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ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

飯場の子 第6章 24話どうしようもない中学生日記 恋愛編




 

まあ、ヤンチャ活動に没頭し、勉強もそっちのけの飯場の子にも春は来るのである。


 

 中学1年生の時、好きな子ができた。同級生の「ヤマモトさん」という子だ

幼稚園の時も小学校の時も好きな子はいた。が、それまでの「好き」とはわけが違う。相田みつをじゃないが「だって思春期だもの」、である



授業の風景(イメージ)

 

 ヤマモトさん凄く美人というわけではないが愛嬌がありしっかりしたで、新体操部に所属。勉学の成績も学年上位の優等生だった。

かたやこちらはヤンチャ組。到底釣り合わない。が、恋というのはこういう壁があると余計に燃え上がる。



 好きな気持ちは日に日に強くなっていったのだが思いを伝える勇気がなかなか出ず、結局自分の気持ちを言えぬまま1年生は終わった


 

 2年生の夏休みあとぐらいだっただろうか、ある女子の不良グループの1人に呼び出され、こう聞かれた。ヨッチってさ、今好きな人いるの?」



「いないよ、なんで?」と返すと、どうやら同級生のマミという子が僕に好意を持っているので一度、話を聞いて欲しいとの事だった

 


女子グループ(イメージ)


 マミほとんど話したこともなく、よくは知らない女子だったが別に嫌いじゃないタイプだったので、悪い気はしなかった。どころか、初めての女子からの恋のアプローチに内心は嬉しさと、ビビり織り交ざり複雑な心境だった。


 

 さらに僕は硬派を気取っていたため、その気持ちを表面出さずクール「話くらいはいてもいいけどな」と答え

するとその後、放課後に呼び出され本人から告白され、僕は軽いノリで付き合うことにOKしてしまったまあ、中学生の恋愛というのは、だいたいこういう感じではあるが。


 

 しかし、しばらくたってある事が起きてしまった。

付き合うことになって早々近くのコンビニの公衆電話に当時流行っていた「相合傘」を僕の名前とともに書き込んでいた。そのあたりは学生にとってはたまり場のようなところになっていて、同級生たちの目にすぐに留まった。



こんなのあった(イメージ)


 それが耳に入った僕はさすがに黙ってられず、「勝手に俺の名前使って落書きたらしいじゃねえか。誰がそんなことやっていいって言ったよ。今から消してこい」と荒っぽい口調で非難。彼女が顔面蒼白で消しに行った、ということもあった

 

 当時はヤンチャすることに必死。男同士とつるむことがほとんどで、マミとは二人で下校することもしない。繰り返しになるが、女子とイチャイチャするようなガラじゃなかったのだ。



(なぜか校内で集合写真が好きなのね)

 

 ただ、そんな彼女とも未だに覚えている時間がある

「相合傘事件」があったあと、人づてにマミがひどく落ち込み泣いていたと聞いた僕は、悪かったと思い、ある日の放課後、夜、時間空いてると誘ったことがあった。

 

  マミ女子の不良グループには属していたが、彼女の家庭はわりと裕福で、近くを流れる川のほとりにある「新しいマンションに住んでいた。夜の8時ぐらいに近くで待ち合わせした僕は川にかかるのふもとで煙草をふかしながら彼女を待っていた



下花水橋


 しばらくしてやってきたマミ川のほとりを海へ歩き、134号線の橋を渡って、公営駐車場の自動販売機の前で座りながら缶コーヒーむ。しばらくして川沿いの小道川上へ歩くと彼女のマンションの下に着く、そして彼女を見送る。そんなデートだった。



公営駐車場

 

 会話の内容は他愛もない学校の話と不良の話ばかり、ただぶらぶら歩き、夜の散歩だけで大したことはしていないのだが、それを鮮明に覚えているのは、恐らく時の彼女すごく喜んでいたからだろうあの時の彼女はずっと笑顔だった。



  しかしやはり僕はヤンチャ業が優先。もうすぐ3年になるころ、他校との勢力争いなどヤンチャ界も華僑に入ってくると、「こんな時に女の子にかまけてられないと」変に格好をつけて、彼女に「おれ今もう浮ついた気持ちでいられない」と告げ、お別れすることに。


