うちのブログは、アクセスの7割ちょっとが「検索」でいらっしゃる方々でして。
ありがとうございます。日本古代史ばっかりやっている所ですが、たまに中世や近代や海外もやってます。ゆっくりして行ってってくださいましね☆
で、アクセス解析を見てみると、多い日で「検索」の8割ほどは「系図」なのですが、ここ数ヶ月は『光る君へ』関連で来る「藤原氏」のほかに、「徳川家」でいらっしゃる方が多いのです。
去年は大河ドラマが『どうする家康』だったので、その余波かな…と思いかけたのですが、検索ワードでは「徳川家治 系図」が多いので違うな…と。
で、色々探ってみたら、どうやらフジテレビのドラマ『大奥』の影響のようですね。
10代将軍・徳川家治@亀梨和也さん
フジテレビ『大奥』より
10代将軍を主人公格に…って、なかなかの挑戦的な?時代劇でいえば「鬼平」長谷川平蔵の若い頃のあたりになりますか。
で、次週で最終回なんだとか…なんとなんと。
ともあれ、ワタクシ『大奥』関連だと気付く前、これてっきり「御三卿」関連での検索なのかなって、邪推しておりまして…。
そちら方面で系図を用意してしまったので(笑)、本日はこれをやってみようと思います。
まぁ、「御三卿」は10代将軍・家治とも歴史上でも密接な関係にあるので、そうテーマが離れるわけでもないだろう…みたいなかんじで…(たぶん『大奥』視聴者さんの欲するところからは離れるんでしょうけど・汗)
なお、「御三卿」を語るには、「御三家」も交えておくと、いい理解に繋がりそうだなとワタクシは考えておりますので、そのあたりも含めて始めてみたいと思います。
もはや、今日もまた長くなる予感しかないですね、これは(汗)
ところで。
「御三家」「御三卿」って一体ナニ?
となる方も、おられるのではなかろうか。
端的に言えば、「御三家」と「御三卿」は「血のスペア」。
もしも、将軍職を代々務める徳川宗家(将軍家)が断絶してしまった時、「新たな将軍を用意できるように創設された家」なのです。
「御三家」を作ったのは、初代将軍・徳川家康。
家康は、3男の秀忠を次期将軍とした上で、9男の義直を「尾張徳川家」、10男の頼宣を「紀伊徳川家」、11男の頼房を「水戸徳川家」の家祖に、それぞれ置きました。
ちなみに、紀伊の頼宣と水戸の頼房は、同母兄弟。母は「お万」という女性で、韮山の江川家の養女として輿入れ。『鎌倉殿の13人』にも登場した三浦義村(@山本耕史さん)の末裔らしい…?と言われています。
正徳6年(1716年)、7代将軍・家継(いえつぐ)が8歳で幼くして亡くなると、「家康-秀忠-家光」から続く系統が断絶。
いよいよ「御三家」から後継者を迎えることになるのですが、色々あって「紀伊徳川家」が選ばれて、8代将軍・吉宗(よしむね)が誕生します。
徳川吉宗…「暴れん坊将軍」でお馴染みですね!
歴史上では「江戸三大改革」の1つ目「享保の改革」をやった人として知られています。
吉宗が将軍に就任したのは享保元年(1716年)。家康が徳川幕府を開いてから、すでに百年以上の月日が流れ、吉宗自身は家康の曾孫、亡くなった先代の家継に至っては来孫。「御三家」も随分、将軍との血縁が遠くなっておりました。
そこで、吉宗は新たな「血のスペア」を作ることにします。
長男の家重を次代の将軍とすると、3男の宗武(むねたけ)に「田安家」、5男の宗尹(むねただ)に「一橋家」を創設させました。
続いて、9代将軍となった家重が、長男の家治を次代の将軍とすると、次男の重好(しげよし)を「清水家」の初代当主に据えます。
こうして「田安家」「一橋家」「清水家」の「御三卿」が誕生。
というのを、系図で確認してみると、以下のようになります。
◆清水家
10代将軍・家治には家基(いえもと)という嫡男がいたのですが、安永8年(1779年)、鷹狩りからの帰宅途中で急死してしまいます。御年17歳。
家治には他に男子がいなかったので、次期将軍を「御三卿」から養子として迎えることになったのですが、色々あって「一橋家」から豊千代が迎えられ、天明6年(1786年)に家治が亡くなると、11代将軍・家斉(いえなり)となりました。
そんな家斉は、家基の命日には晩年まで墓参りを欠かさず、また家基の生母・蓮光院に、没後30年経って「従三位」を追贈するなど、「何か思う所がある…?」と訝しんでしまうような、異例の「配慮」をしています。
