ポジティブ思考よっち社長 -2ページ目

ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

飯場の子 第41話
「代表者としての自覚」



 YEGでは、会員として、そして会長として、本当にいい経験をさせてもらった。

だが前にも書いた通り、このYEGは45歳で卒業だ。

平成29年3月、45歳で卒業を迎えた。
卒業式では同期18名の代表として感謝の辞を述べさせてもらったが、途中で涙が込み上げて言葉が出なくなった。それでも、後輩に伝えるべきことは、なんとか最後まで話しきった。

忘れられない出来事がもう一つある。
YEG活動の中で知り合った、平成24年度の日本商工会議所青年部会長、富山YEGの尾山謙二郎さんが、わざわざ卒業式に駆けつけてくれたのだ。

正直、驚いたし、感動した。
普通、そんなことはまずない。今でもあの光景は、はっきりと覚えている。

尾山さんとは今でも僕の兄貴分として付き合っている。あの人との縁も、YEGで得た大きな財産だ。




 一方で、42歳で継いだ甲斐組の社長として、正直に言えば、まだ社員の生活まで背負う覚悟は持てていなかった。

世間の社長はよく言う。
「社員とその家族の人生を背負っている」と。

だが当時の僕には、そこまでの覚悟はなかった。

ところが、45歳が近づいた頃から、気持ちが変わってきた。

「社員を育てて守る」「その家族まで面倒を見る」そう思えるようになってきた。

そのきっかけは、はっきり二つある。

一つは、やっぱりYEGの卒業だ。

あれだけ打ち込んできた地域活動に終止符が打たれたことで、どこか空いた穴を、今度は会社に向けようとしたんだと思う。

「次は甲斐組を変えたい」

そんな気持ちが自然と湧いてきた。

だが、その前に立ちはだかったのが――親父だった。

僕が社長になってからも、親父はあの手この手で口を出してきた。
わからないでもないが、創業者の意地みたいなものだろう、とにかくシツコくからんでくる。

中でもひどかったのが、平成27年の出来事だ。

会長になり、開業資金に2000万円も突っ込んで、寿司居酒屋「まんぜん」を始めた。
正直、趣味みたいなもんだ。そんなもんがうまくいくわけがない。



当然赤字にもなる。
別に僕が責めるわけでもないのだが、その不満を、僕に押しつけてくる。




「こんなことやらせるお前が悪い」
「俺をこんなところに閉じ込めやがって」

挙句の果てには、
「息子に会社を乗っ取られた」
と、半分ふざけながら好き放題言いふらす始末だ。

だが現実は逆だ。
当時、会社の業績は厳しく、むしろ僕が社長になって全てを背負い、社員と共に立て直している最中だった。

親父は、店の数字が良くないと、必ず同じことを繰り返した。

社員に電話して店に呼び出し、
「現場はどうなっている」と仕事に口を出してくる。

社員からすれば困惑するしかない。
会長の店に呼ばれるのが、ストレスになるのだ。

たまにだが現場にも顔を出しては、
「こんなことやってたらダメだ」と作業を止めさせてしまう。

はっきり言って、業務妨害だった。

こんな状態がずっと続いていた。

だが、YEGを卒業し、「社員を守る」と腹をくくり始めた頃、ある一言で僕の中の何かが切れた。

「俺は親父のために生きてるんじゃねえ」

そう思った。

ちょうどその頃、親父の知り合いに愚痴をこぼしたことがあった。

その人に言われた一言が、今でも忘れられない。

「距離を置いていいんだよ、そんなの」

初めて聞いた言葉だった。

それまで僕は、跡取りだから、息子だから、
親父からの電話には必ず出なきゃいけない、
文句も全部聞かなきゃいけない、
そう思い込んでいた。

会えばケンカ。
毎回、心も体もすり減らしていた。

だが、その一言で気づいた。

電話に出るか出ないか、会うか会わないか、
そんなもん、自分で決めていいんだと。

僕の人生だ。

創業者だから、親だから、二代目だから――
そんな理由で、無理して合わせる必要なんかない。

僕は一人の人間だ。

それから、僕は親父からの電話に出なくなった。


イメージ


社員にもこう頼んだ。
「親父から聞かれたら、忙しいんじゃないですかって言ってくれ」

すると、親父はそのうち電話もしてこなくなった。
避けられていると気づいたんだろう。

こうして、親父との関係は変わった。

いや、正確には、俺が勝手に背負っていた義務を捨てただけだ。

「距離を置いていい」

この言葉を、今まで誰も言ってくれなかった。

きっとみんな同じだったんだと思う。
親父という存在に縛られて、逆らえないものだと決めつけていた。

だが、僕は初めて親父を無視した。
それができた時、はっきりと自覚した。

