ポジティブ思考よっち社長

ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

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飯場の子 46話  「オヤジ。」




令和6年10月12日、午前3時半。

僕の携帯電話が鳴った。

仕事柄、携帯はいつも手元にある。
この時間の着信だ。ただ事じゃないと思い、すぐに出た。

相手は義理の兄だった。

「親父がもうダメみたいだから…すぐ来て」

その一言で、すべてを察した。

市民病院へ車を走らせた。
赤信号がやけに長く感じる。気持ちばかりが先走る。

病院に着くと、長女の姉と義兄が待っていた。
オヤジは処置室にいるという。

「中に入らせてくれ」と頼んだが、数分待たされた。
その数分が、やけに長かった。


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処置室に入ると、オヤジはベッドの上で半身を起こした状態だった。
酸素マスクは全開。それでも酸素濃度は60%。
心電図も血圧も乱れ、呼吸は荒く、全身から汗が吹き出していた。

「オヤジ、俺だよ」

声をかけると、ぐわっと目を見開いた。

「苦しいだろ。十分頑張ったじゃないか、落ち着いて寝てくれ」

倅として精一杯のエールだった。

額の汗を拭きながら、肩を叩いた。

やがて、うちのかみさんや孫たちも集まり、ベッドの周りは家族でいっぱいになった。

荒かった呼吸は、少しずつ静かになっていった。
だが、数値は悪くなる一方だった。

午前4時30分頃、次女の姉が処置室に入ってきた。

「お父さん!」

何度も涙声で呼びかける。
もう反応できる状態ではなかったはずだ。

それでも最後の力を振り絞ったのか、オヤジはもう一度、目をぐっと開き、次女の顔をじっと見つめた。

やがて医師が処置室に入ってきた。
しばらく見守る中で、オヤジの呼吸が止まろうとしていた…。

「オヤジ、ありがとう」
「お父さん、ありがとう!」

処置室の中に、ありがとうの声がこだました。

三人の実子と、その家族たちに見守られながら、オヤジは息を引き取った。

85年の生涯に幕を閉じた瞬間だった。


父、今村善美は、昭和14年6月13日、山梨県西八代郡市川大門町(現・市川三郷町)に、父・友安、母・好子のもと、1女4男の次男として生まれた。

幼い頃から腕白で、いたずらばかりして大人を困らせていたという。
だが一方で、興味を持ったことにはとことんのめり込む、探究心の強い子どもだった。

祖父・今村辰五郎は、明治生まれの侠客気質の男でありながら、商売も手広くやっていた人物だったとの事。
実子に男児がいなかったこともあり、父を息子のようにかわいがっていたと、よく聞かされた。


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祖父はハイカラで洒落者だったらしい。
その血は、確かにオヤジにも流れていた。

昭和20年、終戦。
田舎だったこともあり、食べ物にはそれほど困らなかったという。




やがて地元の学校を卒業し、工業高校へ進学。
この頃からボクシングを始め、高校時代は相当やんちゃだったようだ。


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それでも無事に卒業し、東京の道路建設会社に就職。
ここで道路工事の基礎を叩き込まれた。