そういえば、「清水家」は家重が次男を立てて作った家ですが、ということは初代の重好は、家治の実弟。兄弟仲も良かったといいます。
振り返ってみれば延宝8年(1680年)、4代将軍の家綱が亡くなった時、「御三家」ではなく、弟の綱吉が5代将軍に立てられました。これにならって、「御三卿」から養子を迎えるまでもなく、弟に将軍職を継がせれば良かったのではなかろうか。
というのを考えると、家基の突然過ぎる若死については、息子の豊千代(家斉)に将軍職を継がせたい一橋治済が、何かしらの秘密を抱えている可能性が、あるかもしれません。
つまり、家基の突然の死は治済の手による暗殺であり、それを家斉は知っていたから家基の追善を欠かさなかった…と見ることもできます。本当のところはどうだったんだろう。
「清水家」初代の重好は、兄の死から9年後の寛政7年(1795年)、51歳で死去。子供がいなかったので、「清水家」は一旦「断絶」となり、領地と屋敷は、老中・松平信明の判断で幕府に収公されてしまいました(一橋治済は、七男の亀千代に継がせたかったようで、これに抗議しています)
寛政10年(1798年)、将軍家斉の子・敦之助(外祖父は島津重豪)が2歳にして当主となり、3年ぶりに「清水家」が再興。
しかし、翌年に夭折してしまったため、敦之助の弟の斉順(なりゆき)が、4歳で3代当主になります…が、これまた「紀州徳川家」の10代・治宝(はるとみ)の婿養子になることが決まり、「清水家」を離れることになりました(ちなみに、斉順は14代将軍・家茂の父にあたる人物です)
後釜の4代当主には、弟の斉明(なりのり)が、6歳で迎えられるのですが、17歳で子のないまま亡くなり、その次もまた弟の斉彊(なりかつ)が7歳で5代当主となるも、紀州に行った兄の斉順が亡くなった後を継ぐために、またしても「清水家」から「尾張徳川家」に移ることになってしまいます。
それ以降、20年もの期間「清水家」は当主不在の「明屋敷(あきやしき)」となりました。
…というかんじで出入りが激しい「清水家」ですが、整理してみると5代中4人が家斉の息子という。さすが子だくさん将軍ですなw
幕末に至ると、大老・井伊直弼が「南紀派」の勢力増強を狙って手を出そうとするのですが、事ならないまま「桜田門外の変」に倒れ、やがて15代将軍・慶喜の時代になると、慶喜の弟にあたる昭武(あきたけ)が6代当主として入り、20年ぶりに「清水家」が再興されました。慶応2年(1866年)というので、明治維新の前年のことになります。
昭武といえば、2021年大河ドラマ『晴天を衝け』で、将軍の名代として渋沢栄一とともにパリ万博への派遣と、その後のフランス留学、そして海外で「御維新」のニュースを聞くといった姿が描かれておりましたが、これは「清水家当主」としてやっていたんですねー。
左:徳川昭武@板垣李光人さん
2021年大河ドラマ『晴天を衝け』より
なお、昭武の実家「水戸徳川家」は「尊王攘夷」の本場みたいなところなので、昭武のヨーロッパ行きには猛反対の立場を取っておりました。
そこで、昭武を水戸から一旦出す必要があり、その策として利用されたのが「清水家」に入れることだった…と言われています(なお、昭武は帰国後に「清水家」を出て「水戸徳川家」を相続しています)
◆田安家
「田安家」初代となった宗武(むねたけ)は、家重の4歳年下の弟。聡明で明朗快活な、はっきり言って病弱で言語不明瞭という何かと難癖のある兄よりも、主君として優れた資質を持つ人でした。
「兄よりも私の方が…」と父・吉宗に言って怒りを買い、謹慎させられた…とも言われているのですが、これは「家重が次期将軍であることを知れ渡らせるため」「宗武を担ごうとする勢力に諦めさせるため」に、父子で打った芝居だった説もあるみたい。
月光院(7代将軍・家継の生母)の仲介でようやく赦されたものの、生涯に渡って兄・家重と対面することはなかったというので、真偽はどうだったのやら…。
ともあれ、宗武の男子では、5男・治察(はるあき)、6男・定国(さだくに)、7男・定信(さだのぶ)の3人だけが成人を迎えました。
明和8年(1771年)に宗武が亡くなると、治察が2代当主となるのですが、わずか3年後の安永3年(1774年)に病死してしまいます。
