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ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

飯場の子19昭和の飯場の風景と自宅の引っ越し」

 



 

以前にも紹介したが、ここでもう1度の育った飯場を紹介したいと思う。 


 

飯場とは、土木作業をする若い衆たちが集団で寝泊まりするところ。端的に言えば「簡易宿舎」だ。

甲斐組飯場、業界によくあるようなプレハブ造りの平屋建てだった宿舎は2部屋に仕切られており、各々に横引きの扉があった。開けると土間がありその横には靴を置く棚があった。



 

土間を一段上がると、畳敷きで15畳くらいのスペースが広がる。いわゆる大部屋だ。当時そこに6人くらいの若い衆が共同で住んでいた。



 

「現場で働く屈強な大人たちの日常」が詰まったこの宿舎は、子どもにとっては最高の探検場所だった。昼間の作業に皆が出ていくと、当然夕方までは部屋は無人になる。僕らはその間にこっそり部屋を探索するのだ

 



何故だか部屋はいつもカーテンがかかっていた。だから昼間でも微妙に薄暗い。窓もめったに開けずにいるの部屋に入るたび独特の「すえた匂い充満していた

当然、部屋にはエアコンなどない夏は扇風機、冬は灯油のストーブで過ごすのだ。けっして過ごしやすい環境ではないと、子どもながらに思っていた。



 

部屋に置いてあったちゃぶ台には食べかけのつまみ空き缶で作った灰皿コップ代わりに使われている空きワンカップ当時ビール高級品だったようで、彼らが飲むのは日本酒かウイスキーその一升瓶やレッドウイスキーの1リッター乱雑に置いてあった。




これも定番だが、畳の上には万年布団ちゃんと畳んでる人もいれば、そのまま引きっぱなしの人もいる。その上にスポーツ新聞、週刊誌があるのだが、時々お宝としてエロ漫画を発見することもあったいけないとはわかっているのだが好奇心に歯止めは利かない、ドキドキしながらエッチな本を見ては興奮していた。

 



その宿舎とは別に事務所棟の奥にも、1つ畳敷きの部屋があった。そこにはテレビがあり8畳以上はあったと思う。



 

この部屋に、ある時からひとりの職人さんが住み始めた。たしかサノさんという名前だったと思う。サノさんは60歳くらい短く刈った白髪頭で、型枠大工の人だったかと思うサノさんはその大きな部屋をいつも綺麗に使っていたのを覚えている職人らしく言葉数は少ないのだが、何とも言えない親しみがあり僕はサノのオジサンと呼んでいた。



 

そのサノのオジサンについては、忘れられない思い出がある。

多分、学校の勉強を全くしないことを母に叱られたのが原因だったと思うのだがある日、父親にこっぴどく怒られて学校に通うカバンや教科書ごと家を放り出されたことがあった。

恐らく午後7時は過ぎていたと思う外はもうすっかり夜であった。小学生の僕は、追い出されてもどこも行くところがない。泣きジャクリながら困った挙句、向かったのがこのサノのオジサン部屋だったのだ



 

最初は突然の訪問者に驚いていたサノのオジサンに「おとう(父親)怒られて放り出された」と泣きながら話をしたら、「それは大変だったねさあ、上がってください。」優しく迎え入れてくれた。サノのオジサン事務所の電話を使って「若(僕)はここにいますから心配しないでください」と家に電話してくれた。




 

しばらく二人で静かにテレビを眺めていたら、ヨッチくん、おじさんが一緒に謝ってあげるから、そろそろ帰ろう夜道を二人で歩いて戻っていった。

玄関口で出迎えた父は「サノさん夜分に迷惑かけて申し訳なかったです。」と笑顔で詫びていたサノのオジサンは静かに社長、(僕)も十分反省してるんで家に入れてやってください」と、父に頭を下げてくれたのだった。なんとも心暖まる職人さんとの思い出である。



 

このサノのオジサンとの出来事に少し遡るが我が家に大きな変化があった自宅の引越しであ

 



小学校4年生のある夏の日曜の朝。

突然今日はみんなで家を見に行くぞ」と始まった発言者はもちろん「父」だ。

家族全員、また何を言い出すんだ」となったのだが、話を聞くとどうやら家を買うつもりらしいことが分かった。

かねてから自宅の購入を考えていた父に、知り合いの不動産屋が紹介し、その売り家を見に行った父はその家をたいそう気に入ったらしくこれは買いだな。」と、勝手に決断とのこと。無論、母親の意見すらも聞かずにだ。



 

