Gon のあれこれ -19ページ目

Gon のあれこれ

読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

昨日の元旦は、目覚ましを午前一時半にセットして起床。

自転車で近くの神社に初詣。

 

人影もまばらで、すぐお参りできる。

社務所でこの神社の神璽と家内安全・招福の札、

それに車内の交通安全の札を買い求める。

 

伊勢神宮の札を真ん中に、左右に土地の神社、氏神を

まつる、というのは明治以来の国家神道の風習。

それが極右団体神社本庁や日本会議の資金源になるので、

皇大神宮の札は、ここ最近買っていない。

 

帰宅していったん床に就き、初日の出に合わせて6時半起床。

宅地化が進み日ノ出を拝む場所は限られる。

そこまでスロージョギングで行って、

建物の間から登る日の出に手を合わせお参り。

 

その場でウオームアップ。

胸いっぱい身体いっぱいに陽光を吸い込んでリフレッシュ。

背を反らせて天空を仰ぐと下弦の月が薄墨のように浮かんでいる。

中心には雲一つない深い青空だ。

伝統楊家28式を奉納(したつもり(^^♪)。

五行拳の練習を少しして帰宅。

 

帰宅後は風呂を沸かして初湯。

斎戒沐浴の後 神棚に札や供え物を上げて礼拝。

今年のお神酒は獺祭の新酒。

酒屋の女将の話では蔵元山口の旭酒造の

災害復旧は早く済んだ、とのこと。

お神酒のお裾分けをいただいて朝食。

 

参考:楊澄甫の娘婿 傅鐘文の孫 清泉の演武28式。

    一動全動、連綿不断。勁が伸びて力感が素晴らしい。

    幼少のころから鍛えられた中国老師の域には容易には近づけない。

 

 

余談だが今日二日は午前五時半過ぎに出ていつも通りのスロージョギング、ウオームアップに

楊式太極拳は楊澄甫10大弟子の一人、崔毅士の孫の崔仲三老師の56式の練習。

 

太極拳は武術、内功、養生の三つの側面があるが、それらは定式の一つ一つに分かち難く

結びついている。

養生もまた、調心、調息、調身を一体で実現することで得られるが、それは同時に内功と

武術の要領でもある。

口で言うのは簡単だが、それを実現するのはとても難しく、、

功夫しても次々に問題が見つかって飽きることがない。

その意味でも太極拳は一生もので、いつから始めても遅い、ということはなく

自分なりの道は必ずあるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

皆様、いかがお過ごしでしょうか。

私は相変わらず朝飯前のスロージョギングとウオームアップに太極拳五行拳功夫、

週に三日のジム通い、週に二度の気功易筋経、夕食前のヴィパッサナー瞑想など、

心身ともに概ね健康で過ごしております。

昨年は連れ合いとヴェトナム旅行で、サイゴンの戦争博物館で沢田教一を偲び、

メコン川を望むホテルのバーで風に吹かれながら独りでコニャックソーダを飲んで

開高健の一日の解放を思いやって、人類最大の愚行の一つを胸に刻みました。

五月のシルクロードの旅では、敦煌莫高窟で華麗な仏教美術を拝見し、陽関では

王維の七言絶句の往時を想像してみました。一方ウイグル自治区ではその公安警察の

厳しい検問からウイグルの人たちの苦衷を察するに余りありました。

10月にはカスピ海と黒海に挟まれた南コーカサス三ヵ国、アゼルバイジャン、

ジョージア、アルメニアを周遊。古代オリエントの拝火教、ジョージア正教会、アルメニア

正教会、ミトラ神殿やモスクやシナゴーグなどを実見することが出来、その後の古代宗教史

の学びの励みになりました。

一方展覧会は概ね月一回のペースでマニエリスムからバロックまで、あるいはキュビスム

や後期印象派と多彩でしたが最も印象深かったのは「聖像画」ルオーでした。

映画は今年最も話題となった「万引き家族」や「カメラを止めるな」のほか、韓国映画の

「タクシー運転手」や「1987、ある戦いの真実」ジョージア映画の「祈り」や「テデの愛」

ポーランド映画や旅行の余韻でアルメニア映画など、エスニシティに富んだラインナップ

を楽しむことが出来ました。

さて今年は、となりますが、今年も読書を加えて実り多い年でありたいもの、と思います。

勿論そのためには健康第一。

我が国に孕む危機を思えば、何より参議院選挙で、安倍政権を倒すことが喫緊の課題。

末尾ながら、皆様のご健康をお祈りいたしております。

 

フェルメールの残存する絵画32点のうち、9点が展示される、というので出かける。

鑑賞券は2500円と国内の展覧会としては高い方だが、イヤホンガイド付きである。

 

32点のフェルメールの絵画のうち、今回の目玉、とも言える「牛乳を注ぐ女

即座に想起されたのは、デヴィッド・ホックニーの「Secret Knowledge

 

ここでホックニーは左上のかごの網目が手前の人物に比べて明確に細密であるところから、

光学機械ーカメラ・オブスクラの焦点をここに当てたのだろう、と推測している。

裸眼ではこうは見えないのだ。

 

カメラオブスクラや凸面鏡などを使用したのはファン・アイク(1390-1440)辺りから。

フェルメールが敬愛したカラヴァッジョも使用した形跡があるから、フェルメールが使用したことに

それほど違和感がない。

彼の遺言執行人であった、アントニ・ファン・レーウェンフックは史上初めて顕微鏡を用いて

微生物を発見し微生物学の父、と称される人物であることも傍証にになるだろう。

 

