ポジティブ思考よっち社長

ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

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飯場の子 第44話
 「さらに高まる感謝の心」




 令和5年、2023年。 僕が甲斐組の社長に就任して10年という節目を迎えた。

振り返れば、本当にあっという間だった。

飯場で育ち、親父に怒鳴られながら会社の敷地を走り回っていた幼少期。ツッパリだった中学生時代。ラグビーに明け暮れた高校時代。正式に甲斐組へ入り、親父とぶつかり続けた年月。さらに社長となり、会社を背負って歩んできた10年間。



一つとして平坦な道はなかった。

壁、壁、また壁。
人との壁、経営の壁、資金の壁、採用の壁、コロナという見えない壁。

そのたびに悩み、苦しみ、立ち止まりそうになった。





だが今は思う。 
あの壁は、すべて人生の財産だった。

令和3年、コロナ禍の真っただ中、社長就任8年目にして、僕は初めて「経営計画書」を作ることを決意した。

普通ならコンサルタントに頼むのかもしれない。 あるいは経営者団体でノウハウを学ぶのかもしれない。

でも僕は違った。 ある建設会社の社長から紹介された一冊の本が、すべての始まりだった。



そこにはダスキンの経営計画書が紹介されていた。
 「これだ。」そう思った。

その本に何度も線を引き、自分なりに大事だと思う部分を書き込み、広報の女性社員へ渡した。 「これを甲斐組版にしてみよう。」

創業者である親父の紹介から始まり、会社の理念、目標、社員への想いまで、一冊にまとめていった。 

それが今では六冊目になった。
※2026年現在

今では製作委員会まででき、幹部社員が委員長や編集長も務めて、毎年ブラッシュアップを続けている。




一度は電子版にも挑戦したが、やはり違った。 経営計画書は紙でなければ伝わらない。 机の上に置き、手に取り、何度も読み返す。 物理的な距離の近さが、人の心との距離になる。

だから紙へ戻した。そんなことも、一つひとつ挑戦しながら会社は成長してきたと思う。

振り返れば、昔の甲斐組は決して良いイメージの会社ではなかった。

近隣の建設会社が廃業した時、そこで働いていた職人へ 「うちへ来てもらえませんか」 そう声を掛けても、「いや……甲斐組さんだけはちょっと」 と断られる。

それは本当に悔しかった。

それほど「厳しい会社」という印象が強かったのだろう。 だから僕は、まず会社のイメージを変えることから始めた。

CSR活動、地域イベント、採用改革、YouTube、SNS。 地道な積み重ねだった。
その結果、今では毎年新卒社員を採用できる会社へと変わった。人が集まる会社――そんな会社へ少しずつ近づいていることを実感している。

2023年、社長就任10周年。正直、少し期待していた。 「10年間お疲れさまでした」 誰か一人くらい言ってくれるかな、と。

だが、誰からも言われなかった。本音は寂しかった。 親父との壮絶な社長交代、会社の立て直し、社員との信頼づくり。 真剣に毎日を生きる10年間だった。

その想いを、元大手建設会社から我が社にきてくれたナルシマさんへ何気なく話した。

 「ナルシマさんさ、俺、社長10年なんだよね」

その年の経営計画発表会が滞りなく開催され、閉会になった時だった。 

司会が突然、「まだ一つあります」と言った。

すると突然、幹部社員全員が前に並び、歌い始めた。

 「甲斐組節」。




土木魂を歌詞に込めた応援歌だった。 

いつの間にか皆で作り、練習し、僕に向かって大笑いで歌ってくれた。

続いて、僕のアシスタント社員のヤマグチさんから花束の贈呈。 

経営計画発表会は、いつの間にか僕の10周年記念式典へ変わっていた。 すべてナルシマさんが裏で動いてくれていた。

スピーチでは、親父との戦い、社長になってからの日々、そして何度も心が折れそうになった時、そばで支えてくれたオギノ副社長やヒロユキ専務、幹部、社員への感謝を伝えた。 

涙で言葉をつまらせながら、感動と感謝、「ありがとう」という言葉を噛み締めた。

社員は、僕にとって宝だ。 会社経営は苦しい。眠れない夜もある。 

だが、一番の財産は社員である――それを確信した出来事がある。

ある三連休の中日。 前日の大雨で施工中の現場の歩道が崩れてしまったのだ。 雨上がりの朝、元請けの監督から一本の電話が入った。 「なんとかなりませんか!」と。

土木部長が声を掛けると、7人、8人の社員が休日にもかかわらず急ぎ集まってくれた。 汗だくになりながら午前中で復旧をおこなったのだ。その姿を見て、元請けさんはどれほど安心しただろう。

