飯場の子32話 出向社員の武者修行
甲斐組に入社して5年が過ぎた頃、僕は叔父である常務の後を任された土安橋の掛け替え工事に全身全霊をかけて挑んでいた。
そして、会社の内外の沢山の人達に支えられて最後の河川護岸工事の完成検査までたどり着いたのだ。
その完成検査が終わり、役人さんを見送った後、陽が傾くまで現場から離れる事が出来なかった。4年に渡る工事の一つ一つを記憶をたぐりながら、その感無量な想いに浸っていた。
19歳で入社した僕は24歳になっていた、土安橋の経験は今でも僕の自慢話になっている。
話しは少し遡るが叔父が亡くなった後、社長であるオヤジは僕をいきなり取締役にしたのだ。
今は違うが当時の株式会社は常勤取締役が3名以上などの会社法があり、誰かしらを登記する必要があった。
たかだか21歳の若造が、取締役だのとんでもないと僕は固辞したのだが、相変わらず僕の意見など聞く事もなく常務取締役に就任させてしまう。
これには流石に面食らった。古参社員や同期の荻野や先輩であるヤッさんにまで常務とは呼ばせられない。
だが、社外の取引先の皆は『常務さん』と、呼ぶのである。これには流石に困惑した。
また、同期の荻野は『何が常務だょ。』と苛立ちをあらわにしていた。
そうは言っても、その肩書きを汚さない仕事をしなければ。というプレッシャーが背中を押してくれる時もあったのだ。
そして、一つの転機が訪れるのである。
舗装と土木に特化していた甲斐組だが、ここで異種な仕事の依頼が入ってきた。
社長から、『川崎で浄水場の中で基礎を作る仕事を頼まれた、お前が行って見積もりからして来い。』と。
これが、この後4年間にわたる、水処理メーカーに携わる縁とはこの時は知るよしもなかったのだ。
その会社は日本なら誰もが知る一流メーカーの子会社であり、当然ながら仕事の規模なども甲斐組とは桁が違っていたのだ。
また建設業の種別も機械器具設置工事業で浄水場や下水道処理場の機械装置のメンテナンスが主体の会社である。
いままで経験してきた土木工事業とはかなり考え方が変わるのであった。しかし、自分なりに土安橋の工事を経験した自信があったので、臆する事もなく現場に向かったのだ。
約束の時間に現場である川崎市の長沢浄水場に伺うのだが、受付で入場許可を得て場所を探すも、場内は広くて現場がわからなかったのを覚えている。
現場を見つけて早速車を降りた、背のスラっとした白髪の初老の監督さんが待っていた。これが『ヒラマツさん』との出会いであった。
まずは『すみません、甲斐組です!』と元気よく挨拶をした。しかしヒラマツさんは『どうも…ヒラマツです。』とそっけない態度で接してきたのだ。
『ところで君はさ、機械の経験あるの?』と、いきなり質問がきた。『いや、機械の経験はないです。』と素直に答えた。
すると、『これだから土木屋は困るんだよ。』と、吐き捨てるように呟くのだった。
気難しい人だった。
現場をみた僕は驚いた、機械設備のデハイドラムという造粒脱水機がぐるぐる回転している。その土台になるコンクリート基礎が傾いていて回転に支障が出ていた。
この機械を一旦止めてドラムを持ち上げて、基礎を作り直すという工事だった。
ドラムの直径が2.5メートルで長さは5メートルくらいあった。
ヒラマツさんに一通りの説明を聞き、野帳に細かくメモを取っていく。
『じゃあ着工は来月だから見積もり出来たら連絡くださいよ。』とまた素っ気なくヒラマツさんがいう。
初めての出会いは、決して良いものではなかった。
預かった図面とメモをもとに見積もり作業に入った。機械装置の経験が無いなりにも、同期の荻野と相談などをしながら工程と見積もりを立てたのだった。
また話しは遡るが、土安橋の工事が終わる前に3年間一緒に仕事をしてきたヤッさん先輩は自分の父が経営する株式会社大一建設に戻ったのだ。甲斐組には4年間在籍してくれたのだ。
また、悪友のシゲこと高橋茂久も浪人を経て無事に大学に進学した、そのシゲも大学時代の夏休みは、ほとんど甲斐組でアルバイトをしていて一緒に仕事に遊びに勤しんだ。彼は大学卒業後に税理士を目指し猛勉強。ついには26歳で税理士に合格するのである。
