去年の大河ドラマ「平清盛」を取りあげるにあたり、当ブログでは「平安時代の天皇家」についての系図を、初期の段階でご紹介しました。

 

「平安時代を知るには、歴代の天皇家を見るのが近道だろう」と思ったからです。


系図で見てみよう(天皇家/平安時代概要)(参考)
http://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11233015146.html

 

それを、今年の大河ドラマの舞台である幕末に当てはめてみると、歴代の征夷大将軍になるのではなかろうか。

 

つまり、徳川家の系図を紹介しておくと、後々何かと便利なのではなかろうか・・・・と予想したわけです。

そこで、今日は江戸時代の「徳川家」を、将軍職の継承を中心に見てみようかと。そういう試みですw

 

 

というわけで、さっそく系図で確認してみると、このようになっています。

 

 

 

江戸時代250年。15代。さすがに長い(笑)

 

見づらくなっていたらゴメンなさいね・・・・。

 

 

流れは系図を見てもらうとして、ここでは「長子継承」がなされていないところを、ちょいちょい解説していきます。

 

 

■4代・家綱→5代・綱吉→6代・家宣

 

4代・家綱は、病弱なタチだったようで、延宝8年(1680年)、後継ぎを儲けないまま、39歳で死去。

「長子相続」の原則に添えなくなってしまいます。

 

そこで、「宮様を招こうかー?」という声もあったのですが、家綱の弟で館林藩主となっていた綱吉が将軍として選ばれます。

 

しかし、坊主の「戌年生まれだから犬を大切にすれば男の子が授かるよ!」という言葉を信じたと言われるほど、綱吉も嫡男の徳松が4歳で夭折していたのを最後に男の子に恵まれませんでした

 

そこで、甲斐甲府藩主になっていた弟・綱重の子である綱豊を養子に迎え、6代将軍・家宣として就任させることになります。

 

 

■7代・家継→8代・吉宗

 

7代将軍・家継は4歳で将軍に就任した、最年少記録保持者。

 

しかし、8歳のときに風邪をこじらせて、肺炎を起こして死亡。

 

家康-秀忠-家光ラインの血統は途絶えてしまいます。

 

 

ここで、「暴れん坊将軍」で有名な8代・徳川吉宗が登場。

 

家康は、「直系が絶えたら、後継ぎは御三家から」という「血のスペア」を用意していました。

 

江戸幕府中興の祖と讃えられる名君は、御三家の1つ「紀州徳川家」から迎えられることになりました。

 

ちなみに、御三家と言うのは「尾張徳川家」「紀伊徳川家」「水戸徳川家」のこと。

 

「尾張」は家康9男の義直(よしなお)、「紀伊」は家康10男の頼宣(よりのぶ)、

「水戸」は、家康の11男にあたる末っ子の頼房(よりふさ)が祖。

いずれも家康の子から分かれた一族なので、この時代には徳川宗家から「やや遠い存在」になっていました。

 

そこで、吉宗は新しく「血のスペア」を用意することを思いつきます

 

長男・家重を次代将軍とすると、残り2人の息子は「田安家」「一橋家」を創設。

 

9代・家重もそれにならい、長男・家治を次代将軍にし、次男の重好には「清水家」を創設させました。

 

この「田安」「一橋」「清水」を、「後三卿」と呼びます。

 

 

■10代・家治→11代・家斉/13代・家定→14代・家茂→15代・慶喜

 

 

家治には息子・家基がいたのですが、鷹狩りの際に具合が悪くなって倒れ、そのまま亡くなってしまったので、後継ぎがいません。

 

そこで、祖父・吉宗が用意してくれた「血のスペア」の1つ、一橋家から養子をとって、11代将軍・家斉として後を継がせました。

 

※追記:10代将軍・家治と「御三卿」については、詳しくまた紹介しておりますので、宜しければこちらをご覧ください♪

 

系図で見てみよう(徳川家/御三卿)(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12845256739.html

 

家斉の孫にあたる13代・家定は、篤姫の嫁ぎ先として有名。

 

病弱で、脳性麻痺という障害をおっていたため、子宝に恵まれないまま亡くなってしまいます。

 

後継者は、水戸徳川家出身で、現在は一橋家に養子に入っていた一橋慶喜と、紀州の徳川慶福と、どっちが相応しいか?

 

この選択で、大老・井伊直弼と烈公・水戸斉昭がモメるというのは、幕末ドラマではおなじみの光景。

 

この時、井伊大老が慶福を推す言い分は、「お血筋が大事!」というものなのですが、これを「水戸より紀州のほうが血筋が本家に近い」という意味だと思っていません?

 

実は、慶福は11代将軍・家斉の孫にあたる人物でして、このことを表わしているんです。

 

慶福の父・斉順は家斉の子で、紀州家に養子に入っていたのです。

 

3代だけ遡れば将軍(家斉)に辿り着ける慶福と、10代も遡らないと将軍(家康)に辿り着かない慶喜、どっちが血筋がいい?と聞かれたら、慶喜派は黙るしかありません。

 

かくして、慶福が後継ぎに選ばれ、14代・家茂として就任することになります。

 

家茂が大坂城で若くして亡くなった後、慶喜が将軍につき、これが最後の将軍となったのは、ご存知の通り。

 

 

というわけで、かなり急ぎ足ですが、徳川十五代がどのように継承されていったかについて、触れてみました。

 

それだけで終わってしまったな・・・・。

 

この系図、実は作るのに正味4時間半もかかっているので、これだけで終わらせるのは、なんかイヤ(笑)

 

というわけで、そのうち続きというか、捕捉というか、別の話題というかで使いたいと思います。

 

もしかしたら、オタノシミニw

 

 

 

※おまけ

徳川家康の子供たちを紹介。いや、需要はあるだろうと思いつつも、系図に描き切れなかったから…(^^;

 

徳川家康の子女
名前 生没年 備考
信康 1559-1579 築山殿 長男。
亀姫 1560-1625 築山殿 長女。奥平信昌室
督姫 1565-1615 西郷局 次女。北条氏直・池田輝政室
秀康 1574-1607 小督局 次男。結城家・越前松平家
秀忠 1579-1632 西郷局 三男。2代将軍
忠吉 1580-1607 西郷局 四男。→東条松平家
振姫 1580-1617 お竹の方 三女。蒲生秀行・浅野長晟室
信吉 1583-1603 下山殿 五男。武田家・佐倉藩主→水戸藩主(御三家とは別)
忠輝 1592-1683 茶阿局 六男。長沢松平氏→改易
松千代 1594-1599 茶阿局 七男。
仙千代 1595-1600 相応院 八男。
義直 1601-1650 相応院 九男。尾張徳川家祖。
頼宣 1602-1671 養珠院 十男。紀州徳川家祖。
頼房 1603-1661 養珠院 十一男。水戸徳川家祖。
松姫 - お梶の方 四女。詳しいことは不明。
市姫 1607-1610 お梶の方 五女。伊達忠宗婚約

ちなみに、家光(家康の孫。三代将軍)は1623年生まれです。さすがに孫より若い子女はいなかったかw