Gon のあれこれ -18ページ目

Gon のあれこれ

読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

時はオーストリア=ハンガリー帝国のハプスブルグ家の終焉が迫り、第一次世界大戦が始まろうとして

 

いた1913年のブタペスト

 

上流階級の人たち御用達の帽子屋、レイターは一度焼失したにも拘らず復興して今なお繁盛している。

 

焼失で両親を失い孤児となったレイター家の娘イリスがトリエステからそこに職を求めて面接に来る。

 

現在の経営者ブリルは空きがないと断わるものの一夜の宿を提供する。

 

イリスは様々な人々から「近寄るな」「帰れ」と言われるその中に、実の兄が居たことを知る。

 

ただ一人の血縁者を求めてイリスの大胆かつ必死な捜索が始まる。

 

その兄から、帽子屋レイターは裏ではそのお針子を人身御供のように宮廷に差し出していること、

 

そしてそれは彼らの両親の時代から始まっていた事だと仄めかされる。

 

この眼力(めぢから)一杯のイリスの真実を得ようとする「捜索劇」が大筋だ。

 

しかしイリスの背後にカメラが在り、イリスの前方から近ずく人は、まるでイリスが近視のように

 

近くに来るまで像を結ばない。そしてこれが多用される。

 

これが2時間以上の長編になっている所以のひとつだ。

 

そして見る側に近ずくのは「誰が」と緊張を強いる。 あまり気持ちの良い時間ではない

 

一方イリスは脇目も振らず兄を捜し求め、レイターの「人身御供」の真実を求めて猛進する。

 

この行動を、「サヘルの息子」でカンヌグランプリを獲得した監督ラースロー

 

「一人で世界に迷い、何とかしようとしても、結局行くべき方向を誤ってしまうような

 

女性の映画で、ジャンヌダルクのようで予想外の側面を持ち、観客に彼女の行動の意味

 

を考えさせる主人公を描きたかった」(公式パンフレットより)

 

と形容しているが、苦しまぎれー説得力不足の言辞との感は否めない。

 

「観客に彼女の行動の意味を考えさせる」ために、ドラマは謎を含みその謎の解を提示することな

 

残すことで観客を迷宮に引きずり込む

 

イリスの兄は顔を表さない。一方イリスは兄によく似ているらしい。

 

彼が巻き込まれたレデイ伯爵殺人事件の真相も不明だ。

 

彼は例えばフェルデナンド大公をサラエボで暗殺した民族主義者なのだろうか。

 

針子を顔見世して宮廷に差し出すことは女官と言うより寝床に侍る女性であったのか、、、

 

一方監督ラースローは、

 

一世紀前、絶頂期にあったヨーロッパは自滅していきました。文明がその絶頂期におい

 

て自ら毒を生成し、それが破滅をもたらしました。

 

私は今、1914年の第一次世界大戦が起こる前とそうかけ離れていない世界に

 

生きていると感じています。過去に起こったことは、今の中央ヨーロッパで起こりうる

 

事でもあるのです。(同パンフレットより)

と述べているが、この認識こそあいまいで謎である。

 

大戦はサラエボでの皇太子暗殺でオーストリア=ハンガリー帝国のセルビア宣戦布告により始まった。

 

当時のヨーロッパでは各国が勢力均衡を求めて複雑な同盟関係を構築しており、

 

それらの関係の中で同盟国(オーストリー=ハンガリー帝国やドイツ、後にオスマン帝国など)と

 

連合国(ロシア、フランス第三帝政、イギリスや後に米国や日本帝国など)に分かれて戦った。

 

結果として敗者のハプスブルグやオスマン帝国だけでなく勝者のロマノフ王朝や第三帝政も

 

崩壊した。そしてヨーロッパ全土が戦火に見舞われ第二次大戦の経験を踏まえて

 

ーロッパ共同体とNATOが形成された。 その対抗軸ワルシャワ条約機構も。

 

EUの拡大がロシアの神経を逆なでしていることは事実だが、第一次大戦前との類似性がある、

 

とは思えない。

 

一方「文明」についてであるが、産業革命の発展段階の違いが国力の、軍事力の、植民地獲得の

 

帝国主義的覇権争いの原因であったけれども、それが大戦前に絶頂期、といえるものであるか否かは

 

もっと議論が必要だろう。 彼が何を指して「文明」と言っているかは不明だが。

 

毒」とは何を指すのか、もっとわかりにくい。当時のヨーロッパは象徴主義芸術盛んな時。

 

後にヒトラーにより「退廃」として破壊されたりもしたのだが、まさかそれを「毒」とは言うまい。

 

むしろ、EU加盟国ポーランドやハンガリーで起こっている反民主主義的な独裁体制

 

偏狭な排外主義のほうが危険で、彼はハンガリー内部の問題にもっと目を向けるべきではないか。

 

曖昧さは、両義的、あるいは多義的な解釈の余地を観る者の中に残し、

 

その曖昧さの中に見るもの個人の主観の入り込む余地、内面を投影する領野を拡大する

 

しかしその手法は「問題提起」や「啓発」「警告」には向かない。

 

見る側をバラバラに解体して「共感」「連帯」を阻むからだ。

 

それはそれとして、イリスがブダペストのトラムから降り立つこのシーン、

既視感があって、どの映画からの「引用」の可能性があるのだが、映画史に疎い私には

 

突き止められない。

 

余談だがブダペストにはウイーンから特急で入りドナウ川沿いのラマダに2泊した。

 

トラムでマチャーシュ教会(結婚式に遭遇した)や鎖橋、国立西洋美術館などを回ったが

 

シナゴーグは閉まっていて見学できなかったのが今も残念な思いがする。

 

そういえばドナウ川沿いの温泉に浸かったのも良い思い出である。

 

また国立西洋美術館はぜひいかれた方が良い。

 

ブロンズイーノやラファエロなどの素晴らしい西洋絵画がある。

 

 

未だ黒船来航(1853)を知らず徳川が安泰であった1831年に生まれ、幕末から明治にかけて活躍した

 

河鍋暁斎は、先に都美の「奇想の系譜」に連なる絵師である。

 

そもそも、幼時の経歴からして面白い。

 

古河から江戸に出て「火消同心」の株を買って幕臣になった父親が、暁斎の絵の才能を見抜いて

 

6歳で国芳に預けるが、8歳で神田川で拾ってきた生首を写生したり、国芳に吉原に連れていかれて、

 

芸子と酔客の遊びをスケッチしたり、と国芳の素行を心配したのか暁斎の奇行を心配したのか

 

わからないけれど、今度は9歳の時幕府の御用絵師「狩野派」の前村洞和に預けられる。

 

