#コーカサス三ヵ国旅行 #予習編3 #アルメニア #地政学 #キリスト教 #治安問題 | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

アルメニア人も複雑な民族である。

アルメニア語は三カ国の中で唯一インド・ヨーロッパ語族である。

周辺大国のトルコ語はテュルク系(モンゴル・アルタイ)、イラン・ペルシャ語は同じインド・ヨーロッパ語族で同系の民族と言われる。しかし宗教は違う。

グルジアはアルメニアと同じキリスト教国だが言語は南コーカサス諸語。

アゼルバイジャンはテュルク系言語で宗教はイランと同じシーア派。

周辺大国トルコはテュルク系民族言語であるが宗教はスンニ派。

宗教と言語と民族が重なっている島国日本人にはこれを「outlier-外れ値」と思うが

世界ではいくらでも例のある事のようだ。

 

アルメニア本国の人口は300万人であるが、その二倍以上のアルメニア人が国外に住んでいる。

際立った産業の無いアルメニアは「出稼ぎ」で経済的に支えられている面もある。

世界的に活躍する人も多い。

指揮者のカラヤン、ハチャトリアン。シャンソン歌手のアズナブールなども海外で活躍した同国人だ。

 

アルメニアは世界で最も早くキリスト教を国教化したが後述するように国教化当時のローマ帝国から始まってイスラーム帝国、ササーン朝ペルシャ、モンゴルのハーン帝国、オスマントルコ帝国、ロシア帝国・ソ連と周辺超大国に蹂躙されながら、国と宗教を守ってきた。

 

地政学

カスピ海と黒海の間にあって内陸国で出口はない。

東にアゼルバイジャン、北西にグルジア、西にトルコ、南にイランと国境を接している。

アルメニアはナゴルノ・カラバフを廻ってアゼルバイジャンと、オスマントルコ時代のアルメニア人虐殺の歴史認識を廻ってトルコと激しく争っている。

 

アルメニアはイラン・アナトリア高原の一部に含まれる。

アナトリアにはカッパドキアがあって、カッパドキアはローマ帝国の属州であったが、330年この属州の東半分がアルメニア属州と合併されたことからわかるようにほぼ一体の関係にある。

カッパドキアには古代のキリスト教徒が迫害から逃れるために地下教会や住居群を作って隠れたが、彼等がそこをも逃れなければならなかった時、彼らの行く先はアルメニアではなかったのか。

トルコ旅行の際、紀元前14世紀ごろ、この地にヒッタイト帝国が出現し、鉄器や車輪を持った戦車でエジプトのラムセス二世と戦った史実もある事を知った。

このヒッタイトがアルメニア人と同じインド・ヨーロッパ語族であることから、アルメニア人との繋がりも推測される。

 

アルメニア人虐殺は19世紀末から20世紀初頭にかけて、オスマン帝国がアナトリア東部からアルメニア人を強制移住させた際虐殺が行われた。

アルメニア人は経済活動に長け、トルコ社会で成功するものが多く、欧州のカトリックの庇護を受けることでトルコ民の反感を買った側面もあるだろう。

一方では1877年ロシア対オスマン両帝国の紛争でロシアが南コーカサスに進出し、ロシアお得意のちょっかいを出してその国を不安定化させ、その中から自国の利益を得る、という方策でアルメニア人を唆し、それがトルコ人とアルメニア人の民族対立に油を注いだ面もあるだろう。

1970年代になってもアルメニア人過激派がトルコ政府高官に対してテロを行ったこともあり、トルコ人民のアルメニアへの反感は未だ生々しいから、虐殺を認めて謝罪する状況には程遠い

 

アルメニアのキリスト教

アルメニアの複雑さは上記の地勢的な要因と、その地勢的要因にも起因した歴史的要因もある。

ローマ帝国時代

紀元前27年ローマは共和政から帝政へと移行する。ただし初代皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振る舞った。この段階をプリンキパトゥス元首政)という。ディオクレティアヌス帝が即位した285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。313年コンスタンティヌス1世が、首都をローマからコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)へ遷した

アウグストスはカエサルの姉の孫で10代から頭角を現し、帝位についた。

デイオクレティアヌス帝はキリスト教に大迫害を加えたが、当時人口の一割に達していたキリスト教を潰すことは出来ず、後のコンスタンティヌスは313年ミラノ勅令でキリスト教を公認し、教義の統一の為に全帝国の司教を集めてニカイアで公会議を開催し三位一体説を公認した。

