Gon のあれこれ -16ページ目

Gon のあれこれ

読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

暑さがぶり返した25日に出かける。

カラッとした空気だが、日差しが強いと汗ばむ陽気だ。

この古本市は場所柄か、鉄道関係の古書が結構多い。

それと最近目立ってきたのは、「フィギア」というのだろうか、

つまり人形の取扱店舗が増えたこと。

それが新しいものなのか、古いものなのかは関心が無いので不明。

実はジル・ドゥルーズの書を目当てに行ったのだが、相変わらず

目当てのものは見つからないものだ。

 

以下の書を購入。

前田耕作著 宗祖ゾロアスター  ちくま新書 200円

内田隆三著 ミシェル・フーコー  講談社現代新書 200円

コリン・ジョイス著 「日本社会入門」 NHK出版新書 100円

ピエール・ブリアン著 ペルシャ帝国 創元社 400円

川北稔著 ウオーラスティン 講談社 700円

ティム・ワイナー著 CIA秘録 下 文春文庫 100円

ミシェル・フーコー

 

 

ゾロアスター教関連はいくつかあり、本音はマニ教の資料が欲しかったのであるが、マタイ伝の「東方三博士」がゾロアスター教徒である、との記述を見て購入。

ミシェル・フーコーもジル・ドゥルーズ著のものを含め数冊持っているが、内田氏が見田宗介の弟子、ということで買い置く。

ウオーラスティンはずいぶん昔に読んだが、あまり詳しくは覚えていない。そこで既読の本の簡単な作品解説があるので購入。

CIA秘録は上巻を、岸信介がCIAのエージェントとみなしてよい旨の言及があるので持っているのだが、今回下巻を100円で格安購入。

 

古書市は、京王百貨店、西武百貨店リブロ、東横百貨店、それに池袋西口広場など廃止が相次ぎ、寂しい限りだが、このSL広場の古書市は定期的に継続されている。

それで今後の予定を下に記す。

11月4日~9日

2020年3月23日~28日

 

尚恒例の神田青空古本市が、10月25日から11月4日までの間、駿河台下ー神保町交差点ー専大前の区間で開かれる。

皆さんもお楽しみに。

詩情にあふれたシーンが続き、叫び声も声高に争う声もない。

 

医者もめったには来ない寒村に一人の老人とその娘ナーメが、

 

村の人たちの病を治す泉を守っている。

 

妻には先立たれ、3人の息子はジョージア正教の司祭、イスラム教の

 

導師(イマーム)、そして三男は無信教の科学の教師をしてそれぞれが

 

自分の道を歩んでいる。

 

老人はナーメに泉を守り癒し手を継がせようとするが、息子たち、とりわけ

 

三男は、ナーメが学校に行って学び、好きな仕事を選び、好きな男と

 

結婚するような人生を歩むように勧める。

 

しかしナーメは泉にただ一匹で棲む鯉と同じく、聖なる泉に縛り付けられ

 

ていて、自分の運命を甘受するより仕方無いものと諦めている。

 

ある日老人の不在中に若い男が背中のやけどに聖水を塗ってもらいに

 

来る、

 

背に泉を塗るナーメの優しい指先を介して、互いに惹かれ合う。

 

ある日、町へ買い物に出たナーメがバスを待っていると、その男が

 

ジープで通りがかり、ナーメを送っていく途中幻想的な湖に案内する。

 

ナーメは着衣のままずんずんと入水し、慌てて男が追う。

 

追いついた男に振り返って手を回して熱く口づけするナーメ。

 

帰路、男は 「まるで夢を見ているようだ。何かの呪いのように」というが、

 

ナーメは「実際に呪いかもしれない」とつぶやく。

 

三人の兄弟はキリスト教、イスラム教、無神論に分かれているが、実際にこうした家族は実在するのか、

 

これはむしろこの映画の舞台、ジョージアのトルコ国境に近い地勢と歴史を象徴化したものだろう。

 

ジョージアは隣国アルメニアに次いで、そしてローマ帝国以前にキリスト教を国教化した。

 

またトルコに接しているところからオスマン帝国以前にも何度もイスラムの波がやってきたに違いない。

 

三男は無神論者だが、「神は存在しない」と言明するには、相当な知的努力を必要とする。

 

宗教の否定、すなわち宗教への情熱」とオクタビオ・パスは「泥の子供たち」(75p)で述べている。

 

それは信じようとしては信じきれないものに、幾度も遭遇した者のみが到達した境地なのだ。

 

それに比べると神を信じることはなんと容易なことだろう

 

「私は神が私の傍におり、私をいやし私の行く手を明るく照らしてくれるのをありありと感じた」

 

といえば、それ以上神の存在を証明する必要はないのだ。

 

理性によって信仰を基礎づけようとしたルソーは結局失敗したのではなかったか。

 

ジョージアの宗教的な分裂、キリスト教とイスラム教の分裂の中から、ヒュームの言う「自然宗教」

 

つまり、古層が立ち上ってくる。

 

自然の持つ人を癒す力。

 

この泉の持つ人を癒す力は、今ではしかし泉分分析により科学的な装いを凝らすこともできる。

 

温泉や鉱泉の飲水や入浴の効果は温泉好きの我々日本人にはなじみ深い話だ。

 

しかしそれ以上に霊験を顕たかにするには、神秘的なヴェールが必要だ。

 

それは泉に閉じ込められた鯉とナーメが担うものであり、それゆえナーメも鯉も運命を共にし

 

のだ。

 

冒頭「神の霊が水の上を行く」(創世記第一章第二節)というテロップが流れた。

 

はじめに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を

 

動いていた」 との新共同訳が最もそれに近い訳だろうか。

 

この地方で口承で伝わってきた話では、

 

「いつしか彼女は他の人々のように暮らしたいと思い、自らの力を厭うようになりました。

 

そしてある日、力の源であった泉の魚を解き放って、他の人々と同じ生活に帰っていきました

 

とのこと。 

 

親心からいえば、三男の言うようにナーメに「勉強して自分の好きな仕事をし、好きな男と

 

一緒に暮らす生活」をさせたいと思う。

 

そうなればもちろん、静寂は破られ、高い声と、言い争いは避けられないかもしれないが、

 

それはその後のナーメの人生で十分に報われるのだから。

 

Ifはないがもしこの映画がジョージアの女性監督の手になれば結末もまた違うものになるだろう。

 

蛇足だがジョージア・アルメニア合作映画とある。

 

川の洲に機械の音がする工場現場があった。

 

アルメニアは高地の柔らかい部分が雨で流された後に川が出来て、とても谷が深い。

 

そのシーンがアルメニアのロケ地だったのかもしれない。

 

昨年秋に南コーカサス、アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニアを旅行した。

 

その旅行記やその年のジョージア映画祭で鑑賞した「テデの愛」のブログを以下にリンクする。

 

南コーカサス三ヵ国旅行 予習編 ジョージア

 

南コーカサス三ヵ国旅行 ジョージア編

 

ジョージア映画祭 「テデの愛」

 

尚昨年映画祭の時購入した以下の書を 参考にした。

 

 

著者のはらだたけひでさんは2017年のトビリシ国際映画祭でこの映画に出会ったらしい(196p)

 

蛇足だが帰路古書街をぶらついた。

 

岩波ホールはやはりこの古書街の雰囲気と共にある映画館だと思う。

 

大画面テレビでレンタルビデオを見る、というのでは得られない楽しみがあるのだ。

 

当日は小雨がちらつき、店頭のワゴンが店内にしまわれていたために、猟書を楽しむことは

 

余りできなかったが、ロラン・バルトの「サド、フーリエ、ロヨラ」

 

トロツキーの「文学と革命」(下)を入手した。

 

参考

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芸術家会田誠のツイッターをフォローしているが、7月下旬から8月上旬のいつか、