国芳と狩野派、という 伝統と逸脱、諧調と乱調、与党と野党のはざまに生きた暁斎は、

 

恐らくその股裂きの中から、描画のエネルギーを汲み取り、その手法の深化を遂げたに違いない。

 

特に国芳が吉原に連れて行ったことが師弟の教育方法として面白い。

 

それは動作を一瞬のうちに捉えて視覚化する妙をまなび、人間を、社会を学ぶ機会であった筈だ。

 

狩野派の絵師としても、維新後明治政府が初めて参加したウイーン万博(1873)ーこれから開催予定の

 

クリムトらにも影響を与える切っ掛けにもなったーの日本庭園の大幟「神功皇后武内宿祢

 

を暁斎が作成したのだから、御用絵師としても評価は高かったのだろう。

 

余談だが、その日本庭園や日本館に、ハプスブルグ帝国最後の光芒、フランツ・ヨーゼフ一世

 

(1830-1930)とヨーロッパ随一の美女と謳われシシーと親しみを込めて呼ばれた皇妃エリザベート

 

(1837-1898)も訪れたから二人はその時、暁斎にも触れたわけである。

 

 

その大幟、資料を当たったが見つからないのは大変残念だ。

 

そういえば暁斎の最初の妻は琳派の絵師鈴木基一(奇想の系譜の絵師)の次女であったから、

 

絵師としての才能と将来性は折り紙付きであった、とまで言ってよいだろう。

 

展示された90点余の作品中、最も好きな絵は「猫とナマズ」

 

陶酔しているのか寝ているのかわからないナマズの上に、色っぽい姿で猫が寝そべっている。

 

ナマズのひげを二匹の子猫が曳いている。

 

当時ナマズは高級官吏(薩長)の当てであったらしいから、猫(芸者)に骨抜きにされた高級官吏

 

の図である。 

 

なに偉そうにふんぞり返っているが、根は無粋な田舎もんじゃねえか、と聞こえる。

 

暁斎は切れ長の目をした面長のきりっとした顔立ちの美人画、と言われるが、この絵の女性は

 

やや丸顔で鼻筋の高い女性である。新しい「美人」のカテゴリーに先駆けた美人画と思う。

 

右は閻魔大王が美人が短冊を吊るすのを手伝っている。閻魔様も美人の前ではちっとも怖くない。

 

左は三途の川で亡者の衣服をはぎ取る奪衣婆がしらみを取ってもらっている。心地よさ気に。

 

これも閻魔様fが生前の悪行を映し出す鏡に、あまりにも美しい女性が写っているのでびっくりしている。

 

維新後の政府の権威を、閻魔やナマズに擬えて茶化して見せる。 旧幕臣の意地もあるのか。

 

ワサビのきいた「諧謔味」の溢れた絵をたくさん描いた絵師だな、と感心する。

 

帰り道、虎屋が目に留まり、お彼岸なのでおはぎや桜餅、羊羹などを土産に買う。

 

 

 

同じ都美で開催された2016年の若冲展、ひどい混雑で2時間強並んで、ところてんのように

 

押し出されて鑑賞時間は一時間。

 

と言う経験をしたので、今回も開場前に並んだのだが気抜けするような人の少なさ。

 

お陰でゆっくり鑑賞出来て、又兵衛の絵巻や白隠の禅画など楽しむことが出来た。

 

それはそれでとても満足のいくものであったが、心の中にもやもやしたものが残る。

 

奇想、と言うなら北斎は、あるいは同じく「奇想」と銘打たれた雪村はなぜ言及されていないのか、

 

もっと下って「暁斎」は、、、というもやもやである。

 

もう一つのもやもやは「奇想」というならば、何に対する「奇」なのかが不明瞭なこと。

 

それは信長秀吉徳川の御用絵師乃至お抱え絵師の本流「狩野派」や「光琳」、

 

写生の「応挙」などに対する「奇」なのだろうか。

 

あるいはマルセル・ブリヨン「幻想芸術」にあるごとく、絵画の一ジャンル、と言う捉え方もあるだろう。

 

 

そうであれば、「幻想とは人間の思想の根源と深い契りを交わしており、この意味では永続し、

 

同時に間断なく変容する存在であり、人間精神の生成と変貌とを最も反映する鏡に他ならない」

 

(同書序)とあるような、「奇想」を「精神史」あるいは視点を変えて「社会史」というパースペクティブ

 

で捉えるような視点がある筈だと思う。

 

このあたり、帰宅して辻氏の著作「奇想の系譜」を読み返してみると、

 

 

その後書きに

 

奇想の中身は「陰」と「陽」の両面にまたがっている。

 

「陰」の奇想とは、画家たちがそれぞれの内面に育てた奇矯なイメージの世界である。

 

それは〈延長された近代〉としての江戸時代に芽生えた鋭敏な芸術家の自意識が、

 

現実とのキシミを触媒として生み出したものである。血なまぐさい残虐表現も

 

この方に含めてよい。

 

これに対し「陽」の奇想とは、観客へのエンタテイメントとして演出された奇抜な身振り、

 

趣向である。

 

又兵衛以下国芳に至るどの画家も試みた「見立て」すなわちパロディはその典型である。

 

「奇想」の由来を、江戸時代以前にさかのぼって尋ねる時、この面の「奇想」は,ひとつには

 

日本美術が古来持っている機知性や諧謔性ー表現に見られる遊びの精神の伝統ーと深

 

くつながっているように思われるからだ。

 

この「遊びの精神の伝統」とは、ホッケが「マニエリスム美術」において語った、ヨーロッパの

 

「定数」に匹敵するものだろう。(「迷宮としての世界」岩波文庫)

 

ホッケは「マニエリスム」の様式

古典主義の、シンメトリー、バランス、遠近法(唯一の焦点)、客観的な自然に対比して、

反―古典的表現形式浮遊、デフォルメ、古典主義の求心に対する遠心とし、

後期ルネッサンスからバロック時代に至るまでの間に多様に表現されたこれらの様式が、ヨーロッパの芸術、哲学の中に繰り返し登場する「常数」、つまりヨーロッパ精神のバックボーンとなった。

と主張する。

この「精神史的」「社会学的」アプローチは、現代アートの会田誠BTUTUSで語っている。

 

 

表現と言うのはある条件が揃うと「奇想化」しがちです。

「奇想化」には別の仲間がいろいろいます。代表格は「バロック」「マニエリスム」、「ロココ」も仲間。これらには共通点があります。

まず、バランスの取れた(一見)ファイナルアンサーと思える完璧なものを量産した、ムカつくくらい立派な先輩たちがいること。 その先輩たちは(一見)やれるべきことは全部やりつくし、あとはぺんぺん草も生えない荒れ地を残して充足した気分で天国に行っちゃってること。残された後輩たちは先輩たちを基本リスペクトしていてちゃぶ台返しは望んでいないこと。そして、、わりと太平の世が続いていることぼんやりとした不安とかはあっても、