カラヴァッジョを始め、バロックの画家たち、ルーベンスベラスケスも何らかの光学機械を

使っているから「写実的な人物像」 「強烈な光の明暗と劇的表現」などは、光学機械の使用が

それを支えた面があるだろう。

ちなみにレンブラントは光学機械を使用していない、とホックニーは「絵画の歴史」の中で言っている。

 

画家が光学機械を使用したからと言って、その作品の評価を貶めたことにはならない。

絵画には技法を超えた何かが、それを芸術たらめている、ということは言うまでもない。

 

「とりもち女」と題されるこの絵画は、娼館のやりて婆であろうか。

婆というには若すぎ、不埒にも左胸を触っている輩もいるから娼婦なのかもしれない。

この左手の人物はフェルメールの自画像、とされることもありこれも有名な絵だ。

 

よく見るとこの人物のスカーフの辺に当たっている光線は右手の二人の人物に当たる光線

とは少し角度に違和感がある。

 

著書「フェルメールの世界」(NHKブックス)で小林頼子氏は、絵画修復家のウエイドウムの「透視法」説

を引用して、「フェルメールの空間構築法を解明したばかりか、フェルメールのカメラ・オブスクラ利用説

の帰趨にも重要な一石を投ずることになった」(同署82P前後)

とあるけれども、ここに載せた絵画二点は果たして「透視法」で説明できるだろうか、疑問だ。

最も同氏の著作は1999年。ホックニーの著作は2006年だから同氏の引用文献にはないが。

 

余談だが、フェルメールの絵画リストを見る時、32点中24点を鑑賞したことになる。

ワシントンのナショナルギャラリーやメトロポリタン、あるいはロンドンのナショナルギャラリーや

ルーブルやウイーンの美術史美術館などであるが、これらの大美術館では見たい絵も、

見るべき絵もたくさんあって、しかも貪欲に見て回るから、どこで見たかを失念していることも多い。

その点では日本国内で開かれる展覧会は、少数をじっくり見る、という利点もある。

 

 

国立西洋美術館は昨年9月のアルチンボルト展 以来。

 

アルチンボルトはルネッサンスからバロックの間にあるマニエリスムを代表する画家だから、

同館のキュレーターとしては、美術史的な「連続性」を意識した展覧会なのであろう。

 

ペーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640)はフランドルのアントワープに生まれ、

ラテン語や古典文学など人文主義的教養を積むがこれが後の外交官としての大きな武器になる

しかし、カルヴァン主義者の父ヤンが死んで生活が困窮して貴族の小姓に出され、

そこで画才を認められて画家組合に入会し、修行を終えた後ギルドの一員となった。

 

22歳で1600年イタリアに向かい、ヴェネツィア、ローマなどに滞在した。

時はルターやカルヴァンの宗教改革に対抗して、カトリック側も対抗改革でロヨラや

フランシスコザビエルのイエズス会などが世界に布教に乗り出していた時代。

最後の宗教戦争と言われる、ドイツの30年戦争(1618)を控えているから、

不穏さゆえの熱気(人は不安な時は一層刺激を求める)が想像できる。

 

プロテスタント側の「偶像崇拝」の批判をむしろ糧として、イエスと聖母、あるいは聖書の物語や

聖人や殉教者の絵画を布教の、あるいはカトリック教会の威信を表すものとして、より分かりやすく

写実的で、感動を与えるような劇的表現に傾斜していった。(バロック美術の成立宮下著18p)

こうしたカトリック側の要請を踏まえると、「バロック」がより理解しやすくなる。

 

ルーベンスがヴェネツィアからローマに赴いたときは、カラヴァッジョの絵画が最も評価されていたらしい。

マニエリスムに続く「バロック」は「ゆがんだ真珠」から発して、その呼称が転移し拡張して、

誇張された動き

凝った装飾の多用

強烈な光の対比

劇的な効果

緊張・壮大

を特徴とするが、これを見て真っ先に思い浮かべるのはカラヴァッジョだ。

ルーベンス「キリスト哀悼」1601~2年の作

キリストも雄々しく充実した肉体だ。製作は1601~2年。

カラヴァッジョがルーベンスの意識にあったかどうかはわからない。

 

もう一つ注目したのは、ルーベンスが晩年になって、ヴェネツィア派のティツィアーノの影響からか

豊満なヴィーナス像を描いたこと。

 

「毛皮を着た若い女性像」と題されたこの絵は1629年、52歳ごろの作品。

展覧会では「ティツィアーノに基づく」と付記があった。

参考までにティツィアーノの「鏡を見るヴィーナス」

ルーベンスがティツィアーノのヴィーナスに触発されたのは、高名な「ウルビーノのヴィーナス」

よりはこちらの方であるのは構図の対称性などから明らかのように思われる。

 

2017年2月都立美術館であったティツィアーノとヴェネツィア派展では、

ティツイアーノだけでなくヴェネツイア派の描く女体は豊満であり、概ね同時代人のクラーナハ(1472-1553)のヴィーナス(http://ameblo.jp/gonsun/entry-12229476281.html )とは明らかに趣が違う。

ルネッサンスが復興を計ったギリシャ古代は男性のアスリートの肉体美が中心で、ミロのヴィーナスも引き締まった下腹部を持っている。

この美意識の違いの基底にあるものは何であろうか

と考えもし、資料に当たっている最中だが、現段階では残念ながら何とも言えない。

と謎が残されたままであったけれども、「美女の歴史」(知の再発見双書ドミニク・パケ著

の49pにこの絵の解説として、

16世紀には、少女の美ではなく、この絵のような大きな黒い目と温かい肌を持つ、肉付きの良い美女がもてはやされた。

とあった。

美女にも流行り廃りがある、ということで一応納得するのであるが、ルーベンスの場合

最初の妻イザベラ死んだ4年後に53歳のルーベンスが16歳のエレーヌと再婚した。

彼が描いた「毛皮をまとったエレーヌ」を見ると、彼自身の美的好みも豊満な女性であったことがわかる。

 