その後、川崎の建設会社に勤めた際に、母・克子と出会う。
天真爛漫で明るい女性で、父より1歳年上だった。

お互いに惹かれ合い、昭和39年に結婚。
昭和42年に長女、翌43年に次女が誕生した。

そして、娘たちが生まれたのを機に独立。
個人事業として「甲斐組」を創業する。

縁あって秦野の中村組の舗装班として働くため、川崎から秦野へ移住。
その後、昭和44年に平塚市撫子原にて有限会社甲斐組を設立した。

創業当初は、弟の登と千蔵とともに中村組の下請けとして地道に仕事を積み上げた。

そして昭和46年5月、長男である僕が生まれた。


姉たちとお正月



オヤジは、とにかく「こだわる男」だった。

仕事でも、趣味でも、遊びでも、とにかく徹底的にやる。

舗装工事でいえば、一度仕上げた道路でも気に入らなければ全部剥がしてやり直す。
採算なんて関係ない。納得いくかどうか、それだけだ。

仕事に対する執念は、常人とは比べものにならなかった。


趣味は、海釣り、料理、酒、そして服。
派手に飲み、着るものにも金を惜しまない。洒落者だった。

女にもよくモテた。
博打も好きで、競輪に熱を上げていた。

そんなオヤジに付き合ったお袋は、相当苦労したと思う。

それでも二人は別れることなく、生涯をともに歩いた。
お袋は平成22年、72歳でガンにより他界した。


その後、74歳で会社を僕に託し、会長に就任。

そして趣味が高じて、駅前に「海鮮料理 萬善」を開いた。

だがこれも、オヤジらしい。
採算度外視でサービスしまくる。大盤振る舞い。

会社としては目を白黒させるしかなかった。

とにかく豪快な男だった。

ケチなことは大嫌い。
その代わり、情も厚く、面倒見もいい。

だからこそ、人に騙されることも少なくなかった。


83歳を過ぎ、「萬善」も引退。
その店は、今はうちのかみさんが「小料理 若むらさき」として引き継いでいる。



オヤジも週に一度は顔を出していた。

亡くなる1週間前、10月4日。
家族と親族、総勢14人で箱根の南風荘に集まり、「オヤジを囲む会」を開いた。

こんな会は初めてだった。

宴の最中、「あと何回できるかな」と冗談を言いながら、みんなで笑った。

あの時間は、本当に良かった。

最後には、オヤジの大好きな「聖寿万歳」を全員で繰り返した。


箱根での最初で最後のオヤジを囲む会



オヤジの人生は、「道」だった。

何をやるにもこだわり抜く。
その姿勢を、最後まで貫いた男だった。

人に言えない苦労もあっただろう。
だが、自分の人生を生き切ったんじゃないかと思う。

正直、少しうらやましい。

そして僕は、今村善美と克子という両親のもとに生まれたことを、心から誇りに思う。

オヤジ。
お袋。

ありがとう。


法号
道淵院大雄日善居士
仁淵院妙浄日克大姉

今村善美 座右の銘

かけた情けは水に流せ
受けた恩は石に刻め

聞くはいっときの恥
聞かぬは一生の恥

捨てる神あれば
拾う神あり
飯場の子 第45話
「東海大学ラグビー部との縁」




 2015年――。 一本の電話から、僕の人生は再びラグビーと深く結びついていくことになる。

電話の相手は、日大藤沢ラグビー部時代の恩師、松久保先生だった。

「ヨシヒロ、クニが平塚でラグビー協会を立ち上げようとしてるのに、お前は何やってるんだ」

突然の一喝だった。僕は少し戸惑いながら答えた。

「先生、クニさんから僕には何の相談もないですよ」

すると松久保先生は、間髪入れずに怒鳴った。「お前から電話するんだ!」

その言葉で目が覚めた。僕はすぐに2学年上のスズキクニ先輩へ電話を入れた。

そこから一気に話が進み、2015年、平塚市ラグビーフットボール協会の立ち上げに成功する。


発足式典


さらに、前年に立ち上げた小田原ラグビー協会の流れもあり、日藤ラグビー部の同期であるフジタ氏からも様々なアドバイスをいただいた。

その流れの中で、平塚市ラグビースクールの開校へと繋がっていく。これは単なるスポーツ活動ではなかった。「青少年健全育成」、その始まりだった。



平塚市ラグビースクール


僕自身、しばらくラグビーの世界から距離を置いていた。だが、この頃から再びどっぷりとラグビーに携わる人生が始まる。いや、気が付けばラグビーに引き戻されていたのかもしれない。