毎度の“行動力”に、家族は一同呆れていたのだが、反面、それまでは友達を呼ぶにも呼びにくい小さな貸家だったため、僕たち姉弟は「どんな家なんだろう」と内心ワクワクしていた。



 

しかしそんな興奮をかき消すかのように、父はこう言い放った。「歩いて行くぞ」と。

普通、「引越し」と聞けば、多少は離れた場所へ移り住むと思うところ。そのため、父以外の家族は全員、その新居までクルマで向かうと勝手に思い込んでいたのだ

訝しみながら歩き出す父について行くと、家からたった数分へ向かったところにの家はあった。

が、これまた勝手に思い描いた「ての新築」のイメージとは全く違う、超和風の平屋建てのだったのだ。



 

一目瞭然で中古とわかるその家に、僕は拍子抜け。自分の中ではモダン洋風の新築豪邸を期待していたのに、全然新しくねーじゃねえかと。まあ、トイレだけは和式でも一応水洗便所だったので、それだけでもホッとした。



 

こうして最初はこの引越しに落胆ばかりしていたのだが、しばらく時間がすぎると、見方が徐々に変わってくる。中古ではあるが家は小さくはなかったし、玄関口立派で土地も70坪くらいあ門扉もそれなりに立派で、玄関口までも日本づくりで石畳。庭がすごく凝っていて、縁側もあり、枯山水なんかもきれい料亭みたいなイメージだった



 

少しずつ愛着が湧く中、などにニスを塗り直すなどして1か月くらいリフォーム小学校4年生秋に僕たちはいよいよ荷物をまとめて住み移った

最初の夜のことは鮮明に覚えている。雨と雷がすごく、まだ部屋割りなども決まってなかったことも手伝い、その日は家族全員で一番大きな部屋に川の字になって寝たが、非常におっかなかった。



 

後日、毎度世話になっている山梨県のお上人さんに来てもらい、部屋割りを相談。家相を見てもらい、どこを寝室にしたらいいかなど相談していた

ちょうど父が42歳の本厄の時に購入したことも心配していたが、お上人さん曰く心配ないとのこと。むしろ巡り合わせがいいし、厄年だから全部が悪いわけではないという

旧自宅から「北」移動の方角も気にしていたがその年は「北」が吉方だと言われた。



 

実際、そのに引越して以降、会社順調に発展成長していったのであった僕は10歳から19歳までの多感な時期その家で過ごした。今では築50年の古い実家。ちなみに父は今でもそこにひとりで住んでいる。

飯場の子 5章 18話 「台風の日に」



 

これは、僕が小学4年生くらいのころ、大きな台風がやって来たある日のことの話だ。

 

昨今天気予報も台風情報も日々ネットで簡単に調べることができるが当時はテレビとラジオまた新聞紙面でしか情報を得る手段がなかった。また、予報そのものも今よりは精度も低かったと思う。





その年の何号の台風だったかも覚えていないが、その日、神奈川県には大きな台風が直撃するという予報が出ていた。雨も風も非常に強い台風とのことだったのだが、当時は危機管理も今より低く、台風予報が出ていても小学校普通に授業があった。



 

朝、登校のために家の玄関を開けた瞬間に外の様子は明らかにいつもと違海岸が近い僕の家では、既に海の潮気を含んだ生暖かい空気不気味に充満していた。そして強い風が時折、吹いてくるのだ。

生徒はざわめきながら登校してくる。いつもと違う教室、そして授業は始まるも、時間が経つにつれて雨風激しくなる一方。




不安に思っていると案の定、担任の先生から「これから台風が強くなるから、今日は授業を中止して、下校とします。みんなは絶対に外に遊びになど行かずに、おとなしくしているように」と授業は早々に切り上げられ全学年、一斉に下校することになった

 

が、皆が昇降口に降りたころには、台風は想像以上威力になっていた。半端じゃない風で、雨も横殴り。いざ外に出ようと思っても、傘なんてとてもじゃないが差せない状態。もはや子どもが普通に歩いたら飛ばされるんじゃないかと言うレベルで、結局生徒たちは、昇降口で身動きが取れなくなってしまったのだ



 

学校と家が目と鼻の先という子走って下校していく。また、学校も連絡網で通知していたので親が迎えに来て一緒に帰った子もいたりしたが、下校できない生徒が多数いて昇降口は大混雑だった

僕の家は学校から歩いて7~8分くらいかかるため、その人混みで待機していたのだが、学校から連絡を受けたのだろう、僕の母親会社のライトバンで迎えに来てくれたその時に、家が近い友達を何人か乗せてくれと頼み混乱の中、なんとかることができた