その意味では流行を超えたものであり、

世の中には身長・体重、容姿などについて様々な好みがあるから、どんな男女も自分の愛の相手を持てるのである。結構なことではないか。

 

 

2002年製作のこの映画、

日本にもなじみ深いアルメニア人のシャンソン歌手シャルルアズナブールが出演しており、

また、このオスマントルコ帝国のアルメニア人虐殺を描いた映画に

アルメニア人の心の富士山と言うべきアララト山が題名についている。

この二つのことでアルメニア人の思いが伝わってくる。

 

シャルル・アズナブール(1924~2018年10月1日)はアルメニア系フランス人

父はジョージア生まれのアルメニア人で母はアルメニア人のトルコ商人。

デヴィッド・ピアフに認められシャンソン歌手として後には俳優としても活躍した。

1995年にはアルメニア駐ユネスコ大使

2009年にはアルメニア駐スイス大使を拝命する。

2018年日本政府より旭日小綬章

2018年10月フランスの自宅の浴室で入浴中の事故で死亡。

葬儀にはマクロン大統領夫妻も列席した。

映画出演はこの「アララトの聖母」のほか、2002年「ピアニストを撃て」など60本以上。

日本公演は1970年、1975年、2007年、2016年、2018年とたびたび来日。

日本人を愛し、日本人からも愛された歌手であった。

 

(La boheme1991)

 

 

 

この映画の中の映画はアルメニアの国民的画家ゴーキーが、ヴァンの砦で体験したオスマントルコ軍の

虐殺が再現される。

母親を失いながら虐殺を生き延びたゴーキーは米国に渡り、「芸術家とその母親」という絵を描く。

それは「アララトの聖母」とも言われているようだ。

 

アララト山はアルメニアの首都エレバンから望む霊峰で、旧約のノアの箱舟が漂着した、と言われる

山だから、世界で最も早くキリスト教を国教とした国であるアルメニア人にとって有無なき存在である。

 

アララト山は古くからアルメニア人の多く居住してきた地域(大アルメニア)の中心にあたり、アルメニア民族のシンボルとされる。オスマン帝国がこの地域を支配した時代まではアララト山の麓にはクルド人トルコ人と入り混じりながらも数百万人のアルメニア人が暮らしてきたが、オスマン帝国末期、とくに第一次世界大戦中の強制移住によりトルコ領内からはほとんどアルメニア人はいなくなってしまった。

その後、1920年セーヴル条約に基づき、旧ロシア帝国領側に住むアルメニア人がアララト山の麓まで領土に含めたアルメニア国家を独立させる運動に乗り出したが、旧オスマン帝国領側に獲得した領土はトルコ革命軍によって奪還されてしまい、ロシア側も赤軍の侵攻によってソビエト連邦に組み入れられた。これ以降、アララト山はトルコ領となるが、1991年のソ連解体によって独立したアルメニア共和国はこのトルコとソ連によって引かれた国境を承認していない。アルメニア・ソビエト社会主義共和国時代においてもアルメニア人のシンボルであることは変わらず、国章にアララト山が用いられていた。現在の、独立後のアルメニアの国章についても盾の中央にアララト山をあしらっており、アルメニア人虐殺とあいまって、領土要求を警戒するトルコとの間で水面下の対立が続いている。(Wiki)

アララト山を間近に望むホルヴィラップ修道院からわずか100メートル余のトルコとの国境線は

肉眼でも見ることのできる距離にある。 先の旅行では10月30日に見学した。

 

 

 

 

 

画家ゴーキーの経験したヴァンの砦の虐殺が映画の中の映画の主題だが、

もう一つの主題は

退職間際のトロント空港の麻薬専門の税関吏とそのゲイの息子(美術館員)とそのパートナーの

俳優で映画でトルコ人総督を熱演する俳優アリ。

もう一組は、ゴーキー研究の美術史家の大学教授の最初の夫で、

トルコ外交官に対するテロで殺害された夫の息子ラフィの、彼の父親の死をめぐる追及。

二番目の夫の自殺原因に疑惑を持つその娘と母親(美術史家)との葛藤が

それである。

ラフィは映画の雑用をしながら撮影を見学する中で、父がテロに駆り立てられたその思いを

理解しようと今はトルコ領であるアララトやヴァン湖に赴く。

(ヴァン湖、ここからアララトは望めない。手前にあるのはアルメニア教会の遺跡)

 

冒頭で、トロント空港の定年を間近に控えた税関吏デヴィッドが、映画監督のサロヤンに

生もののザクロは持ち込み禁止です」と言うので、サロヤンはそれを目の前で食べる。

二人の老俳優のシーン。

その後、次にデヴィッドは、トルコから帰国したラフィの荷物が、麻薬ヒロインではないかとの疑いから

彼を個室で尋問する。

その尋問に答える中で、アルメニア人虐殺や映画の撮影過程が明らかにされるが

同時にラフィが麻薬を持ち込んだのでは、という疑惑もまた深まる。

 

