシからカタール経由で帰国。

荷物を粗々整理して眠りにつく。

 

10月31日(水)

 

共和国広場を下車、写真を撮ったのち、再びバスで国境を越えてジョージアのトビリシへ。

トビリシでは29日月曜日予定の観光をする。

実は出発前国立美術館でニコ・ピロスマニの絵を何とか見たい、と思っていたのだが、

月曜休館で如何ともし難くあきらめてしまったので、美術館への所在位置や行き方、仮に

団体行動を離れるとすれば、そこから空港までの行き方、などなどを調べてこなかった。

しかし日程変更でその可能性が開け、現地のガイドさんに聞けば事前調査よりは確実な情報も

得られる、と踏んでツアーガイドの人に希望を述べ、現地ガイドの人とも話したのだが、

埒が開かなかった。やはり一応自分で調べておくべきだった、と悔やまれる。

その所為か、メテヒ教会、シナゴーグ、あるいはジョージア正教会主教座シオニ教会など、

あまり身が入らなかった。

 

トビリシからはカタール航空358便で、ドーハに戻り、01時55分発成田行き806便で

成田着11月1日17時55分。

宅配に荷物を預け、19時少し前のスカイライナーに乗って、駅に連れ合いに迎えに来てもらい

8時40分ごろ自宅到着。シャワーを浴びて久しぶりの夕食。

実は夕食のメニュー、刺身、冷ややっこ、生野菜と予め頼んであった。

 

なにははともあれ無事で帰ってこられたことを感謝。

 

参考:アルメニアについては予習編参照

追記:コーカサス三ヵ国旅行の写真や引用はアゼルバイジャン、ジョージア、アルメニア

各国の観光局などの公的機関のホームページから借用。

 

 

 

いよいよ今日10月28日(日)からジョージア観光だ。

最初はなじめなかったジョージアという国名も段々と抵抗なく使えるようになってきた。

何しろソ連時代の名前であるグルジアを嫌ったこの国の人々がジョージア、としたのだから。

きっとグルジア出身のスターリンの苛烈な記憶とともに消し去りたかったんだろう、と推測。

 

昨夜はトビリシ空港ETA(到着予定時刻)が23時0分。

概ね定刻、入国手続きなどを経て、ホテル着午前1時。

朝食は7時から、そしてホテル発は8時30分。仮眠がせいぜいだ。

 

今日の観光は古都ムツヘタで6世紀に建てられたジュワリ(十字架)聖堂、次いでそこから眼下に見下ろす要塞のような教会スヴェティツホヴエリ大聖堂見学ののち軍用道路を経てアナヌリ教会、標高5040メートルのカズベキ山を間近にみながら天空のサメバ教会へウオーキングを楽しんだのちトビリシまでバス4時間の旅。

今日の天候は晴れ、気温は16度くらいか。

概ね40分で聖堂へ。今日は日曜日とあって丘の上に登ってくる信徒が多い。

みな堂内のイコンに頭や口づけをして正面の磔刑像に祈って、中には瞳が潤んでいる若い女性の姿もあった。

古代の東ジョージアにあったイベリア王国の首都として栄え、今では町全体が世界遺産です。ジュヴァリ修道院が高い山地に位置していて、ジョージアの旧首都ムツヘタを上から見渡します。ジョージア人にとって、これはとても神聖な場所です。
イベリア王国では4世紀の初め頃、隣のアルメニアに次いで世界で2番目にキリスト教を国教と定めました。ジョージア正教会総主教座はトビリシに移転しましたが、現在もムツヘタはジョージア人の信仰の中心地です。ジョージアにキリスト教をもたらした聖女ニノが十字架を立てた聖地に建立されています。ニノは4世紀の頃、ブドウの枝を自分の髪で結わえて十字架を作り、その十字架を握りしめながら、ジョージアの大地へと踏み込んでいったと伝えられています。この聖女にちなんでジョージアにはニノという名前の女性が大勢います。

見学は修道院から、大聖堂へ。

今日は日曜日だから礼拝があるはず。果たして見学は出来るだろうか。

あるいは結婚式が行われているだろうか、とあれこれと考えをめぐらす。

 

この教会が最初に作られたのは4世紀。現在の建物は11世紀。ある種近づき難い佇まいだ。

それもその筈、城壁でもあった、とのこと。

結婚式はなかったが、大聖堂正門前には挙式の受付などをする建物がある。

聖堂内にはグレゴリオが響き、正面やイコンの祭壇の前には蝋燭台があって炎が揺らめいている。

ジョージアは石の教会。

欧州のカトリック教会のような荘厳さはないものの、原始の信仰のエネルギーが満ちている。

 

旅は再び軍用道路に戻り、アナヌリ教会へ。

 

麓にはレストランや小さなホテルなどが軒を連ね騒がしい。

そこから4輪駆動で悪路を登り、教会駐車場まで。そこから急坂を登って教会に至る。

健脚組は途中の悪路を登り切ったところから教会まで30分ぐらいのトレッキング。

教会駐車場から急坂を登るが、息が切れる。もう標高3000メートルに近い。

しかし教会からの眺めは素晴らしい。

遠くに白い雪を戴いた山々が見える。間近に見えるカズベキ山は標高5000メートルだ。

映画「デデの愛」のロケは、同じコーカサス山脈に抱かれたスヴァネティ地方で行われたが、

そこはここより西の方に位置している。

 

ここを見学ののち、4時間かけてトビリシに戻り、ビヤホールで小籠包ならぬ大籠包などを供される。

ホテル到着は23時近く。

 

 

10月29日(月)

今日の大雑把な予定は、トビリシ市内観光ののちアルメニア国境から首都エレバンに向かい、

途中世界遺産のハフバト修道院を見学ののち、コーカサス地方最大の湖、セバン湖(標高1900メートル)と湖畔のセバン修道院を見学。ホテルは9時過ぎについてそれから夕食。