23歳になる頃、当時鉄筋工として働いていた中学時代のワル仲間であった『タイチ』こと、江澤太一もスカウトして甲斐組の社員になっていた。
また我が社の専務の実子である2歳年下の従兄弟であるヒロユキも甲斐組に入社してくるのだ。
若い仲間が増えて自分もさらに仕事が楽しくなっていった。
話を戻そう、長沢浄水場の見積もりを提出した。早速現場で段取りしてくれとの話が進み、僕が工事担当になったのだ。
デハイドラムの工事は難しかった。しかし、元請けの代理人であるヒラマツさんと頭を捻りながら考えてなんとか完成までこぎつけた時に初めてヒラマツさんから褒められたのだった。
毎日1時間以上かけて川崎の現場まで通うのも大変なのだが、このヒラマツさんとの出会いから、足掛け4年間に渡りメーカーの出向社員となり水処理の仕事に従事していくのである。
ヒラマツさんは気難しい人だったが、根は決して悪い人ではなく、本当に大人の世界を学ばせてくれた。
この出向社員時代に様々な人脈ができた、一緒に仕事をしたマツバラさんなどはその後も、仕事で相談できる大先輩で今でもお付き合いしている。
その中でもマツバラさんが紹介してくれた、シマダさんという当時建設コンサルタント会社の方は今でも甲斐組の相談役としてチカラを貸してくれている。
この人の繋がりは、大きな学びと財産となったのだ。
メーカー出向が2年から経ち、3年目にも入る頃、会社の飲み会などがある度に、何かと社長である父が他の社員の前で『お前は土木屋じゃなくてプラント屋だからな。』とわざとらしく小馬鹿にする場面がよくあったのだ。
たしかに、同期の荻野やタイチ、ヒロユキなどは土木の現場で頑張っている。
しかし、僕は水処理メーカーの仕事をしているが、かなりの粗利益を一人で稼いでいたのだ。
ここで僕の反骨心に火がつく。
よーし、甲斐組をやめてメーカー専門の会社を立ち上げてやる。と、
無謀な挑戦だがメーカーの人もそちらの方がやりやすいから、社長になっちまえよと後を押してくれたのだ。
かくして僕は父に相談もせず、平成9年に日総プランテック株式会社を設立したのだった。26歳だった。
しかしその計画も上手くはいかず、なんとメーカー側から今までの営業所の発注から本社の購買部からの発注に切り替わり、設立したばかりの実績がない日総プランテックは大きな工事を請ける事が出来なくなってしまった。
意気揚々だった僕は、失墜してしまう。
メーカーの仕事も細分化されて、小さな仕事しか依頼がこなくなったため、出向社員の立場も必要無くなってしまった。
仕方なく親父に頭を下げて、甲斐組の仕事に戻る事になるのだった。
しかし、この時に設立した日総プランテックがその後に活躍するとはこの時は誰も想像しないのであった。
20代のころにはもう1つ、大きな出来事があった。
平成7年。24歳くらいの時、マンションを建売していた不動産屋の社長と親父が知り合いだった関係で、家を買ったらどうかとの話しになり、親父も半ば強引に勧めてくるのだ。
そんな言葉に僕はしっかりと調子に乗り、それまで貯めていた貯金や会社からも少し資金を借りて、ローンを組んだ。
24歳にして駅前に4200万円のマンションを購入したのだった。
マンション購入や会社設立など、僕の20代は色々調子に乗った時代だった。
が、そのマンションは、今でも会社事務所として機能しているのだ。
とにもかくにも上昇志向で、波乱にみちたワカモノ時代は、実社会に必死に食らいついていた。
繰り返すが、水処理メーカーの4年間に渡る出向社員経験は、僕にとってかけがえの無い武者修行であった。
そして気難しくも、本当は後輩思いの『ヒラマツさん』と共に過ごした日々は、書ききれないが人生の学びになった。残念ながら、今は亡くなって年月も経ったが、心の恩人である。
とくに手帳の使い方や、かならず手帳を捨てないで取っておけと。それは自分の宝になるとの教えをいただいた。
いまはスケジュール管理はデジタル化したが、その教えを守り、過去の使い古した手帳は今も大事にしまってある。