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ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

飯場の子 5章 18話 「台風の日に」



 

これは、僕が小学4年生くらいのころ、大きな台風がやって来たある日のことの話だ。

 

昨今天気予報も台風情報も日々ネットで簡単に調べることができるが当時はテレビとラジオまた新聞紙面でしか情報を得る手段がなかった。また、予報そのものも今よりは精度も低かったと思う。





その年の何号の台風だったかも覚えていないが、その日、神奈川県には大きな台風が直撃するという予報が出ていた。雨も風も非常に強い台風とのことだったのだが、当時は危機管理も今より低く、台風予報が出ていても小学校普通に授業があった。



 

朝、登校のために家の玄関を開けた瞬間に外の様子は明らかにいつもと違海岸が近い僕の家では、既に海の潮気を含んだ生暖かい空気不気味に充満していた。そして強い風が時折、吹いてくるのだ。

生徒はざわめきながら登校してくる。いつもと違う教室、そして授業は始まるも、時間が経つにつれて雨風激しくなる一方。




不安に思っていると案の定、担任の先生から「これから台風が強くなるから、今日は授業を中止して、下校とします。みんなは絶対に外に遊びになど行かずに、おとなしくしているように」と授業は早々に切り上げられ全学年、一斉に下校することになった

 

が、皆が昇降口に降りたころには、台風は想像以上威力になっていた。半端じゃない風で、雨も横殴り。いざ外に出ようと思っても、傘なんてとてもじゃないが差せない状態。もはや子どもが普通に歩いたら飛ばされるんじゃないかと言うレベルで、結局生徒たちは、昇降口で身動きが取れなくなってしまったのだ



 

学校と家が目と鼻の先という子走って下校していく。また、学校も連絡網で通知していたので親が迎えに来て一緒に帰った子もいたりしたが、下校できない生徒が多数いて昇降口は大混雑だった

僕の家は学校から歩いて7~8分くらいかかるため、その人混みで待機していたのだが、学校から連絡を受けたのだろう、僕の母親会社のライトバンで迎えに来てくれたその時に、家が近い友達を何人か乗せてくれと頼み混乱の中、なんとかることができた



車中から、振り返ると昇降口には不安な顔をした、同級生や生徒が多数残されていた。「みんなどうするのだろう」。と子どもながらに心配していたのを憶えている。


 

同乗させた友人を各家に降ろした後、ライトバンは会社に到着。事務所には、台風で仕事ができないテレビで台風ニュースを見ていた。

僕は、台風による下校の興奮冷めやらぬまま、父に今日の出来事を話した。猛烈な雨風のこと、授業の打ち切りのことそれを落ち着いた様子でく父。が、昇降口にまだ残されているたくさんの生徒たち話がぶと父の様子が一遍した

何を考えたのか、いきなりヨシヒロ行くぞ」と僕に声をかけ、おもむろにライトバンに二人で飛び乗ると横殴りの雨の中、学校に向かったのだ


 

僕は「この人は一体何をする気なんだ」とただただ唖然。そんな僕を尻目に、父は学校に着くや否や、昇降口の前でクルマを停めた。そこにはまだ十数名の生徒が残されていたのだ。父は車を降りながら「おい、センコーは何やってんだ」と大きな声を出し昇降口へと入っていった。


 

びっくりしている生徒を横目に、父は職員室に向かったのだ何の騒ぎだと集まってきた先生にこう叫んだ。


 

おめえら職員室でぬくぬくしやがってこの暴風雨の中、子どもたちを勝手に帰らせるやつがあるか。あんたらだって学校までクルマで来てるんじゃねえか。みんな乗せて帰るくらいのことしねえのかと先生たちを一喝。僕は父の後姿を見ながら呆然としていた。

 



言わずもがな、僕はこの学校の生徒である。自分の学校で「校長出せ」と怒鳴り込む父を見上げながら、素直に「この人ヤバイなぁ」と思った。が、それと同時に「の言ってることは間違ってない」とも感じた。

 