しかしセバン湖は日没後になって、充分に景観が楽しめない、ということで日程を変更し

今日はジョージア・アルメニア国境に向かいトビリシ観光は最終日にまわす、とのこと。

こうした臨機応変の措置は大歓迎だ。

 

両国国境はジョージア出国の手続きののちスーツケースなどを持って徒歩でアルメニア側に向かって入国手続きと荷物検査。

 

ここで現地ガイドの女性がジョージアーアルメニア、と交代する。

ジョージアの女性ガイドはバクー空港迎えから通しであったのでいろいろと話す機会があったのだが、

今大学院で国際関係論専攻、とのこと。

バクーでは多少自信がないのか語尾が不明瞭だったが、ジョージアでは確信があった。

 

入国検査を終って迎えの観光バスに乗車して、途中景色の素晴らしいりーぞーとホテルのレストランで昼食。

セバン湖畔は1900メートル位の高さにあるが、急坂をバスが登る。

途中凸凹道が結構あってすごく揺れる。

 

湖畔の修道院もよく晴れた所為で遠くまで展望が開け、その山々は冠雪している。

 

以後アルメニアの首都エレバンのホテルに夕方6時にチェックイン。部屋で小休止して7時よりホテル内レストランで夕食。

食事のための移動がないのが嬉しい。

 

ただ今の現地時間22時20分。日本時間午前3時20分。

校正未了のままとりあえずアップ。

 

追記:帰着後4日に追加訂正しました。

参考:コーカサス三ヵ国旅行 ジョージア予習編

 

10月25日(木)成田発カタール航空0807便でカタールのドーハへ。

カタール航空は2017年の安全ランキングでは世界第四位であったのに、

2018年では20位入りすらしていない。

これは、カタールが親イラン国でもあり、サウジとはレバノンやイエメンをめぐって対立、エジプトとはムスリム同胞団をめぐって対立など周辺国と緊張が高まり、サウジ、バーレーン、UAE、エジプトの領空を飛ぶことを禁止されたことに関係するのだろうか。

 

現在、在トルコサウジ領事館でサウジの反体制ジャーナリストのカショギ氏が殺された事件で、トルコ側の情報をカタールのアルジャジーラがガンガン報道していることにもサウジは反発しているらしいから、

カタールーサウジ関係はますます緊張している。

一方では、カタールには中東最大の米軍軍事基地があり、トルコ軍の基地もあるから、カタールとしては米国とトルコの後ろ盾が頼りだろう。

 

もし個人旅行で航空会社を選択すると、安全性や接続が同じだとすれば、サウジと良く、カタールともそれほど悪くないUAEのエミレーツ航空が選択肢になるだろう。

 

ドーハには26日の午前4時に到着して、アゼルバイジャンのバクーへ7時30分発、11時20分到着予定

それはさておき、同航空の楽しみの一つはカタール空港。

乗り継ぎ客向けのサービスが充実していることで有名だ。

しかし予定ではトランジットの時間は3時間半だから、どこまで楽しめるかは不明。

せめてそうした施設ぐらいは見学したいものだ。

 

アゼルバイジャンは三ヵ国の中で唯一ヴィザが必要。

これは出発1か月以上前に在日アゼルバイジャン大使館のホームページから 電子ヴィザを取得してある。ユニークなのはスキャンしたパスポートを申請書に張り付けること。何とかやってのけた。

 

出発の日25日は、朝食前の運動や太極拳や五行拳をこなし、昼食前にはジムに行って汗を流して温泉につかりビールをいただいて支度をして出てきた。

成田には少し余裕をみて出たのだが、成田で郵便を出したり、両替をしたり、NYTの更新をラウンジでしたりしているうちに集合ぎりぎりになった。

カタール航空の飛行ルートは、ソウル、北京を通って、ひたすら西に向かい、Almaty のあたりから左にターンしてテヘランを左手に見ながらドーハに着く。概ね無駄のないルートで中東や南欧に行くには乗り継ぎ時間は別にしてよい選択になるだろう。

機内ではワインも出し(これはあまり美味しくない)夕食と朝食も出た。

 

上空から見るとカタールは海に浮かぶクラゲのように見えた。

ドーハからバクーまではイラン上空を飛ぶのだが、海岸から数十キロは砂岩の山と谷で生活する環境がない。

 

 

10月26日の観光予定

シルバン・シャフ・ハーン宮殿と乙女の塔、殉教者の小道と市内夜景鑑賞。

殉教者の小道からはカスピ海を一望する。

一望と言っても、面積37万平方キロで、日本の国土面積37万キロよりわずかに狭いカスピ海だから、

水平線を見てその広さを実感できるだろう。

バクーは「風の街」という意味だと現地ガイドさんから教わったが、確かに風が強い。

 

殉教者の小道にはソ連邦末期、蜂起してソ連軍との戦闘に死亡した人を顕彰しているが、

普通殉教とは、何かの宗教に命を捧げた人を言うから、少し違和感がある。

 

世界遺産登録の宮殿は、この地に都を設けたシルバンシャフ一族によって15世紀に創建された。

宮殿は砂岩で作られているが、それだけに装飾を施しやすくアラベスク、というのだろうか幾何学的な模様が一面に施されている。半面では劣化が気になるが、それはどうなのだろう。

 

このブログは当日の観光を終え、翌朝の遅いチェックアウトの時間を利用して書いている。

今日10月27日土曜日の予定は、午前中はフリータイムで、

午後から市内観光とコブスタン遺跡拝火教寺院の見学。

夕食後はバクー発22時のアゼルバイジャン航空の格安航空会社ButaAirwaysの便でトビリシへ。

使用機材はブラジルの製造メーカーでEmbrer E190..

