Gon のあれこれ -17ページ目

Gon のあれこれ

読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

中国朝鮮族自治区吉林省延吉に生まれた韓国系中国人のチャン・リュル監督が、

 

韓国三国時代から日本にも文化的交流の深かった新羅の都、慶州を舞台に撮った作品。

 

三国時代とは高句麗・百済・新羅を言うが、概ね紀元前1世紀にはじまり、7世紀 唐が

 

新羅と結んで、高句麗と百済を滅ぼし(その時百済から多くの宮廷人や工人が渡来した)

 

半島を統一した。その後新羅は後三国時代を経て10世紀に高麗に帰順して滅亡した。

 

市内には23基の古墳が山並みを形作る大陸苑をはじめ、民家に接して市内のあちこちに

 

古墳が見られる。

 

いわば慶州は古(いにしえ)の死者と枕を並べて住まっている、とも言えよう。

 

慶州は日本に仏像を伝え、あるいは相互に使者を使わし貢物を交換し、るいは侵略しあった

 

我々日本人にもなじみ深い土地である。

 

その所為か、映画のなかでは中国語や日本語も話される。

 

映画のストーリーはネタバレを避けてオフィシャルサイトよりコピペする。

親しい先輩の訃報の知らせから、久しぶりに大邱(テグ)を訪れた北京大学教授のチェ・ヒョン(パク・ヘイル)。亡くなった先輩との7年前の旅を思い出したヒョンは、衝動的に、そこからほど近い慶州(キョンジュ)へと向かう。以前と変わらず、美しい緑に包まれた古墳が並ぶ街を懐かしむヒョン。彼にはどうしても確認したいものがあった。それは、茶屋にあった一枚の春画。その茶屋を訪れたヒョンは、美しい主人・ユニに出逢う。そこに春画は、もうなかった。ユニによれば、7年前からそれは存在しないという。ヒョンはその後、かつて一夜を共にしたことのある後輩の女性をソウルから呼び出すものの、衝撃的な秘密を打ち明けられる。そして、ユニにも哀しい過去があった……春画を探すヒョンがやがて辿り着く意外な結末とはーー。エンディング曲の題名は「サラン(愛)」。詩情緒に満たされるラスト……

 

 

チェ・ヒョン先輩の死から始まったこの物語は、後輩の女性の堕胎、公園での行きずりの母娘

 

の自殺、あるいはユニ身近の者の死と、死者の影が二人を包んでいる。

 

そして二人のゆっくりとした関係にその影が背後から投射されている

 

見る側もまた、そのゆっくりとした、がしかし影がもたらす緊張を味わいつつ2時間を共に過ごすのだ。

 

死者の影は過去から来るが、しかし常にそれが呼び出されるときは「現在」である。

個人の真の存在は現在の内にあり、個人の現象としての存在は時の流れの中にある。

この次元から見れば現在が止めようもなく過去へと飛び去ってゆくのは、絶え間なく死に

移行していることを意味し、絶え間なく死んでいることになる。

遠山義孝著「ショーペンハウアー」清水書院刊p165)

 

我々の現在の生が、なんと死者に近いことか。

 

そして死者と共に生きることが我々の「現在」でもあるのだ。

 

一昨年の2017年7月、古代の日朝の遺跡を訪ねて釜山とソウルを拠点に6泊した際

 

慶州には釜山から日帰り旅行した。梅雨明け前のせいか酷い土砂降りで大陸苑などは

 

余り楽しめなかった。

 

その心残りー韓国人はこれを恨(はん)と言うらしいーを晴らすためも見る切っ掛けであった。

 

夜景の墳墓はとても美しく、心残りは晴れた。

 

が、再訪する機会があれば、ユニの居た茶屋を捜して、そこでゆっくりとお茶を楽しみたい、と思う。

 

余談だが、イメージフォラムで「主戦場」を見るか、ユーロスペースで「慶州」を見るか少なからず迷った。

 

 

実は6月5日、吉祥寺のUPLINKに出かけたのだが、前日には大分余席があったので

 

予約せずに行ったのだけれど、当日はサービスデーとかで「到着時満席」であった。

 

吉祥寺は古本屋が多いのでそこで幾冊か買い求め、昼飲みは「いせや総本店」で、

 

とそれなりに楽しんだが、渋谷となると、「主戦場」をやっている。

 

結局従軍慰安婦の問題だけに限って言えば、私の中では既に決着済みでもあるし、

 

この映画が好評で、上映館が60に増えた、と映画を見ることで「応援する」意味合いも

 

薄れたのではないか、と考えて、「慶州」に決めた次第。

 

尚「主戦場」に関して、従軍慰安婦疑問派の大物、秦郁彦氏がこの映画に出ていないのは、

 

片手落ち、とのオウム真理教で活躍したジャーナリストが批判したそうだが、秦氏は

 

出演要請を断ったらしい。

 

また秦氏は吉見氏と萩上チキさんの番組で対しており、書き起こしのブログがあるので

 

勝手に貼らせていただく。  秦氏が断った理由が何となく推測できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一見しただけでは名前の馴染みもなくて意味が良く分からないこの展覧会。

 

先ずは同展の趣旨説明から。

「都美セレクション グループ展」は、新しい発想によるアートの作り手の支援を目的として、当館の展示空間だからこそ可能となる表現に挑むグループを募り、その企画を実施するもので、2012年の東京都美術館リニューアルオープンを機に新たに開始されました。
「都美セレクション グループ展 2019」では、応募の中から厳正な審査を経て選ばれた3グループが展覧会を実施し、絵画、写真、彫刻、インスタレーションなどさまざまなジャンルの作品を紹介します。グループの熱い思いが込められた展覧会にご期待ください。

 

選出された三つのグループがそれぞれギャラリーA、B,Cにて各所属作家の作品を展示している。

 

予め名前の承知している作家は居ないが、クリムト展を鑑賞した際、この展覧会が9日から開催される、

 

と知って、名画鑑賞、つまり評価が確立し、鑑賞に絡むあれこれの煩わしさもなく、更の気持ちで

 

自分の意識と感覚を頼りに絵を鑑賞できる、という魅力で出かけた。

 

もう一つの魅力は、自分たちのグループの作品を世に問いたい、発表の場を得たい、と公募に応じた

 

その熱意に触れることが出来る、ということ。この方が先に挙げた理由よりはるかに大きいが。

 

会場では各グループの展示マップと簡単なグループの紹介や作品の案内のパンフが入手できる。

 

印象に残った作品について感想をいくつか記す。

 

1「彼女たちは叫ぶ、ささやくーヴァルネラブルな集合体が世界を変える」

 

イトー・ターリ (私の居場所 4つのパフォーマンス記録映像)

 

パフォーマーとして、セクシャルマイノリティと自己のアイデンティティ、沖縄の基地に生きる女性、

 

あるいは福島の問題など、今に向き合う作品群の映像展示。

 

LGBTの人たちにとっては、自分の肉体と意識との乖離が、それゆえの肉体がいわば牢獄となって

 

自意識を苦しめる、ということを理解した。

 

彼女のパフォーマンスはYouTube でもそのいくつかを見ることが出来る。

 

会場の映像では画面も小さく、音も絞ってあったので音声は聞き取りにくかった。

 

カリン・ピサリコヴァ (身体の物質性から概念の世界への逃避)

 

病気や薬物使用、妊娠など普通の状態でないときには、自分の心は身体の状況に支配さ

 

れ、両者は不可分(一体)となる。永遠に自分の身体から逃れられないことが、すべての

 

基準となる。

と説明書きにあるのだが、さすればイトー・ターリと共通の問題意識があるという事なのだろう。

 

しかし身体性から概念へ、という道筋が良く分からない。あるいは「概念」の意味内容が。

 

身体性は、それを否応なく意識させる「他人、あるいは社会の視線」というものが自己の意識に

 

