新国立の展覧会は、クリムトやシーレ、更には表現主義のココシカらを、より広い文脈、
19世紀のハプスブルグ家、都市改造、ウイーン工房、世紀末ウイーンなど多面的に
紹介しようとする。従って都美の展覧会に比べて展示数も多く幅も広い。
都美「クリムト展」では、クリムトのユディトや女の三世代を中心に彼の絵の官能性やファムファタール
について語ったのだけれど、ここではこの展覧会の趣旨に照らして、より広い文脈でクリムトを
理解したい。 それにはまず19世紀のウイーンに戻って、その政治・思想的状況を振り返りたい。
19世紀のウイーンは、政治的には1924年メッテルニヒのウイーン会議に始まり、その
メッテルニヒが1848年3月学生の暴動で宰相を辞任してロンドンに亡命。
同年12月フランツ・ヨーゼフ一世が18歳で皇帝に即位した。
フランツ・ヨーゼフ一世は王権神授説を信奉し、自由主義を抑圧する新絶対主義者で
完全に旧体制に復帰した。 しかしこの新絶対主義は古い絶対主義がフランス革命などの洗礼を受け
衣替えを迫られ、「万人のための近代的な経済・行政・教育システムを有無を言わせず与える事
により、万人への政治的権利の譲渡を封じよう」とする上からの、譲歩を含む改革であった。
展覧会において、F・ヨーゼフの治世下で、リング通りの拡張から市庁舎やあるいはオペラ座や
劇場や病院など近代的な施設が、ナポレオン三世のパリ大改造に対抗するがごとく建築された、
その内容が写真でも多数展示されている。 いわば「善政」をめざしたのである。
写真と言えば、明治政府が初めて万博に参加した1873年のウイーン万博で、河鍋暁斎の作った
幟(のぼり)が日本館の入り口両脇に翻っている写真があるのだが、残念ながら絵柄は不分明である。
1848年革命はフランスの2月革命に端を発し、ヨーロッパ各国に伝搬したのだが、その革命の
主体はブルジョワジーと言うよりは労働者、学生あるいは農民であった。
しかし、フランツ・ヨーゼフの新絶対主義も1859年の対仏戦争に完敗したこと、さらにはそれによる
財政悪化で改革を余儀なくされ、帝国議会の拡大、あるいは1861年の二月憲法で自由主義的
改革を一部導入せざるを得なくなる。 しかしヨーゼフは依然として反立憲主義であった。
1865年にはプロイセン首相ビズマルクの扇動により対プロイセン戦争が始まり、首都ウイーンに
迫られてヴェネツィアの割譲など不利な講和を結び、ハプスブルグ家は「神聖ローマ皇帝」の威信と
権威を失ってしまう。
その後も反ユダヤ主義のキリスト教社会党のルエーガーウイーン市長との対立(1895-1897)
ではユダヤ人庇護の立場を取り(ユダヤ人のフロイトやヴィトゲンシュタイン家やブロッホバウアー家を
想起)ウイーン市民とは対立した。
この後、1889年の皇妃エリザベートとの間の唯一の後継者ルドルフ皇太子の自殺、1896年の
甥のフェルデナンドを後継指名、1898年の皇妃エリザベートの暗殺、とオーストリアは衰退の道へと
急回転していくのである。
クリムト
クリムトは工芸学校の卒業と同時にリング通りのブルク劇場と美術史美術館の歴史画を描く機会が与えられた。その中の旧ブルク劇場の観客席の集団肖像画で当時のウイーンの名士を書き込んで1890年皇帝賞を獲得、一躍有名な若手画家となった。
そしてこのころ19世紀文学の道徳的主義的姿勢に挑戦し、社会学的真理と心理的ー特に性的ー解放とを支持する文学運動も始まった。90年代の中期には、伝統への反逆は遂に美術と建築まで拡がった。
彼らの唯一の共通基盤は、近代人の真実の顔を求めて彼らの父親たちの古典的
写実的伝統を捨てる事であった。
クリムトは、彼自身旧派の若い名手であったが若者たちの反逆では逸早く指導的地位を占め、1897年彼らを引き連れて既成の美術家協会から脱退し分離派を創設した。
「世紀末ウイーン」カール・ショースキー著岩波書店p269-270抜粋)

この分離派の最初の展覧会のためにクリムトが製作したポスターは、アテネの青年たちを解放する
ために、粗暴なミノタウロス(人身牛頭の怪物を殺したテーセウスの神話から題材をとった。
右に槍を持って立つ女神アテナは諸芸術の解放の擁護者として援用されている。
分離派、という名前もローマの平民分離派ー平民が臆することなく貴族の悪政を斥けて共和国から
脱退したから採られている。
クリムトの社会的出自もまた彼が仲間入りした教養ある自由派ミドルクラスよりも低いものだった。

この「パラス・アテネ」は同じ1898年の作品であるが、ポスターの「庇護者」から漠然とした
性格に造形され、感情を外に漏らさないが謎のような力を持つ姿となって表れる。
変わったのはアテナの性格だけではない。絵の下方左隅では近代人に鏡を捧げつつ
「裸の真理」が立っている。かつては二次元の若い娘だったが、いまや彼女は均整の取れた肉体と性的魅力を備え、燃えるような赤い毛を、陰毛さえも持っている。
「裸の真理」ではなく「裸の裸体」なのだ。ここに古い文化から新しい文化が出現する決定的な転回点、古い図像学を全く反逆的な形で歪曲し、もはや処女神アテナは民族的な都市国家を統御する知恵のシンボルではなく、本能的な生の、特にエロティックな生の発掘への隠喩的橋梁として役立つよう古典的シンボルを使っている。(上同p281抜粋)
この同じ1898年にクリムトは、「音楽」という作品を、ショーペンハウアーとニーチェの著に負って
製作している。ニーチェは「悲劇の誕生」で、造形芸術をアポロ(竪琴)、音楽を「ディオニソス」に象徴
させたが、それらを用いて芸術的解脱(ショーペンハウアー)へと至る道を暗示している。
クリムトに関してはこの展覧会のもう一つの目玉作品について簡単に触れておこう。