 

「2020年オリンピックで日本人選手が全員ボイコットする」と言うテーマの丹羽良徳の展覧会

 

ある旨のツイがあった。

 

アベ再登場の折の「国土強靭化」もそうだが、相変わらずの自民党政治。

 

土建屋にカネを還流させて、選挙の実働部隊とバーターするこのオリンピック。

 

最近は北方4島や北朝鮮拉致問題の外交の失敗、トランプ一家にいいようにしゃぶられて

 

手も足も出ないアベの外交。

 

GDPも賃金も先進国最低の伸び率で、国民の窮乏化はますます進むばかりで「アベノミクス」は

 

疾うに破綻している。 

 

そんな中でオリンピックの開催は、借金を増やし、半面では福祉を切り下げて、ますます

 

国民は貧しくなるばかりだ。

 

福島の原発事故を「アンダーコントロール」と大嘘をつき、後進国のオリンピック委委員を買収して掴んだオリンピック開催にどうして賛成などできるだろう

 

オリンピック開催に批判的な言説が乏しいなか、そこに焦点を当てる展覧会、

 

と言うことで半ば応援するつもりで出かける。

 

鑑賞前、改めてホームページを拝見したのだが、

 

丹羽良徳「想像したはずの共同体」と冒頭に掲げられている。 

 

開催概要

前期:2019年7月24日(水)〜 8月9日(金)
後期:2019年8月25日(日)〜 9月6日(金)
オープニングレセプション:7月24日(水)17.00-19.00
開廊時間:月〜金:12.00-19.00 
土・日:12.00-17.00
会期中無休

 

開催趣旨(抜粋)

つい先日までの常識では、映像は真実を写す道具として世界で認識されていたものが、テクノロジーの発達によってあっさり崩されました。しかしながら、人はどこかその映像そのものが真実であると信じたい『欲望』をどこかに感じているのも確かです。今日では、およそあらゆるニュースやメディアに流されるソースや情報が配信者の意思に沿って改変され、捏造され、拡散されつつあります。このように、、もたらす問題は、現実社会における混乱の発生、権力者による政治利用の他にも、人間が生活を営む上で重要となる「理性」を破壊するのではないかという危惧すら感じつつあります。

例えば、写真技術が開国の流れと共に欧州から幕末の江戸時代にもたらされた時の人々は様々な反応をしました。未知の技術に驚いた人々は本当に様々なことを考え、未知の技術に説明を施すことで人間の理性を守ろうとするため、未知のテクノロジーとの出会いは人々に「考える機会」を与えました。しかしながら、現代社会では次から次へと登場する新しい技術に慣れてしまった現代人には既にこのように機智に考えることができなくなってしまいました。この展覧会は、映像メディアに内在する現代的課題であるフェイクニュースを批評的に捉え直し、これらの問題が人に及ぼす心理的影響を考察するものです。

多くの丹羽良徳の作品は、パフォーマンス、映像、インスタレーション、さらには展覧会期間中に進行するプロジェクトを含むあらゆるメディアを横断した社会介入行為の形式を取ります。明示される作品タイトルはスローガン的で自己説明的で、そしてほとんどの場合は非生産的で無意味な行動を公共空間で実現する過程の一部始終を映像記録に収め、明示されたタイトル内容を実行する過程で生まれるさまざまな軋轢をさらすことにより、制度化された公共概念の外縁を描くプロジェクトを国内外で多く実現します。また、丹羽良徳は2016年に活動拠点をオーストリアの首都ウィーンに移し、映像ディアが与える社会的な機能の側面に注目してきました。この展覧会は、2020年に迫る東京オリンピックを背景に、丹羽が2017年から2020年のオリンピック直前まで制作し続けるオリンピック開催を巡るフェイクドキュンタリーを中心とした作品群「想像したはずの共同体」の展覧会企画です。

 

作品は、戦後64年の東京オリンピックに重ね日本が歩んだ経済成長に重ね経済界からは熱烈に歓迎されたことに立ち戻ります。しかしながら、歴史上の国家的危機や福島の災害による放射能汚染、国際化における移民問題などの経験を経て、もはや日本はかつてのような状況ではないことは明らかです。このプロジェクトでは、2020年東京オリンピックを舞台として各国のオリンピック選手、監督へのインタビューや1964年に開催された東京オリンピック当時の記録映像、安倍首相の政治演説などオリンピックをめぐる様々な立場や、時代が異なる言説をつなぎ合わせ、2020年東京オリンピックの全種目において、誰もが実際には起こるとは思えない日本人選手のボイコットという設定の未来のフィクションドキュメンタリー映像です。

映像全体のストーリーと、登場人物の発言内容が相違する状況を創作することによって、我々が予測または欲望している未来像はどのような思想と結びつき、どこから生まれるか、それは自分が希望する未来がそのまま予測する未来像として反映されるものなのかを考えると同時に、我々日本が歩んだ戦後近代史を改めて考え直します。 (太字、段落はブログの筆者)

 

ずいぶんと長い引用になったが、丹羽の取り上げるテーマが独自で、一方では丹羽の手法がユニークで

 

私を含めて、一般にはなじみ薄い、ということもあるだろう。

 

このプロジェクトは、展覧会がクローズするまで、常に「製作過程」と言うことの様だが、

 

過日拝見した限りの感想を述べさせていただく。

 

まず正面の大きなスクリーン上に、「自分自身、意味を理解していないことを話してもらう」

 

と題し、

2013年ブエノスアイレスでの安倍総理の招致演説を日本語を全く理解できない外国人に原文のままに発音してもらう。話者は全く意味がわかっていないが、聞いている我々には凡その意味は掴むことが出来る。この分離により「Post Truth」時代における言葉の奥に潜むもの、(そしてそれを)理解するという行為自体がいかなるものであるかを示唆する。

 

というのであるが、その示唆する内容が、とても分かり辛い。 

 

安倍首相はこの演説で、福一を「アンダーコントロール」と大嘘を付いたのだが、そのアベ首相は

 

勿論、日本語話者である。しかしその言っている内容の真偽はどうか。

 

(余談だが、そのアベの英語発音はトランプにマネされて茶化された。カタカナ英語と言う事だろう)

 

我々が通常 会話であれ、ニュースであれ、話者が自分の言っていることを理解しており、

 

その内容を信じている、と思い込んでいるつまり真実性を予期しているのであるけれども、

 

フェイクニュースを言う者は、その受け手の「真実性の予期」を逆手にとって、フェイクを

 

「真実と信じ込ませる」のだ。

 

話者が日本語も解さない、しかも誰ともわからない、つまり権威の衣装をまとっていない

 

話者の話をいかに信じることが出来るか、その逆に権威の衣装をまとっている話をいかに

 

簡単に信じ込まされるのか、という問題提起と強引に解した。

 

しかし、安倍首相が日本の国会でもあるいはインタビューでも、「息を吐くように嘘をつく」

 

と経験している者には、そのフェイクはまったく有効ではない。

 

また、権威の衣をまとったものの言説が如何に容易に信じ込まされるかは、かの米国の

 

イラク侵攻の際、米国で人格的な信用も人気も高いパウエル国務長官を起用。

 

国連安保理で、イラクの大量破壊兵器の証拠を提示して、開戦に突き進んだことで明らかだ。

 

彼の名誉のために付け加えると、彼はその偽情報を述べたことを一生の悔恨、と述べている。

 

もう一つ関心をひかれたのは「想像したはずの共同体」というテーマ。

 

映像「想像したはずの共同体」

 

言うまでもなくこれはベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」からの引用だろう。

 

 

「このプロジェクトでは、主に黒塗りの画面で展開し、誰もが実際には起こるとは思えない日本人選手のボイコットという設定を想像してみる

我々が予測し欲望している未来像はどのような思想と結びつき、どこから生まれるか。

それは自分が希望する未来がそのまま予測する未来像として反映されるものなのか考える。

オリンピック憲章の中で、

 