この時、定国は幕命によって伊予松山藩へ養子となっており、定信もまた陸奥白河藩への養子が決まっておりました。
「田安家」は、定信の養子縁組話を解消して跡継ぎにしたいと幕府に申し出るのですが、すげなく却下。これには、老中の田沼意次の意向が働いていたと言われています。
ここから13年間の「明屋敷」期間を経た天明7年(1787年)、一橋治済の5男・斉匡(なりまさ)が、「田安家」3代当主となります。
しかし、尾張徳川家と水戸徳川家は猛反対。
「将軍の庶子が『御三卿』を相続するのが吉宗公の遺志であるのに、『御三卿』の庶子が継ぐのは、意向に背くことになる」
これを、当時老中となっていた定信が丹念に説得して、再興となりました。
本当なら自分がなっていたかもしれない「田安家」の当主を、従兄弟の子に継がせた定信。その心中や如何なものであったか…。
ちなみに、松平定信と言えば「江戸三大改革」の2つ目「寛政の改革」を行った人物ですが、その中身は「田沼政治」の全否定。
「自分が田安家の後継者になる」という未来をつぶした張本人・田沼意次に、ヒトカタならぬ心情があった…ということなんでしょうか。
田や沼や 濁れる御世を あらためて
清く澄ませ 白河の水
(「田沼政治」の汚職政治を「寛政の改革」で綺麗にしておくれ)
白河の 清きに魚も 住みかねて
もとの濁りの 田沼恋しき
(「寛政の改革」は清廉を狙い過ぎて生きづらい「田沼政治」が恋しい)
「田沼政治」「寛政の改革」は、この2つの歌でも有名ですなw
定信の尽力により「田安家」を継いだ斉匡には、たくさんの子がおり、次男の匡時(まさとき)を世子としていたのですが、将軍家斉の12男である斉荘(なりたか)が養子として送り込まれます。
天保7年(1836年)、幕命により匡時が病弱であるとして廃嫡となり、斉匡は隠居。斉荘が4代当主となりました。この時の経緯はよく分かりません…。
天保10年(1839年)、「尾張徳川家」の斉温(なりはる。家斉の19男。斉荘の異母弟)が死去したことで、斉荘は「田安家」を出て「尾張徳川家」の跡取りになることが、幕命により決定。
しかし、これが尾張藩附家老にちょこっと話が行っただけで、尾張藩内には何の根回しもなかったみたい。幕府の無礼なる一方的な沙汰であったことが物議をかもし、尾張藩内を二分する騒ぎとなってしまいます。
さらに、弘化2年7月6日(1845年)に斉荘が病死すると、斉匡の10男・慶臧(よしつぐ)が「尾張徳川家」13代当主に選ばれるのですが、またしても幕府による勝手な押し付けだったようで、尾張は憤慨・落胆。
この「反幕府」の感情を抱えたまま幕末の動乱を迎えたことで、尾張は「親藩」にして「佐幕」になりきれない、中途半端な立場になってしまったのでした…。
話を戻して、斉荘が尾張へ移った後は、再び斉匡の系統に「田安家」の家督が戻り、斉匡の9男・慶頼(よしより)が5代当主に就任しました。
慶頼の頃は、ちょうど幕末の時代。「南紀派」として大老・井伊直弼の味方に回り、14代将軍に慶福(=家茂)を擁立すると、「将軍後見職」に就きました。
「将軍後見職」は、幼少の将軍を補佐する役職で、いわば「天皇における摂政」のような重職。4代家綱の代の保科正之、11代家斉の代の松平定信を前例として、井伊直弼が設けました。
しかし、豪腕な井伊直弼がグイグイ主導する世の中では、「将軍後見職」は空気みたいに存在感が無かったようで、慶頼の異母弟にあたる松平春嶽は「直弼の奴隷じゃん」と酷評した言葉を残しています。
文久2年(1862年)には島津久光の工作によって「将軍後見職」は一橋慶喜に取られてしまい(この時、春嶽は政事総裁職に任命)、慶頼は隠居を願い出て、長男の寿千代(ひさちよ)に家督を譲りますが、寿千代は慶応元年(1865年)に5歳で夭折。
3男の亀之助=家達(いえさと)が「田安家」7代となるのですが、慶応4年(1868年)になると「大政奉還→王政復古→江戸開城」を経て、慶喜が去ることになり、家達が徳川宗家の相続することを新政府から決定されたため、再び慶頼が「田安家」の当主となり、さらに息子の達孝が家督を受け継いで、明治に至っています。
◆一橋家
「一橋家」の家祖となったのは、9代将軍・家重、「田安家」初代・宗武の弟にあたる、吉宗の5男・宗尹(むねただ)。
