ポジティブ思考よっち社長 -7ページ目

ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

飯場の子 第3章 13話

夫婦喧嘩と家族の時間

 

 

 以前にも紹介した通り僕は上に2人の姉がいる3人兄弟なのだが、ものの見事に小さい頃から3人とも太っている。それには、小学生当時のある行動に原因がある。


 

 朝ごはんは家でバタバタと済ませ、昼は学校で給食を食べるこれは他の家庭の子どもたちと変わらなかったのだが、両親が会社をやっていると、どうしても夕飯遅くなる。



 まわりの友人宅では大体夕方6時ごろには夕飯が始まるところ、うちではそんな時間に親が帰ってきていることなんてほとんどなかった



  しかし当時の我々は言わずもがな「育ち盛りの子どもたちだ。何て言ったって腹が減る。そのため僕たちは毎日家に帰ると、隣にある柏木に行き、自分の好きなパンやらカップラーメンやらを「会社のツケ」で買いまくっては食べていたのだ。



 

 こうして早々に腹は満たされるわけなのだが、しばらくして今度は仕事から帰ってきた食事を作ってくれるので、8時くらいに2度目の夕食を食べることになる。そのため僕たちは3人とも、“順調に”成長したのである。


 

 一方、父は仕事が終わると、毎日のように仕事の仲間達と一杯飲みに行ったり打ち合わせを兼ねた会食をしたりしていたため、僕は撫子原にいた間、その母親がつくってくれた夕食父親と一緒に食べた記憶がほとんどない


 そのため、普段の生活ではなかなかゆっくりと家族で食事をする時間が取れなかったのだがその穴埋めをするかのように、我が家では昔から週に1度くらいのペースで外食をしていた


 

 頻繁に通っていたのは134号線にあるレストラン「みやしろ」。当時ではモダンな鉄筋コンクリートの外観なのだが店内は和風のたたずまいで、2階に宴会場があるような大きなレストランだった。



 海岸線沿いにある建物の海側のほうに20坪ほどのライトアップされた洒落た庭があり、一面の青い芝生には石がところどころ置いてあった。

 

 僕たち姉弟は好きなものを注文して、30分ほどで食べ終わ。両親ビール飲みながら仕事の話をし時間を過ごしていた



 両親がそうしてゆっくりと飲み語っている間食事を終えた姉弟は必ずレストランの青芝の子どものテッパンの遊び、おいかけっこ」を始めるのだ。今ならばおとなしくしていろ」と怒られるだろうが、当時は子どものわんぱくに寛容で、両親は時折こちらに手を振ってくれたり、他の客も僕たちをにこやかに守ってくれていた。



 平和でおだやかな時間。まるでCMか何かに出てくるような温かな家族のカタチである。



が、それで終わらないのが今村家。



 子どもたちが無邪気に遊んでいる間、酒が入った2人は日ごろの本音が出るにつれヒートアップ。場所を選ばず夫婦喧嘩をおっ始めるのである


 

 うちの父は気が強く短気者、そして母はそれに負けず気が強い。それに加えて母は酒に酔うと絡む癖があった



 まあそのくらいじゃないとブルーカラーの親方女房も務まらないのは間違いないのだが、一度始まるとお互い譲らないから、子どもにとっては困りものである。


 

 話は遡るが僕が幼稚園の年中のころ、本気で怒った母が、子どもを連れて家を出て行った。ケンカの理由はいまだ知らないが、かなり大きくケンカしたらしく、母は僕たち3人を連れて、クルマで10分のところにいきなり引っ越した。いわゆる別居生活になったのだ


 

 母子4人で暮らした貸家は古い木造で風呂もなく裸電球がぶら下がっているような家。母は弁当の配達員の仕事をしながらなんとか4人の生活を支えていたのだが、ある日銭湯から帰って来ると、家の引き戸に封筒に入った手紙がささっていた。僕は、子どもながらにその手紙が父からのものだというのがすぐに分かった。


 

 その手紙の内容は今でも知らないし、父に聞こうとも思わない。でも、恐らくだが父から詫びたのだろう。しばらくして母から家に戻る話を聞かされた時は子どもながらにほっとしたのを覚えている。



 そして僕たちは無事に我が家に帰還。別居生活は半年以上だったと思うのだが、不思議なもので戻ったその日から全く違和感のない元の暮らしになっていた。


しかしまあ子どもは振り回されっぱなしである。

 

