TDKオーケストラコンサート2017
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 来日公演
【日時】
2017年11月25日(土) 開演 14:00
【会場】
サントリーホール (東京)
【演奏】
指揮:サイモン・ラトル
管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(コンサートマスター:樫本大進)
【プログラム】
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシュカ」 (1947年版)
陳銀淑(チン・ウンスク):Chorós Chordón
(ベルリン・フィル委嘱 2017年11月ベルリンにて世界初演)
ラフマニノフ:交響曲 第3番 イ短調 Op.44
※アンコール
プッチーニ:歌劇「マノン・レスコー」 より 間奏曲
ベルリン・フィルの来日公演を聴きに行った。
ラトル&ベルリン・フィルのコンビとしては、おそらく最後の来日公演(少なくとも彼の任期では最後)。
同コンビの初来日を聴いた身としては、やはり最後も聴いておきたいし、大好きな「ペトルーシュカ」をやってくれるということで、13年ぶりに彼らの演奏を聴くことにしたのだった。
久しくベルリン・フィルの生演奏を聴いていなかった私に、先日書いたベルリン・フィルについてのブログ記事(こちら)のコメント欄で、ベルリン・フィルは「マッチョな感じ」の演奏だとお教えいただいた。
今回実演を聴いてみて、まさにその通りの感想を持った。
最初のプログラムの「ペトルーシュカ」、この冒頭からして、もう他のオーケストラとは音の大きさが全然違う。
サントリーホールが何とも狭く感じられるほどの大きな音が、余裕を持って各楽器から鳴らされる。
そして、一人一人の奏者が大変うまく、まるで「管弦楽のための協奏曲」のような様相を呈している。
ラトルの解釈は、基本的には彼のバーミンガム市響との録音と同じく、大変に速いテンポを要求するものだし、また各楽器にかなり細かい表情付けやテンポの変化を指示していたが、各奏者はその指示に完璧に応えていた。
フルートのエマニュエル・パユ、彼は世紀のフルーティストだと私は思っているが、彼が全盛期の2000年前後にアバド指揮で録音したモーツァルトのフルート協奏曲やマーラーの交響曲第9番ほどの、あまりにもみずみずしく芳醇な美しさはもはや聴かれなかったものの、朗々たる音色と冴えわたる技巧とで際立っていた。
クラリネットのヴェンツェル・フックスも、ときに力強くときに繊細に、大変細やかにニュアンスを表現していた。
オーボエのアルブレヒト・マイヤーもそうだし、ホルンのシュテファン・ドールとトランペットのタマシュ・ヴァレンツァイもこれ以上望めないほど安定感のある演奏を聴かせてくれた(特に後者の、第3部「ムーア人の部屋」での活躍は見事なものだった)。
弦も、第1部冒頭「謝肉祭の日」における低弦の「ザッザッザッザッ」という刻みだとか、第4部の中ほどの「愉快な商人とジプシー女たち」におけるヴァイオリン群の音階上行およびスタッカートのキレ味など、いずれの箇所も超一級だった。
この「愉快な~」で断片的に出てくる、ソロ・ヴァイオリンによる歯切れ良い音階上行下行反復音型など、その前後にも増してテンポが速められていたにもかかわらず、コンサートマスターの樫本大進は難なく弾きこなしていた。
全体的にキレも迫力も絶大で、ラトルおよびベルリン・フィルの底力を十分に知らしめる演奏だった。
ただ、やっぱり私は、その曲や作曲家における自分の中でのイメージを最も重視するタイプなのだと思う。
今回の演奏には大いに感心させられたが、それと同じだけ感動させられたかというと、そうではなかった。
完成度の高さには難をつけようもないのだけれど、ラトルのここまでの細かい表情付けや工夫は、ちょっと凝りすぎというか、この曲ならではの魅力とは少しずれてしまっているように私には思われた。
音楽評論家の岡田暁生は、「ストラヴィンスキーは表情付けをなるべく行わず、乾いた感じで、テンポを変えずに演奏されるべきである」というようなことを言っていたが、私も大意としては彼の意見に賛成である。
私としては、つい先日聴いたカンブルラン指揮洗足学園音楽大学管の演奏(そのときの記事はこちら)がまだ耳から離れない。
このときは、細かなテンポ変化やニュアンス付けが極力抑えられた、落ち着いたテンポによる淡々とした歩みの演奏だった。
それでいて、各楽器はこれ見よがしでなく、しかしはっきりと浮きだたせられており、かつそれぞれの声部どうしの協和・不協和といった和声感が美しく聴こえてくる演奏で、絶品というほかなかった。
これこそは、「現代音楽の創始者」ストラヴィンスキー独自のリズムと和声の魅力を引き出した演奏だと感じたのだった。
学生オケであり、一人一人の能力はベルリン・フィルのほうがもちろんすごかったし、完成度もラトル&ベルリン・フィルのほうが当然高かったのだけれど、感銘はこちらのほうが数倍大きかった。
カンブルランが学生オケから魔法のように引き出した、複雑に入り乱れる多くの音がきれいに整理されたクリアな響き。
例えば、第4部の最後のほう、「ペトルーシュカの死」で聴かれる、低弦から高弦へと湧き上がってくるトレモロの刻み、フルートの断片句、そしてクラリネットとソロ・ヴァイオリンによって弱々しく奏される「ペトルーシュカの動機」、これら全てのあまりにも美しい透明感!