天地がひっくり返ることがあって、生命の危険からほとんどの人がシリアスにならざるを得ないような社会情勢ではないこと。

これらの条件が揃うと「奇想化」が始まりがちです。

すなわちー凝る、盛る、大袈裟になる、やり過ぎる、くどくなる、歪む、変になる、不気味になる、ヤバくなる、笑っちゃ様なものになるーといったことが表現に起こるのです。

会田誠、奇想を語る p62 (途中適宜略)

つまり会田は「奇想」は洋の東西を問わず共通の土壌がある、

 

と言っている訳でとても面白い見解だ。

 

余談だが、今回の展示会の図録はとても充実している

 

最後はゴミになる、と思っていつもは買わないのだが、今回はその禁を破って購入。

 

図版も絵の解説もとても充実していて、主催者側の気合が伝わってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   私は犬ころである

   空を見てはほえる

   月を見てはほえる

   しがない私は犬ころである

   位の高い両班の股から

   熱いものがこぼれ落ちて

   私の体を濡らせば 

   私は彼の足に

   勢いよく熱い小便を垂れる

 

   私は犬ころである

 

 という朴烈の詩に深く感応した金子文子は、朴烈に会いにゆき、同士として同居を求める。

中国の明、清を宗主国としていた李氏朝鮮は、国内の争乱を自力で納めることが出来ず不安定化し、

日本をはじめロシアなどが影響下に置くべく争っていた。結局日本が1910年に韓国を条約により

併合するまで、儒教を国教として500年余の太平をむさぼった李氏朝鮮は崩壊したが、その支配階級が両班(ヤンバン)である。

この日本統治の時代については日本国内、韓国国内でも評価が分かれる

しかし日本の植民地統治は「「武力蜂起は徹底弾圧」「インフラの整備」「日本人意識の植え付け」の3点に要約すると、独立運動は過酷に弾圧され、日本化は創氏改名や皇民教育によって、誇り高い韓国人の反発を招いたことは間違いないだろう。一方では交通網の整備や学校教育の普及による識字率の向上などがあげられるが、それらを「公平」に評価することはどちらの国にとっても困難である。

 

これに異論があるなら、戦後の米国の日本統治を考えてみるとよい。

日本国憲法も、GHQの検閲も、原爆投下も、左右のイデオローグでその評価は異なっているのだ。

そう考える時、日本側から韓国に対して「恩恵を与えてやった」などとする発言が如何に無思慮であるかがわかるだろう。

あるいは原爆投下を含めてアメリカ人から「日本を軍国主義の圧政から解放してやった

といわれて素直に頑じ得る日本人は多くないだろう。いかに軍国主義が酷かったかは別にして

 

史実としての日本の朝鮮併合とならんで、この映画を鑑賞するときにもうひとつ欠かせないのは、関東大震災の直後、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「日本人を暴行強姦している」などの流言飛語を時の内務省が地方にばらまき、警察や自警団のものが、朝鮮人を虐殺した事件(1923年)。

それによる死者は、発覚を恐れた官憲らが闇に葬るため、死者を密かに埋めたことで明確な数字は把握されていないが、千人以上5千人に上るとみられている。

 

この朝鮮人虐殺は、日清戦争(1894年)で朝鮮を清国と争った日本にとって、そして朝鮮と満州の権益をロシアと戦った日露戦争(1905年)に勝利した日本にとって、国際社会の評判を損ない、国際社会からの非難を招く危険性をはらむ事件であった

そこで時の内務省は、朝鮮人が皇太子(昭和天皇)の暗殺を計った、とフレームアップして「大逆事件」

とする。

 

この映画では当時の内務大臣水野を悪役にする一方、朴烈や金子文子を尋問した検事や、獄中の刑吏、あるいは朴を弁護した日本人弁護士や朴の支援者など、彼らに同情的な日本人たちをクローズアップすることで、日本人一般を悪者に仕立てているような事を慎重に避けているように思える。

一方、この映画が韓国内で200万人以上の観客動員をしたことを知るとき、韓国の人々の政治的成熟を感じることが出来る。

あるいは文子と朴の「ラブストーリー」と言う側面に共感をしたのかもしれないが。

 

朴烈はアナキストと自称したが、朝鮮人虐殺と時を同じくしてアナキスト大杉栄が官憲に弑された。

その大杉栄について、松岡正剛は千夜一夜で、

そもそも大杉は「革命」という言葉よりずっと「自由」という言葉を本音で生きていた革命者であった。本書(大杉栄自叙伝)には「自叙伝」のほかに短文エッセイ「僕は精神が好きだ」が収録されているのだが、そこには「思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そしてさらにはまた動機にも自由あれ」という一文がある。

と述べている。

このことから、アナキストと言うよりは自分の自由を拘束する体制に対する「反体制」の意味合い

を強く感じる。

朴烈の場合はどうだろう。

冒頭の詩にあるように、李氏朝鮮時代には両班が支配階級として身分制度の頂点に立って下層階級を抑圧し、日本の朝鮮併合後は両班は打倒され、みな学校教育を受けるようになったが、日本人からは2級国民として下級国民の扱いで差別され、抑圧されていた。

こうした「抑圧」の体制に対する「反体制」をアナキスム、「無政府主義」と呼ぶのは相応しくない

ように思う。

たとえば、アナーキストと言われる クロポトキンは「相互扶助論」において、弱肉強食、適者生存の

 

 

社会ダーウイニズムに対して、当のダーウイン自身が、弱者切り捨てではなく、相互扶助こそが種の生き残りのために適した戦略であることを述べていることを強調している。

種の中に弱いもの、年寄りや病人や乳飲み子を抱えているほうが生存戦略として正しい

と言っているのだ。

この思想が「無政府主義」に直結するものではないだろう。

相互扶助を達成するためには徴税や配分を行うための「政府」が必要なのだから。

 

一方「自由」についてはどうだろう。

自分の自由が誰かに侵害されたとき、それを回復するには法律が、政府が必要だ。

それがなければ、報復、復讐しか回復や補償の途が無くなる。

 

長くなってしまったが 最後に金子文子の根底的と言う意味合いでその思想的ラジカルさが凄い。

そのラジカルさを、彼女の生まれたときからの「疎外」に求めることは容易だが、しかし

時代を先取りした思想家

であったように思う。

未読だが,彼女の思想や伝記については以下の著作がある。

 