そんな中、強く意識するようになった存在があった。平塚に拠点を置く強豪、東海大学ラグビー部だ。

地域のラグビーを支え、強豪大学チームを応援することも、平塚市ラグビーフットボール協会の大切な役目だと考えるようになっていた。

設立当時、ラグビー協会の副会長だった僕は、日大藤沢ラグビー部の先輩であるオザワさんにお願いをした。

「東海大ラグビー部の木村監督を紹介してください」

オザワさんは快く引き受けてくれた。そして僕は、木村監督と出会う。

木村監督は僕より5歳年上。東京の本郷高校から日本体育大学ラグビー部へ進んだ猛者だった。だが、ただ怖いだけの人じゃない。スマートな感覚を持ち、人を大切にする。情が深く、人間的魅力に溢れていた。僕は、一気に引き込まれた。


木村監督


昔から僕には悪い癖がある。「魅力のある人間に出会うと、とことん応援したくなる」のだ。木村監督は、まさにそういう人物だった。

気が付けば、僕は東海大学ラグビー部の大ファンになっていた。




東海大学ラグビー部は全国屈指の強豪校だ。大学選手権準優勝を3度経験している。だが、まだ“頂点”には届いていない。

「何とか全国優勝を果たさせたい」

そんな思いが、自然と強くなっていった。そこから、東海大学ラグビー部応援会などの活動を平塚市ラグビーフットボール協会として開催するようになった。合宿への参加、地域との交流、様々な支援活動。


応援会


そして次第に、東海大学ラグビー部の学生寮「新闘勝館」構想へと繋がっていった。


新闘勝館落成式



木村監督と筆者



東海大学ラグビー部の選手たちと触れ合う時間は、僕に多くの気づきを与えてくれた。寮生活の厳しさ、規律、仲間との絆。

彼らは、毎日真剣勝負をしていた。朝から晩まで身体を削り、チームのために戦う。その姿を見ていると、僕はいつも思った。「これは会社経営と同じだ」と。

ラグビーには「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン(一人はみんなのために、みんなは一人のために)」という言葉がある。さらに、ノーサイド。試合が終われば敵も味方もない。

そして、“荒ぶる魂”。身体を張り、仲間を守り、前へ出る。その精神は、会社経営にも通じるものがある。

僕は、東海大学ラグビー部の選手たちから、たくさんのことを学んだ。毎年のキャプテンたちとも、色々な話をした。学生として、男として、社会へ出ていく若者として。時には人生相談のような話になることもあった。

そして気付いた。自分は、ラグビーを通じて“人づくり”に関わっているんだと。


2025関東大学リーグ戦1部優勝


木村監督から教わったことは多い。「人を育てる」ということ。厳しさだけじゃない。信頼すること、任せること、見守ること。その姿勢は、甲斐組の経営にも大きく影響していった。

僕は建設会社の経営者であり、毎日が真剣勝負である。現場もある、資金繰りもある、人材育成もある。苦しいことだって山ほどある。

だが、ラグビー部の練習を見るたび、試合を見るたび、僕はいつも背中を押される。

傷だらけになりながら前へ出る姿。

仲間を鼓舞する声、倒れても立ち上がる姿。「ああ、まだやれる」そう思わせてくれる。




東海大学ラグビー部とともに歩む人生。それは、僕にとって単なるスポーツ支援ではない。「共に戦う人生」なのだ。

まだ見ぬ全国大学選手権優勝。その夢を、僕は本気で信じている。そしてそれは、甲斐組の成長とも重なる。

人が育ち、仲間が増え、組織が強くなる。ラグビーも会社も、最後は“人”だ。

東海大学ラグビー部とともに。そして、甲斐組の仲間たちとともに。

僕はこれからも、前へ進み続ける。




飯場の子 第44話
 「さらに高まる感謝の心」




 令和5年、2023年。 僕が甲斐組の社長に就任して10年という節目を迎えた。

振り返れば、本当にあっという間だった。

飯場で育ち、親父に怒鳴られながら会社の敷地を走り回っていた幼少期。ツッパリだった中学生時代。ラグビーに明け暮れた高校時代。正式に甲斐組へ入り、親父とぶつかり続けた年月。さらに社長となり、会社を背負って歩んできた10年間。