つい最近の8月30日に事故があったばかりだ。

深夜発も格安航空会社も使用機材も、個人手配旅行なら決して使わないだろう

主催旅行会社の募集パンフレットに使用航空会社の記載がないのは問題

往復の航空会社は何々航空で行く~というのはあるがそれ以外の記載はなかった。

 

さて楽しみにしていた拝火教寺院

アゼルバイジャン観光情報局の資料を転記する。

18世紀に商人としてこの地に住んでいた、パルシーと呼ばれるインドのゾロアスター教徒によって造られた寺院です。かつては地表に沸く天然ガスが自然発火したことから、火を崇拝するゾロアスター教徒に聖地として見なされていました。インド北部、現在のトルコ、シリア地方を結ぶルートの中継地としても栄えました。

18世紀のインドやトルコ、シリアのルート上にあるとなると、イスラム教やヒンズー教の影響が

どうであったのかが気になるところだ。

(この項予習編参照)

 

上記のように楽しみにしていた拝火教寺院であるが、中央に火は燃えていたものの、

参拝の人はなく観光客ばかり。

祭壇を囲む石造りの5角形の建物の中に、拝火教の往時を再現する展示がある。

上下とも白衣を着て、祭司らしい男は、火を揺らさないためかふんどし状のマスクをしている。

(我ながらなんという表現だ、と思うが他に適切な言い回しが見つからない)

予習編でも書いたように拝火教は善悪二元論であるが、

その周囲の建物の説明の中に、寺院は四角形の台座は火と水と土と空気を象徴している、

とあった。

またアゼルバイジャンの新年の祭りが焚き木を囲んでいて、拝火教の名残である、

現在拝火教の信者はイラン、パキスタン、USA,英国、カナダに居る、ともあった。

 

これらは現地ガイドの女性に聞いてもさっぱり要領を得なかった事柄である。

 

 

ホテルはチェックインは深夜。

予習編で記述した拝火教の近親相姦の問題や、アゼルバイジャン人の蒙古斑については、

旅行後記で。

 

 

 

 

 

 

去る19日、有楽町の国際フォーラムで日立主催の講演会があり、参加。

 

Richard H. Thaler 博士 (1945~)はシカゴ大学経営大学院教授。行動経済学の著名な研究者で、2017年ノーベル経済学賞を受賞。邦訳書に「実践行動経済学」)(日経BP)などがある。

先達には、2002年同じくノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン(ファスト&スロー(早川書房)がいる。

 

冒頭、行動経済学をハーバート・サイモン(1916~2001。1978年ノーベル経済学賞)、アダム・スミスケインズ、新自由主義を代表する経済学者のミルトン・フリードマン(シカゴ学派)の系譜に位置付け、学問的正統性を主張した。

 

そのように主張する根拠は、彼らが近代的経済学が前提とする「合理的経済人仮説」とは異なり、人間の非合理的側面が生産や消費などの経済的行動に大いに影響を与えている、というところにあると博士は主張する。

 

しかし通説では、アダムスミス「物欲の充足を利己的に追求する人間」を中心に据えており、

確かに「道徳感情論」でも人間の「他人の痛みを感じる人間」の徳性見えざる手の根幹に置いては

いるが、行動経済学の「正統性」の根拠足りうるのかどうか疑問だ。

 

もう一つ違和感を感じたのはミルトンフリードマンの引用。

フリードマンは、簡単に言えば「政府の適切な介入」を唱える「ハーバード学派」に対抗して、

自由競争、小さな政府を唱えた「シカゴ学派」で、ニクソンやレーガンを絶賛した経済学者。

レーガンが、「政府の介入は問題解決ではなく、問題そのものだ」と主張したことで知られるが、

その根拠にあるのはフリードマンである。

フリードマンの強調は自分の行動経済学が「シカゴ学派」に連なる、という暗示であろうか?

 

これらの経済学者の中で、行動経済学の系譜に一番納得がいくのは、ハーバート・サイモンだろう。

まだ30代のころ社費で彼の講演会を拝聴したことがあるのだが、当時は「意思決定学派」、

あるいは「情報プロセス学派」とも呼ばれ、当時から今のAI(人工知能)を予測して、

Computer  think」と明確に主張されていたことを記憶している。

そして広くは「行動科学」者の中に含まれ、「合理的経済人」仮説に異を唱えた一人である。

 

セイラー博士は「Nudge」 という概念を提示したことで有名(邦訳実践行動経済学の原題でもある)だが、よく例に出されるのが、アムステルダムのスキポール空港の男性トイレ

小便器に黒いハエの絵を描いたところ、飛沫することがなくなり、清掃費の大幅な減少につながった、というもの。

つまり、ひとびとを、ちょっとナッジ(押す)ことで、行動が変わり経済的、社会的成果を生むことができる、

と主張する。

 

この手法は上から目線の、ある意味でシニシズム(冷笑主義)のような匂いがある。

 

そこで、博士は自ら「リバタリアン・パターナリスト」(自由主義的温情主義?)と呼び、

先ず第一にフリードマン流に「人は選択の自由を持つべき」だ、とする。(その意味でリバタリアン)

そのうえで、行政や企業などが、住民や消費者などの選択者が自分自身で判断して自らの効用を高めるような選択に影響を与える(ナッジ)のであれば、その政策は「パターナリズム的」である。

 

がしかし、リバタリアン・パターナリズムはソフトで押し付け的ではない形のパターナリズムである。

そしてそのためにはどのような選択肢の構造(アーキテクチャー)にするかが重要になってくる。

 

特に人は慣性の法則というか、最初の選択を変えようとはなかなかしないし、デフォルトが与えられると簡単にそれを選択してしまうので、選択構造やデフォルトが重要な結果をもたらす。

 

最後にある意味人を操作しようとするこのナッジは、個人や社会に良いことをする事にも、

利己的で他人や社会に害を与える事にも利用できる。

そこで最後に博士は、後者をSludge(ヘドロ)と呼んで戒める。

(実践行動経済学と講演より)

 

皮肉っぽくいえばマッチポンプのような気がしないでもない。

情報プロセス学派、意思決定学派のサイモンは別にして、行動経済学は良い意味でも悪い意味でも

アメリカンプラグマティズムの土壌に咲いた花だろう。

 

