飯場の子 第9章 35話「娘の誕生~結婚式」
前述したが、僕は平成15年5月に入籍をした。
当然姉や身内からは「結婚式や披露宴はどうするんだ?」などを聞かれるのだが、僕自身は結婚式はやらない考えであった。
理由の一つは僕の両親は結婚式も上げていない、父の兄弟はすべて結婚式を挙げていた。
時代がら、ささやかな式であったと思うが、立派な写真が残っていた。
僕は幼き頃にオヤジに「なんで結婚式をやらなかったの?」と聞いたことがある。
かえってきた言葉は「仕事が忙しすぎてそんな事やってる暇がなかった。」との事、まあ両親をしる僕は「ああ、そうなのね。」という印象だった。
そんなオヤジの言葉を受けていたこと、また女房の背景も考えて、あえて結婚式はやらないと決めていた。
しかし「身内のお披露目会くらいはやろう。」と姉の意見もあり、それならばと食事会の段取りをとって身内のみなに簡単な招待状を送ったのであった。
その食事会を数週間後に控えたころ、またまた事件が起きるのだ。
妊娠5か月あたりに差し掛かったころのある日の午後、女房が突然お腹が痛いと言い始めたのだ。
「取り合えず、市民病院に行ってくる。」と女房は一人タクシーで病院に向かった。
午後4時も回ったころか、会社で仕事をしている僕のもとに、病院から電話がかかってきた。「奥さまのことでお話があるので今から来てくれないですか。このまま入院になります」という。
これはただ事じゃない――。
自宅にいる娘たち2人を連れて、市民病院へ向かった。
到着した時、真顔の担当医師からこう告げられた。
「奥さまは切迫早産の状態です。すぐに手術しないと母子ともに危険な状態です。しかし今の状況では当院では処置ができないのです」と。
その時言われたのが、「今ある選択肢は2つ。「このまま母体を優先して子どもを諦める」か、「手を尽くし手術ができるほかの病院を探してみるか」です。ただ、他の病院がどこになるかは分かりません。もしかすると近隣県ではないかもしれない。それでもいいですか」
それを聞いた僕は女房の顔をじっと見た、女房は即答した。
「お願いします、病院を探してください」と。
「北海道から沖縄、日本中どこでもいいから探してください。」
その旨を伝えた医師は、「わかりました全力で探します」とその場を離れた。
気が動転しながら病室のベッドで祈るような思いでいると、30分ほどして慌てた様子の看護師がこう告げてきた。「搬送先が決まりました!」
女房はベッドのまますぐに運ばれて行く。
追いかける僕は看護師の人に「病院はどこですか」と聞く。慌てながら看護師は「慈恵医科大学病院です」といった。
しかし、病院に詳しくない僕はその病院がどこにあるのか分からない。看護師にどこにあるのか聞いてもその看護師も「私には分かりません」と言う。
すでに救急車が到着しており、僕も同乗。そこで初めて慈恵医科大学病院が東京にあることを知る。
救急車には主治医の先生も付いて来てくれた。娘2人は救急車に乗せられないと告げられ、そく姉に状況を電話して娘二人を迎えに来てくれるようお願いした。二人の娘は当然ながら動揺していた、中1、小5の多感な時期。2人は声を上げて泣いてしまっていた。
「心配するな、お父ちゃんが一緒に行くから大丈夫だ。ユキネエが迎えに来るから、待ってろ。」と言葉を残し、救急車はサイレンを鳴らして市民病院を飛び出していった。
当然、初めての経験だがサイレン全開の救急車で東名高速を走り抜けていく。
主治医の先生は若かったが、非常に優秀で心優しかった。搬送中もずっとケアしてくれ、僕らを落ち着かせてくれた。
緊迫したなか、1時間半は経ったろうか、慈恵医科大学病院に到着。
到着するや否や、女房はすぐ処置室に運ばれて行き、僕と付いて来てくれた市民病院の主治医先生は待たされる。
しばらくすると、同病院の主治医「S医師」が6名ほどの医者を引き連れて登場。市民病院の主治医先生がカルテなどを渡して説明しようとしたところ、
「あ、もう大丈夫ですよ、こちらでやりますから。もうお帰りください」
何とも言えない医会の「ヒエラルキー」を見せつけられた。
まさに「白い巨塔」だった。
ここまで親身になってくれた先生に心底、感謝の気持ちを伝えた後、「先生、わざわざありがとうございます。どうやって帰るんですか?」と声を掛けた。
「タクシーで最寄り駅まで行き電車で帰ります。力及ばずで、申し訳ありませんでした。でも受け入れ先が見つかって本当によかった」と。
