ポジティブ思考よっち社長 -2ページ目

ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

12月10日火曜日


午前は仕事をびっちりこなす。素晴らしい建築の工事を受注しました。ありがとうございます🙏





午後からカミさんと、鎌倉に紅葉を見に行く。小町通りの先輩のとんかつ屋さんは定休日でがっくり。


そばと甘味のお店『山里』にはいる。



けんちん蕎麦のセットを注文。ビールは缶であり、なかなかの渋さであった。



食後にトイレに行きたいと、お供の社員Aと連れションにいくと、こんなスタイルで行為する彼に爆笑させられた。


(バッグの置き場がなく頭で押さえながら)


小町通りをぶらぶらと。






食後のデザートとと、お決まりのソフトクリームさんを食べる僕。(ブサイクだわぁ)


社員Aは みたらし団子🍡を幸せいっぱいに食べていた。


小町通りを後に、円覚寺へ移動。



カミさんと。





円覚寺は紅葉の見頃であったが、時間が午後3時過ぎで人気も少なかった。


円覚寺には令和5年に建立した樋口季一郎陸軍中将の顕彰碑にご挨拶にいくのだ。



塔頭 龍隠庵の奥に鎮座している。


結構登るのよね


石碑にご挨拶して、静かに手を合わせました


円覚寺を後にする


帰りの134号線の夕陽は美しかった


家につき、車中の会話で『ミンボーの女』の話題になり。


自宅で社員Aとカミさんと娘で出前をとり、4人ミンボーを観賞したのだ。


伊丹作品はブロードバンドチャンネルでは扱わないらしい。


今日も充実した一日であった。感謝ありがとうございます。


12月9日月曜日


朝は実家の仏壇にご挨拶からはじまる。チーン


黒部宮様にご参詣し、会社へ。

午前は社内で打ち合わせ。うーむ、定年退職の社員さんの継続雇用の待遇面について考える。


今までは、定年後の再雇用は給与は半分だの7割だのとの話しも聞いたが、建設業は10割で行こうではないか。との結論にいたる。まあ1年間の契約社員への切り替えは仕方がない。


しかし、まだまだ働ける65歳以上の皆様には是非とも、まだ一緒の船に乗り続けて欲しいもんだ。


またまた新たに25歳の若者が弊社のグループ会社に入社したいとの応募があり、中途採用の待遇についても幹部と考えた。このあと面接になるんだな。


本当に嬉しいものである。


午後から部門長のオンラインミーティングを行う。毎週月曜日の午後1時10分から。この10分が優しさなんだよ。だってさ、1時からだと休み時間が削られるじゃん。だから僕はね、10分から始めるのよ。


みんな、わかってちょうだい。


そのあとは五常建設の入札について、O社長と打ち合わせる。


15時からは兄分の1周忌で自宅にお伺いする。奥さんと1時間ほど話をしておいとました。


夕方にバタバタとあったが、なんとか対応できた。


帰社の前に置き場により、自社のユンボの美しさに惚れ惚れしてパシャリ。





今日も感謝ありがとうございます。

12月7日土曜日


10時から仕事の会議があり、茅ヶ崎の現場の詳細な打ち合わせを行う。方向性が決まった事は良かった。


昼は友人がオーナーシェフのイタリアンで仕事のお客様と食事をする。普段はディナーしか営業していないのに、貸切ランチに対応してくれる友には感謝だ。


夜は土建屋有志のYB会の忘年会で平塚の宝町にある『ほなな』さんで。20名近くあつまり、楽しい時間を過ごした。まあ土建屋の親方ばかりだから、見た目はネクタイをしている社長さん達のような雰囲気ではないのはいつもの事(笑)、仲間と時折り亡くなったオヤジの思い出話を語った。


二次会はバラけて、中澤さん、中村さん、石川さん、依田さん、金藤さん、佐藤さん、私で明石町の『アンジュ』さんに行った。カラオケで中山美穂さんの唄を歌い、みなで10代を懐かしんだ。