あることの成果をその意図(nudge or sludge)に遡って判断せざるを得ない弱みがある。

つまり、その意図の善悪を誰が決めるかの問題だ

それが宙吊りである以上、次の問いが決定的に重要になる。

政府対住民、企業対住民の力関係はどちらが上だろうか。

残念なことだが、住民や消費者、つまり市民の力が相対的に弱い我が国ではその強弱は自明だ。

 

この議論を安倍自公が進める憲法改悪に擬えてみる時、

たとえば、憲法9条に「自衛隊を明記する」という選択肢の提示は「自衛隊の違憲存在」を解消する、

との外装に包まれて、なし崩し的集団自衛権行使と関連させるとき、海外派兵が自由に行えるようになる危険がある。

また改憲の本丸は「非常事態条項」ともいわれる。

そうなれば首相権限で非常事態を発令し、それを連続することで民主主義を抹殺する危険性がある。

それこそ国民にとっての非常事態だ。

しかもマスコミ各社は、憲法改定に絡む宣伝費に限界を設けないように主張している。

つまり金のある側が、あらゆる手段ー嘘や風説を流布して主権者を欺くことが容易にできる

ようになる。

 

米国ではFOXなどのニュースメディアがもっぱらトランプ政権と共和党の言説を垂れ流し、

国民を平気で欺くことが横行している。

オーバーな、と思うなら、同じく2008年ノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン教授

ニューヨークタイムズ紙の以下の論説を読むといいだろう。

 

The Trump Tax Scam, Phase II

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13日から始まったジョージア(グルジア)映画祭。

その最初を飾る「テデの愛」を見に出かけた。

 

初日とあって 冒頭、在日グルジア大使館一等書記官の女性の挨拶があった。

原題はDede。ジョージア北西部の地方語スヴァン語で「」を意味するらしい。

 

物語はスヴァネティの厳しく、美しい自然を背景に紡がれる。

シュワルナゼが直接選挙で最高会議議長に就任した年1992年、、兵士ダヴィットは、恐らくは「南オセチア紛争」から、戦時中彼の命を救ったゲギを伴って故郷のスヴァネティに意気揚々と帰還した。

なにしろ、村には美しい許嫁ディナとの結婚式が待っているのだ。

 

しかしディナとゲギはお互いが戦争前に偶然に出会っていて、お互いに魅かれ合っていた。

ディナは亡父の兄弟である戸主が決めたダヴィッドとの結婚は、自分もダヴィットも不幸になるだけだと

思い、戸主にもダヴィドにも「ダヴィットとは結婚しない」という。そしてダヴィッドはディナが心に決めった相手を知って驚き、怒り、ゲギを狩りに連れ出して後ろから撃とうとするが、結局は自分を傷つける道、自殺を選ぶ。

 

ゲギと結婚し男の子も授かり幸せなディナ。

しかしゲギの心は晴れない。ある日ダヴィッドとの件の因縁で呼び出しに応じ、撃たれて死んでしまう。

 

ゲギとの愛に生きるディナは喪服を着たままで、略奪同然に連れてゆかれ、そのうえだ自分に愛を打ち明けて結婚を迫る男にも決して心を許さない。

しかしある時、引きはがされた息子が高熱を出し、駆け付けたディナは不眠不休で看護するが、

回復には町に出て薬を手に入れないといけない、とわかる。

しかし大雪で唯一の除雪車も故障してしまって町への交通手段はなくなった。

 

デデとは「母」を意味する、と先に述べた。

略奪同然に同棲した男が、自分の命の危険を顧みずディナの子供の、ゲギとの忘れ形見である男の子の命を助けてくれたことで、その感謝の気持ちから男の愛を受け入れる決心をする。

そう男のもとに行く前に、ゲギの墓前で

「いつまでもあなたを愛している、ゲギ許して

と言ってその男の懐に抱かれる。

 

このように綴ると、ディナのゲギに対する「純愛」と

ゲギとの間にできた男の子に対する「母親としての愛情」から、違う男の愛を受け入れた物語、

に終わってしまうのであるが、それでは物語の襞に隠れた苦しみや哀しみが取り残される。

ユニセフ(国連児童基金)は、児童婚を「子どもの基本的な権利の侵害」としている。ジョージアは、ヨーロッパでも児童婚の割合が高い国のひとつである。何世紀も前から続いてきた慣習で、特定の地域や宗教に限られていない。また、結婚の理由は町や集団によって異なるが、共通点がいくつかある。花婿はほとんどの場合花嫁よりも年上で、学校を卒業し、法定婚姻年齢に達している。通常は、花婿の母親がお見合いの段取りを整える、

   参考:ジョージアに残る児童婚の現実 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 

コーカサス山脈の山間にある村々は、厳しい自然に阻まれて、農業や酪農の生産性も低く

生活は極めて貧しい。

 

村の有力者、経済的に豊かで社会的に地位の高い一家に嫁がせることは、

自家の安定や社会的体面=面子が上がり、よって許嫁婚は「贈与ー互酬」的性格を持っている。

一方、娘が都会に出て行ってしまうと村はどうなるか。

結婚できない男が増え、自分たちの老後の面倒を見る嫁も居なくなり、結局男も都会に出て村は崩壊してしまう。 村の母親たちが許嫁婚を積極的に推進するのもそこに理由がある。

 

ゲギは納屋でディナに再会して、彼女が戦友ダヴィッドの許嫁であると知ったとき、

自分達が会ったとき、君はダヴィッドと婚約していたのか」と問う。

ディナは

ええ。でもダヴィッドを愛していなかった」と答える。

ゲギは

それは、問題じゃない」と返す。

つまりゲギも 村の許嫁婚の慣習が、村社会を維持していくために不可欠であることを認識しており、

ディナと家庭を持ち子をなしながら、なお心に晴れないものと村社会に負い目を感じているのだ。

 

女子が教育を受け、精神的自立や人間としての尊厳に目覚める時、「女」を「贈与ー互酬」交換の対象とする制度は崩壊する

だから今なお厳しい自然ー経済的環境下にある地方では「許嫁婚」しかも性教育を受けないままの

子供を結婚させることが横行している。

そういう社会では、マララ・ユスフザイ(ノーベル平和賞)が求める「教育」が敵なのだ。

 

