古海行子ピアノリサイタル ~桑田歩氏を迎えて~
【日時】
2020年12月17日(木) 開演 19:00 (開場 18:30)
【会場】
ヤマハホール (東京・銀座)
【演奏】
ピアノ:古海行子
チェロ:桑田歩 *
【プログラム】
J.S.バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903
ラヴェル:夜のガスパール
シューマン:アダージョとアレグロ 変イ長調 Op.70 *
ショパン:チェロ・ソナタ ト短調 Op.65 *
※アンコール
ラフマニノフ:ヴォカリーズ(チェロ&ピアノ版) *
こんなご時世だが、下記リブログ元の記事に書いていた古海行子のコンサートを聴きに行った。
彼女の弾く「夜のガスパール」やショパンのチェロ・ソナタを聴き逃すわけには、どうしてもいかなかったのである。
ソーシャルディスタンス仕様ではあったが、客席は後ろの方までほぼ埋まっており、彼女の人気の高さが窺える。
最初の曲は、バッハの半音階的幻想曲とフーガ。
この曲のピアノ版で私の好きな録音は
●シフ(Pf) 1973年セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●シフ(Pf) 1982年12月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●シフ(Pf) 1989年セッション盤(DVD)
●ラ・サール(Pf) 2004年12月セッション盤(NML/Apple Music)
●千葉遥一郎(Pf) 2018年11月11日浜コンライヴ盤(CD)
あたりである。
今回の古海行子の演奏は、バロックらしい優雅な趣のあるシフとも、ロマン的な風味を持つラ・サールや千葉遥一郎とも違う。
色彩的というよりもむしろモノクロームな、まっすぐに音楽の核をとらえた、求道的ともいうべき解釈だった。
五嶋みどりの弾くバッハの無伴奏ヴァイオリン曲にもたとえられようか。
ラ・サールや千葉遥一郎に聴かれる自由なファンタジーや情熱的なアッチェレランドも大変に魅力的なのだが、古海行子はそのように、感興に任せて思うまま指を走らせることを良しとしない。
淡々とした、それでいて深い感動を湛えた彼女の演奏は、さながらバッハの音楽の福音を伝える巫女の言葉のよう。
彼女がバッハの音楽にみるのは、バロックでもなければロマンでもない、もっとまっさらで普遍的な何かかもしれない。
次の曲は、ラヴェルの「夜のガスパール」。
この曲で私の好きな録音は
●ポゴレリチ(Pf) 1982年10月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●ロルティ(Pf) 1988年セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●シュフ(Pf) 2008年9月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●グロヴナー(Pf) 2011年4月23-26日セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●ノ・イェジン(Pf) 2015年11月24日浜コンライヴ盤(CD) ※「スカルボ」のみ
●天川真奈(Pf) 2015年11月25日浜コンライヴ盤(CD) ※「オンディーヌ」のみ
あたりである。
この曲でも、やはり古海行子のアプローチは禁欲的なものだった。
第1曲「オンディーヌ」、ラヴェルのピアノ曲で私の最も好きな曲だが、この演奏はやや清潔にすぎるというか、もう少し「毒」があっても良かったかもしれない。
ベルトランの詩の世界(こちら)、すなわち夜空を映す湖面の揺らめき、オンディーヌ(水の精)の無邪気な妖しさ、クライマックスへ向けて畳みかける切迫感、そして嗤い泣くオンディーヌがくるりと身を翻して去るコーダ、こうした幻想的な表現があると良かった(こうした点においては、オンディーヌそのものともいうべき上記の天川真奈の演奏が秀逸)。
とはいえ、そうしないのが古海行子らしいとも言える。
凄まじいクライマックスを創出するポゴレリチ(彼の迫力たるや「水の精」というよりむしろ「水の魔王」ともいうべきものだが)などとは全く対照的に、彼女はあくまで端正な、純音楽的な音楽づくりをする。
いつもながら完成度も高く、右手の和音伴奏音型と左手の旋律との描き分けがうまいし、最後の分散和音の繊細さなど上のどの名盤にも勝るほどだった。
第2曲「絞首台」、第3曲「スカルボ」はさらに見事。
曲の持つグロテスクさを殊更に強調しない分、かえって曲の凄みがダイレクトに伝わってくる(彼女の弾くショスタコーヴィチのピアノ・ソナタ第1番の名演を思い出す → 演奏動画はこちら)。
最弱音で鳴らし続けられる低音部の同音連打、また最強音へ向けてムラなく均質にクレッシェンドされていく低音部のトリル、そして緻密かつ大きな流れで形作っていくクライマックス部分、こうした箇所でのストレートな雄弁さが印象に残った。
休憩をはさんで後半の曲は、シューマンの「アダージョとアレグロ」(チェロ版)と、ショパンのチェロ・ソナタ。
これらの曲で私の好きな録音は
●ロストロポーヴィチ(Vc) アルゲリッチ(Pf) 1980年3月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
あたりである。
2人の巨匠による一期一会の名演であり、それから40年経った今でもこれを超える録音を私はまだ見つけていない。
ただ、ショパン晩年の作であるこの曲にしては、彼らの演奏はややゴージャスに過ぎるようにも感じていたのだが、今回の古海行子らの演奏を聴いて、より明確にそのことを意識するようになった。
古海行子らは、全体的に落ち着いたテンポや表現を採る。
第1楽章コデッタなど、もう少し急き込んだ感じを出してほしい気もしたけれど、それでも展開部に入り、ショパン晩年特有の精妙きわまりない転調がじっくりと丁寧に奏されるのを聴くと、そのあまりの美しさに、これこそがこの曲にふさわしい表現なのではないかと思えてくる。
そう、これはシューマンのヴァイオリン協奏曲と同じ、最晩年の世界。
緩徐楽章は、感傷を突き抜け平静に至った、心の歌。
終楽章は、アルゲリッチによるラプソディックな激しいタランテラも魅力的だけれど、古海行子の弾く、第1主題に基づく経過句のそこはかとない転調の美しさには、強く心打たれずにいられない。
そしてコーダは、アルゲリッチの華麗な名人芸による輝かしい凱歌とは違った、やはりシューマンのヴァイオリン協奏曲の終楽章と同様の、叫ぶことも急くこともない、真の心の平穏に達した、平明で朗らかで、優しくも決然とした、ショパンのこの世への決別の歌である。
彼女のこうした抑制的で感動的な表現は、同じくショパン晩年の作、ノクターン第18番の演奏でも聴かれる(演奏動画はこちら、動画の54:50~)。
功成り名遂げた老大家の円熟とはまた違った、若い人が大作曲家の晩年の境地に捧げる深い敬意、とでも言えようか。
若きポリーニが弾いたベートーヴェン後期ソナタのような、みずみずしい誠実さがここにはある。
なお、チェロの桑田歩は、洗練というよりは素朴といった印象で、第1楽章の第2主題など古海行子に呼応するような繊細な弱音は望むべくもないけれど、それでも飾り気のなさという点では古海行子の音楽に全く共通していたのが良かった。
アンコールは、ラフマニノフのヴォカリーズ。
桑田歩のチェロによる、ヴィブラートを(ときにポルタメントさえ)用いてたっぷりと歌われるメロディが何度か繰り返されたのち、最後の方で古海行子のピアノが同じメロディをきわめて清廉に奏する、その鮮やかなコントラストの美しさといったらなかった。
(画像はこちらのページよりお借りしました)
↑ ブログランキングに参加しています。もしよろしければ、クリックお願いいたします。