車中から、振り返ると昇降口には不安な顔をした、同級生や生徒が多数残されていた。「みんなどうするのだろう」。と子どもながらに心配していたのを憶えている。


 

同乗させた友人を各家に降ろした後、ライトバンは会社に到着。事務所には、台風で仕事ができないテレビで台風ニュースを見ていた。

僕は、台風による下校の興奮冷めやらぬまま、父に今日の出来事を話した。猛烈な雨風のこと、授業の打ち切りのことそれを落ち着いた様子でく父。が、昇降口にまだ残されているたくさんの生徒たち話がぶと父の様子が一遍した

何を考えたのか、いきなりヨシヒロ行くぞ」と僕に声をかけ、おもむろにライトバンに二人で飛び乗ると横殴りの雨の中、学校に向かったのだ


 

僕は「この人は一体何をする気なんだ」とただただ唖然。そんな僕を尻目に、父は学校に着くや否や、昇降口の前でクルマを停めた。そこにはまだ十数名の生徒が残されていたのだ。父は車を降りながら「おい、センコーは何やってんだ」と大きな声を出し昇降口へと入っていった。


 

びっくりしている生徒を横目に、父は職員室に向かったのだ何の騒ぎだと集まってきた先生にこう叫んだ。


 

おめえら職員室でぬくぬくしやがってこの暴風雨の中、子どもたちを勝手に帰らせるやつがあるか。あんたらだって学校までクルマで来てるんじゃねえか。みんな乗せて帰るくらいのことしねえのかと先生たちを一喝。僕は父の後姿を見ながら呆然としていた。

 



言わずもがな、僕はこの学校の生徒である。自分の学校で「校長出せ」と怒鳴り込む父を見上げながら、素直に「この人ヤバイなぁ」と思った。が、それと同時に「の言ってることは間違ってない」とも感じた。

 



ただ、先生たちにもルールがあって、勝手なことができないのだろう。連絡の取れない親御さんもいて、大変だっただと思う。慌てて駆け付けた教頭先生が、「いやいや、今村さん、落ち着いてください」となだめる。他の先生も圧倒されていて黙って見ているしかできない



父はおもむろにあんたらが出来ないなら、これから俺が子どもたちを送り届ける」といって制止する先生を振り切今度は僕を学校に置いたままライトバンに乗って走り去っていった。



先生達も「どうなるやらと、昇降口で残された生徒たちと一緒にいた」10分くらいだろうかグォーンというエンジン音とともに会社のダンプトラック4台暴風の中に現れたのだ。父は先頭のダンプに乗っており雨の中降りて来るや否や若い衆に指示を出し、子どもたちを家の近い人数に区割りして「おーいクルマに乗せろー!」と呼びかけたのだ。

  


 

「おれが全員送り届けてやる

もうこうなったら先生も何も言えず、その状況を見守るだけだった。


 

すると、昇降口にいた子どもたちは大興奮。キャッキャとダンプの前に集まると、若い衆が各クルマの荷台に子どもたちを56人ずつ乗せ始めた。

板のままじゃだめだと思ったのか、荷台の床にはブルーシートが敷かれており、子どもが乗った後にはその上からもブルーシートをかけ、暴風雨の中、父は昇降口に残された生徒たちを本当に自宅近くまで見事に送り届けたのだった。


 

その時に僕も生徒の皆と荷台に乗ってだが、一緒に乗っていた友人や生徒たちからヨッチくんお父さんはすごいなーありがとう。と言葉を掛けられた。

僕は「いや」と照れるだけだったが、その時父親と若い衆が最高に格好良く、そして「甲斐組」という看板を心から誇らしく感じた。

 

 

この出来事は、今では認められない行為であることは間違いない。しかし、まだまだ皆が助け合わなければならない時代には地域を支えるナニかが必要なことでもあったのだろう現に賛否はあったが、後日ダンプで送った生徒の保護者や商店街の人たちからもお礼と称賛の声が上がったのだ。

 


この経験僕自身には忘れ事がない大きなインパクトであった。そして僕自身家業に携わってからも地域の土建屋の役割として災害には第一線で動く会社でありたいと強く意識するようになった。

甲斐組は職人、ダンプもたくさん抱え、いわゆる実働部隊だ。もし有事のことが起きた場合、一番すぐに動けるのは、僕たちのような地元の土建屋なのだ

 



僕たちはただビジネスとして公共インフラをつくる存在だけではない。地域の人々の笑顔を「創る、増やす、守る」存在なのだと思う。

 


