ポジティブ思考よっち社長 -6ページ目

ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

飯場の子 4章 16話 「母の教え商売とお金の価値」

 



 

僕が小学校3年くらいの時、何か急用があったのだろう、母が突然山梨県にある父の実家にクルマで向かったことがあった。詳しい理由は覚えていないが、たしか忙しい父の代わりだったと思う。

そして僕は、これまたなぜそういう流れになったのかはよく覚えていないのだが、そんな母に同行し山梨県に向かうことになった

 

突如として始まった母とのドライブ。その道中に起きた出来事は今、僕の信念の礎となっている。

 

1970年当時のクルマは、そのほとんどのギア駆動が「マニュアル。例に違わず、母がその時運転したのもマニュアル車のライトバンだった。



当時の平塚から山梨県の実家までは普通に渋滞もなく走って4時間近くかかったと思う。平塚より一般道を走り、厚木ICより東名高速道路をかっ飛ばし、御殿場でおりて国道を須走から籠坂峠を越えて、富士五湖である山中湖、河口湖を通り抜け、富士山のふもとである青木ヶ原樹海の国道を走っていくのだ。


 

青木ヶ原樹海は自殺の名所であると、幼き頃より父からその話を聞かされていたので、青木ヶ原樹海を通るときは「早く通り抜けないかなぁ」と心の中で呟きながら、あまり外を見ずに前方の道路に集中していたのをよく覚えている。



そして精進湖までたどり着くとゴールは近くに感じる。ただしその先は、芦川渓谷という川沿いの未整備な細いくねくねした道路を通るのだ、ほかにも道はあるのだが、その道が一番近道であるために、急いでいた母はその道を選んで走っていったのだ。


 

子どもながらに、かなり長いことクルマに揺られていたのを覚えている。その日、家を出たのは午後だったのだが、その細道を走るこには、時間は夕刻になっており、周りはすっかり薄暗くなっていた。


 

慣れな整備されてもいない渓谷の細道。しばらくクルマを走らせていたのだが、突然クルマに異変が起きた。暗闇の夜道、ハンドル操作を誤り脱輪してしまったのだ。外に出て確認すると、山側の側溝にフタがされておらず、そこにタイヤがハマってしまったようである。





 

無論携帯電話などない時代。公衆電話も近くにあるわけがない。こうなったらもうどこかの家電話を借りてレスキューを呼ぶしかないのだが、集落のような場所で家はまばら一番近い家まで歩いて行けるのかすら分からない状態だった。


 

と僕は頭をかかえしばらく2人途方にくれてしまった。なんとかしないといけない気持ちはあっても、小学校年生ではクルマを持ち上げるも、母に策を提案する知恵もない。



聞こえてくるのは暗闇から「ゴー」という渓谷の流れる音だけ。普段は心地よささえ覚える音が、やたらとうるさく、そして怖く感じたのを覚えている。


 

こうして10分ほど経っただろうか。なんと、たまた対向車線にクルマのライトが光って見えたのだった。この機会を逃したら、次がいつになるかは分からない。素早くクルマを降りた母は、その対向車に助けを求め停車させることに成功。夜のその道対向車に出会たことは本当にラッキーだったのだが、さらに幸いなことに、そのクルマには大人の男性が4人乗っていたのだ


 

母が状況を説明すると、彼らはすぐさまクルマから降りてきてこれじゃぁ動けないよな、こんなのお安い御用だよ」と、4人でクルマをひょいと持ち上げ、あっという間に道に戻してくれたのだその時の男4人組の頼もしさは今でも忘れない。


 

「奥さん気を付けてな、この先まだこういう道あるから」


 

そう言い残すと、彼らは背中を向けて自分たちのクルマのほうへ向かっていく。真っ暗で顔もよく見えない。その時だった。母はおもむろにクルマに置いてあるバッグから1万円札をとり彼らを追いかけたのだった


 