会場でこの映画祭の資料を買い求めた。

この映画監督マリアム・八チヴァ二はスヴァネティ地方の出身で、32歳。

実の祖母の実話をもとに製作したらしい。資料の中で同監督は、

この地方の伝統や因習は、女性に悲劇をもたらしてきました。私は常に自由を妨げるものに反対していますが、これからは人々にこのようなことがあってはならないと言いたかったのです。(中略)しかし今日では状況が少し変わり、観光で地域が発展して、人々がこれまでとは違う考えを持ち始め、(中略)許嫁婚などの人権を傷つける慣行は廃止されるべきだと思いますが、愛と友情を示す儀式は維持されるべきだと思います。

と述べているが、儀式は伝統や因習と密接に結びついており、都合よくピックアップ出来るものではないだろう。儀式は伝統と分離するためには「換骨奪胎」出来なければ、つまり儀式の持っている意味を、

なにか別の意味を持つものに変えなければ、彼女の言う存続は出来ないだろう。

 

同じく会場で求めたものに、はらだたけひで さん著作の「グルジア映画への旅」がある。

グルジア映画と岩波ホールの縁を紡いできた原田健秀さんは、絵本作家で、

冒頭の在日グルジア一等書記官のあいさつの中で、はらださんに謝意を述べたとき、

舞台の袖に控えたままの、大変に控えめな方であった。

 

この映画を見たことで、グルジア社会に対して一つの視角を得ることになった。

旅行ではスヴァネティにまで足を延ばすことはできないが、現地であれこれと聞きたいことができた。

 

 

 

 

 

 

 

アルメニア人も複雑な民族である。

アルメニア語は三カ国の中で唯一インド・ヨーロッパ語族である。

周辺大国のトルコ語はテュルク系(モンゴル・アルタイ)、イラン・ペルシャ語は同じインド・ヨーロッパ語族で同系の民族と言われる。しかし宗教は違う。

グルジアはアルメニアと同じキリスト教国だが言語は南コーカサス諸語。

アゼルバイジャンはテュルク系言語で宗教はイランと同じシーア派。

周辺大国トルコはテュルク系民族言語であるが宗教はスンニ派。

宗教と言語と民族が重なっている島国日本人にはこれを「outlier-外れ値」と思うが

世界ではいくらでも例のある事のようだ。

 

アルメニア本国の人口は300万人であるが、その二倍以上のアルメニア人が国外に住んでいる。

際立った産業の無いアルメニアは「出稼ぎ」で経済的に支えられている面もある。

世界的に活躍する人も多い。

指揮者のカラヤン、ハチャトリアン。シャンソン歌手のアズナブールなども海外で活躍した同国人だ。

 

アルメニアは世界で最も早くキリスト教を国教化したが後述するように国教化当時のローマ帝国から始まってイスラーム帝国、ササーン朝ペルシャ、モンゴルのハーン帝国、オスマントルコ帝国、ロシア帝国・ソ連と周辺超大国に蹂躙されながら、国と宗教を守ってきた。

 

地政学

カスピ海と黒海の間にあって内陸国で出口はない。

東にアゼルバイジャン、北西にグルジア、西にトルコ、南にイランと国境を接している。

アルメニアはナゴルノ・カラバフを廻ってアゼルバイジャンと、オスマントルコ時代のアルメニア人虐殺の歴史認識を廻ってトルコと激しく争っている。

 

アルメニアはイラン・アナトリア高原の一部に含まれる。

アナトリアにはカッパドキアがあって、カッパドキアはローマ帝国の属州であったが、330年この属州の東半分がアルメニア属州と合併されたことからわかるようにほぼ一体の関係にある。

カッパドキアには古代のキリスト教徒が迫害から逃れるために地下教会や住居群を作って隠れたが、彼等がそこをも逃れなければならなかった時、彼らの行く先はアルメニアではなかったのか。

トルコ旅行の際、紀元前14世紀ごろ、この地にヒッタイト帝国が出現し、鉄器や車輪を持った戦車でエジプトのラムセス二世と戦った史実もある事を知った。

このヒッタイトがアルメニア人と同じインド・ヨーロッパ語族であることから、アルメニア人との繋がりも推測される。

 

アルメニア人虐殺は19世紀末から20世紀初頭にかけて、オスマン帝国がアナトリア東部からアルメニア人を強制移住させた際虐殺が行われた。

アルメニア人は経済活動に長け、トルコ社会で成功するものが多く、欧州のカトリックの庇護を受けることでトルコ民の反感を買った側面もあるだろう。

一方では1877年ロシア対オスマン両帝国の紛争でロシアが南コーカサスに進出し、ロシアお得意のちょっかいを出してその国を不安定化させ、その中から自国の利益を得る、という方策でアルメニア人を唆し、それがトルコ人とアルメニア人の民族対立に油を注いだ面もあるだろう。

1970年代になってもアルメニア人過激派がトルコ政府高官に対してテロを行ったこともあり、トルコ人民のアルメニアへの反感は未だ生々しいから、虐殺を認めて謝罪する状況には程遠い

 

アルメニアのキリスト教

アルメニアの複雑さは上記の地勢的な要因と、その地勢的要因にも起因した歴史的要因もある。

ローマ帝国時代

紀元前27年ローマは共和政から帝政へと移行する。ただし初代皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振る舞った。この段階をプリンキパトゥス元首政)という。ディオクレティアヌス帝が即位した285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。313年コンスタンティヌス1世が、首都をローマからコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)へ遷した

アウグストスはカエサルの姉の孫で10代から頭角を現し、帝位についた。

デイオクレティアヌス帝はキリスト教に大迫害を加えたが、当時人口の一割に達していたキリスト教を潰すことは出来ず、後のコンスタンティヌスは313年ミラノ勅令でキリスト教を公認し、教義の統一の為に全帝国の司教を集めてニカイアで公会議を開催し三位一体説を公認した。