オリンピック競技は個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない

 

と明確に謳われているが、表彰台では国旗掲揚とともに国歌が演奏される。

 

そして競技の勝敗の興奮と表彰台の栄誉とは、各国国民の「想像の共同体」の栄誉として、競技者と国民が陶酔の中に一体化する。

 

そこに、政治家がオリンピックを利用する価値、ナショナリズムを喚起する価値がある。

 

そして国際オリンピック委員会もまた、その価値を最大限利用して膨大なスポンサー料を集め、

 

機構の役員、職員ーそれは各国の下部機関も含まれるーの優雅な生活を保障しているのだ。

 

オリンピックで国の栄誉を担い、国威を発揚した選手には、その後の人生にも報酬が待っている。

 

選手のボイコットはあり得ない。少なくも集団主義の国、わが日本では

 

しかし過去、東西冷戦下のモスクワオリンピックではボイコットした西側の国が多数あったし、

 

自分の信条から選手個人がボイコットした例もある。

 

今回の東京オリンピックで、酷暑の中の競技、福島第一原発の放射能漏れや汚染水問題など、

 

健康面からボイコットする国や選手が出てくる可能性がある。

 

ネトウヨ諸君はそういう選手や国を「反日」と言うのであろうか、見ものである。

 

展覧会場のビデオでは大多数の映像がブラックアウト(画面暗転)してテロップと音声のみであった。

 

その画面の両サイドから同時に映像と音声が流れており、テロップが流れているものの、

 

とても意味を追っていくのが大変だ。

 

伺ったところによると、You Tube の映像が著作権の問題で利用できなかった為とのこと。

 

芸術や学術、あるいはそれらの批評の目的などで利用する際は、著作権の対象外とすべきだ。

 

それは著作権の当の元となった芸術や学術の発展のために必要な要素であるからだ。

 

先に挙げたベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」は既に「ナショナリズム論」の古典

 

とされている。

 

その序文の中で、インターナショナリズム運動でもあった共産主義の国家である、中国とヴェトナ

 

ムが戦った時、それは「ナショナリズム」を基軸にした戦争であったことを執筆の契機にしている、

 

丹羽良徳もまた、「共産主義者を胴上げする」、

 

あるいは「日本共産党本部にマルクスの像を掲げる」、

 

というアクティヴィズムとジャーナリズムの複合する作品を制作した彼がアンダーソンの

 

著作の刺激を受けて、次の段階として「ナショナリズム」に取り組んでいる、と理解した。

 

尚丹羽の以下の著作を事前に読んで多少の理解の一助にした。

 

そのなかにある面白い試みのビデオのアドレスを以下に貼る。お勧めします。

「歴代町長に現町長を表敬訪問してもらう」

https://yoshinoriniwa.com/jp/

 

以上敬称略。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

去る21日、札幌市内で所用を済ませた後、一泊して22日朝、開場前到着目途でホテル発。

 

テオ・ヤンセンの名前もその作品も知らなかった(私も以前は同様)方々へ開催概要をコピペ。

風を動力源としてオランダの砂浜を疾駆する「ストランド(砂浜)ビースト(生命体)」。ボディ全体は黄色いプラスチックチューブで造形され、物理工学を基盤としたその動きは生き物を思わせるほどに滑らかで有機的です。それらはオランダのアーティスト、テオ・ヤンセン(1948-)によって故国の海面上昇問題を解決するために生み出されました。作者亡き後も自立して砂浜で生き延びることを目指し、ストランドビーストは歩行、方向転換、危険察知などの機能を備え、さまざまな環境に適応していくためのシステムを獲得していきます。生と死を繰り返し、遺伝子と遺伝情報を受け継ぎながら進化し続けてきた生命体は、芸術と科学という既存のカテゴリーを横断し、新たな可能性を私たちに提示しています。

本展は北海道で初めての個展となり、日本初公開5作品を含む12作品を展示します。実際に動く巨大なストランドビーストを体感できるほか、その構造や動きの仕組みを明らかにし、テオ・ヤンセンが創り出す世界の魅力に迫ります。(太字は筆者)

 

 

 

朝9時45分第一会場の開場に一番乗りして、ざっと見て回り10時からのデモを見学。

 

歩行、方向転換、危険察知とまさに「生命体の運動能力」を備えたかに見えるデモを期待したのだが、

 

正面向かって左側からチューブに送風することで直進し、数メートル前進したところで送風を止めることで

 

停止する。

 

それ自身が「学習能力」を有するかのごとき説明文があるが、学習能力は作者のテオ・ヤンセンにあり、

 

作品が自動的に学習するわけではない。

 

無機物が「学習能力」を持つことは、いろいろと議論があるにせよ、A I をみれば可能性がある

 

と言えるだろう。

 

しかしそのためには「知識」や「経験」をストレージし、そこからある種の「法則」を見出してゆく

 

それが単なる確証バイアスの異種である可能性もまたAI には大いにある)ことは

 

「ストレージ」の機能と「情報選択」の機能、それを行動に転換する「伝達」などの機能があれば

 

可能であろう。

 

しかしそれを感じ取ることは出来なかったし、デモした美術館員に聞いても、場違いな質問の

 

ような気がして問うこともしなかったが。 

 

何しろ音響効果の悪い狭い空間でマイクを使い、反響がマイクに入ってとても聞きづらい。

 

場違いな質問、と言えば、この風で動く物体が、「アート」としてどのように理解するのか、

 

についても主催者側の意見を聞いてみたかったのであるが、それを聞くべき相手か否かの確信が

 

持てなかった。

 

そのように問いたくなるのは、彼の作品の「組み立てキット」が会場でも、アマゾンでも販売されて

 

おり、それらは一種の科学教材の扱いである。 玩具としてとても興味をそそられた。

 

「科学」と「アート」の横断と一言でいうが、そこが問題だ。

 

そして先にアップしたヴィデオの中で、「創作の動機」を尋ねられた彼の答え、

 

「わからない、親が子供を持つ動機が分からない、のと同じ」

 

と言う返事があるが、作者ヤンセンは自分の作品を「芸術」と大上段に構えていないのだろう。

 

だとすれば、彼の作品を仰々しく、かつ小難しく飾り立てる必要はないのではないか。

 

「皆さん、自然の懐の中で、風を吹き込まれてあたかも生命を得たも

 

ののように動く私の作品を楽しんでみてください」 

 

と彼は言いたいのだと勝手に解釈する。

 

彼の作品で最も「Beast}(獣性)を感じたのは以下の作品。

 

ビデオでは、この背骨の部分が、蛇のように上下に波打って前進する。

 

それは確かに「生命体」と呼ぶのに相応しい動きだ。

 

一種の「戦慄」を感じさせる。

 

考えてみると、風は「息」だ。

 

生命を宿したかのような生き生きとした「もの」に「息を吹き込まれたように」などと言う。

 

我々人類の祖先「アダム」は泥の人形に、神が息を吹き込んで誕生した。(創世記)

 

風の息を吹き込まれて動くこのBeastほ我々の始原的な魂を揺さぶる存在だ。

 

そして有機物、無機物を問わず、すべてのものに「霊魂」が宿っている、とする「アニミズム」をも

 

連想させる。

 

ギリシャ語の「魂」プシケーはラテン語になって「アニマ」になった。

 

男性の元型としてのエロス「アニマ」、女性の元型としてのエロス「アニムス」と

 

分化する以前の両性具有の「生命」。

 

正直に言うが、この展覧会にとりわけ「アート」を期待したわけではない。

 

風で動く、という着想とその疑似生命体に玩具を目前にした時のような好奇心をそそられたのだ。

 

 

余談だが、久しぶりに羽田の全日空国内線を利用した。

 