 結局合わせて数回ほどしかデートせず、実質つき合った期間は半年弱くらいだっただろうか。


 でも、初めてお付き合いしたマミの事は今でも忘れられない存在だ。



 

 ヤンチャ業で女の子にかまけてられない恰好をつけたはずだったが3年生になり僕は、再びあのヤマモトさんと同じクラスになる。


そうなると勝手なものだ、封印していたはずの恋心が復活。そしてお構いなしに燃え上がる恋愛感情抑えることができない。

 

そしてその感情はピークを迎えるのだった。

それは中学最後の体育祭だった。3年生の種目である「仮装行列」。クラスの皆で作ったお神輿、体育祭が終わった翌日に海まで担いで闊歩した後夜の砂浜で燃やす、というクラスのイベントがあった



仮装行列(卒業アルバムより)

 

 砂浜で燃える神輿を皆で眺めていた。そういうムードの中、これまで伝えられなかった思いが爆発し、僕は彼女を少し離れた場所に呼び出した。



  そして夜の海辺で「おれヤマモトさんのこと好きだ」と伝えた。「これからも多分好きだと思うから。それだけ言いたかった」と


 

「付き合ってくれ」とは言えなかった。フラれることが怖くて自分の思いだけを伝えたのだ。

付き合ってくれって言わなければ「ごめんね」は言われない。そんな計算高く根性なしの僕に、彼女はひとこと「ありがとう」と言ってくれた。



夕暮れの平塚海岸

 

それから何日か経った後、彼女が手紙をくれた。

本当に嬉しかったです。これからもいい友達でいてくださいと。

 

「付き合ってくれ」とは言わなかったものの、彼女の反応から「実らぬ恋」と悟ったのだがそれでもこの手紙もらって実に清々しい気持ちになった


 

どうしようもない中学生日記もヤンチャと恋とほかに書ききれない事が本当にたくさんあった。それは青春の一遍として今も大切な思い出だ。


 

1年時には15人くらいだった同級のツッパリ組も一人抜け二人抜けと、減っていき。3年の時には「アサワオカジミネオオギノシゲタイチカナメヨシダヨッチ」の9人になっていた。この9人は今も大切な仲間だと思っている。



文化祭のあと

 

そしてその仲間の一人、オギノコウジ通称「ヘギン」は甲斐組の副社長として今も僕の隣にいていつも支えてくれているのだ。

飯場の子 第6章 23話 どうしようない中学生日記 部活とヤンチャ




 

地元浜岳中学に入学後、すぐにツッパリ組の洗礼を無事に受け、意気揚々の生活が始まった。

 

もう1つ、小学生から中学生になって大きく生活が変わる要因として挙げられるのが「部活動」だ。





入学と同時に、各部活では早々に2年生3年生の先輩たちによる「1年生の争奪戦」が繰り広げられる。「お前はサッカー部入れよ」、「野球やってたんだろ、他に入部するなよ」と。


 

実は、僕は小学生45年のころに剣道スクールに通っていた時期があった。

我が浜岳中学校伝統ある剣道部があそのため僕も当然、同じ剣道スクールに通っていた先輩によって半ば無理やり入部させられることになった。

 

 

昭和生まれの読者ならわかると思うが、当時の運動部は先生からも先輩からもスパルタ教育が常だった。

 

うちの剣道部は基本的に道場(体育館)で練習できるのが週に回と決まってい他の部活と体育館をシェアしなければならなかったからだ。

そのため、インドアなスポーツでありながら練が多かったわけなのだがこの外練内容本当にしんどかった。


 

その筆頭がランニングだ。学校の周りを5周走らされるのだが、周回遅れになって途中歩いていると、先輩たちが腕を両サイド引っ張り合って走らされる。

さらにしんどかったのが筋トレ3年生は外練などには参加しない


そのため外練はいつも1年生と2年生のみになるのだが、3年生の目が離れる分、2年生は普段以上に1年へのしごきが強くなる。まあ、それも伝統のようなものなのだが。



足上げ腹筋、空気イス・・・30秒と言ってきながら、28、29くらいまでカウントしたころ、今度は10に戻されたり、腹に力に入れろと言われて、先輩がその腹の上を歩くなどの「虐待トレーニング」が繰り返されていた


 

