飯場の子 第4章 14話
「社長ではなくなぜオヤジ??(サウナでの出来事)」
小学校2年生くらいのことだっただろうか。ある日、父や会社の従業員たちが食堂で酒を飲んでいるところ、僕は彼らずっとモヤモヤしていたある疑問を投げかけたことがあった。
「なぜみんな僕の父を『オヤジ』と呼ぶのか」と。
会社で働く男の従業員や叔父などの幹部たちは全員、父のことをなぜか社長とも呼ばず「オヤジ」と呼んでいた。
自分にとって父が「おやじ」なのは間違いない。が、血の繋がりもない従業員がなぜ父のことをそう呼ぶのか。
いや、むしろもっと分からないのは血の繋がりのある僕の叔父たちだ。彼らにとって父は「お兄さん」だろう。なんで「お兄さん」が「オヤジ」になるのか。当時小さかった僕には、全く理解できなかったのだ。
しかし、そんな純粋で幼気な子どもの疑問に対して、父も含めて皆は一斉に大爆笑。「いつかお前も大人になったら分かる」と、かわされてしまった。
一方の僕自身は、彼らから「二代目」なんて呼ばれ、いつも可愛がってもらっていた。会社と家も隣同士で、日々の遊び場は以前紹介したように会社の敷地。
つまり、僕にとって当時の甲斐組はもはやもう1つの家。ゆえに従業員との距離も近く、父の後ろについて回るかたちで、僕は会社以外の場所でも皆と同行することがよくあった。
その1つがサウナだった。
当時は今のような郊外の温浴施設などは無く、世間では駅前サウナが流行っていた。平塚駅の周辺にも例に違わず乱立しており、父はその中で「オデオンサウナ」という店によく通っていた。
汗を流しに向かう父や従業員と混ざって、僕や従弟の敦人もよくついって行っていた。
とはいえ、お目当てはサウナではなく「ゲーム」。その施設には、1ゲーム100円のゲーム台がいくつかあった。子どもにとって100円は貴重だ。
普段自分の小遣いではそう気安く遊べないゲームが、このサウナにくると大人たちがひょいと1000円ほどくれる。それが楽しみで、僕はよく大人たちについて行っていたわけだ。
こうして会社の若い衆ともサウナで裸の付き合いをするようになると、そのたび、毎度あるものを目にするようになった。「観音様」の姿だ。
とはいえ、サウナに観音像が置いてあったわけではない。その居場所は、ある若い衆の「背中」。そう、刺青だ。彼の背中には、鮮やかな色の「観音様」が綺麗に描かれていたのだ。
今の温浴施設などでは刺青やタトゥーが入っている人の入館が禁止されていることが多いが、1980年当時は、全身に刺青が入っている人を見るのも珍しくなかった。
「刺青」は反社会勢力というイメージを持たれてしまって久しいが、職人業の世界では、珍しいことでもなく昔から世間よりも刺青との距離が比較的近いと言える。
その理由は諸説・環境によって様々あるが、よく言われるのは江戸時代の町人文化で火消し組(現在の消防士)が組織される。多くは町人いわば職人集団であり、一旦火の手があがれば火消し組は命懸けで火災に立ち向かう。その中でも命を落とす者もいたわけで、DNA鑑定などの技術のないその時代にとって、事故に巻き込まれて顔が識別できなくなった時のための「本人確認」の役割も果たしていたということだ。
体を使う職人業など、仕事中に肌が露出することが多いのはもちろんだが、汗を流す仕事をすると、こうして風呂場で「裸の付き合い」をする。現在のブルーカラーといわれる職人業と刺青の関係性は歴史的・文化的にも奥深いものがあるものだ。
そんな見事な「観音様」に僕は見惚れ、しばらくマジマジと見ていると、それに気付いた「持ち主」の若い衆が、僕をからかう。「おっ、二代目こすってみなよ、消えるから」と。
しかし、それを本気にとらえる純粋で幼気な僕は、手ぬぐいを手に取り、観音様を必死にこすり始めた。が、案の定どうやっても観音様は消えない。
それを見た彼は、「あれ消えないか?力が足りないんじゃないか」なんて笑いながら言ってさらに僕をからかい、父も周りの皆も爆笑。結局彼の背中を綺麗に流すに徹した僕は、初めて「刺青というものは消えないものなのだ」ということを知るのだった。
こうした風呂場での経験や、飯場で同じ釜の飯を食う若い衆らと付き合ううちに、なぜ彼らが父を「オヤジ」と呼ぶのか徐々に理解していった。
今以上に危険で過酷な労働環境の中、色んなバックグラウンドを持つ従業員たちは、ある意味で結束がないとやっていけない。裸の付き合い、同じ釜の飯を食えば、それは必然と「家族」のような関係になるのだ。
社長とはそうなれば、やはり「家長であるオヤジ」のような存在になるのだろう。
僕が家業に入った平成の時代にはまだ建設業界にもそんな気風が残っていた。しかし令和にもなった現代はそんな「親しみ」より「わきまえ」を求められる時代。
自分の会社の社長を「オヤジ」と呼ぶ社員は、もう業界にもほとんど存在しなくなった。
いいも悪いも言えないが少し寂しい気持ちになってしまうのであった。
平塚海岸 花水川河口で当時流行ったゲイラカイトで凧揚げをする。(釣り竿を使うのは父親の考案だった)後ろに見えるのは箱根駅伝の走路である134号線の花水川橋