照射されてその分裂が、身体性と意識の統一を妨げるのではないか、という気がするのだが。

 

ヘーゲルの「概念」からいえば身体そのものが意識の対象であり、その再統一が理性の課題なのだが。

 

2、「星座を想像するようにー過去、現在、未来」

会場で頂いたパンフには、

「星の光は何光年もの時を経て私たちの目に届きます。

私たちが生きる現代も長い歴史の上にあります。

その歴史や現代を繋いだ先に未来があるように。」

とある。

 

瀬尾夏美

東日本大震災で被災した陸前高田に移り住み、その「復興」の風景の変化を抽象化する。

 

 「流されたまち」-瀬尾は“みえないまち”をそう呼んだ。やがて「ここにあったまち」は「平らなまち」「新しいまち」と変化し、復興の嵩(かさ)上げ工事が始まると、「天空のまち」となり、かつてあったまちは「下のまち」となって「二重のまち」が見え始めた。

 移り住んで三年、復興という「第二の喪失」に気づく。山を削り、ベルトコンベアで土を送り込み、十メートル以上の土の山の下に埋められていくまち、記憶、風景。

(あわいゆくころ陸前高田震災後を生きる:瀬尾夏美著の書評https://www.bookbang.jp/review/article/564800 より)

 

復興という「第二の喪失」

 

過去・現在・未来は、連続していて現代の先に「未来」がある訳ではない。

 

過去を失った人々、人生を共にし様々な思い出を共に紡いできた人たちを失うことで、

 

その人の過去も失われていく。そして語るべき言葉を失った人は現在の生も失うのだ。

 

今、復興の名のもとに、かつての風景を失うことで、記憶のよすがも失われていく。

 

過去を忘れないために、人は記念館などを作り、あるいは震災に生き残った一本の木を

 

残すことで、くじけそうな心を支えようとする。

 

しかし一方、それは同時に、「過去」を封印することでもある

 

過去がどのようであったのかを、一方的に切り取り、軽重をつけ、それを「真実」とする手法。

 

古堅太郎 (ふるかたたろう)「完璧な抱擁」

 

彼の作品で目を引いたのは、広島の平和記念公園を設計した丹下健三が、戦時中

 

「大東亜建設記念造営計画」のコンペで1等を獲得した、その案との類似性から

 

「アメリカの謝罪、あるいは、日本の帝国主義から入念に切り離された『平和』に戦中のプロガンダとの類似を見ることはできないだろうか?」

https://motion-gallery.net/projects/kakogenzaimirai/updates/23760

という問題提起。

 

世界に向けて人類の平和を願い訴えることと、過去の過ちを繰り返さないことを目的に建設された

 

広島平和記念公園は、人類の平和を願い、過去の過ちをいうものの、日本の戦争責任や原爆を投下し

 

た当事国について明確なメッセージを発しているとはいいがたい

 

古堅の言うように「入念に切り離されて」いるのだ。

 

そしてその切り離しは、原爆の惨禍の言説を、つまりは「過去」を、一方的に提示することによって

 

「過去を封印すること」でもあるのだ。

 

何のための封印?

 

オクタビオ・パス

十八世紀に幕を開け、恐らく今その黄昏を迎えている時代、近代は、変化を称揚し

それを自身の基礎とした最初の時代である。

差異、分離、異種性、複数性、斬新さ、進化、発展、革命、歴史、これらの名辞は

すべて、ただ一つに凝縮するーー未来。

過去でも永世でも、現にある時間でもなく、まだ存在しないが、常に存在する寸前

にある時間。(泥の子供たちーロマン主義からアヴァンギャルドへ、水声社37P)

そう未来のため、進歩という幻想のための「封印」

 

政治の世界では、改悪も「改正」と呼び、あるいは「改革」と呼ぶ。

 

なお加茂昴の「超人為的な光」「境界線を吹き抜ける風」はユニークで楽しい作品であった。

 

幸いなことに、この展覧会で以上のような様々な思考を触発された。

 

来年の開催も決定している。会期は2020年6月上旬から7月上旬のうち4週間程度。

 

応募の締め切りは今年の7月15日。もう間もなく締め切りである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、時を同じくして都内でウイーンの世紀末、クリムトを中心とする分離派の絵画展が

 

都立美術館新国立美術館で開催されている。

 

これによって、国内のみならず近隣諸国の愛好家が「効率よく鑑賞できる」と集まれば良いのだが。

 

ウイーンへはもう20年近くの古い話になるが、ユーレイルパスの一等で3週間ほど、ミラノで

 

ブレラ美術館を見た後、テラノ線で氷河を見ながらスイス国内でアルプスの景観と散策を楽しみ、

 

チューリッヒからザルツブルグ、メルコの僧院からドナウ川下りでウイーンに入り、19世紀末

 

ハプスブルグ家最後の栄光、皇妃エリザベートを偲びつつ、ベルヴェデーレとその「オーストリア・

 

ギャラリー」でクリムトやエゴンシェーレを堪能し、美術史美術館で、ハプスブルグ家のコレクション

 

(それはプラハに居を構えたルドルフ二世の蒐集によるもの多いが)を鑑賞した。

 

皇妃エリザベートはハンガリーの独立的地位に貢献したこともあり、ハンガリーで「シシー」の

 

愛称で慕われ、とてもその人気が高かったが、そのブタペストを観光後、ウイーンからヴェネチアまで

 

特急でイタリアに再度入ってからパドヴァやフィレンツェ、ポンペイなどを巡りローマから帰国した。

 

都美の展示は先に挙げたベルヴェデーレの「オーストリア・ギャラリー」から貸し出されたクリムトの絵画

 

が中心であり、一方の新国立のほうは、カールス・プラッツにあるウイーン・ミュージアムが改修中なの

 

ウイーンとの外交樹立150年を名分に同ミュージアムから広範囲な貸出を受けたものらしい。

 

先に述べたように鑑賞はずいぶんと前になるので、今回二つの展覧会を見ることにした。

 

キュレーターの方の展示の力点に添いつつ、都美の方は、クリムトの「ユディト」や「女の3世代」

 

をめぐるあれこれに話題を絞り、新国立の方は、クリムトとエミール・フレーゲの関係や、シーレ

 

絵について、また各展覧会の折に触れてファムファタールについても語ってみたい。

 

都立美術館「クリムト展ーウイーンと日本1900」

クリムト(1862-1918)は独身を通したが、「死後、なんと14件もの養育費請求が出され、

 

モデルの一人とは彼女とその二人の息子の面倒を見ていた」(スザンナ・パルチェ著17p他)

 

 

ということが明らかになった。

 

「芸術家として私の事が知りたいならば、私の描いた絵画を注意深く鑑賞し、そこから私が何者で、

 

何をしようとしたのかを学び取ってほしい」(同書10p)と私生活の詮索を避けたかったようだが、

 

彼の絵の際立つ「官能性」がその絵の評価の高まりとともに、彼の性生活に対する「好奇心」

 

呼んだ面は否めない。

 

それは、彼の弟の妻の妹、エミール・フレーゲとは一緒に休暇を過ごしたり、旅行をし、しかも

 

互いに独身を通したことが、謎として、一層その「好奇心」を煽った面もあるだろう。

ユーディットⅠ」(1901)

 

水攻めにあった都市の美貌の娘ユディトが敵の陣地に忍びこみ、官能と酒で敵将ホロフェルネス

 

首を取って都市を救った、という旧約の外典(新共同訳の聖書には載っていない)の物語の絵。

 

この主題では、クラナハの絵が有名だが、この絵のユーディットはホロフェルネスの首を右手で

 

愛撫している様でもあり、一方、半裸で顔にほんのり紅がさして恍惚とした表情を浮かべている。

 

絵のモデルは、映画「黄金のアデーレ」の「アデーレ・ブロッホ・バウアー」説が定着している。

 