早めについたので、カード会社のラウンジで一服しようと思って覗いたのだが、満員長蛇の列。

 

成田ではいつも待たずに座れるのだが、考えてみると羽田では搭乗ロビーの一角にあり、

 

乗客は手荷物検査など済ませて搭乗するばかりだから、ぎりぎりまでラウンジに居ることが出来る。

 

一方成田では、先に手荷物検査や出国手続きが控えており、所要時間の目途も立ちにくいから、

 

利用者は早めにラウンジを出る。

 

羽田はそうしたことを考えてもっとラウンジを拡張すべきだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つい最近、渋谷駅再開発のため、東急東横店が営業休止に、との報道があったので

 

いよいよ、また一つ古書市が無くなる、と残念な気持ちを抱いて渋谷駅へ。

 

渋谷駅はどこに向かうにも動線が輻輳し、故に長いので、特にこの酷暑の時期には

 

大変な思いをする。

 

おまけにスマホの画面を見て周囲の人の流れに障害になる者も沢山いるので危険でもある。

 

再開発はターミナル駅としての渋谷の乗客の動線を整理する狙いも当然あるだろうから、

 

その意味では大変結構な事ではあるけれど。

 

古書市の入り口から順路を考えて回り始める。

ルネッサンス様式の四段階」サイファー著。後期バロックまでの分析、1800円

 

夜の勝利」英国ゴシック詞華集①②合計2160円。ブレイク、コウルリッジ達のロマン派から

有名無名の怪奇幻想の詩集。

英国人は最近のハリーポッターに至るまでちょっと怖いファンタジーが好き。

 

民族とネイション」塩川著岩波新書。某サイトで「非常に良い」ランクの同書を注文したところ

線引きが数ページあったので返金してもらったが、きれいな本があったので購入350円。

 

ヴォルテール「哲学書簡」光文社文庫。2017年刊で600円と高い値。

 

昼過ぎになったので駅近くの「兆楽」でムシローをつまみにビールを飲む。

 

余談だがこの8月15日敗戦の日を迎えて、渋谷ではまるで示し合わせたかの如く、

 

先の戦争のドキュメンタリー映画が上映されている。

 

シアターイメージフォーラムでは、「主戦場」

 

 

ユーロスペースでは「東京裁判」小林正樹監督作品。ドキュメンタリー

 

 

 

UPLINKでは、中国戦線での慰安婦を扱ったドキュメンタリー「太陽が欲しい

 

 

 

 

上記いずれの映画も見ていないのだが、それは従軍慰安婦の問題にしろ、南京大逆殺にしろ

 

私の中ではそれなりの結論は出ている、と言うこともある。

 

もう一つは言いにくいが、この猛暑の中、駅から遠く映画館まで歩きたくない、という怠惰。

 

南京事件と慰安婦の問題 2016年9月

 

靖国史観ー東京裁判一部言及  2015年4月

 

「永続敗戦論」読後感  2014年5月

この中で実に今日の米中摩擦に関する私の予言的な部分がある。

中国が経済的・軍事的に隆盛しつつある現在、こうした一見「居心地のよい」状態に安住することは到底不可能である。米国もまた、経済的利害を含めた「国益」の観点から、対中関係を日米同盟より重視するようになる時が必ず来るであろうし、今の極右政権は、その時の姿をとても歪んだものにする危険がある、と思う。
冷静に考えて、米国、否日本にとっても死活的利害とは言えない尖閣を、米国議会がそれを守る為に対中戦争を決議する、と期待するのは「白日夢」の類である、と思う。ここにも幻想を振りまく勢力がある。
 

吉見著「従軍慰安婦」

 

中国残留孤児

 

昭和天皇の退位

 

なお「東京裁判」についてであるが、小林監督のドキュメンタリーは見ていないが、私見は、

 

戦時中、ろくに兵站を考えずに大半の兵士を戦死ではなく餓死させたずさんな派兵計画

 

大言壮語する、たとえば辻参謀などにノモンハンを任せたこと、あるいは国際法に違反して

 

性奴隷を徴用したこと、捕虜を虐待したことなど様々な犯罪が行われた。

 

それらの多くは連合軍側によって裁かれたが、我々自身が戦争犯罪人を裁いていない

 

もし我々自身が「一億総懺悔」などの目くらましに引っかからずに「戦争犯罪」として裁いていれば

 

今日のような歴史改竄主義者の跋扈も、隣国に対する醜いヘイトも大部分は防げたであろう。

 

それが故に対中、対韓関係もずっと良いものになっていたであろう、と思う。

 

 

 

 

入場してチケットを提示して作品の一覧を受け取り、最初に出くわすのは

 

咳をして血を吐く男(咳をする男)と女の人形を下から上へと嘗め回す男(なめる男)。

 

この気分が悪くなるような画像を冒頭に持ってきた意図がわからない。

 

引き続きおびただしい人々のモノクロ写真が展示され、電球による修飾などであたかも「聖像」

 

のように展示される。それらは十字架のようであったり、尖塔のようであったり、祭壇のようでも

 

あり、「聖なるもの」をプンプンと匂わす。

 

そして白いカーテンに映し出された影絵が揺らめく中、黒い山が展示された大きな部屋に至る。

 

その中では彼の代表作「アニミタス」や入り口近くで出くわしたたくさんの顔写真を薄い布にプリントした

 

ものが天井からつるされていたり、黒い服を着た顔のない立像がスポットが当たって近くに寄ると

 

何やら今際の感覚を問うような音声が流れている。

 

作者ボルタンスキーがユダヤ系フランス人であることを庭園博物館の展覧会予め知っていた故か

 

これらの一連の展示は「ホロコーストのメモリアル」であると感じた。

 

そして出口近くにあるのは「來世」と電飾が掲げられた部屋。

 

左側の小部屋には床に電球が煌めき、

 

 

右側にはさらに小さい部屋の床に金紙が波状に敷き詰められ

 

筒された電球が時計の振り子のように動いて金紙に動きをもたらしている。

 

入り口で渡されたパンフは文字も小さく、会場が薄暗いこともあってメガネを掛けても

 

読み取れなかったのだが、出口でそれを拝見すると、「ホロコーストメモリアル」ではないようだ。

 

ホロコーストの犠牲者たちには、「来世」などが鎮魂になる訳もない、と思い直す。

 

3年前の2016年、旧朝香宮邸の庭園博物館で、分厚い遮光カーテンを開けて入った小部屋には

 

干し草が敷き詰められてその匂いが鼻を突き、映像では砂浜にガラス状のものが細い棒の先端に

 

括りつけらえたものがたくさんあって、それらが風に吹かれてやや金属製の音を奏でている。

 

題名は「アニミタス」(路傍の社)。

(これは同名の今回の展示作品)

 

以来シリアやリビヤの難民が、自分の息子や娘に絶望的な状況から子供たちを救い出すため

 

にヨーロッパへと一縷の望みをよりどころに船出した浜辺の「鎮魂」のモニュメント、として

 

難民の死が報道される都度、心中蘇った風景である。

 

この作品「アニミタス」が私の中で、何よりもボルタンスキーに結びつけられている。

 

しかし今回の「回顧展」はそのボルタンスキーが、以後新しい領野を切り開かなかった、

 

いわば彼のそこで留まってしまった残骸のような展示会であるような気がした。

 

そう感じて、前回の庭園美術館の展覧会パンフを引っ張り出して見たのだが、

この展覧会で展示されている作品は、まず鑑賞者を見つめ,裁くかのような目の展示

それからアニミタス、飛び去って行く魂、そして亡霊と影が、亡くなった人たちの声と共に

存在することになります。

多くの鑑賞者が、この館(旧朝香宮邸)の歴史を見、感じに来ているでしょうから。

私が聞く亡霊の声は、人と違くかもしれない。でもそれが歴史なのです。

同じ空間が、二つの全く異なった面を持つことがある。

この館は複雑な面を持っていて、それが私の興味を引くのです。(関口涼子氏のインタビュより)