今では考えられないが、当時は途中で水飲み休憩なんかとらせてくれなかった。そんな地獄の外練が2時間。終わった頃には1年生は地面にへばりつき、毎度起き上がれない状態になっていた。




 

一方、体育館が使える中練の日では朝稽古があったが、練習量は外練ほどきつくはなく、防具を着て素振りの練習その後の午後ではかかり稽古」として竹刀を持ち、打ち合いなどをする。どちらかというと1年生には中練の日がうれしかった。



 

夏になり、3年生が引退。部活が1年生と2年生だけになると、僕は新しい2年生の部長になったヤマダさんとソリが合わなくなりさらに「ヤンチャ活動」のほうに傾倒するようになった。


 

こうしてパタリと部活に行かなくなった僕を先輩黙って見過ごすわけがない

案の定、先輩から同級生の部員を通じて呼び出しがかかった

僕と一緒に練習をさぼりまくっていたワル友「オカジ」も同様に呼び出される。二人は「これただ事じゃすまないな」と察した。



呼び出された二人は、体育館横にある普段は立ち入り禁止の松林に連れて行かれ、待ち構えていた剣道部の先輩横並びで松の木にしがみつかされ、背中越しにこう宣言される

「これからお前らをヤルからな、覚悟しろよ



その言葉と同時に、先輩たちが5メートルくらい助走竹刀を背中に打ち込み始めた

10発目くらいだろうか隣から嗚咽が聞こえてくる。隣にいるオカジは悔しさと激しい痛みからさすがに目に涙をためていた

 

その横で僕は「ここは根性しかない!」と歯を食いしばり「オカジ!負けんじゃねえ」と叫んでいた

30発は食らったろうか、ようやく解放された。最後に部長のヤマダさんが「今村、、お前なかなか根性あるな」と捨て台詞を残して先輩達はその場を去った。



松林にへたりこんだ僕たちの背中は首から腿までは、血がにじんだみみずばれが数十あり、そのシゴキの激しさを物語っていた痛みと悔しさの中、互いの傷を見合いながら、僕たちは「いつかやり返してやと心に誓ったのだ。



 

中学の出来事ではあるものの、僕にとってあそこでナキをれなかったことは、自分の変な意味での自信になった。「引いちゃいけないという姿勢を貫けたという意味では誇らしかった。



そんなシゴキにもめげずに部活をさぼり続け、結局1年の3学期に僕は剣道部を自ら退部したのだった


 

夏休みくらいから僕のヤンチャ活動は本格的になっていた、ワル先輩からの誘いもあり、夜になると親の目を盗んでは外出するようなっていた。



先輩の家で煙草をふかしながら、喧嘩の武勇伝やさらに上の先輩達の悪かった話を聞かされる。





また当時は不良暴走族もまだ盛んな時代であり、「雑誌のヤングオート」やヤングマガジンの「ビーバップハイスクール」などの話で盛り上がっていた。






当然ながら勉強なんかはそっちのけで、放課後は不良のたまり場のような学生服屋やゲームセンターなどを仲間と一緒に遊び惚け、夜は先輩たちとつるむような日常だった。


 

まあ、たまり場にいれば当然、他校のツッパリ連中とのもめごとになる。その場で喧嘩乱闘まではないが、因縁の付けあいになる。ここは結構気合の勝負で、下を向かなければ何とかなるし、そのまま意気投合する奴らもいた。


 

2年生にもなると不良のスタイルも先輩から許可を受け堂々と着飾るようになる。中ラン・ドカンに短ラン・ボンタンなど学ラン自慢を楽しむのだ


著者14歳

 

外でもめた因縁付けから他校の連中を制圧に繰り出し、平塚市内の中学のワル連中自分たちのグループ入れて勢力を拡大していくまったく馬鹿のようなことなのだが、自分なりにツッパリ道を真面目にやっていた。



著者15歳

 

そんな中で中学3年になるころには、浜岳のイマムラの名前は市内にそれなり通っていて、隣接市の伊勢原から平塚との揉め事の仲裁に入って欲しいなどの連絡までくる始末だった。


 

警察にも厄介になり、親にも迷惑をかけていたが、自分たちなりに非行少年と不良少年は違うと「掟」みたいなものは守っていた。それが自慢にもならないのだが、波乱に溢れたどうしようもない中学生日記を日々つづっていたのだ