「田安家」の宗武が聡明で勉学達者な文化人とすれば、宗尹は芸術肌で運動好きな趣味人。
鷹狩が好き過ぎて割当回数を兄の宗武から譲ってもらったり、お菓子を手作りして吉宗や家重に献上したりしています。
…同じく鷹狩が好きだった家基とは、どういう関係だったんですかね。あと、家重にお菓子を献上しているあたり、宗武とは違って、将軍との関係は疎遠ではなかったようです。
系図では省略していますが、宗尹の長男と3男は、越前福井藩に養子に出ています。家康の次男・結城(松平)秀康から続く血統が断絶してしまったので、その後を継いだわけですね。
しかし、この系統も断絶してしまって、将軍家斉の22男にあたる斉善(なりさわ)が養子入りし、これまた早死してしまった後、「田安家」斉匡の8男である慶永(よしなが)が跡を継いでいます。
慶永は、号を「春嶽(しゅんがく)」。「幕末四賢侯」の1人に数えられる人物です。先ほどの田安慶頼の節でも出てきましたねw
その「田安家」も、2代の治察が後継者のないまま亡くなり、血統が途絶えたのは、先にも話した通り(松平定信が、田沼意次の意向で跡を継げなかった、あの時です)
「田安家」3代となったのは斉匡でしたが、彼は一橋宗尹の孫にあたります。
斉匡の父は、「一橋家」2代当主の治済(はるさだ)。
10代将軍・家治の世子だった家基が急死してしまうと、長男の豊千代を将軍家の養子に入れ、11代将軍とすることに成功しています(=家斉)…というのは、「清水家」の節でも触れた通り(家基を暗殺したのは治済の可能性あるよね…なんて暴言までかましちゃいましたがw)
治済は幕政を主導していた田沼意次と交流を深めて親密な関係だったので、この将軍就任の裏には田沼の暗躍もあったものと思われます。
しかし、協調路線を取っていたのは表向きの話で、その実態は反「田沼派」の黒幕(笑)
家治が亡くなって家斉の時代になると、「息子と俺とで幕政をやる。田沼は用済みw」とばかりに排除に動き、田沼派を一掃。その政争を積極的に推し進めてくれた白河藩主・松平定信を抜擢しています。
将軍となった家斉は、父・治済を「大御所」にしようと考え、治済も満足げな表情を見せるのですが、ここで大事件が起きてしまいます。
当時の光格天皇(119代)は「閑院宮」家の出身で、皇統からは外れていたのですが、先代の後桃園天皇が後継者のないまま崩御したために、皇位を継いだ天皇でした。
当然、父の典仁親王は天皇経験者ではない、傍流の皇族。天皇の父にも拘わらず摂関家や大臣たちよりも官位が低く席次が離れていたので、光格天皇は「父に『太上天皇』の尊号を送りたい」と幕府に打診してきました。
ところが、老中の松平定信は、無下にも却下。
「天皇になってもいないのに『太上天皇』とするのは、泰平の世では先例がない。断じて認められない」。
「清きに魚も住みかねて」と歌に詠まれた定信の厳し過ぎる性格が見えてきそうですなw しかし天皇も簡単には引き下がらず、朝廷と幕府が「尊号」を巡って対立する事態になってしまいました(1788年「尊号事件」)
ところで、定信が「尊号追贈」を蹴った理由は、将軍・家斉の父・治済にとっても同じこと。「将軍になっていないのに『大御所』とするのは泰平の世では先例がない。断じて認められない」のです。
本当は、自分を抜擢した恩人の治済を「大御所」にしたい…でも、もしも認めてしまったら、定信はダブルスタンダードになってしまい、ただでさえ悪化してしまった朝幕関係が、さらに硬化してしまう恐れがあります。治済は「大御所」になるのを、諦めざるを得なくなってしまいました。
「定信…あの頭でっかちめが…」こうして治済・家斉父子の怒りを買った定信は、失脚の憂き目を見てしまうのでした…。
(ちなみに、10代将軍・家治の正室となった倫子女王もまた「閑院宮」出身で、光格天皇の叔母にあたります)
…本筋なんだか脱線したんだか分からなくなってしまいましたが(汗)、話を「一橋家」に戻して…。
治済は「一橋家」の世子に次男の治国(はるくに)を据えていたのですが、寛政5年(1793年)に亡くなってしまったため、3代当主となったのは、6男である斉敦(なりあつ)でした。