映画作家のエドワード・サロヤン(シャルル・アズナブール)は、聖なる山アララトの麓で起きたアルメニア人虐殺の史実を映画にするため、カナダのトロントに撮影にやってくる。彼は、その虐殺で母を亡くした画家アーシル・ゴーキー(サイモン・アブカリアン)に注目し、少年時代の彼を映画に登場させようと、ゴーキー研究家の美術史家アニ(アーシニー・カンジャン)に撮影の顧問を依頼。未亡人のアニには二回の結婚歴があり、最初の夫との息子ラフィ(デイヴィッド・アルペイ)は、死んだ父親がテロリストなのか英雄なのか悩んでいた。二度目の夫の娘シリア(マリ・ジョゼ・クローズ)は、ラフィと恋人関係にあり、自分の父親の事故死の原因がアニにあると考え、彼女を激しく憎んでいる。そしてサロヤンの映画がクランク・イン。主人公の米国人宣教師に扮するのは、人気俳優マーティン・ハーコート(ブルース・グリーンウッド)。敵役のトルコ人総督には新人のアリ(イライアス・コティーズ)が抜擢。アリには同性の恋人フィリップ(ブレント・カーヴァー)がいたが、そのことで、フィリップと空港関税検査官の父デイヴィッド(クリストファー・プラマー)の関係はこじれていた。撮影現場でラフィは雑用係として働いていたが、映画の内容に触発され、父の真実を知るためにアララトへと旅立つ。やがて帰国したラフィは、空港の税関でデイヴィッドの取り調べを受けることに。ラフィは喪失の歴史を語り終え、解放。息子の身を案じて空港へと駈けつけたアニと固く抱き合うのだった。...(映画.com)

映画の冒頭で、映画監督尾サロヤンが持ち込んだザクロの実は、アルメニアン人にとっては

「豊かさ」のシンボルでもあるらしい。

一粒のザクロは私に二つのことを教えてくれる。

幸運と想像する力だ」

とサロヤンは後に行っている。

アルメニアはザクロの特産地でザクロのワインやジュースもある。

蛇足だが旅行中ザクロのジュースもワインもいただいた。

 

アルメニア人虐殺をトルコは「虐殺」と認めていない

サロヤン監督(シャルル・アズナブール)は映画の中で、

 

わかるかね、なぜ今もこんなに胸が痛むのか、

民族や土地を失ったせいではない、

我々が今も憎まれているからだ、

なぜ彼ら(トルコ人)はこんなにも我々を憎むのか、

なぜ今も(虐殺の)事実を否定するのか

そして我々を憎む、

より一層の憎しみで

 

と言う。彼の歌を愛する日本人、勲章を授与した政府要人にも聞かせたいセリフだ。

南京だけではない、シンガポールやタイなどかつて日本軍が犯した

アジアにおける蛮行ー虐殺やレイプーを「自虐史観」のもとに

なかったことにする愚行を認めない日本人たちへ。

 

付け加えるがこの映画の監督である、カナダ人アトム・エゴヤン(1960~)も両親が

亡命アルメニア人の子息で父は画家、母は劇作家である。

空港関税吏デヴィッドを演ずるのは、クリストファー・ブラマー

圧巻の演技で、すごい男優だな、と思って調べたので参考までに。

https://eiga.com/person/28496/

 

今回の南コーカサス旅行、アルメニア映画をこうして鑑賞したことで、余韻が今も残っている、

ありがたいことに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                                                                                            

先の南コーカサス旅行中、アルメニア人旅行ガイド アニさん(女性)に、お勧めのアルメニア映画は、

と尋ねたところ、挙げていただいた映画をレンタルで鑑賞。

 

先ずはあらすじを

20世紀初頭。オスマン・トルコの小さな村で生まれ育ったアルメニア人青年のミカエル(オスカー・アイザック)は、医学を学ぶために首都イスタンブールの大学に入学する。そして彼は、フランス帰りのアルメニア人女性、アナ(シャルロット・ルボン)と出会い、惹かれ合うように。だがアナには、アメリカ人ジャーナリストの恋人クリス(クリスチャン・ベイル)がいた。やがて第一次世界大戦の勃発とともに、アルメニア人への弾圧が強まり、ミカエルは強制労働に送られてしまう。辛くも脱走したミカエルは故郷を訪れ、アルメニア人に対して虐殺が行われている現実を目の当たりにする。一方、クリスはトルコの蛮行を世界に訴えようと奔走。アナもクリスと行動を共にする。それぞれの信念の下、激動の時代を生き抜くミカエル、アナ、クリス。3人の愛の行方は?そして追い詰められたアルメニア人たちの運命は……?(Movie Walker)

 

 

これには少し補足が必要だろう。

 

ミカエルは、故郷の人々に医療を提供する目的のために、持参金付きの娘マラルと婚約し、彼女に二年で戻る、と約束してイスタンブールに向かう。学費はもちろん持参金からだ。

イスタンブールでは父親の従兄が成功して大邸宅に住み、そこに寄宿して大学に通い、トルコの有力者の息子エムレと親交を結ぶ。また、父親の従兄の邸宅でアルメニア人でフランス帰りの画家アナに出会う。

お互いに惹かれ合うものの、ミカエルには故郷にマラルがおり、アナには著名なジャーナリストのクリスと言う恋人がいる。

(ミカエルとアナ)

(クリスとアナ)

経済的成功でトルコ人の羨望と嫉妬を買い、

キリスト教徒で西欧社会(フランスや米国)に根を張っていたための疑いを持たれていた

異教徒アルメニア人.。

 

第一次世界大戦の勃発で1914年オスマン帝国はドイツ側について参戦し、英国側は帝国の後方攪乱のためアラビアを支援(アラビアのローレンス大佐の活躍)。

918年9月には英国フランスや前年参戦した米国などの連合軍が首都イスタンブールに迫りオスマン帝国は崩壊する。

 

この戦争の初期から、アルメニア人に対するオスマン帝国の弾圧と虐殺が始まり、ミカエルは強制労働キャンプから脱出して故郷に帰る。

そこで母親はやや強引にミカエルとマラルを結婚させ、マラルは妊娠する。

トルコではアルメニア人の「強制移住」という名の虐殺が始まり、ミカエルの妻と子供も虐殺されかろうじて母親だけが生き延びる。

 

