飯場の子 第4章 15話 「坊主頭への疑問と初めての入院経験」
写真を見ると分かるのだが、僕は小さい頃ずっと坊主頭だった。
今の時代、坊主頭の子どもはかなりいるが、1970年代はほとんど見たことがなかった。意外だと思われるかもしれないが、当時はお坊ちゃん狩りが主流。幼稚園のクラス写真を見ても坊主は僕以外、誰一人としていないのだ。
その理由は定かではないが、おそらく坊主頭に対する「イメージ」だろう。「床屋に行かせるカネがない家の子の髪型」。高度経済成長の時代には坊主に対して“貧しいイメージ”があったのかもしれない。
そんな時代の中で、僕はずっと坊主頭にさせられていたわけだ。写真で確認すると、だいたい小学校4年まで坊主が続く。しかも僕は、わざわざ床屋に行って坊主頭に刈ってもらっていたのだ。
そのため、幼き頃より「お坊さんのうちの子」と勘違いされていたことも少なくない。友達の家に遊びに行った時、「今村君のおうちはお寺さんなの?」と、マルコメみその影響もあったのか、お母さんたちから何回か聞かれたものだ。そのたびに「そうじゃないです」と説明をするのが面倒だった。
幾度となくこのような経験があり、当初は違和感など全くなかったのだが、小学校3~4年生くらいになると徐々に自分の髪型に疑問をもつようになる。
そのきっかけは、小学校4年くらいから仲良くなった「マサルくん」という先輩の存在だ。この2歳年上のマサルくんが、これまたいっぱしのワル小学生だったのだが、その髪型がカッコいい「少し髪を伸ばした角刈り」だったのだ。
僕はそのマサルくんの髪型に憧れ、通っていた同じ床屋の店主に「マサルくんみたいな髪型にしてくれるかな」と少し照れながら言ってみたら、「おお、ヨッチくんも色気づいてきたな」と、僕をからかっていた。そして店主はしっかりと、マサルくんに告げ口。数日後、顔を合わせたマサルくんが「おいヨッチ、お前、床屋で俺みたいな髪型にしろって言ったらしいな」と言ってきた。「いやー」と照れていた僕に、子分が同じ髪型にしたがったのが相当嬉しかったのか、「お前もそのほうがカッコいいよ」と言いながら、やたらとニヤニヤしていたのを思い出す。
ちなみに小学校にあがる頃、なぜ自分はずっと坊主なのか一度父親に聞いたことがある。返ってきた答えはこうだ。
「それはな、坊主じゃないんだよ、ブンタ刈りっていうんだ」。
無論この「文太」は俳優の「菅原文太」のことなのだ。当たり前だが、僕は当時、彼を知らなかった。たまたま家で飼っていたインコが「ブンタ」という名前だったため、僕の頭の中はインコの「ブンタ」と僕の髪型に何の関係があるのか、理解不能になり、たまらず母親にそのことを話したら大笑いしながら、それは映画俳優の「菅原文太さん」っていう人のことだよと、教えてくれた。
その時に、少しほっとした傍ら、訳も分からず自分の坊主頭が急に偉くなったように思えたのだった。
結局、当時はなぜ父親が僕を坊主にしたのかよく分からなかったのだが、今思えばそれは他でもなく、「自分の息子だから」、なのだと思う。というのも父親自身、ずっと坊主頭だったのだ。僕を坊主にさせていたのは倅に自分の真似をさせたがる親の心理だったのかもしれない。ちなみに父は、今でも白髪の坊主頭なのだ。
そんな小学校時代の思い出としてもう1つ大きく残っているのは「初めての入院」である。
僕は、扁桃腺を取る手術をした。小学校2年のころだ。
もともと年に数度、扁桃腺肥大を起こしては、よく高熱を出していた。発症すると唾も呑めないくらい強い痛みが襲ってくる。そのたびに薬を塗ってもらいに耳鼻科に行くのだが、姉曰く、高熱を起こすと僕はよく「熱痙攣」を起こしていたという。悪寒で唇は紫色になり、歯はガチガチと音を立て全身を震わせながら、唸り苦しむ僕の姿を見るたび、姉たちはおっかなくてしょうがなかったという。
こうして何度も高熱を繰り返す僕に、医者は両親に「扁桃腺の手術」を提案したのだ。小学校2年生の2学期、学校を10日ほど休み、手術をすることになった。
本人は当時よく分かっていなかったが、その手術さえやれば、これまでの痛みがなくなることを聞き、最初は当然、嫌がっていたのだが、それならばと了解。平塚市民病院に1週間入院することになった。
病院には小児病棟がなかった時代。大人と一緒の部屋で入院生活を送ることになったのだが、これが怖い怖い。
まず病院が怖い。いわずもがな、子どもにとっては不気味でしかない。病院は2日間だけ母親の付き添いを許してくれたが、病室の独特なアルコールの匂いや、体の弱った知らない人たちとの共同生活。自分自身は手術のための入院でピンピンしていたため、周囲の人とのギャップに、より困惑したのかもしれない。
心の支えになったのは、自宅の隣のかしわぎ酒店の娘婿「おにいちゃん」との「ある約束」だ。
入院前に不安がる僕は「もしちゃんと手術ができたらめんこ100枚買ってくれる?」とおにいちゃんにねだったのだ。「よーし、めんこ100枚だな、我慢できたらプレゼントする」と気持ちよく請け合ってくれた。大人とすればめんこを100枚買ったところで大した金額にはならない。が、数枚買って溜めていく僕にとって、100枚はもはや「夢」。それが嬉しく、辛い時はそのまだ見ぬ、めんこを思い浮かべて耐えることができた。
手術をしたのは入院後3日目。無論、麻酔をしているためその時の記憶はないが、術後、目を覚ました時に喉や鼻にガーゼが入っていて、すごくきつかった記憶がある。が、小さい子どもは回復が早い。翌朝、先生にそのガーゼを取ってもらうと、即座にいちご牛乳を無断で飲み、さらにその夜には寿司を出前で注文。この子どもの自由奔放で見事な回復ぶりに、病室中大笑いだった。
しかし、僕はこの寿司よりも嬉しかったのがある。そう、「あの約束」だ。
その夜、すしと一緒に登場したのが、段ボールいっぱいに入っためんこを携えたかしわぎ酒店のおにいちゃん。4つほどの束になっていた100枚のめんこは、もはや「小判の山」。寿司を食いながら1枚1枚絵柄を確認する姿を、周囲の大人たちはほほえましく見ていてくれていた。
こうして僕は順調に回復し、無事に6日目に退院。この手術のおかげで、本当にそれ以降、僕は高熱を出さなくなったのだ。が、その代わりに待ちうけていたものがある。「体質の変化」だった。
僕は今も、かなり太っているが、この手術前まではずっと「やせ体質」だった。ただ、ご飯はよく食べていたので、いわゆる「痩せの大食い」なのだが、この手術以降、みごとに体重は増加していき「肥満体質」になっていったのだ。僕は自分でいうのもなんだがスポーツは万能な方で、それなりの自信を持っていたのだが「まんまるヨッチくん」に変貌していき、スポーツ万能群から脱落していく自分に複雑な心境を持っていた。
しかし父は「男はな、ガタイがいい方が貫禄があっていいんだ!」とかなり気弱になっていた僕の背中を押してくれた。
その言葉が効いたのだろう、さらにヨッチ少年は「ガキ大将」の気質に拍車がかかっていくのである。さすがは土建屋の親方の教えだと、今でもありがたく思うのだ。
寒川神社にて