この箇所は、今回のラトル&ベルリン・フィルはとてもうまかったし、繊細で完璧だったが、同じような美しさは聴かれなかった。
音楽とは、いったい何なのだろうか、と考えさせられる。
後半のプログラムについても、同様の印象だったが、個人的に「ペトルーシュカ」ほどの思い入れがないためか、より気軽に楽しむことができた。
チン・ウンスクの新作は、特に目新しいことをしているという曲ではなかったけれど(紙をくしゃくしゃ触って音を出すという楽器だけは珍しい?)、確かに何か宇宙的なものを感じさせるような、センスのある面白い曲だと感じた。
ベルリン・フィルの高い技術も、プラスに作用していたと思う(弦のフラジョレット奏法など、やっぱり抜群にうまい)。
メイン・プログラムの、ラフマニノフの交響曲第3番。
この曲で私の好きな録音は、
●ラフマニノフ指揮フィラデルフィア管 1939年12月11日セッション盤(NML/Apple Music)
●プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管 1997年6月セッション盤(NML/Apple Music)
●ユロフスキ指揮ロンドン・フィル 2015年4月29日ロンドンライヴ盤(NML/Apple Music)
あたりである。
ロシアへの強い郷愁を感じさせるような濃厚なロマンが聴かれる前2者と、一転してさわやかで現代風な後1者。
今回のラトル&ベルリン・フィルは、上記ユロフスキ盤に近い現代風なすっきりしたアプローチで、なおかつベルリン・フィルらしい豊潤さとパワーが全開の演奏だった。
管はみなソリスト級にうまいし、弦も実に豊かで分厚い音を鳴らしている。
そしてそれらの楽器全てが、まるで室内アンサンブルのような精緻な機動力でいずれ劣らず弾き進めていく。
ウィーン・フィルの演奏会でも感じたことだが、超一流のオーケストラは内声部までくまなく充実している。
今回のラフマニノフでも、例えば第1楽章展開部での三連符の走句など、ヴィオラと第2ヴァイオリンとが大変しっかりした、充実した音で奏されていたのが印象的だった。
終楽章のフガートの部分でも同様である。
そして最後は、聴いたこともないようなトップテンポで一気呵成に曲が閉じられる。
しかし、このラフマニノフでも、圧倒的なまでの感動が得られたかというと、そうではなかった。
例えば、上記の終楽章最後の一気呵成のテンポも、もちろんすごいのだけれど、「タカタッタッタッ」という総奏の直前の管楽器のパッセージが、あまりに速すぎるためか、さすがのベルリン・フィルの管セクションでもその美しさを十分に発揮できていないように感じた。
また、弦も弦で、繊細な弱音や、そこからの豊かなクレッシェンド(だんだん強く)は大変美しいのだけれど、強音ではやや音色がカサついているような気もしなくはなかった。
2004年に聴いたラトル&ベルリン・フィルの「フィデリオ」のときは、弦の強音がもっともっと明るく美しく洗練されていて、「これがベルリン・フィルか!」と驚愕したものである。
だいぶ昔のことなので、記憶が美化されているのかもしれない。
あるいは、ひょっとすると、あのときはまだアバド時代の音色の名残が残っていた、ということもありうるだろうか。
色々と考えさせられる演奏会だったが、ベルリン・フィルはラトルによって、本来の豊潤さに加え、きわめて機動的かつ細かな工夫に満ちた演奏をする団体となったということは、よく分かった。
できればこのコンビでマーラーやハイドンを聴いてみたかったが、贅沢は言うまい。
ラトルの長年の功績を称えたい。
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