付け加えるが、そしてそのことをボルタンスキーや関口氏が意識しているかどうかわからないが、

 

朝香宮は明治天皇の第8皇女と結婚した皇族で、南京大虐殺(1937年12月)当時

 

南京に司令官として入っていた人物でもある。

 

そこで ホロコーストのメモリアル と感じたことも、鑑賞の一つの在り方である、と言えるだろう。

 

そして「残骸」と述べたが、それもボルタンスキーの作品に通底するテーマ、と言う観点から

 

みれば、以下の記事がとても大切な鑑賞に必要な情報になるだろう。

私の作る作品は、形としては、宗教的な場所や儀式のコピーですが、美術作品はそもそも

儀式的、宗教的な形式なのではないでしょうか。

旅行途中にある寺院に入って、そこで行われて儀式の意味はあなたの存在を超えた何かで、あなたは理解することは出来ない。しかしあなたは、じぶんが問いの場所にいるのだと知っている。

それから寺院から出て、陽光の下、自分の生に戻って行くのです。

美術館は新しいカテドラルです。

でも、宗教との違いは答えを求めないということで、それが重要なのです。

誰にとっても理解できない事柄があります。たとえば死はそのうちの大きな一つです。

それは鍵の無い扉のようなもの。

私は、鍵とは存在しないと思いますが、重要なのはそれを探すことだと思っています

(上同、途中略太字は筆者)

これを再読したことで、「残骸」が、息を吹き込まれて蘇ったような気がする。

 

前回のボルタンスキー展では、このインタビュー記事が載ったパンフを頂き、インタビューの映像も

 

流されていて質問者の的確さに感心したのだけれど、今回は作品の簡単な紹介のパンフのみ。

 

もし仮にキュレーター氏が、そうした内容は有料のパンフレットに盛り込まれている、と言うなら

 

大いに異議がある。

 

美術館の経営は、欧米に比べ寄付や会員組織が貧弱な日本では、公的資金と入場料や図書や

 

記念品の売り上げがメインである。欧米の在り方にも批判が無いわけではないが、日本の美術館の

 

館長が役人の天下りであったり、薄給の名誉職であったりと、固有の問題を抱えていることも

 

あるだろう。

 

しかし、専門の研究者には周知の事実であっても、研究者向けの展示でない限り、またとりわけ

 

現代美術作品には作家や作品の著作などが少なく、情報量が全体的に乏しいことから見ても

 

作品や作家の理解を助けるための資料提供の必要性は高いと思う。

 

一見してわかりやすい作j品だけがもてはやされる、と言う事では底が浅いものになるだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

レンタルのDVDで鑑賞。

 

以下のWikiを見て誘われる。

オアシス』(原題:오아시스)は、2002年公開の韓国映画。監督・脚本はイ・チャンドン(李蒼東)、主演はソル・ギョング。社会に馴染めないまま30歳を目前に出所してきたある青年と、脳性麻痺で体の不自由な女性との特異ながら純粋な恋愛と、周囲に理解されないその行方を描く。

2002年韓国MBC映画賞で最優秀作品賞、監督賞、脚本・脚色賞、主演男優賞、主演女優賞、新人女優賞を獲得。同年の第59回ヴェネツィア国際映画祭において、監督賞、新人演技賞、国際批評家協会賞などを受賞するなど高く評価された。

 

ストーリーは

29歳の青年ホン・ジョンドゥは、ひき逃げによる過失致死で2年6か月の刑期を終えて出所した。入所したときの半袖シャツのまま、母の服を買って実家に帰ろうとしたが、家族は引越しをしてしまい、居場所も分からなかった。飲食店で無銭飲食をして警察に捕まった彼の元へ、ようやく弟のジョンセが迎えに来て、ジョンセの運転する車で新しい家へと向かい、家族と再会する。しかし、社会不適応者である彼に対し、家族は暖かい対応をしない。

2日後、挨拶しようとひき逃げ事故の被害者宅を訪ねたジョンドゥだったが、引越しの最中であった被害者の息子夫婦は怒って彼を追い返す。息子らは脳性麻痺である妹のハン・コンジュを置いて出て行ってしまい、ジョンドゥは残されたコンジュを再び訪ね、果物の入ったバスケットを置いて帰る。ジョンドゥは兄であるジョンイルの口利きで得た中華料理店の配達の帰り、遅くなって店を締められてしまい、そのまま配達用のオートバイでソウル郊外にあるコンジュのアパートに向かうが、訪ねずにそのまま帰ってくる。そして帰り道で転倒し、交通事故を起こしてしまう。兄からは諭され、兄嫁からははっきり邪魔者だと告げられる。

翌朝、ジョンドゥは花束を持ってコンジュの家へ行く。そこでコンジュの世話を任されている隣家の主婦に出くわし花を渡してくれるよう頼んだものの、鍵のある位置を盗み見て再び取って返し、コンジュの家に忍び込む。コンジュに対する好意を表したジョンドゥは、そのままコンジュの体をまさぐり、体を奪おうとするが、コンジュは必死の抵抗と緊張のあまり気絶してしまう。驚いたジョンドゥは彼女に水をかけて起こした後、退散する。

コンジュの兄夫婦は、コンジュの名義で障害者向けの住宅に入居しながら、コンジュは古い家に置いたままで隣家の女性に金を渡して世話を任せていた。行政の検査があるときだけコンジュを障害者向け住宅に連れて行き同居を装う。検査が終わった後、再び古い家に戻されたコンジュは、ジョンドゥが残していった電話番号に電話をかけ、ジョンドゥは再びコンジュの家を訪れる。コンジュが韓国語で公主(=「お姫様」の意味)と同じ音であることを面白がるジョンドゥに対しコンジュは心を開き、ジョンドゥを「将軍」と呼ぶようになる。そしてジョンドゥは定期的にコンジュの家を訪ねるようになるのだが・・・。

一言で括れば、前科者と身体障碍者のラブストーリーと言うことになるのだろうけれど、

 

どのような人間にも、生きる希望と人を愛する権利はあるのであり、

 

むしろ「生きる」という明確な希望なしにひたすら世間の顔を伺い、安心して差別感情を吐露できる時は

 

鬱憤を晴らし、自分は多数の側にいることを儚く確かめている、そんな生き方に鋭い刃を突き付ける

 

映画だ。


ジョンドウがゴンジュを車いすでカフェに連れ出したとき、あるいは、ジョンドウの身内の集まりに

 

ゴンジュを紹介しようとしたとき、身体障碍者に対する赤裸々な差別感情が示される。

 

韓国社会では「身体に欠陥がある人々」に対する差別や偏見は激しい、と何かで見た記憶があるが、

 

良質な居住空間を与えようとする努力はしているようだがそれ以上のことはわからない。

 

この映画を契機に、「脳性マヒ」について少し調べてみたが、原因も多岐にわたり、

 

知能が正常に成長していくケースも多いなど、簡単には括れない。

 

一方我が国における身体障碍者に対する施策はどうだろうか。

 

全国社会福祉協議会 のホームページからコピペするが、

平成28(2016)年に施行された改正障害者雇用促進法に関し、事業主に対する「差別の禁止」「合理的配慮の提供義務」「苦情処理・紛争解決援助」の遂行が一層求められるとともに、平成30年度からは法定雇用率の算定基礎に精神障害者が加わることとなり、また、原則として5年ごとに法定雇用率も見直しがなされることとなりました。

このように、障害のある方の自立支援、社会参加に向けて、施策が総合的に進められ、今日、国がすすめる地域共生社会の実現に向けてもさまざまな施策が検討されています。

と謳われてはいるものの、中央官庁自ら、障碍者法定雇用数を水増ししたりする状況では、

 