飯場の子 第6章 22話 「どうしようもない中学生日記 入学




 

「飯場」と共に育ち、遊び、本当に様々な経験をした小学生時代もそろそろ卒業という区切りを迎える時が近づいていた。そんなある日の夜「二人の姉」から突然訓示を受けることになる。


 

 「お前もいよいよ中学だな。どうせお前もツッパリになるんだろうから、大変だぞ~。」と、半分からかった感じで話をしてきた。二人の姉も中学時代は目立っているグループにいたので、ツッパリ組のシキタリはよくわかっているのであった。


 

 「まずは悪い先輩のパシリをやることから始まるんだよ。」といきなりパシリという意味不明な単語が飛んでくる。「とにかく浜岳は上下関係にうるさいから、先輩に目障りにされたら終わりなんだ。先輩に可愛がられるようになるんだよ。」

 

早い話が、「ツッパリになるなら覚悟していけよ。」という姉なりのエールであった。

 

時は1980年代。いわゆる「ツッパリ全盛期」である。

 この浜岳中学校には、僕の通った「なでしこ小学校」と、隣の「花水小学校」の2校が集結することになっていた。小学校卒業前になると噂話で隣の小学校のツッパリ予備軍の話が聞こえてくる。「花水の〇〇はヤバイ奴らしいぞ。」とかそんな感じだ。ただ、なでしこ小の同級にはそれなりの人材?がいたので強気だった。



なでしこ小学校の予備軍(著者中央)


 

 いじめっ子だが野球は抜群の「セト」。なにより喧嘩が趣味という「タナベ」。九州からの転校生「シゲ」。頭も腕っぷしもいい「ワキ」。運動神経抜群のお調子者「ミネオ」。そして飯場の子「ヨッチ」。この6人は特に目立っていた。


 

そんな中、いよいよ「なでしこ小学校」の卒業式を迎えた。寂しさよりも、これから始まる中学という世界がどれほどなのかギラギラした気概に満ちていた。


 

浜岳中学の入学式などの記憶はほとんど無い。それほどに気を張っていたのだと思う。


 

あらたな校舎や教室、黒板に机など、小学校とは完全に違う世界であった。そして、見慣れない花水小の生徒達。担任の先生と授業ごとに教師がかわる。算数から数学に変わっただけで頭のレベルまで上がったと勘違いしてしまうようだった。そして一番の驚きは上級生、特に3年生は男女とも「オトナ」に見えるのだ。



 

1学年は8クラスあり、僕は1年3組になった。なぜかそのクラスにはその学年のツッパリ君が集められていた担任は「鈴木先生」。ご想像の通り、学年で一番怖い先生が「見張り役」としてついたわけだ。



 

嬉しかったのは花水小であるが顔見知りの「オカジ」と「アサワ」の二人が同じクラスにいたのだ。その二人が、他のワル連中である「カツタ」や「カナメ」を紹介してくれた。お互いに牽制はしていたが、「まあよろしく」って感じになった。



 

放課後、なでしこ仲間が集まり、情報交換になる。やはり僕のクラスが断然目立っていたようだ。が、ここで異色の存在が登場する。シゲから紹介されたエザワタイチという奴であった。タイチは、転校生なので知り合いはほとんどいなかったが、すぐに打ち解けた。これまたいっぱしなワルで不良スタイルに通な男だった。



 

また中学に入学と同時に運命的な男と出会う。同じ剣道部になる「荻野宏治」通称「ヘギン」である。後述にするが、彼こそ僕の人生に深く関わる男なのだ。


荻野コウジ(通称ヘギン)13歳



 

る日の午後、1年のワル連中に集合がかかった。指令の通りに渡り廊下へ向かうと、2年生のワルがズラリと集結。ハクをつけるため、不良の学ラン姿でコチラを睨みつけ、タバコをふかしているのだ。僕は姉の忠告が頭をよぎった。そして「いよいよ始まったな。」と腹を据えた。



画像はイメージ


 

しこたまビビっている1年坊に、2年の番格が「今からお前たちにこの学校のしきたりを教えるからよ」と言い出す。

1年生全員が目立つ格好は一切禁止。先輩には必ず挨拶する、先輩は『さん付け』だ」これを学年に徹底させろ。というものだった。散々怖がらせる2年生も必死だ。1年の教育がなってないと、3年生から2年がシメられるのだから。



