飯場の子 第3章 13話
「夫婦喧嘩と家族の時間」
以前にも紹介した通り、僕は上に2人の姉がいる3人兄弟なのだが、ものの見事に小さい頃から3人とも太っている。それには、小学生当時のある行動に原因がある。
朝ごはんは家でバタバタと済ませ、昼は学校で給食を食べる。これは他の家庭の子どもたちと変わらなかったのだが、両親が会社をやっていると、どうしても夕飯が遅くなる。
まわりの友人宅では大体夕方6時ごろには夕飯が始まるところ、うちではそんな時間に親が帰ってきていることなんてほとんどなかった。
しかし当時の我々は言わずもがな「育ち盛りの子どもたち」だ。何て言ったって腹が減る。そのため僕たちは毎日家に帰ると、隣にある柏木酒店に行き、自分の好きなパンやらカップラーメンやらを「会社のツケ」で買いまくっては食べていたのだ。
こうして早々に腹は満たされるわけなのだが、しばらくして今度は仕事から帰ってきた母が食事を作ってくれるので、夜8時くらいに「2度目の夕食」を食べることになる。そのため僕たちは3人とも、“順調に”成長したのである。
一方、父は仕事が終わると、毎日のように仕事の仲間達と一杯飲みに行ったり打ち合わせを兼ねた会食をしたりしていたため、僕は撫子原にいた間、その母親がつくってくれた夕食を父親と一緒に食べた記憶がほとんどない。
そのため、普段の生活ではなかなかゆっくりと家族で食事をする時間が取れなかったのだが、その穴埋めをするかのように、我が家では昔から週に1度くらいのペースで外食をしていた。
頻繁に通っていたのは134号線にあるレストラン「みやしろ」。当時ではモダンな鉄筋コンクリートの外観なのだが店内は和風のたたずまいで、2階に宴会場があるような大きなレストランだった。
海岸線沿いにある建物の海側のほうに20坪ほどのライトアップされた洒落た庭があり、一面の青い芝生には石がところどころ置いてあった。
僕たち姉弟は好きなものを注文して、30分ほどで食べ終わる。両親はビールを飲みながら、仕事の話をして時間を過ごしていた。
両親がそうしてゆっくりと飲み語っている間、食事を終えた姉弟は必ずレストランの青芝の庭で子どものテッパンの遊び、「おいかけっこ」を始めるのだ。今ならば「おとなしくしていろ」と怒られるだろうが、当時は子どものわんぱくに寛容で、両親は時折こちらに手を振ってくれたり、他の客も僕たちをにこやかに見守ってくれていた。
平和でおだやかな時間。まるでCMか何かに出てくるような温かな家族のカタチである。
…が、それで終わらないのが今村家。
子どもたちが無邪気に遊んでいる間、酒が入った2人は日ごろの本音が出るにつれヒートアップ。場所を選ばず夫婦喧嘩をおっ始めるのである。
うちの父は気が強く短気者、そして母はそれに負けず気が強い。それに加えて母は酒に酔うと絡む癖があった。
まあそのくらいじゃないとブルーカラーの親方も女房も務まらないのは間違いないのだが、一度始まるとお互い譲らないから、子どもにとっては困りものである。
話は遡るが僕が幼稚園の年中のころ、本気で怒った母が、子どもを連れて家を出て行った。ケンカの理由はいまだ知らないが、かなり大きくケンカしたらしく、母は僕たち3人を連れて、クルマで10分のところにいきなり引っ越した。いわゆる別居生活になったのだ。
母子4人で暮らした貸家は古い木造で風呂もなく裸電球がぶら下がっているような家。母は弁当の配達員の仕事をしながらなんとか4人の生活を支えていたのだが、ある日銭湯から帰って来ると、家の引き戸に封筒に入った手紙がささっていた。僕は、子どもながらにその手紙が父からのものだというのがすぐに分かった。
その手紙の内容は今でも知らないし、父に聞こうとも思わない。でも、恐らくだが父から詫びたのだろう。しばらくして母から家に戻る話を聞かされた時は子どもながらにほっとしたのを覚えている。
そして僕たちは無事に我が家に帰還。別居生活は半年以上だったと思うのだが、不思議なもので戻ったその日から全く違和感のない元の暮らしになっていた。
しかしまあ子どもは振り回されっぱなしである。
そんな短気な父の天敵は「渋滞」と「人混み」。そのため今村家では、家族旅行は2回しかない。
1回は僕が小学校低学年のころに行った伊豆のホテル「聚楽」。ここでも母が酒に酔い夫婦喧嘩が勃発。
楽しい家族旅行のはずが、まるで荒修行に変わってしまい、結局は父の「帰るぞ!」の一喝で泊まらないで家族全員で帰ってきてしまった。
2回目の旅行は小学校3年生の時だ。その時も伊豆に行き、この時は無事に1泊できたのだが、その帰りに渋滞に巻き込まれた。昼に伊豆のホテルを出て夕方にさしかかるも、依然渋滞は続いたまま。
うちの父はまるで短気の見本のような人間で、この時もちゃんとブチ切れ。平塚まで残すところあと30kmのところで限界を迎え、父は根府川あたりで裏道にはいり民宿を見つけ、宿主に交渉して急遽そこに家族で泊まることになった。
笑い話にはなるが1回目の「失った一泊」を取り戻したのである。
父がようやくその短気を克服できるようになったのは、孫のチカラだった。
長女の“ユキネエ”こと由紀の家族と父が初めて「ディズニーランド」に行くという話を聞いた僕は、姉に「あのランドの混雑は絶対トラブルになるから止めたほうがいい」と説得したのだ。
だが現実は全くの想定外で、父(祖父)は終始円満の笑顔でディズニーランドを楽しんだのである。いやはや孫は可愛いと、聞かされてはいたが「これほどなのか」と心底驚かされた。
夫婦喧嘩の話に戻るが、両親も「離婚」の危機は何度もあったのだが、終生の伴侶として共に人生を歩んだ。そのことも両親に感謝したい。
そういう僕もカミさんと夫婦喧嘩をすることもある。そんな女房との喧嘩話を人生の先輩にしていたら「女房に勝とうなんて思ったら、人生なんてうまくいかないよ、早くカミさんに謝んなよ」と窘められた。
確かに思う、喧嘩の原因は色々あるが、こんな僕とも連れ添ってくれている女房には頭が上がらないもんだと。
今となれば父も同じ思いを持っていたのかもしれないと感じてしまうのだ。
お正月に初詣に向かう前にトラックの前で。
飯場にもシデが祀られている。1978年くらい。