現場へ出向き、僕は汗だくの社員たちへ言った。

 「会社は信用で成り立っている。今日みんながやってくれたことは、お金では買えない価値なんだ。ありがとう」

そして部長へお金を渡し、「このあと、みんなに飯を食わせてやってくれよ」と言い残した。 

これが甲斐組のチカラだと肌で感じた。

僕は社員だけではなく、その家族も大切にしたいと思っている。 社員の誕生日には商品券、奥さんには花とカード。 結婚祝い、出産祝い、子どもの入学祝い。 

子どもの進学で困ればお金も貸すし、生活に困れば一緒に考える。

社員の一人がカードローンを払えず給与差し押さえ寸前になったことがあった。僕はすぐ会社で立て替えた。「こんなことになる前に相談しろよ」本気でそう伝える。

会社は利益を出す場所であるが、人を守る場所でもある。そして、その安心は家族へ伝わる。 奥さんが「いい会社だね」そう言ってくれれば、社員はもっと会社を好きになる。

奥さんの中には、専業主婦の人もいて、夫の汚れた作業着を洗ってくれている人がいる、そのおかげで、社員は毎日仕事ができるんだという思いがある。 

そうしたことも、本当の企業文化だと思っている。

まだまだ挑戦は終わらない。 働き方改革、地域活動、ラグビー、人づくり。全部、今も続いている。 一緒に挑戦してくれた社員は、もう社員ではない、戦友なんだ。

いつか僕も社長という立場を誰かへ託す日が来るだろう。

だが、それで終わりではない。その時から僕は、感謝を伝える役目になる。

社員へ、家族へ、地域へ、子どもたちへ、そして未来へ。
飯場の子として育った僕は、多くの人に支えられてここまで歩いてきた。 だから、甲斐組という会社の礎となり、地域の礎となり、次の世代の礎となる。 

そんな人生を送れたなら、それ以上の幸せはない。

一年一年、現場を一つひとつ積み重ねるたびに、「ありがとう」という言葉は、僕の中でさらに大きく、さらに深くなっていく。

「感謝」こそが、人を育て、会社を育て、人生を豊かにする。 

僕は、そう信じている。

飯場の子 第43話

「企業とは創業者の魂である」





 人手不足、入札制度の問題、仕事確保の難しさ、価格競争――。 何重もの苦しさを強いられていた2016年。


そんな中、誰も予想だにしなかった世界的な脅威が、2019年の年末から日本にも押し寄せてくる。


そう、新型コロナウイルスの蔓延だ。



当初、日本では「海外の話」という空気だった。だが、これはヤバいと感じたのは2020年2月、横浜港に停泊したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」での集団感染だった。