僕は、甲斐組の社長なんだと。

社員の人生を背負う立場なんだと。

この二つ――
YEGの卒業と、親父との距離。

それが、僕に「代表者としての覚悟」を持たせてくれた。

あの時、僕の背中を押してくれたあの人には、今でも感謝している。
飯場の子 第40話
「学びと感謝の一年」商工会議所青年部



  甲斐組の社長になって1年が経ち、43歳になっていた僕は、平塚商工会議所青年部(YEG)で、すでに多くの社会活動をさせてもらっていた。

当初は「1年で辞める」という条件付きで入会したYEGだった。しかし、地域にこれほど多くの青年経済人がいるのかという感動と衝撃、そしてやりがいを感じる中で、僕は次第にその活動にのめり込んでいった。

イベントを手伝い、自ら企画を立ち上げ、会員のため、そして地域の人たちのために動くようになっていった。

YEGでは、活動に関われば関わるほど役職を任されていく。約100人の組織の中で軸を担う中心は、専務理事、副会長、そして会長だ。入会から1年後には理事に就任し、2年務めた後に専務理事へ。さらに副会長を3年間経験した。

その先にあるのが「会長」という責務だった。

理事までは自ら手を挙げてなれるが、専務理事や副会長といった三役は、実質的には現役会長による指名で決まる。規約上は立候補制であっても、実際にはこれまでの流れや信頼関係の中で後継者が選ばれるのが通例だった。

それまでの流れから、平成26年度の会長は僕になると見られていた。

そんな中、同じタイミングで会長職に強い意欲を持つ会員が現れた。対抗馬はTさん。頭も切れ、「できる男」ではあったが、入会が遅く、経験面ではまだ差があった。

Tさんは積極的に周囲へ働きかけ、支持を広げていった。YEGは45歳で卒業が決まっているため、彼にとってはこの年を逃せばチャンスはなかったのだ。

やがて、会内は今村派とT派に真っ二つに割れた。

同時に、僕に対するネガティブな動きも表面化していった。陰での悪口や批判は相当なもので、いわば大人のいじめのような状態だった。

しかし、直接言ってこない相手に対して怯むことはなかった。「出る杭は打たれるだけだ」と、相手にしなかった。

それでも何より辛かったのは、Tさん本人の態度があからさまに変わったことだった。ライバル視されている以上、仕方のないことだと頭では理解しながらも、心のどこかで複雑な思いがあった。

そんな中、年長者で親しくしていたSさんがこう言ってくれた。
「今ちゃん、短気を起こさず、やるべきことをやればいい」

その一言に救われた。

様々な出来事があったが、「これまで積み重ねてきたキャリアを飛ばすべきではない」という意見も多く、最終的には現役会長から呼び出しを受け、次年度会長として正式に指名された。

平成25年11月、臨時総会で承認を受け、僕は次年度会長予定者となった。

翌年4月に向けての準備が始まる。最初の仕事は、専務理事と事務局長を選ぶことだった。

僕が選んだのは、サノ君とマキイシ君。サノ君には以前から「もし自分が会長になったら専務を頼む」と伝えていた。マキイシ君は非常に優秀で信頼できる人材だった。この二人とともに体制を固め、その後、副会長人事を整え、「今村年度」はスタートした。

結果として、会長を経験できたことは本当に良かったと思っている。

掲げたスローガンは
「活性 〜縁から絆、学びと感謝〜」




副会長までは委員会運営が中心だったが、会長になると役割は大きく変わる。組織全体の方針に対する決断や判断、そして各所での挨拶や対外活動が増える。

毎月の例会、各種イベント、対外行事――時間を取られる場面は多かった。

しかし、その一つひとつの場で、多くの人と出会い、言葉を交わし、「ありがとうございます」と言われるたびに、自分の中にエネルギーが満ちていくのを感じた。

関わった人たちの笑顔、参加者の笑顔、地域の人たちの笑顔――そのすべてが、自分にとっての原動力になっていった。

“ありがとう”という感情が、心の奥から何度も込み上げてきた。

もしあの時、感情に任せて「役員を降ります」と言っていたら、この経験は決して得られなかっただろう。

YEGの活動を通して、地域の中で人が輝く姿を見てきた。その経験が、「これを甲斐組でもできないか」という発想へと繋がっていった。

YEGの活動は、直接的に会社の利益に結びつくものではない。しかし、当時社長になったばかりの僕に課せられていた最大の使命は、企業イメージの刷新だった。

「甲斐組だけには入りたくない」と言われる会社から、「甲斐組に入りたい」と言われる会社へ――。

そのために、CSR活動(社会貢献)を通じて企業の価値を高めることができるのではないかと考えるようになった。



[大島フェスタ]

