今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。
HMVのサイトで、「許光俊の言いたい放題」というクラシック音楽のコラムが連載されているけれど、昨日その第261回「シーザーとブルックナー」が掲載された(こちらのページ)。
ウィリアム・クリスティ指揮のヘンデル「ジュリアス・シーザー」や、ラトル指揮のブルックナー交響曲第8番について書かれたのち、ラトル指揮ベルリン・フィルによる「アジア・ツアー」というCDについて触れられている。
ここで、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」という曲について、許光俊は下記のように書いている。
“「ペトルーシュカ」は、なるほど題材こそロシア的だけれど、ラヴェルの怪奇趣味の延長にある作品なのかと思わされる。この曲を聴いておもしろい、わくわくする、そう思うことは多いが、美しさに打たれることはあまりない。その点でユニークなのだ。”
この記載は、きわめて妥当な記載だと思う。
けれど、私には少し引っかかった。
なぜなら、私はこの曲がグロテスクであると同時に、大変美しいと思うからである。
私は、ラトル指揮ベルリン・フィルによる「ペトルーシュカ」の演奏を生で聴いた(そのときの記事はこちら)。
その演奏では、確かに許光俊の書いたように、美しいというよりもわくわくするような躍動感が前面に出ていたように思う。
その意味でも、許光俊の記述は妥当である。
しかし、この曲は、以前「現代音楽」が嫌いだった私に、その美しさに気づかせてくれた曲なのである(100年以上前に書かれた曲であり、「現代音楽」とよぶのは少し憚られるけれど)。
開眼させてくれた演奏は、ブーレーズ指揮ニューヨーク・フィルのCDである。
この曲の冒頭。
四度の跳躍音型が特徴的なフルートのメロディ、なだらかな4つの音の下行音型が特徴的なチェロのメロディ、そしてそれらの合間を縫って流れる、各楽器によるトリル風音型。
このトリル風音型は、「ラソラソラソラソ……」と「レミレミレミレミ……」が重なり、その後「ラソレミラソレミ……」や「レミラソレミラソ……」になったり、「♭シド♭シド♭シド♭シド……」が重なったりしながら、少しずつ盛り上がっていく(これらは全て音名表記)。
そして、fff(フォルテ3つ)によるトゥッティ(総奏)に達するのだが、このほんの1分ほどの間だけでも、これらの音型の複雑かつ巧妙な絡み合いによって不思議な響きが次々と生み出され、まるで燦々とした光が溢れていくかのよう。
「ファ」の音が長らく回避され、ニ短調なのかニ長調なのか、調性感があいまいにされているのも効果的である。
トゥッティに至る頃には、あまりのまばゆさ、あまりに透明な光の氾濫に、目もくらむような感動を覚えてしまう。
しかも、これはまだ序の口であり、その後も数十分間にわたってめくるめく展開が待っているのである。
ストラヴィンスキーは、たくさんの絵の具を混ぜるのでなく、それぞれ独立に原色で使用することで光の明るさ、まばゆさを表現する印象派の画家のようなやり方で、音楽を書いた。
そのことを私に教えてくれたのが、上記ブーレーズ盤である。
ブーレーズは、それぞれの「色」を混ぜることなくはっきりと分離させ、美しい「光」を表現してくれる。
また、昨年聴いたカンブルランのコンサートもまさにそのような演奏であり、冒頭の1分で早くもあまりの美しさに鳥肌が立った(そのときの記事はこちら)。
こういう美しさに気づいてからは、私はストラヴィンスキーのみならずシェーンベルクもベルクもヴェーベルンも、あるいはもっと後の現代音楽作曲家たちの作品も、すんなりと受け入れられるようになったのだった。
現代音楽は、ともすると「美しくなく」響いてしまう、古典派やロマン派以上に「演奏を選ぶ」音楽だと私は思っている。
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