ポジティブ思考よっち社長 -2ページ目

ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

飯場の子 第9章 34話
「なでしこ会会長と営業への道」


 
 19歳で甲斐組に入社してから、土安橋の架け替え工事をはじめ、道路舗装工事や河川の護岸工事などの神奈川県発注の工事を中心に現場代理人の経験を積み、25歳で2級土木施工管理技士の資格を取得した。途中、水処理メーカーへの出向も経験したが、31歳の時に1級土木施工管理技士の資格試験に挑戦して見事合格。

当時、普通科(指定学科外)の高校卒業の資格取得としては実務経験も含めて最短での1級土木施工管理技士の取得であった。
 
相変わらず、学校の勉強は大の苦手の僕だったが、自分にとって必要な事となると前のめりに勉強に打ち込む性格は、いいも悪いもなく変わらなかった。だが、この資格取得は土木屋にとっては必須の国家資格であり、その取得は僕自身にとっても大きな誇りになった。



 
現在は人口減とかさなり施工管理資格者の減少をカバーするために、資格試験の実務経験や指定学科の有無を含めて、当時より条件が緩和されているため、1級土木取得までの年齢も大幅に引き下げられている。(2025年現在)
 
 甲斐組に入社してから2年目の20歳になるときに、建設業協会の二世会である「なでしこ会」というなんともご婦人の集まりのような名前の会に入会させていただいた。仕事と共に僕は、この会で社外団体の経験を着々と積ませていただいた。
 




先輩たちから様々なイベントの役割を引き継いだ僕は入会から10年を過ぎてベテランメンバーになっていた、なでしこ会の会員もかなりの入れ替わりがあり、顔ぶれもぐっと若くなっていた。
 
当時の役職は副会長であったが、いよいよ次期なでしこ会長という声も聞こえてきた頃である。親会である平塚建設業協会の理事の中には「アンチ甲斐組」もいるので、僕が会長になる事に異論をとなえる人も何人かいた。
 
そんな意見が聞こえてきた僕は「冗談じゃない、誰も頭下げて会長にさせてくれと頼んでねーんだよ。こっちから願い下げだ。」と当時の会長であったコマツさんや歴代の会長経験者の先輩たちに猛反発してしまった。



 そんな中で当時のコマツ会長や、諸先輩が親会のカワノベ会長に理事の反発を抑えてほしいと直訴してくれたのだった。カワノベ会長はこれを快諾してくれてアンチ理事を抑えてくれた。
 
このことに関しては、コマツさんや諸先輩、またカワノベ会長への恩は忘れない。
 
そうして僕は平成13年、30歳でなでしこ会長に就任することになる。当時で約30年続くなでしこ会の歴史のなかで、最年少の会長だった。
 
なでしこ会長になった僕は、今までの親会のイベント手伝いや親睦の会である主旨のみにとらわれず、大きな目標を掲げた。それは、「親会に提案ができる2世会にしよう」というもの。上下関係の厳しい建設業界。上の言うことを聞くことが当然の風潮があった当時、その目標に、会員は拍手喝采。「よく言った」と賛同する声が沸き上がった。



なでしこ会の運営は手慣れたものだったので、副会長や会員をまとめ上げ順調に楽しく進んでいた。
 
その時代に建設業界を揺るがす大きな波が押し寄せたのである。
 
そうなのだ、「電子入札」への移行である。今までの入札制度をひっくり返すような出来事なのだ。当然ながら若手の方がこのような情報や危機感などには鋭く、早急に新しく始まる「電子入札に対するシステムなどの勉強会を行わなくてはならない。」などの声が上がった。


ヨシ、なでしこ会がこの事を親会へ提案して、会員企業へいち早く情報を提供しようとなった。
 
しかし当然、次には「じゃあ一体誰が提案しに行くか」という話になるのだが、水を打ったように静まり返る。「言うは易く行うは難し」である。それはそうだ。誰も上に睨まれたくはない。
 