いやいやいいよいいよ、そんなつもりで助けたわけじゃないから」と、男性たちがそのお金を母のほうへ押し返す。が、何度断っても頭を下げ続けて姿勢を変えない母に、彼らも「参ったな、かえって申し訳なかったね。ありがとう」とようやくそのお金を受け取ったのだ。


 

彼らのクルマがブーンと走り去った後に、母は「よしひろ助かったね」と僕のことも心配していたのだろうその顔は心から安堵していた。僕も同じく心底助かったと胸をなでおろしていた。


 

しかしこの一連の出来事の中で子どもながらに僕の心に突き刺さることが起きたのだ。


助けてもらったとはいえ、通りすがりの他人である、その人たちに頭を下げ続けお金を手渡す母の姿を見て「この母の行いは正し、尊いもの」だと、誰から教わることもなく自分の心の中にその気持ちが宿った瞬間であった。


 

以前にも紹介したが、母は家が貧しく、中学を出て日本食塩JTの子会社)で事務職として働きながら、夜はキャバレーでアルバイトしていた苦労人だ。が、貧乏だからといって金に執着することなく、常に「仁」の人だった。


 

あの時の出来事のおかげで僕は今、誰かに何かをしてもらったら、必ずお礼をするようにしている。格好をつけるわけではないが、様々な場所で、楽しく過ごさせてもらったらお釣りも、いただかないようにしている。


間違いないことは、僕たちは「ありがとう」と思うものに対してお金を支払い、また「ありがとう」と言われることに対してお金を頂いているのだ。お金の行き来とは「ありがとう伝え合いをしているというと同じなのだと思う。




 

 

金は使い方によってその価値は上がりも下がりもする、そう教えてくれたのも、今僕の商売人魂の土台を作ってくれたの間違いなく母だ。



 お金の価値は人によって様々だが、もしあの時、母が言葉でお礼だけ言って助けてもらった人たちを見送って「よしひろ、タダで助けてもらってラッキーだったね」と僕につげたとしたら、今の自分がもっている「カネ」に対する感覚も違っていたかもしれない。



 この脱輪事件は、そのくらい大きい出来事だった。

 

僕は母から「商売人の魂」と父から「モノづくりにこだわる職人魂」を受け継いだと思う。

 

 父もお金に執着心がなく大盤振る舞いが大好きな男なのだが、前述にもあるがモノづくりをする職人として仕事に対するこだわりは強烈極まりない



 その商売人と職人の魂の狭間で父と大きくぶつかっていくのである。その話はまた改めて紹介したいと思う。



姉の幼稚園遠足に同行の著者(左姉、右は母)

飯場の子 第4章 15話 坊主頭への疑問と初めての入院経験

 

 

写真を見ると分かるのだが、僕は小さい頃ずっと坊主頭だった。


 

今の時代坊主頭の子どもはかなりいるが、1970年代はほとんど見たことがなかった。意外だと思われるかもしれないが、当時はお坊ちゃん狩りが主流幼稚園クラス写真を見ても坊主は僕以外、誰一人としていなのだ



その理由は定かではないが、おそらく坊主に対する「イメージ」だろう。「床屋に行かせるカネがない家の子の髪型高度経済成長の時代には坊主に対して貧しいイメージがあったのかもしれない。

 


んな時代の中で、僕はずっと坊主頭にさせられていたわけだ写真で確認すると、だいたい小学校4年まで坊主が続くしかも僕は、わざわざ床屋に行って坊主頭に刈ってもらっていたのだ。


 

そのため、幼き頃より「お坊さんのうちの子」と勘違いされていたことも少なくない友達の家に遊びに行った時、「今村君のおうちはお寺さんなの?」と、マルコメみその影響もあったのか、お母さんたちから何回か聞かれたものだ。そのたびに「そうじゃないです」と説明をするのが面倒だった


 

幾度となくこのような経験があり、当初は違和感など全くなかったのだが、小学校3~4年生くらいになると徐々に自分の髪型に疑問をもつようになる



そのきっかけは、小学校4年くらいから仲良くなった「マサルくんという先輩の存在だ。この2歳年上のマサルくんこれまたいっぱしのワル小学生だったのだがその髪型がカッコいい「少し髪をばした角刈り」だったのだ