 

 

 

最後にオフィシャルサイトを貼る。

 

 

 

 

 

 

第11回恵比寿映像祭は「トランスポジション」をテーマに、2月8日に始まり24日まで都写真美術館を中心に開催されている。

去る13日、同美術館の展示のみを見て回った。

平日の所為か否か不明だが、閑散としており、ゆっくり見て回れるのだが、半面では寂しい気がした。

各映像はそれなりの長さを持ち、全編をすべて見て回るには相当の時間を要するので、

印象に残った作家の映像を取り上げる。

 

ルイーズ・ボッカイのトランスポジション

アマゾンの奥地に住む先住民の女性、ジャングルの中で半裸の母と娘とその胸に抱かれた幼児に

カメラを向けた映像。

カメラを向ける者と向けられる者たちが同性、と言うこともあるのだろう、

被写体である女性たちがカメラを持つボッカイに向けて笑いかけたりするときに

それは見るものと見られるもののポジションが変換(トランス)する。

その笑みはカメラを持つものをその立場の侵犯ゆえに動揺させずにはおかない筈だ。

そういうメタな映像が見たいな、と思う。

それで思い出されるのは昨年話題になったカメラを止めるな

 

前編は、撮影風景から始まるが、出演者が次々とゾンビ化(トランスポジション)してホラー化する。

後編は、その舞台裏をシリアスかつコミカルに描く。

つまり前編と後編ではトランスポジションが起こっている

前編の演技者たちを撮るカメラとその演技者や撮影者を撮るカメラが在って

前編と後編が出来上がっている訳だ。

例えば正面スクリーンでは前編が、サイドスクリーン(在れば、の話だが)では後編を

同時進行的に上映されたらどうだろう。

そういうアイデアに相応しいテーマと映像を構成するのも面白いではないか。

 

カロリナ・ブレグアの「広場」

このポーランドの女性作家はやはりウッチ映画大学出身。アンジェイ・ワイダや彼の作品

「残像の主人公スツシェミンスキの大学である。

カギ型の空間に9チャンネルのビデオ映像が流れるが、広場にある一本の木か多数寄り集まって

いるのかよくわからない木をめぐって、その周辺に住む台湾人の様々な映像が流れるが、その9チャンネルはそれぞれの人たちの生活や物語を映し出している。

各々のスクリーンを最初から最後まで見なくてもゆっくり見て回れば凡そのことが何となく理解できる。

この多重層的な視点はやはりこれもトランスポジションと言いうるだろう。

とても面白い試みだ。

 

ミハイル・カリキスと7歳の小学生たち

まずは作者の紹介

ギリシア/イギリス出身、ロンドン在住。彼は、音を彫刻の素材、そして社会との間 の仲介をするものと捉えており、長期にわたる音についての調査に基づいて作品の制作を行なってきた。そのため、作品の分野は、映像、サウンド、パフォーマンスなど多岐にわたっている。 コミュニティと協働して制作されるカリキスのプロジェクトは、人の営みや行為のオルタナティヴなモデルに焦点を合わせる(同映像祭公式ガイドより)

この映像の標題は「特別な抗議活動

作家が子供たちにある音を聞かせることで思考が触発され、つながりは良く分からなかったのだが

環境問題に対する大人の身勝手さ、矛盾を感じ取り、恐らくは子供たち自作の仮面をつけて

その怒りを表現する。「Justice]  [Power」 「Action] などと叫びながら

いま国会では安倍首相が「悪夢の民主党政権」とか櫻井よしこ自衛官からの伝聞とか、口から出まかせの嘘を、嘘と指摘されてもいないのに「嘘と言うんですか。、私は嘘をつかない」などとパニック障害の子供のように喚き散らしたことを、立憲民主の枝野代表が、小6の息子のレベルだ、と酷評し、

いや小学六年生は既に憲法について習っているので、小6の彼らに失礼だ」、あるいはMXテレビのキャスター堀潤氏がある小学校で、小学生に「皆さんが生まれながらに持っているものは何ですか」と聞いたら、即座に「人権」と答えた話などが次々と湧いて出てきている。

眼目はろくに勉強もせずなぜが大学まで卒業した安倍首相のレベルを非難している所にある訳だが、

子供たちに思考を刺激するような課題を与えれば、相当な知性が発揮される、と言うことをこの映画で感じた。飛躍するが、人類の知性の進歩はいまだ相当な可能性を秘めている、と思う。

「おとなしい」の漢字が「大人しい」とおとな、つまり成人した意が込められている。

そして、大人とは、性質や態度などが穏やかで従順なさま。(デジタル大辞泉)とある。

何があっても抗議の声を挙げず、じっとこらえて権力などに従順な態度が良しとされている

そしてそういう大人にする為にもう幼稚園児から、こまごまと「あれするな、これするな」と言われ続ける。

高校生になっても服装に細々と注文が付く。ソックスの長さやスカート丈だ。

本来茶色の髪の毛の女子高生に、黒髪に染めろ、と指導する、と言うことも聞いた。

ひどい画一主義である。まるで命令一下、火の中水の中命を捧げる帝国軍人を養成しようとしているようだ。

大人、とは自分の考えを持って、主体的に行動する者ではないらしい。

 

市原えつことなまはげの再解釈

なまはげは年の終わりに、大きななたを持ち、鬼の面を被りみのまとって、なまはげに扮した村人が家々を訪れ、「悪い子はいねがー」「泣ぐコはいねがー」「嫁は早起きをするかー」と奇声を発しながら練り歩き、家に入って怠け者、子供や初嫁を探して暴れる。

女と小人は養い難し」(論語)という封建時代を想起する。

つまりこれも「大人しく」「従順化」させる行事と言っていいだろう。

その再解釈としてナマハゲを都市に移植する試みが理解できなかった。

どのように再解釈したのか、監視カメラを装着したナマハゲは「監視」という再解釈なのか。

再解釈するまでもなく「順化」は都市でも田舎でも、監視も都市でも田舎でもありふれている。

「再解釈」とはなるほど「トランスポジション」だが、インスタレーションが今ここでの時空に存在了解がなされているが故の、「今此処での状況」に対する批判的視点が欠如しているのが気になった。

 

 

最後に大変に内容の充実した公式ガイドブックを頂いた。

会期は2月24日まで。ガイドツアーも計画されており、主催者の意気込みも充分に伝わってくる。

恵比寿に言った帰りは定番の「たつや本店」で昼飲み。

恵比寿映像祭オフィシャルサイト

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日5日から始まった恒例の古書市に出かける。

 

10時10分ごろ会場に到着したが、開場間もなく、と言うこともあってゆっくりと見回る事が出来る。

 