まあそうなれば、言い出しっぺであり会長である僕が「みんなの気持ち」を引っ提げ親会へ向かうことになることは想像に難くない。
 
こうしてドキドキしながら親会が開催する「三役会」という会議へ出向かい、「僕たちの提案があるので聞いてください。そして理事会に上程してほしい」と訴えた。



三役会の参加者は、皆60代後半の昭和の親方ばかり。30そこそこの生意気な若造が偉そうに提案書なんて持って現れれば、当然突っぱねられる。
 
しかし、当時のカワノベ会長は、非常に理解のある人だった。「内容は分かった。是非ともその提案を理事会に諮るよ。今後も新しい提案があればいつでも言ってくれ」と懐の深さを見せてくれた。
 
一方、アンチ甲斐組からは「やはり甲斐組の2代目は生意気だ」という声や陰口が出る始末。
 
新しい風を吹かせようと思うと、どうしても反発を受けてしまう。改革の必要な業界ではこうした逆風は日常茶飯時だったが、なんとか任期である2年間、僕はなでしこ会の会長という役割を果たしたのだ。
 
 同じ頃、会社のなかでも僕は転機を迎えていた。「営業」への転身だ。
 
親父は根っからたたき上げの現場の親方。営業向きな性格では全くない。
分かりやすく言えば、若い衆を従えて現場で辣腕を振るうことが生きがいで、役所に対して頭を下げることは得意ではなかったのだ。
 
当時、甲斐組は神奈川県から「Aランク」の格付けを受けて間もなかった。建設業の公共工事の入札には正式に会社がランク付けされる制度があり、当時、同県のランク付けで土木Aランクは平塚では3社ほどしかいなかった。
 
そうなると、営業範囲が広域になる。さらに、たまたま時同じくして3年ほど在職していた会社の営業さんがやめてしまっていたため、父から「顔も売れてきたんだからお前は営業をやれ」と命じられ、同級生の「ミネオ」と2人で営業を担当することになった。



 
それまでは現場と営業の2足のわらじのようなことをしていたのだが、本格的な営業の道に入った。
 
しかし、周りに営業経験者がいない。そのため独学で学び始めた。
親父の知り合いである当時大手であった、飛島建設の営業の人と夜な夜な酒を飲みながら、役所への営業の仕方や作法、業界関係者との付き合い方などを学んだりした。
 
 
もう1つこの頃の僕に起きていたことがある。「専務への昇進」だ。しかし、この昇進には、ある特別な事情がある。
 
当時、父は60代前半であった。まだまだ体は元気でも、社会的には「熟しきった年」。
 
事実上の後継者である僕が平塚建設業協会でも活発に動き、また営業に転身したのをきっかけに、創業時から専務を務めた叔父が父に、「オヤジ、二代目を専務にしてくれ。佳広なら必ず伸びる、いい二代目に必ずなるから」と進言したそうなのだ。
 
 父である社長からそう告げられた時、「それは出来ないよ」と僕は固辞した。常務取締役になった理由は初代常務であった叔父が亡くなった事で、その役職につかざるをえなかったのだが今回は全く違う。
 
社長である父も少し複雑な心境だったと思う。電子入札への制度移行や公共事業の予算削減などで競争入札が激しくなっていた渦中のころである。だからこそ若い僕を専務というナンバー2にさせることで、会社に勢いをつけたいとの考えもあったのだろう。
 
しかし、あれだけの功労者である登叔父を専務からたいした理由もなく突然外すわけにはいかない。
 
そこで、僕は思案し思い浮かんだのが、「あの会社」の存在だ。
 
水処理メーカーに出向していた時代に、父に反発して平成9年に設立したが思惑が外れて以降休眠にしていた「日総プランテック株式会社」である。この日総プランテックを復活させ、叔父さんに日総の社長になってもらうのはどうかと父に進言したのだ。
 
 父は「それはいい考えだ。」と珍しく反論もせずに賛同してくれた。
親父に反発して作った会社が、このような復活を果たすとは思いもよらなかった。
 
 かくして僕は平成15年32歳の時に株式会社甲斐組の専務取締役に就任した。
そして叔父が関連会社である日総プランテック株式会社の代表取締役に就任し、数名の社員を転籍させて土木業を中心に公共事業へ参入し、活躍し始めるのである。
 