もちろん、お金もかかる。しかし、地域に対して真摯に向き合うことが、企業の信頼やブランドに直結する――その確信を持つようになった。

振り返れば、会長になるまでには様々な出来事があった。だが、この経験が今の自分の経営の柱になっていることは間違いいない。

甲斐組の企業理念
「地域笑顔創造企業であり続けること」

その根底には、YEGで学んだ“縁と感謝”の精神が、確かに息づいている。




 母が亡くなって以降、親父は自我を抑制できないほど現場に来ては荒れ狂うようになった。


 父はこれまでも破天荒な人ではあったが、その頃は機嫌が悪いと下請けの職人の襟首を掴んで振り回したりするまでになっていた。


 母が亡くなった翌年には、甲斐組の職人頭だった片腕のフルヤさんも病気で亡くなり、創業専務のノボル叔父さんも高齢を理由に会社を去っていった。


 創業から甲斐組を支えた人々が周りからどんどんいなくなってしまうなか、僕はその度に専務として、荒れる父から社員をかばい、会社の経営をやりくりしなければならなかった。


 振り返れば大変な時期だった。親父自身も、相当に辛かったんじゃないかと思う。


 しばらくは踏ん張ったが、こんな状態を続けられるわけがない。

親父の振る舞いに、社員たちがついていけなくなっていた。「もうこれ以上は無理です」「会社を辞めたい」……社員たちの悲鳴が聞こえてくる。どうしようもなかった。


 僕自身も「もう限界だ、どうにもならない」とオギノに泣きを入れるようになっていた。


 とにかく、親父の「創業者」としての仕事に対する執着心は、凄まじいものがあった。

体力が衰えていく反動か、何かしらにつけて無理をゴリ押ししてくるのだ。


 こうして、自分のためにも、社員のためにも、会社からの「撤退作戦」を本気で考え始めた。


 その考えに、ヒロユキもオギノも異を唱えなかった。

今後、どうやって甲斐組から身を引くかを、こっそりと税理士を交えて話し始める。


 僕たちの作戦は、僕が起業した「日総プランテック」に、やる気のある社員と共に移ろうという計画だった。


 こうして真剣に計画を立てていくわけだが、互いの意見を出し合ううちに、人は冷静になる。

3人と税理士で協議を重ねる中で、こうした最悪の形ではなく、何か他に方法はないのかと考えるようになってきた。


 その際には、「会社を任せてくれ」という社員全員の血判状を作り、親父に突き付けるといった意見も出たほどであった。


 おふくろが亡くなって2年。僕が42歳、親父が74歳の時、いつも親身に相談に乗ってくれていたある社長から、こんな助言を受けた。


「オヤジと2人だけで、しっかり話したほうがいいと思う。絶対に他人を入れないほうがいいぞ」


 その言葉で、僕は覚悟を決めて真正面から話してみようと思うようになった。きっと分かってはくれないし、大喧嘩になるだろう。


 そんな覚悟の上で、正月を過ぎた一番忙しい時期、意を決して親父の家に行った。


「親父、ちょっと話がある」


「おお、なんだ」


「……親父よ、会社、俺に任せてくれないかな。俺に社長をやらせてくれ」


 すると、今までは何だったんだと思うような返事が返ってきた。


「だから、何十年も前からおめえが社長をやれって言ってるじゃねえか! 60の時も65の時も70の時もおめえに『会社譲る』って言ってきたのに、おめえが逃げ回ってただけじゃねえか!」


 意味は違うが、やはり怒鳴られる。しかも、内容は僕の記憶とかなり違っている。


 折に触れて代替わりの話はこれまでも出ていた。60、65、70と、節目が近づくと自分から「代替わりする」と言っておきながら、実際その都度、結局は「沈黙」してきたのは親父の方だったのだ。


 父が65歳を迎えるときは、メインの銀行にまで行って事業承継の説明をした。銀行も「ヨシヒロさんなら十分に会社経営できます、当行も社長同様に支えていきます」とまで太鼓判を押してくれた。