依田さんと二人、紅谷町のスナックで三次会。依田さんが終電に間に合わないと、挨拶もそぞろに駅に走る姿を見送る。まさに師走だと、ほくそ笑んでしまった。


来週くらいから忘年会のピークになり、タクシー待ちに100人くらい並ぶ光景が目に浮かぶ。その時だけはライドシェアもやってみたいと思いながら家路についた。


紅谷町

飯場の子33話「お袋の病とカミさんとの出会い」
 


 僕が水処理メーカーに出向しはじめた24歳の時に、今村家を揺るがす大きな出来事があった。

会社も着々と成長し、姉の由紀が甲斐組の経理を担当する事になった頃、お袋は甲斐組を退職する事になった。

3人の子ども達も、各々社会人にもなり早くも肩の荷も降りたところか、旅行好きなお袋は年に数回、国内や海外の旅を楽しんでいた。

そんな矢先にお袋は病に倒れたのだ。脳内出血であった。まだ57歳の若さである。




二日間、生死の間を彷徨ったが、手術を施し、なんとか一命はとりとめた。

しかし、高度の右半身麻痺と言葉を失ってしまったのだ。

お袋には迷惑かけてばかりの倅だった僕は一人涙し、その後悔の念に囚われた。

それから半年ほどリハビリ病院で入院し、退院後は自宅にもどり、昼は会社でリハビリをかねて片手ながら単純な事務作業を手伝うようにまでは回復した。

しかしながら、今村家はお袋の介護という壁と向き合うことになっていく。


現在は介護人口が増えた時代になり、いくつもの選択肢があるが、当時はまだ介護という分野は狭きものであり、お袋の介護には姉二人がかなりの労力を注いでいた。

そんな中でまだ24歳の若き頃の僕は介護なんて出来るはずもなく、たまにお袋の顔を見に実家に行く程度しか出来なかった。

この事には二人の姉がいた事を本当にありがたいと思う。


 話は変わるが、中小建設業の解消されていない課題の一つに『女性と知り合う機会が極端に少ない。』という問題がある。



 
僕のそれも例外ではなく、19歳から数年間は異性との接点は非常に少なかった。

学生時代からの仲間が連れている彼女を見て、どれだけ羨ましかったか。

まさに建設あるあるの話しなのだ。
 
しかし現代はマッチングアプリなど当たり前の世の中になったので、我が社の若い社員にも出会いの機会は増えたと思うのがせめてもの救いである。
 
そのような当時、若き建設人の僕らは、夜の街に楽しみを求めて出かけるのは必然だった。


当時活動していた、なでしこ会の会合やイベントの打ち上げなどで先輩達にスナックなど夜のお店に連れて行かれるうちに、行きつけの場所が出来て行くのである。
 
平成初期の頃、まだまだ街中の盛り場には作業服を着た若者たちの姿も多かった。

時代は流れ、今はとんとその姿を見なくなったものだ。
 
僕の恋愛事情に戻る。
たしかに出会いが少ないがそれでも数名の異性とのお付き合いもあったのだった。ただ元来の我儘者で短気な性格が邪魔をして、そうそう長続きもできなかったのであった。
 
そんな27歳の僕に新たな出会いがあったのだ。

カミさんとの出会いだ。場所は行きつけのスナックである。

いつものごとく、ぶらっとお店に寄った僕は、ママさんから「新しく入ったコなのよ。」と一人の女性を紹介された。



その人は年上の女性だった、自分で言うのもなんだが「いい女」だったのである。人気もあり、客あしらいも上手なのであった。

聞いたところ昼は仕事をしており、夜はスナックでの掛け持ちのバイト、そんな彼女は世間をよく知っている人だった。

まあ、27歳の若造もその魅力に引き寄せられ、彼女目当てにお店に通うようになったのだ。

生意気な若造の僕になんの興味を抱いたのか、彼女との仲は徐々に近くなっていき、お付き合いする事になるのだ。

カミさんは6歳年上。
彼女には当時小学1年生と3年生の子どもがいることを知らされていた。

ある日、お店でなでしこ会の兄貴分であるヤマグチさんと飲んでいた時に、「よっちよぉ、お前みたいな我儘もんには、彼女くらいの器量がある女性じゃなきゃ無理だなぁ。お前には勿体ない人だよ。」と、肩をたたいてくれたのは嬉しかった。
 


