飯場の子 4章 16話 「母の教え商売とお金の価値」
僕が小学校3年くらいの時、何か急用があったのだろう、母が突然、山梨県にある父の実家にクルマで向かったことがあった。詳しい理由は覚えていないが、たしか忙しい父の代わりだったと思う。
そして僕は、これまたなぜそういう流れになったのかはよく覚えていないのだが、そんな母に同行し山梨県に向かうことになった。
突如として始まった母とのドライブ。その道中に起きた出来事は今、僕の信念の礎となっている。
1970年当時のクルマは、そのほとんどのギア駆動が「マニュアル車」だ。例に違わず、母がその時運転したのもマニュアル車のライトバンだった。
当時の平塚から山梨県の実家までは普通に渋滞もなく走って4時間近くかかったと思う。平塚より一般道を走り、厚木ICより東名高速道路をかっ飛ばし、御殿場でおりて国道を須走から籠坂峠を越えて、富士五湖である山中湖、河口湖を通り抜け、富士山のふもとである青木ヶ原樹海の国道を走っていくのだ。
青木ヶ原樹海は自殺の名所であると、幼き頃より父からその話を聞かされていたので、青木ヶ原樹海を通るときは「早く通り抜けないかなぁ」と心の中で呟きながら、あまり外を見ずに前方の道路に集中していたのをよく覚えている。
そして精進湖までたどり着くとゴールは近くに感じる。ただしその先は、芦川渓谷という川沿いの未整備な細いくねくねした道路を通るのだ、ほかにも道はあるのだが、その道が一番近道であるために、急いでいた母はその道を選んで走っていったのだ。
子どもながらに、かなり長いことクルマに揺られていたのを覚えている。その日、家を出たのは午後だったのだが、その細道を走るころには、時間は夕刻になっており、周りはすっかり薄暗くなっていた。
慣れなく整備もされてもいない渓谷の細道。しばらくクルマを走らせていたのだが、突然クルマに異変が起きた。暗闇の夜道、ハンドル操作を誤り脱輪してしまったのだ。外に出て確認すると、山側の側溝にフタがされておらず、そこにタイヤがハマってしまったようである。
無論携帯電話などない時代。公衆電話も近くにあるわけがない。こうなったらもうどこかの家に電話を借りてレスキューを呼ぶしかないのだが、集落のような場所で家はまばら。一番近い家まで歩いて行けるのかすら分からない状態だった。
母と僕は、頭をかかえしばらく2人途方にくれてしまった。なんとかしないといけない気持ちはあっても、小学校3年生ではクルマを持ち上げる力も、母に策を提案する知恵もない。
聞こえてくるのは暗闇から「ゴー」という渓谷の川を流れる音だけ。普段は心地よささえ覚える音が、やたらとうるさく、そして怖く感じたのを覚えている。
こうして10分ほど経っただろうか。なんと、たまたま対向車線にクルマのライトが光って見えたのだった。この機会を逃したら、次がいつになるかは分からない。素早くクルマを降りた母は、その対向車に助けを求め停車させることに成功。夜のその道で対向車に出会たことは本当にラッキーだったのだが、さらに幸いなことに、そのクルマには大人の男性が4人乗っていたのだ。
母が状況を説明すると、彼らはすぐさまクルマから降りてきて、「これじゃぁ動けないよな、こんなのお安い御用だよ」と、4人でクルマをひょいと持ち上げ、あっという間に道に戻してくれたのだ。その時の男4人組の頼もしさは今でも忘れない。
「奥さん気を付けてな、この先まだこういう道あるから」
そう言い残すと、彼らは背中を向けて自分たちのクルマのほうへ向かっていく。真っ暗で顔もよく見えない。その時だった。母はおもむろにクルマに置いてあるバッグから1万円札を抜きとり、彼らを追いかけたのだった。
「いやいや、いいよいいよ、そんなつもりで助けたわけじゃないから」と、男性たちがそのお金を母のほうへ押し返す。が、何度断っても頭を下げ続けて姿勢を変えない母に、彼らも「参ったな、かえって申し訳なかったね。ありがとう」とようやくそのお金を受け取ったのだ。
彼らのクルマがブーンと走り去った後に、母は「よしひろ、助かったね」と、僕のことも心配していたのだろうその顔は心から安堵していた。僕も同じく心底助かったと胸をなでおろしていた。
しかしこの一連の出来事の中で子どもながらに僕の心に突き刺さることが起きたのだ。
助けてもらったとはいえ、通りすがりの他人である、その人たちに頭を下げ続けお金を手渡す母の姿を見て「この母の行いは正しく、尊いもの」だと、誰から教わることもなく自分の心の中にその気持ちが宿った瞬間であった。
以前にも紹介したが、母は家が貧しく、中学を出て日本食塩(現JTの子会社)で事務職として働きながら、夜はキャバレーでアルバイトしていた苦労人だ。が、貧乏だからといって金に執着することなく、常に「仁」の人だった。
あの時の出来事のおかげで僕は今、誰かに何かをしてもらったら、必ずお礼をするようにしている。格好をつけるわけではないが、様々な場所で、楽しく過ごさせてもらったらお釣りも、いただかないようにしている。
間違いないことは、僕たちは「ありがとう」と思うものに対してお金を支払い、また「ありがとう」と言われることに対してお金を頂いているのだ。お金の行き来とは「ありがとう」の伝え合いをしているという事と同じなのだと思う。
お金は使い方によってその価値は上がりも下がりもする、そう教えてくれたのも、今の僕の商売人魂の土台を作ってくれたのも間違いなく母だ。
お金の価値は人によって様々だが、もしあの時、母が言葉でお礼だけ言って助けてもらった人たちを見送って「よしひろ、タダで助けてもらってラッキーだったね」と僕につげたとしたら、今の自分がもっている「カネ」に対する感覚も違っていたかもしれない。
この脱輪事件は、そのくらい大きい出来事だった。
僕は母から「商売人の魂」と父から「モノづくりにこだわる職人魂」を受け継いだと思う。
父もお金に執着心がなく大盤振る舞いが大好きな男なのだが、前述にもあるがモノづくりをする職人として仕事に対するこだわりは強烈極まりない。
その商売人と職人の魂の狭間で父と大きくぶつかっていくのである。その話はまた改めて紹介したいと思う。
姉の幼稚園遠足に同行の著者(左姉、右は母)