飯場の子 5章 18話 「台風の日に」
これは、僕が小学校4年生くらいのころ、大きな台風がやって来たある日のことの話だ。
昨今は天気予報も台風情報も日々ネットで簡単に調べることができるが、当時はテレビとラジオまた新聞紙面でしか情報を得る手段がなかった。また、予報そのものも今よりは精度も低かったと思う。
その年の何号の台風だったかも覚えていないが、その日、神奈川県には大きな台風が直撃するという予報が出ていた。雨も風も非常に強い台風とのことだったのだが、当時は危機管理も今より低く、台風予報が出ていても小学校は普通に授業があった。
朝、登校のために家の玄関を開けた瞬間に、外の様子は明らかにいつもと違う。海岸が近い僕の家では、既に海の潮気を含んだ生暖かい空気が不気味に充満していた。そして強い風が時折、吹いてくるのだ。
生徒はざわめきながら登校してくる。いつもと違う教室、そして授業は始まるも、時間が経つにつれて雨風は激しくなる一方。
不安に思っていると案の定、担任の先生から「これから台風が強くなるから、今日は授業を中止して、下校とします。みんなは絶対に外に遊びになど行かずに、おとなしくしているように」と授業は早々に切り上げられ、全学年、一斉に下校することになった。
…が、皆が昇降口に降りたころには、台風は想像以上の威力になっていた。半端じゃない風で、雨も横殴り。いざ外に出ようと思っても、傘なんてとてもじゃないが差せない状態。もはや子どもが普通に歩いたら飛ばされるんじゃないかと言うレベルで、結局生徒たちは、昇降口で身動きが取れなくなってしまったのだ。
学校と家が目と鼻の先という子は走って下校していく。また、学校も連絡網で通知していたので親が迎えに来て一緒に帰った子もいたりしたが、下校できない生徒が多数いて昇降口は大混雑だった。
僕の家は学校から歩いて7~8分くらいかかるため、その人混みで待機していたのだが、学校から連絡を受けたのだろう、僕の母親は、会社のライトバンで迎えに来てくれた。その時に、家が近い友達を何人か乗せてくれと頼み、混乱の中、なんとか帰ることができた。
車中から、振り返ると昇降口には不安な顔をした、同級生や生徒が多数残されていた。「みんなどうするのだろう」。と子どもながらに心配していたのを憶えている。
同乗させた友人を各家に降ろした後、ライトバンは会社に到着。事務所には、台風で仕事ができない父がテレビで台風ニュースを見ていた。
僕は、台風による下校の興奮冷めやらぬまま、父に今日の出来事を話した。猛烈な雨風のこと、授業の打ち切りのこと。それを落ち着いた様子で聞く父。が、「昇降口にまだ残されているたくさんの生徒たち」に話が及ぶと、父の様子が一遍した。
何を考えたのか、いきなり「ヨシヒロ、行くぞ」と僕に声をかけ、おもむろにライトバンに二人で飛び乗ると、横殴りの雨の中、学校に向かったのだ。
僕は「この人は一体何をする気なんだ」とただただ唖然。そんな僕を尻目に、父は学校に着くや否や、昇降口の前でクルマを停めた。そこにはまだ十数名の生徒が残されていたのだ。父は車を降りながら「おい、センコーは何やってんだ」と大きな声を出し昇降口へと入っていった。
びっくりしている生徒を横目に、父は職員室に向かったのだ、何の騒ぎだと集まってきた先生にこう叫んだ。
「おめえら職員室でぬくぬくしやがって、この暴風雨の中、子どもたちを勝手に帰らせるやつがあるか。あんたらだって学校までクルマで来てるんじゃねえか。みんな乗せて帰るくらいのことをしねえのか!」と先生たちを一喝。僕は父の後姿を見ながら呆然としていた。
言わずもがな、僕はこの学校の生徒である。自分の学校で「校長出せ」と怒鳴り込む父を見上げながら、素直に「この人はヤバイなぁ」と思った。が、それと同時に「父の言ってることは間違ってない」とも感じた。
ただ、先生たちにもルールがあって、勝手なことができないのだろう。連絡の取れない親御さんもいて、大変だったのだと思う。慌てて駆け付けた教頭先生が、「いやいや、今村さん、落ち着いてください」となだめる。他の先生も圧倒されていて黙って見ているしかできない。
父はおもむろに「あんたらが出来ないなら、これから俺が子どもたちを送り届ける」といって制止する先生を振り切り、今度は僕を学校に置いたままライトバンに乗って走り去っていった。
先生達も「どうなるやらと、昇降口で残された生徒たちと一緒にいた」10分後くらいだろうか、グォーンというエンジン音とともに会社のダンプトラック4台が暴風の中に現れたのだ。父は先頭のダンプに乗っており、雨の中降りて来るや否や若い衆に指示を出し、子どもたちを家の近い人数に区割りして「おーいクルマに乗せろー!」と呼びかけたのだ。
「おれが全員送り届けてやる!」
もうこうなったら先生達も何も言えず、その状況を見守るだけだった。
すると、昇降口にいた子どもたちは大興奮。キャッキャとダンプの前に集まると、若い衆が各クルマの荷台に子どもたちを5~6人ずつ乗せ始めた。
板のままじゃだめだと思ったのか、荷台の床にはブルーシートが敷かれており、子どもが乗った後にはその上からもブルーシートをかけ、暴風雨の中、父は昇降口に残された生徒たちを本当に自宅近くまで見事に送り届けたのだった。
その時に僕も生徒の皆と荷台に乗っていたのだが、一緒に乗っていた友人や生徒たちから「ヨッチくんのお父さんはすごいなーありがとう」。と言葉を掛けられた。
僕は「いやー」と照れるだけだったが、その時の父親と若い衆が最高に格好良く、そして「甲斐組」という看板を心から誇らしく感じた。
この出来事は、今では認められない行為であることは間違いない。しかし、まだまだ皆が助け合わなければならない時代には地域を支えるナニかが必要なことでもあったのだろう。現に賛否はあったが、後日ダンプで送った生徒の保護者や商店街の人たちからもお礼と称賛の声が上がったのだ。
この経験は僕自身には忘れる事がない大きなインパクトであった。そして僕自身、家業に携わってからも地域の土建屋の役割として災害時には第一線で動く会社でありたいと強く意識するようになった。
甲斐組は職人、ダンプもたくさん抱える、いわゆる「実働部隊」だ。もし有事のことが起きた場合、一番すぐに動けるのは、僕たちのような地元の土建屋なのだ。
僕たちはただビジネスとして公共インフラをつくる存在だけではない。地域の人々の笑顔を「創る、増やす、守る」存在なのだと思う。
父からはこの「台風の日」の出来事を通して「土建屋の存在意義」を学んだことは間違いない。
そして、「甲斐組」は二代目になった現在も台風や異常気象時に、社員一丸となって地域の第一線で活躍している。