なお、治国には、彼が亡くなった年に長男の斉朝(なりとも)が生まれており、彼は義直の血統が断絶した「尾張徳川家」へ養子に出され、10代当主となっています。斉朝の死後、ろくな根回しもなく家斉の子たちが「尾張」に押し付け養子となり、現地が紛糾したのは、先にも触れた通り。
斉敦の後は長男の斉礼(なりのり)が継ぎますが、子のないまま亡くなったので、「田安家」の当主となっていた斉匡の4男・斉位(なりくら)が5代当主となります…が、これまた子がないまま亡くなり、12代将軍・家慶の5男・慶昌(よしまさ)が6代当主となりました。
家慶の子…ということは、『篤姫』の夫である13代将軍・家定に弟がいたのか…となるところですが、家定が将軍になる(1841年)より3年前、天保9年(1838年)に13歳で亡くなっています。
そこで再び田安斉匡の血統に戻り、一橋5代・斉位の下の弟にあたる慶壽(よしとし)が15歳で7代当主となりますが、弘化4年(1847年)に24歳で死去。
今度は家斉の孫(「田安家→尾張徳川家」と移っていった斉荘の次男)にあたる昌丸(まさまる)が、わずか1歳で8代当主になります。
当時の将軍は、病弱で子をもうけることを絶望視されていた、13代家定。「一橋家」の当主となるのは、次期将軍を狙える絶好の地位を獲得できることを意味しました。
昌丸は血統では「一橋家(紀州徳川系)」ですが、「尾張徳川家」当主の子として生まれ、出生地も尾張。まだ「将軍」を出したことがない「尾張徳川家」は期待をかけるのですが、当主となった翌年、昌丸は2歳で夭折…。
こうして「一橋家」が当主不在となったことで、将軍後継問題は再び浮上。これを憂慮した老中・阿部正弘は、「水戸徳川家」に目を付けます。
水戸9代藩主・斉昭(なりあき)の7男・昭致(あきむね)が英邁として知られ、彼を次期将軍に…と考えたのです。
こちらも将軍を出したことがない「水戸徳川家」から、初めて将軍が輩出される、またとないチャンス!斉昭はこの要請を承諾。
昭致は「一橋家」9代当主に就任し、名を改めて「一橋慶喜」となりました。
彼が"江戸幕府最後の"15代将軍「徳川慶喜」となるのは、ご存知の通り。
慶喜が宗家に移ってしまったので、「一橋家」の10代当主には徳川茂徳(もちなが)が就任して「徳川茂栄(もちはる)」となっています。
茂徳って誰…?というと、美濃高須藩の出身で、幕末に「会津藩主」で「京都守護職」を務め、図らずも「白虎隊」の悲劇で知られる「戊辰戦争」のラスボスになってしまった松平容保の兄に当たる人物。
幕末に一時期だけ「一会桑政権」というのが現れたのですが、「一橋家」「会津松平家」「桑名松平家」の連合で、桑名藩主の松平定敬(さだあき)も弟にあたります。
「尾張徳川家」の藩主となった兄の慶勝を含めて「高須四兄弟」と呼ばれるのですが、彼ら実は「水戸徳川家」の血統。
慶喜の大叔父にあたる義和が高須藩に養子として入り、その子孫だったわけで、幕末の動乱期に近しい親戚筋として、連携を取った…というわけなんですねー。
ともあれ、「一橋家」は昌丸の夭折により、家祖「宗尹」の血統は絶えて、慶喜→茂栄と「水戸徳川家」の血筋となってしまいました。
しかし、宗尹の孫にあたる斉匡が「田安家」に入っていたことで、「一橋家」の家祖の血筋は、「一橋家」からは消えながら「田安家」で受け継がれているわけです。
まとめてみると、「紀伊徳川家」から吉宗が将軍となって「御三卿」を作り、幕末には「将軍」と「一橋家」「清水家」が「水戸徳川家」から招かれている。
そして、「尾張徳川家」は、藩祖・義直の系統が断絶して、「一橋家」「家斉の子」たち「紀州系」が継いだ後、「水戸系」の慶勝が藩主となっている。
「紀州系」と「水戸系」は、家祖の子孫が幕末まで続いている。
こうやって見ると、江戸時代後半の「将軍」「御三家」「御三卿」は、紀州系と水戸系で占められていることが分かります。
家康の子で、同母兄弟だった頼宣と頼房。江戸時代は彼らの子孫の物語だったんだな…というのは、かなり要約し過ぎなお話ですかねー。
というわけで、予想通りかなり長くなってしまいましたが、今回は以上。
「御三卿」の歴史を語ると、そのまま江戸時代後半の歴史になってしまいますね…。
系図で見てみよう(徳川将軍家)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11445475322.html