 

僕はそのマサルくん髪型に憧れ通っていた同じ床屋の店主にマサルくんみたいな髪型にしてくれるかな」と少し照れながら言ってみたら「おお、ヨッチくんも色気づいてきたな」僕をからかっていた。そして店主はしっかりと、マサルくんに告げ口。数日後顔を合わせたマサルくんが「おいヨッチ、お前床屋俺みたいな髪型にしろって言ったらしいな」と言ってきた。「いやー」と照れていた僕に、子分が同じ髪型にしたがったのが相当嬉しかったの「お前もそのほうがカッコいいよ」と言いながら、やたらとニヤニヤしていたのを思い出す。

 


ちなみに小学校にあがる、なぜ自分はずっと坊主なのか一度父親に聞いたことがある。返ってきた答えはこうだ。

それはな、坊主じゃないんだよ、ブンタ刈りっていうんだ

無論この「文太」は俳優の「菅原文太」のことなのだ当たり前だが、は当時彼を知らなかった。たまたま家で飼っていたインコが「ブンタ」という名前だったため、僕の頭の中はインコの「ブンタ」と僕の髪型何の関係があるのか、理解不能になり、たまらず母親にそのことを話したら大笑いしながら、それは映画俳優の「菅原文太さん」っていう人のことだよと、教えてくれた



その時に、少しほっとした傍ら、訳も分からず自分の坊主頭が急に偉くなったように思えたのだった

 


結局当時はなぜ父親が僕を坊主にしたのかよく分からなかったのだが、今思えばそれは他でもなく、「自分の息子だから、なのだと思うというのも父親自身ずっと坊主だったのだ僕を坊主にさせていたのは自分の真似をさせたがる親の心理だったのかもしれない。ちなみに父は、今でも白髪の坊主頭なのだ


 

そんな小学校時代の思い出としてもう1つ大きく残っているのは「初めての入院」である。



僕は、扁桃腺を取る手術をした。小学校2年のころだ。

 

もともと年に数度、扁桃腺肥大を起こしては、よく高熱を出していた。発症すると唾も呑めないくらい強い痛みが襲ってくる。そのたびに薬を塗ってもらいに耳鼻科行くのだが曰く、高熱を起こすと僕はよく「熱痙攣起こしていたという。悪寒唇は紫色になガチガチと音を立て全身を震わせなが、唸り苦しむ僕の姿を見るたび、姉たちおっかなくてしょうがなかったという。


 

こうして何度も高熱を繰り返す僕に、医者は両親に「扁桃腺の手術を提案したのだ小学校2年生の2学期、学校を10日ほど休み、手術をすることになった

本人は当時よく分かっていなかったが、その手術さえやれば、これまでの痛みがなくなることを聞き、最初は当然嫌がっていたのだが、それならばと了解。平塚市民病院に1週間入院することになった


 

病院には小児病棟がなかった時代大人と一緒の部屋で入院生活を送ることになったのだが、これが怖い怖い

まず病院が怖い。いわずもがな、子どもにとっては不気味でしかない病院は2日間だけ母親の付き添いを許してくれたが、病室の独特なアルコールの匂い体の弱った知らない人たちとの共同生活。自分自身は手術のための入院でピンピンしていたため周囲の人とのギャップにより困惑したのかもしれない


 

心の支えになったのは、自宅の隣のかしわぎ酒店の娘婿「おにいちゃん」との「ある約束」だ。


入院前に不安がる僕は「もしちゃんと手術ができたらめんこ100枚買ってくれる?おにいちゃんにねだったのだ「よーし、めんこ100枚だな、我慢できたらプレゼントする」と気持ちよく請け合ってくれた。大人とすればめんこを100枚買ったところで大した金額にはならない。が、数枚買って溜めていくにとって100もはや「。それが嬉しく、辛い時はそのまだ見ぬめんこを思い浮かべて耐えることができた。


 