クリムトは彼女に夢中だったが、同時に恐れてもいた。彼女がいつか自分の首を切り落と

 

し、それを優しく愛撫しようとしているのではないかと考えていた。だからこそユーディットは

 

手を優しく首の上に置き、愛撫している。つまりクリムトは彼女に対する恐怖と熱狂を

 

同時に作品の主題としたのである。(ゴットフリート・フリードゥルの引用、岩波同書81P)

 

アデーレの夫は銀行家で、ヴィトゲンシュタイン等と共に「分離派」を支援した、言わばスポンサー筋

 

である。そのため生前は事が明るみに出ないようにクリムトは用心していた、と考えていたのだが、

 

当時のウイーンの芸術仲間には、アデーレとの関係も、彼の性癖も知られていたらしい。(同書81p)

 

また、彼のクロッキーを見ると、相当にエロチックな姿態のものも多数ある(出展112,113)。

 

それらや、紅潮した頬などから類推すると、この恍惚は行為の後の表情とも取れるのだ。

 

一方熱狂と恐怖を表出するものは何だろう。

 

それは黄金の首輪ではないか

 

黄金は富、権力、高貴と自由の象徴。

 

首輪は被所有物、服従そして囚われ人の象徴。

 

富や権力は渇望の対象、よって同時に虜になる恐れを生む。

 

富(所有)と被所有)、権力(支配)と服従、自由と囚われ人のアンビバレンツ。

 

クリムトは高貴なアデーレの中に欲望と、相手に絡め取られる恐怖を同時に感じていたに違いない。

 

 

 

女の三世代(1905)と題されたこの絵は、彼の有名な作品「接吻(1907-8)と共にある展覧会に

 

出品された作品である。大きさ(180×180)も同じで、構図の類似性も指摘される。

 

3人の女性たちは「接吻」の恋人たちと同様光背のような光に覆われ、左右は大きく開いている。

 

幼子を抱く母親は接吻の女性同様首を横にかしげている。

 

つまりクリムトはこの二つの絵を一対として見るように促したのではないか。

 

「接吻」では、女は跪き、男の腕で首が不自然に捻じ曲げられて接吻を待っている。

 

受動的な性としての女性が、男に愛撫され、子を身ごもり、そして老い乳は垂れ、下腹は膨らみ

 

弾力性を失ってゆく。

 

新しい生を生むための受苦と若さの犠牲。

 

しかし、クリムトのこの絵には、そうした女性の生に対する憐れみは感じられない。冷徹だ。

 

クリムトは多情多淫で『欲張りな男(クリムト)は、「女」に「美しく、賢明で、機知に富んで」いる事を

 

期待し、そのうえで自分の意のままにしようとする』と愛人の一人(アルマ・ヴェルフェル)が言う

 

(同書78p)

 

男の女性に対する支配欲(ヴェルフェル)と支配欲の裏にある女性に対する恐れ(フリードゥル)。

 

男性にとって女性は欲望の対象であり、あらゆる女性の性徴、乳房や性器だけでなく、

 

髪の毛から爪先まで、そのしなやかさ、その曲線もすべて欲望の対象であり、

 

フェテシズムの対象でもある。

 

そしてその欲望の対象となりうるのは、柔らかさを失った老婆と性徴未然の子供を除いた性である。

 

あらゆる男性は母親から生まれる。

 

うまれてから直ちに、最初に欲望の対象になるのは母乳ー乳房である。

 

 柔らかく弾力性に満ちた乳房から乳を飲み、満腹してゲップを出し そしてまどろむ至福の時

 

(女性も勿論母親から生まれるのだが、幼い娘も後に母親と同じ乳房を所有する事に疑問を持たない。

 

そこに欲望もフェテシズムも生まれる余地はないと想像する。)

 

主体を惹きつけて止まないものは、惹きつけられて我(主体)を失いかねない恐怖をも内包し、

 

スリリングでアディクティヴなものでもある。

 

派遣されたモデルから、アデーレに代表される官能的かつ知的な女性までクリムトの多情は

 

そうしたところから発する。

 

つまり官能も支配欲も唯一の対象(女性)に生涯囚われることから最も遠いところにあるのだから。

 

そして「唯一の対象」に囚われることは、女性への敗北であり欲望の枯渇、生命力の枯渇、

 

想像力の枯渇に至る、老衰と死への道筋だ。

 

ファム・ファタールとはそういう女性に対する葛藤に他ならないのだ。

 

どうもそれが時代のオブセッション(強迫観念)になった時代があるらしい。

 

先のアバルチェ(岩波刊)に引用されていたゴットフリート・フリードゥルの著(TASCHEN)

 

 

19世紀の転換期に好まれたテーマ、ファムファタルすなわち宿命の女は、人を威嚇する

 

存在とみなされていた。

 

これは、そのころ女性の社会的立場が大きく変化したことに起因する。

 

クリムトの作品にも、ファム・ファタルに対する恐れが表出している。政治社会面における、

 

「自由主義における男としての自我の危機」は多くの論議を呼び、男の役割に疑問を

 

投げかけることになったが、これを引き起こす原動力になったのは、決して経済的あるいは

 

政治的変化だけではなかった。時を同じくして始まった、職業および政治面における女性

 

解放の動きもこれに大きな影響を及ぼしたのである。(中略)彼の描く多くの女性像に

 

内在する寓意としての復讐の力に(ユーディット)についても、その根源として、

 

女性の役割の社会的変化とそれによってもたらされる不安を挙げる事が出来る。(同書141P)

唐突だが、国会の女性議員、特に立憲民主党の辻元議員や蓮舫議員に対する誹謗・中傷

 

その激しさが、しばしば話題になる。しかも彼女らは首相や大臣を遣り込めるパワーも能力もある

 

対して与党側の女性議員は概して迎合的で従順で、男性の存在を脅かす存在とは見えない。

 

彼女たちに対する激しい誹謗中傷は、男性の現在の生活に対する不安感、将来の終身雇用や

 

年金がどうなるかわからない不安感が野党第一党の有能な女性議員に対する恐怖

 

増幅しているのではないか、という気がする。

 

 よって誹謗中傷する彼らにつける薬はない、というのが私の診断である。

 

さて、クリムトは同じドイツ語圏のベルリン分離派に籍を置いたムンク(1863-1944)と同時代人である。

 

二人が直接の出会いを持ったか否かは不明だが、互いの画家としての消息は知っていたに違いない。

 

絵のモチーフも、「接吻」「生のフリーズ」「三つの女の発展段階」と比較したくなるような共通の主題

 

の絵がいくつかある。画面も平板な感がある。

 

一見してムンクの絵は暗く、クリムトは煌びやかなようだが、「叫び」に代表される不安や憂鬱など

 

19世紀末の新しい時代への暗い予兆を描いたムンクと19世紀の繁栄の爛熟したデカダンス

 

をーその裏にある死や荒廃への不安は言うまでもないだろうー描いたクリムトは同じように

 

「時代の申し子」であった。

 

クリムトもムンクも大きく「象徴主義」の画家と括られるが、その範囲ではクリムトは

 

ギュスターヴ・モロの後継者と言えるだろう。

 

今回叙述がややくどくなったきらいがある。

 

時間を見つけて書き足したせいもある。多重層的なことを言うのに苦労した面もある。

 

クリムトに関しては、ユーゲント・シュテル(青春様式)やウイーン分離派について、

 

あるいは「歴史に残る偉大な作品であり、少なくとも世紀末オーストリアの代表作」

 

(前掲書フリードウル、今回複製が展示1986年))とされる「ベートーベンフリーズ」

 

また、「ジャポニズ展」に絡む浮世絵ys琳派の影響、あるいはフレーゲ姉妹の世紀末ファッション

 

などについて話題は尽きないのであるが、時間もエネルギーも尽きたのでこれくらいで終わりとする。

 

