飯場の子 第43話
「企業とは創業者の魂である」
人手不足、入札制度の問題、仕事確保の難しさ、価格競争――。 何重もの苦しさを強いられていた2016年。
そんな中、誰も予想だにしなかった世界的な脅威が、2019年の年末から日本にも押し寄せてくる。
そう、新型コロナウイルスの蔓延だ。
当初、日本では「海外の話」という空気だった。だが、これはヤバいと感じたのは2020年2月、横浜港に停泊したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」での集団感染だった。
「あ、これはただ事じゃない」 そう直感した。
中でも衝撃だったのは、東京オリンピックの延期だ。あれを見た時、「これは本気でまずい」と腹に落ちた。
そして4月、当時の安倍首相が緊急事態宣言を発令。世の中は一気に止まった。
こんな未曽有の事態の中で、僕が考えたのはシンプルだった。
会社を守るために、何をするべきか。
まず一つ。「感染者を出さないこと」
もう一つ。「感染しても正しく恐れること」
この二つに尽きた。
もともと2016年頃から「社員ファースト」を掲げていたが、コロナをきっかけに一気に加速した。
この時、夢中で読んだ本がある。坂本光司氏著の『日本でいちばん大切にしたい会社』だ。これを読んで、はっきりした。
「顧客第一主義」も大事だ。だが、それ以上に「社員第一主義」でなければ会社は続かない。
腹をくくった。
未知のウイルスに対して、現場は混乱していた。社員の不安も伝わってくる。だからこそ、僕が一番意識したのは――「噂に振り回されないこと」だった。
コロナは確かに怖い。だが建設業は外仕事が多い分、他業種よりは対処しやすい。だからこそ、冷静にやる。
厚生労働省の発表や専門家の資料を全部印刷して、読み込んだ。そして作ったのが、オリジナルのフローチャートだ。
熱が何度ならどうする。PCR検査を受けた場合の対応。陽性なら、陰性なら――。 とにかく迷わせない。
「かかっても慌てるな」 「医者の指示に従え」 「無理するな、我慢するな」
行動を全部「見える化」した。その上で、社内の連絡体制やサポート体制も整えた。
一方で、これまでやってきた地域活動はほとんど止まった。大島フェスタもできない。だが、それで終わりじゃない。
「じゃあ今、何ができるか」
そう考えて、会社周辺地域の草刈りを始めた。地味だ。だが、それでいい。
すると不思議なことに、甲斐組に人が集まり始めた。
昔はよく言われた。「言うこと聞かないと甲斐組に入れちゃうぞ」そんな会社だった。
それが、少しずつだが「甲斐組に入りたい」そう言われるようになってきたのだ。
さらに面白いことが起きる。会社に直接クレームが入るようになったのだ。
「甲斐組のダンプ、ながらスマホしてたぞ」 「スピードが速い」
普通なら嫌な話だ。だが、僕は違った。嬉しかったのだ。これはただの苦情じゃない。「期待されてる証拠」だと。
「あれだけいいことやってる会社なんだから、ちゃんとしろよ」
そう言ってくれている。本当にどうでもいい会社なら、わざわざ電話もメールもしてこない。陰で文句を言って終わりだ。
わざわざ言ってくるってことは――もう「見られている」ということだ。
「ファンができたな」
そう確信した瞬間だった。
そんな手応えの中で、僕は一つの形を作ろうと考えた。
「経営計画書」だっだ。
表紙の1ページ目に書いた言葉。
「企業とは創業者の魂である」
この言葉に込めた思い。それは、甲斐組という会社は親父が起業しなかったらこの世に存在していない、ということだ。
当たり前のことなのだが、あらためてその起業魂には後継者として、尊崇の念を持たなければならないと感じた。
当時も親父とはぶつかっていた。正直、戦っていた。だが、それでも原点は親父だ。
現場主義。徹底したこだわり。仕事に対する信念。親父とお袋が作ってきた「甲斐組の魂」は、確実にそこにあった。
だからこそ思った。この会社は、自分のものじゃない。
そう、これは預かったものなのだ。
その魂だけは、絶対に曲げない。そう改めて誓ったのだ。
飯場の子 第42話
「壁にぶつかり続ける日々」
商工会議所青年部を卒業した2016年頃、建設業界も長く続いた不況の中で、もがき続けていた。
周知の通り、1991年にバブルが崩壊。建設業界もその打撃をまともに受けた。
翌年、建設投資額は84兆円をピークに、その後は右肩下がり。2010年には半分以下の41兆円まで落ち込んだ。そこから少しずつ持ち直してはきたが、現場にはいくつもの壁が立ちはだかっていた。
中でも大きかったのが、2011年の東日本大震災による「震災復興」だ。
震災復興は国家の最優先事項だった、それは理解できるが、膨大な復興にかかるヒトは被災地・東北に集中した。首都圏の公共工事は減りもしないが、増えない。それどころか、ダンプも人も東北へ行かなければならない、首都圏では完全に“空洞化”が起きた。