制度の実質が伴っていないことが明らかだ。

 

この度の参議院選挙で障碍者の方々が議席を得ることで、施設、設備面でのアメニティは

 

改善されるだろうが、議員活動としての質疑や投票行動への参加、という本来的な役割の面で

 

「社会参加」が進むのか、は現時点で不明である。

 

「女性の社会参加」「パリテ」すら遠い現状があるとき、

 

こうしたゲリラ的なやり方で、果たして前進するのか、と言う疑問が心中にわだかまっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

待ち望まれた日本のジャーナリズムの危機を直視した映画。

 

フィクションだが、安倍政権の腐敗はこの映画以上に深刻である。

 

ジャーナリストの父親が誤報のために自殺した東都新聞社会部の若手女性記者・吉岡エリカは、総理大臣官邸における記者会見でただ1人鋭い質問を繰り返し、官邸への遠慮が蔓延する記者クラブの中で厄介者扱いされ、社内でも異端視されていた。

そんなある日、吉岡は上司の陣野から大学新設計画に関する調査を任される。極秘情報が記された匿名のファックスが社会部に届いたためだ。彼女が調査を進めた結果、内閣府の神崎という人物が浮上してくるが、その矢先、神崎は自殺してしまう。

神崎の死に疑問を抱いた吉岡はその調査の過程で、内閣情報調査室の若手エリート官僚・杉原拓海と巡り会うが、彼は現政権に不都合なニュースをコントロールする立場でありながら、神崎の死に疑問を持っていた。神崎は彼の元上司だったのだ。立場の違いを超えて調査を進める2人の前に、ある事実が明らかになる。(Wiki)

 

 

 

冒頭からしばらくの間、東京新聞記者望月、元文科省事務次官前川、新聞労連委員長南

 

元ニューヨークタイムズ紙東京支局長マーティン・ファクラーの対談が背景に流れる。

 

それは日本の新聞・テレビの危機、権力の腐敗を監視すべく、国民の知る権利の負託に

 

応えるべき新聞テレビが官邸の圧力に屈し、伝えるべきことを伝えていないという危機的状況

 

を語り合うが、それがこの映画の導入部ともなっている。

 

 

なぜかくも新聞テレビは安倍首相ー菅官房長官の圧力に弱いのか。

 

先ずはNHKから。

 

NHKの予算、あるいはそのベースとなる受信料は政権与党の承認が必要だ。

 

職員の平均年収は2千万以上と言われる高給もアベ自公政権の匙加減次第で変わる。

 

加えてNHKの会長を選出する経営委員は政府の決定だ。カネと人事を握る安倍政権。

 

人事人脈を通じて、例えば役員や報道局長を通じて気に入らないキャスターを降板させる

 

クローズアップ現代の国谷キャスターや21時の大越健介の降板は官邸の差し金と言われる。

 

一般には企業などの商品・サービスの広告料で成り立っているとされる民放はどうか。

 

身近なところでは、オリンピックの放映権。放映権はNHKと民放で共同購入するが、どの競技を

 

取るかは民放各社にとって視聴率ー広告料収入、つまり経営の根幹に死活的重要性がある。

 

その割り振りは各社談合だが、「天の声」つまり総務省に影響力をふるうことが出

 

来る族議員のボスが実質的決定者である。

 

かつて長いこと総務大臣を務めた菅官房長官が原案を作りアベが承認する段取りだろう。

 

一方携帯電話やテレビの電波使用料は、圧倒的に携帯会社が負担している。

 

今回の参議院選挙でも若者受けを狙って携帯を安くする、というアドバルーンを上げている。

 

ちなみに2013年度では、NTTドコモ201億、KDDI131億ソフトバンク165億であるが、

 

NHKは18億、日テレが5億、テレビ朝日、フジ、テレ東各社は各4億である。

 

では一体テレビ各社はこの電波利用からいくら収入を得ているか

 

NHKが6517億、フジが3468億、日テレが2277億などである。

 

誰がどう見ても格安な使用料だ。

 

使用料収入650億超の使途について不明朗さが指摘されるが、それ以上にこの安いテレビ各局の

 

使用料がテレビ各社の「うまい汁」になっていることは一目瞭然だろう。

 

電波オークションについては現政権でも「検討」している、と報道されるが一向に進展していない。

 

民主党政権下で欧米の「入札方式」を取り入れようとしたのであるが、時の野党自民党の反対で

 

つぶされた。自民党とテレビ各局との利権はズブズブの関係にあるのだ。

 

そしてアベ政権に都合の悪い番組やキャスター、果てはコメンテーターまで降板の圧力をかける。

 

 

次に新聞社はこれらの利権とどういう関係にあるかというと

 

それは「クロスオーナーシップ制度」にある。

 

テレビ局の設立は読売新聞ー日テレを筆頭に、各全国紙がテレビキー局の筆頭株主

 

である。

 

つまりテレビ局の経営は新聞社の経営と一体化しているのだ。

 

テレビ局の弱みは新聞社の弱みであり、テレビ局の利権は新聞社の利権でもある。

 

しかも新聞社は「株式の譲渡制限」で縛られており、株主構成は変わることなく、無風で

 

自浄作用の働きにくい組織になっている。

 

この法律を維持しているのは勿論自公政権である。

 

つまりはいつでも脅迫のネタになるということだ。

 

望月記者の属する「東京新聞」は名古屋に本社がある「中日新聞系列」である。

 

中日新聞もまたロカール局を保有しているが、フジテレビ系列と関係が深いようだが、

 

勿論、東京のキー局と全国紙の関係ほどの広がりはない。

 

官邸記者クラブにおいて、他の全国紙からの圧力が望月記者に加えられていると思うが、

 

それにめげず、記者としての筋、ジャーナリストとしての矜持を維持しているのは並大抵の

 

ことではない。

 

まだある。新聞の再販価格維持制度だ。

 

これにより新聞は毎日の宅配でも、駅売り、コンビニ売りでも価格は変わらない。

 

もし駅売り、コンビニ売りが安くなったらどうなるだろう。

 

宅配を辞めて通勤時などに安い方を買うようになり、新聞社の収入は激減する。

 

各新聞社はこの制度で「新聞の質を保っている」と言うが、笑わせないでもらいたい。

 

権力の監視をする報道、調査報道など ヒト・モノ・カネもかかり権力と対峙して胆力を試される

 

報道はほとんど見かけない。

 

記者クラブやバンキシャ制度に、政権与党、官庁、業界団体大企業の「発表」を垂れ流す

 

アクセスジャーナリズムだ。

 

各社は他社に抜け駆けされる「特落ち」を恐れて、日ごろかそれらのらネタ元にべったりだ。

 

かつては気骨あるジャーナリスト、戦前の「大本営発表」の愚を再び

 

繰り返すまいと固く心に誓ったジャーナリストが結構いたが、今や絶滅危惧種だ。

 

この際だから徹底して言うが、消費増税に絡む新聞宅配の「軽減税率」も安倍政権批判封じに

 

一役買っている。

 

映画「新聞記者」から逸れたように感じられるかも知れないが、現下の日本のジャーナリズムの

 

状況は映画で取り上げられた事例以上に、闇に包まれかつ根深いのだ、と言いたいのだ。

 

ブロ友「ZELDA]さんは「新聞記者」今すぐ観るべき映画のなかで

 

「真実はすべて、映画の外側、現実の世界にしかありません」

 

と語っておられる。その言葉に我が意を得て、かく「現実の世界」を語った次第。

 

ここらで一休みして、以下に安倍政権とメディアをめぐる問題に関するツイッターを紹介する。

 

 

6年も政権に居座りながら、安倍首相は選挙のたびにアベノミクスを宣伝している。

 