そのせいかふと気が付くと12時近くになってしまった。

 

購入は「ルネッサンスのエロスと魔術」

 

比較的きれいな本を1000円でゲット。

 

ルネッサンスの神秘思想は遠くギリシャ神話から説き起こした本もあるのだが、今一婉曲なので、

 

この書を購入。 序跋(前書きと後書き)がM・エリアーデなのもそそられた一因。

 

またルネッサンスの絵画の展覧会もあるだろう。 この書は未だ2~3冊他の棚にあった。

 

あと、買うか買うまいか、と悩んだのが

 

民主主義の内なる敵 民主主義の内なる敵
4,860円
Amazon

挟んであった帯に

民主主義の危機は外部(ファシズムや共産主義)から来るのではない。進歩、自由、人民というリベラルな理念が内なる敵を生み出す-。フランス思想界の大御所による、新たな多元主義と民主主義の再生へ向けた現代政治文化論。

 

とあって読む意欲をそそられたのだけど、実は昨年暮れに、長谷川宏訳のヘーゲルの分厚い本を

 

古書で4冊以上買って、先ず「法哲学講義」から読んでいるのだけれど、当分は他の書には手を出さず

 

に、、、

 

と思っていたせいで買うのを躊躇した。

 

結局、帰宅してあれこれを済ませて一息ついたら、やはり読みたくなって、三省堂池袋本店→会場

 

と、つないでもらって、見かけた辺りを記憶を頼りに探してもらう。

 

電話に出られた方は、「がらん堂」のAさん。

 

首尾よくこれが見つかり、自宅宛て送付してもらうことが出来た。

 

欧州のリベラリズムは、移民問題で揺さぶられている

 

多様性と共生を掲げる西欧のリベラルが、移民問題で硬直しているのだ。

 

リベラルには、社会的側面のリベラルと、経済的側面のリベラルがあってよく混同されている。

 

参考https://www.nytimes.com/2019/02/04/opinion/ralph-northam-howard-schultz.html

 

性、人種、出自などの偏見から自由で、経済的には再配分機能を生かして、共生社会を作り出す

 

私のようなリベラルは、存在する余地がないのか!

 

かといって、奴隷労働さながら低開発国の若者を労働力として受け入れるのは反対だ。

 

近隣諸国が不安定化して難民が流入した時は、臨機と長期的な是非の判断が求められ、

 

無条件で受け入れる、と言うわけにいかないだろう。

 

守るべき我がコミュニティもあるのだ。

 

と思うが、いずれにせよこの議論は捨て置けない。

 

電話を切った後、思い出したのだが、がらん堂のAさんは、三省堂の前のリブロの古書市を

 

初めに紹介してくださった方であった。

 

幸縁を感ずる

 

余談だが、この古書市と「池袋西口広場古書市」の帰りには、西口の昼飲みできる居酒屋「ふくろ

 

で昼食。 

 

コーカサス旅行以来、ちと体重増加気味なのでビール大瓶一本で止める。

 

 

 

 

18世紀から19世紀にかけて廃墟趣味が流行したという。

果たしてその背景には何があったのか。

 

先ず第一には、ローマ近郊で、ローマ時代の貴族の別荘や、ポンペイの遺跡が発掘されたこと、

もう一つは17~18世紀英国の貴族の子弟が見聞を広めるためにイタリアやフランスにガイド付きで出かけた、いわゆるグランドツアーによって、歴史遺跡、それはパンティオウンにしてもフォロロマーノにしても廃墟であるが、それらをめぐって周遊したことが背景にあるという。

ピラネージ「ローマの古代遺跡」

 

以上が展示会場の説明であるけれども、遺跡の発掘が歴史に対する興味を掻き立てたにせよ、

発掘もまたある情熱、日本で言えば例えば古代史や縄文時代に対する情熱が必要である。

そこで、以下の書を参照する。

 

     

「その最も根本的な原因は、当時の社会に浸透していた破局ムードに求めることが出来る。

ローマ教会の権威を失墜していた教皇国家は18世紀にはいっても衰退に歯止めをかけられず、国内においても閥族主義によりかかる貴族階級が権力闘争に明け暮れ、一般大衆を顧みることなく腐敗していた。しかも度重なる旱魃で国家の財源を圧迫し食糧不足の事態を招いていた。

貧困に喘ぐ人々は廃墟を徘徊し、そこで掘り当てた古物を金銭に変えていた。

発掘された古物は古物商から富裕貴族の個人的なコレクションとして集められ、装飾品として室内や庭園に置かれていた。

18世紀にはいると陳列しておくためだけの特別な空間が設けられるようになる。

装飾品は一箇所に集められ部屋そのものが建物の巨大な装飾に転じてしまう。

この空間(ガッレーリア)の発生で古物収集のカルトは最高潮に達していく。」p97~中略

一方では18世紀は「啓蒙主義の時代」である。

それは理性に信頼することで進歩主義的であり、一方で人間の自然に目を向けることで原始社会を

ユートピアとする(自然状態)傍ら、ギリシャ・ローマの古典時代に対する関心も増大した。

グランドツアーはこうした背景を抜きには説明できないだろう。

ゲーテ(1749-1832)は1786年イタリアに2年近く滞在して各地を巡り「イタリア紀行」を著したし、

モーツアルト(1756-1791)も、ウイーン、パリ、ロンドン、イタリア各地で演奏旅行をした。

つまり、もう西欧は今でいうグローバル化していたことを念頭に置く必要があるだろう。

そしてグランドツアーに来る裕福なイギリス人は古物を売りつける格好の標的であったに違いない。

 

また、簡単に付け加えておくと、英国における廃墟画の流行はグランドツアーの余波ともいえるし、

新古典主義者と言われるロンドンのロイヤルアカデミーオブアーツの教授になったジョン・ソーンを媒体にして会員のターナーコンスタブルに伝搬していったルートがあったのではないかと推量する。

考えてみれば、16世紀の英国国教会の成立で廃寺となったカトリックの教会や修道院など廃墟には、題材には事欠かないイギリスである。

コンスタブル「ハドリー城」

ヨーロッパでは18世紀末から19世紀にかけて、啓蒙主義などの理性偏重に対する反動として、

個人の感受性や非合理的なもの、恋愛やあるいはナショナリズムなどが賛美された。

これをひとくくりにして「ロマン主義」と言うが、多様かつ複雑で簡単にデッサンすることは出来ない。

がしかし、廃墟に「滅びたものの美」「滅びゆくものへの感傷」が「廃墟趣味の流行に確実に含まれて

いたであろうことは間違いない。

 