 そんな短気な父の天敵は「渋滞」と「人混み」。そのため今村家では、家族旅行は2回しかない。



 1回は僕が小学校低学年のころに行った伊豆のホテル「聚楽」。ここでも母が酒に酔い夫婦喧嘩が勃発。


 楽しい家族旅行のはずが、まるで荒修行に変わってしまい結局は父の「帰るぞ!」の一喝で泊まらないで家族全員で帰ってきてしまった。


 

 2回目の旅行は小学校3年生の時だ。その時も伊豆に行き、この時は無事に1泊できたのだがその帰りに渋滞に巻き込まれた。昼に伊豆のホテルを出て夕方にさしかかるも、依然渋滞は続いたまま。



 うちの父はまるで短気の見本のような人間で、この時もちゃんとブチ切れ。平塚まで残すところあと30kmのところで限界を迎え、父は根府川あたりで裏道にはいり民宿を見つけ宿主に交渉して急遽そこ家族で泊まることになった。



 笑い話にはなるが1回目の「失った一泊」を取り戻したのである。


 

 父がようやくその短気を克服できるようになったのは、孫のチカラだった



 長女ユキネエ”こと由紀の家族と父が初めてディズニーランドに行くという話を聞いた僕は、姉に「あのランドの混雑は絶対トラブルになるから止めたほうがいい」と説得したのだ



 だが現実は全くの想定外で、父(祖父)は終始円満の笑顔でディズニーランドを楽しんだのである。いやはやは可愛いと、聞かされてはいたが「これほどなのか」と心底驚かされた。


 

 夫婦喧嘩の話に戻るが、両親も「離婚」の危機は何度もあったのだが、終生の伴侶として共に人生を歩んだ。そのことも両親に感謝したい


 

 そういう僕もカミさんと夫婦喧嘩をすることもある。そんな女房との喧嘩話を人生の先輩にしていたら「女房に勝とうなんて思ったら、人生なんてうまくいかないよ、早くカミさんに謝んなよ」と窘められた。


 

 確かに思う、喧嘩の原因は色々あるが、こんな僕とも連れ添ってくれている女房には頭が上がらないもんだ



 今となれば父も同じ思いを持っていたのかもしれないと感じてしまうのだ



お正月に初詣に向かう前にトラックの前で。

飯場にもシデが祀られている。1978年くらい。

飯場の子 第3章 12話 中村組との別れ

 

 

中村組の下請として約10年。別れは突然やってきた。


 その原因は癖のある現場監督であった。名前エハラいわゆる下請けいじめが大好きな性格の悪い男なのである。どの業界にも、この手の人間はいるものだ。


 当然ながら中村組内だけでなく下請け会社からの評判も良くなく、あまりの傲慢に、あのとは一緒に仕事をしたくないする声多方から聞こえてきていた。


 

 甲斐組も当然ながら請負う工事によってはその監督のもと「仕事」に従事するのだが、まあ細かいことにケチをつけるわ、現場では大きな声で威張りちらし、皆を不快にする。現場の雰囲気は最悪の状況になってしまうのである。しかし、下請けの弱さかな、いずれの会社もその監督には逆らうことができなかった。


 逆らえば「仕事を切られる」それは死活問題にも繋がるから皆が悔しい気持ちの中で下を向くのだ。そんな相手甲斐組社長である父も悶々とした思いを胸に秘めていた

 


その日は父も機嫌の悪い日だった夜間の舗装工事を皆で頑張っている中、問題監督のエハラが登場が彼をそれほどまでに不機嫌にさせたのか「てめえら、勝手に仕事を始めてるんじゃねえ」と、自分が大遅刻しているのもお構いなしに、甲斐組の従業員を怒鳴り散らしたのだった。このエハラの立ち振る舞い父の我慢が吹っ飛んだ「エハラ!てめえ」の怒号とともに襟首をつかみ強烈なパンチを顔面に叩き込み殴る蹴るの暴行を加えてしまった。当然現場は騒乱状態皆が止めに入り騒ぎは止まったのだが当人のエハラは悪態をつきまくり現場から逃げるように去ってしまった。

 

 理由はどうあれあげてしまった手」は当然なかったことにはできず。翌日に父は中村組に呼ばれることになる当人のエハラは一方的に殴られたと父を非難その話を中村組としては無視できなかったのだ。


 結局甲斐組はそれ以降、中村組から仕事を切られ、さらに同社の社長から周囲の同業に「甲斐組に仕事を出すな」というお触れまで出されてしまった。

 

この件に関してはかなりセンセーショナルな出来事として周囲を驚かせたらしい。中村組追放の理由の一つにはうちの父親、中村組の2代目社長とはソリが合わなかったというのもあるだろう。