 しかし、いざ代替わりのための手続きをしようとなると、やはり口を利かなくなる。


 そして、「そんな急いでやる必要もねえんだ」となる。

始まった。まだやりたいんだな……と、その度に僕は黙認してきたのだ。


 70歳の時も同じだった。1年前から「もう俺も引退だ。とてもじゃないけど、こんな年でやってられない。なんで俺が働かなきゃいけないんだ」と言い始める。


 が、実際70歳になると、やはり口を閉ざす。「親父、代替わりの件、どうする?」と問うと、

「おめえはなんでそんなに急ぐんだ、今やることじゃないだろ」となる。

いつものことなので、これも黙認。


 そんな経緯があった中、会社の存亡をかけて覚悟をもってサシで話しに行ったのに、

「お前が逃げ回ってたせいだろう」と、すべては僕の責任に転嫁されてしまった。


 だが、この言葉で父に引退の意思があると確信した僕は、「本当にいいのか」と念を押した。

すると「男に二言はない。明日にでも辞めて一切口は出さねえ。ただ、給料は払えよ」と返ってきた。


 親父との話し合いは1月。

その後、甲斐組社長交代のための準備が始まった。


 これを機に、今村家以外から初めての役員として、荻野を常務取締役に迎えた。甲斐組は5月が決算だ。

5月までに登記を変え、銀行の手続きを終え、6月1日に取引先へ一斉通知・発表ができるようにしなければならない。


 社内ではすでに社長交代の噂が広まっており、社員の気運も高まってきていた。あとは6月1日の対外的な発表を待つのみ、というところまで来た。


 その前に、社員の前で直接代替わりを発表しなければならない。

迎えた5月の最終週の月曜日。

当時、甲斐組では毎週月曜日に朝礼をしていた。つまり、その日は親父が社長として行う最後の朝礼になるはずだった。


 朝礼が始まる直前、僕は発破をかけるつもりで、それとなくこう言った。

「親父よ、今日、社長としての最後の朝礼だぞ」


 何の気なしにかけた言葉だった。が、ふと父の顔を見ると、「えーーーーー!?」という、信じられないような顔をしてこちらを見てきた。


 わかってはいても、「今日が最後になる」という認識がなかったらしい。

動揺したのか、朝礼冒頭の訓示で親父はこう言い放った。


「今日はみんなに大事な話をしようと思ったんだ。でも、今日は日が悪いからやめる! 解散!」


 いきなりの朝礼終了。社員たちはポカーンとしていた。

何の日も悪くない。まあ、こうやって終わるのも親父らしいのかもしれないが、やっぱりケジメがつかない。


 その後、社長室で親父と話し合った結果、「ヨシヒロ、箱根の旅館を獲れ。今週中、いつでもいい」と言い放った。


 いつも世話になっている箱根の「春光荘」という旅館に「今週末、予約取れないか」と電話を入れる。春光荘の社長は僕の高校の友人であった。快く受けていただき、そこで仕切り直すことになった。