こうして彼女と2年交際が続いた。
その間にも色々あったが、彼女も夜のお店もやめて昼職だけになっていた。
 
自宅に二人で泊っていたある日、夜中に目が覚めた僕はおぼろげに、でも明確に「ああ、この人と一緒になるんだろうな」と直感のようなものが頭をよぎった。

翌朝目が覚めた後でも同じ気持ちだったらその気持ちを告げようと心に決め、再度眠りについた。
 
当時、マンションからは綺麗に相模湾が見えていた。
朝、日の光を浴び、海を一望した自分の気持ちは、まったく変わっていなかった。



彼女がつくった朝メシを食べながら僕は彼女に「おれと一緒になってくれないか。」と告げた。
彼女は驚きと困惑にうつむきながら「こちらこそよろしくお願いします」と、小さいながらもしっかりとした言葉で僕の気持ちを受け取ってくれた。
 

僕は交際していた2年間、彼女の子どもたちと会うのをためらった。一緒になる覚悟もないのに、子どもに情が移ってしまうのを恐れたのだ。
 
男女の関係はこの先どうなるか分からない。もし別れてしまった時に、子どもたちに悲しい思いをさせたくなかったのだ。
 
プロポーズのすぐ後、学校では運動会があるとのことで、覚悟を決めて僕も参加。そこで5年生、3年生になった娘たちに初めて会った。
 
2人とも僕の存在は聞かされていたようで、娘達はなんとなく初めまして、という感じではなかった。
 
運動会のお昼ごはんは手作りのお弁当、挨拶もそこそこに、お弁当を美味しそうに食べながら、次女はたわいもなく会話をしてくれた。

しかし長女はもう5年生。物心がつく年だったためか、遠慮がちだったのを覚えている。


 
運動会が終わった後、「僕の家にいくか」となった。
マンションは10階。眺めがよかったみたいで「すごいすごい」といってて、ベッドもぴょんぴょん跳ねては喜んでいた。
 
ここに住みたいか?と聞いたら「住みたい」と即答。

その日から川の字で寝るようになり、彼女はすぐアパートを引き払い、共同生活が始まった。
 
結婚するとなった時、越えなければいけないのはやはり「親からの承諾」だ。
しかし、親父は生来の頑固者、僕たちの結婚には反対だった。



そんな反対にも僕達は折れず、父に認めてもらえるよう彼女は努力を惜しまなかった。

そうなのだ、彼女はお袋の介護も文句ひとつも言わずに姉達にまじりながら手伝ってくれた。

そんな日々が3年も過ぎ、とうとう父もその努力を認めてくれた。

出会いから5年、僕は32歳になっていた。

こうして平成15年5月31日、雨の日の土曜日に僕たちは入籍する。
 
市役所が土曜日でも婚姻届の受付を始めた頃であった。休館日の市役所は誰もいない、がらんどうの空間であった。


普段は騒めく、入り口のホールにポツンと置かれたちっちゃいテーブルが受付窓口だとのこと。
 
なかなかレアな経験だなと思いながら、案内されたテーブルの前に立つと、座っていた二人の係の人から「おお甲斐組さん、今日はどうしたの。」と声を掛けられる。
 
その係の人達は、市役所の入札契約係を引退した顔見知りの、元職員だったのだ。
 
「実は今日僕ね、婚姻届け出しに来たんですよ」
 
「本当ですか?そりゃ嬉しいな!おめでとう」と喜びをあらわにしてくれて、手が折れるのではと思うくらいの勢いで拍手。




僕も嬉しさが込み上げてきて、頭を下げて「ありがとうございます。」と笑顔で応えた。

「おめでとう」の声とその拍手が、誰もいないがらんどうの空間に反響した音を今でもよく覚えている。

飯場の子はいよいよ自分の家族を持ち、父親となった。

カミさんの名前は今村恵美、長女アヤカ、次女エリカの4人のスタートだった。

そして、その年の9月27日に末娘の日南(ヒナ)が誕生した。

家族は5人になり、自分の人生に新たなる一歩を踏み出したのである。



飯場の子32話 出向社員の武者修行


 
 甲斐組に入社して5年が過ぎた頃、僕は叔父である常務の後を任された土安橋の掛け替え工事に全身全霊をかけて挑んでいた。

そして、会社の内外の沢山の人達に支えられて最後の河川護岸工事の完成検査までたどり着いたのだ。

その完成検査が終わり、役人さんを見送った後、陽が傾くまで現場から離れる事が出来なかった。4年に渡る工事の一つ一つを記憶をたぐりながら、その感無量な想いに浸っていた。