手術をしたのは入院3日目。無論、麻酔をしているためその時の記憶はないが、術後、目を覚ました時に喉や鼻にガーゼ入っていて、すごくきつかった記憶があるが、小さい子どもは回復早い。翌朝、先生にそのガーゼを取ってもらうと、即座にいちご牛乳を無断で飲み、さらにその夜には寿司を出前で注文。この子どもの自由奔放で見事な回復ぶりに、病室中大笑いだった。


 

しかし、僕はこの寿司よりも嬉しかったのがある。そう、「あの約束」だ。

その夜、すしと一緒に登場したのが、段ボールいっぱいに入っためんこを携えたかしわぎ酒店のおにいちゃん。4つほど束になってい100枚のめんこは、もはや「小判の山」。寿司を食いながら1枚1枚絵柄を確認する姿を、周囲の大人たちはほほえましく見ていてくれていた。


 

こうして僕は順調に回復し、無事に6日目に退院。この手術のおかげで本当にそれ以降、僕は高熱を出さなくなったのだ。が、その代わりに待ちうけていたものがある。体質の変化」だった

 


僕はかなり太っているが、この手術前まではずっとやせ体質だった。ただ、飯はよく食べていたので、いわゆる「痩せの大食い」なのだが、この手術以降、みごとに体重は増加していき「肥満体質」になっていったのだ。僕は自分でいうのもなんだがスポーツは万能な方で、それなりの自信を持っていたのだがまんまるヨッチくん」に変貌していき、スポーツ万能群から脱落していく自分に複雑な心境を持っていた。


 

しかし父は「男はなガタイがいい方が貫禄がっていいんだ」とかなり気弱になっていた僕の背中を押してくれた。



その言葉が効いたのだろう、さらにヨッチ少年は「ガキ大将」の気質に拍車がかかっていくのである。さすがは土建屋の親方教えだと今でもありがたく思うのだ。



寒川神社にて

飯場の子 第4章 14話 

社長ではなくなぜオヤジ??(サウナでの出来事)

 

 

 小学校2年生くらいのことだっただろうか。ある日父や会社の従業員たちが食堂で酒を飲んでいるところ、僕は彼らずっとモヤモヤしていたある疑問を投げかけたことがあった。



なぜみんな僕の父を『オヤジ』と呼ぶのか」

 

 会社で働くの従業員叔父などの幹部たちは全員、父のことをなぜか社長とも呼ばずオヤジ」と呼んで


 

 自分にとって父が「おやじ」なのは間違いない。が、血の繋がりもない従業員がなぜ父のことをそう呼ぶのか。


 いや、むしろもっと分からないのは血の繋がりのある僕の叔父たちだ。彼らにとって父は「お兄さん」だろうなんで「お兄さん」が「オヤジ」になるのか。当時小さかった僕には全く理解できなかったのだ

 

 しかし、んな純粋で幼気な子どもの疑問に対して、父も含めて皆は一斉に大爆笑。「いつかお前も大人になったら分かる」と、かわされてしまった

 

 一方の僕自身は、彼らから「二代目」なんて呼ばれ、いつも可愛がってもらっていた会社と家も隣同士で、日々の遊び場は以前紹介したように会社の敷地。


 つまり、僕にとって当時の甲斐組はもはやもう1つの家。ゆえに従業員との距離も近く、父の後ろについて回るかたち、僕は会社以外の場所でも同行することがよくあった。

 


その1つがサウナだった。



 当時は今のような郊外の温浴施設などは無く、世間では駅前サウナが流行っていた。平塚駅の周辺にも例に違わず乱立しており、父はその中で「オデオンサウナ」というよく通っていた


 

 汗を流しに向かう父や従業員と混ざって、僕従弟敦人もよくついって行っていた



 とはいえ、お目当てはサウナではなく「ゲーム」。その施設には、1ゲーム100円のゲーム台がいくつかあった。子どもにとって100円は貴重


 普段自分の小遣いではそう気安く遊べないゲームが、このサウナにくると大人たちがひょいと1000円ほどくれる。それが楽しみで、僕はよく大人たちについて行っていたわけだ。

 

