#都美セレクショングループ展2019  6月30日まで #オクタビオパス  | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

一見しただけでは名前の馴染みもなくて意味が良く分からないこの展覧会。

 

先ずは同展の趣旨説明から。

「都美セレクション グループ展」は、新しい発想によるアートの作り手の支援を目的として、当館の展示空間だからこそ可能となる表現に挑むグループを募り、その企画を実施するもので、2012年の東京都美術館リニューアルオープンを機に新たに開始されました。
「都美セレクション グループ展 2019」では、応募の中から厳正な審査を経て選ばれた3グループが展覧会を実施し、絵画、写真、彫刻、インスタレーションなどさまざまなジャンルの作品を紹介します。グループの熱い思いが込められた展覧会にご期待ください。

 

選出された三つのグループがそれぞれギャラリーA、B,Cにて各所属作家の作品を展示している。

 

予め名前の承知している作家は居ないが、クリムト展を鑑賞した際、この展覧会が9日から開催される、

 

と知って、名画鑑賞、つまり評価が確立し、鑑賞に絡むあれこれの煩わしさもなく、更の気持ちで

 

自分の意識と感覚を頼りに絵を鑑賞できる、という魅力で出かけた。

 

もう一つの魅力は、自分たちのグループの作品を世に問いたい、発表の場を得たい、と公募に応じた

 

その熱意に触れることが出来る、ということ。この方が先に挙げた理由よりはるかに大きいが。

 

会場では各グループの展示マップと簡単なグループの紹介や作品の案内のパンフが入手できる。

 

印象に残った作品について感想をいくつか記す。

 

1「彼女たちは叫ぶ、ささやくーヴァルネラブルな集合体が世界を変える」

 

イトー・ターリ (私の居場所 4つのパフォーマンス記録映像)

 

パフォーマーとして、セクシャルマイノリティと自己のアイデンティティ、沖縄の基地に生きる女性、

 

あるいは福島の問題など、今に向き合う作品群の映像展示。

 

LGBTの人たちにとっては、自分の肉体と意識との乖離が、それゆえの肉体がいわば牢獄となって

 

自意識を苦しめる、ということを理解した。

 

彼女のパフォーマンスはYouTube でもそのいくつかを見ることが出来る。

 

会場の映像では画面も小さく、音も絞ってあったので音声は聞き取りにくかった。

 

カリン・ピサリコヴァ (身体の物質性から概念の世界への逃避)

 

病気や薬物使用、妊娠など普通の状態でないときには、自分の心は身体の状況に支配さ

 

れ、両者は不可分(一体)となる。永遠に自分の身体から逃れられないことが、すべての

 

基準となる。

と説明書きにあるのだが、さすればイトー・ターリと共通の問題意識があるという事なのだろう。

 

しかし身体性から概念へ、という道筋が良く分からない。あるいは「概念」の意味内容が。

 

身体性は、それを否応なく意識させる「他人、あるいは社会の視線」というものが自己の意識に

 

照射されてその分裂が、身体性と意識の統一を妨げるのではないか、という気がするのだが。

 

ヘーゲルの「概念」からいえば身体そのものが意識の対象であり、その再統一が理性の課題なのだが。

 

2、「星座を想像するようにー過去、現在、未来」

会場で頂いたパンフには、

「星の光は何光年もの時を経て私たちの目に届きます。

私たちが生きる現代も長い歴史の上にあります。

その歴史や現代を繋いだ先に未来があるように。」

とある。

 

瀬尾夏美

東日本大震災で被災した陸前高田に移り住み、その「復興」の風景の変化を抽象化する。

 

 「流されたまち」-瀬尾は“みえないまち”をそう呼んだ。やがて「ここにあったまち」は「平らなまち」「新しいまち」と変化し、復興の嵩(かさ)上げ工事が始まると、「天空のまち」となり、かつてあったまちは「下のまち」となって「二重のまち」が見え始めた。

 移り住んで三年、復興という「第二の喪失」に気づく。山を削り、ベルトコンベアで土を送り込み、十メートル以上の土の山の下に埋められていくまち、記憶、風景。

(あわいゆくころ陸前高田震災後を生きる:瀬尾夏美著の書評https://www.bookbang.jp/review/article/564800 より)

 

復興という「第二の喪失」

 

過去・現在・未来は、連続していて現代の先に「未来」がある訳ではない。

 

過去を失った人々、人生を共にし様々な思い出を共に紡いできた人たちを失うことで、

 

その人の過去も失われていく。そして語るべき言葉を失った人は現在の生も失うのだ。

 

今、復興の名のもとに、かつての風景を失うことで、記憶のよすがも失われていく。

 

過去を忘れないために、人は記念館などを作り、あるいは震災に生き残った一本の木を

 

残すことで、くじけそうな心を支えようとする。

 

しかし一方、それは同時に、「過去」を封印することでもある

 

過去がどのようであったのかを、一方的に切り取り、軽重をつけ、それを「真実」とする手法。

 

古堅太郎 (ふるかたたろう)「完璧な抱擁」

 

彼の作品で目を引いたのは、広島の平和記念公園を設計した丹下健三が、戦時中

 

「大東亜建設記念造営計画」のコンペで1等を獲得した、その案との類似性から

 

「アメリカの謝罪、あるいは、日本の帝国主義から入念に切り離された『平和』に戦中のプロガンダとの類似を見ることはできないだろうか?」

https://motion-gallery.net/projects/kakogenzaimirai/updates/23760

という問題提起。

 

世界に向けて人類の平和を願い訴えることと、過去の過ちを繰り返さないことを目的に建設された

 

広島平和記念公園は、人類の平和を願い、過去の過ちをいうものの、日本の戦争責任や原爆を投下し

 

た当事国について明確なメッセージを発しているとはいいがたい

 

古堅の言うように「入念に切り離されて」いるのだ。

 

そしてその切り離しは、原爆の惨禍の言説を、つまりは「過去」を、一方的に提示することによって

 

「過去を封印すること」でもあるのだ。

 

何のための封印?

 

オクタビオ・パス

十八世紀に幕を開け、恐らく今その黄昏を迎えている時代、近代は、変化を称揚し

それを自身の基礎とした最初の時代である。

差異、分離、異種性、複数性、斬新さ、進化、発展、革命、歴史、これらの名辞は

すべて、ただ一つに凝縮するーー未来。

過去でも永世でも、現にある時間でもなく、まだ存在しないが、常に存在する寸前

にある時間。(泥の子供たちーロマン主義からアヴァンギャルドへ、水声社37P)

そう未来のため、進歩という幻想のための「封印」

 

政治の世界では、改悪も「改正」と呼び、あるいは「改革」と呼ぶ。

 

なお加茂昴の「超人為的な光」「境界線を吹き抜ける風」はユニークで楽しい作品であった。

 

幸いなことに、この展覧会で以上のような様々な思考を触発された。

 

来年の開催も決定している。会期は2020年6月上旬から7月上旬のうち4週間程度。

 

応募の締め切りは今年の7月15日。もう間もなく締め切りである。