尚冒頭に、「新国立での展示会を含めて近隣諸国の美術愛好家にとっても好個の機会」という

 

趣旨のことを述べたが、その点中文やハングルでの解説が併記されていなかったのは残念であった。

 

約一時間半くらいでクリムト展を見た後、同じ都立美術館で開催されていた「新象展」(6月4日まで)

 

と「第65回全国写真展覧会フォトコンテスト発表展」(6月4日まで)を鑑賞した。

 

特に写真展では高校生のみずみずしい感性に触れることが出来とても楽しかった。

 

最も印象に残ったのは「玄孫の手」原田良徳。少し涙腺を刺激された。

 

最後に、6月9日から30日まで、都美セレクショングループ展2019が開催される。

 

時間を見つけて見に行くつもりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

展覧会では、サロメのたくさんの習作と称される作品と「パルクと死の天使」(1890作)が印象に残った。

 

会場ではそれらの習作は、「出現」の背景にある「闇ー暗がり」の表現をめぐってモローが苦闘した

 

跡であろうか、と推察したのであるが、ホーフシュテッターは以下のように言う。

この画家が多くの未完の画を残しており、これらの作品から最後まで描き上げたくないという意識的な企図を推論することが出来るーとりわけまたほかならぬこれらの断片的な作品こそが彼のもっとも重要な弟子、ルオーとマチスへの接合点を認知せしめるものであることは、長い間看過されてきた。

モローは、観念論的な内容をレアリスム的な委曲を尽くして造形することの矛盾を感じ、彼の(完成した作品)を妥協の産物とみなして居たのに違いない。

最後まで描き上げなかったのは、彼にとっては十分に完成したものであったからであった。

モローは弟子たちに(色彩は、思考され、想像され、夢見られなくてはならぬ)と教えたのであった。モローの断片絵画にあっては、色彩が、人物像や、幻影のように暗示的に描かれているだけの人物たちの所作の代役を務めている。

この画家は自らの象徴観念を色彩の形体の中にことごとく圧縮してしまったのだ、

(、象徴主義と世紀末芸術 p129-130中略)

少し補足するとモローは二人の弟子ルオーとマチスのチューブから出した絵の具を即塗りたくったような

 

絵を「野獣派」フォーヴィズムと名付けた。

 

サロメの「習作」とされる作品も、サロメと洗礼者ヨハネ、ヘロデ王や客人たちの存在を色彩の形体で

 

表したものと見ることが出来るのだ。

 

こうしたユニークな視点は、作品を見るうえで多くの材料を与えてくれる。

 

一方「習作」における色を塗られていない部分は、同時代人のセザンヌ(1839-1906)の白

 

を想起させる。その部分は色を塗る必要がなかったり全体の調和のためにあえて空白とするのだ。

 

モローが病に臥せった愛人アレクサンドリーヌ(1835-1890)の亡くなった頃制作された

 

パルクと死の天使について、会場での説明がある。

運命を司る三人の女神パルクの中で最も恐ろしいアトロポスが死の天使の軍馬の手綱をつかみ、荒涼とした風景を歩み進んでいる。本作は、アレクサンドリーヌが亡くなった1890年に描かれた。顔のない黒く描かれた天使や朱色に輝く星が、激しい不安をかきたてる。パルクに母ポーリーヌの姿を重ねたとの指摘もある。

死とは冥界への旅立ちだ。

 

聖書では「陰府」と訳されるが、この絵はモローが「闇」を描こうとした到達点のような気がする。

 

モローがアレクサンドリーヌと結婚しなかったのは、多くの同時代の画家たち、ドラクロワ、ドガ

 

あるいは少し下るがクリムトやムンクと同じく

 

結婚は、名誉と金のために仕事をせざるを得なくなる(世俗の存在)妻によって芸術家を堕落させる」(ギュスターヴ・モローの世界 新人物往来社p83)

 

という時代のオブセッションのせいらしい。

 

最後にモローが影響を受けたとされる象徴詩人ボードレールの、わけても彼が好んだ

 

照応(コレスポンダンス)を抜粋する。

 

〈自然〉はひとつの神殿、その生命ある柱は、

時おり、曖昧な言葉を洩らす。

その中を歩む人間は、象徴の森を過り、

森は、親しい眼差しで人間をみまもる。

 

淫蕩に身を養い、また蝕まれ、また御身ら、処女たち、

母親の悪徳の遺伝を身に受けて、

子だくさんの醜さのすべてを、曳きずりゆく者たちよ!

 

(阿部良雄訳ちくま文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この展覧会の主題は、モローが数多く描いた「サロメ」と男を破滅させる女「ファムファタール」。

 

「出現」「エウロペの誘拐」「一角獣」が今回の展示の目玉である。

 

モロー(1826-1898)は マネ(1832-1883)や ドガ(1834-1917)あるいは

 

セザンヌ(1839-1906)、そして詩人のボードレール(1821-1867) マラルメ(1842-1898)

 

達と同じパリを、第二帝政からパリコミューン、第三共和政の変転するパリを共に過ごしたのである。

 

チューブの絵の具の出現で画家は屋外に出かけ、その光をとらえるべく印象派の画家を輩出した。

 

印象派の最後の展覧会が行われようとした1880年代に、モローは独りで(ガス灯の光のもと)黙々と

 

高い理想を託した絵の研究を続けていた。」(ギュスターヴ・モロー ラカンブル著p80、創元社)

 

その絵画は余りにも独自なので死後、一時は画壇から忘れ去られた程であった。

 

モローを理解するにはいくつかのキーワードがあると思う

 

その一つはギリシャの古典などへの深い知識と、かつてそれらや聖書の物語を描いた

 

歴史画の復興」に掛ける思いである。

 

著名な建築家の息子として小さいころからオイデウスの「変身物語」などに親しんだ、というから

 

同じ著者のエロチックな本「恋愛指南(アルスアマトリア)」も読んだに違いない。

 

もう一つは、遺言で自宅兼アトリエを自分の絵と共にパリ市に遺贈した際、書簡や蔵書の多くを

 

廃棄処分するよう言い残したことである。

 

その遺言は一部しか実行に移されず何某かの書簡などが残され新しい事実なども判明した。

 

マリオ・プラーツは以下の書(初版1930年フィレンツェ)において、モローをドラクロア(1798-1863)

 

 

と対比して「ドラクロアは熱狂的な行動に逸る血気盛んなロマン主義を、モローは不毛な観照に

 

明け暮れるデカダンディズムを実に見事に代表している。二人が扱う題材は、淫乱で血なまぐさい

 

エグゾティズムと言う点でほとんど同じである。しかしドラクロアは、その主題の内深くに分け入って

 

生きるのであるが、モローはその外観をただただ熱愛するばかりである。従ってドラクロアは画家

 

であり、モローは装飾家なのである」とモロー愛好者がagony苦悶するようなことを言っている。

 

プラーツはまた、モローの人物像が男女の区別が一見では不可能であり、その絵画の孕む密かな

 

意味は、近親相姦であり、そこで賛美されている形象は両性具有、究極は不毛性なのである。(p391)

 

この見地は、その小説の中でモローの「出現」を取り上げモローの名声をゆるぎなくした、とされる

 

ユイスマンスの「さかしま」の翻訳者である渋沢龍彦にも受け継がれ、

 

「モローのお気に入りのテーマは終始一貫、女性の美の中に具現した悪と死のそれである。

女性はモローにとって、常に危険なもの、禍々しいものの化身なのである。母親コンプレックスから脱け出ることが出来ず、生涯独身を通したモローの女嫌いはよく知られており、彼にホモセクシャルの傾向があったらしいことも、多くの証言によって確実と見られているが(中略)彼の女哲学は

女とはその本質において無自覚の存在なのであり、未知なるものや神秘に夢中になり、邪悪な悪魔的な美しい姿となって悪に心を奪われる存在なのである』(中略)