がそれは新聞社やテレビ局が報道しないだけで、アベノミクスは破綻している

 

それを追及している明石さんのブログ。

また、この映画に関連していくつかの著書を紹介させてもらいたい。

 

望月、前川、ファクラー3氏の共著。巻末の対談と前川氏の部分がとても参考になる。

 

 

新聞労連委員長南氏とと望月氏の共著。

 

アベ総理は「息を吐くように嘘をつく」ことを検証している。

 

新聞テレビもこうしたファクトチェックをするべきだ。それがないからアベにいいように

 

印象操作」されてしまう

 

 

アベノミクスがほとんど成果をあげていないことをデータをもとに証明した明石氏の本。

 

 

元NHKキャスター国谷裕子さんとCIAの元情報局員スノーデンの共著。

 

二言目には「私は陰謀論を取らない」と気取る人におすすめ。

 

陰謀論も何も「事実がどうか」が真っ先に問われなければならない。

 

以下に諸氏のツイッターのアドレスを紹介する。フォローおすすめ。

望月氏

https://twitter.com/ISOKO_MOCHIZUKI

前川氏

https://twitter.com/brahmslover

南彰氏

https://twitter.com/MINAMIAKIRA55

スノーデン氏

https://twitter.com/Snowden

ファクラー氏

https://twitter.com/martfack

 

最後になるが、この映画観客動員数が多くベストテン入りしたそうだ。

 

米国での上映も決まったらしい。我々にこうした映画のニーズが高いということ。

 

次なる映画は安倍政権に阿り忖度して自ら「知る権利」「報道の自由を毀損した

 

マスコミや中央省庁、検察裁判所の「共犯者たち」の告発。

 

韓国映画の「共犯者たちが参考になるだろう。

 

 

 

参考:座談会続編

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新国立の展覧会は、クリムトやシーレ、更には表現主義のココシカらを、より広い文脈、

 

19世紀のハプスブルグ家、都市改造、ウイーン工房、世紀末ウイーンなど多面的に

 

紹介しようとする。従って都美の展覧会に比べて展示数も多く幅も広い。

 

都美「クリムト展」では、クリムトのユディトや女の三世代を中心に彼の絵の官能性やファムファタール

 

について語ったのだけれど、ここではこの展覧会の趣旨に照らして、より広い文脈でクリムトを

 

理解したい。 それにはまず19世紀のウイーンに戻って、その政治・思想的状況を振り返りたい。

 

19世紀のウイーンは、政治的には1924年メッテルニヒのウイーン会議に始まり、その

 

メッテルニヒが1848年3月学生の暴動で宰相を辞任してロンドンに亡命

 

同年12月フランツ・ヨーゼフ一世が18歳で皇帝に即位した。

 

フランツ・ヨーゼフ一世王権神授説を信奉し、自由主義を抑圧する新絶対主義者で

 

完全に旧体制に復帰した。 しかしこの新絶対主義は古い絶対主義がフランス革命などの洗礼を受け

 

衣替えを迫られ、「万人のための近代的な経済・行政・教育システムを有無を言わせず与える事

 

により、万人への政治的権利の譲渡を封じよう」とする上からの、譲歩を含む改革であった。

 

展覧会において、F・ヨーゼフの治世下で、リング通りの拡張から市庁舎やあるいはオペラ座や

 

劇場や病院など近代的な施設が、ナポレオン三世のパリ大改造に対抗するがごとく建築された、

 

その内容が写真でも多数展示されている。 いわば「善政」をめざしたのである。

 

写真と言えば、明治政府が初めて万博に参加した1873年のウイーン万博で、河鍋暁斎の作った

 

幟(のぼり)が日本館の入り口両脇に翻っている写真があるのだが、残念ながら絵柄は不分明である。

 

1848年革命はフランスの2月革命に端を発し、ヨーロッパ各国に伝搬したのだが、その革命の

 

主体はブルジョワジーと言うよりは労働者、学生あるいは農民であった。

 

しかし、フランツ・ヨーゼフの新絶対主義も1859年の対仏戦争に完敗したこと、さらにはそれによる

 

財政悪化で改革を余儀なくされ、帝国議会の拡大、あるいは1861年の二月憲法で自由主義的

 

改革を一部導入せざるを得なくなる。  しかしヨーゼフは依然として反立憲主義であった。

 

1865年にはプロイセン首相ビズマルクの扇動により対プロイセン戦争が始まり、首都ウイーンに

 

迫られてヴェネツィアの割譲など不利な講和を結び、ハプスブルグ家は「神聖ローマ皇帝」の威信と

 

権威を失ってしまう。 

 

その後も反ユダヤ主義のキリスト教社会党のルエーガーウイーン市長との対立(1895-1897)

 

ではユダヤ人庇護の立場を取り(ユダヤ人のフロイトやヴィトゲンシュタイン家やブロッホバウアー家を

 

想起)ウイーン市民とは対立した。

 

この後、1889年の皇妃エリザベートとの間の唯一の後継者ルドルフ皇太子の自殺、1896年の

 

甥のフェルデナンドを後継指名1898年の皇妃エリザベートの暗殺、とオーストリアは衰退の道へと

 

急回転していくのである。

 

クリムト

クリムトは工芸学校の卒業と同時にリング通りのブルク劇場と美術史美術館の歴史画を描く機会が与えられた。その中の旧ブルク劇場の観客席の集団肖像画で当時のウイーンの名士を書き込んで1890年皇帝賞を獲得、一躍有名な若手画家となった。

そしてこのころ19世紀文学の道徳的主義的姿勢に挑戦し、社会学的真理と心理的ー特に性的ー解放とを支持する文学運動も始まった。90年代の中期には、伝統への反逆は遂に美術と建築まで拡がった。

彼らの唯一の共通基盤は、近代人の真実の顔を求めて彼らの父親たちの古典的

写実的伝統を捨てる事であった。

クリムトは、彼自身旧派の若い名手であったが若者たちの反逆では逸早く指導的地位を占め、1897年彼らを引き連れて既成の美術家協会から脱退し分離派を創設した。

世紀末ウイーン」カール・ショースキー著岩波書店p269-270抜粋)

この分離派の最初の展覧会のためにクリムトが製作したポスターは、アテネの青年たちを解放する

 

ために、粗暴なミノタウロス(人身牛頭の怪物を殺したテーセウスの神話から題材をとった。

 

右に槍を持って立つ女神アテナは諸芸術の解放の擁護者として援用されている。

 

分離派、という名前もローマの平民分離派ー平民が臆することなく貴族の悪政を斥けて共和国から

 

脱退したから採られている。

 

クリムトの社会的出自もまた彼が仲間入りした教養ある自由派ミドルクラスよりも低いものだった。

 

この「パラス・アテネ」は同じ1898年の作品であるが、ポスターの「庇護者」から漠然とした

性格に造形され、感情を外に漏らさないが謎のような力を持つ姿となって表れる。

変わったのはアテナの性格だけではない。絵の下方左隅では近代人に鏡を捧げつつ

「裸の真理」が立っている。かつては二次元の若い娘だったが、いまや彼女は均整の取れた肉体と性的魅力を備え、燃えるような赤い毛を、陰毛さえも持っている。

「裸の真理」ではなく「裸の裸体」なのだ。ここに古い文化から新しい文化が出現する決定的な転回点、古い図像学を全く反逆的な形で歪曲し、もはや処女神アテナは民族的な都市国家を統御する知恵のシンボルではなく、本能的な生の、特にエロティックな生の発掘への隠喩的橋梁として役立つよう古典的シンボルを使っている。(上同p281抜粋)

この同じ1898年にクリムトは、「音楽」という作品を、ショーペンハウアーとニーチェの著に負って

 

製作している。ニーチェは「悲劇の誕生」で、造形芸術をアポロ(竪琴)、音楽を「ディオニソス」に象徴

 