ミカエル、アナ、クリスの三人多くのアルメニア人とともに国境を越えて(恐らくは黒海に出て)フランス船に乗船すべく漕ぎ出すが、、、

 

この映画の言語は英語である、観客の幅を広げ、この虐殺を広く知ってもらいたい、

という意図からだろう。

アルメニア人虐殺はいまなおトルコが国家として正式に事件の存在を認めていないこともあり、トルコで撮影することは出来ず、主にスペインで撮影された

本作の製作費9千万ドルの大半は、虐殺から生き延びた家族を持つアルメニア系アメリカ人の大富豪カーク・カーコリアンが個人的に捻出したものである。カーコリアンはプロデューサーにも名を連ねているが、本作の完成を待たずして、2015年6月に98歳でこの世を去った(Wikiより)

アルメニアの首都エレバンには「アルメニア人虐殺博物館」があって、カスケードの頂上からも見渡せる場所にある。(見学の時間はなかった)

アルメニア人コミュニティのある、フランスのマクロン大統領や、カナダのトルドー首相なども

ここで献花したと記載がある。

旅行中、ガイドさんの口吻からアルメニア人の胸中には今も晴れない思いとして重くのしかかっているのを感じる。その晴れない多くの理由はトルコ側が今なお虐殺を否認しているところにあるだろう。

 

アルメニア映画を検索してみると、

「消えた声がその名を呼ぶ (トルコ系ドイツ人のファティ・アキン監督作品) や

アララトの聖母 (カナダ映画)も アルメニア人虐殺が背景にある。

 

忙しくて見そびれたこの映画を見に阿佐ヶ谷に出かける。

 

チケットを買ってボードを見ると、「タクシー運転手」「万引き家族」「1987、もう一つの真実」など

鑑賞して感銘を受けた映画がここで再上映される予定だ。

 

この映画の封切りは確か武蔵野館だったろうか

 

佐藤泰志の小説を読むのは、切ない。

どうしてこれが芥川賞を取りそこなったのか、という

誰にも、永久に答えられない問いを

恐らくは泰志もあるいは自問した問いを

差し込まれずには居られないからだ。

 

映画は原作の舞台、恐らくは国分寺や国立のあたりの、彼が上京していた時に住んでいた場所を泰志の郷里函館に移して、僕、静雄、佐知子の関係性を維持しながら、時を現在に移して撮ったものだ。

 

バイト先の店長の彼女佐知子とふとしたきっかけでアパートでセックスをする。

二段ベッドでその部屋を共有する静雄はその気配を察知して入室をしないでどこかに行ったようだ。

 

僕と静雄と佐知子は、僕と佐知子の関係があいまいになりつつも、気ままに遊び続ける。

そして静雄と佐知子は互いに惹かれ合っているようであり、僕は自分の立ち位置を曖昧なまま

二人を見守っている。

 

そしてある日、二人はキャンプに行くという。

その結末を予感しながら僕は二人に同行をすることを断る。

 

ある日静雄の母親がアパートに訪ねてきて静雄が電話をしても返事がない、と僕に嘆く。

二人がキャンプから帰った日、母親が入院した、との知らせがあり静雄は見舞に行く。

 

その夜佐知子は、静雄が帰ってきたら静雄と恋人として付き合う、と僕に宣言する。

僕はそうなると思っていた、それでいいじゃないか、と言うようなことを曖昧に言う。

僕は、

静雄が帰ってくれば今度はあいつを通してあたらしく佐知子を感じることができるかもしれない

と思うのだ。

すると、僕は率直な気持ちのいい、空気のような男になれそうな気がした。と続く。

 

まあここまでは原作と大きく逸脱することは無いのだけれど、ここからは大きく違う。

原作では精神の病で入院した母親を静雄が絞殺してしまい、静雄は僕に電話を掛けて寄こすが

結局あっさり捕まってしまう。

殺人犯の静雄を挟んで、三人は恐らく関係性を、再構築しなければならないのだ。

という状況未然で終わる。

 

一方映画は

「僕」が「空気のような男になれそうな気がした

と思った後、佐知子が最初の出会いと同じように、別れ際、僕の肘をつねった。

しばらくして僕は佐知子の後を追いかけ、「さっきは自分の気持ちを偽っていたんだ

と言う。

それを受けて佐知子はアップで複雑な表情をして、エンデングになる。

佐知子はそれを受け入れるのかどうかわからない。

原作とは違い、静雄は殺人を犯したわけでも警察に追われる身でもないのだ。

静雄が母親の見舞いから帰ってくることが予想される状況にあるから

僕と佐知子がよりを戻してしまえば三人の新しい関係がどうなるかが予想される問題だろう。

佐知子も静雄も「空気のような人間」には程遠いのだ。

 

映画は、佐知子が静雄に惹かれているプロセスを丹念に追い、その分原作以上に説得力がある。

 

【一方、「空気のような男」は「僕」の存在の理想とまでは言えないが現状肯定に都合がいい。】

 

佐知子と付き合って後、店長に「佐知子の事頼む」と言われた時も、特に返事をしていない。

暖簾に腕押しの空気のような男だが、一面ではそれが佐知子の不満にもなっている。

佐知子は店長と別れる時は「僕」と付き合っている旨店長に言い、静雄と付き合う時には「僕」

に宣言する。自分の気持ちに忠実で、相手に対しても誠実なきっぱりした女性だ。

 

静雄を演じる染谷は必ずしも原作に忠実というわけではないが、感受性の豊かな若者

に佐知子が惹かれていくプロセスを説得力あるものにしている。

 

【佐知子は「愛」の中に絆、そして時に嫉妬をさせることを望んでいるのだろうか。】

 

「僕が空気のような男になれそうな気がした」

こう思う主人公のイメージを、演じている柄本も監督もつかみそこなっている気がする

それが故の「さっきは自分の気持ちを偽っていたんだ」という

原作にはないどんでん返しに表れているのだと思う。

それは「僕」を演じる柄本がのそっとした男で、「空気のような男」イコール「鈍感な男」ではない、

ということを、見るものに納得させていない。

その説得力不足のゆえに、若さと危うさを失った30過ぎの男に見えてしまう。(原作では22歳ころ).