ただ、先生たちにもルールがあって、勝手なことができないのだろう。連絡の取れない親御さんもいて、大変だっただと思う。慌てて駆け付けた教頭先生が、「いやいや、今村さん、落ち着いてください」となだめる。他の先生も圧倒されていて黙って見ているしかできない



父はおもむろにあんたらが出来ないなら、これから俺が子どもたちを送り届ける」といって制止する先生を振り切今度は僕を学校に置いたままライトバンに乗って走り去っていった。



先生達も「どうなるやらと、昇降口で残された生徒たちと一緒にいた」10分くらいだろうかグォーンというエンジン音とともに会社のダンプトラック4台暴風の中に現れたのだ。父は先頭のダンプに乗っており雨の中降りて来るや否や若い衆に指示を出し、子どもたちを家の近い人数に区割りして「おーいクルマに乗せろー!」と呼びかけたのだ。

  


 

「おれが全員送り届けてやる

もうこうなったら先生も何も言えず、その状況を見守るだけだった。


 

すると、昇降口にいた子どもたちは大興奮。キャッキャとダンプの前に集まると、若い衆が各クルマの荷台に子どもたちを56人ずつ乗せ始めた。

板のままじゃだめだと思ったのか、荷台の床にはブルーシートが敷かれており、子どもが乗った後にはその上からもブルーシートをかけ、暴風雨の中、父は昇降口に残された生徒たちを本当に自宅近くまで見事に送り届けたのだった。


 

その時に僕も生徒の皆と荷台に乗ってだが、一緒に乗っていた友人や生徒たちからヨッチくんお父さんはすごいなーありがとう。と言葉を掛けられた。

僕は「いや」と照れるだけだったが、その時父親と若い衆が最高に格好良く、そして「甲斐組」という看板を心から誇らしく感じた。

 

 

この出来事は、今では認められない行為であることは間違いない。しかし、まだまだ皆が助け合わなければならない時代には地域を支えるナニかが必要なことでもあったのだろう現に賛否はあったが、後日ダンプで送った生徒の保護者や商店街の人たちからもお礼と称賛の声が上がったのだ。

 


この経験僕自身には忘れ事がない大きなインパクトであった。そして僕自身家業に携わってからも地域の土建屋の役割として災害には第一線で動く会社でありたいと強く意識するようになった。

甲斐組は職人、ダンプもたくさん抱え、いわゆる実働部隊だ。もし有事のことが起きた場合、一番すぐに動けるのは、僕たちのような地元の土建屋なのだ

 



僕たちはただビジネスとして公共インフラをつくる存在だけではない。地域の人々の笑顔を「創る、増やす、守る」存在なのだと思う。

 


父からはこの台風の日」の出来事を通して「土建屋の存在意義」を学んだことは間違いない。



そして「甲斐組」は二代目になった現在も台風や異常気象時に社員一丸となって地域の第一線で活躍している。



 

飯場の子 5章 17話 「神棚の存在」

 




僕の家には、記憶があるころからずっと身近に存在しているものがある。

 

それは神棚

 

別段その存在の意味をしかと教えられたわけでもないのだが、子どものころからなぜか僕はその神棚が家族や会社にとってすごく大事なものだと思っていた。そして、格好良いもの、神聖なものだと感じていた。

 

モノづくりの会社や家にはこのように「神棚が飾れているところが多いと思う。が、その中でもうち会社と自宅の神棚はまあまあ立派な方だと思う

 

現代の時流にはそぐわないかもしれないが、とりわけ父はこの神棚の扱いにおいて、昔からの習わしに従順だった。

 

毎日、神棚のおを替えてから「二礼、二拍手一礼」で祈りをささげる毎月日と十五日には榊と塩を取り換えるであった。相撲の土俵に女性が入ってはいけない」などのしきたりみたいなものなのかこうした神棚お役目は、原則男性しか触れることはできないと躾られた僕の家には父以外、男性は僕しかいないので自宅の神棚のこうした儀礼小学生くらいから僕の仕事になっていた




 

古い風習ではあるが、僕の会社ではこの儀礼を今でも守り続けており、日々、毎月の儀礼はもとより年末の12月28日には会社幹部が10人くらい早朝より集まってすべての神棚にお正月を迎える飾りをするのだ