一つとして平坦な道はなかった。

壁、壁、また壁。
人との壁、経営の壁、資金の壁、採用の壁、コロナという見えない壁。

そのたびに悩み、苦しみ、立ち止まりそうになった。





だが今は思う。 
あの壁は、すべて人生の財産だった。

令和3年、コロナ禍の真っただ中、社長就任8年目にして、僕は初めて「経営計画書」を作ることを決意した。

普通ならコンサルタントに頼むのかもしれない。 あるいは経営者団体でノウハウを学ぶのかもしれない。

でも僕は違った。 ある建設会社の社長から紹介された一冊の本が、すべての始まりだった。



そこにはダスキンの経営計画書が紹介されていた。
 「これだ。」そう思った。

その本に何度も線を引き、自分なりに大事だと思う部分を書き込み、広報の女性社員へ渡した。 「これを甲斐組版にしてみよう。」

創業者である親父の紹介から始まり、会社の理念、目標、社員への想いまで、一冊にまとめていった。 

それが今では六冊目になった。
※2026年現在

今では製作委員会まででき、幹部社員が委員長や編集長も務めて、毎年ブラッシュアップを続けている。




一度は電子版にも挑戦したが、やはり違った。 経営計画書は紙でなければ伝わらない。 机の上に置き、手に取り、何度も読み返す。 物理的な距離の近さが、人の心との距離になる。

だから紙へ戻した。そんなことも、一つひとつ挑戦しながら会社は成長してきたと思う。

振り返れば、昔の甲斐組は決して良いイメージの会社ではなかった。

近隣の建設会社が廃業した時、そこで働いていた職人へ 「うちへ来てもらえませんか」 そう声を掛けても、「いや……甲斐組さんだけはちょっと」 と断られる。

それは本当に悔しかった。

それほど「厳しい会社」という印象が強かったのだろう。 だから僕は、まず会社のイメージを変えることから始めた。

CSR活動、地域イベント、採用改革、YouTube、SNS。 地道な積み重ねだった。
その結果、今では毎年新卒社員を採用できる会社へと変わった。人が集まる会社――そんな会社へ少しずつ近づいていることを実感している。

2023年、社長就任10周年。正直、少し期待していた。 「10年間お疲れさまでした」 誰か一人くらい言ってくれるかな、と。

だが、誰からも言われなかった。本音は寂しかった。 親父との壮絶な社長交代、会社の立て直し、社員との信頼づくり。 真剣に毎日を生きる10年間だった。

その想いを、元大手建設会社から我が社にきてくれたナルシマさんへ何気なく話した。

 「ナルシマさんさ、俺、社長10年なんだよね」

その年の経営計画発表会が滞りなく開催され、閉会になった時だった。 

司会が突然、「まだ一つあります」と言った。

すると突然、幹部社員全員が前に並び、歌い始めた。

 「甲斐組節」。




土木魂を歌詞に込めた応援歌だった。 

いつの間にか皆で作り、練習し、僕に向かって大笑いで歌ってくれた。

続いて、僕のアシスタント社員のヤマグチさんから花束の贈呈。 

経営計画発表会は、いつの間にか僕の10周年記念式典へ変わっていた。 すべてナルシマさんが裏で動いてくれていた。

スピーチでは、親父との戦い、社長になってからの日々、そして何度も心が折れそうになった時、そばで支えてくれたオギノ副社長やヒロユキ専務、幹部、社員への感謝を伝えた。 

涙で言葉をつまらせながら、感動と感謝、「ありがとう」という言葉を噛み締めた。

社員は、僕にとって宝だ。 会社経営は苦しい。眠れない夜もある。 

だが、一番の財産は社員である――それを確信した出来事がある。

ある三連休の中日。 前日の大雨で施工中の現場の歩道が崩れてしまったのだ。 雨上がりの朝、元請けの監督から一本の電話が入った。 「なんとかなりませんか!」と。

土木部長が声を掛けると、7人、8人の社員が休日にもかかわらず急ぎ集まってくれた。 汗だくになりながら午前中で復旧をおこなったのだ。その姿を見て、元請けさんはどれほど安心しただろう。

