母が亡くなって以降、親父は自我を抑制できないほど現場に来ては荒れ狂うようになった。
父はこれまでも破天荒な人ではあったが、その頃は機嫌が悪いと下請けの職人の襟首を掴んで振り回したりするまでになっていた。
母が亡くなった翌年には、甲斐組の職人頭だった片腕のフルヤさんも病気で亡くなり、創業専務のノボル叔父さんも高齢を理由に会社を去っていった。
創業から甲斐組を支えた人々が周りからどんどんいなくなってしまうなか、僕はその度に専務として、荒れる父から社員をかばい、会社の経営をやりくりしなければならなかった。
振り返れば大変な時期だった。親父自身も、相当に辛かったんじゃないかと思う。
しばらくは踏ん張ったが、こんな状態を続けられるわけがない。
親父の振る舞いに、社員たちがついていけなくなっていた。「もうこれ以上は無理です」「会社を辞めたい」……社員たちの悲鳴が聞こえてくる。どうしようもなかった。
僕自身も「もう限界だ、どうにもならない」とオギノに泣きを入れるようになっていた。
とにかく、親父の「創業者」としての仕事に対する執着心は、凄まじいものがあった。
体力が衰えていく反動か、何かしらにつけて無理をゴリ押ししてくるのだ。
こうして、自分のためにも、社員のためにも、会社からの「撤退作戦」を本気で考え始めた。
その考えに、ヒロユキもオギノも異を唱えなかった。
今後、どうやって甲斐組から身を引くかを、こっそりと税理士を交えて話し始める。
僕たちの作戦は、僕が起業した「日総プランテック」に、やる気のある社員と共に移ろうという計画だった。
こうして真剣に計画を立てていくわけだが、互いの意見を出し合ううちに、人は冷静になる。
3人と税理士で協議を重ねる中で、こうした最悪の形ではなく、何か他に方法はないのかと考えるようになってきた。
その際には、「会社を任せてくれ」という社員全員の血判状を作り、親父に突き付けるといった意見も出たほどであった。
おふくろが亡くなって2年。僕が42歳、親父が74歳の時、いつも親身に相談に乗ってくれていたある社長から、こんな助言を受けた。
「オヤジと2人だけで、しっかり話したほうがいいと思う。絶対に他人を入れないほうがいいぞ」
その言葉で、僕は覚悟を決めて真正面から話してみようと思うようになった。きっと分かってはくれないし、大喧嘩になるだろう。
そんな覚悟の上で、正月を過ぎた一番忙しい時期、意を決して親父の家に行った。
「親父、ちょっと話がある」
「おお、なんだ」
「……親父よ、会社、俺に任せてくれないかな。俺に社長をやらせてくれ」
すると、今までは何だったんだと思うような返事が返ってきた。
「だから、何十年も前からおめえが社長をやれって言ってるじゃねえか! 60の時も65の時も70の時もおめえに『会社譲る』って言ってきたのに、おめえが逃げ回ってただけじゃねえか!」
意味は違うが、やはり怒鳴られる。しかも、内容は僕の記憶とかなり違っている。
折に触れて代替わりの話はこれまでも出ていた。60、65、70と、節目が近づくと自分から「代替わりする」と言っておきながら、実際その都度、結局は「沈黙」してきたのは親父の方だったのだ。
父が65歳を迎えるときは、メインの銀行にまで行って事業承継の説明をした。銀行も「ヨシヒロさんなら十分に会社経営できます、当行も社長同様に支えていきます」とまで太鼓判を押してくれた。
しかし、いざ代替わりのための手続きをしようとなると、やはり口を利かなくなる。
そして、「そんな急いでやる必要もねえんだ」となる。
始まった。まだやりたいんだな……と、その度に僕は黙認してきたのだ。
70歳の時も同じだった。1年前から「もう俺も引退だ。とてもじゃないけど、こんな年でやってられない。なんで俺が働かなきゃいけないんだ」と言い始める。
が、実際70歳になると、やはり口を閉ざす。「親父、代替わりの件、どうする?」と問うと、
「おめえはなんでそんなに急ぐんだ、今やることじゃないだろ」となる。
いつものことなので、これも黙認。
そんな経緯があった中、会社の存亡をかけて覚悟をもってサシで話しに行ったのに、
「お前が逃げ回ってたせいだろう」と、すべては僕の責任に転嫁されてしまった。
だが、この言葉で父に引退の意思があると確信した僕は、「本当にいいのか」と念を押した。
すると「男に二言はない。明日にでも辞めて一切口は出さねえ。ただ、給料は払えよ」と返ってきた。
親父との話し合いは1月。
その後、甲斐組社長交代のための準備が始まった。
これを機に、今村家以外から初めての役員として、荻野を常務取締役に迎えた。甲斐組は5月が決算だ。
5月までに登記を変え、銀行の手続きを終え、6月1日に取引先へ一斉通知・発表ができるようにしなければならない。
社内ではすでに社長交代の噂が広まっており、社員の気運も高まってきていた。あとは6月1日の対外的な発表を待つのみ、というところまで来た。
その前に、社員の前で直接代替わりを発表しなければならない。
迎えた5月の最終週の月曜日。
当時、甲斐組では毎週月曜日に朝礼をしていた。つまり、その日は親父が社長として行う最後の朝礼になるはずだった。
朝礼が始まる直前、僕は発破をかけるつもりで、それとなくこう言った。
「親父よ、今日、社長としての最後の朝礼だぞ」
何の気なしにかけた言葉だった。が、ふと父の顔を見ると、「えーーーーー!?」という、信じられないような顔をしてこちらを見てきた。
わかってはいても、「今日が最後になる」という認識がなかったらしい。
動揺したのか、朝礼冒頭の訓示で親父はこう言い放った。
「今日はみんなに大事な話をしようと思ったんだ。でも、今日は日が悪いからやめる! 解散!」
いきなりの朝礼終了。社員たちはポカーンとしていた。
何の日も悪くない。まあ、こうやって終わるのも親父らしいのかもしれないが、やっぱりケジメがつかない。
その後、社長室で親父と話し合った結果、「ヨシヒロ、箱根の旅館を獲れ。今週中、いつでもいい」と言い放った。
いつも世話になっている箱根の「春光荘」という旅館に「今週末、予約取れないか」と電話を入れる。春光荘の社長は僕の高校の友人であった。快く受けていただき、そこで仕切り直すことになった。
5月31日の金曜日だったと記憶している。当日は30人の社員で箱根に行き、大広間の宴会場で全員を集めた。
親父からの口上が始まった。
「今日、みんなに大事な話がある。分かっているとは思うけど、俺は昭和44年に平塚で……」
「やっとここでうちのせがれも、まあ跡を継げるくらいに成長したので、俺は今日をもって社長を引退する。明日からは2代目が社長になるから、みんなで支えてやってくれ」
その時、社員全員が「はい、分かりました!」と声を揃えた。
それが、たまらなく格好良かったのを覚えている。
次に僕が就任の挨拶をし、宴会が始まった。大いに盛り上がった。
宴会の最中、隣に座っていた父が僕に一つの言葉をくれた。
「ヨシヒロ、土建屋の社長になるってことは、自分の若い衆のクソの面倒まで見ることなんだぞ」
まさに座右の銘のような、土建屋の真髄を表す言葉だった。
僕は黙って父の目を見て頷いた。あの瞬間は、一生忘れない。
こうして甲斐組は紆余曲折を経て、平成25年6月、今村佳広二代目社長の新体制としてスタートを切ったのだ。