モローのエロティシズムの構図における男と女の対決では、邪悪で残忍な女獣の方が必ず勝利を博し無垢で無力な青年の方が決まって敗北を喫するもののごとくである。ここまで見てくればモローの絵画制作の密かな動機に、芸術的に昇華された一種のマゾヒステックな衝動が働いていたことはほとんど疑問の余地はあるまい」(同書88-92適宜抜粋)

 

しかし、死後モローの私生活、彼が隠匿しようとした私生活が明るみに出され、彼には結婚はしなかった

 

が近所に囲っていた母親公認の愛人が居り愛情深い関係を持っていたことがわかり、ミソジニー

 

(女嫌い)やホモセクシャルなどのレッテルは剥がされたとみてよいだろう。

 

このことで想起されるのは、モローが絵の買い手に絵の内容について問いを受けて

 

「あなたに書いたことは、言葉によって説明されることを要求しないものです。

この絵を理解するには、ただこの絵を愛し いくらか夢見なければなりません。

これが単なる空想の産物をあらわしているのだということで満足してもらっては困ります。

これほどの事物、これほどの高貴で真実で、深く崇高な思想を表現しうるこの素晴らしい芸術、その雄弁さがこれほど力強いこの芸術が俗悪な事実の写真的な翻訳やパラフレーズに堕しているのはなんと嘆かわしいことでしょう」以下の書p65ホーフシュテッター1965美術出版社

 

 

この彼の言の中に、彼が自分の生み出した絵を、彼の家族関係を含む私生活と結びつけて「解釈」

 

されることへの拒絶が読み取れるだろう。

 

加えていえば、ホーフシュテッターはマニエリスムのホッケの弟子で、象徴主義の要素の一として

 

デカダンを上げており、モローを象徴主義(サンボリズム)画家として位置づけている。

 

私見では、象徴は目に見えないもの、あるいは名付けようのないものを表現する形式である。

 

フロイトの「夢分析」も、ユングの「元型」も立ち現れた現象に対する一つの解釈に過ぎない。

 

故に「サンボリズム絵画は何処までも謎めいていて解読不能のままに留まる。

知性的な理解の代わりに感情移入による理解が必要になる。象徴の共鳴の中でしか

サンボリズムの絵画は理解され得ないのである。」(同書p61)

 

つい展覧会それ自体から離れてしまうのであるが、目玉作品の一つ「出現

 

ヘロデ王が自分の弟の妻へロディアと結婚したことを非難した洗礼者ヨハネを獄中に捕えていた時、

 

ガラリアの有力者を招いて宴会を開いた際、へロディアの娘サロメが妖艶な踊りを舞い、それを

 

喜んだ王が「何であれ望みをかなえよう」と言われて母へロディアはサロメに「洗礼者ヨハネの首」

 

をと言い、衛兵はヨハネの首をはね盆にのせてサロメに渡した(マルコ福音書6-14以下)

 

このテーマはティツイアーノやクラナハの絵でも有名だが、モローはヘロデ王に洗礼者ヨハネを

 

名指ししようとして心象に描いたシーンを形象化した。

 

名指すものが一層淫らで俗悪にまみれていればいるほど、

 

名指されるもののは一層崇高な存在になる。

 

と理解するがどうだろう。

 

この「一角獣」について「自作を語る画文集」八坂書房においてモローは

 

「好きなようにこの絵を見ればいい。女性だけが集まった魔法の島というのは、造形芸術のあらゆるモチーフの最適な主題となる。気に入れば、それはいいことだが喜びを見出せないなら、仕方がない。それだけのことだ。批評的な考察や非難、理屈の上だけの厳格さなどはこりごりだ。

ああいう馬鹿者どもにおいては、そもそも彼らの「芸術」における知性など、彼らが自分たちのことをどう思おうと何をしようと、馬鹿者は馬鹿以外の何物でもない」と辛らつだ。(同書p90)

 

展覧会のテーマに戻ると、ファムファタールについて「悪女としてのファムファタール」と言う意味

 

だけでなく、たとえば知恵の実を食べるように誘われたエヴァが、今度はアダムにそれを食べるように

 

誘ったように、誘惑され誘惑する存在と女性をとらえている。とキュレーターは理解している。

モローは、男性を誘惑し、翻弄し、命すら奪うファム・ファタルとしての女性を数多く描く一方で、男性からの誘惑の標的となり、数奇な運命をたどった女性もしばしば主題としています。そうした作品においても同様に、彼女たちの妖しく艶やかな姿態は見るものを幻惑せずにおきません。

先に引用したモローの「女とは、、」では始まる文は、展覧会でも引用されているのだが、

 

彼が「女」に象徴したものは何だろうか、と考える時、それを彼の女性像と簡単に決めつけるのは

 

疑問が残るのだ。展覧会で引用された以下の文、

「女というものは、その本質において未知と神秘に夢中で、背徳的悪魔的な誘惑の姿をまとって現れる悪に心を奪われる無意識的存在なのだ」

に於ける「女」という言葉を、フランス人、宮廷の女性、、何でもいいから代入してみたらどうだろう。

 

1852年から始まった第二帝政、ナポレオン三世のフランス最後の帝政は隠微さなど欠片もない

派手な祝宴が催された時代であった。

末期になるにつれ「皇室の宴」の回数は激増。迫りくる終焉を察知したかのように宴はどんどん熱狂的になり、騒音と照明と快楽とスキャンダルの度合いは高まるばかり。第二帝政最後の日まで続く。

(遊興を好んだ皇后は)ゴシップ記者や政治風刺家の好餌となり伝説を生み出す。

女官たちの羽目を外した破廉恥さは、絹のタイツ以外は一糸もまとわず、カステイリオーネ伯爵夫人は半裸に近い格好で登場。これに輪をかけたのがゴルチャコフ大公妃で、フロベールの小説の主人公サランボーに身をやつした妃がタイツの上につけているのが腰に巻いたスカーフのみ。プルタレス夫人にいたっては、文字通り素っ裸だった。

(庶民には)色っぽい仕種で女が服を脱ぐ出し物で大当たりをとる芝居小屋も出現。大衆ダンスホールからカジノまで娼婦の溜まり場になりオペラ座の仮面舞踏会が空前のブームに。 一方ボードレールは「惡の華」でフロベールは「ボヴァリー夫人」で有罪判決を受け、、

プロシャ軍のパリ包囲で第二帝政が崩壊した後、パリコミューンとその崩壊の大虐殺、、1871年の第三共和政になだれ込んでいくのである。(パリ風俗史講談社学術文庫から適宜抜粋)

モロー自身がミソジニーであった、とは断言できない。

彼がサロメやギリシャ神話に仮託して描いたものは何らかの象徴なのだ。

それが何であるかは時に感情移入で、時に直感で、あるいは徐々に自分のもとに表れてくる想念で読み解くより他ないのだ。

そこに象徴の持つ、新大陸発見に似た楽しさがある。

 

 

 

 

 

 

ユニークな才能に出会えるのでは、と言う期待でワクワクしながら上野の森に出かける。

 

審査の無い、つまり審査員と言うフィルターを通過していない作品群、と言う魅力。

 

個々の作家が、何らの係累、学歴だとか師弟関係だとか、画廊や画商などのつながりを別にして

 

一個の表現者として参加しようとする、その心意気の清々しさ、と言う魅力。

 

一方展示された自他の作品を見て、今後の進路を決定する、つまり転身、と言うことも含めてだが、

 

その緊張をはらんだ場である、と言う魅力。

 

だから最も称賛されるべきは、この展覧会を企画し実行した人たちだろう。

 

そこでまず第一に同展のホームページ より展覧会のコンセプトを紹介する。

 