「あ、これはただ事じゃない」 そう直感した。


中でも衝撃だったのは、東京オリンピックの延期だ。あれを見た時、「これは本気でまずい」と腹に落ちた。


そして4月、当時の安倍首相が緊急事態宣言を発令。世の中は一気に止まった。




こんな未曽有の事態の中で、僕が考えたのはシンプルだった。

会社を守るために、何をするべきか。


まず一つ。「感染者を出さないこと」 

もう一つ。「感染しても正しく恐れること」


この二つに尽きた。

もともと2016年頃から「社員ファースト」を掲げていたが、コロナをきっかけに一気に加速した。


この時、夢中で読んだ本がある。坂本光司氏著の『日本でいちばん大切にしたい会社』だ。これを読んで、はっきりした。


「顧客第一主義」も大事だ。だが、それ以上に「社員第一主義」でなければ会社は続かない。


腹をくくった。


未知のウイルスに対して、現場は混乱していた。社員の不安も伝わってくる。だからこそ、僕が一番意識したのは――「噂に振り回されないこと」だった。


コロナは確かに怖い。だが建設業は外仕事が多い分、他業種よりは対処しやすい。だからこそ、冷静にやる。


厚生労働省の発表や専門家の資料を全部印刷して、読み込んだ。そして作ったのが、オリジナルのフローチャートだ。



熱が何度ならどうする。PCR検査を受けた場合の対応。陽性なら、陰性なら――。 とにかく迷わせない。


「かかっても慌てるな」 「医者の指示に従え」 「無理するな、我慢するな」


行動を全部「見える化」した。その上で、社内の連絡体制やサポート体制も整えた。


一方で、これまでやってきた地域活動はほとんど止まった。大島フェスタもできない。だが、それで終わりじゃない。


「じゃあ今、何ができるか」


そう考えて、会社周辺地域の草刈りを始めた。地味だ。だが、それでいい。


すると不思議なことに、甲斐組に人が集まり始めた。


昔はよく言われた。「言うこと聞かないと甲斐組に入れちゃうぞ」そんな会社だった。


それが、少しずつだが「甲斐組に入りたい」そう言われるようになってきたのだ。


さらに面白いことが起きる。会社に直接クレームが入るようになったのだ。





「甲斐組のダンプ、ながらスマホしてたぞ」 「スピードが速い」

普通なら嫌な話だ。だが、僕は違った。嬉しかったのだ。これはただの苦情じゃない。「期待されてる証拠」だと。


「あれだけいいことやってる会社なんだから、ちゃんとしろよ」


そう言ってくれている。本当にどうでもいい会社なら、わざわざ電話もメールもしてこない。陰で文句を言って終わりだ。


わざわざ言ってくるってことは――もう「見られている」ということだ。


「ファンができたな」


そう確信した瞬間だった。


そんな手応えの中で、僕は一つの形を作ろうと考えた。


「経営計画書」だっだ。


表紙の1ページ目に書いた言葉。

 「企業とは創業者の魂である」





この言葉に込めた思い。それは、甲斐組という会社は親父が起業しなかったらこの世に存在していない、ということだ。


当たり前のことなのだが、あらためてその起業魂には後継者として、尊崇の念を持たなければならないと感じた。


当時も親父とはぶつかっていた。正直、戦っていた。だが、それでも原点は親父だ。


現場主義。徹底したこだわり。仕事に対する信念。親父とお袋が作ってきた「甲斐組の魂」は、確実にそこにあった。


だからこそ思った。この会社は、自分のものじゃない。


そう、これは預かったものなのだ。


その魂だけは、絶対に曲げない。そう改めて誓ったのだ。

飯場の子 第42話

「壁にぶつかり続ける日々」




 商工会議所青年部を卒業した2016年頃、建設業界も長く続いた不況の中で、もがき続けていた。


周知の通り、1991年にバブルが崩壊。建設業界もその打撃をまともに受けた。


翌年、建設投資額は84兆円をピークに、その後は右肩下がり。2010年には半分以下の41兆円まで落ち込んだ。そこから少しずつ持ち直してはきたが、現場にはいくつもの壁が立ちはだかっていた。





中でも大きかったのが、2011年の東日本大震災による「震災復興」だ。



震災復興は国家の最優先事項だった、それは理解できるが、膨大な復興にかかるヒトは被災地・東北に集中した。首都圏の公共工事は減りもしないが、増えない。それどころか、ダンプも人も東北へ行かなければならない、首都圏では完全に“空洞化”が起きた。

(震災の被害者、被災者御遺族の方には心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます)


甲斐組でも、大型ダンプの確保ができなくなった。


さらに現場では、「プラント待ち」という問題もあった。



【西湘アスコン】


ここでいうプラントとは、アスファルトや砕石、残土などを積み込む拠点のことだ。現場で使う材料は、このプラントから大型ダンプで運んでくる。


だが、需要が一気に集中すると、このプラントがパンクする。順番待ちで何時間も並ばされるのだ。しかも最後の積み込みは「あと少し足りない」「数量調整」といった細かい調整が入るため、現場はその連絡待ちになる。


つまり、ダンプがいない、プラントが混む、現場が止まる


この「三重苦」だ。


このロスを減らすため、当時うちは大型ダンプを1台購入した。今では4台まで増えているが、当時は正直かなり悩んだ。仕事は不安定、先も読めない中での投資だったからだ。


震災特需で消えたのは、ダンプだけじゃない。人もいなくなった。


作業員はみんな東北へ行った。単価が全然違う。そりゃあ行く。人もいない、車もない。それなのに受注単価は変わらないどころか、むしろ価格競争は激化する。完全に割に合わない状況だった。


