今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。
「好きな作曲家100選」シリーズの第7回である。
前回の第6回では、13世紀後半のフランスの作曲家、アダン・ド・ラ・アルのことを書いた。
そのあと14世紀、ゴシック期も後半になると、フランス王国はますますの発展を遂げた。
王の後継争いから百年戦争が勃発したり、ペストが流行したりと苦しい局面もあったが、それでも14世紀の間はまだ首都パリの繁栄に翳りはみられず、ヨーロッパ随一の、また世界でも5本の指に入る都市となった。
ずっと辺境の地だった西ヨーロッパが、ついに世界的な都市を持つに至ったのである。
そんな14世紀フランスを代表する作曲家が、フィリップ・ド・ヴィトリ(1291-1361)とギヨーム・ド・マショー(1300頃-1377)の2人である。
ダンテが「神曲」を書き上げて間もなく世を去った翌年の1322年、ヴィトリは「アルス・ノーヴァ」(新技法)という題の音楽理論書を著した。
それまではモード・リズムと呼ばれる決まったリズムパターンが用いられていたが、彼はもっと自由にリズムを書き表せる方式を提唱したのだった。
「アルス・ノーヴァ」発表当時、教皇ヨハネス22世がこれを非難するなど、現代の私たちが思いもよらぬほどの大論争が巻き起こった。
自由に書き表せることでリズムが複雑化し、音楽が独り歩きして聖歌の歌詞が疎かにされるのでは、という宗教上の懸念による。
しかし、結局はこの新技法が定着していくこととなる。
それに伴い、この時代の音楽様式はのちに「アルス・ノーヴァ」と名付けられた。
さて、アルス・ノーヴァの作曲家として、ヴィトリとマショーを2人とも取り上げたいところだが、欲張ると作曲家選が容易に100人を超えてしまうため、ここはどちらか選ばねばなるまい。
悩ましいが、私はヴィトリのほうを選ぶことにする。
こう言うと、驚かれるかもしれない。
マショーの作品は数多く残されているのに対し、ヴィトリのほうはほとんど散逸し、現存するのはたったの十数曲、それもモテトゥスのみ。
それに、マショーの「ノートルダム・ミサ」は一人の作曲家による通作多声ミサとしては最初のものであり、そんな歴史的作品を省いてよいものかどうか。
しかし、現代ではマショーのほうが圧倒的に知名度が高いものの、当時2人は並び称されており、むしろフランスを代表する作曲家はどちらかというとヴィトリのほうであった。
彼はパリ大学で広範な教育を受けたとみられ、その後シャルル4世、フィリップ6世、ジャン2世とカペー朝からヴァロワ朝にまたがる3代のフランス国王に書記官として仕えながら曲を書き、またアヴィニョンの教皇庁にも出入りし、晩年にはパリのやや東にある町モーの司教になるなど、政治・芸術・宗教と幅広い分野で活躍した。
同時代の詩人ペトラルカは、ヴィトリのことをフランスが所有する唯一の真の詩人と評したという。
彼の数少ない現存作品の一つ、モテトゥス「厚かましく訪れた/力によって」(Impudenter circuivi - Virtutibus Laudabilis)。
どこか厳めしい印象のあるマショーの音楽と違って(マショーはマショーで良いのだが)、ヴィトリの音楽は、モテトゥスのように複雑でアカデミックな形式の曲であっても優美に柔らかく響く。
佳きフランスを味わわせてくれる彼の音楽は、私にはたまらなく魅力的に聴こえる。
ゴシック期(13~14世紀)を通じてヨーロッパ第一の都市として発展し続けたパリの隆盛は、この頃に頂点に達した。
もちろん、現代に至るまでパリは文化都市として生き続けているが、このときほどパリが他のヨーロッパ諸都市を大きく引き離して栄えたことは、後にも先にもなかった。
音楽においても、ゴシック期にはパリの大聖堂でノートルダム楽派が興り、パリの宮廷でトルヴェールが歌い、パリ大学でアルス・アンティクアが発展し、パリで学びパリで仕官したフィリップ・ド・ヴィトリがアルス・ノーヴァを展開し、とほとんど常にパリが最先端であった。
当時のヨーロッパ人に「音楽の都は?」と尋ねたら、もちろんウィーンではなく、パリという答えが返ってくるだろう。
この後ルネサンス期になると、パリは突出した音楽の中心地の座から退き、代わりに他地域・他国各地の音楽が花開き始める。
なお、好きな作曲家100選シリーズのこれまでの記事はこちら。
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