 

正月を迎えるお飾りは神棚の掃除と、しめ縄の交換から始まり神棚の受け台の柱に松の木(門松)を結び付け、スルメイカを3枚重ねて紅白の水引で締め、お迎えの準備完了となる。いかにもお正月を迎える儀礼であり、これがまたいちだんと神棚を立派にさせる。



 

そして締めとして金のだるまに目を入れ、新しいものに交換するこれが6か所もあるから大変なのだが、幹部たち手分けして手際よく準備を整えて、昼頃には本社に集合する。




 

その年の結びに、幹部がそろい一つの神棚の前に僕が代表して一年の感謝と新しき年の隆盛を誓い、全員で手を合わせるのだ。それが、その年のすべての会社仕事の納めになる。

 



ブルーカラー、特に土木関連の仕事をしている人「信仰心」の深い人が多いのには、恐らく理由がある。その一例として、父や叔父から聞いた話ではあるが僕の中に強烈に残っている出来を紹介したい



 

それは僕が小学生くらいの時だった甲斐組は、県内東名高速道路のインターチェンジにつながるバイパス道路つくる仕事の下請けをしていた



 

のバイパス道路の工事丘のような小山になっている場所を掘削して切り崩し道路にするという仕事だった。工事を始める前に地鎮祭のようなこと行政の役人と工事関係者で行い、いよいよ工事着手となった。そして、その山を掘削していくと、しばらくして土の中から大量の丸い石が積み重なるような状態で出てきたのだそうだ。



 

どう見ても人工的に形づくられた石。作業を監督していた叔父の常務が何かおかしいぞと思い、その場所の作業を中断して、元請けの監督に相談したのだ、元請けの監督さんは「うーん、何だろう。」と首をかしげていたが、とりあえず他の場所を作業するよう指示して現場は再開した。のだが、その日を境に現場に様々な不可思議な現象が起き始め



 

最初の異変は、工事では必ず施工管理の写真を記録として撮影するのだが、今の時代と違いフィルムカメラによる撮影だったそして現像できた写真を見て現場関係者は驚愕した。すべての写真がまともに映っていない「火柱のようなものや、黒いわけの分からないもの、人の顔のようなもの」が映り込んでしまう。



 

また現場に建てた仮設のプレハブ事務所がガタガタと揺れたり、電気が着いたり消えたりするような事が起こり始め、挙句には現場作業員、関係者、行政の関係者まで原因不明のや発疹が出るようになってしまったこれらの奇怪な出来事が数日の間で起こりついに工事は続行不能となった元請けも行政もどうしたものかと頭を抱えてしまった。



 

叔父の常務はすぐにこの出来事を父に相談した。信仰心の強い父は、毎度何かあると相談している山梨県にある檀家寺「妙学寺の古屋お上人電話をかけたそう、僕の名前を付けてもらった、ご住職様だ一連の話を聞いたお上人さん父にとりあえず写真を何枚か持ってきてくれと伝え父はすっ飛んで山梨まで出向き、お上人さんに現場の写真を見せた。するとお上人さんは開口一番、こう言い放ったそうだ



 

うーん。これは困ったな



 

本物の法力を持つお上人さんであるが、事の理由や重大さを詳しくは説明しなかったらしいただ早急に手を打たなければならないとの事で、3日後に現地で加持祈祷をするからと父に伝えた。そして約束の日、父らは現場で関係者を集め、お上人さんをお迎えした。お上人さんはこの出来事を鎮めるために、身延山から5人の僧侶を伴い現れたそうなそしてものすごい加持祈祷していただいたという


 

その時を境に不可思議現象はすべて鎮まり、無事工事再開されることになった。

お上人さん御加持の後にその石は丁寧に掘り起こされて別の場所に運ばれた。今思えば、それはだったかもしれない地中に静かに眠っていたモノを、何のご挨拶もなく勝手に掘り起こしてしまったため、閉じ込められていた何かが、一気に漏れ出したのではないだろうか。


 

このは、当時子どもだった僕にとってはかなり怖い話だったのだが、「ああ、そういうコトはあるのだろう」と不思議と理解できたのだ

 