【イメージ】


 19歳で入社した僕は24歳になっていた、土安橋の経験は今でも僕の自慢話になっている。

話しは少し遡るが叔父が亡くなった後、社長であるオヤジは僕をいきなり取締役にしたのだ。

今は違うが当時の株式会社は常勤取締役が3名以上などの会社法があり、誰かしらを登記する必要があった。

たかだか21歳の若造が、取締役だのとんでもないと僕は固辞したのだが、相変わらず僕の意見など聞く事もなく常務取締役に就任させてしまう。

これには流石に面食らった。古参社員や同期の荻野や先輩であるヤッさんにまで常務とは呼ばせられない。

だが、社外の取引先の皆は『常務さん』と、呼ぶのである。これには流石に困惑した。

また、同期の荻野は『何が常務だょ。』と苛立ちをあらわにしていた。

そうは言っても、その肩書きを汚さない仕事をしなければ。というプレッシャーが背中を押してくれる時もあったのだ。

そして、一つの転機が訪れるのである。

舗装と土木に特化していた甲斐組だが、ここで異種な仕事の依頼が入ってきた。

社長から、『川崎で浄水場の中で基礎を作る仕事を頼まれた、お前が行って見積もりからして来い。』と。

これが、この後4年間にわたる、水処理メーカーに携わる縁とはこの時は知るよしもなかったのだ。

その会社は日本なら誰もが知る一流メーカーの子会社であり、当然ながら仕事の規模なども甲斐組とは桁が違っていたのだ。


【イメージ】


また建設業の種別も機械器具設置工事業で浄水場や下水道処理場の機械装置のメンテナンスが主体の会社である。

いままで経験してきた土木工事業とはかなり考え方が変わるのであった。しかし、自分なりに土安橋の工事を経験した自信があったので、臆する事もなく現場に向かったのだ。

約束の時間に現場である川崎市の長沢浄水場に伺うのだが、受付で入場許可を得て場所を探すも、場内は広くて現場がわからなかったのを覚えている。


【長沢浄水場】


現場を見つけて早速車を降りた、背のスラっとした白髪の初老の監督さんが待っていた。これが『ヒラマツさん』との出会いであった。

まずは『すみません、甲斐組です!』と元気よく挨拶をした。しかしヒラマツさんは『どうも…ヒラマツです。』とそっけない態度で接してきたのだ。

『ところで君はさ、機械の経験あるの?』と、いきなり質問がきた。『いや、機械の経験はないです。』と素直に答えた。




すると、『これだから土木屋は困るんだよ。』と、吐き捨てるように呟くのだった。

気難しい人だった。

現場をみた僕は驚いた、機械設備のデハイドラムという造粒脱水機がぐるぐる回転している。その土台になるコンクリート基礎が傾いていて回転に支障が出ていた。

この機械を一旦止めてドラムを持ち上げて、基礎を作り直すという工事だった。

ドラムの直径が2.5メートルで長さは5メートルくらいあった。

ヒラマツさんに一通りの説明を聞き、野帳に細かくメモを取っていく。

『じゃあ着工は来月だから見積もり出来たら連絡くださいよ。』とまた素っ気なくヒラマツさんがいう。

初めての出会いは、決して良いものではなかった。

預かった図面とメモをもとに見積もり作業に入った。機械装置の経験が無いなりにも、同期の荻野と相談などをしながら工程と見積もりを立てたのだった。


【イメージ】


また話しは遡るが、土安橋の工事が終わる前に3年間一緒に仕事をしてきたヤッさん先輩は自分の父が経営する株式会社大一建設に戻ったのだ。甲斐組には4年間在籍してくれたのだ。

また、悪友のシゲこと高橋茂久も浪人を経て無事に大学に進学した、そのシゲも大学時代の夏休みは、ほとんど甲斐組でアルバイトをしていて一緒に仕事に遊びに勤しんだ。彼は大学卒業後に税理士を目指し猛勉強。ついには26歳で税理士に合格するのである。