現場へ出向き、僕は汗だくの社員たちへ言った。

 「会社は信用で成り立っている。今日みんながやってくれたことは、お金では買えない価値なんだ。ありがとう」

そして部長へお金を渡し、「このあと、みんなに飯を食わせてやってくれよ」と言い残した。 

これが甲斐組のチカラだと肌で感じた。

僕は社員だけではなく、その家族も大切にしたいと思っている。 社員の誕生日には商品券、奥さんには花とカード。 結婚祝い、出産祝い、子どもの入学祝い。 

子どもの進学で困ればお金も貸すし、生活に困れば一緒に考える。

社員の一人がカードローンを払えず給与差し押さえ寸前になったことがあった。僕はすぐ会社で立て替えた。「こんなことになる前に相談しろよ」本気でそう伝える。

会社は利益を出す場所であるが、人を守る場所でもある。そして、その安心は家族へ伝わる。 奥さんが「いい会社だね」そう言ってくれれば、社員はもっと会社を好きになる。

奥さんの中には、専業主婦の人もいて、夫の汚れた作業着を洗ってくれている人がいる、そのおかげで、社員は毎日仕事ができるんだという思いがある。 

そうしたことも、本当の企業文化だと思っている。

まだまだ挑戦は終わらない。 働き方改革、地域活動、ラグビー、人づくり。全部、今も続いている。 一緒に挑戦してくれた社員は、もう社員ではない、戦友なんだ。

いつか僕も社長という立場を誰かへ託す日が来るだろう。

だが、それで終わりではない。その時から僕は、感謝を伝える役目になる。

社員へ、家族へ、地域へ、子どもたちへ、そして未来へ。
飯場の子として育った僕は、多くの人に支えられてここまで歩いてきた。 だから、甲斐組という会社の礎となり、地域の礎となり、次の世代の礎となる。 

そんな人生を送れたなら、それ以上の幸せはない。

一年一年、現場を一つひとつ積み重ねるたびに、「ありがとう」という言葉は、僕の中でさらに大きく、さらに深くなっていく。

「感謝」こそが、人を育て、会社を育て、人生を豊かにする。 

僕は、そう信じている。

飯場の子 第43話

「企業とは創業者の魂である」





 人手不足、入札制度の問題、仕事確保の難しさ、価格競争――。 何重もの苦しさを強いられていた2016年。


そんな中、誰も予想だにしなかった世界的な脅威が、2019年の年末から日本にも押し寄せてくる。


そう、新型コロナウイルスの蔓延だ。



当初、日本では「海外の話」という空気だった。だが、これはヤバいと感じたのは2020年2月、横浜港に停泊したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」での集団感染だった。