我々土木業は、仕事上どうしても「土」を動かすことになる。つまり、「自然の形を変えるということだ。解体工事などでは大きい木を切らないといけないこともある。先述したような幼い頃の経験からも、工事をやる時は塩や酒で現場を必ず清め現場にこれから始めさせていただきます」「ここまで守ってくれてありがとうございました挨拶を欠かさない。どの業界でもそうかもしれないが、特に土木関連の仕事は、無念の思いをした人がいたかもしれない地を掘ることになる



 

日本は災害国家で、これまでものすごい数の人間が自然災害の犠牲になっている。ここまで台風や地震、火山の噴火など、多くの自然の驚異に晒されている国民も珍しい。そのため、自然に宿る神への信仰は必然的に高まり神話化され、五穀豊穣を感謝する思いも深くなるのかもしれない。



 

こうして例に違わずへの祈りを大事にする僕は、折を見ては各地の神社に参詣し、そして月に一度相模国一之宮である寒川神社に参拝に赴いている



今も毎月参拝している。寒川神社

飯場の子 4章 16話 「母の教え商売とお金の価値」

 



 

僕が小学校3年くらいの時、何か急用があったのだろう、母が突然山梨県にある父の実家にクルマで向かったことがあった。詳しい理由は覚えていないが、たしか忙しい父の代わりだったと思う。

そして僕は、これまたなぜそういう流れになったのかはよく覚えていないのだが、そんな母に同行し山梨県に向かうことになった

 

突如として始まった母とのドライブ。その道中に起きた出来事は今、僕の信念の礎となっている。

 

1970年当時のクルマは、そのほとんどのギア駆動が「マニュアル。例に違わず、母がその時運転したのもマニュアル車のライトバンだった。



当時の平塚から山梨県の実家までは普通に渋滞もなく走って4時間近くかかったと思う。平塚より一般道を走り、厚木ICより東名高速道路をかっ飛ばし、御殿場でおりて国道を須走から籠坂峠を越えて、富士五湖である山中湖、河口湖を通り抜け、富士山のふもとである青木ヶ原樹海の国道を走っていくのだ。


 

青木ヶ原樹海は自殺の名所であると、幼き頃より父からその話を聞かされていたので、青木ヶ原樹海を通るときは「早く通り抜けないかなぁ」と心の中で呟きながら、あまり外を見ずに前方の道路に集中していたのをよく覚えている。



そして精進湖までたどり着くとゴールは近くに感じる。ただしその先は、芦川渓谷という川沿いの未整備な細いくねくねした道路を通るのだ、ほかにも道はあるのだが、その道が一番近道であるために、急いでいた母はその道を選んで走っていったのだ。


 

子どもながらに、かなり長いことクルマに揺られていたのを覚えている。その日、家を出たのは午後だったのだが、その細道を走るこには、時間は夕刻になっており、周りはすっかり薄暗くなっていた。


 

慣れな整備されてもいない渓谷の細道。しばらくクルマを走らせていたのだが、突然クルマに異変が起きた。暗闇の夜道、ハンドル操作を誤り脱輪してしまったのだ。外に出て確認すると、山側の側溝にフタがされておらず、そこにタイヤがハマってしまったようである。





 

無論携帯電話などない時代。公衆電話も近くにあるわけがない。こうなったらもうどこかの家電話を借りてレスキューを呼ぶしかないのだが、集落のような場所で家はまばら一番近い家まで歩いて行けるのかすら分からない状態だった。


 

と僕は頭をかかえしばらく2人途方にくれてしまった。なんとかしないといけない気持ちはあっても、小学校年生ではクルマを持ち上げるも、母に策を提案する知恵もない。



聞こえてくるのは暗闇から「ゴー」という渓谷の流れる音だけ。普段は心地よささえ覚える音が、やたらとうるさく、そして怖く感じたのを覚えている。


 