 こうして会社の若い衆ともサウナで裸の付き合いをするようになると、そのたび、毎度あるものを目にするようになった。「観音様」の姿

 

 とはいえ、サウナに観音像が置いてあったわけではない。その居場所は、ある若い衆の背中」。そう、刺青だ。彼の背中には、鮮やかな「観音様」綺麗描かれていたのだ。


 

 今温浴施設などでは刺青やタトゥーが入っている人の入館が禁止されていることが多いが、1980年当時は、全身に刺青が入っている人を見るのも珍しくなかった。



「刺青」は反社会勢力というイメージを持たれてしまって久しいが、職人業の世界では珍しいことでもなく昔から世間よりも刺青との距離が比較的近いと言える。


 

 その理由は諸説・環境によって様々あるが、よく言われるのは江戸時代の町人文化で火消し組(現在の消防士)が組織される。多くは町人いわば職人集団であり、一旦火の手があがれば火消し組は命懸けで火災に立ち向かう。その中でも命を落とす者もいたわけで、DNA鑑定などの技術のないその時代にとって、事故に巻き込まれて顔が識別できなくなった時のための「本人確認」の役割も果たしていたということだ


 

 体を使う職人業など、仕事中に肌が露出することが多いのもちろんだが、汗を流す仕事をすると、こうして風呂場で「裸の付き合い」をする。現在のブルーカラーといわれる職人業と刺青の関係性は歴史的・文化的にも奥深いものがあるものだ。


 

 そんな見事な「観音様」に僕は見惚れ、しばらくマジマジと見ていると、それに気付いた「持ち主」の若い衆が、僕をからかう。「おっ、二代目こすってみなよ、消えるからと。

 

 しかし、それを本気にとらえる純粋で幼気な僕は、手ぬぐいを手に取り、観音様を必死にこすり始めた。が、案の定どうやっても観音様は消えない。

 

 それを見た彼「あれ消えないか?力が足りないんじゃないか」なんて笑いながら言ってさらに僕をからかい、父も周りの皆も爆笑。結局彼の背中を綺麗にすに徹した僕は、初めて「刺青というものは消えないものなのだ」ということを知るのだった。

 

 こうした風呂場での経験や、飯場で同じ釜の飯を食う若い衆らと付き合ううちに、なぜ彼ら父を「オヤジ」と呼ぶのか徐々に理解していった。


 

 今以上に危険で過酷な労働環境の中、色んなバックグラウンドを持つ従業員たちは、ある意味で結束がないとやっていけない。裸の付き合い、同じ釜の飯を食えば、それは必然と「家族」のような関係になるのだ。


 社長とはそうなれば、やはり「家長であるオヤジ」のような存在になるのだろう。



 僕が家業に入った平成の時代にはまだ建設業界にもそんな気風が残っていた。しかし令和にもなった現代はそんな「親しみ」より「わきまえ」を求められる時代。


 

 自分の会社の社長を「オヤジ」と呼ぶ社員は、もう業界にほとんど存在しなくなった



 いいも悪いも言えないが少し寂しい気持ちになってしまうのであった。


平塚海岸 花水川河口で当時流行ったゲイラカイトで凧揚げをする。(釣り竿を使うのは父親の考案だった)後ろに見えるのは箱根駅伝の走路である134号線の花水川橋


飯場の子 第3章 13話

夫婦喧嘩と家族の時間

 

 

 以前にも紹介した通り僕は上に2人の姉がいる3人兄弟なのだが、ものの見事に小さい頃から3人とも太っている。それには、小学生当時のある行動に原因がある。


 

 朝ごはんは家でバタバタと済ませ、昼は学校で給食を食べるこれは他の家庭の子どもたちと変わらなかったのだが、両親が会社をやっていると、どうしても夕飯遅くなる。



 まわりの友人宅では大体夕方6時ごろには夕飯が始まるところ、うちではそんな時間に親が帰ってきていることなんてほとんどなかった



  しかし当時の我々は言わずもがな「育ち盛りの子どもたちだ。何て言ったって腹が減る。そのため僕たちは毎日家に帰ると、隣にある柏木に行き、自分の好きなパンやらカップラーメンやらを「会社のツケ」で買いまくっては食べていたのだ。