 

その理由の一端は泰志もまた、「僕」の人間像を説得力ある姿で読むものに提示していない

というところにもある。

もう一つの分かり辛さは題名にもある

映画では佐知子と静雄がカラオケに行き、佐知子が歌う場面が出てくる。

しかし題名をラップさせるような場面ではない。

河出書房新社の文庫本の解説者井坂洋子も題名の由来を掴み切っていない

 

見終わってこの題名が誰かの歌から引いてきたのでは、と勘が働き

Youtube で検索したらビートルズが1966年にリリースした曲があった。

 

 

 

And your bird can sing

 

You tell me that you've got everything you want
And your bird can sing
But you don't get me, you don't get me

You say you've seen seven wonders and your bird is green
But you can't see me, you can't see me

When your prized possessions start to weigh you down
Look in my direction, I'll be round, I'll be round

When your bird is broken, will it bring you down?
You may be awoken, I'll be round, I'll be round

You tell me that you've heard every sound there is
And your bird can swing
But you can't hear me, you can't hear me

ソングライター: John Lennon / Paul McCartney

 

捕まえることも見ることも聞くこともできない存在とは誰だろう。

佐知子でも静雄でもない。

「僕」はそうなりたかったのだけれど、、、、

 

というところだろうか。あまり確信はないが。

なお泰志の「君の鳥はうたえる」は1982年に出版され、同年の第86回芥川賞候補作になった。

その年の受賞者はなし であった。

ピウスツキ・ブロニスワフ(1866-1918)はアルメニア生まれのポーランド人。

高等学校を中退してサンクトペテルブルグ大学法学部に進学。

高等学校では自主学習サークルを作り、社会主義に触れる。

大学二年の時、ロシアのアレクサンドル3世の暗殺計画ー爆発物の製造、に連座して、懲役15年の判決を受け、1987年8月、樺太(サハリン)に流刑となる。

 

最初は強制労働であったが、学歴のある人材が不足していたため、事務員に配置転換され、

原住民のギリヤク人との接触が増える。

1891年、当時名の知られていた民族学者のレフ・ヤコヴレヴィッチ・シュテンベルグ と知り合う

シュテンベルグは1889年にサハリンに島流しで送られていた。

 

1894年政府の推薦で村の気象台で気象観察を始める。これが縁で96年サハリンの気象台建設の取締役として派遣される。この時初めてアイヌと出会う。

 

1896年サハリン島博物館が開館し、流刑者であった民俗学者のシュテンベルグとピウスツキが多くの資料を提供し、開館の功労者名簿に載る

 

恩赦で刑期が短縮され1897年懲役終了。

翌98年、アムール地方研究協会がピウスツキをヴラディバストックの同協会博物館内図書館館長に任命するために移動許可が降り99年着任。1900年パリで開催される国際民俗学展覧会の準備をする。

 

1900年その展覧会でのピウスツキの展示が高く評価され銀メダルを受賞

このころからサハリンのアイヌの民俗資料の収集や文献を研究する。

1902年ピウスツキがエジソンの発明した蓄音機とワックスシリンダ(蝋管)をもって、ウラジオストックをから汽船に乗ってサハリンへ向う。

サハリン島の東海岸にあるアイヌ人のアイ村 の村長、キムル・バフンケ の家に泊まる。

村長の美しい従妹のチュフサンマ と恋に落ちる。彼女はピウスツキのアイヌ語の教師でもあった。

1904年~1905年日露戦争。この戦争で日本は朝鮮半島の権益を承認されるとともに大連や旅順の租借権をロシアから移譲され、かつ樺太半島の南半分を割譲された。

 

戦争勃発後の1905年ピウスツキはチェフサンマと二人の子供を連れてヨーロッパに渡ろうとするが

村長バフンケニに反対されて単身日本に渡る

 

日本に旅行仲、ロシア文学者として名高かった二葉亭四迷と知り合ったほか、

社会主義者や民俗学者と交流。彼の伝記が出版されたり、研究論文が翻訳されたりした。

そののち米国船籍の船で米国に渡りニューヨーク、シカゴなど経てロンドン、パリに寄って、弟ヨゼフの

住むクラコフに短期滞在。(トポロヴァ通り16番)

 

1907年故郷の村の幼馴染ですでに公務員の妻であったマリアと出会い、法や宗教を無視して二人は公然と結婚を宣言。1908年マリアが肺がんを発症し1910年理由は不明だが二人は別れる。

 

1914年クラコフに引越し。ポーランド能力アカデミーで民族学セクションが開設され、ピウスツキがその常時秘書兼取り締まりとして任命される。

この間あちこちに旅行するが記録は散発的である。

 

1918年5月セーヌ川で溺死体が見つかる。

 

以上はドキュメンタリー映画で述べられて彼の事跡に加えBronisław Piotr Piłsudski Бронислав Осипович Пилсудский ブロニスワフ . ピョトル . ピウスツキ

から引用した。映画ではマリアとの事には触れられていない。

 