甲斐組が他社に先立ち始めたいわゆる分社化である。



そして現在でも日総プランテックは藤沢市に本社を移転し、社員15名を抱え、甲斐組のグループ企業として元気よく大操業中なのだ。

12月10日火曜日


午前は仕事をびっちりこなす。素晴らしい建築の工事を受注しました。ありがとうございます🙏





午後からカミさんと、鎌倉に紅葉を見に行く。小町通りの先輩のとんかつ屋さんは定休日でがっくり。


そばと甘味のお店『山里』にはいる。



けんちん蕎麦のセットを注文。ビールは缶であり、なかなかの渋さであった。



食後にトイレに行きたいと、お供の社員Aと連れションにいくと、こんなスタイルで行為する彼に爆笑させられた。


(バッグの置き場がなく頭で押さえながら)


小町通りをぶらぶらと。






食後のデザートとと、お決まりのソフトクリームさんを食べる僕。(ブサイクだわぁ)


社員Aは みたらし団子🍡を幸せいっぱいに食べていた。


小町通りを後に、円覚寺へ移動。



カミさんと。





円覚寺は紅葉の見頃であったが、時間が午後3時過ぎで人気も少なかった。


円覚寺には令和5年に建立した樋口季一郎陸軍中将の顕彰碑にご挨拶にいくのだ。



塔頭 龍隠庵の奥に鎮座している。


結構登るのよね


石碑にご挨拶して、静かに手を合わせました


円覚寺を後にする


帰りの134号線の夕陽は美しかった


家につき、車中の会話で『ミンボーの女』の話題になり。


自宅で社員Aとカミさんと娘で出前をとり、4人ミンボーを観賞したのだ。


伊丹作品はブロードバンドチャンネルでは扱わないらしい。


今日も充実した一日であった。感謝ありがとうございます。


12月9日月曜日


朝は実家の仏壇にご挨拶からはじまる。チーン


黒部宮様にご参詣し、会社へ。

午前は社内で打ち合わせ。うーむ、定年退職の社員さんの継続雇用の待遇面について考える。


今までは、定年後の再雇用は給与は半分だの7割だのとの話しも聞いたが、建設業は10割で行こうではないか。との結論にいたる。まあ1年間の契約社員への切り替えは仕方がない。


しかし、まだまだ働ける65歳以上の皆様には是非とも、まだ一緒の船に乗り続けて欲しいもんだ。


またまた新たに25歳の若者が弊社のグループ会社に入社したいとの応募があり、中途採用の待遇についても幹部と考えた。このあと面接になるんだな。


本当に嬉しいものである。


午後から部門長のオンラインミーティングを行う。毎週月曜日の午後1時10分から。この10分が優しさなんだよ。だってさ、1時からだと休み時間が削られるじゃん。だから僕はね、10分から始めるのよ。


みんな、わかってちょうだい。


そのあとは五常建設の入札について、O社長と打ち合わせる。


15時からは兄分の1周忌で自宅にお伺いする。奥さんと1時間ほど話をしておいとました。


夕方にバタバタとあったが、なんとか対応できた。


帰社の前に置き場により、自社のユンボの美しさに惚れ惚れしてパシャリ。





今日も感謝ありがとうございます。

12月7日土曜日


10時から仕事の会議があり、茅ヶ崎の現場の詳細な打ち合わせを行う。方向性が決まった事は良かった。


昼は友人がオーナーシェフのイタリアンで仕事のお客様と食事をする。普段はディナーしか営業していないのに、貸切ランチに対応してくれる友には感謝だ。


夜は土建屋有志のYB会の忘年会で平塚の宝町にある『ほなな』さんで。20名近くあつまり、楽しい時間を過ごした。まあ土建屋の親方ばかりだから、見た目はネクタイをしている社長さん達のような雰囲気ではないのはいつもの事(笑)、仲間と時折り亡くなったオヤジの思い出話を語った。


二次会はバラけて、中澤さん、中村さん、石川さん、依田さん、金藤さん、佐藤さん、私で明石町の『アンジュ』さんに行った。カラオケで中山美穂さんの唄を歌い、みなで10代を懐かしんだ。