 5月31日の金曜日だったと記憶している。当日は30人の社員で箱根に行き、大広間の宴会場で全員を集めた。


 親父からの口上が始まった。

「今日、みんなに大事な話がある。分かっているとは思うけど、俺は昭和44年に平塚で……」


「やっとここでうちのせがれも、まあ跡を継げるくらいに成長したので、俺は今日をもって社長を引退する。明日からは2代目が社長になるから、みんなで支えてやってくれ」


 その時、社員全員が「はい、分かりました!」と声を揃えた。

それが、たまらなく格好良かったのを覚えている。


 次に僕が就任の挨拶をし、宴会が始まった。大いに盛り上がった。

宴会の最中、隣に座っていた父が僕に一つの言葉をくれた。


「ヨシヒロ、土建屋の社長になるってことは、自分の若い衆のクソの面倒まで見ることなんだぞ」


 まさに座右の銘のような、土建屋の真髄を表す言葉だった。

僕は黙って父の目を見て頷いた。あの瞬間は、一生忘れない。


 こうして甲斐組は紆余曲折を経て、平成25年6月、今村佳広二代目社長の新体制としてスタートを切ったのだ。

飯場の子 第9章 38話 「荒れ狂う親父」



 身内が亡くなると、悲しみに沈む間もなく始めなければならないのが葬式なのだ。

例に違わず、お袋が亡くなった直後から、僕にもこの経験にぶつかることになった。

「葬式は葬儀社を決める、から始まる」。なんだか昔映画にもあったような。

そうなると、看護師から「決まっているところがありますか」と聞かれる、平塚では名のある葬儀社の名前を伝えると、すぐに連絡をしてくれた。

1時間も待ったろうか、安置室からお袋を自宅に戻す準備が始まるのだ。

身内で手分けをして家にお袋を寝かせるスペースを作ったり、細かい作業が次から次へと出てくる。

お袋を自宅に戻し終えると、早くも弔問者などが自宅に足を運んでくれるのだった。

弔問に来ていただく方に、ご挨拶をしながら、何よりも素早く大量の作業が必要なのが、通夜と告別式の準備だ。

当たり前だが初めての経験。

葬儀の段取りを決めるのも、ほぼ長男の僕の役目になった。自宅にて葬儀社の担当さんと膝を突き合わせながら通夜告別式の日程や規模などを決めていく。

甲斐組の威信もあり、それなりの葬儀にしなければ。

そんな気持ちを強く持ちながら、お寺の住職と葬儀社と大まかな内容を決めて、親父や姉にも納得してもらった。

次に来るのが葬儀のお知らせなのだ、身内、取引先、建設業界など加盟団体に訃報の通知を打たないといけない。

これは会社の事務室で行った。従弟の浩之常務や荻野など身内衆の数名で通知作業を始めるのだが、経験者もいないので手探りだった。

これがまた気を遣う作業で、送り漏れのないように細心の注意を払うのだ。

そうして迎えた通夜の日、社員も総出で手伝っていただいた。

参列者の数は相当な人数で、供花も130本も届き、大きな通夜になったが、葬儀社の皆さまと社員のチカラでなんとか無事に通夜の儀を執り行うことが出来たのだ。

そして、通夜の日は、線香を絶やしてはいけないので斎場に泊まるのだが、僕は心身とも疲弊し、ヘトヘトであった。

にもかかわらず何故か眠れず、真夜中過ぎまで身内と語り合っていた、そしてようやく朝方に仮眠室で眠りについた。

翌朝はシャワーを浴びて気合いをいれ、10時くらいから告別式を行う。近しい身内や取引先、約100人くらいが参列してくれた。

告別式の後は納棺の儀、葬儀は仏式だったが、母はクリスチャンなのである。




導師である萩原住職に「お袋が好きだったマリア様の額やロザリオを入れていいですか」、と尋ねたら、「どうぞ入れてくれと。お母さんの好きだったものは何でも入れてください。信じるものに境界線なんてないんだ」と言ってくれた。

棺を閉じる時、言葉に表せない気持ちが込み上げた、そして火葬場へ向かう。



平塚の火葬場


人間、焼かれれば当然「骨」になる。

僕はこれまでにも、幾度の葬儀で人が骨になった姿を見たことがあったが、自分の母親が骨になった姿を見た時のショックは計り知れない。

僕はお袋の火葬の間、ある本に書いてあった一文を思い出していた。
葬儀で自分の肉親が骨の姿になったのを見た時に、「ああ、自分もいずれこうなるんだ。」と思ったら、不思議と悲しみが消えていった。と

実際、骨になったお袋を見た姉たちは号泣していた。特に次女の姉は泣き崩れ、「お母さん!」と声を出し、熱い骨に向かって手を出してしまった。

そこには冷静な自分がいた、泣き崩れる姉に僕は、「俺たちもよ、いずれこうなるんだよ。」と呟いた。

姉は僕を睨みつけ「お前はよくそんなことが言えるな」と怒気をぶつけてきたが、僕は先に思い出した一文のおかげで、「お袋の身体はなくなったが魂は自分の心のなかに生きていくんだ」と、静かな心を保つことが出来たのだった。

お袋の葬儀は通夜・告別式で約800人が参列してくれ、自分でいうのもなんだが、立派な葬儀になった。

後日、参列者の人たちからは「立派な葬儀だったね」「素敵な式でした」といった声をいただいたのは、嬉しい気持ちになったのを記憶している。

以前にも話した通り、親父が墓のデザインを凝りすぎたおかげで、母が亡くなった直後はまだお墓は完成していない。

納骨までの間、自宅で荼毘に伏したお袋の祭壇に、よく手を合わせに行っていた。

ここで感動の出来事があった、なんと山梨県は今村本家の菩提寺である妙学寺の古屋智妙お上人が、平塚の自宅まで供養に来てくれたのだった。自宅の小さな祭壇の前で、ものすごいお経をあげていただいた。