 

そして集合の最後に、「明日からこのルールが守られない時は全体責任でオマエラ全員をシメるから覚悟しろ。嫌なヤツはいまから抜けろ。」と、なるのだ。



 

 平塚市にはJR東海道線の線路を挟み「南と北」に分けられる時がままある。当時は市内に14の中学校があったのだが、南エリアには浜岳と大洋の2校しかなく、あとはすべて北エリアになる。当然勢力的には、北エリアの方が大きいのである。その勢力図の中で浜岳は独特な上下の強さをつくり出し、北エリアに負けない為の団結力を持ったのかもしれない。


 

集合のあとは、各々顔見知りの先輩との個別の談話になる。


 

2年生の先輩にも顔見知りが何人かいる。もちろん小学校が一緒だから当たり前なのだ。その中のオオカワさんとは親しかったので、先輩と話しをしていた。2年の番格はトウさんという人であるとか、わからない事は俺に聞けよ。とか話してくれた。

先輩「今村・・浜岳のカンバンを汚さないように頑張れよ。」と笑顔で言ってくれた。

 


部活でもない、勉強でもない、何に頑張るのか。


 

でも自分ではわかっていた。先輩が伝えた「カンバン」の意味を誰よりもわかっていたと思う。

それは甲斐組というカンバンを背負っている父や母をみていたからだと。


 

「ああ、俺はこれから浜岳のカンバンを大事にしていくんだ。」僕は握っていた拳にさらにチカラをいれて握りしめた

 

飯場の子 第6章 21話 本社移転」




 

 甲斐組が平塚市撫子原に本社をおき、10年余の月日が流れた。その間には幾多の困難がありながらも、甲斐組は平塚市に根を張り、着実に成長をしてきた。


 

当時の甲斐組の前面道路は時間の流れと共に前後の道路整備が進み、歩道が設置され車道も拡幅するようになっていた。そのため甲斐組の本社が道路にせり出している形になっていて、それは「ボトルネック」のような状態になり通行の妨げになっていたのだ。



(撫子原時代の本社事務所1980年くらい)


 

僕が小学校年のだったと思うが、いよいよ前面道路の拡幅の工事が始まり甲斐組の本社敷地の1/3くらいが削られて、きれいな歩道と道路が出来上がったのだ。




目の前の道路がきれいになったのは普通うれしい出来事なのだが、会社の敷地がぐっと狭くなったことは、僕にとって切ない出来事でもあった。



 

僕が小学校から中学校に挙がる直前のころ、ある日の午後、突然母に新しい会社の場所を見に行くから一緒にこうか尋ねられた。その日のことはよく覚えている。ちょうどその時僕は同級生と家で遊んでいたため、「なあ、見に行こうか」となり、その友人と一緒に行くことになった。




(1980年のなでしこ小学校 西海岸地区は住宅街であった)


当時住んでいた西海岸地区から見知らぬ土地を走り抜けていくクルマ。とにかく北へ向かっていることは分かっていた、平塚市の地理もまだ理解できていない年齢である。友人と黙って揺られること20分ほどだろうか、車の窓から眺める風景は家よりも田畑の広がる「田園の風景」になっていた。そして、母がようやく広くもない道路の脇にクルマを停めた



 

「ついたよ」の言葉に車を降りて、母の後ろにつく。母は指をさし「ここが新しい会社の場所になるんだよ。」といった場所は、窪地になっている大きな畑だった。


 

周辺に見えるのは小さな川と橋、南側に数棟の団地があり、川の先にはなんやら牛舎みたいなものが見える。なんとものどかな風景だった。

 


しかし、母が指さす土地はやはりどう見ても「窪地」。道路から3メートルくらいの高低差がある。見下ろす畑と立っている道路は繋がっておらず、子どもの僕でも「どうやったらこの場所に甲斐組の本社が移転できるのだろうか」という思いになった。



 

僕の育った平塚市の西海岸地区は住宅街であり、賑わいもあったのだが、移転先にきまった場所」を見た時に、「ああ、随分と寂しい場所になるなあ。」といった思いになった。



 