ドイツの芸術家ヨーゼフ・ボイスが訪れ、芸術は形式やメディウムや定義等に縛られたものではなく、社会を未来に向けて変えていく活動そのものであり、その結果であるという「社会彫刻」の考えを語った。そして、同じ旅のなかで、上野の山の東京藝術大学で行われた学生との対話集会において、黒板にチョークで「自己決定=創造性=自由=芸術」と書いた。そのとき、ボイスが黒板にチョークでそう書いたのを目撃したとき、社会彫刻も自己決定も何を指しているのかさっぱり分からなかった学生たちの、望むらくは何割かは、その後の人生のなかでその意味を悟った。それは、芸術とは何かを考え続けて生きていくとき、まず問われるのは芸術家としての自律だという事実であり、その自律の上でひとりひとりのなかに宿る創造性を使って自由をかちとっていく闘いがあり、自分のなかの創造性を社会に向けて注ぐことができるという体験でもあった(中略)

2回目の東京オリンピックの前年にあたる、今年、2019年。東京インディペンデントは、自分が芸術家であると考える人たちの参加を募り、お互いの心の炎を確認するための場所となることを見たいと願っている。 西原珉

恐らくは主催者側の予測を超える出展があったのだろう。

 

惜しむらくは高いところに展示してある作品は、その番号も、題も読めない。勿論細部も。

 

その限られた鑑賞を前提に、いくつか印象に残った作品を以下に紹介する。

作者は徳富喜翔氏。

徳富喜翔氏のブログ

次は大西茅布氏。高校生、と言うから驚く。

次は木村知央氏。渋谷の交差点での画像。合成だろうがなかなか考えさせる。

 

次は木村哲雄氏。モダンアートらしい作品。

プラットホームには駅名看板?「身勝手杉」と読める。

同氏は会田誠氏とのトークがあり、そこにプロフィールがある。

最後に番号も良く分からなかったが、ある雰囲気を持った絵と印象に残った。

もしかしたら「青の時代」のピカソのパロディかも、と頭をよぎったがどうだろう。

この絵の写真と最初の写真、貼り付けの方向を変えるべくやってみたがうまくいかない。

 

見づらくてごめんなさい。

 

尚出品者リストくらいは欲しいと思ったが、頂けるものはなかった。

 

数百円で配布することを考えてもらいたい。

 

もう一つは会場費などの費用充填のために募金箱があったらいいと思う。

 

あれば入場料代わりに出すつもりだったが、、。

 

 

 

ルー・ザロメ(1861-1937)はロシア将軍の娘で、1880年スイスのチューリッヒ大学で

 

宗教学、哲学、美術史を学ぶ。

 

1882年パウル・レー(哲学者、後に医師1849-1901)と知り合い、1882年4月、彼を介してニーチェ

 

(1844-1900)と出会う。 ニーチェは彼の哲学の本質を把握するルーの知性と、恐らくは美貌に

 

魅了され結婚を申し込むが即座に拒否され、ザロメは逆にレーを交えた3人の共同生活を提案。

 

レーもニーチェも賛同して共同生活を始めるが、男同士の嫉妬が原因でその年の11月には破綻する。

 

映画は共同生活の間だけでなく、その後の三人の関係を恐らくは「フィクション」として完結させる。

 

先ずはMovie Walker のあらすじをコピペする。

1982年のローマ。若きユダヤ系ドイツ人パウル・レーは、医師を伴ってミネルバ・ホテルに赴いた。友人のフリードリッヒ・ニーチェ(フリッツ)教授が、そこでアヘンを吸って過ごしているからだ。フリッツは、フランス人の娼婦などを招き入れて快楽に耽っている。マルヴィーダ婦人のサロンでは、大勢の知識人が集まっている。そうした雰囲気には退屈な様子を見せる女性が一人いる。ロシアから来たばかりのルー・サロメ(ドミニク・サンダ)。ユダヤ人の家系の生まれだ。金髪、細身、優雅な彼女の美しさは、人々の関心の的だ。レーとルーはすぐ親しくなった。ローマの遺跡を散歩しながら求愛するレーに、ルーは答える。「二人の生活なんて牢獄と同じ。古い道徳を無視して新しい経験を私はしたい」。二人の男性と生活することを望んでいたルーは、やがてフリッツとレーとの共同生活を決意する。フリッツは、ルーを、ナウムブルグの実家に招く。兄を熱愛する反ユダヤ主義の妹エリーザベトはルーに反感を抱き、追い出そうとする。この清教徒的で反ユダヤの家族の者たちに、フリッツは言う。「これからの教育から自分を解放するために、自分は梅毒になった」と。三人暮らしが、いよいよはじまった。“聖三位一体”の記念写真を撮る三人。小さな荷車に乗ったルーが、男性二人に鞭をかまえている、といった写真だ。しかし、男性二人の嫉妬が原因で、この共同生活は呆気なく崩壊する。ルーは医学を学ぶというレーと共にベルリンに行き、一方、フリッツは、ヴェニスへと旅立った。ヴェニスで幻覚を見るフリッツ。ルーは、フリッツから自殺をほのめかす手紙を受け取り、彼に会いにゆく。が、ホテルの入口まで行ってためらうルー。彼女はカール・アンドレアスという男の脅迫同様の求婚を断れなくなってしまい、結婚する。失望したレーは姿を消す。フリッツの幻覚は続き、ドゥルカマラ(悪魔)と若いゴンドラ乗り(キリスト)が踊っている姿を見る。遂に彼は気が狂う。やがて、ルーは、レーの死の知らせを聞くのだった。

冒頭1982年とあるのは1882年の明らかな間違い

 

その蔵書にカントもヘーゲルもなかったとされるニーチェはプロテスタント牧師の家の生まれで、

 

古典文献学を学び詩人ヘルダーリンに早くから着目し、ショーペンハウアー(1788-1860)に傾倒し

 

同じくショーペンハウアーを評価するワグナーと共感して知己となる。

 

ショーペンハウアーはボン大学に在職中、ヘーゲルの人気に押されて退職している。

 

その後ニーチェは1889年45歳の時、散歩の途中馬が御者に鞭打たれているのを見て駆け寄り

 

泣きながら馬の首に抱き着き昏倒し(ニーチェの馬)発狂して以後精神病院や自宅で療養する。

 

映画の最後、ザロメはニーチェが妹エリザベートと住む家を訪れ、ピアノを弾くニーチェに

 

「もう19世紀も終わり これから、私たちの時代が来るのよ」と語り掛けるが、妹に見つかって

 

追い出される。 これはストーリー手リングのためのフィクションだろう。

 

ザロメはニーチェに三人の共同生活を提案したが、ニーチェはこれを受け入れ、写真を撮る。

 

実物写真はレーとニーチェが手綱に手を巻き付け、ザロメが御者然と鞭を持って車に乗っている。

 

ニーチェはこの写真に「三位一体」などと神を冒涜するような名前を付けているが、

 

この写真を撮った際、それぞれがどんな思いであったのかを知りたくなる。

 

ニーチェとザロメの関係についてはムンクが描いたニーチェ像が表紙のこの本に詳しい。

 

 

 

ザロメは三人の関係が崩壊したのち、「マルテの手記」のリルケに結婚を申し込まれたり、

 

最後はフロイト(1856-1939)に弟子入りを認められて、精神分析家になっている。

 

ニーチェ、リルケ、フロイトを魅了したルーは、その知性に並外れて優れていたものがあったに相違ない。

 

それは恐らくは哲学者、詩人、精神分析家の思想の核を素早く読み取る能力、本質を把握する能力

 

があったに違いない、と想像するのであるがどうであろうか。

 

以下の書はいずれ機会を見て読んでみたいと思う。

 

 

映画の最後の部分で、ザロメは心霊会でレーを呼び出してもらうが、レーは

 

実は、女になりたかったのだ、と言って哄笑する。(ニーチェは心霊会に参加したことがあるらしい)