だが、この「人が足りない」という問題は、震災だけの話じゃない。日本全体の人口減少と同時に、建設業の人手不足は加速していた。


団塊ジュニアの40〜50代が一番厚い層。その下は一気に薄くなる。そして、その一番厚い層がこれからどんどん引退していく。人手不足は、これからが本番だ。


その中で現場を縛っていたのが、「一人一現場制」だ。


公共工事では、現場ごとに専任の監督を置かなければならない。つまり、監督1人につき現場は1つしか持てない。仕事があっても、人がいなければ受けられない。当時の甲斐組の現場監督は10人弱。その中で現場を任せられるのは6〜7人程度だった。これじゃあ攻めきれない。


(※なお、この規制が緩和され、複数現場の兼務が認められたのは令和6年以降の国土交通省の話だ。資格制度も緩和されたが、それでも人は全然足りていない。)


もう一つ、大きな壁があった。「くじ引き入札」だ。


公共工事は基本、最低価格で決まる。だが不況下では、どの会社も最低ラインに張り付く。

結果、横一線。最後はくじ引き。完全に「運」だ。


当然、仕事には当たり外れがある。本来なら選びたい。だが社員を遊ばせられないと考えれば、仕事を選んでいる余裕なんてない。1本1本が勝負の世界。とにかく取らなきゃ終わる。


当時は、入札のたびに神頼みだった。札の数字と工事名を書いて神棚に上げ、二礼二拍一礼。本気でやっていた。



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このくじ引き入札は、今でも残っている。僕は地方議員にも何度も言った。

「こんなことやってたら、10年後、人いなくなりますよ」

だから「総合評価方式にして欲しい」と、提言書も出した。


企業に必要なのは、「ヒト・モノ・カネ」。だが、この頃から僕は完全に「ヒト」に振り切った。


現場を取るには人がいる。人がいなければ、何も始まらない。だから、まずは選ばれる会社になること。そこで手を付けたのが、「イメージアップ戦略」だ。いわゆるCSR活動。


この頃から、いろんなことをやり始めた。自社主催で「大島フェスタ(建設フェスタ)」を開催。地域イベントへの参加。七夕の飾り付け。ビーチクリーン。湘南ベルマーレのサポーターにもなった。タウンニュースでの発信、YouTubeも始めた。





社内ではお揃いのTシャツやグッズも作った。社員に匿名アンケートを取れば、「そんなのいらないから給料上げろ」とのコメント。


正論だった…。


だが、1人年間2,000円の給料アップで何が変わる。それより「この会社いいな」と思わせる空気の方が大事だと、僕は思った。だからやめなかった。


やがて採用戦争が本格化した。県内の高校から新卒が来なくなり、僕は沖縄まで足を運ぶようになった。中途採用も、ホームページやSNSから来るようになった。


現在、社長になって13年。求人広告はコロナ前から一度も出していない。それでも、30人だった会社は90人まで増えた。派手じゃない。だが、確実に変わってきている。


中小企業の強みは何か。


地元で働けること。転勤がないこと。東京に通えば、往復2時間なんて当たり前だ。だがその時間は、家族にも、自分にも使える。これはでかい。


働き方改革も大事だ。だが、「どこで働くか」という価値は、それ以上に大きいと僕は思っている。


壁だらけだった。だが、その壁にぶつかり続けたからこそ、「何をやるべきか」が見えてきた。


人を集めるんじゃない。人に選ばれる会社になる事がこれからの建設業に最重要なミッションだと、


その覚悟が、この頃からはっきりと固まっていったのだ。

飯場の子 第41話
「代表者としての自覚」



 YEGでは、会員として、そして会長として、本当にいい経験をさせてもらった。

だが前にも書いた通り、このYEGは45歳で卒業だ。

平成29年3月、45歳で卒業を迎えた。
卒業式では同期18名の代表として感謝の辞を述べさせてもらったが、途中で涙が込み上げて言葉が出なくなった。それでも、後輩に伝えるべきことは、なんとか最後まで話しきった。

忘れられない出来事がもう一つある。
YEG活動の中で知り合った、平成24年度の日本商工会議所青年部会長、富山YEGの尾山謙二郎さんが、わざわざ卒業式に駆けつけてくれたのだ。