 


 甲斐組は川崎から平塚に移って以降、中村組から仕事を請けながら業界内で知名度を上げてきたが、中村組は業界では頭3つほど突き出ている存在。影響力も絶大で、仕事の打ち切りだけでなく、こうした地元業界全体への圧力は大きな打撃になる。甲斐組にとって、立ち上げ以来最大の危機ともいうべき出来事だった。

 

 当時、僕は小学校2年生ぐらいだったと思う。子どもに心配させてはいけないと思ったのか、父親や周りから異変などは感じなかったが、よくよく振り返ってみると、そういえばある時期から家族の間で「中村組」という名前を聞かなくなったと気付く。

 

 もちろん、どんなことがあってもの件において手を上げてしまった父に非があるといえるだろう。しかし、数ある同業会社の中には別な意味も含めて当時の中村組の傲慢な振る舞い反発心を抱く人も少なくなかった。


 そのうちのひとつが、平塚の中でも当時市内でバリバリやっていた土建屋「細野興業」だった。

 

 舗装業も請け負っていた細野興業。甲斐組が中村組から離れると聞いた同社社長は、さっそくうちの父親を呼び出し「これからどうしていくつもりなんだ。中村組が何を言おうが関係ないから、うちの仕事をやらないかと声をかけてくれたのだ。

 

 うちの父親が荒くれ者だということは、業界内ではもはや周知の事実。「甲斐組を使うな」というお触れも出ている。それでも「あの中村組の下請けを10年こなしてきたいうのは、業界の中では「甲斐組はタフ確かなはずだ評価され、細野興業のように声をかけてくれる会社は少なからずあったのだ。

 

 まさに「捨てる神あれば拾う神あり」。細野興業からの声掛けに、父も「よろしくお願いします」となり、それ以降は細野興業の下請として第二のフェーズに入っていくのだった。

 

 今、父はこの出来事を「逆にいい機会だったのでは」と振り返る。


 当時は高度経済成長の時代。働き手がいなくなると困る元請の中には、下請を手放さないために、仕事が終わっても全額を支払わ保留金」として3割ほどをいわば「人質」として預かり、次の仕事が決ままで払わない会社があった。中村組もそのうちのひとつで、こうした縛りに甲斐組も例外ではなかったのだ

 

 そのため、中村組の下請として10年目を迎えた時点でも、会社としてはお金も回ってはいたのだが、現場で使用する重機もろくに買えない状況にあった。逆に中村は自分たちを使って散々儲かったんだろうよ父は言う。

 

 さらに、この細野興業との出会いによって甲斐組がのちに大きく変わったことがある。「元請参入」だ。


 それまで父は「一生下請けの舗装屋のままでいい」という思いだったそうだが、この細野興業の社長は「いや、オマエのところはこれだけの若い衆がいて、これだけの実績があるんだから絶対元請をやれ」と打診してくれたのだ。


 その後、細野興業のアドバイスのもとで官公庁への入札業者の申請を行い、晴れて元請け業者の認可を持った甲斐組。そして、平塚市より初の指名を受けて入札に参加していくのだった。しかし、この元請け参入にも大いなるシキタリがあったのだそう、業界特有のルール「談合」。その壁にぶつかりながらも、甲斐組はさらに前進していく。

 

中村組には、無論多大な恩義がある。川崎から平塚に移り、舗装業として「甲斐組」を興せたのは、まぎれもなく中村組のおかげだ。


しかし、下請という縛りからの解放」や「元請参入」という大きなきっかけを考えると、「もしあのまま中村組の下で働いてたら今の甲斐組なかっただろう、父はもちろん、二代目を引き継いだ僕自身もそう思うのだ。



平塚海岸にて大好きな怪獣のおもちゃを従えて親分気取りの著者(1977年当時)

飯場の子 第3章 11話 「流れ者の労働者(ゴロツキ)と怖い記憶」

後半

 

 飯場に集まる労働者は意外にも、仕事中は無口で黙々と仕事をする人多いものだ普段は汗をかき仕事はよくするし、いわゆる「いい人」なのである。


 しかし、夜の帳がおりて酒が入るとその反動なのか人間が変わってしまうらしい


 