最後まで優しく逞しかった先生。深々とお礼し、握手して別れた。もう名前も忘れてしまったが今でも会いたいと思う若き御仁だった。
その後、再度「僕のいる、ここはどこ?」状態になり、頼りの従弟である浩之常務に電話をした、浩之常務はインターネットで場所を調べて、「すぐに迎えに行きます。」と電話を切った。
慈恵医大の係りの方に「この後手術になります。ある程度時間がかかるから、お父さんは待たれてても、今日はもう奥さまとは会えないと思います」と告げられるも、手術は1.5時間ほどで終了。
それでも少しだけ顔を合わせることができた。女房は涙を流して「ごめんね」と力なき声で僕に伝える、僕も頬につたう涙を拭きながら「本当によかった。」と言葉を交わし、女房は病室へと向かった。
浩之が車を飛ばし迎えに来てくれた、彼に状況は一段落したと伝えると「よかった。心配したんだ」と。あの日のことは、本当に従兄弟である浩之の存在がありがたかった。
女房は3か月ほど絶対安静が必要でしばらく入院することになった。が経過はよく、
平成15年9月27日、無事に「ひなちゃん」は誕生した。
このことも、よく耐えた女房や母のいない間の娘との3人暮らし、そして慈恵医大病院の先生方には心から感謝する。
こうしてお披露目のタイミングを逸したのだが、結婚式の話に戻る。
ひなちゃんが2歳になる頃、お義父さんがガンになったという知らせを受ける。状況的にはよくなく余命宣告もあった。
その時、女房がいきなり「せめてウエディングドレスを着て写真を撮りたい」と言ってきた。
あまり何かをねだってくる人ではないのだが、一度は結婚の晴れ姿を親に見せてあげたいとの想いだったのだ。
そんな女房からの想いを聞いた僕は、「そんなんだったらいっそ結婚式までやってしまおう」と火が付いた。相変わらずのイノシシ男である僕はこうなったらとことんやる。
会場はホテルサンライフガーデン、マックスでも200人しか入らない会場に220人招待。結婚式といえば主役は新婦側だろうに、女房側は20人くらいで、あとは全部新郎である今村家と甲斐組の関係者なのである。
「あの結婚式はお父ちゃんのための結婚式だったと。あれだけ自分を主張する結婚式はなかったね。」今でも言われる。
結婚式は、盛大、かつ大層面白くやった。
スターウォーズが好きな僕は新郎がダースベーダー、新婦はアミダラ姫の格好をしたり、かなり嗜好を凝らした披露宴となった。
一般的な披露宴は、乾杯まで飲めない。それがいやでしょうがないので、来た人からどんどん飲めるようにしてもらった。
ホテル側が斬新すぎて「いいんですか」と言われたので「そんなもん知ったこっちゃない」と、来た順にどんどん好きなものをなんでも注文できるようにしてくれと、今では当たり前の習慣としてある「ウェルカムドリンク」を、当時どこよりも早くやってのけたわけだ。
おかげで、披露宴が始まる前には、みんなすでにできあがっており、各テーブルでは宴会が始まっていた。
僕たちが入場するころには大騒ぎ。入場前に会場をのぞき見したところ、タバコの煙で会場はモクモク、お酒をシコタマ飲んで酔っ払いも出ているカオス状態だった。
そんななか、司会者が「お待たせいたしました、新郎新婦の入場です」とアナウンス。
ドライアイスの演出とタバコの煙で会場は神秘的な光景に包まれるも、酔っ払いたちの「いつまで待たせてるんだよ!」というヤジに迎えられ、僕らは入場したのだ。
残念なことにお義父さん、そして僕の母親は体調がすぐれず、結局参加することは叶わなかったが、披露宴は盛大かつ無事に執り行うことが出来た。
お義父さんには病床で、その様子をアルバムにしてみせた。「ありがとう、ありがとう。本当に嬉しい」と涙を流して喜んでくれた。その半年後に恵美の父は他界したのだった。
この披露宴のエピソードの最後に。
この結婚式では引き出物を粋なものにしようと、紙扇子を準備。出席者1人1人の名前を入れたのだった。
こちらでも紹介したが、建設業界で兄分にあたるヤマグチさんが病に伏した時に、「共に旅行をしよう」となった、1泊2日で京都へ一緒に行ったのだ。
最後になってしまったその旅に、氏がその扇子を持ってきてくれて、「ヨッチの結婚式の扇子、まだ使っているよ」と。笑顔で僕に20年前の扇子を見せてくれた。
その粋な計らいには、涙が出るほど嬉しかった。いつまでも忘れないエピソードである。