繰り返しになるが、アルメニアがキリスト教を国教したのが301年であるから、当時アルメニアのキリスト教徒は迫害の中にあったのである。

またアルメニアは三位一体説と対立する「単性説」であったために、ニカイア公会議で異端とされ、

その後も迫害された。

 

ササン朝ペルシャ

226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝帝国。首都はクテシフォン(現在のイラク)

その支配領域はおおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタントルクメニスタン、果てにウズベキスタン周辺まで及んだ。

特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教神官階層から出現したこともあって、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった

アルメニアではゾロアスター教を信奉するペルシャ側の過酷なキリスト教弾圧に対して度々抵抗した。

一方アルメニア教会の単性説がカトリックから異端とされた事を根拠にペルシャ側に宗教的自由を認めさせることに成功して、独自のキリスト教を守り抜いた。

東西の十字路に位置したこの王朝は、キリスト教、ゾロアスター教、仏教などを集合したマニ教を生み出したとでも知られるが、これを述べる紙面の余裕がない。

 

イスラーム帝国

 ムハンマドが622年にメディナで組織したイスラーム教徒の共同体であるウンマは、国家の形態をすでに持っており、広い意味では「イスラーム帝国」という場合もあるが、このイスラーム国家は、7世紀の正統カリフ時代と8世紀前半までのウマイヤ朝時代までは、あくまで征服者であるアラブ人主体の国家であったので、「アラブ帝国」と言う。

それに対して、750年に成立したアッバース朝から、イスラーム国家は、アラブ人以外のイスラーム化したイラン人トルコ人などの西アジアの広範な民族が加わり、イスラーム教の信仰によって結びついて平等な構成員となっていった。アッバース朝では税制改革などによってイスラーム教徒(つまりムスリム)としての平等化がはかられたので、厳密な意味で「イスラーム帝国」といえるようになった。
 ムハンマド時代→正統カリフ時代→ムアイア朝時代→アッバース朝時代と広がっていったイスラーム帝国の領土を示すと次のようになる。

 

アッパース朝はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の東部を圧して、南コーカサスを手中に収めた。

アルメニア一時その勢力下に入るが9世紀末には独立を達成する。このころ東ローマ帝国から宗教的統合の要求があったがアルメニア使徒教会の信仰を貫いた。

 

オスマン帝国

テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナハンガリーチェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。

16世紀以降当時の二大勢力であったイランのサファーヴィー朝とオスマン帝国により東西に領土分割を余儀なくされ国としての独立を失った。そしてアルメニア人キリスト教徒は隷属民としてトルコ人イスラム教徒から激しい差別を受けた。

 

ロシア帝国(ロマノフ王朝)

1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランドリボニアリトアニアベラルーシウクライナポーランドカフカーズ中央アジアシベリア外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシアとも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする

 

(新しくロシア帝国のツアーたらんとしているプーチンと区別するため、ロマノフ王朝と付記する。)

第一次ロシアートルコ戦争(1768-1774)でロシアが勝利し、オスマントルコから南は、コーカサス三国に至る領土の割譲を受け、以後コーカサス三国はロシア領土となる。

命後はソ連邦に組み入れられ、1991年のソ連崩壊で他の二カ国と共に独立した。

キリスト教に関しては、同じキリスト教のロシア正教会が国教であるロシアとは宗教面での対立に触れた資料は見当たらなかった。

 

コーカサスの治安問題

上述のとおり、コーカサス地方は幾多の戦乱に見舞われ、国としての独立が危うかった歴史をもち、

その領土や民族、言語、宗教は一様ではない

南コーカサスでは三国がそれぞれこれにまつわる民族紛争を抱えており、これが治安の悪化をもたらしている。

アゼルバイジャンは「ナゴルノ・カラバフ紛争」

グルジアは「アブハジア紛争」「南オセチア紛争」

アルメニアは上記二カ国のような深刻な民族問題はないとされるが、それはアゼルバイジャンとの

「ナゴルノ・カラバフ紛争」の折、アゼルバイジャンではアルメニア人が、アルメニアではアゼルバイジャン人が民族浄化で殺害され、離散を余儀なくされた結果だから、良しとは到底言えない。

旅行の安全に関しては、紛争地域や国境付近に近寄らなければそれほど危険ということはないだろう。

心配な方の為に以下に安全情報のページを掲載されるので参考にされたい。

アゼルバイジャン:https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_152.html#ad-image-0

グルジア:https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pchazardspecificinfo_2016T092.html#ad-image-0

アルメニア:https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pchazardspecificinfo_2018T055.html#ad-image-0

 

 

見出しは、つい旅行社のタイトルに倣って「コーカサス三ヵ国」としてしまったが、正確を期すなら「南コーカサス三ヵ国」だろう。

 

グルジア(ジョージア)

グルジアは南コーカサス三ヵ国の西側、黒海の東岸に位置する人口430万人の民主主義国家である。

グルジア、というのはロシア名だが、2014年日本政府に対し「ジョージア」と呼称するよう要請があり、

正式には「ジョージア」と言うべきであろう。 

「ジョージア」と言えば我々には米国の「ジョージア州」が先ず念頭に浮かぶが、これと区別するため

同国を"Country of Georgia"、米国の州を"State of Georgia"と呼び分ける慣例がある。

このブログではグルジアの方が紛らわしくないので、こちらを使用する。

 

先に述べたように1991年ソ連邦解体により独立したが、あの恐怖の共産主義全体主義者スターリンの

生まれ故郷でもある。

ソ連邦傘下のグルジア共産党時代にのし上がったシュワルナゼがゴルバチョフがソ連共産党書記長になると中央委員会政治局員に抜擢され、ソ連外相に就任する。(アリエフとは逆の運命)

1990年にはゴルバチョフの大統領制ー権力の強化に反対して下野し、エリツイン時代に外相に復帰、

ソ連解体後にはグルジア人の期待が高まり1995年、グルジアの大統領に選出された。

彼によりグルジアは欧米との関係も好転して安定したが、経済の低迷や汚職などの政権内部の腐敗により「バラ革命」(2003年)で辞任を余儀なくされた。

 