 そんな酔っ払った従業員絡みで、忘れられない記憶がある。


 僕が小学校に上がるころだったと思う。9時ごろ父が不在の際に、酔っ払った若い衆が「奥さーん、ちょっとカネ貸してくれないかな」とやってたのだ父が不在のため母は丁重にお断りするのだが、一旦は下がるも幾度となく現れてくる。こちらも取り合わないようにすると、それがだんだんエスカレート。出てこいよこの野郎「カネ出せ」という怒号とともに、戸がガンガンと叩かれる

 

 まだ小さい子どもとって、その光景は恐怖でしかない。肝っ玉の母親でもさすがに素性のよく分からない酔っ払いの男が複数いれば、怖くないワケがなかった


 そのとき母は意を決し家の電気をすべて消し、玄関から一番奥にある部屋に僕たち子ども3人に毛布をかぶせここから絶対出ちゃだめだよ」と言い残し、裏の戸口から家を飛び出した。近くに住んでいた叔父である専務呼びに行ったのだ


 

 電気も付いていない部屋で幼い3人。外からは戸を蹴とばす音。人でブルブル震えながら、もうダメだと思ったその時、自分たちが隠れている部屋の小道を走ってくる足音が聞こえる素手のケンカならおそらく父親三兄弟で最強の叔父である専務だ。


 その直後にこだまする「てめえらこのやろー!」の声とともに「ドッタンバッタン」の音激しく暴れているのは子どもながらに想像できるのだが恐怖に声も出なかった。一連が過ぎ叔父が姿を見せてくれて「お前たち怖かったろうなぁ、もう大丈夫だ」と声をかけてくれた時の「正義の味方」の顔は今でも忘れられない

 

 その後、専務によって成敗された彼らが、翌日父から大目玉を食らったのは言うまでもない。

 

 さらにこの酔っ払いの記憶としてもう1つ鮮明に覚えているのが、酒好きタナカ」さんの事件だ


 「タナカ」さんは最初は単身で飯場にいたのだが、やがて家族を呼び寄せうちの家から歩いて3分くらいのところにある長屋に引越し、僕と同じ学校に通う息子と娘、そして飯場でまかないを手伝ってくれる奥さんと暮らしていた。このタナカさんも見事な酒乱だった。


 ある日の夕方、家の電話が鳴った。相手はタナカさん。何を言うのかと思ったら会社の文句。酔っぱらった勢いで、父に悪態をつき始めたのだ。

 

 最初は黙って聞いていた父親だったが、あまりの言われように徐々にヒートアップ。しまいにはてめえこの野郎今からそっち行ってやるから待ってろ」と言って電話を切った後母が制するのも聞かずにタナカに向かって行ったその時、なぜか面白半分に「3歳上の次女”アツネエ”こと敦美」父の後についていったのである。

 

 タナカさんの家に到着した父はドアの前で「おい!タナカ出てこい!」叫ぶ。返事はない。


 ドアに手をかけ扉を開ける父。するとその瞬間、奥から本人が「殺してやる!!」といって包丁もって飛び出して来たという父はそれギリギリ交わしてもみ合いになり、の空き地に張り巡らされていた有刺鉄線に突進。2人して血だらけになったという。まさに「有刺鉄線デスマッチ」のリアル版である。


 父も昔はボクシングで鳴らした腕っぷし、包丁を取り上げバチバチ拳を浴びせ殴り倒したところで、タナカ奥さんが縋り付き土下座して謝る始末であったそうな。


 一連の騒ぎアツネエは一歩も動けずに立ちすくんでいたが、父の「アツミ行くぞ」の一言にやっと息ができたと話していた。


 「あー血だらけになっちまった」と肌着に返り血を浴びながら小道を歩く父と幼い娘の姿近所の人はどう思ってみていたのだろうか。

 

 その後、タナカさんはさすがに父に顔向けできしばらく会社に出てくることはなかった。一度は復帰したものの、やはり長続きはしなかったという


 いつもは人のいい若い衆。酒は呑んでも呑まれるな、である。



次女であるアツネエと。(著者)1977年頃平塚八幡宮にて。

 

飯場の子 第3章 10話 「流れ者の労働者(ゴロツキ)と怖い記憶」

前半

 

 

「働かせてくれますか」と土建屋の門を叩きにやってくる人は、実に色々な人がいる。現在においてはその様な者はいなくなったが、当時は特にその傾向が顕著だった。


 

そのほとんどの人は、「道路をつくりたい」という情熱をもってやって来る人ではなく、とりあえず「その日を何とかしたい」という飛び込みの職を求めるか、働いている従業員を頼って来るがほとんどであった。当然、なかには人には言えない「過去」や「事情」を抱えた、いわゆる「流れ者」と呼ばれる人たちも少なくなかった。