こうして10分ほど経っただろうか。なんと、たまた対向車線にクルマのライトが光って見えたのだった。この機会を逃したら、次がいつになるかは分からない。素早くクルマを降りた母は、その対向車に助けを求め停車させることに成功。夜のその道対向車に出会たことは本当にラッキーだったのだが、さらに幸いなことに、そのクルマには大人の男性が4人乗っていたのだ


 

母が状況を説明すると、彼らはすぐさまクルマから降りてきてこれじゃぁ動けないよな、こんなのお安い御用だよ」と、4人でクルマをひょいと持ち上げ、あっという間に道に戻してくれたのだその時の男4人組の頼もしさは今でも忘れない。


 

「奥さん気を付けてな、この先まだこういう道あるから」


 

そう言い残すと、彼らは背中を向けて自分たちのクルマのほうへ向かっていく。真っ暗で顔もよく見えない。その時だった。母はおもむろにクルマに置いてあるバッグから1万円札をとり彼らを追いかけたのだった


 

いやいやいいよいいよ、そんなつもりで助けたわけじゃないから」と、男性たちがそのお金を母のほうへ押し返す。が、何度断っても頭を下げ続けて姿勢を変えない母に、彼らも「参ったな、かえって申し訳なかったね。ありがとう」とようやくそのお金を受け取ったのだ。


 

彼らのクルマがブーンと走り去った後に、母は「よしひろ助かったね」と僕のことも心配していたのだろうその顔は心から安堵していた。僕も同じく心底助かったと胸をなでおろしていた。


 

しかしこの一連の出来事の中で子どもながらに僕の心に突き刺さることが起きたのだ。


助けてもらったとはいえ、通りすがりの他人である、その人たちに頭を下げ続けお金を手渡す母の姿を見て「この母の行いは正し、尊いもの」だと、誰から教わることもなく自分の心の中にその気持ちが宿った瞬間であった。


 

以前にも紹介したが、母は家が貧しく、中学を出て日本食塩JTの子会社)で事務職として働きながら、夜はキャバレーでアルバイトしていた苦労人だ。が、貧乏だからといって金に執着することなく、常に「仁」の人だった。


 

あの時の出来事のおかげで僕は今、誰かに何かをしてもらったら、必ずお礼をするようにしている。格好をつけるわけではないが、様々な場所で、楽しく過ごさせてもらったらお釣りも、いただかないようにしている。


間違いないことは、僕たちは「ありがとう」と思うものに対してお金を支払い、また「ありがとう」と言われることに対してお金を頂いているのだ。お金の行き来とは「ありがとう伝え合いをしているというと同じなのだと思う。




 

 

金は使い方によってその価値は上がりも下がりもする、そう教えてくれたのも、今僕の商売人魂の土台を作ってくれたの間違いなく母だ。



 お金の価値は人によって様々だが、もしあの時、母が言葉でお礼だけ言って助けてもらった人たちを見送って「よしひろ、タダで助けてもらってラッキーだったね」と僕につげたとしたら、今の自分がもっている「カネ」に対する感覚も違っていたかもしれない。



 この脱輪事件は、そのくらい大きい出来事だった。

 

僕は母から「商売人の魂」と父から「モノづくりにこだわる職人魂」を受け継いだと思う。

 

 父もお金に執着心がなく大盤振る舞いが大好きな男なのだが、前述にもあるがモノづくりをする職人として仕事に対するこだわりは強烈極まりない



 その商売人と職人の魂の狭間で父と大きくぶつかっていくのである。その話はまた改めて紹介したいと思う。



姉の幼稚園遠足に同行の著者(左姉、右は母)

飯場の子 第4章 15話 坊主頭への疑問と初めての入院経験

 

 

写真を見ると分かるのだが、僕は小さい頃ずっと坊主頭だった。


 

今の時代坊主頭の子どもはかなりいるが、1970年代はほとんど見たことがなかった。意外だと思われるかもしれないが、当時はお坊ちゃん狩りが主流幼稚園クラス写真を見ても坊主は僕以外、誰一人としていなのだ



その理由は定かではないが、おそらく坊主に対する「イメージ」だろう。「床屋に行かせるカネがない家の子の髪型高度経済成長の時代には坊主に対して貧しいイメージがあったのかもしれない。