キリストの死後、十二使徒による福音伝道がこの地に及び、ローマ支配が揺らいだ3~4世紀には信徒が増大した。現在のグルジア東部に成立したコーカサス・イベリア王国が330年代にミリアン三世によって国教となた。これは301年に隣のアルメニア王国の国教化に次ぐ古さである。

ローマ帝国は313年にキリスト教を公認国教化は392年テオドシウス帝の勅令によってなされたが、この公認に至るまでの間のローマ帝国によるキリスト教の弾圧がグルジア、アルメニア両国にも大きな影響をあたえた。

 

グルジアの国旗は守護聖人である聖ゲオルギウスの十字に四隅に描かれた小さな赤十字を配している。これは4人の福音書記者、聖マタイ・聖マルコ・聖ルカ・聖ヨハネの象徴であり、この国の帰依の深さを表しているのだろう。 聖ゲオルギウスの龍退治の神話はルネッサンス期、ラファエロデューラーによって描かれた。

ラファエロ

 

グルジア映画

この430万人の、北海道や福岡県の人口にも満たない国の映画には何かしら惹きつけるものがある。

最初の出会いは、昨年グルジア出身で、時の共産主義政権に反体制になり、フランスに渡ったオタール・イオセリアーニ監督「皆さま、ごきげんよう」 が最初だからまだ駆け出しのようなものである。

この映画、「世の中は、いろいろな尽きる事の無い障害物があり、いつも幸せで終わるとは限らず、不確実なことだらけであるが、人生は続いていく」

ということがテーマらしい。

グルジア映画の不可思議さに誘われてイオセリアーニの自伝的作品「汽車は再び故郷へ」や「放浪の画家ピロスマニ」、そして岩波ホールで「祈り」を観賞した。

岩波ホールでは10月13日から26日まで、「ジョージア(グルジア)映画祭が開催される。

同ホールがグルジア映画に縁が深いのは、はらだたけひこ さんという方がその縁を紡いできたせいらしい。  同氏の著作を未読だが紹介させていただく。

 

 

軍用道路

ロラン・バルト「演劇のエクリチュール」で、ブレヒトの「コーカサスの白墨の輪」を彼の傑作の中でも

最も重要な戯曲だ、としている。

コーカサスのソヴィエト時代のコルホーズの村で劇中劇ー恐らくは革命前のーが上演される。

グルジアの領主の台所女中グルシュが、実の母親に捨てられた領主の子供を成り行きで連れて逃亡行をせざるを得なくなる。その途中でグルシュ軍用道路を通って兄のところに身を寄せるのだ。

領主もまた逃亡行をするのだが、その途中で領主は野卑だが知性のあるペテン師アツダクにかくまわれ、ペルシャ軍の助けを借りて遂に領主に復帰した彼はアツダクを奉行職(判事)に任命する。

そこに領主の元妻である生みの親と子供の育ての親グルシュが双方とも自分の子供だ、と譲らないため、アツダクのもとに審判が持ち込まれる。(ブレヒト戯曲選集第五巻、千田是也編集より要約)

「悪い社会では、ペテン師の判事だけが正しい判決を下すことが出来るのだ」

バルトは何やら今の日本でも身につまされる教訓を引き出しているが、この軍用道路グルジアのトビリシからコーカサス山脈を縫ってロシアのウラジカフカス(コーカサスを征服せよ、という物騒な地名)を結ぶ全長212キロである。

 

軍道の最高地点は標高2379メートル

沿道には古都ムツヘタや17世紀のアナヌリの教会があり、最高地点の十字架峠を経て、ロシア国境10キロ手前のカズベキでハイキングを楽しんだり14世紀に建てられたツミンダ・サメバ教会に4WDで登るなど、この軍用道路はグルジアの重要な観光資源になっている。

 

黒海

グルジアの西部は黒海に面している。

黒海はマルマラ海を経てエーゲ海、地中海へと繋がっている。

2014年のトルコ周遊旅行ボスボラス海峡は二回ほど渡ってその時黒海の一部を見たが、その長さは1200キロ弱あるから一部というより縁を見た、というのが正確だろう。

沿岸諸国はトルコ、ウクライナ、ブルガリア、ルーマニア、ロシアにグルジアの6か国

イスタンブールオデッサ(ウクライナ)、ソチ(ロシア)の沿岸諸都市に比べ、グルジアポティ港の影は薄い。

 

1905年の日本海海戦で日本はロシアのバルチック艦隊をせん滅したのち、ロシアは黒海艦隊を出動させようとしたが、ダーダネルス海峡もボスボラス海峡も艦隊の運航は禁止されていたため、結局は出動できなかった歴史がある。それが日本に幸運をもたらしたと言えるだろう。

ソ連崩壊前は黒海は「ソ連の海」と言われたが、崩壊後は北岸は新たに独立したウクライナに、東岸はグルジアに属すことになりロシアは北東部に押し込められた。

最近ではウクライナの領土の一部であったクリミア半島を2014年ロシアが強引に編入し、西側諸国はこれを承認せず、その後のロシアに対する経済制裁へと繋がったことは記憶に新しい。

グルジアの観光としては、黒海に面した方面に行くツアーはないようだ。

 

 

 

 

カスピ海と黒海に挟まれたコーカサス山脈の南側に、三ヵ国がある。

 

19991年12月、ゴルバチョフの辞任と共にソ連邦が崩壊。

この三か国は崩壊を機に独立した。

ソ連邦の成立は1922年12月だから、成立後69年後の出来事である。

 

古代にはアルメニア、グルジアでキリスト教が栄え、12世紀にモンゴル軍が襲来してこの地を支配した。

 

16世紀以降、南コーカサスはサファヴィー朝などのイラン勢力とオスマン帝国の争奪の場となり、1578年オスマン・サファヴィー戦争のひとつララ・ムスタファ・パシャのコーカサス戦争が起こった。