日本の廃墟画もイタリア出身で風景画とロマン主義の画家アントニオ・フォンタネージ(1818-1882)が1876年お雇い外国人として洋画を教えに来日した際、ピラネージの廃墟画を持ってきた、と言われるから、彼も日本における廃墟画の媒体だったと言えるだろう。

 

遺跡と廃墟

観光客としてローマを訪れフォロロマーノやコロセウムなどを見学するとき、大概はそれが「廃墟」であることをあまり意識していないのではないだろうか。

コロセウムはローマを代表する観光名所であるが、血なまぐさい剣闘士お競技を想像しては見るものの、その巨大さに圧倒されるものの廃墟に付きまとう感傷は湧いてこない。

それはアンコールワットでも、万里の長城でも同様だろう。

つまり観光対象となってしまうと過去の「遺跡」でガイドブックやガイドの説明から得られる知識と

「行った、見た」もので終わってしまう。

 

いま「廃墟に付きまとう感傷」と書いたが、遺跡観光と廃墟を分けるものは何か

廃墟とは、過去の栄耀栄華の無残な姿であり、その過程で起きた人々の死屍累々である。

観光ガイドでそのようなおぞましい過去は歓迎されないし、隠されてしまうのだ。

感傷に浸るには、孤独がふさわしい。してみればツアーでは行くな、と言うことでもある。

 

元田久治と野又譲

今回の展示で嬉しかったことの一つは、この二人の画家の絵に出会えたことである。
啓蒙合理主義の反動の中には、美的体験の称揚「ピクチャレスク」も含まれる。

称揚の過程の中で、廃墟は理想化され、あるいは、より感傷を誘うように描かれ

作者の心象風景が投影される。

廃墟は過去の遺物だが、今ある光景を、未来を透視するように廃墟となった心象風景を描くことも当然可能である。

 

元田久治(1973~)の廃墟化した東京、渋谷や国会議事堂などを描いた作品が展示され、

野又穣(1952~)は遥か遠くに富士山を望む関東平野を描いているが、平野は荒廃して

まるで原発事故で東京が廃墟になってしまったようだ。

 

2011年3月11日の東日本大震災の経験はいまだ生々しいが、死者2万人近く、

未だ全国に散らばる震災避難者は7万人と言われている中で、「復興」の名のもとに

それを風化させようとするとする動きが絶えない。

際どいところで東京廃市が免れたにも拘らず、オリンピックの騒ぎで忘却しようというのだ。

そこに廃墟を透視することの意味が、インパクトがある。

廃炉となる東電福一は、廃炉の目途はいまだ立っていない。

そしてあの無残な建屋は何かで覆われるにせよ、ほぼ永久に姿を晒すことになる。

廃炉費用もいまだ不透明

その中で、一時の浮かれ騒ぎのオリンピックのために費やす税金は巨大だ。

そこに何の意味があるというのか。

国民の福祉を削減してまで開催する価値はあるのか

 

もろもろの価値の創造者として、人間はとりわけ気違いじみた存在である。

現実世界とは、我々の過剰と逸脱、我々の錯乱から作り出されたものである。

生命は錯乱の中で作り出され、倦怠の中で潰える。

E・M・シオラン      崩壊概論(国文社)

 

最後に

今回の展覧会は国内の美術館が所蔵する作品や作家が所有する作品で開催されている。

国内にある絵の中から、独自に

「終わりの向こうへ:廃墟の美術史」を立ち上げたキュレーターの方々

に敬意を表する。

 

なおこの展覧会、1月31日まで渋谷の松濤美術館で開催されたが、

閉会前日30日にようやく鑑賞することが出来た。

テーマはもちろんだが、展示されているポール・デルヴォーはベルギーのデルヴォー美術館で

彼の絵を鑑賞したこともあり、ぜひ見たいと思っていた事に加え、元田、野本両氏を始めとする

現代作家の絵を鑑賞できたこともあり、とても満足した。

 

 

 

 

 

 

 

 

韓国の李明博、朴槿恵両保守権力のメディア支配とそれに抗したジャーナリストたちの闘いの後を綴ったドキュメンタリー。幸いにポレポレ東中野で上映と聞いて出かける。

先ずは予告編から。

 

 

続いてオフィシャルサイトから

2008年、〈米国産牛肉BSE問題〉などの報道により国民の支持を失いかけた李明博政権は、メディアへの露骨な政治介入を始める。狙われたのは公共放送局KBSと公営放送局MBC。政権に批判的な経営陣が排除され、調査報道チームは解散、記者たちは非制作部門へと追われた。両局の労働組合はストライキで対抗するが、政権が送り込んだ新しい経営陣は解雇や懲戒を濫発。その結果、政府発表を報じるだけの「広報機関」となった放送局は、〈セウォル号惨事〉で「全員救助」の大誤報を流し、〈崔順実(チェ・スンシル)ゲート事件〉の隠蔽に加担することになった……。

しかし、それでも諦めないジャーナリストたちがいた。局内に残った記者たちは、さらに激しいストライキに突入。いっぽう、不当解雇されたチェ・スンホ監督たちは、市民の支援で立ち上げた独立メディア「ニュース打破」で調査報道を継続。言論弾圧の「主犯」である大統領と、権力に迎合して韓国の報道を骨抜きにした放送業界内の「共犯者たち」をカメラの前に立たせ、その実態と構造とを明らかにしていく。

韓国テレビ局vs.李明博、朴槿恵保守政権

韓国放送局の旧経営陣や幹部、記者たちは、真実を視聴者に届ける事、政権を監視する事に職をかけ、自分たちが閑職に追われたり退職に追い込まれてもその節を全うした。

つまり一個の人間として高い倫理観の持ち主であった。

もう一つ、いくら強調してもし足りないのは、韓国のジャーナリストたちの「連帯の精神」である。

公共放送KBSがストに突入した時、公営放送局のMBCも連帯してストに参加する。

それは同情ストライキというのではなく

「報道の自由」が侵される、という危機感から生まれた連帯であった。

ストライキだけではなくMBC放送局の記者キム・ミンシクがYouTubeにMBC社長の「金張講は出ていけ」と叫びスマホで自撮りした映像をアップし続ける。

そしてそれは同局の記者が、ある日 高い吹き抜け天井のあるMBCのロビーで同調し、大きな響きとなって館内にこだまする。「あなたの行為に誰もついて来ないのなら、あなたは唯の変わり者になる」と妻に言われたそのキム記者は回想した時、こらえきれずに号泣する。

 

 

安倍官邸vsNHK

一方我が国の安倍政権対公共放送NHKの状況はどうだろうか。

安倍の森友学園国有地払い下げで大阪のNHKでスクープを連発した相沢冬樹記者が退職して大阪日日新聞の記者になり、昨年暮れ、顛末を記した著書を刊行した。

 