させたが、それらを用いて芸術的解脱(ショーペンハウアー)へと至る道を暗示している。

 

クリムトに関してはこの展覧会のもう一つの目玉作品について簡単に触れておこう。

 

 

遺言でクリムトの兄弟たちと同じように財産を遺贈されたエミール・フレーゲの肖像

 

クリムトとフレーゲの関係はプラトニックなものであったとは言えないが、もうその点は

 

どうでも良いだろう。今私が気になるのは、都美で見た「ユーディット」と同じような上から見下ろす

 

ような視線である。こうした点が、特定の女性に対するクリムトの潜在的な「恐怖感」をあらわしている

 

と言われる所以かもしれない。かといってそれをファムファタールに直結させるのはためらいがある。

 

彼の女性観はショーペンハウアーの「女について」から影響された面が大きいと推測されるのだ。

 

一方エミールの身体は中期クリムト独特の装飾で覆われているが、それは「飾ること=押し込める

 

こと」にも通じる気がする。 そうした両義性こそ視覚芸術の深度の一つである。

 

あるいは「押し込める」がエミールがこの絵を気に入らなかった理由かもしれない。

 

エゴン・シーレ

1890年生まれのシーレは、16歳で、かのヒトラーが入学を果たせなかったウイーン芸術アカデミー

 

に入学、翌1907年クリムトと出会い、早くも1909年クリムトが分離派を脱退して形成した

 

ユーゲントシュティールの展覧会に出展する。

 

シーレはアカデミーの教授たちと意見が合わずこの年アカデミーを退学。以後クリムトを師と仰ぐ。

 

貧乏なシーレにクリムトは派遣のモデル代を払ってやったこともあるらしい。

 

師クリムトにオマージュを捧げるような絵も数点描いているが、クリムトが自画像を描かなかった

 

事に比べ、シーレは数多くの自画像を描いた

 

それはナルシシズムの現れ、とよく言われるが、むしろそれは若いシーレが自我形成期に

 

「自分は何者か」という存在の問いに向き合った所以であり、まだ画家として生計が立っていない

 

彼が、加えて独特な形態(姿勢)に執心、自らを題材とすることが好都合であった点が大きいだろう。

 

フロイト的解釈は私のような門外漢にも容易にできるが、一面では画家を矮小化することに通じる。

1911年の「自画像」は、「黒い粘土の花瓶のある自画像」とも表記されるが、

 

この絵に今述べた「矮小化」に対する一つの反証があるだろう。

ここには幾何学的で、模様のちりばめられた背景に囚われた、目を見開いた弱弱しそうな

画家が描かれている。手の仕種は,構図そのものがそうであるように様式化されており

中世の聖者の像における様々なしぐさの表現に匹敵するほど明らかに特定の意味を持つ

ように意図されたものである。その手は胸を庇っているが、開いた指はある一点を攻撃せよと招いている。親指は既に切り取られてしまったように見える。花瓶そのものが人間の頭部を表したものだが、それはヤヌス神のようにシーレの頭に癒着して、彼のもう一つの暗い方の本性を暗示している。  「エゴンシーレ」フランク・ウイットフォード著講談社p119

 

2つの対象を並べて対比させ、特別な表現力で描いた重要な自画像の一つである。

斜めの姿勢、開いた指などの表現力に富んだ身振り言語と、黒い目に宿る抑制された悲しみが対比されている。色彩はドラマチックである。シャツの黒さと頭の髪の形をした壺の黒さは布地の鮮やかな色彩と対比している。画家の淡い色調の顔と、その後ろの頭の形をし

黒い壺は互いに反対方向を向き、ヤヌスの顔を構成している。

ウオルフガング・フィッシャー「シーレ」TASCHENp157

注:ヤヌス神ー双面神で物事の内と外を見ることが出来た。

 

同じシーレの絵に対して、かくも異なった視点から絵を鑑賞することが出来るのが、絵画鑑賞の

 

醍醐味である。

 

視覚芸術は主題、形ーゲシュタルト、色彩、用いられるシンボルやアレゴリーなど、多彩な要素があって

 

しかも静止しているがゆえに鑑賞する我々にあれこれと考え、推測し、判断する余裕を与えてくれる。

 

時間は止まってくれるのだ。

 

シーレは自画像も多く描いたが、女性の裸体画や肖像画などををたくさん描いた。

 

彼の、「身体」に対する異常ともいえる執着

 

その執着は、性器-いつも絵の中心にあり明彩だーだけでなく、ポーズもどこか歪んで、

 

静止しているよりは動きの途中の様だ。

 

色彩もユニークで、背景と相互に浸透しあっている身体もあれば、コントラストが明確な絵もある。

 

この自画像では、顔に青や赤が用いられ、肉をそぎ落としていったその奥の血管や血を想起させる。

 

そぎ落としていった先に見えるものー内を見ようとしたのではないかと思う。

 

そしてそれは後のジャコメッティー恐らくはホドラーを介してーと共通のものがあるように感じるのだが。

ホドラー「悦ばしき女」1910年ごろ

 

ジャコメッティ(1901-1966)ディエゴ?の頭部

 

尚、この展覧会では英語に加えて中国語とハングルの説明文があった。

 

中国、韓国の美術愛好家にも配慮がされており、まことに清々しい気持であった。

 

追記:アテナ神の楯はカラヴァッジョの絵でも有名なメンドーサパラスアテネでは胸にそれがあり

 

アテネ神がディオニソスを救い出すためにタボスの王メンテスの姿を取ってディオニソスの息子

 

テレマコスのところに飛んだ時の姿を想起する。当然それはニーチェの「悲劇の誕生」にも重なる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

火曜日から始まった古書市、昨日3日に市内の図書館に返本し、隣の市の図書館に返本、

 

と忙しく本に振り回されて池袋へ。

 

探す本はメモ書きしていくのだけれど、今回は運よく数冊ゲットできた。

 

その一は「ロマン主義の精神」シェンク著 生松敬三先生訳。

 

19世紀末の精神史探求に絡む本。

 

これは上下で500円プラス税。2003年刊でやや古臭い。

 

 

 

デリダは確かに難解。彼の生涯や主要著作について簡単な解説があるので購入。

 

最近は哲学者・思想家の人となりや主要著作の解説をしたこうした類の本を買うことが多い。

 

一つにはずいぶん昔に手に取ったものが、その内容を忘れてしまったり、かといってまた新たに

 

読むのも時間がもったいない、という状況ではとても便利。

 

十数年前持つと腰を痛めるような段ボールで7~8個分、本を大量廃棄処分したが、

 

それで無くなってしまったものもあるし、今後も処分しやすくなるというのもある。

 

これは今述べた理由、彼の著作をこの本一冊で他の何冊かを捨てる事が出来る、400円。

 

まあ これで飯を食っているわけではないから、気楽だ、ということ。

 

最後は

 

今ある本は古臭くなったので、2010年刊で奇麗なものがあったので購入。

 

10時過ぎに会場に入って12時近くになったので、西口にまわって「ふくろ」で昼のみ。

 

池袋西口の公園では、年に二回は古本市が開かれていたのだが、今工事中である。

 

オリンピックまでに円形の屋外ステージと観客席を設ける、とのパースが掲げられていた。

 

かつてはホームレスが溜まる場所でもあった。

 

しかし彼らにシェルターを設けることもせず、一方的に追い出して「街の美化」をする

 

その冷たさには反対だ。 

 

オリンピックで外見を取り繕うために、それなしでは苦しむ人たちの休む場所を奪い

 

大金をかけてゼネコンにカネを回す。

 

そんな施設も、その施設を生かす「ソフト」にカネをかけずノウハウも乏しい我が国では

 

あっという間に廃墟同然になるだろう。

 

そんな国が「美しい」「クール」な国であるはずがない