 

 こうして早々に腹は満たされるわけなのだが、しばらくして今度は仕事から帰ってきた食事を作ってくれるので、8時くらいに2度目の夕食を食べることになる。そのため僕たちは3人とも、“順調に”成長したのである。


 

 一方、父は仕事が終わると、毎日のように仕事の仲間達と一杯飲みに行ったり打ち合わせを兼ねた会食をしたりしていたため、僕は撫子原にいた間、その母親がつくってくれた夕食父親と一緒に食べた記憶がほとんどない


 そのため、普段の生活ではなかなかゆっくりと家族で食事をする時間が取れなかったのだがその穴埋めをするかのように、我が家では昔から週に1度くらいのペースで外食をしていた


 

 頻繁に通っていたのは134号線にあるレストラン「みやしろ」。当時ではモダンな鉄筋コンクリートの外観なのだが店内は和風のたたずまいで、2階に宴会場があるような大きなレストランだった。



 海岸線沿いにある建物の海側のほうに20坪ほどのライトアップされた洒落た庭があり、一面の青い芝生には石がところどころ置いてあった。

 

 僕たち姉弟は好きなものを注文して、30分ほどで食べ終わ。両親ビール飲みながら仕事の話をし時間を過ごしていた



 両親がそうしてゆっくりと飲み語っている間食事を終えた姉弟は必ずレストランの青芝の子どものテッパンの遊び、おいかけっこ」を始めるのだ。今ならばおとなしくしていろ」と怒られるだろうが、当時は子どものわんぱくに寛容で、両親は時折こちらに手を振ってくれたり、他の客も僕たちをにこやかに守ってくれていた。



 平和でおだやかな時間。まるでCMか何かに出てくるような温かな家族のカタチである。



が、それで終わらないのが今村家。



 子どもたちが無邪気に遊んでいる間、酒が入った2人は日ごろの本音が出るにつれヒートアップ。場所を選ばず夫婦喧嘩をおっ始めるのである


 

 うちの父は気が強く短気者、そして母はそれに負けず気が強い。それに加えて母は酒に酔うと絡む癖があった



 まあそのくらいじゃないとブルーカラーの親方女房も務まらないのは間違いないのだが、一度始まるとお互い譲らないから、子どもにとっては困りものである。


 

 話は遡るが僕が幼稚園の年中のころ、本気で怒った母が、子どもを連れて家を出て行った。ケンカの理由はいまだ知らないが、かなり大きくケンカしたらしく、母は僕たち3人を連れて、クルマで10分のところにいきなり引っ越した。いわゆる別居生活になったのだ


 

 母子4人で暮らした貸家は古い木造で風呂もなく裸電球がぶら下がっているような家。母は弁当の配達員の仕事をしながらなんとか4人の生活を支えていたのだが、ある日銭湯から帰って来ると、家の引き戸に封筒に入った手紙がささっていた。僕は、子どもながらにその手紙が父からのものだというのがすぐに分かった。


 

 その手紙の内容は今でも知らないし、父に聞こうとも思わない。でも、恐らくだが父から詫びたのだろう。しばらくして母から家に戻る話を聞かされた時は子どもながらにほっとしたのを覚えている。



 そして僕たちは無事に我が家に帰還。別居生活は半年以上だったと思うのだが、不思議なもので戻ったその日から全く違和感のない元の暮らしになっていた。


しかしまあ子どもは振り回されっぱなしである。

 

 そんな短気な父の天敵は「渋滞」と「人混み」。そのため今村家では、家族旅行は2回しかない。



 1回は僕が小学校低学年のころに行った伊豆のホテル「聚楽」。ここでも母が酒に酔い夫婦喧嘩が勃発。


 楽しい家族旅行のはずが、まるで荒修行に変わってしまい結局は父の「帰るぞ!」の一喝で泊まらないで家族全員で帰ってきてしまった。


 