「あ、これはただ事じゃない」 そう直感した。


中でも衝撃だったのは、東京オリンピックの延期だ。あれを見た時、「これは本気でまずい」と腹に落ちた。


そして4月、当時の安倍首相が緊急事態宣言を発令。世の中は一気に止まった。




こんな未曽有の事態の中で、僕が考えたのはシンプルだった。

会社を守るために、何をするべきか。


まず一つ。「感染者を出さないこと」 

もう一つ。「感染しても正しく恐れること」


この二つに尽きた。

もともと2016年頃から「社員ファースト」を掲げていたが、コロナをきっかけに一気に加速した。


この時、夢中で読んだ本がある。坂本光司氏著の『日本でいちばん大切にしたい会社』だ。これを読んで、はっきりした。


「顧客第一主義」も大事だ。だが、それ以上に「社員第一主義」でなければ会社は続かない。


腹をくくった。


未知のウイルスに対して、現場は混乱していた。社員の不安も伝わってくる。だからこそ、僕が一番意識したのは――「噂に振り回されないこと」だった。


コロナは確かに怖い。だが建設業は外仕事が多い分、他業種よりは対処しやすい。だからこそ、冷静にやる。


厚生労働省の発表や専門家の資料を全部印刷して、読み込んだ。そして作ったのが、オリジナルのフローチャートだ。



熱が何度ならどうする。PCR検査を受けた場合の対応。陽性なら、陰性なら――。 とにかく迷わせない。


「かかっても慌てるな」 「医者の指示に従え」 「無理するな、我慢するな」


行動を全部「見える化」した。その上で、社内の連絡体制やサポート体制も整えた。


一方で、これまでやってきた地域活動はほとんど止まった。大島フェスタもできない。だが、それで終わりじゃない。


「じゃあ今、何ができるか」


そう考えて、会社周辺地域の草刈りを始めた。地味だ。だが、それでいい。


すると不思議なことに、甲斐組に人が集まり始めた。


昔はよく言われた。「言うこと聞かないと甲斐組に入れちゃうぞ」そんな会社だった。


それが、少しずつだが「甲斐組に入りたい」そう言われるようになってきたのだ。


さらに面白いことが起きる。会社に直接クレームが入るようになったのだ。





「甲斐組のダンプ、ながらスマホしてたぞ」 「スピードが速い」

普通なら嫌な話だ。だが、僕は違った。嬉しかったのだ。これはただの苦情じゃない。「期待されてる証拠」だと。


「あれだけいいことやってる会社なんだから、ちゃんとしろよ」


そう言ってくれている。本当にどうでもいい会社なら、わざわざ電話もメールもしてこない。陰で文句を言って終わりだ。


わざわざ言ってくるってことは――もう「見られている」ということだ。


「ファンができたな」


そう確信した瞬間だった。


そんな手応えの中で、僕は一つの形を作ろうと考えた。


「経営計画書」だっだ。


表紙の1ページ目に書いた言葉。

 「企業とは創業者の魂である」





この言葉に込めた思い。それは、甲斐組という会社は親父が起業しなかったらこの世に存在していない、ということだ。


当たり前のことなのだが、あらためてその起業魂には後継者として、尊崇の念を持たなければならないと感じた。


当時も親父とはぶつかっていた。正直、戦っていた。だが、それでも原点は親父だ。


現場主義。徹底したこだわり。仕事に対する信念。親父とお袋が作ってきた「甲斐組の魂」は、確実にそこにあった。


だからこそ思った。この会社は、自分のものじゃない。


そう、これは預かったものなのだ。


その魂だけは、絶対に曲げない。そう改めて誓ったのだ。

飯場の子 第42話

「壁にぶつかり続ける日々」




 商工会議所青年部を卒業した2016年頃、建設業界も長く続いた不況の中で、もがき続けていた。


周知の通り、1991年にバブルが崩壊。建設業界もその打撃をまともに受けた。


翌年、建設投資額は84兆円をピークに、その後は右肩下がり。2010年には半分以下の41兆円まで落ち込んだ。そこから少しずつ持ち直してはきたが、現場にはいくつもの壁が立ちはだかっていた。





中でも大きかったのが、2011年の東日本大震災による「震災復興」だ。



震災復興は国家の最優先事項だった、それは理解できるが、膨大な復興にかかるヒトは被災地・東北に集中した。首都圏の公共工事は減りもしないが、増えない。それどころか、ダンプも人も東北へ行かなければならない、首都圏では完全に“空洞化”が起きた。

(震災の被害者、被災者御遺族の方には心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます)


甲斐組でも、大型ダンプの確保ができなくなった。


さらに現場では、「プラント待ち」という問題もあった。



【西湘アスコン】


ここでいうプラントとは、アスファルトや砕石、残土などを積み込む拠点のことだ。現場で使う材料は、このプラントから大型ダンプで運んでくる。


だが、需要が一気に集中すると、このプラントがパンクする。順番待ちで何時間も並ばされるのだ。しかも最後の積み込みは「あと少し足りない」「数量調整」といった細かい調整が入るため、現場はその連絡待ちになる。