繰り返しになるが、アルメニアがキリスト教を国教したのが301年であるから、当時アルメニアのキリスト教徒は迫害の中にあったのである。

またアルメニアは三位一体説と対立する「単性説」であったために、ニカイア公会議で異端とされ、

その後も迫害された。

 

ササン朝ペルシャ

226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝帝国。首都はクテシフォン(現在のイラク)

その支配領域はおおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタントルクメニスタン、果てにウズベキスタン周辺まで及んだ。

特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教神官階層から出現したこともあって、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった

アルメニアではゾロアスター教を信奉するペルシャ側の過酷なキリスト教弾圧に対して度々抵抗した。

一方アルメニア教会の単性説がカトリックから異端とされた事を根拠にペルシャ側に宗教的自由を認めさせることに成功して、独自のキリスト教を守り抜いた。

東西の十字路に位置したこの王朝は、キリスト教、ゾロアスター教、仏教などを集合したマニ教を生み出したとでも知られるが、これを述べる紙面の余裕がない。

 

イスラーム帝国

 ムハンマドが622年にメディナで組織したイスラーム教徒の共同体であるウンマは、国家の形態をすでに持っており、広い意味では「イスラーム帝国」という場合もあるが、このイスラーム国家は、7世紀の正統カリフ時代と8世紀前半までのウマイヤ朝時代までは、あくまで征服者であるアラブ人主体の国家であったので、「アラブ帝国」と言う。

それに対して、750年に成立したアッバース朝から、イスラーム国家は、アラブ人以外のイスラーム化したイラン人トルコ人などの西アジアの広範な民族が加わり、イスラーム教の信仰によって結びついて平等な構成員となっていった。アッバース朝では税制改革などによってイスラーム教徒(つまりムスリム)としての平等化がはかられたので、厳密な意味で「イスラーム帝国」といえるようになった。
 ムハンマド時代→正統カリフ時代→ムアイア朝時代→アッバース朝時代と広がっていったイスラーム帝国の領土を示すと次のようになる。

 

アッパース朝はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の東部を圧して、南コーカサスを手中に収めた。

アルメニア一時その勢力下に入るが9世紀末には独立を達成する。このころ東ローマ帝国から宗教的統合の要求があったがアルメニア使徒教会の信仰を貫いた。

 

オスマン帝国

テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナハンガリーチェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。

16世紀以降当時の二大勢力であったイランのサファーヴィー朝とオスマン帝国により東西に領土分割を余儀なくされ国としての独立を失った。そしてアルメニア人キリスト教徒は隷属民としてトルコ人イスラム教徒から激しい差別を受けた。

 

ロシア帝国(ロマノフ王朝)

1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランドリボニアリトアニアベラルーシウクライナポーランドカフカーズ中央アジアシベリア外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシアとも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする

 

(新しくロシア帝国のツアーたらんとしているプーチンと区別するため、ロマノフ王朝と付記する。)

第一次ロシアートルコ戦争(1768-1774)でロシアが勝利し、オスマントルコから南は、コーカサス三国に至る領土の割譲を受け、以後コーカサス三国はロシア領土となる。

命後はソ連邦に組み入れられ、1991年のソ連崩壊で他の二カ国と共に独立した。

キリスト教に関しては、同じキリスト教のロシア正教会が国教であるロシアとは宗教面での対立に触れた資料は見当たらなかった。

 

コーカサスの治安問題

上述のとおり、コーカサス地方は幾多の戦乱に見舞われ、国としての独立が危うかった歴史をもち、

その領土や民族、言語、宗教は一様ではない

南コーカサスでは三国がそれぞれこれにまつわる民族紛争を抱えており、これが治安の悪化をもたらしている。

アゼルバイジャンは「ナゴルノ・カラバフ紛争」

グルジアは「アブハジア紛争」「南オセチア紛争」

アルメニアは上記二カ国のような深刻な民族問題はないとされるが、それはアゼルバイジャンとの

「ナゴルノ・カラバフ紛争」の折、アゼルバイジャンではアルメニア人が、アルメニアではアゼルバイジャン人が民族浄化で殺害され、離散を余儀なくされた結果だから、良しとは到底言えない。

旅行の安全に関しては、紛争地域や国境付近に近寄らなければそれほど危険ということはないだろう。

心配な方の為に以下に安全情報のページを掲載されるので参考にされたい。

アゼルバイジャン:https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_152.html#ad-image-0

グルジア:https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pchazardspecificinfo_2016T092.html#ad-image-0

アルメニア:https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pchazardspecificinfo_2018T055.html#ad-image-0