 2回目の旅行は小学校3年生の時だ。その時も伊豆に行き、この時は無事に1泊できたのだがその帰りに渋滞に巻き込まれた。昼に伊豆のホテルを出て夕方にさしかかるも、依然渋滞は続いたまま。



 うちの父はまるで短気の見本のような人間で、この時もちゃんとブチ切れ。平塚まで残すところあと30kmのところで限界を迎え、父は根府川あたりで裏道にはいり民宿を見つけ宿主に交渉して急遽そこ家族で泊まることになった。



 笑い話にはなるが1回目の「失った一泊」を取り戻したのである。


 

 父がようやくその短気を克服できるようになったのは、孫のチカラだった



 長女ユキネエ”こと由紀の家族と父が初めてディズニーランドに行くという話を聞いた僕は、姉に「あのランドの混雑は絶対トラブルになるから止めたほうがいい」と説得したのだ



 だが現実は全くの想定外で、父(祖父)は終始円満の笑顔でディズニーランドを楽しんだのである。いやはやは可愛いと、聞かされてはいたが「これほどなのか」と心底驚かされた。


 

 夫婦喧嘩の話に戻るが、両親も「離婚」の危機は何度もあったのだが、終生の伴侶として共に人生を歩んだ。そのことも両親に感謝したい


 

 そういう僕もカミさんと夫婦喧嘩をすることもある。そんな女房との喧嘩話を人生の先輩にしていたら「女房に勝とうなんて思ったら、人生なんてうまくいかないよ、早くカミさんに謝んなよ」と窘められた。


 

 確かに思う、喧嘩の原因は色々あるが、こんな僕とも連れ添ってくれている女房には頭が上がらないもんだ



 今となれば父も同じ思いを持っていたのかもしれないと感じてしまうのだ



お正月に初詣に向かう前にトラックの前で。

飯場にもシデが祀られている。1978年くらい。

飯場の子 第3章 12話 中村組との別れ

 

 

中村組の下請として約10年。別れは突然やってきた。


 その原因は癖のある現場監督であった。名前エハラいわゆる下請けいじめが大好きな性格の悪い男なのである。どの業界にも、この手の人間はいるものだ。


 当然ながら中村組内だけでなく下請け会社からの評判も良くなく、あまりの傲慢に、あのとは一緒に仕事をしたくないする声多方から聞こえてきていた。


 

 甲斐組も当然ながら請負う工事によってはその監督のもと「仕事」に従事するのだが、まあ細かいことにケチをつけるわ、現場では大きな声で威張りちらし、皆を不快にする。現場の雰囲気は最悪の状況になってしまうのである。しかし、下請けの弱さかな、いずれの会社もその監督には逆らうことができなかった。


 逆らえば「仕事を切られる」それは死活問題にも繋がるから皆が悔しい気持ちの中で下を向くのだ。そんな相手甲斐組社長である父も悶々とした思いを胸に秘めていた

 


その日は父も機嫌の悪い日だった夜間の舗装工事を皆で頑張っている中、問題監督のエハラが登場が彼をそれほどまでに不機嫌にさせたのか「てめえら、勝手に仕事を始めてるんじゃねえ」と、自分が大遅刻しているのもお構いなしに、甲斐組の従業員を怒鳴り散らしたのだった。このエハラの立ち振る舞い父の我慢が吹っ飛んだ「エハラ!てめえ」の怒号とともに襟首をつかみ強烈なパンチを顔面に叩き込み殴る蹴るの暴行を加えてしまった。当然現場は騒乱状態皆が止めに入り騒ぎは止まったのだが当人のエハラは悪態をつきまくり現場から逃げるように去ってしまった。

 

 理由はどうあれあげてしまった手」は当然なかったことにはできず。翌日に父は中村組に呼ばれることになる当人のエハラは一方的に殴られたと父を非難その話を中村組としては無視できなかったのだ。


 結局甲斐組はそれ以降、中村組から仕事を切られ、さらに同社の社長から周囲の同業に「甲斐組に仕事を出すな」というお触れまで出されてしまった。

 