つまり、ダンプがいない、プラントが混む、現場が止まる


この「三重苦」だ。


このロスを減らすため、当時うちは大型ダンプを1台購入した。今では4台まで増えているが、当時は正直かなり悩んだ。仕事は不安定、先も読めない中での投資だったからだ。


震災特需で消えたのは、ダンプだけじゃない。人もいなくなった。


作業員はみんな東北へ行った。単価が全然違う。そりゃあ行く。人もいない、車もない。それなのに受注単価は変わらないどころか、むしろ価格競争は激化する。完全に割に合わない状況だった。


だが、この「人が足りない」という問題は、震災だけの話じゃない。日本全体の人口減少と同時に、建設業の人手不足は加速していた。


団塊ジュニアの40〜50代が一番厚い層。その下は一気に薄くなる。そして、その一番厚い層がこれからどんどん引退していく。人手不足は、これからが本番だ。


その中で現場を縛っていたのが、「一人一現場制」だ。


公共工事では、現場ごとに専任の監督を置かなければならない。つまり、監督1人につき現場は1つしか持てない。仕事があっても、人がいなければ受けられない。当時の甲斐組の現場監督は10人弱。その中で現場を任せられるのは6〜7人程度だった。これじゃあ攻めきれない。


(※なお、この規制が緩和され、複数現場の兼務が認められたのは令和6年以降の国土交通省の話だ。資格制度も緩和されたが、それでも人は全然足りていない。)


もう一つ、大きな壁があった。「くじ引き入札」だ。


公共工事は基本、最低価格で決まる。だが不況下では、どの会社も最低ラインに張り付く。

結果、横一線。最後はくじ引き。完全に「運」だ。


当然、仕事には当たり外れがある。本来なら選びたい。だが社員を遊ばせられないと考えれば、仕事を選んでいる余裕なんてない。1本1本が勝負の世界。とにかく取らなきゃ終わる。


当時は、入札のたびに神頼みだった。札の数字と工事名を書いて神棚に上げ、二礼二拍一礼。本気でやっていた。



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このくじ引き入札は、今でも残っている。僕は地方議員にも何度も言った。

「こんなことやってたら、10年後、人いなくなりますよ」

だから「総合評価方式にして欲しい」と、提言書も出した。


企業に必要なのは、「ヒト・モノ・カネ」。だが、この頃から僕は完全に「ヒト」に振り切った。


現場を取るには人がいる。人がいなければ、何も始まらない。だから、まずは選ばれる会社になること。そこで手を付けたのが、「イメージアップ戦略」だ。いわゆるCSR活動。


この頃から、いろんなことをやり始めた。自社主催で「大島フェスタ(建設フェスタ)」を開催。地域イベントへの参加。七夕の飾り付け。ビーチクリーン。湘南ベルマーレのサポーターにもなった。タウンニュースでの発信、YouTubeも始めた。





社内ではお揃いのTシャツやグッズも作った。社員に匿名アンケートを取れば、「そんなのいらないから給料上げろ」とのコメント。


正論だった…。


だが、1人年間2,000円の給料アップで何が変わる。それより「この会社いいな」と思わせる空気の方が大事だと、僕は思った。だからやめなかった。


やがて採用戦争が本格化した。県内の高校から新卒が来なくなり、僕は沖縄まで足を運ぶようになった。中途採用も、ホームページやSNSから来るようになった。


現在、社長になって13年。求人広告はコロナ前から一度も出していない。それでも、30人だった会社は90人まで増えた。派手じゃない。だが、確実に変わってきている。


中小企業の強みは何か。


地元で働けること。転勤がないこと。東京に通えば、往復2時間なんて当たり前だ。だがその時間は、家族にも、自分にも使える。これはでかい。


働き方改革も大事だ。だが、「どこで働くか」という価値は、それ以上に大きいと僕は思っている。


壁だらけだった。だが、その壁にぶつかり続けたからこそ、「何をやるべきか」が見えてきた。


人を集めるんじゃない。人に選ばれる会社になる事がこれからの建設業に最重要なミッションだと、


その覚悟が、この頃からはっきりと固まっていったのだ。