正直、驚いたし、感動した。
普通、そんなことはまずない。今でもあの光景は、はっきりと覚えている。

尾山さんとは今でも僕の兄貴分として付き合っている。あの人との縁も、YEGで得た大きな財産だ。




 一方で、42歳で継いだ甲斐組の社長として、正直に言えば、まだ社員の生活まで背負う覚悟は持てていなかった。

世間の社長はよく言う。
「社員とその家族の人生を背負っている」と。

だが当時の僕には、そこまでの覚悟はなかった。

ところが、45歳が近づいた頃から、気持ちが変わってきた。

「社員を育てて守る」「その家族まで面倒を見る」そう思えるようになってきた。

そのきっかけは、はっきり二つある。

一つは、やっぱりYEGの卒業だ。

あれだけ打ち込んできた地域活動に終止符が打たれたことで、どこか空いた穴を、今度は会社に向けようとしたんだと思う。

「次は甲斐組を変えたい」

そんな気持ちが自然と湧いてきた。

だが、その前に立ちはだかったのが――親父だった。

僕が社長になってからも、親父はあの手この手で口を出してきた。
わからないでもないが、創業者の意地みたいなものだろう、とにかくシツコくからんでくる。

中でもひどかったのが、平成27年の出来事だ。

会長になり、開業資金に2000万円も突っ込んで、寿司居酒屋「まんぜん」を始めた。
正直、趣味みたいなもんだ。そんなもんがうまくいくわけがない。



当然赤字にもなる。
別に僕が責めるわけでもないのだが、その不満を、僕に押しつけてくる。




「こんなことやらせるお前が悪い」
「俺をこんなところに閉じ込めやがって」

挙句の果てには、
「息子に会社を乗っ取られた」
と、半分ふざけながら好き放題言いふらす始末だ。

だが現実は逆だ。
当時、会社の業績は厳しく、むしろ僕が社長になって全てを背負い、社員と共に立て直している最中だった。

親父は、店の数字が良くないと、必ず同じことを繰り返した。

社員に電話して店に呼び出し、
「現場はどうなっている」と仕事に口を出してくる。

社員からすれば困惑するしかない。
会長の店に呼ばれるのが、ストレスになるのだ。

たまにだが現場にも顔を出しては、
「こんなことやってたらダメだ」と作業を止めさせてしまう。

はっきり言って、業務妨害だった。

こんな状態がずっと続いていた。

だが、YEGを卒業し、「社員を守る」と腹をくくり始めた頃、ある一言で僕の中の何かが切れた。

「俺は親父のために生きてるんじゃねえ」

そう思った。

ちょうどその頃、親父の知り合いに愚痴をこぼしたことがあった。

その人に言われた一言が、今でも忘れられない。

「距離を置いていいんだよ、そんなの」

初めて聞いた言葉だった。

それまで僕は、跡取りだから、息子だから、
親父からの電話には必ず出なきゃいけない、
文句も全部聞かなきゃいけない、
そう思い込んでいた。

会えばケンカ。
毎回、心も体もすり減らしていた。

だが、その一言で気づいた。

電話に出るか出ないか、会うか会わないか、
そんなもん、自分で決めていいんだと。

僕の人生だ。

創業者だから、親だから、二代目だから――
そんな理由で、無理して合わせる必要なんかない。

僕は一人の人間だ。

それから、僕は親父からの電話に出なくなった。


イメージ


社員にもこう頼んだ。
「親父から聞かれたら、忙しいんじゃないですかって言ってくれ」

すると、親父はそのうち電話もしてこなくなった。
避けられていると気づいたんだろう。

こうして、親父との関係は変わった。

いや、正確には、俺が勝手に背負っていた義務を捨てただけだ。

「距離を置いていい」

この言葉を、今まで誰も言ってくれなかった。

きっとみんな同じだったんだと思う。
親父という存在に縛られて、逆らえないものだと決めつけていた。

だが、僕は初めて親父を無視した。
それができた時、はっきりと自覚した。

僕は、甲斐組の社長なんだと。

社員の人生を背負う立場なんだと。

この二つ――
YEGの卒業と、親父との距離。

それが、僕に「代表者としての覚悟」を持たせてくれた。

あの時、僕の背中を押してくれたあの人には、今でも感謝している。
飯場の子 第40話
「学びと感謝の一年」商工会議所青年部



  甲斐組の社長になって1年が経ち、43歳になっていた僕は、平塚商工会議所青年部(YEG)で、すでに多くの社会活動をさせてもらっていた。

当初は「1年で辞める」という条件付きで入会したYEGだった。しかし、地域にこれほど多くの青年経済人がいるのかという感動と衝撃、そしてやりがいを感じる中で、僕は次第にその活動にのめり込んでいった。

