ルシオール リサイタル・シリーズ vol.1
小林愛実 ピアノ・リサイタル
【日時】
2021年1月9日(土) 開演 14:00 (開場 13:30)
【会場】
守山市民ホール 小ホール (滋賀県)
【演奏】
ピアノ:小林愛実
【プログラム】
ショパン:ポロネーズ 第7番 変イ長調 「幻想」 Op.61
ショパン:バラード 第2番 ヘ長調 Op.38
ショパン:ワルツ 第5番 変イ長調 Op.42
ショパン:アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ Op.22
ショパン:24のプレリュード Op.28
※アンコール
ショパン:ノクターン 第20番 嬰ハ短調 遺作
ショパン:幻想即興曲 嬰ハ短調 Op.66
下記リブログ元の記事に書いていたピアニスト、小林愛実のコンサートを聴きに行った。
彼女の弾くオール・ショパン・プログラム、それも前回2015年のショパンコンクールで弾いた数多くの曲と一つも重なっていない新たなレパートリー、となると聴き逃すわけにはいかない。
ソーシャルディスタンス仕様ではあったが、客席は満席であった。
以前、私は日本を代表する(と勝手に考えている)ショパン弾きを5人挙げたことがあった(その記事はこちら)。
私はさらにその5人を“陽”と“陰”の2つのタイプに分類し、前者に山本貴志・中川真耶加・藤田真央を、後者に鯛中卓也・小林愛実をあてたい(なお、この記事のときにはまだ知らなかったピアニスト進藤実優は、おそらく後者だろう)。
有り体に言うと、“陽”のピアニストは明るい音楽を、“陰”のピアニストは悲しい音楽を奏でる人のことである。
藤田真央はインタビューで「悲しい音楽を弾くのが苦手」と正直にも語ったというが、それを得意とするのが小林愛実である。
小林愛実の音は、私には往年の名ピアニスト、アルフレッド・コルトーを想起さす。
最盛期のコルトーの生演奏を聴いた音楽評論家、野村光一のコルトー評は、以前の記事に引用した(その記事はこちら)。
小林愛実の音も、まさにこのような音なのである(コルトーはさらに華があったのかもしれないが)。
今回のホールのピアノはスタインウェイにしては地味な音色であり(守山でスタインウェイが聴けるだけでもありがたいが)、またホールの残響はかなりデッドであった。
そのような難しい環境下にあって、彼女の音のなんと美しく光り輝いていたことか。
例えば、「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」。
この曲は、私は長らくクレア・フアンチの演奏が唯一無二と思ってきたし、見事な実演を聴く機会にも恵まれた(その記事はこちら)。
しかし、今回の小林愛実の演奏はフアンチに匹敵するか、あるいはひょっとすると上回ってしまうかもしれないほどの美しさだった。
アンダンテ・スピアナートのたゆたうような左手の伴奏音型に続く右手のメロディは、野村光一のコルトー評をそのまま借りたくなるような、「カクテルに酔ったように、陶然となっ」てしまう音色、歌い口であった。
フアンチ(彼女は“陽”のピアニスト)の一点の曇りもない晴れやかな演奏には含まれていなかった「憂」「華」(はたまた「毒」?)の成分が、聴き手をよりいっそう深い酔いに誘うのかもしれない。
右手の細やかなアルペッジョの繊細さも、どう形容したらよいものか。
そして続く大ポロネーズ、ここで夢から覚めたように躍動感をみせるフアンチに対し、小林愛実はもっと夢を見ていたいとでも言わんばかりの、きわめてエモーショナルな、蠱惑的な演奏をする。
その魅力には、なんとも抗しがたい。
また、後半の「24のプレリュード」。
きわめてバランスのよい形式感覚を身につけたショパンが、あえてそこから飛び出そうとしたかのような、シューマン風の断片的な小曲が並ぶ異色作である(それでもバッハ風に調性を全てそろえて形式を整えようとするところがショパンらしい)。
この風変わりな作品の魅力は、私は鯛中卓也の演奏を聴くことで初めて理解できたのだが(その記事はこちらやこちら)、今回の小林愛実の演奏はそれに並ぶものであった。
エチュードと違い、ただ整然と弾きこなしてもあまり面白くないこの曲集は、“陰”のピアニストたる彼女の面目躍如。
特に、第2、4、9曲、あるいは有名な第15曲「雨だれ」の中間部後半、こうした一見地味で聴き過ごしてしまいがちな曲において、彼女はショパンの「慟哭」を見事に表現する(殊に左手の雄弁なこと)。
第13番の中間部の、儚い思い出か何かのような、得も言われぬ美しさも忘れがたい。
現在聴きうる最高の「24のプレリュード」だと思う。
上述の通り新しいレパートリーということもあってか、全体的にミスや暗譜飛びはけっこう多かったが(そういうことをあまり気にしないのもコルトー的か)、そうした箇所で少し酔いから覚めるものの、またすぐに酔いに引き戻されてしまう。
音楽評論家の吉田秀和は、名ピアニストのグレン・グールドの演奏を以下のように評した。
“彼のレコードをきいている時、私は、ある時は必死になって、その音をおいかけ、できる限りの力でもって、≪この≫音楽について、また≪音楽≫について、考えようとする。私は、そのために音におぼれず、音に酔わず、自分をできる限り透徹した意識で目ざめた状態においたまま、考えようとする。ところが、そういう努力をしているその時間こそ、音楽が終わってふりかえってみると、私は一番深く音に酔い、音に没頭し、音楽に憑かれていたのである。”
小林愛実は、これとは逆のタイプのピアニストであろう。
もっと直接的、感覚的に、音におぼれさせ、音に酔わせる。
彼女の内声の処理法などきわめて工夫を凝らされていて、分析的に聴いても大変優れた演奏だが、それでも聴き手が揺さぶられるのは、もっと個人的な感情の内奥である。
彼女のような“陰”のピアニストは、その魅力を録音に収めることが特に難しいように思う(鯛中卓也や進藤実優も同様)。
あれほど揺さぶられた感情を、後から録音で確認しようとしても、間接的にしか思い出せないことが多い。
同じタイプと思しきピアニスト、プレトニョフの実演を聴いたときにも、同様のことを感じた(その記事はこちら)。
そしてそれは、きっとホロヴィッツも、そしてコルトーも同じだったのだろう(今となっては確認する術がないけれど)。
上述のように分析的、覚醒的な聴き方を好んだ吉田秀和も、1986年のホロヴィッツ来日時の演奏には、「涙した」というようなきわめて感情的な評し方をした(いま原文が手元にないので引用できないが)。
こうした、聴き手一人一人の心の奥の感情的、本能的な部分に訴える演奏をするピアニストは、できるだけ生で聴きたいと思う。
(画像はこちらのページよりお借りしました)
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