 

東大法学部を卒業してNHKに入り一貫して現場で取材してきた記者であるが、過去 部下であったM記者が勤務時間の記録だけでは読み取れない過酷な勤務がもとで倒れるが、労災申請で相沢は自己弁護することなく自分の管理不行き届きを認め、Mの労災申請が認められる。以後は出世の道が閉ざされるが記者としての矜持は失わずに森友事件を追いかけ、スクープを飛ばすが、「異動内示」で考査部行きを告げられる。

それは小池報道局長の逆鱗に触れたためらしい。あるいは小池を通じて安倍官邸が圧力をかけた、とも考えられるが、記者としては憶測は自制されている。

(小池は学習院大学卒で、ニュース9ウオッチで、安倍政権批判で降板させられた、と言われる東大野球部出身大越健介は同期である。)

彼の著を読んで感じるのは、彼のかつての後輩たちが記事が日の目を見るようバックアップしてくれたりはするが、周囲のサポートがなく、必然的に一匹オオカミで在らざるを得ないことである。

NHK労組もかつての上田委員長時代とは様変わりして、政治からは距離を置く。

 日放労は、かつては、政治と強く関わり、そこから社会変革運動をめざした時期もありました。そのイメージで語られることが現在でも少なくありませんが、そうした路線からは三十年も前に距離をとり、常にニュース・番組を出し続ける放送局ゆえの労働環境の改善と、公共放送としての自主自立を守るため現場から声をあげることを続けてきました。
(日放労ホームページより)http://nipporo.com/goaisatsu/

しかし、「公共放送としての自立」は「政治と関り」を持たずに可能であろうか

今の安倍政権のように、百田の経営委員会委員の選出や籾井のような政権べったりの人物を会長に押し付けるような事態に、「関りを持たない労組」は政権にとってこんな好都合はないだろう。

つまりジャーナリズムの使命としての「権力の監視」はその気配さえ感じられないのだ。

熱ものに懲りてなますを吹いていたのでは、報道の自由は侵害される。

すでにNHKは報道の自由も自主独立も侵害されているではないか。

2001年のNHK番組改変問題で、担当プロデューサー以下のように証言している。

記録的意味を含めてここに掲載する。

永田浩三プロデューサーがやはりコンプライアンス委員会で、安倍が放送総局長を呼び出し「只では済まないぞ。勘繰れ」と言ったと証言。永田は“「作り直せ」と言えば圧力になるから「勘繰れ」と言ったのだ”と明言しているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/NHK%E7%95%AA%E7%B5%84%E6%94%B9%E5%A4%89%E5%95%8F%E9%A1%8C

「勘ぐれ」と忖度を強要しているのは、明確な介入と同じである..

アベの「忖度」させる手法の萌芽がここにある。

この改変問題は最高裁まで争われ、2008年逆転判決で被告NHKの勝訴となった。

その最高裁の審理中は第一次安倍内閣と重なり、またその担当判事は社会保険庁長官当時、年金給付担当係長の横領事件を放置したとして、2007年日本テレビの報道番組で名指し批判された。

しかもNHKの裁判が終わったのち、任期を2年以上残して判事を退任している。

 

NHKはほんの一時期の民主党政権を除いて、自民党、後に自公政権のもとにあった。

NHKの予算、それは職員の給与も含まれるが、ガバナンス機構の経営委員会委員の指名は総理が選任して衆参両院の承認を得る仕組みである。

今の安倍政権と同じように有権者全体の25%強(絶対得票率)の得票で、両議院の三分の二も、したがって総理も選出できる制度のもとでは、政権に都合の良い制度が作られ、それが続く仕組みになる。

せめて、「ねじれ国会」にしないと、チェックは働かないのだ、ということを我々有権者、視聴者は肝に銘ずる必要がある。次の参議院選挙はそうした「ねじれ」を作り出すチャンスである。

「ねじれ」があたかも悪いような宣伝に惑わされる必要はない。

民主主義が健全に機能するために必要な「ねじれ」なのだから。

 

機会があれば英国のBBCとの比較において、NHKが公正な報道、権力の監視、というジャーナリズム本来の在り方をするには、どのようなガバナンスの体制にすればよいか、を論じたいが、いまや長くなりすぎたのでこの辺で止める。

 

 

人生の危機を、絵を描くことで乗り越えてきたムンクは自分の内面の死の恐怖、

エロス、孤独、絶望などの心象風景を描いてきた。

しかしそれらの絵には水辺や湖水などがあって、絶望の際でも何らかの生命の脈動が

見て取れる。

寄せては返す波は心臓の鼓動や呼吸のメタファーなのだから、「死に至る病」ではないのだ。

以下はムンク自身の芸術についての考えである。

芸術は自然の対立物である。芸術作品は、人間の内部からのみ生まれるものであって、それは取りも直さず、人間の神経、心臓、頭脳、眼を通して現れてきた形象にほかならない。芸術とは、結晶への人間の衝動なのである。(「続名画を見る目」高階秀爾岩波p130)

ムンク(1863-1944)は1911年のケルンの分離派展覧会でセザンヌやゴッホ、ゴーギャンと

共に一室を与えられるなど生前から評価が確立した画家であった。

彼の芸術観が、あるいは彼の作品が受容されるに至った時代について、ナチスを逃れて

一時東北大学で教鞭をとった K.・レーヴィットの「ヘーゲルからニーチェへ」から引用する。

19世紀、それはヘーゲルとゲーテショーペンハウエルとニーチェ、マルクスとキエルケゴールであり、ドストエフスキーとトルストイであり、スタンダールとバルザック、フロベールとボドレールバイロンとランボー、ルノアールとドラクロア、ムンクとマレ、ゴッホとセザンヌである。

以上すべてに劣らずそれはナポレオンとメッテルニヒの時代である。

それはフランス大革命から1830年まで、1830年から第一次世界大戦まで及んでいる。

工業上のあらゆる文明が後から後から作り出され、発明が全地球上に弘められ、

人間の、あるいは幸福となりあるいは不幸となったが、我々はもはやそれなしには我々の

日常生活を全く想像することが出来なくなっている。(中略 岩波書店、序文より)

ムンクの代表作である、「叫び」や「病める子」「メランコリー」など今回の展覧会でも出品された絵について今更凡百の上に更なる一文を付け加える必要もあるまい。

 

そこで彼の肖像画に注目し、イプセンマラルメニーチェ を取り上げてみたい。

グランカフェのイプセン(1902)