古屋お上人は「克子さんあっての、善美さんだからね」と言葉を残し、お茶もそこそこに山梨県に帰っていったのだ。本物の法力を持つお上人様、今でも忘れられない大切な恩人である。

お墓の完成は四十九日にも間に合わず、百箇日にようやく納骨の儀がしめやかに執り行われたのだ。

お袋の納骨が終わったあと、親父から相談を受けた、「墓に観音様を立てられないかな」と。

先述通りお袋はクリスチャンで、マリア様を信仰していた。親父は「墓にマリア様を立てるわけにはいかないから、代わりに観音様を建ててくれ」と、観音菩薩様は慈愛の存在なのだ。

親父のせめてものお袋への想いを現したこの出来事に、僕は驚きと感動を覚えた。

お寺にも相談して快諾してくれたので、仲間の石材屋さんに頼んで「穏やかな顔にしてくれと」と言って作ってもらった。

僕はその観音様を「聖マリア観音」と呼んでいる。


今村善美家の墓右端がマリア観音


こうして、母のためにできることはすべてやったと思う。

生きてるうちは、仕事が忙しく姉と嫁に任せてばかりだったが、お袋が亡くなった時は自分がすべてやったという自負がある。

母が亡くなってもう14年くらい経つが、月命日の墓参りも、これまでほぼ欠かしたことがない。


その一方で、

お袋が亡くなってひと息ついた時から、親父に変化があった。

まさに「魂が抜けたような状態」になったのだ。

僕は悲しむ間もなく母のことに奔走していたが、その間、あれだけ現場で騒いでいた親父が、プツっと現場に来なくなった。

あまりの状態に、二人の姉が、「お父さんは、私たちじゃもうだめだから、お前が一緒にいて欲しい」と、頼み込んできた。

こうして、僕と親父は毎日のように一緒に夜メシを共にした。

行きなれた居酒屋や、時には親父が作ってくれた肴を食べながら酒を飲み、毎回のように、お袋との昔話を聞かされたのだ。





その時の親父との話が、この「飯場の子」の僕の生まれる前の事などを知るきっかけになったのだ。

しばらくが経ち、親父の飲み仲間が見かねて夜の街に連れ出すようになった。




すると、あれだけ毎日のようにあった「お誘い」が、がパタリと消えた。
こうなったらもう僕はお払い箱。勝手なもんだ。


そのころから、父が急激に息を吹き返した。いい方向だったらよかったのだが、残念なことに親父はそうじゃなかった。

元気は回復したものの、さらに切れやすくなり、現場でとにかく狂ったようにわめきだしたのだ。



あの荻野ですら、「もう今の社長の姿は見たくない、前は言ってることに筋が通ってたけど、今は何を言っても伝わらない」と泣きをいれた。

僕も、心身ともに限界に近かった。
毎日のように親父とぶつかって、社内の火消し、現場の対応、クレーム処理。

現場では人も足りない。
寝ても覚めても緊張が抜けない。ストレスで胃が焼けそうだった。




親父は、自分の手で築いてきた信用を、会社を、人材を、まるで、自分の手で壊している。

どうにもならない憤り。
毎日、悔しくて、歯を食いしばって、それでも前に進まなきゃならなかった。

まさに40代の入りぐちは、お袋との別れから始まり、さらに荒れ狂う親父との闘い。

あの時が、本当の試練の始まりだったと、振り返っても思うのだ。

飯場の子 第9章 37話「お袋との別れ」


誰にでも訪れるであろう、別離という経験。

 会社とYEG活動に没頭し続けていた平成21年38歳の時に、突如大きな出来事が起きる。

ある日、姉からいきなり連絡があった。
母の胸に「できもの」がある、ということで平塚の共済病院に診てもらうと。

前述してあるが、僕が24歳のころ、平成7年に母は57歳で脳梗塞になり倒れ、後遺症として右半身不随で失語になっていた。

そんな状態になってからも、姉の補助もあり会社でリハビリ代わりに簡単な事務作業などを手伝っていた。時には車椅子だが社員旅行に行かせてあげることもできたのだった。

母は71歳になっていた。もちろん体力も衰え、会社へも来ることは出来なくなり、実家で過ごし、デイサービスにお世話になり、姉や僕の女房などの介護を受けながら孫たちの成長を楽しみにしていた。