またこのドキュメンタリー映画終了後ステージにチェホフスキ監督が登壇し、質疑が行われた。

いくつかの質疑の後、ロビーで質問する機会があり、ドキュメンタリーではアイヌやポーランドの少数民族の宗教についてはあまり触れられていなかったので、かれが彼らの宗教をどのように捉えていたかについて伺った。監督は彼がアイヌなど現地人の宗教を大変尊重していたということを強調された。

併せて彼はカトリック教徒であった事も確認した。

 

帰宅後彼の著作や論文を調べたが、谷川健一編集の下記の本に「樺太アイヌのシャーマニズム

という題名の論文を見つけた。(現在未読)

 

 

 

樺太アイヌの研究者、アイヌの女性と結婚して子供をもうけ(その子供たちは日本に移住し、ひ孫の女性の方が会場にいらっしゃった)アイヌとかかわりが深い人生を送ったピウスツキであったが、我が国の中で先住民族アイヌの人たちに対する偏見を等閑視すべきではないだろう。

 

アイヌは明治4年和人式の姓名をつけることを強制され、耳輪や入れ墨などの独自の習俗も禁止された。そして広大な北海道の土地を次々と奪い、開拓者に下付しその残り物のような土地をアイヌに

「下付」した。(1899年北海道旧土人保護法

 

アイヌ語の研究者として金田一京助は次のように語っている。

親友であった石川啄木から「なぜアイヌ語を研究するのか?」と問われ、金田一は以下のように返したと自ら明かしている。

〈あんな哀れなアイヌ語の調べでも、もともと国語の研究の為であり、国語の研究は、日本文化の再認識であり、日本文化の再認識は、吾々の現実生活を深く正しく解釈する所以であつて、即ち吾々の明日の生活を考へる唯一の道だ〉

 ダメ押しは文化勲章受賞の翌1954年に発表した「私の仕事」で、金田一は〈自分がひとり、未開人の世界へ後もどりをして、蒙昧な、低級文化の中にいつまでも、いつまでも、さまよつて暮らすのかと、さびしさが込み上げる〉と綴っている。

引用はhttps://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20081006/172847/より)

 

学者、文化人金田一にしてこの有様である。

一般の人たちがアイヌの人たちに差別や偏見を持つのも残念ながらやむを得ないところであった。

しかしアイヌの人たち自身の努力や北大の学者先生の努力などがあって1997年、「アイヌ文化振興法」を施行した事により旧保護法は廃止された。

しかしアイヌの人たちはまだ不十分であるとして「アイヌ新法」を求めているが、

政府はようやく2019年の1月国会で、アイヌ新法で、先住民族と明記するほか生活格差の是正を図るための法整備などが骨子である。アイヌ新法、来年国会提出 政府、「先住民族」初明記

 

道産子の私は子供のころイオマンテ(ヒグマの子の魂であるカムイを神に送り返す行事)を見た記憶がある。また友人にアイヌの女性と和人の夫婦の子供がいて、色白で特に彼の妹さんは美人であったことを記憶しているが、偏見があって、その子をいじめるなどということはしなかった。

それは、あるいはキリスト教会の日曜学校に通っていたせいであったかもしれないし、キリスト教を信じるというマイノリティの意識があったのかもしれない。何しろ日本では新旧キリスト教を合わせても3%、今は1%と言われているからマイノリティであることに違いない。

 

なお映画にも登場された井上紘一北大教授の以下の論文は、ピウスツキの功績を丹念かつ明確に述べておられる。

とても参考になった。「ピウスツキの足跡を訊ねて40年」

http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no5/inoue.pdf

 

他に以下の著作があるので参考のために掲載する。

 

 

 


 

ピエールボナール(1867-1947)は先に鑑賞した聖像画家のルオー(1871-1964)やピカソとともにキュビスムを始めたジョルジュ・ブラック(1882-1963)と概ね同時代人である。

 

「日本かぶれのナビ」、と言うと、我が国の「我れ誉め症候群」の右派は喜ぶだろうが、

彼が、1890年国立美術学校で開催された「日本の版画展」を見て、日本画の構図や姿態などに

ぞっこんして、いくつかの作品を描いたのは20台中盤ぐらいまでだろうか。

 

むしろその影響は彼のポスターや挿絵に生きているようにも思えた。

ちなみにナビ派とは、アカデミー在学中仲間の一人がゴーギャンに会って、目に見える色彩の誇張法に刺激されて、グループを結成し自らナビ=預言者と名乗ったことによる。

 

ところで印象派とポスト印象派の境目は何だろうか?

印象派

19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動であり、当時のパリで活動していた画家たちのグループが起源である。フランスの保守的な美術界からの激しい批判にさらされながらも、独立した展覧会を連続して開催することで、1870年代から1880年代には突出した存在になった。この運動の名前はクロード・モネの作品『印象・日の出』に由来する。この絵がパリの風刺新聞「ル・シャリヴァリで批評家ルイ・ルロワの槍玉に挙げられ、その結果「印象派」という新語が生まれた。

印象派の絵画の特徴としては、小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク、戸外制作、空間と時間による光の質の変化の正確な描写、描く対象の日常性、人間の知覚や体験に欠かせない要素としての動きの包摂、斬新な描画アングル、などがあげられる。

一方ポスト印象派とは

印象派の後に、フランスを中心として主に1880年代から活躍した画家たちを指す便宜的な呼称である。この区分は印象派に対する態度によるものであることから、様式的な共通性は希薄であり、それぞれの画家の画風は大きく異なる。一般的には、フィンセント・ファン・ゴッホポール・ゴーギャンポール・セザンヌなどを指す。(引用はWiki)

とはいうものの、ゴーギャンは印象派展の準常連であったし、セザンヌも印象派とも、ポスト印象派とも言われるから、その境界線は無きがごとく、まさしく便宜的な呼称である。

 