会社が移ることは、前面道路が拡幅された時から聞かされていた後から知った話だが、甲斐組の本社であった撫子原の土地は借地ではあったが、営業権があったため父は補償金を受け取ったという



 

当時の移転先を決めた経緯はよくわかっていなかったが、地元西海岸地区の市議会議員であった横山さんという人が色々骨を折ってくれたようであった。そして候補として何か所かの土地ピックアップされてきたのだが、そのうち1つが、まさに現在の甲斐組の建つ、この平塚市大島という場所だった。


 

本来、(農地)というのは普通の売買ができず、許可なく建物立ててはならない。が、この時収容移転ということもあり、「事務所と宿舎を一緒に建てる」という条件で売買になったそのためなのだが、この土地は、今後も勝手に住宅にできないという決まりがある



 

これもあとから聞いた話で、敷地は400あるのだが、土地が三角形であったり、市街化調整区域だったこともあり安めに購入することができたしかも移転補償が出たため、土地の購入はほとんど持ち出しなしでできたらしい



  ただ、やはり造成工事は必要ある。土地を3メートルくらい盛り立てないといけなかったのだが、それは土建屋の最たるもの何と言ったって本業なのだ、仕事の合間を見ながら、父と数人の職人たちで開発図面の通りに盛土や間地ブロック積を行い、立派な造成地が出来上がり、設計図の通りに本社棟や2階建ての宿舎兼食堂、トイレや風呂などを建設した。


 

 晴れて昭和58年(1983年)に新たなる拠点、現在の本社所在地でもある平塚市大島1025番地に甲斐組は本社を移転したのであった。この出来事は、甲斐組の発展成長には大きな出来事だったと今でも思う。

 


(現在の甲斐組本社)


 土建屋という仕事柄、多くのダンプが行き来しては大声や作業音が出てしまうのは必然で、撫子原のような住宅街であるよりも、現在の大島は、仕事をするうえで環境はずっといい。

 

 

しかし、この本社の移転をしたことで、僕自身にも大きな変化が生まれた。それは、物理的にも、そして心的にも僕と会社(飯場離れた」ことであった。


 

それまではと会社が真向いであったり、黒部丘に自宅が移った後でも、飯場や会社は近所といえる場所であったのだ。それこそ会社は僕もう一つの「家」であったことは間違いな、幼きときから小学生までの抱えきれない思い出が詰まった場所だった。


 

が、平塚の最南から最北、距離にして8キロ先に会社が移転したことによって、僕と甲斐組は完全に離れてしまったのだ。


 

当時、すごく寂しかったのを覚えている。今まで毎日のように過ごした場所が離れてしまうことは、子どもにとっては居場所を失ったようなものだった。


友達も「会社移転しちゃったから俺たちの遊び場もなくなっちゃったなあ」と残念がっていた。小学校高学年のころ、世間では空気銃遊びなんかが流行っていたが、甲斐組の敷地は絶好の遊び場でもあったのだ

 

この会社移転によって、甲斐組は「西海岸」から去ることになった。つまり、当然世話になっていた西海岸商店街とのお付き合いも少なくなる。ずっと世話になっていた柏木酒店と甲斐組との交流も今までとは変わってしまう


 

ただ、父が黒部自宅を買ったことで、僕はこの先、地元の浜岳中学校に行くことになり、生活の拠点は西海岸に変わりないのがうれしかった。


 

もしあの時、黒部自宅を買っていなかったら、もしかしたら僕たち家族はこの大島の近くに家を購入していたかもしれない。そうすれば、本当に西海岸商店街とも縁が切れてしまたのだろうと思う



(西海岸商店街)

 

そして僕は40代になってからではあるが、西海岸商店街の真ん中である花水台に自宅を購入することとなる、なんとまあ縁とはまさに不思議なものだそして現在も古くからの西海岸商店街の皆さんとは昔なじみのお付き合いをさせていただいている事はうれしい限りである。


 

  それでも、数十年の時が過ぎて風景は変わっても、幼い頃を過ごした撫子原の甲斐組があった場所の前を通り過ぎるときには、懐かしさで今でもチンと胸が痛むのだ。

飯場の子 6-20話 「父との絆」




 