 

ニーチェは幻覚でサタンとキリストの、二人の男の全裸のダンスを見るが、

 

その踊りはゲイの性的暗示がプンプン匂うもので、この部分をとらえると1977年公開のこの映画、

 

三人の関係にLGBTが伏水としてあるのか、とも思う。

 

たまたま今長谷川訳のヘーゲル「法哲学講義」を読み終わるところで、1925年のこの講義録、

 

ナポレオンがヨーロッパをひっかきまわし、メッテルニヒが会議が躍るのウイーン会議

 

開いて形ばかりの「平和」を取り繕い、更にキリスト教国の、有名無実の神聖同盟も形成されるが

 

産業革命の跛行状態が合流して1848年労働者階級が目覚めて革命を起こしウイーン体制は崩壊

 

こうした経過や弟子たちがヘーゲルの死後、これらの変化にもまれて四分五裂し、代わって

 

「神は死んだ」のニーチェが読まれ19世紀末から20世紀の知識人に影響を与えるようになる。

 

ヘーゲルはその後、マルクスの史的唯物論で弁証法が換骨奪胎されて奇しくも1848年、

 

「共産党宣言」が発表される。政治や哲学におけるヘーゲルーマルクスの影響は言うまでもない。

 

一方フランスでは1930年代、パリでザロメと同じロシア人のコジューヴがヘーゲルの「精神現象学

 

を講義してラカンやサルトル、バタイユやメルロ・ポンティなどが参加し、再び日の目を見ることになる。

 

ヘーゲルは、「国家が宗教を土台とし、宗教が国家の真理である」とし、更に立憲君主制

 

理想の政治体制としたが、それらは世紀末以後のヨーロッパにはひどく疎遠な言説であった。

 

尤もヘーゲルは「発展は順序を追って進むもので時代に先んずることは出来ず、思想も哲学も

 

時間の中で生まれる」(法哲学講義長谷川訳以分社p528)と述べているから、自らの思想の限界を

 

承知していたと言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

2013年には、「セカンドオピニオン」として近藤氏の見解は傾聴に値する、

 

と考えましたが、現在はがん治療に関して「標準治療」を第一に選択すべし、

 

と思うようになりました。

 

近藤氏は乳がんに対して「放射線治療」を推奨し、現在では術後や再発の際に

 

広く行われるようになった、として功績もある方と考えておりましたが、

 

がんの診断後「放置する選択肢」や、エビデンスの曖昧な「民間療法」の選択肢は

 

撮るべきではない、と思います。

 

詳しく知りたい方のために国立がんセンターーの以下のページをご覧ください。

https://ganjoho.jp/public/dia_tre/knowledge/basic.html

 

ブログのこのページが今も時折訪問される方が居り、リブログしました。

バカボンブッシュの副大統領チェイニーは、パパ ブッシュにコンプレックスもつバカボンを、

 

『イラク戦争に突っ込めば、戦時大統領としてパパブッシュが無し得なかった「再選」が出来る』

 

と彼の耳元で悪魔のささやき、後に「サダムフセインが大量破壊兵器を所有

 

している、との証拠はガセであることが判明したにもかかわらず、イラク戦争の正当性を主張した、

 

ワルという強烈な先入観、もちろんそれはブッシュ対ゴアの大統領選挙の少し前から

 

ニューヨークタイムズを購読していた事によるチェイニー像であり、それがどのように

 

描かれるのか、と言う興味で鑑賞した。

 

お気づきのように、バカボン とはかの赤塚不二夫の天才バカボンには全く関係なく、

 

バカなボンボン、つまり2世3世政治家に対する[敬称」!である。

 

見終わった感想を先に述べると、先入観としてあったチェイニー像は概ね妥当であるが、

 

当時のブッシュ政権の「性格」を断片的ながらも知ることが出来たが、それは概ね、

 

権力中枢の下品で卑劣で腐敗した姿でもあった。

 

一方後述するが「悪」をチェイニーのみに化身させることに対する疑問も残った。

 

また、権力は余程蜜が甘いのであろう。政権-権力側の意向に沿った「法律家」は必ずいて、

 

湧いて出てくるし、権力側もたとえ今使えなくともいつかの時に彼らを手元に置いておくのだ

 

チェイニーは学業もスポーツも優れている方ではなかったし、おまけに酒浸りで「役立たず」な存在

 

であったが、恋人リンに尻を叩かれて心を入れ替え、共和党ニクソン政権時、インターンに採用されて

 

「余計なことを言わない」「口が堅い」「忠誠心が篤い」と評価されて頭角を現し、失脚したニクソンの

 

後を継いだフォード政権の大統領首席補佐官になる。

 

レーガン政権の副大統領からその後を継いだパパブッシュ、ジョージ・H ・W・ブッシュ政権では

 

国防長官に就任、90年のイラク軍をクエートから撃退するための湾岸戦争の指導者の一人となった。

 

若いころトナム戦争の兵役を「家族持ち」であることを理由に何回も逃れており、「チキンホーク

 

と揶揄されることもある。(兵役逃れしたものほど好戦的なのはバカボンブッシュも同じ。

 

弱いものほど虚勢を張る、のは洋の東西を問わない

 

2000年の大統領選挙、ジョージ・ウオーカー・ブッシュに「自分の未経験なイメージを補うため」

 

副大統領職を要請されるが、最初は「単なるお飾り」と渋るも、それはうわべだけ、

 

内政外交全てにおいて取り仕切る事を約束させてブッシューチェイニーで選挙に出る。

 

ゴアとの際どい勝負はフロリダでの票数再計算にもつれ込むが、かつて最高裁に押し込んだ

 

判事の助力で、再計算不要の最高裁判決を勝ち取る。

 

ブッシューチェイニー時代の8年間の「悪行」のうちいくつか挙げてみよう。

 

1、イラク戦争

 

ニューヨークのツインビルへやペンタゴンへの航空機自爆テロにより米国民3000人以上が

 

死亡し、日本軍の「真珠湾攻撃」以来とされて米国民の愛国心は高まった。

 

これを契機に、「テロとの戦い」を掲げ、サウジアラビア国籍オサマビンラデンの追求のため

 

アフガニスタンに侵攻。次いで「アルカイダとイラクのサダムフセインとの繋がり」を強引に

 

でっち上げ、さらにはフセインが「大量破壊兵器を保有」との嘘をでっちあげてイラクに侵攻した。

 

イラク戦争はイラク人の60万人以上、米兵など有志連合側の死者3千名以上と今なお続く自殺者

 

イラク国土の荒廃は残されたままである。

 

この過程で「一元的執政府」(非常事態法)を可能とし、米国民の盗聴やテロ容疑者の

 

法令なしの拘束と拷問を行った。

 

またイラク侵攻が充分な国民世論の支持がないと見るや、国民に人気も信頼も厚いパウエル

 

国務長官にガセネタで国連証言をさせ、彼自身が「一生の悔い」と言うほどの傷を負わせ、

 

またブッシュに友連れして戦争に突っ込んだ英国のブレア首相の信用も評価も失墜させた。

 

これらに関し、チェイニー、ブッシュは何の反省も後悔も述べていない

 

それどころかチェイニーは「サタン(悪魔)から米国民を守ったのだ」と映画で述べている。

 

戦争が残した犠牲を、傷跡を考えれば開戦はどれだけ慎重に考慮されなければならないか

 

言うまでもないだろう。自分をイラク国民に置き換えてみるとよい。

 

2、富裕層への減税

共和党の支持基盤で選挙資金の拠出者は富裕層である。

 

彼らに対する「減税」を国民に納得させるためのトリックは「小さな政府」である。

 

減税で税収を少なくすれば「小さな政府」になる、という何の因果もないトリックだ。

 

ブッシュ政権では更に「トリクルダウン」仮説、つまり富裕層への減税で、彼らは減税した分

 