父からはこの台風の日」の出来事を通して「土建屋の存在意義」を学んだことは間違いない。



そして「甲斐組」は二代目になった現在も台風や異常気象時に社員一丸となって地域の第一線で活躍している。



 

飯場の子 5章 17話 「神棚の存在」

 




僕の家には、記憶があるころからずっと身近に存在しているものがある。

 

それは神棚

 

別段その存在の意味をしかと教えられたわけでもないのだが、子どものころからなぜか僕はその神棚が家族や会社にとってすごく大事なものだと思っていた。そして、格好良いもの、神聖なものだと感じていた。

 

モノづくりの会社や家にはこのように「神棚が飾れているところが多いと思う。が、その中でもうち会社と自宅の神棚はまあまあ立派な方だと思う

 

現代の時流にはそぐわないかもしれないが、とりわけ父はこの神棚の扱いにおいて、昔からの習わしに従順だった。

 

毎日、神棚のおを替えてから「二礼、二拍手一礼」で祈りをささげる毎月日と十五日には榊と塩を取り換えるであった。相撲の土俵に女性が入ってはいけない」などのしきたりみたいなものなのかこうした神棚お役目は、原則男性しか触れることはできないと躾られた僕の家には父以外、男性は僕しかいないので自宅の神棚のこうした儀礼小学生くらいから僕の仕事になっていた




 

古い風習ではあるが、僕の会社ではこの儀礼を今でも守り続けており、日々、毎月の儀礼はもとより年末の12月28日には会社幹部が10人くらい早朝より集まってすべての神棚にお正月を迎える飾りをするのだ


 

正月を迎えるお飾りは神棚の掃除と、しめ縄の交換から始まり神棚の受け台の柱に松の木(門松)を結び付け、スルメイカを3枚重ねて紅白の水引で締め、お迎えの準備完了となる。いかにもお正月を迎える儀礼であり、これがまたいちだんと神棚を立派にさせる。



 

そして締めとして金のだるまに目を入れ、新しいものに交換するこれが6か所もあるから大変なのだが、幹部たち手分けして手際よく準備を整えて、昼頃には本社に集合する。




 

その年の結びに、幹部がそろい一つの神棚の前に僕が代表して一年の感謝と新しき年の隆盛を誓い、全員で手を合わせるのだ。それが、その年のすべての会社仕事の納めになる。

 



ブルーカラー、特に土木関連の仕事をしている人「信仰心」の深い人が多いのには、恐らく理由がある。その一例として、父や叔父から聞いた話ではあるが僕の中に強烈に残っている出来を紹介したい



 

それは僕が小学生くらいの時だった甲斐組は、県内東名高速道路のインターチェンジにつながるバイパス道路つくる仕事の下請けをしていた



 

のバイパス道路の工事丘のような小山になっている場所を掘削して切り崩し道路にするという仕事だった。工事を始める前に地鎮祭のようなこと行政の役人と工事関係者で行い、いよいよ工事着手となった。そして、その山を掘削していくと、しばらくして土の中から大量の丸い石が積み重なるような状態で出てきたのだそうだ。



 

どう見ても人工的に形づくられた石。作業を監督していた叔父の常務が何かおかしいぞと思い、その場所の作業を中断して、元請けの監督に相談したのだ、元請けの監督さんは「うーん、何だろう。」と首をかしげていたが、とりあえず他の場所を作業するよう指示して現場は再開した。のだが、その日を境に現場に様々な不可思議な現象が起き始め



 

最初の異変は、工事では必ず施工管理の写真を記録として撮影するのだが、今の時代と違いフィルムカメラによる撮影だったそして現像できた写真を見て現場関係者は驚愕した。すべての写真がまともに映っていない「火柱のようなものや、黒いわけの分からないもの、人の顔のようなもの」が映り込んでしまう。



 

また現場に建てた仮設のプレハブ事務所がガタガタと揺れたり、電気が着いたり消えたりするような事が起こり始め、挙句には現場作業員、関係者、行政の関係者まで原因不明のや発疹が出るようになってしまったこれらの奇怪な出来事が数日の間で起こりついに工事は続行不能となった元請けも行政もどうしたものかと頭を抱えてしまった。



 

叔父の常務はすぐにこの出来事を父に相談した。信仰心の強い父は、毎度何かあると相談している山梨県にある檀家寺「妙学寺の古屋お上人電話をかけたそう、僕の名前を付けてもらった、ご住職様だ一連の話を聞いたお上人さん父にとりあえず写真を何枚か持ってきてくれと伝え父はすっ飛んで山梨まで出向き、お上人さんに現場の写真を見せた。するとお上人さんは開口一番、こう言い放ったそうだ