 


んな時代の中で、僕はずっと坊主頭にさせられていたわけだ写真で確認すると、だいたい小学校4年まで坊主が続くしかも僕は、わざわざ床屋に行って坊主頭に刈ってもらっていたのだ。


 

そのため、幼き頃より「お坊さんのうちの子」と勘違いされていたことも少なくない友達の家に遊びに行った時、「今村君のおうちはお寺さんなの?」と、マルコメみその影響もあったのか、お母さんたちから何回か聞かれたものだ。そのたびに「そうじゃないです」と説明をするのが面倒だった


 

幾度となくこのような経験があり、当初は違和感など全くなかったのだが、小学校3~4年生くらいになると徐々に自分の髪型に疑問をもつようになる



そのきっかけは、小学校4年くらいから仲良くなった「マサルくんという先輩の存在だ。この2歳年上のマサルくんこれまたいっぱしのワル小学生だったのだがその髪型がカッコいい「少し髪をばした角刈り」だったのだ


 

僕はそのマサルくん髪型に憧れ通っていた同じ床屋の店主にマサルくんみたいな髪型にしてくれるかな」と少し照れながら言ってみたら「おお、ヨッチくんも色気づいてきたな」僕をからかっていた。そして店主はしっかりと、マサルくんに告げ口。数日後顔を合わせたマサルくんが「おいヨッチ、お前床屋俺みたいな髪型にしろって言ったらしいな」と言ってきた。「いやー」と照れていた僕に、子分が同じ髪型にしたがったのが相当嬉しかったの「お前もそのほうがカッコいいよ」と言いながら、やたらとニヤニヤしていたのを思い出す。

 


ちなみに小学校にあがる、なぜ自分はずっと坊主なのか一度父親に聞いたことがある。返ってきた答えはこうだ。

それはな、坊主じゃないんだよ、ブンタ刈りっていうんだ

無論この「文太」は俳優の「菅原文太」のことなのだ当たり前だが、は当時彼を知らなかった。たまたま家で飼っていたインコが「ブンタ」という名前だったため、僕の頭の中はインコの「ブンタ」と僕の髪型何の関係があるのか、理解不能になり、たまらず母親にそのことを話したら大笑いしながら、それは映画俳優の「菅原文太さん」っていう人のことだよと、教えてくれた



その時に、少しほっとした傍ら、訳も分からず自分の坊主頭が急に偉くなったように思えたのだった

 


結局当時はなぜ父親が僕を坊主にしたのかよく分からなかったのだが、今思えばそれは他でもなく、「自分の息子だから、なのだと思うというのも父親自身ずっと坊主だったのだ僕を坊主にさせていたのは自分の真似をさせたがる親の心理だったのかもしれない。ちなみに父は、今でも白髪の坊主頭なのだ


 

そんな小学校時代の思い出としてもう1つ大きく残っているのは「初めての入院」である。



僕は、扁桃腺を取る手術をした。小学校2年のころだ。

 

もともと年に数度、扁桃腺肥大を起こしては、よく高熱を出していた。発症すると唾も呑めないくらい強い痛みが襲ってくる。そのたびに薬を塗ってもらいに耳鼻科行くのだが曰く、高熱を起こすと僕はよく「熱痙攣起こしていたという。悪寒唇は紫色になガチガチと音を立て全身を震わせなが、唸り苦しむ僕の姿を見るたび、姉たちおっかなくてしょうがなかったという。


 

こうして何度も高熱を繰り返す僕に、医者は両親に「扁桃腺の手術を提案したのだ小学校2年生の2学期、学校を10日ほど休み、手術をすることになった

本人は当時よく分かっていなかったが、その手術さえやれば、これまでの痛みがなくなることを聞き、最初は当然嫌がっていたのだが、それならばと了解。平塚市民病院に1週間入院することになった


 

病院には小児病棟がなかった時代大人と一緒の部屋で入院生活を送ることになったのだが、これが怖い怖い

まず病院が怖い。いわずもがな、子どもにとっては不気味でしかない病院は2日間だけ母親の付き添いを許してくれたが、病室の独特なアルコールの匂い体の弱った知らない人たちとの共同生活。自分自身は手術のための入院でピンピンしていたため周囲の人とのギャップにより困惑したのかもしれない