そんな大きなハンデを背負いながらも、長い間笑顔を絶やさず、家族を見守っていてくれた。

たまに実家に僕が行くと、介護用のベッドに横になりテレビで野球を観るのが日課で、大好きなジャイアンツを応援していたことをよく覚えている。

姉から再度連絡がきた。
「お母さん、乳ガンだって。近日に説明するから実家に集まって」と。

聞くところによると、共済病院の検査の結果、母は半身を麻痺していたため、痛みなどを訴えることが出来ずに、見つけた時には病巣がかなり大きくなっていたという。皮肉なものだ。

発症したガンは進行性。切除するのも遅い。医者は様々な母の持病のことを考えたら「全摘は難しい」という。「それでもやるか」と問われた僕たち家族は話し合いの末、結局「やめよう」となった。

母自身も「いい。自然に任せる」という意思を示した。




僕はもとより家事も手伝わない昭和男。今では通用しないであろうが、仕事とYEGに没頭していたので、お袋の事は二人の姉と女房に任せきりであった。

二人の姉、また女房も子育てもあり、家事もある忙しい中、これまでの「介護」にさらに「ガン」との闘いが重なっていく。

しかし、持ち前の今村家族の気力なのだろう。このような壁にぶつかっても下を向かずに前進していく。

たまたま10歳上の親戚に医者の先生がいた。すぐに姉はその親戚のお兄さんに連絡して、母の病状を説明した。
その親戚の兄から隣町の茅ヶ崎市に保険は効かないが、超高濃度ビタミンC療法といったあくまで補完的な治療法なのだが、有効性はゼロではない、と調べてくれたのだ。

家族は少しでもお袋の痛みが緩和できればと、その一心でその病院へ相談し、治療をすることを決めた。毎週の通院や、1時間くらいかかる点滴には、月に2回は僕が姉と付き添うこともした。その結果、治療法が合う場合とそうでない事もある。

半年ほど茅ヶ崎のクリニックにお世話になったのだが、ガンの進行を食い止めるには至らず治療を止めたのだった。




みている家族も分かるように体力も衰えていく。ガンの進行は徐々に、お袋の体を蝕んでいった。

状況はかんばしくなく、共済病院に入退院を繰り返していたが、母自身にも大きな負担になると、オヤジと僕は病院にいさせたほうがいいんじゃないかと説得するのだが、二人の姉は「絶対に家で介護し、家で看取る」と言い切る。

しかし、衰弱しきったお袋は、深夜でも食べたものを嘔吐するようになり、一人にすることはとてもできず、24時間体制での看護になった。

二人の姉、義兄や僕も実家に寝泊まりするようになっていく。

僕は甲斐組の専務として、競争入札で戦い、仕事を受注するために必死で営業に飛び回り、全力で会社を切り盛りしている傍らYEGの専務理事として二足の草鞋で奔走していた。

そんな中でも、食事も徐々に細くなり弱っていく自分のお袋の姿が目に入る。
死が刻一刻と迫る母を家で看取ろうとするのは、時間的にも精神的にもかなり辛かった。

こうして様々なことに抗いながらも弱っていく母を前に酷ではあるが、近い将来やってくる「その時」に備える必要があった。

そう、「墓」だった。

父の実家の山梨にはあったが、平塚に今村家の墓はなかったのだ。
姉たちは激怒する「まだお母さんは生きてるのになんで今、墓の話をしないといけないんだ」と。
そうは言ってもと、オヤジと僕は現実的に墓地探しを始めた。

が、今度はオヤジと僕が対立する。オヤジが「山梨の実家のお寺に墓を建てる」と言い出したのだ。
僕はオヤジに歯向かった「オヤジは山梨から出て、この平塚の地で事業を起こしたんだろ、この地で一国一城の主になったわけじゃないか。」と。議論をしているようで、もうほぼケンカだった。

「お前に俺の気持ちが分かるか。」

これに僕は最後まで反対した。「オヤジの気持ちも分からなくはないけど、家族を持ち生きてきたのはこの平塚だろ。武士ならば己の城を立てたところに墓を建てるのが生き様じゃないのか」と。

長い説得の末、父はようやく折れた。
「じゃあ、オマエが日蓮宗の寺を探してこい」
山梨本家の寺が日蓮宗の為、当然今村家は日蓮宗のお寺でなければならない。それはよく理解していた。

数日後、父から「日蓮宗の隆盛寺ってのがあるからよ、そこ行って見て来いよ」と話してきた。そのお寺がある大神という地区は、会社のある平塚市大島とは近い場所なのだ。



【隆盛寺】


隆盛寺に電話をして事情を話し、萩原是正氏という御住職とお逢いした。
萩原上人は山梨県の日蓮宗総本山である久遠寺で10年にわたりお努めをしたという実績もあり、山梨には縁のある方であった。