この件に関してはかなりセンセーショナルな出来事として周囲を驚かせたらしい。中村組追放の理由の一つにはうちの父親、中村組の2代目社長とはソリが合わなかったというのもあるだろう。

 


 甲斐組は川崎から平塚に移って以降、中村組から仕事を請けながら業界内で知名度を上げてきたが、中村組は業界では頭3つほど突き出ている存在。影響力も絶大で、仕事の打ち切りだけでなく、こうした地元業界全体への圧力は大きな打撃になる。甲斐組にとって、立ち上げ以来最大の危機ともいうべき出来事だった。

 

 当時、僕は小学校2年生ぐらいだったと思う。子どもに心配させてはいけないと思ったのか、父親や周りから異変などは感じなかったが、よくよく振り返ってみると、そういえばある時期から家族の間で「中村組」という名前を聞かなくなったと気付く。

 

 もちろん、どんなことがあってもの件において手を上げてしまった父に非があるといえるだろう。しかし、数ある同業会社の中には別な意味も含めて当時の中村組の傲慢な振る舞い反発心を抱く人も少なくなかった。


 そのうちのひとつが、平塚の中でも当時市内でバリバリやっていた土建屋「細野興業」だった。

 

 舗装業も請け負っていた細野興業。甲斐組が中村組から離れると聞いた同社社長は、さっそくうちの父親を呼び出し「これからどうしていくつもりなんだ。中村組が何を言おうが関係ないから、うちの仕事をやらないかと声をかけてくれたのだ。

 

 うちの父親が荒くれ者だということは、業界内ではもはや周知の事実。「甲斐組を使うな」というお触れも出ている。それでも「あの中村組の下請けを10年こなしてきたいうのは、業界の中では「甲斐組はタフ確かなはずだ評価され、細野興業のように声をかけてくれる会社は少なからずあったのだ。

 

 まさに「捨てる神あれば拾う神あり」。細野興業からの声掛けに、父も「よろしくお願いします」となり、それ以降は細野興業の下請として第二のフェーズに入っていくのだった。

 

 今、父はこの出来事を「逆にいい機会だったのでは」と振り返る。


 当時は高度経済成長の時代。働き手がいなくなると困る元請の中には、下請を手放さないために、仕事が終わっても全額を支払わ保留金」として3割ほどをいわば「人質」として預かり、次の仕事が決ままで払わない会社があった。中村組もそのうちのひとつで、こうした縛りに甲斐組も例外ではなかったのだ

 

 そのため、中村組の下請として10年目を迎えた時点でも、会社としてはお金も回ってはいたのだが、現場で使用する重機もろくに買えない状況にあった。逆に中村は自分たちを使って散々儲かったんだろうよ父は言う。

 

 さらに、この細野興業との出会いによって甲斐組がのちに大きく変わったことがある。「元請参入」だ。


 それまで父は「一生下請けの舗装屋のままでいい」という思いだったそうだが、この細野興業の社長は「いや、オマエのところはこれだけの若い衆がいて、これだけの実績があるんだから絶対元請をやれ」と打診してくれたのだ。


 その後、細野興業のアドバイスのもとで官公庁への入札業者の申請を行い、晴れて元請け業者の認可を持った甲斐組。そして、平塚市より初の指名を受けて入札に参加していくのだった。しかし、この元請け参入にも大いなるシキタリがあったのだそう、業界特有のルール「談合」。その壁にぶつかりながらも、甲斐組はさらに前進していく。

 

中村組には、無論多大な恩義がある。川崎から平塚に移り、舗装業として「甲斐組」を興せたのは、まぎれもなく中村組のおかげだ。


しかし、下請という縛りからの解放」や「元請参入」という大きなきっかけを考えると、「もしあのまま中村組の下で働いてたら今の甲斐組なかっただろう、父はもちろん、二代目を引き継いだ僕自身もそう思うのだ。



平塚海岸にて大好きな怪獣のおもちゃを従えて親分気取りの著者(1977年当時)