僕の父は物心がついた時から大の釣り好きであった。


 

釣りといっても色々あるが、父の釣りはダイナミックな本格磯釣りで、主に伊豆諸島をめぐり、大型魚の底モノを狙っていたのだ。


 釣り雑誌の「月刊釣り人」に伊豆大島で「寒鯛」を釣り上げたことが記事にされた時は父が有名人にでもなったような気がして誇らしかった。


 

最盛期は1年のうち3か月は釣りに出かけていたと思う。


そして釣りのスタイルは年齢と共に変化していき、「磯の王者石鯛」狙いから、磯のウワモノ狙いで「メジナやアオモノ」になり、60代にもなると「イカやワラサを狙う船釣り」になっていく、流石に70歳を超えてからは、体力的にも難しくなり釣りにはほとんど行かなくなった。


 

僕も幼い頃から釣りをするようになったのだが、その要因には、こうした釣り好きの父、そして家の近くに川や海があったからというところが大きい。が、当時それ以上に僕を釣り場へ駆り立てたのは「釣りキチ三平」という漫画だったと思う。




 

当時の子どもなら誰もが知っているこの漫画に、僕は大いに憧れた。そして小学生用の参考書のような釣り入門書があり、僕はそれをこぞって読んでいた。


 

こうして完全な釣り少年になっていた僕が、初めて本格的な夜釣りをしたのは、小学校3年生のころ。父に連れられて行った熱海の堤防だった。

例の「ライトバン」の後部座席に乗り込む。その手には、「釣りキチ三平の釣り入門書」。父を待ち出発するまでの間、その本を読みながら気持ちを昂ぶらせていた。



 

二人で車を飛ばした道中真鶴の釣具店でエサなどを買って、現地に到着。その日の熱海の堤防には人も少なかった。到着すると手早く準備をして、「ぶっこみ」という投げ釣りを始めた。父と横並びで竿を立て、アタリを待つ。釣りをした人ならわかると思うが、「釣り」をしている間は他の事は何も考えない。ただ、竿先に神経を集中させるのだ。

 



 

初めての夜釣り。期待をしていたがその日は潮がよくないのかアタリが全くない。10時を回ったくらいに父が「今日はダメだなぁ。帰るかぁ」と言った直後に父の竿にアタリが来た。慌てて合わせると、かなりの引きの強さだった。数十秒のやり取りで、かなりの大きい魚だとわかった。僕は大興奮。数分間の格闘の末、糸が切れてしまい結局逃げられてしまった。父は「デカかったなぁ、フエフキ鯛だったかもなぁ。」と興奮している僕に話していた。

その日はそのまま上がる事になったが、その迫力に、僕は完全に父との釣りに魅了された。



 

それ以降、僕は週末を利用して、父の伊豆大島への釣りに同行するようになっていった。




 

今ではアプリなどで簡単に「釣れるポイント」が検索できるが、そのころは伊豆大島の定宿から夜の自宅に電話がかかってくる。

もしも。えっ?イサキが入れ食い⁉️おお、分かった明日から行くよ」と、こんな感じだ。電話を切るとすぐに準備にかかり、翌日、目の色を変えて伊豆大島へ向かう父。


 

父が大島で釣りをしている土曜日は、学校が終わるや否や、校門前に準備万端の母が待機。ライトバンで熱海まですっ飛ばし、その後ひとりで大島行きの船に2時間乗るのだ






 僕はひとりこの船に乗るのがまた好きだった。に連れられることなく大海原を航海する時間「大人」になった気分になれたのだ。

 

大島に到着後、父と合流すると一休みろくに取らず、釣りを開始。が、月曜日には学校や仕事があるため、翌日の日曜日には島を出なければならい。



笑い話だが、そのまま釣りに没頭したかった僕たちは、「明日の船が天候不良で欠航になったから帰れない」と母に電話。母も呆れた声で応じてくれた。そして日曜日もそのまま釣りに興じることも。この手法で、最高水曜日まで学校を休んでしまった。

 

小学校4年から6年までの三年間で父と釣りを共にした日々は素晴らしい体験だったと今でも感じる



 

何よりも大自然の息吹や宇宙をリアルに感じた。磯にあたる風と波の音、海に沈んでいく夕日の美しさ。夜は満天の星空に流れる流星を見せてくれるのだ。




 