依田さんと二人、紅谷町のスナックで三次会。依田さんが終電に間に合わないと、挨拶もそぞろに駅に走る姿を見送る。まさに師走だと、ほくそ笑んでしまった。


来週くらいから忘年会のピークになり、タクシー待ちに100人くらい並ぶ光景が目に浮かぶ。その時だけはライドシェアもやってみたいと思いながら家路についた。


紅谷町

飯場の子33話「お袋の病とカミさんとの出会い」
 


 僕が水処理メーカーに出向しはじめた24歳の時に、今村家を揺るがす大きな出来事があった。

会社も着々と成長し、姉の由紀が甲斐組の経理を担当する事になった頃、お袋は甲斐組を退職する事になった。

3人の子ども達も、各々社会人にもなり早くも肩の荷も降りたところか、旅行好きなお袋は年に数回、国内や海外の旅を楽しんでいた。

そんな矢先にお袋は病に倒れたのだ。脳内出血であった。まだ57歳の若さである。




二日間、生死の間を彷徨ったが、手術を施し、なんとか一命はとりとめた。

しかし、高度の右半身麻痺と言葉を失ってしまったのだ。

お袋には迷惑かけてばかりの倅だった僕は一人涙し、その後悔の念に囚われた。

それから半年ほどリハビリ病院で入院し、退院後は自宅にもどり、昼は会社でリハビリをかねて片手ながら単純な事務作業を手伝うようにまでは回復した。

しかしながら、今村家はお袋の介護という壁と向き合うことになっていく。


現在は介護人口が増えた時代になり、いくつもの選択肢があるが、当時はまだ介護という分野は狭きものであり、お袋の介護には姉二人がかなりの労力を注いでいた。

そんな中でまだ24歳の若き頃の僕は介護なんて出来るはずもなく、たまにお袋の顔を見に実家に行く程度しか出来なかった。

この事には二人の姉がいた事を本当にありがたいと思う。


 話は変わるが、中小建設業の解消されていない課題の一つに『女性と知り合う機会が極端に少ない。』という問題がある。



 
僕のそれも例外ではなく、19歳から数年間は異性との接点は非常に少なかった。

学生時代からの仲間が連れている彼女を見て、どれだけ羨ましかったか。

まさに建設あるあるの話しなのだ。
 
しかし現代はマッチングアプリなど当たり前の世の中になったので、我が社の若い社員にも出会いの機会は増えたと思うのがせめてもの救いである。
 
そのような当時、若き建設人の僕らは、夜の街に楽しみを求めて出かけるのは必然だった。


当時活動していた、なでしこ会の会合やイベントの打ち上げなどで先輩達にスナックなど夜のお店に連れて行かれるうちに、行きつけの場所が出来て行くのである。
 
平成初期の頃、まだまだ街中の盛り場には作業服を着た若者たちの姿も多かった。

時代は流れ、今はとんとその姿を見なくなったものだ。
 
僕の恋愛事情に戻る。
たしかに出会いが少ないがそれでも数名の異性とのお付き合いもあったのだった。ただ元来の我儘者で短気な性格が邪魔をして、そうそう長続きもできなかったのであった。
 
そんな27歳の僕に新たな出会いがあったのだ。

カミさんとの出会いだ。場所は行きつけのスナックである。

いつものごとく、ぶらっとお店に寄った僕は、ママさんから「新しく入ったコなのよ。」と一人の女性を紹介された。



その人は年上の女性だった、自分で言うのもなんだが「いい女」だったのである。人気もあり、客あしらいも上手なのであった。

聞いたところ昼は仕事をしており、夜はスナックでの掛け持ちのバイト、そんな彼女は世間をよく知っている人だった。

まあ、27歳の若造もその魅力に引き寄せられ、彼女目当てにお店に通うようになったのだ。

生意気な若造の僕になんの興味を抱いたのか、彼女との仲は徐々に近くなっていき、お付き合いする事になるのだ。

カミさんは6歳年上。
彼女には当時小学1年生と3年生の子どもがいることを知らされていた。

ある日、お店でなでしこ会の兄貴分であるヤマグチさんと飲んでいた時に、「よっちよぉ、お前みたいな我儘もんには、彼女くらいの器量がある女性じゃなきゃ無理だなぁ。お前には勿体ない人だよ。」と、肩をたたいてくれたのは嬉しかった。
 