話は順調に進み、父を連れていざ墓の候補地を下見に行った時である。
萩原住職から、お墓のサイズを勧められると、ここでオヤジの我儘がさく裂した。

萩原住職が勧めたお墓の大きさが納得できない父は「こんな小さい墓に入れるか」と横を向いてしまう。

そもそも、小さい墓に入れないという意味が分からない。お骨になったら大きいも小さいもあるわけがない。

僕と萩原住職も顔を見合わせて困ってしまった。萩原住職から「社長さん、この大きさのお墓は平塚でどこを探してもありませんよ。」と静かに申し伝えた。

その言葉に、ついにオヤジは「冗談じゃねえ。俺が回って探して来てやる」と、墓の購入をついに断ってしまったのだ。僕は相変わらずの父のワガママ放題の態度にご住職に深々と頭を下げて、スゴスゴと引き返したのである。

しかしだ、不思議なものでこれぞ「ご縁」という出来事が起きる。その親父のワガママ大放出から2日後、萩原住職から僕に連絡があった。

「専務さん、実は社長さんが希望していた大きさのお墓、何とかなりそうです。しかし、専務さん、いやはや大変なお父様ですね。」と同情してくれるのだ。

お寺の檀家さんに「沼田家」という由緒正しき家系のお墓があるのだが、そこのおばあ様が墓終いをしようとしているというのだ。
そのお墓が、まさに親父が求めていた寸法であった。父にその旨を伝えたところ、あれだけ怒っていたのにすぐに寺を再訪。「ここならいい。」と相成った。

沼田のおばあ様はその後、亡くなるのだが、持っていた資産を寺に寄付して本堂の隣に客殿を作ったのである。その名も「常盤御殿」。まさに最後まで由緒正しき家系であったと今でも頭が下がる思いである。

こうして墓を探している間にもお袋の具合は悪化していった。とうとう自宅にいられなくなり入院することに。

迎えた「その日」の夜。
みんながお袋のもとに呼ばれたのだが、意識も戻らず昏睡状態が続いていた。22時になる頃、病状が落ち着いたということでみんな一旦帰ることに。
みなが帰る前にお袋の姉である千葉の伯母さんが耳元で歌った聖歌。聞こえていたのだろう、意識のない母は涙を流していた。




誰か一人はいた方がいいとなり、僕がひとり病室に残った。
病室の中には、酸素マスクとバイタルを取る機械の音だけで静まっている。

病床の横に座り、お袋の顔をずっと眺めていた。
子どもの頃からの記憶がよみがえる。泣き虫で、悪ガキで、反抗ばかりして、決して出来のいい倅ではなかった。

それでもこの僕を心から愛してくれていたんだと、そんな時にならなければその愛の大きさを感じることもできなかった。

最後を迎える、もう話すことも出来ないお袋に「ありがとう、ありがとうございました」と涙が枯れるまで、伝え続けた。




いつしか夜は明け、朝8時を過ぎたころ。家族に連絡を取ってくださいと、看護師から伝えられたので、みんなを呼んだ。

9時を過ぎるころには、家族と身内の皆が続々と集まってきた。

しかしその時、オヤジはまさかの行動をとる。僕を連れて「隆盛寺」へ工事中の墓を見に行こうと言い出したのだ。
オヤジは言い出すと聞かない男、僕を無理やり連れだし、仕方なく墓に行った。

寺に行き建設中のお墓を観ていた時にけたたましく携帯が鳴る。姉からだった「このままだと間に合わない。早く戻って来てよ!」

寺から急ぎ戻る車中、オヤジと僕はほとんど話もしなかった。間に合わないことは二人とも分かっていた。

平成22年11月6日11時、ガンとの闘いも1年半、お袋はこの世を去った。
享年72歳の生涯だった。

僕と父は、結局お袋の死に目には会えなかったのだ。
その時思った、多分父は、母が亡くなるその瞬間に立ち会う事を拒んだんだと思う。
長年連れ添った女房の息を引き取る姿を見ることが辛すぎたんだと。

飯場で生まれ育ち、父の起こした甲斐組を継ぐために奮闘している自分がいた。

まだまだ途上ではあるけども、

この時ある決意が僕の肚にすわった。

お袋の亡骸に誓ったのだ、

「かならず、甲斐組を立派な会社にしてみせる。」と。