そんな磯で釣りをしている時はすべて共同作業、親子でも男同士の相棒なのである。しかしやはり子どもなのだ夜半にくる眠気には勝てない。

 

「おとう俺ねるよ」と言うと「おう、寝とけ」となる。(釣りを初めてから父をおとう、と呼ぶようになっていた)

そういう時は、近くに寝場所をつくり、満天の星空のもと、必ず持っていく携帯ラジオを聴きながら眠りにつく。


 

明け方、水平線が明るくなり携帯ラジオの音目を覚ますと、素晴らしい朝焼けの風景にひたすら釣り続ける父の後ろ姿を見るのが好きだった。



 

そんな当時の記憶の中でも忘れもしないのが、ある日の出来事だ。


 

夜、民宿で過ごしていると、父が釣りに行くと言い出し「0時には帰って来るから」と言い残し、一人、釣り場に出て行った。その釣場は「オーツクロ」という民宿から300メートルほどのところにある近いポイントなのだ。10時くらいには寝床についたが、なんだか心配で寝付けなかった。時計を見ると0時半であった。なんだかとても心配になり、不安が胸をよぎる。



(オーツクロ)

 

まさか海に落ちたんじゃないか……。

そんな思いでいっぱいになるが、真夜中である、怖くないわけがない。

いやしかし、もしかしたら父が助けを待っているのかもしれないという思いがかすめ、ついに僕は決意して、懐中電灯の大小二つを持って民宿から一人、オーツクロに向かった。



(民宿奥山荘よりオーツクロへの小道 昼)

 

民宿の目の前の道路は狭く、オーツクロに向かう側は漆黒の闇なのだ。大人でも躊躇するような闇に向かうと吸い込まれるような感覚になる。ライト1台を片手に持ち、もう1台を肩から下げた。その闇にいるかもしれない得体のしれないモノに「来るなら来てみろ!」と全身に気合を入れ前進した。生まれて初めて腹を括った瞬間だったかもしれない。


 

釣り場までの道中には、50メートルほど原生林の坂を下り抜ける必要がある。大した距離ではなかったが、木が風に揺られ音を立てる、大人でも怖いくらいのところを、自らを奮い立たせて突き進んだ。


 

こうして恐怖と戦いながらようやく坂にある磯場まで着くと、磯の先ヘッドライトを点けて釣りをしている父親の姿が見えたのだ。

心底ほっとしながら「おとー」と呼ぶと、その瞬間にちょうど父親の持っていたヘッドライトが切れたのだ。


 

僕の姿を見て、流石に父もびっくりしていた。まさかこんな子どもが、真夜中にここまで一人で来るとは思わなかったのだろう。


 

僕は「時間に帰ってこなかったから心配になってきたんだよ。」と言うと、「そうか、もうそんな時間か。でもまだ少しヤルから、丁度よかった。その懐中電灯置いて帰れ」と言い、結局本人は朝まで釣りを続けることに。


 

こうして帰り道はミニライトで再び1人になるわけだが、不思議なのは、行きのような恐怖はひとつもなかった。



一度来た道。父親の姿も確認できたし、原生林を登り、民宿に続く狭い道路向こうは闇ではなく宿の明かりが見える。が、怖さを感じなかった要因は、ただ一つ、行く道で得た覚悟だったのだろう。

父を心配して、漆黒の闇に向かって己を鼓舞して、突き進んだ経験が自分を成長させたのだろうと、今でも思うのだ。



 

こうした父との伊豆諸島での釣りの旅は、本当に尊い時間であったと両親に感謝する。

先述したが釣りをしている磯での二人は男同士だった。親子でも父と息子とは「ライバルであり、友でもある」のだと。この経験は大きな学びになった。



 

中学になると自我目覚め、親と行動するのが恥ずかしくなるようにそれ以降、ぱったりと父との釣行に同行しなくなった。



 

時が経ち、甲斐組に入社後も、頑固ゆえに人を褒める事もなく、悪口しか言わない父とは意見の衝突ばかりであった。



 

しかし、それでも父との関係を完全に断ち切らず、仕事も途中で投げ出さなかったのは、この少年時代に「釣り場」で過ごした「男同士のがあるからだと、強く信じている。