23歳になる頃、当時鉄筋工として働いていた中学時代のワル仲間であった『タイチ』こと、江澤太一もスカウトして甲斐組の社員になっていた。

また我が社の専務の実子である2歳年下の従兄弟であるヒロユキも甲斐組に入社してくるのだ。

若い仲間が増えて自分もさらに仕事が楽しくなっていった。

【イメージ】


話を戻そう、長沢浄水場の見積もりを提出した。早速現場で段取りしてくれとの話が進み、僕が工事担当になったのだ。

デハイドラムの工事は難しかった。しかし、元請けの代理人であるヒラマツさんと頭を捻りながら考えてなんとか完成までこぎつけた時に初めてヒラマツさんから褒められたのだった。

毎日1時間以上かけて川崎の現場まで通うのも大変なのだが、このヒラマツさんとの出会いから、足掛け4年間に渡りメーカーの出向社員となり水処理の仕事に従事していくのである。


【浄水場施設】


ヒラマツさんは気難しい人だったが、根は決して悪い人ではなく、本当に大人の世界を学ばせてくれた。

この出向社員時代に様々な人脈ができた、一緒に仕事をしたマツバラさんなどはその後も、仕事で相談できる大先輩で今でもお付き合いしている。

その中でもマツバラさんが紹介してくれた、シマダさんという当時建設コンサルタント会社の方は今でも甲斐組の相談役としてチカラを貸してくれている。

この人の繋がりは、大きな学びと財産となったのだ。

メーカー出向が2年から経ち、3年目にも入る頃、会社の飲み会などがある度に、何かと社長である父が他の社員の前で『お前は土木屋じゃなくてプラント屋だからな。』とわざとらしく小馬鹿にする場面がよくあったのだ。

たしかに、同期の荻野やタイチ、ヒロユキなどは土木の現場で頑張っている。

しかし、僕は水処理メーカーの仕事をしているが、かなりの粗利益を一人で稼いでいたのだ。

ここで僕の反骨心に火がつく。

よーし、甲斐組をやめてメーカー専門の会社を立ち上げてやる。と、

無謀な挑戦だがメーカーの人もそちらの方がやりやすいから、社長になっちまえよと後を押してくれたのだ。

かくして僕は父に相談もせず、平成9年に日総プランテック株式会社を設立したのだった。26歳だった。




しかしその計画も上手くはいかず、なんとメーカー側から今までの営業所の発注から本社の購買部からの発注に切り替わり、設立したばかりの実績がない日総プランテックは大きな工事を請ける事が出来なくなってしまった。

意気揚々だった僕は、失墜してしまう。




メーカーの仕事も細分化されて、小さな仕事しか依頼がこなくなったため、出向社員の立場も必要無くなってしまった。

仕方なく親父に頭を下げて、甲斐組の仕事に戻る事になるのだった。 

しかし、この時に設立した日総プランテックがその後に活躍するとはこの時は誰も想像しないのであった。

20代のころにはもう1つ、大きな出来事があった。

平成7年。24歳くらいの時、マンションを建売していた不動産屋の社長と親父が知り合いだった関係で、家を買ったらどうかとの話しになり、親父も半ば強引に勧めてくるのだ。

そんな言葉に僕はしっかりと調子に乗り、それまで貯めていた貯金や会社からも少し資金を借りて、ローンを組んだ。

24歳にして駅前に4200万円のマンションを購入したのだった。


【購入したマンション】

 
マンション購入や会社設立など、僕の20代は色々調子に乗った時代だった。
が、そのマンションは、今でも会社事務所として機能しているのだ。

とにもかくにも上昇志向で、波乱にみちたワカモノ時代は、実社会に必死に食らいついていた。

繰り返すが、水処理メーカーの4年間に渡る出向社員経験は、僕にとってかけがえの無い武者修行であった。

そして気難しくも、本当は後輩思いの『ヒラマツさん』と共に過ごした日々は、書ききれないが人生の学びになった。残念ながら、今は亡くなって年月も経ったが、心の恩人である。




とくに手帳の使い方や、かならず手帳を捨てないで取っておけと。それは自分の宝になるとの教えをいただいた。


【使い古した手帳】


いまはスケジュール管理はデジタル化したが、その教えを守り、過去の使い古した手帳は今も大事にしまってある。