(震災の被害者、被災者御遺族の方には心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます)
甲斐組でも、大型ダンプの確保ができなくなった。
さらに現場では、「プラント待ち」という問題もあった。
【西湘アスコン】
ここでいうプラントとは、アスファルトや砕石、残土などを積み込む拠点のことだ。現場で使う材料は、このプラントから大型ダンプで運んでくる。
だが、需要が一気に集中すると、このプラントがパンクする。順番待ちで何時間も並ばされるのだ。しかも最後の積み込みは「あと少し足りない」「数量調整」といった細かい調整が入るため、現場はその連絡待ちになる。
つまり、ダンプがいない、プラントが混む、現場が止まる
この「三重苦」だ。
このロスを減らすため、当時うちは大型ダンプを1台購入した。今では4台まで増えているが、当時は正直かなり悩んだ。仕事は不安定、先も読めない中での投資だったからだ。
震災特需で消えたのは、ダンプだけじゃない。人もいなくなった。
作業員はみんな東北へ行った。単価が全然違う。そりゃあ行く。人もいない、車もない。それなのに受注単価は変わらないどころか、むしろ価格競争は激化する。完全に割に合わない状況だった。
だが、この「人が足りない」という問題は、震災だけの話じゃない。日本全体の人口減少と同時に、建設業の人手不足は加速していた。
団塊ジュニアの40〜50代が一番厚い層。その下は一気に薄くなる。そして、その一番厚い層がこれからどんどん引退していく。人手不足は、これからが本番だ。
その中で現場を縛っていたのが、「一人一現場制」だ。
公共工事では、現場ごとに専任の監督を置かなければならない。つまり、監督1人につき現場は1つしか持てない。仕事があっても、人がいなければ受けられない。当時の甲斐組の現場監督は10人弱。その中で現場を任せられるのは6〜7人程度だった。これじゃあ攻めきれない。
(※なお、この規制が緩和され、複数現場の兼務が認められたのは令和6年以降の国土交通省の話だ。資格制度も緩和されたが、それでも人は全然足りていない。)
もう一つ、大きな壁があった。「くじ引き入札」だ。
公共工事は基本、最低価格で決まる。だが不況下では、どの会社も最低ラインに張り付く。
結果、横一線。最後はくじ引き。完全に「運」だ。
当然、仕事には当たり外れがある。本来なら選びたい。だが社員を遊ばせられないと考えれば、仕事を選んでいる余裕なんてない。1本1本が勝負の世界。とにかく取らなきゃ終わる。
当時は、入札のたびに神頼みだった。札の数字と工事名を書いて神棚に上げ、二礼二拍一礼。本気でやっていた。
イメージ
このくじ引き入札は、今でも残っている。僕は地方議員にも何度も言った。
「こんなことやってたら、10年後、人いなくなりますよ」
だから「総合評価方式にして欲しい」と、提言書も出した。
企業に必要なのは、「ヒト・モノ・カネ」。だが、この頃から僕は完全に「ヒト」に振り切った。
現場を取るには人がいる。人がいなければ、何も始まらない。だから、まずは選ばれる会社になること。そこで手を付けたのが、「イメージアップ戦略」だ。いわゆるCSR活動。
この頃から、いろんなことをやり始めた。自社主催で「大島フェスタ(建設フェスタ)」を開催。地域イベントへの参加。七夕の飾り付け。ビーチクリーン。湘南ベルマーレのサポーターにもなった。タウンニュースでの発信、YouTubeも始めた。
社内ではお揃いのTシャツやグッズも作った。社員に匿名アンケートを取れば、「そんなのいらないから給料上げろ」とのコメント。
正論だった…。
だが、1人年間2,000円の給料アップで何が変わる。それより「この会社いいな」と思わせる空気の方が大事だと、僕は思った。だからやめなかった。
やがて採用戦争が本格化した。県内の高校から新卒が来なくなり、僕は沖縄まで足を運ぶようになった。中途採用も、ホームページやSNSから来るようになった。
現在、社長になって13年。求人広告はコロナ前から一度も出していない。それでも、30人だった会社は90人まで増えた。派手じゃない。だが、確実に変わってきている。
中小企業の強みは何か。
地元で働けること。転勤がないこと。東京に通えば、往復2時間なんて当たり前だ。だがその時間は、家族にも、自分にも使える。これはでかい。
働き方改革も大事だ。だが、「どこで働くか」という価値は、それ以上に大きいと僕は思っている。
壁だらけだった。だが、その壁にぶつかり続けたからこそ、「何をやるべきか」が見えてきた。
人を集めるんじゃない。人に選ばれる会社になる事がこれからの建設業に最重要なミッションだと、
その覚悟が、この頃からはっきりと固まっていったのだ。


