その多くは30代から40代。若い人に比べると「過去」が多くなるため、どうしても脛に傷もつ率が高くなってしまうのだと思う。

 

彼らが来るのは毎度突然で、カバン1つ身1つでやって来る人が多い。

 

事務所で母がまず対応し、「こんな人が来てるよ」と言いながら社長の父親に取り次ぐ。すぐに面接が始まるのだが、免許証もなければ履歴書もない人が大概。面接というよりはもはや“確認作業”で、「これまでどこで働いてきたんだ」といった簡単な質問をした後、「明日から現場に出れるな」となる。


その後、すぐに彼らは隣にある宿舎に案内されると、さっそく自分のスペースと布団一式が与えられ、夕食の時間には食事も用意されるのである、そしてその翌から顔も名前もろくに知らない従業員と共に現場汗を流すことになるのだ。


 

“訳アリ”の人たちは、こうして仕事に就くのも早いが、一方、やめていくのも早い。1か月続かないことはザラで、早い人だと3日で辞めていってしまう。


 

朝仕事に出て来ず、宿舎に行ってみるともぬけの殻。3日働いた分の給料も受け取ることなくいなくなることを考えると、よほど急いで消えないといけない事情があるか、または、最初から数日飯が食えて、寝る場所目当てだったかのどちらかだろう。


 

またある程度の技を持つ職人になるとわがままな行動をとるものも少なくないのもこの業界の特徴である。そのようなクセのある従業員は、給料をもらうと翌日から最低1週間は宿舎を抜け出し、街中のサウナにこもって朝から酒浸りの生活をし、カネが底をついたらまた戻って来るのだが、またこういうヤツは腕がいいから結局「戻ってもまた雇ってもらえる」と、自分でも分かっているから憎たらしいのも半分で仕方ないものなのだ。


 

そんな住込みの職場ではよくある話なのが、働く前から「前借り」を要求する人も少なくなかった。

その額は数万円から、多い時で十数万円になることも。「明日中に家族へ送金しないといけない」と切羽詰まった感じで頼んでくるのだが、まあ大概自分で使うためのカネになる。


 

また、一時的に地元に帰るのでとの理由に「必ず返しますから」といって金を借りにくる人もいた。その際、「返って来なかった時のためにコレ置いていきますので」と、預かっても仕方ないようなものを置いてこうとするのだが、父は母に「うちは質屋じゃない。そんな担保いらないから、もうカネは戻って来ない前提で貸してやれ」と言っていたそうだ。


 

もう1つ、飯場にやって来る人の特徴として、先にも少し紹介したが、「酒飲み」が多いことだ。「飯場」と「土方」と「酒飲み」はもはやセットと言っていい。中にはアルコール依存症のような人もいる。


 

仕事から飯場に帰って来たらすぐ飲みはじめ、酔っぱらうと毎度ケンカを始める輩もいた。

これが飯場ならばまだいい。が、給料日などになると、ちょっといいものが食べたいと、商店街の小料理屋などに向かい、そこで酔っぱらって騒ぎをおこすのだ。そのたびに父はお店から「甲斐さんの若い衆がゴネてるんで・・」と連絡を受け、彼らを引き取りに行くのだ飲み屋でイキがっている彼らも社長である父親が顔を出し「おめえら!!」と一喝をくらうと、「すんません」と頭を下げすごすごと引き上げていたという。



自分が家業に就くようになってからも商店街の料理店の店主には度々その時代の話を聞かされた。その都度「当時は迷惑かけました。」と自分も頭を下げるのだが、恨みつらみの話はつゆほどもなく「あの頃のオヤジさんかっこよかったよ」と語ってくれるのが倅として苦笑いながらうれしい気持ちになるのだった。


そんな昔話ができる商店街の老舗店も後継者不足などで随分と店を閉めていった。それは昭和という一つの時代の幕引きを感じさせるのであった。



昭和52年 1977年 寒川神社さまへ父と初詣

飯場の子 第3章 9話 ドバシのおばちゃん

 

 

ブルーカラーの現場には、実に様々な人間ドラマが交差する色んな事情を抱えてやって来る人も少なくないせいか従業員たちの出入りが激しいのも特徴の1つだ



甲斐組も例に違わず、多種多様の人が集まり、そして去って行ったれがゆえに僕の周りには生まれた時から「家族以外の大人」が常に身近にいた。


 

