ミハイル・プレトニョフ ピアノ・リサイタル | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

ミハイル・プレトニョフ ピアノ・リサイタル


【日時】

2016年7月2日(土) 開演15:00  (開場 14:15)


【会場】

兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール


【演奏】

ピアノミハイル・プレトニョフ


【プログラム】

J.S.バッハ/リスト:前奏曲とフーガ イ短調 BWV543
グリーグ:ピアノ・ソナタ ホ短調 op.7
グリーグ:ノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード op.24
モーツァルト:ピアノ・ソナタ ニ長調 K.311
モーツァルト:ピアノ・ソナタ ハ短調 K.457
モーツァルト:ピアノ・ソナタ ヘ長調 K.533/494


●アンコール
リスト:愛の夢 第3番






この演奏会は、私はそれほど期待していなかった。

特に、プレトニョフがステージによぼよぼとゆっくり歩いて登場したときには。

高齢といっても、まだ59歳くらいのはずなのに、なぜあれほどおぼつかない足取りなのだろうか。

しかし、彼がピアノに向かい、演奏を始めた途端、私の予想は良い意味で完全に裏切られた。

バッハ作、リスト編の前奏曲とフーガ、この曲はリーズ・ドゥ・ラ・サールの録音のような、バッハらしい端正な演奏が本来好きである。

プレトニョフの演奏は、それとは対極にあるような、きわめてロマン派的なスタイルであった。

しかし、何という演奏であったことか。

この前奏曲、右手はずっと16分音符か、または三連符が連なったパッセージが延々と続き、ともすると単調になってしまうだろう。

これをプレトニョフが奏すると、実に細やかな情感を湛えた、きわめて美しい無限旋律となる。

冒頭の右手だけの部分、ここからしてあまりに美しく、曳き込まれてしまった。

そして、オルガンのペダルを模した低音部の一撃、その存在感といったら!

後半のフーガ、これこそ本来ロマン派的な解釈が全くそぐわない、純粋にバロック的な形式のはずだが、ここでもプレトニョフはぶれることなく、彼自身の解釈を押し通す。

こういったロマン的なスタイルでありながら、その音楽は騒々しさからはかけ離れた静謐なものであり、かつ細部までこまやかな表現が尽くされ、全く素晴らしいというほかないバッハに仕上がっていた。

同じことが、その後の曲目でもずっと感じられた。

特に素晴らしかったのが、グリーグのピアノ・ソナタ。

この曲はアンスネスのCDで聴き慣れており、淡白でストレートな曲だと思っていた。

これが、プレトニョフの手にかかると、もう全く違う曲といってよかった。

冒頭から細かなルバート(テンポの揺れ)の連続であり、ソナタというよりは幻想曲といった印象なのだが、それらが全て実に堂に入った表現なのである。

ロマンの極致であり、ロマン派の作曲家としてのグリーグの魅力が存分に引き出されてやまない。

そして、その音色の美しいこと!

透明な美しさというよりは、むしろあでやかな色彩をもった美しさである。

昨日のロマノフスキーの演奏で、それほど音の通りが良いわけでない印象をもった旨を昨日のブログで書いたが、プレトニョフの場合は全く対照的に、弱音であっても音が実によく通るのである。

そのため、弱音で奏でられる繊細なメロディは、大きな存在感をもって私たちの心に届いてくる。

マエストロの、マエストロたるゆえんである。

こういったことは、録音では分かりにくく、かけがえのない実演の良さである。


プレトニョフの美しい音色や音の存在感、ロマンティックな様式は、私にはかの往年の大ピアニスト、ヴラディーミル・ホロヴィッツのそれを強く思い起こさせた。

プレトニョフは、ホロヴィッツの後継者といっても良いのではないだろうか。

ホロヴィッツの演奏は、もし実演で聴いたなら、最良のときには全く想像もつかないような魔力的な美しさをもっていただろう。

その点では、プレトニョフは及ばないかもしれない。

逆に、細部の表現へのこだわり、徹底という点では、プレトニョフのほうが優っているだろう。

しかし、この2人には明らかに共通点がある。

それは、ロシアの血といってもいいかもしれない。

それも、リヒテルのようなタイプとはまた違った類のもの、19世紀に強く根ざした、満たされない憧れの極致ともいうべきものである。