遺言でクリムトの兄弟たちと同じように財産を遺贈されたエミール・フレーゲの肖像。
クリムトとフレーゲの関係はプラトニックなものであったとは言えないが、もうその点は
どうでも良いだろう。今私が気になるのは、都美で見た「ユーディット」と同じような上から見下ろす
ような視線である。こうした点が、特定の女性に対するクリムトの潜在的な「恐怖感」をあらわしている
と言われる所以かもしれない。かといってそれをファムファタールに直結させるのはためらいがある。
彼の女性観はショーペンハウアーの「女について」から影響された面が大きいと推測されるのだ。
一方エミールの身体は中期クリムト独特の装飾で覆われているが、それは「飾ること=押し込める
こと」にも通じる気がする。 そうした両義性こそ視覚芸術の深度の一つである。
あるいは「押し込める」がエミールがこの絵を気に入らなかった理由かもしれない。
エゴン・シーレ
1890年生まれのシーレは、16歳で、かのヒトラーが入学を果たせなかったウイーン芸術アカデミー
に入学、翌1907年クリムトと出会い、早くも1909年クリムトが分離派を脱退して形成した
ユーゲントシュティールの展覧会に出展する。
シーレはアカデミーの教授たちと意見が合わずこの年アカデミーを退学。以後クリムトを師と仰ぐ。
貧乏なシーレにクリムトは派遣のモデル代を払ってやったこともあるらしい。
師クリムトにオマージュを捧げるような絵も数点描いているが、クリムトが自画像を描かなかった
事に比べ、シーレは数多くの自画像を描いた。
それはナルシシズムの現れ、とよく言われるが、むしろそれは若いシーレが自我形成期に
「自分は何者か」という存在の問いに向き合った所以であり、まだ画家として生計が立っていない
彼が、加えて独特な形態(姿勢)に執心、自らを題材とすることが好都合であった点が大きいだろう。
フロイト的解釈は私のような門外漢にも容易にできるが、一面では画家を矮小化することに通じる。

1911年の「自画像」は、「黒い粘土の花瓶のある自画像」とも表記されるが、
この絵に今述べた「矮小化」に対する一つの反証があるだろう。
ここには幾何学的で、模様のちりばめられた背景に囚われた、目を見開いた弱弱しそうな
画家が描かれている。手の仕種は,構図そのものがそうであるように様式化されており
中世の聖者の像における様々なしぐさの表現に匹敵するほど明らかに特定の意味を持つ
ように意図されたものである。その手は胸を庇っているが、開いた指はある一点を攻撃せよと招いている。親指は既に切り取られてしまったように見える。花瓶そのものが人間の頭部を表したものだが、それはヤヌス神のようにシーレの頭に癒着して、彼のもう一つの暗い方の本性を暗示している。 「エゴンシーレ」フランク・ウイットフォード著講談社p119
2つの対象を並べて対比させ、特別な表現力で描いた重要な自画像の一つである。
斜めの姿勢、開いた指などの表現力に富んだ身振り言語と、黒い目に宿る抑制された悲しみが対比されている。色彩はドラマチックである。シャツの黒さと頭の髪の形をした壺の黒さは布地の鮮やかな色彩と対比している。画家の淡い色調の顔と、その後ろの頭の形をし
黒い壺は互いに反対方向を向き、ヤヌスの顔を構成している。
ウオルフガング・フィッシャー「シーレ」TASCHENp157
注:ヤヌス神ー双面神で物事の内と外を見ることが出来た。
同じシーレの絵に対して、かくも異なった視点から絵を鑑賞することが出来るのが、絵画鑑賞の
醍醐味である。
視覚芸術は主題、形ーゲシュタルト、色彩、用いられるシンボルやアレゴリーなど、多彩な要素があって
しかも静止しているがゆえに鑑賞する我々にあれこれと考え、推測し、判断する余裕を与えてくれる。
時間は止まってくれるのだ。
シーレは自画像も多く描いたが、女性の裸体画や肖像画などををたくさん描いた。
彼の、「身体」に対する異常ともいえる執着。
その執着は、性器-いつも絵の中心にあり明彩だーだけでなく、ポーズもどこか歪んで、
静止しているよりは動きの途中の様だ。
色彩もユニークで、背景と相互に浸透しあっている身体もあれば、コントラストが明確な絵もある。
この自画像では、顔に青や赤が用いられ、肉をそぎ落としていったその奥の血管や血を想起させる。
そぎ落としていった先に見えるものー内を見ようとしたのではないかと思う。
そしてそれは後のジャコメッティー恐らくはホドラーを介してーと共通のものがあるように感じるのだが。

ホドラー「悦ばしき女」1910年ごろ

ジャコメッティ(1901-1966)ディエゴ?の頭部
尚、この展覧会では英語に加えて中国語とハングルの説明文があった。
中国、韓国の美術愛好家にも配慮がされており、まことに清々しい気持であった。
追記:アテナ神の楯はカラヴァッジョの絵でも有名なメンドーサ。パラスアテネでは胸にそれがあり
アテネ神がディオニソスを救い出すためにタボスの王メンテスの姿を取ってディオニソスの息子
テレマコスのところに飛んだ時の姿を想起する。当然それはニーチェの「悲劇の誕生」にも重なる。