近代演劇の父」イプセン(1828-1906)は同じノルウエーのオスロの出身。

1895年のオスロの個展で「生命のフリーズ」がスキャンダルを巻き起こした時、イプセンは

敵が多ければ多いほど、味方も多いものだ」といってムンクを励ました。

これが縁で、イプセンの「幽霊」や「ヘッダ・ガーブラ」などの舞台装置の下絵を描いた。

 

マラルメ(1897)

マラルメ(1842-1898)はランボーと並ぶ象徴派を代表する詩人。マラルメはこの絵を送られて

自分が正確に捉えられている旨の、感謝の手紙をムンクに送っている。

「マドンナ」(1895/1902)

ムンクは、もう一人の象徴派の詩人ランボーの代表作「悪の華」の挿絵を描いた。

体内に胎児を宿しながらその表情には死の影が付きまとっている。

この絵は、恋人でストラディバリウス奏者であったムドッチを描いた絵に通じるものがある。

ムドッチ(1903)

しかし絵はマドンナの方が製作が先である。

ニーチェ(1906)

ニーチェ(1844-1900)の死後描かれたこの肖像画は、彼の妹エリザベートから依頼されて

製作したものらしい。エリザベートはニーチェの死後遺構を整理して「権力への意思」を刊行したが

その内容がナチスに迎合的で恣意的な編集であるとして非難され、「贋作」とまで言われるようになった。

 

ムンク人間の誕生から死を円環的に捉えていたが、それはニーチェの永劫回帰に連なる。

それはヘーゲルやゲーテがキリスト教を肯定していたのとは全く違う人間的実存の途であった。

 

哲学はヘーゲルからニーチェ、そしてハイデッガーへと連なってゆく。

その道は連続か不連続か、流れは淵となり滝となり支流が本流となってその行方は混沌だ。

哲学の中核は存在論と認識論だが、仮想空間インターネット人工知能の時代を迎えている

現在や、将来の

在る」とはどういうことか、「在るを認識することはいかに可能であるのか

という哲学の根本問題はますます問われ、今なお我々の眼前にあるのである。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

Maria Callas (1923-1977)はギリシャ系アメリカ人のソプラノ歌手。

先ずは予告編から。

 

20世紀最高のソプラノ歌手、と言われたマリアカラス。

体自体が楽器のような声楽では、強靭な声帯とそこに空気を送る肺もまた相当な肺活量

を必要とするだろう。

身長173センチの大柄は容姿のためではないのだ。

 

マリアは華やかな美貌と、豊かな目の表現に演技力などが相まって「最高」と言われるのだろう。

とにかく、カラー化された舞台映像と、そこで歌われる歌唱楽曲を見、聞くだけでもこの映画を見る

価値は十分にある。

歌い終わったとき、思わず立ち上がって拍手を送りたくなるような気持ちにさせられる。

なかでも圧巻は、マリア自身が好きな作曲家だったベッリーニの「ノルマ 清らかな女神よ」

 

 

移民の子として裕福とは言えない家庭に育ったマリアは、デビューは15歳だが、ミラノスカラ座

ニューヨークメトロポリタン歌劇場、パリオペラ座、などで次々とデビューした1950年代がピーク、

と言われた。

 

しかし、エリザベス女王がロイヤルボックスに来臨した1964年のロンドン公演、7年ぶりに

メトロポリタンに復帰した1965年のニューヨークっ子の熱狂ぶりを見れば人気は依然衰えていない。

 

一方私生活では、最初の結婚は30歳年上のイタリアの実業家メネギーニ。この人物の詳細は

不明だが、マリアのプロヂューサーとして彼はマリアを酷使し、マリアの成功を通して自分の栄光を

手に入れようとしている、とマリアに愛想を尽かされてマリアは彼のもとを去る。

1957年マリア34歳の時、当時51歳のアリストテレス・ソクラテス・オナシスと出会う。

ギリシャ哲学者二人も加えた名前のギリシャ人の海運王とは、最初は友人関係から恋愛関係と

発展して同居に至る。夫のメネギーニはマリアとの離婚を承知せず、愛人関係のままであったが、

それも1968年オナシスがマリアに同意を求めずジャクリーン・ケネディと結婚したことで終わる。

165センチのオナシスが173センチのマリアと踊る場面はどことなくユーモラスだ。

出会ったときは、マリアはオナシスを「誠実で、飾らず、無邪気な」と称していたが、

オナシスがジャクリーンに走った時、「なんて不実な男」と評価は反転するが、当然だろう。

 

オナシス(1906-1975)とジャクリーン(1929-1994)との結婚(1968年)は彼女が

ケネディ大統領夫人だっただけに、世界的な話題となった。

一説によれば、ケネディの暗殺に続く、ロバート・ケネディの暗殺などから、ボディガード

が打ち切られたことも相まって、自分や子供たちの身の不安が相当大きかった事も

オナシスとの結婚に走った背景にあるといわれる。

 

この間、マリアはオナシスが自分のもとに返ってくる、と確信していたらしいが、果たして

オナシスはジャクリーンとの結婚は失敗だった、とマリアの下を訪れる。

 

オナシスは1975年に死亡。

マリアも2年後、心臓発作で死亡した。53歳であった。

晩年の声は、低く、太くなっていたように感じた。

なお遺骨は生前の希望により、ギリシャ沖のエーゲ海に散骨された。

 

マリアの「ノルマ」は素晴らしいが、ドニゼッティの「ルチア」はジョーン・サザーランドの方が

優れている、という専門家もいる。

そこで参考までにサザーランドの「ルチア

 

 

ついでに、マリアの「ルチア」(カラヤン指揮)を聞く。

 

 

録音の時期や質も違うし、もちろん私には比較する技量もないが、マリアを包んでいる

オーラもまた彼女の重要な一部だと思うので、マリアを20世紀最高のソプラノ、とすることに

いささかのためらいもない。

 

実はこの映画、昨年12月26日、日比谷シャンテで鑑賞。

有楽町に買い物があって、どうもそれだけで出かけるのは勿体ないような気がして、

映画館を調べたところ、「ボヘミアン・ラプソディ」とレディガガ主演の「アリースター誕生」と

奇しくもジャンルは違えど音楽が楽しめる映画が競っている。

しかし、マリア・カラスの魅力に惹かれてこの映画を選択した。

オペラをじっくり聞くには、時間のできる正月が最適だと思ったので今日アップした次第。

お楽しみいただけましたか?

 

なおCDはこれがおすすめ。

 

PURE<ピュア> PURE<ピュア>
1,917円
Amazon

映画で歌われていた歌曲がたくさん入っている。もちろんベッリーニの「清らかな女神よ」や

「私のお父さん」「ある晴れた日に」なども。