 

心の支えになったのは、自宅の隣のかしわぎ酒店の娘婿「おにいちゃん」との「ある約束」だ。


入院前に不安がる僕は「もしちゃんと手術ができたらめんこ100枚買ってくれる?おにいちゃんにねだったのだ「よーし、めんこ100枚だな、我慢できたらプレゼントする」と気持ちよく請け合ってくれた。大人とすればめんこを100枚買ったところで大した金額にはならない。が、数枚買って溜めていくにとって100もはや「。それが嬉しく、辛い時はそのまだ見ぬめんこを思い浮かべて耐えることができた。


 

手術をしたのは入院3日目。無論、麻酔をしているためその時の記憶はないが、術後、目を覚ました時に喉や鼻にガーゼ入っていて、すごくきつかった記憶があるが、小さい子どもは回復早い。翌朝、先生にそのガーゼを取ってもらうと、即座にいちご牛乳を無断で飲み、さらにその夜には寿司を出前で注文。この子どもの自由奔放で見事な回復ぶりに、病室中大笑いだった。


 

しかし、僕はこの寿司よりも嬉しかったのがある。そう、「あの約束」だ。

その夜、すしと一緒に登場したのが、段ボールいっぱいに入っためんこを携えたかしわぎ酒店のおにいちゃん。4つほど束になってい100枚のめんこは、もはや「小判の山」。寿司を食いながら1枚1枚絵柄を確認する姿を、周囲の大人たちはほほえましく見ていてくれていた。


 

こうして僕は順調に回復し、無事に6日目に退院。この手術のおかげで本当にそれ以降、僕は高熱を出さなくなったのだ。が、その代わりに待ちうけていたものがある。体質の変化」だった

 


僕はかなり太っているが、この手術前まではずっとやせ体質だった。ただ、飯はよく食べていたので、いわゆる「痩せの大食い」なのだが、この手術以降、みごとに体重は増加していき「肥満体質」になっていったのだ。僕は自分でいうのもなんだがスポーツは万能な方で、それなりの自信を持っていたのだがまんまるヨッチくん」に変貌していき、スポーツ万能群から脱落していく自分に複雑な心境を持っていた。


 

しかし父は「男はなガタイがいい方が貫禄がっていいんだ」とかなり気弱になっていた僕の背中を押してくれた。



その言葉が効いたのだろう、さらにヨッチ少年は「ガキ大将」の気質に拍車がかかっていくのである。さすがは土建屋の親方教えだと今でもありがたく思うのだ。



寒川神社にて

飯場の子 第4章 14話 

社長ではなくなぜオヤジ??(サウナでの出来事)

 

 

 小学校2年生くらいのことだっただろうか。ある日父や会社の従業員たちが食堂で酒を飲んでいるところ、僕は彼らずっとモヤモヤしていたある疑問を投げかけたことがあった。



なぜみんな僕の父を『オヤジ』と呼ぶのか」

 

 会社で働くの従業員叔父などの幹部たちは全員、父のことをなぜか社長とも呼ばずオヤジ」と呼んで


 

 自分にとって父が「おやじ」なのは間違いない。が、血の繋がりもない従業員がなぜ父のことをそう呼ぶのか。


 いや、むしろもっと分からないのは血の繋がりのある僕の叔父たちだ。彼らにとって父は「お兄さん」だろうなんで「お兄さん」が「オヤジ」になるのか。当時小さかった僕には全く理解できなかったのだ

 

 しかし、んな純粋で幼気な子どもの疑問に対して、父も含めて皆は一斉に大爆笑。「いつかお前も大人になったら分かる」と、かわされてしまった

 

 一方の僕自身は、彼らから「二代目」なんて呼ばれ、いつも可愛がってもらっていた会社と家も隣同士で、日々の遊び場は以前紹介したように会社の敷地。


 つまり、僕にとって当時の甲斐組はもはやもう1つの家。ゆえに従業員との距離も近く、父の後ろについて回るかたち、僕は会社以外の場所でも同行することがよくあった。

 