イベントを手伝い、自ら企画を立ち上げ、会員のため、そして地域の人たちのために動くようになっていった。

YEGでは、活動に関われば関わるほど役職を任されていく。約100人の組織の中で軸を担う中心は、専務理事、副会長、そして会長だ。入会から1年後には理事に就任し、2年務めた後に専務理事へ。さらに副会長を3年間経験した。

その先にあるのが「会長」という責務だった。

理事までは自ら手を挙げてなれるが、専務理事や副会長といった三役は、実質的には現役会長による指名で決まる。規約上は立候補制であっても、実際にはこれまでの流れや信頼関係の中で後継者が選ばれるのが通例だった。

それまでの流れから、平成26年度の会長は僕になると見られていた。

そんな中、同じタイミングで会長職に強い意欲を持つ会員が現れた。対抗馬はTさん。頭も切れ、「できる男」ではあったが、入会が遅く、経験面ではまだ差があった。

Tさんは積極的に周囲へ働きかけ、支持を広げていった。YEGは45歳で卒業が決まっているため、彼にとってはこの年を逃せばチャンスはなかったのだ。

やがて、会内は今村派とT派に真っ二つに割れた。

同時に、僕に対するネガティブな動きも表面化していった。陰での悪口や批判は相当なもので、いわば大人のいじめのような状態だった。

しかし、直接言ってこない相手に対して怯むことはなかった。「出る杭は打たれるだけだ」と、相手にしなかった。

それでも何より辛かったのは、Tさん本人の態度があからさまに変わったことだった。ライバル視されている以上、仕方のないことだと頭では理解しながらも、心のどこかで複雑な思いがあった。

そんな中、年長者で親しくしていたSさんがこう言ってくれた。
「今ちゃん、短気を起こさず、やるべきことをやればいい」

その一言に救われた。

様々な出来事があったが、「これまで積み重ねてきたキャリアを飛ばすべきではない」という意見も多く、最終的には現役会長から呼び出しを受け、次年度会長として正式に指名された。

平成25年11月、臨時総会で承認を受け、僕は次年度会長予定者となった。

翌年4月に向けての準備が始まる。最初の仕事は、専務理事と事務局長を選ぶことだった。

僕が選んだのは、サノ君とマキイシ君。サノ君には以前から「もし自分が会長になったら専務を頼む」と伝えていた。マキイシ君は非常に優秀で信頼できる人材だった。この二人とともに体制を固め、その後、副会長人事を整え、「今村年度」はスタートした。

結果として、会長を経験できたことは本当に良かったと思っている。

掲げたスローガンは
「活性 〜縁から絆、学びと感謝〜」




副会長までは委員会運営が中心だったが、会長になると役割は大きく変わる。組織全体の方針に対する決断や判断、そして各所での挨拶や対外活動が増える。

毎月の例会、各種イベント、対外行事――時間を取られる場面は多かった。

しかし、その一つひとつの場で、多くの人と出会い、言葉を交わし、「ありがとうございます」と言われるたびに、自分の中にエネルギーが満ちていくのを感じた。

関わった人たちの笑顔、参加者の笑顔、地域の人たちの笑顔――そのすべてが、自分にとっての原動力になっていった。

“ありがとう”という感情が、心の奥から何度も込み上げてきた。

もしあの時、感情に任せて「役員を降ります」と言っていたら、この経験は決して得られなかっただろう。

YEGの活動を通して、地域の中で人が輝く姿を見てきた。その経験が、「これを甲斐組でもできないか」という発想へと繋がっていった。

YEGの活動は、直接的に会社の利益に結びつくものではない。しかし、当時社長になったばかりの僕に課せられていた最大の使命は、企業イメージの刷新だった。

「甲斐組だけには入りたくない」と言われる会社から、「甲斐組に入りたい」と言われる会社へ――。

そのために、CSR活動(社会貢献)を通じて企業の価値を高めることができるのではないかと考えるようになった。



[大島フェスタ]

もちろん、お金もかかる。しかし、地域に対して真摯に向き合うことが、企業の信頼やブランドに直結する――その確信を持つようになった。

振り返れば、会長になるまでには様々な出来事があった。だが、この経験が今の自分の経営の柱になっていることは間違いいない。

甲斐組の企業理念
「地域笑顔創造企業であり続けること」

その根底には、YEGで学んだ“縁と感謝”の精神が、確かに息づいている。