彼らが集う会社の飯場小さな子どもにとって近寄りがたい場所であり、そしてその反面、刺激的でもあ



夕飯後、皿洗いのために時折飯場に入る母親の後ろにくっついてくと、仕事が終わり一杯やりながら談笑している若い衆たちが「おう2代目」「なんだ一杯やるか」なんてからかってくる。相手にしてくれて嬉しいものの、やっぱり少し恥ずかしく、怖かった。


 

しかし、そんな大人たちの中に、ただ1人恐怖を感じさせない人がいた。それが「ドバシのおばちゃん」



誰かの奥さんとかではなく、飯場の「まかない担当」として働いていた女性だったのだが、なぜか彼女だけは母親の後ろに隠れずとも堂々と会いに行けた。恐怖恥じらいどころか、癒しすら感じていたのだ


 

あの時代の飯場の食堂は、言っちゃなんだがどこも今ほど衛生的ではなかった。うちのそれもご多分に漏れず、エアコンもない時代であ床は打ちっぱなしのコンクリートであった。夏でもなぜか床はひんやりしていたこれは水で掃除をしやすくするために機能的だったのだろう



天井からはハエ取り紙がぶら下がっており、床の隙間にはネズミ捕りなんかもあった、大きなガスの五徳コンロが2つあり大型の鍋とフライパンなどが置いてある炊飯器はこれもガス式で大型のものが2台あった。



1970年代にしてはかなり大きめの冷蔵庫が置いてあったため、比較的作業はしやすかったのではないだろうか。


 

ドバシのおばちゃんは、そこで寝泊まりしている従業員10人くらいのご飯を1人でつくっていた。

現場は朝が早い、その前にご飯を炊き始めるのだ、まかないさんはいったい何時に起きていたのか、相当早くから起きて仕事をしていたのだろう。



朝ごはんはオーソドックスに白ご飯、納豆、味噌汁、生卵漬物など。昼飯はジュラルミン箱2段弁当を用意してある、1箱はおかず、もうひと箱はご飯と漬物が入っていた現場の従業員はその弁当箱を新聞紙にくるんで各々バッグや袋に入れて現場に持って行くのだ。夕食はご飯に味噌汁、そしてテーブルに数種類のおかずを並べ、若い衆がそれを自分で取って行くスタイルだった。



毎日3食待っているのは体力勝負の男性土木作業員である。言わずもがな、食欲旺盛な人たちばかり。ある程度の調理環境が整っていたとはいえ、きっと大変だっただろう。笑い事ではないがひと月でお米何キロ使っていたのだろうと想像もできないものである。



 

幼かった当時の僕はそんな彼女の忙しさもお構いなしに、しょっちゅう飯場に顔を出しに行っては、相手にしてもらっていた


毎日幼稚園が終わると、自宅ではなく真っ先に会社の事務所行き電話番と事務をしている母親に「ただいま」の報告をしたあと、すぐに向かっていたのは、やはり飯場の食堂にいるドバシのおばちゃんのところだった。


 

お腹がすいていたら、「おむすび作って」とせがんだりもした。すると文句1つ言うことなく、ドバシのおばちゃんはサッと小さなに塩結びを作って出してくれたのだが、これが本当に美味しかった。



 

食堂にあるパイプ椅子にちょこんとり、そのおむすびを頬張りながら、その日に幼稚園であったこと、自分の友人のことなど、一方的に話す幼き少年の話をうなずきながら聞いてもらっていた。ひとしきりに話をし、お腹も心もいっぱいになると満足して遊びにってしまう気分屋に、彼女はいつもただ黙ってつき合ってくれた。



 

本当に不思議なのだが年少、数いた歴代の食堂のまかないさんの中でドバシのおばちゃん以外の記憶が全くない。いや、なぜかドバシのおばちゃんの記憶だけは鮮明に残っていると言うべきなのかもしれない



 

とはいえ、顔は全く覚えていない。僕が4~5歳くらいから、しばらく働いていたと思うが、白いかっぽう着を着ていたこと以外は、正直どんな姿だったか、何歳くらいだったかも含めてほとんど思い出せない。



 

恐らく小学校に入るくらいの時にいなくなってしまっていたドバシのおばちゃん。



それでもこうして長い年月が経っても彼女のことを忘れられないのはもしかすると荒々しい飯場や土建業と向き合っている暮らしの中でひんやりと静かな昼間の食堂の空間とあの「塩のおむすび」の美味さが子どもながらに安らぎの場所であったと心の深い場所に残っているのかもしれない




平塚海岸にて(箱根駅伝中継場前あたり)著者1976年頃


飯場が出てくるマンガ