19世紀に入ると北コーカサスの併合を完了したロシアは大コーカサス山脈の南にまで勢力を伸ばし、南コーカサスを支配するカージャール朝イランとオスマン帝国からこの地方を奪った。同じ時期、北コーカサス東部の山岳地帯では、ミュリディズム運動と呼ばれるイスラム神秘主義のひとつナクシュバンディー教団の指導者たちを中心とする反乱が起こり、ロシア支配に激しく抵抗した(コーカサス戦争)。

ロシア革命が起こると、南コーカサスではアルメニア、グルジア(ジョージア)、アゼルバイジャンが1918年に独立を宣言するが、相互に対立を続けるうちに1921年に赤軍の侵攻を受け、1922年ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を結成してソビエト連邦に合流した。北コーカサスでもチェチェンやダゲスタンで独立運動が起こるが赤軍によって赤化が進められ、ロシアに編入された。(Wikipedia)

 

 

アゼルバイジャン

アゼルバイジャンは、ソ連邦下の共産党でのし上がり、モスクワの中央政界入りで中央委員会政治局員に抜擢されるも、ゴルバチョフと対立して引退して故郷に帰ったヘイダル・アリエフが1993年大統領に就任。プーチンの先駆けともいえる強権政治で支配。現在は息子のイルハム・アリエフが継いでいる。

 

人口は900万人強。南にイランと国境を接していることもあり、イスラム教シーア派が主流である。

アルメニアと国境を接するナゴルノ・カラバフ地方の領有権をアルメニアと争っており、ここは危険地帯である。

 

イランと国境を接するイラン北部はアゼルバイジャン人が多く、「法学者が統治する国」イラン

第二代最高指導者ハーメネイ師は父親がアゼルバイジャン人である。

サッカーのイランチームにもアゼルバイジャン人が多いらしい。

 

バクー油田など豊富な天然資源が国の経済を支えている。2006年にはグルジアから地中海に面するトルコのジェイハンまでのパイプラインが開通し、エネルギーのロシア依存を脱したいEUにとっては大きな恩恵になっている。

この地方がEUや米国にとっても戦略的に重要な場所である由縁である。

 

地政学的要因から、歴史的にイランやトルコの影響を受けやすいが、

17世紀にこの地方を拠点にサファヴィー朝が起こり、カスピ海南西岸地域一帯の多くのテュルクメン系の人々がシーア派へ改宗した結果、アゼルバイジャン人(アゼリー人)と呼ばれる民族が形成されていった。(Wikipedia)

アゼルバイジャン人がテュルク系とは興味深い。

彼らは我々や中国人、トルコ人同様、蒙古斑を持って生まれてくるのだろうか。

 

拝火教(ゾロアスター教)

拝火教については、松本清張の紀行文か何かで読んだことがあり、その時大いに興味をそそられた。

紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシャが成立した時には王国の中枢をなすペルシャ人の殆どは信者であった。 またその後もササン朝ペルシャ(3~7世紀)では、国教とされペルシャ商人によって中国にも伝播したが、7世紀のペルシャ人のムスリム化によって衰退した。

開祖は世界最古の預言者ゾロアスター(ツアラトストラーニーチェ?)。

善悪二元論に立って、善の象徴として純粋な光=火を貴ぶことから拝火教とも呼ばれる。

礼拝は「火の寺院」で行われ、手と顔を清め履物を脱いで聖火の前に進み、その灰を自分の顔に塗る。

死者は野原ないし高台の塔に置き、鳥がついばみ風化するままに放置する。

信じがたいが、親、子、兄弟姉妹と交わる親近婚を最大の善徳としており、古代ペルシャでは階級に関係なくこれが行われていたらしい。 ムスリムにとってかわられる要因でもあったのであろうか。

 

しかし、人は善思、善語、善行の三徳を積むことを求められ、それらの生前の実践によって裁きを受け死後は天国か地獄かのいずれかに旅立つ、という死生観や、

この世の終末には「最後の審判」がなされ、そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の救世主によって永遠の生命をあたえられる、という終末観キリスト教イスラームにも受け継がれているから、後の世界宗教に大きな影響を与えたと言えるだろう。

 

イラン高原の影響下にあったアゼルバイジャンには、なんと17世紀のゾロアスター教寺院が残されているから、イランでのムスリム化以後もここでは生き残っていたらしい。 そして

葬送や死生観や終末観、あるいは近親婚についてはどのような変化があったのか

の興味は尽きない。

 

余談だが、M・エリアーデ風に言えば、炎の形象は女陰を連想させ、縄文の埴輪にも見られるごとく、

豊穣のシンボルともなる。一方では。炎で焼き尽くされた野原に新芽が萌え出でる如く、死と再生のシンボルでもある。

拝火教寺院の配置や、礼拝のプロセスの中に、これらのメタファーやシンボルがどのように活用されているのかも知りたいところだ。

 

カスピ海

カスピ海は、アフリカ大陸の南の方から移動してきた大陸によって封鎖された海の名残である。

ロシア平原から来るヴォルガ河、ウラル山脈に発するウラル川など流入するのは淡水だから、

淡水湖かと思いきや、いまだに海水である。それは湖底に岩塩が沈殿している為らしい。

水位は流れ込んだ淡水が蒸発する事である一定範囲に収まっているらしい。もちろんその年その年によって降水量が変動し、暑さも一定ではないから水位の上下は免れない。

 

カスピ海を取り囲むのは、ロシア連邦ダゲスタン共和国カルムィク共和国チェチェン共和国アストラハン州)、アゼルバイジャン共和国イランマーザンダラーン州など)、トルクメニスタンカザフスタンである。国際法的な湖の境界については、5カ国が2018年8月12日に署名した協定で、完全に確定した。

 

アゼルバイジャンのバクーは沿岸随一の大都市で、バクー油田の生産基地でもあることは前に述べた。

日本からはるかに遠く、身近に感じるものと言えば「カスピ海ヨーグルト」だけである。

目先の利く人が、コーカサスの人々が長寿であることに目をつけ、種を持ち帰って商品化したらしい。