その1つがサウナだった。



 当時は今のような郊外の温浴施設などは無く、世間では駅前サウナが流行っていた。平塚駅の周辺にも例に違わず乱立しており、父はその中で「オデオンサウナ」というよく通っていた


 

 汗を流しに向かう父や従業員と混ざって、僕従弟敦人もよくついって行っていた



 とはいえ、お目当てはサウナではなく「ゲーム」。その施設には、1ゲーム100円のゲーム台がいくつかあった。子どもにとって100円は貴重


 普段自分の小遣いではそう気安く遊べないゲームが、このサウナにくると大人たちがひょいと1000円ほどくれる。それが楽しみで、僕はよく大人たちについて行っていたわけだ。

 

 こうして会社の若い衆ともサウナで裸の付き合いをするようになると、そのたび、毎度あるものを目にするようになった。「観音様」の姿

 

 とはいえ、サウナに観音像が置いてあったわけではない。その居場所は、ある若い衆の背中」。そう、刺青だ。彼の背中には、鮮やかな「観音様」綺麗描かれていたのだ。


 

 今温浴施設などでは刺青やタトゥーが入っている人の入館が禁止されていることが多いが、1980年当時は、全身に刺青が入っている人を見るのも珍しくなかった。



「刺青」は反社会勢力というイメージを持たれてしまって久しいが、職人業の世界では珍しいことでもなく昔から世間よりも刺青との距離が比較的近いと言える。


 

 その理由は諸説・環境によって様々あるが、よく言われるのは江戸時代の町人文化で火消し組(現在の消防士)が組織される。多くは町人いわば職人集団であり、一旦火の手があがれば火消し組は命懸けで火災に立ち向かう。その中でも命を落とす者もいたわけで、DNA鑑定などの技術のないその時代にとって、事故に巻き込まれて顔が識別できなくなった時のための「本人確認」の役割も果たしていたということだ


 

 体を使う職人業など、仕事中に肌が露出することが多いのもちろんだが、汗を流す仕事をすると、こうして風呂場で「裸の付き合い」をする。現在のブルーカラーといわれる職人業と刺青の関係性は歴史的・文化的にも奥深いものがあるものだ。


 

 そんな見事な「観音様」に僕は見惚れ、しばらくマジマジと見ていると、それに気付いた「持ち主」の若い衆が、僕をからかう。「おっ、二代目こすってみなよ、消えるからと。

 

 しかし、それを本気にとらえる純粋で幼気な僕は、手ぬぐいを手に取り、観音様を必死にこすり始めた。が、案の定どうやっても観音様は消えない。

 

 それを見た彼「あれ消えないか?力が足りないんじゃないか」なんて笑いながら言ってさらに僕をからかい、父も周りの皆も爆笑。結局彼の背中を綺麗にすに徹した僕は、初めて「刺青というものは消えないものなのだ」ということを知るのだった。

 

 こうした風呂場での経験や、飯場で同じ釜の飯を食う若い衆らと付き合ううちに、なぜ彼ら父を「オヤジ」と呼ぶのか徐々に理解していった。


 

 今以上に危険で過酷な労働環境の中、色んなバックグラウンドを持つ従業員たちは、ある意味で結束がないとやっていけない。裸の付き合い、同じ釜の飯を食えば、それは必然と「家族」のような関係になるのだ。


 社長とはそうなれば、やはり「家長であるオヤジ」のような存在になるのだろう。



 僕が家業に入った平成の時代にはまだ建設業界にもそんな気風が残っていた。しかし令和にもなった現代はそんな「親しみ」より「わきまえ」を求められる時代。


 

 自分の会社の社長を「オヤジ」と呼ぶ社員は、もう業界にほとんど存在しなくなった



 いいも悪いも言えないが少し寂しい気持ちになってしまうのであった。


平塚海岸 花水川河口で当時流行ったゲイラカイトで凧揚げをする。(釣り竿を使うのは父親の考案だった)後ろに見えるのは箱根駅伝の走路である134号線の花水川橋