事実ボナールの絵も印象派とどこが違うの?と頭の中に?マークが付きっぱなしだったし、

中にはルノワールの絵に出てくる少女が取り込まれている絵もあった。

 

要するに批評家や美術史家は必死にカテゴライズするが、画家本人やそれを鑑賞する我々にとって

大切、というか価値があるのは、その画家の個性である。

 

印象派の巨匠たちもその後のフォービスムやキュビスムの画家たちには明確な個性がある。

しかし、ボナールの絵画には、どうも明確な個性というものが感じられない

 

唯一感じたのは、彼の室内画で、夕暮れ時、陰影も対象も背景もすべてが融合して曖昧になりつつある瞬間をとらえた作品がいくつかあって、それが彼の個性なのだろうか、と自問自答した。

ボナール自身がブルジャワの生まれで、あまり生活に苦労をしなかったようだし、ゴッホやセザンヌのような挫折を味わった形跡もない。

それが彼の絵に明確な個性を生み出していない要因なのだろうか?

浮世絵を見て、それに刺激を受けて作品化したり、印象派的な絵、キュビスム的な絵、あるいは象徴主義的な絵、、と自分のスタイルを模索し続けた、、、と言えるが、器用貧乏と言えなくもない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12日新橋で所用を済ませた後、汐留ムージアムのルオー展へ。

 

ルオーの絵はポンピドーセンターで数点見た筈なのだが、刮目して見たのは、

この汐留ミュージアムで「ジョルジュ・ブラック展の出口付近の一角に展示してあった

数点の絵を見たのが最初だ。

 

文中「同ミュージアムはルオーの作品を多数所有しているようであるが、小出しにせずたっぷりと見せて

欲しいものだ。」

と書いたが、今回は所蔵品に加え、ルオー財団やバチカンの所蔵品も展示される、というから、

期待して出かけた次第。

 

入り口でいつものように出品リストを鉛筆をとり、メモしながら見て回っていると、係員が

下敷きにバインダーを差し出してくれる。初めての経験で先ずは感謝の念を述べたい。

 

今回の展示で強く印象に残ったのはルオーの描く聖像(イコン)

ルオー(1871-1958)はパリの貧しい職人の子に生まれ、ステンドグラス職人に弟子入りしたのち、

本格的に絵を学ぶために1890年、国立美術学校に入学。

学生仲間にはマティスがおり、共通の師はギュスターブ・モローであった。

 

師の死後、作風が変わり、その大胆な輪郭と迸るような色使いから、批評家によって

「野獣派」と名付けられたが、かれの絵のテーマを無視した浅薄なネーミングと言わざるを得ない。

 

ルオーは敬虔なクリスチャンで、彼の描く聖像は後にバチカンに認められ、招かれて教皇から叙勲されている。

ルオーの生まれた1871年は、クーデターで政権を獲ったナポレオン三世がパリ大改造や鉄道敷設などの公共事業、あるいは最初のパリ万博(1867年)で勢いに乗って普仏戦争に乗り出し惨敗して経済が破綻し、恐慌で倒産が相次ぎ、その結果パリコミューンの革命が起きた年。

パリコミューンの担い手はパリの誇り高き職人階級であったから、ルオーもそうした雰囲気に育った筈であるが、在学中絵画賞(ローマ賞)に応募するも二度落選し、敬愛する師モローの死や経済的困窮も重なって精神的危機に陥り、フランス西部の大修道院に引きこもった際、何らかの回心(conversion)に

恵まれたのだろう。

キリストは人類のために受肉し、磔刑による苦痛を人類に代って受けた

存在故に、彼の苦痛をもまたキリストが引き受けてくれた、という道筋だろうか。

 

彼の多くの聖像は、聖ヴェロニカが 十字架を担ぐイエスの顔を拭ったところその布にイエスの顔が明確に写っていた、という伝説の中に「神」と「人」との対話、神に対する人間の愛に対して神の方も明らかな愛の徴で答えた、という中に、信仰の根拠を見出した点にある(新潮美術文庫ルオー)

(聖ヴェロニカ1945年ごろ)

一方ルオーのキリストの聖顔も次第に変化していった、と言われる。

初期のキリストは今さっき述べた理由から、苦痛に満ち伏し目がちで中には顔が斜めに、父なる神に向けられているものもある。

その苦しみからルオー自身が癒されるとともに、イエスの顔はまっすぐ正面を向き、アーモンド型の目が見る者の心をいやそうとしているようだ。

晩年には、更に明るさが増し、神の栄光を讃えているように思われる。

これがルオーの到達した心境だとすればエリクソンの心理社会的発展段階の、自己統合か絶望かの危機、「私は私でよかったか」の危機を英知乃至創造をもって乗り越えた、とも言えるだろう。

 

ルオーの絵を見る時、同時代に生き病弱で孤独と貧困のうちに若くして夭折し

ニコ・ピロスマニ(1862-1918)に思いを馳せざるを得ない。

 

主題は違うが、その絵の中にある静寂さ、沈黙や瞑想にも通じる静寂さを共通して感じるのだ。

この感覚はまた改めて取り上げてみたいテーマだ。

(ニコ・ピロスマニ キリン)

 

汐留ミュージアムの後、新橋駅のガード下をくぐってSL広場の古書市へ。

今回の購入は

1、アントニオタブッキ「インド夜想曲」須賀敦子訳

2、「創氏改名」岩波新書

3、ブレヒト「肝っ玉おっ母とその子供たち」岩波文庫

4、山田風太郎「くの一忍法勝負」

5、今東光「こつまなんきん」

6、J/デリダ、M・フーコー他「ジュルジュ・バタイユの世界」1991年青土社618ページ。

3,4,5は読む時間を取れるのはいつの日か、という気もするが、、、、