消費を増やすから下層民にもその恩恵がポタポタと降りてくるというトリックだ。

 

現実にトリクルダウンは起こらなかったし、今も起こっていない。

 

しかし日本ではまだそのインチキが通用するらしい。

 

アベー竹中平蔵ラインの周辺は機会があればトリクルダウンを言っている

 

日本の法人減税では減税による賃金アップと「投資」の増加とそれによる雇用増仮説だ。

 

そうなってはいないことは事実がそれを証明しているが、新聞テレビは明確に否定していない。

 

もう一度米国に戻って、富裕層の相続税減税がある。

 

それを米国民に売り込むため、「相続税」を「デス(死)タックス」と呼んで相続税に対する

 

嫌悪感を煽り通過させている。

 

バカボンブッシュ(何しろブッシュが誕生した時中曽根元首相は明確にバカ扱いをした

 

黒幕、チェイニーとの像は非常に受け入れやすい

 

先入観にうまく適合するからだ。

 

それだけ一層「待てよ」と言う内心の声がする。

 

イラク戦争も富裕層減税も、議会や国民世論の支援、世論形成に必要な新聞テレビの

 

賛同が無くては出来ない。

 

アメリカ国民のリテラシーにも問題があるし、伝統的な共和党の支持基盤ーつまり

 

トランプを当選させた選挙民ーの問題もある。

 

新聞テレビも、「公平性の原則」を外したことでフォックスなどフェイクニュースを平気で流す

 

放送局が現れたがそういう問題もあるだろう。

 

バラク・オバマも「エグゼクティブ・パワー」をブッシュ政権から受け継いで利用している。

 

トランプはそれをフル活用してファミリービジネスを継続している。

 

つまり基本構造は当時と変わっておらず、チェイニー一人に追わせれば

 

事足れり、の問題ではないのだ。

現在の日本の国民世論は、米国追随の安倍政権を良しとしている。

 

トランプの言われるがままに、娘イヴァンカに金を出し、欠陥Fー35戦闘機を爆買いして

 

将来に大変な付けを残し、自衛隊は有事の時は米軍の指揮命令系統化に入る

 

はっきり明言するが、日米安保では米軍は日本の国土を守る義務はない

 

中国と一触即発の事態を迎えたとき、米国が日本を軍事的に支援することはあり得ない。

 

米中が戦えば中国の軍事力は侮りがたく、米国自身が深く傷つく

 

有事の時米国から梯子を外されて自衛隊がうまく機能するとはとても思えない。

 

平時のリップサービスに弱いのが日本の政治家・国民であるが、開戦の権限は米国議会に

 

あるのだ。 トランプではない。

 

見終わった感想はただただ重い気分だ。

 

米国の日本に対する影響力と、そこに何の歯止めもない現状の日本を考えると。

 

補足だが原題の「VICE]は、VICE PRESIDENT(副大統領)の意味も、VIRTUE and VICE

 

(徳と悪)のい両方に掛けているだろう。

 

VICE と呼ばれて「悪魔に勝つのは善ではなく、悪魔を出し抜く悪(ワル)なのだ、」

 

と考えていたに違いないチェイニーは、内心満更でもなかったであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

密教は一つの難題である。

 

自然呼吸による瞑想によって、

 

この世の一切が苦であり、

 

その苦は自らの内なる煩悩により起こる。

 

その煩悩はこの世が変転常なく無常であり、

 

煩悩に苦しむ我もまた不変かつ絶対的なものではない、

 

と言うことを覚知すれば、克服することが出来る、

 

と沙羅双樹の木の下で悟り、仏教の開祖になった釈迦が

 

死にあたって自らの偶像を作ることを戒めたのに、密教の仏像は数えきれないほどであり、

 

しかもその首座は仏陀ではなく大日如来である。

経典の主体、教主が釈尊であるという点は初期の密教経典でも同様である。

ところが、「大日経」など中期の密教経典になると、突然釈尊ではなく、

大日如来という歴史的な人格を持たない仏の教えに変化する。

それだけでなく、密教の開祖,付法の第一祖まで大日如来とする点が

一般仏教に類例が見られない特色となっている。

(松長有慶「密教」中公文庫p69)

そしてその起源は大乗仏教経典「華厳経」の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)から出たものとし、

 

仏陀を超えた宇宙仏であり、宇宙の真理を全ての衆生にあまねく照らし、悟りに導く仏である。

 

しかし宇宙仏は神のごとき創造主ではない、宇宙そのものの体現(化身)なのだ。

宇宙の運行は大日如来の身体、言葉、心の三活動で広大無辺であり、

我々の常識を超えているので「秘密」と呼ばれる。(密教経典入門松本照敬著)

難題 1である。

そして我々衆生もまた大日如来の現れであるがゆえに、身体、言葉、心を「秘密」に

合致させることが出来ればそのまま仏の境地、即身成仏することが出来る。

合致は、手に仏の象徴である印を結び、仏の言葉である「真言」を唱え、心を仏の境地

に置くことで自己の内面に直接的に体験できる。(大意 上同)

と言う。この神秘主義が難題 2である。

 

この難題 1と 2を衆生に理解させるのは至難の業であろう。

 

よって、これを視覚化ーイメージ化したのが東寺講堂安置の立体曼荼羅であり、

 

その平面が曼荼羅である。

 

講堂の神秘的空間の中で僧が大日経や金剛経を唱え、香が焚かれて衆生を仏の境地に誘う。

 

今回の「東寺ー空海と仏像曼荼羅」はいわば空海密教のデモンストレーション装置なのである。

 

よって、読経と香が会場に焚かれていれば、よりが一層「密教世界」を体験できたであろう。

 

それは「変性意識」に誘うが故に主催者側に危険なバックラッシュを招くものでもあるけれども。

 

804年無名の僧として唐の都長安に入った空海は、わずか2年で中国密教の第7祖恵果より

 

灌頂を受け、おびただしい経典や仏像仏具を持ち帰った。

 

少し足止めを食ったのち入京を許されて後、嵯峨天皇などの信頼を得て東寺を賜り講堂を作った

 

いわば公認の密教となったのである。

 

密教の仏像は、如来を頂点に、菩薩、明王、天と位階があり、明王は明らかにヒンズー教の

 

神々の姿をしている。それは6世紀ごろのインドがヒンズー教やバラモンの勢力が根を張り

 

それらと大乗仏教とが習合して密教の仏像になった故の事らしい。

 

そうした影響は、最古の経典宗教であるゾロアスター教の影響もあるとされる。

 

善と悪の闘い、対立抗争の世界観を持つゾロアスター教は、

 

天国と地獄、最後の審判、救世主信仰を併せ持つが、これらはユダヤ教ーキリスト教

 

流れ込み、救世主信仰は大乗仏教の弥勒信仰に影響を与えた、と言われる。

弥勒は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。それまでは兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。(Wikiより)

仏教もまた古代オリエントと無縁ではなく、日本の仏教もまたインド、中国、朝鮮半島と無縁ではない

 

聖徳太子以来、明治維新で廃仏毀釈と言う暴挙に会うまで、朝廷の宗教は第一に仏教であった、

 

と言うことは改元の今日、改めて確認する必要があるだろう。

 

尚、国立博物館本館ではこの展覧会に合わせ「密教彫刻の世界(本館14室)が開催されている。

 

これを拝見したのち、本館を時計と反対周りに出口に向かうと河鍋暁斎の「龍頭観音」に

 

遭遇した。

 

縦3.5メートル、横2メートルの大きな絵を下絵もすることなく、全体のバランスと

 

全体と細部の整合性を図りながら書き上げたその画才に驚嘆した。

 

これもまた一つのセレンディピティであるだろう。

 

備考:ゾロアスター教は紀元前1500年から1200年ごろ古代ペルシャに成立したとされる。