こうして彼女と2年交際が続いた。
その間にも色々あったが、彼女も夜のお店もやめて昼職だけになっていた。
 
自宅に二人で泊っていたある日、夜中に目が覚めた僕はおぼろげに、でも明確に「ああ、この人と一緒になるんだろうな」と直感のようなものが頭をよぎった。

翌朝目が覚めた後でも同じ気持ちだったらその気持ちを告げようと心に決め、再度眠りについた。
 
当時、マンションからは綺麗に相模湾が見えていた。
朝、日の光を浴び、海を一望した自分の気持ちは、まったく変わっていなかった。



彼女がつくった朝メシを食べながら僕は彼女に「おれと一緒になってくれないか。」と告げた。
彼女は驚きと困惑にうつむきながら「こちらこそよろしくお願いします」と、小さいながらもしっかりとした言葉で僕の気持ちを受け取ってくれた。
 

僕は交際していた2年間、彼女の子どもたちと会うのをためらった。一緒になる覚悟もないのに、子どもに情が移ってしまうのを恐れたのだ。
 
男女の関係はこの先どうなるか分からない。もし別れてしまった時に、子どもたちに悲しい思いをさせたくなかったのだ。
 
プロポーズのすぐ後、学校では運動会があるとのことで、覚悟を決めて僕も参加。そこで5年生、3年生になった娘たちに初めて会った。
 
2人とも僕の存在は聞かされていたようで、娘達はなんとなく初めまして、という感じではなかった。
 
運動会のお昼ごはんは手作りのお弁当、挨拶もそこそこに、お弁当を美味しそうに食べながら、次女はたわいもなく会話をしてくれた。

しかし長女はもう5年生。物心がつく年だったためか、遠慮がちだったのを覚えている。


 
運動会が終わった後、「僕の家にいくか」となった。
マンションは10階。眺めがよかったみたいで「すごいすごい」といってて、ベッドもぴょんぴょん跳ねては喜んでいた。
 
ここに住みたいか?と聞いたら「住みたい」と即答。

その日から川の字で寝るようになり、彼女はすぐアパートを引き払い、共同生活が始まった。
 
結婚するとなった時、越えなければいけないのはやはり「親からの承諾」だ。
しかし、親父は生来の頑固者、僕たちの結婚には反対だった。



そんな反対にも僕達は折れず、父に認めてもらえるよう彼女は努力を惜しまなかった。

そうなのだ、彼女はお袋の介護も文句ひとつも言わずに姉達にまじりながら手伝ってくれた。

そんな日々が3年も過ぎ、とうとう父もその努力を認めてくれた。

出会いから5年、僕は32歳になっていた。

こうして平成15年5月31日、雨の日の土曜日に僕たちは入籍する。
 
市役所が土曜日でも婚姻届の受付を始めた頃であった。休館日の市役所は誰もいない、がらんどうの空間であった。


普段は騒めく、入り口のホールにポツンと置かれたちっちゃいテーブルが受付窓口だとのこと。
 
なかなかレアな経験だなと思いながら、案内されたテーブルの前に立つと、座っていた二人の係の人から「おお甲斐組さん、今日はどうしたの。」と声を掛けられる。
 
その係の人達は、市役所の入札契約係を引退した顔見知りの、元職員だったのだ。
 
「実は今日僕ね、婚姻届け出しに来たんですよ」
 
「本当ですか?そりゃ嬉しいな!おめでとう」と喜びをあらわにしてくれて、手が折れるのではと思うくらいの勢いで拍手。




僕も嬉しさが込み上げてきて、頭を下げて「ありがとうございます。」と笑顔で応えた。

「おめでとう」の声とその拍手が、誰もいないがらんどうの空間に反響した音を今でもよく覚えている。

飯場の子はいよいよ自分の家族を持ち、父親となった。

カミさんの名前は今村恵美、長女アヤカ、次女エリカの4人のスタートだった。

そして、その年の9月27日に末娘の日南(ヒナ)が誕生した。

家族は5人になり、自分の人生に新たなる一歩を踏み出したのである。