 

うーん。これは困ったな



 

本物の法力を持つお上人さんであるが、事の理由や重大さを詳しくは説明しなかったらしいただ早急に手を打たなければならないとの事で、3日後に現地で加持祈祷をするからと父に伝えた。そして約束の日、父らは現場で関係者を集め、お上人さんをお迎えした。お上人さんはこの出来事を鎮めるために、身延山から5人の僧侶を伴い現れたそうなそしてものすごい加持祈祷していただいたという


 

その時を境に不可思議現象はすべて鎮まり、無事工事再開されることになった。

お上人さん御加持の後にその石は丁寧に掘り起こされて別の場所に運ばれた。今思えば、それはだったかもしれない地中に静かに眠っていたモノを、何のご挨拶もなく勝手に掘り起こしてしまったため、閉じ込められていた何かが、一気に漏れ出したのではないだろうか。


 

このは、当時子どもだった僕にとってはかなり怖い話だったのだが、「ああ、そういうコトはあるのだろう」と不思議と理解できたのだ

 



我々土木業は、仕事上どうしても「土」を動かすことになる。つまり、「自然の形を変えるということだ。解体工事などでは大きい木を切らないといけないこともある。先述したような幼い頃の経験からも、工事をやる時は塩や酒で現場を必ず清め現場にこれから始めさせていただきます」「ここまで守ってくれてありがとうございました挨拶を欠かさない。どの業界でもそうかもしれないが、特に土木関連の仕事は、無念の思いをした人がいたかもしれない地を掘ることになる



 

日本は災害国家で、これまでものすごい数の人間が自然災害の犠牲になっている。ここまで台風や地震、火山の噴火など、多くの自然の驚異に晒されている国民も珍しい。そのため、自然に宿る神への信仰は必然的に高まり神話化され、五穀豊穣を感謝する思いも深くなるのかもしれない。



 

こうして例に違わずへの祈りを大事にする僕は、折を見ては各地の神社に参詣し、そして月に一度相模国一之宮である寒川神社に参拝に赴いている



今も毎月参拝している。寒川神社

飯場の子 4章 16話 「母の教え商売とお金の価値」

 



 

僕が小学校3年くらいの時、何か急用があったのだろう、母が突然山梨県にある父の実家にクルマで向かったことがあった。詳しい理由は覚えていないが、たしか忙しい父の代わりだったと思う。

そして僕は、これまたなぜそういう流れになったのかはよく覚えていないのだが、そんな母に同行し山梨県に向かうことになった

 

突如として始まった母とのドライブ。その道中に起きた出来事は今、僕の信念の礎となっている。

 

1970年当時のクルマは、そのほとんどのギア駆動が「マニュアル。例に違わず、母がその時運転したのもマニュアル車のライトバンだった。



当時の平塚から山梨県の実家までは普通に渋滞もなく走って4時間近くかかったと思う。平塚より一般道を走り、厚木ICより東名高速道路をかっ飛ばし、御殿場でおりて国道を須走から籠坂峠を越えて、富士五湖である山中湖、河口湖を通り抜け、富士山のふもとである青木ヶ原樹海の国道を走っていくのだ。


 

青木ヶ原樹海は自殺の名所であると、幼き頃より父からその話を聞かされていたので、青木ヶ原樹海を通るときは「早く通り抜けないかなぁ」と心の中で呟きながら、あまり外を見ずに前方の道路に集中していたのをよく覚えている。



そして精進湖までたどり着くとゴールは近くに感じる。ただしその先は、芦川渓谷という川沿いの未整備な細いくねくねした道路を通るのだ、ほかにも道はあるのだが、その道が一番近道であるために、急いでいた母はその道を選んで走っていったのだ。


 

子どもながらに、かなり長いことクルマに揺られていたのを覚えている。その日、家を出たのは午後だったのだが、その細道を走るこには、時間は夕刻になっており、周りはすっかり薄暗くなっていた。


 

慣れな整備されてもいない渓谷の細道。しばらくクルマを走らせていたのだが、突然クルマに異変が起きた。暗闇の夜道、ハンドル操作を誤り脱輪してしまったのだ。外に出て確認すると、山側の側溝にフタがされておらず、そこにタイヤがハマってしまったようである。





 

無論携帯電話などない時代。公衆電話も近くにあるわけがない。こうなったらもうどこかの家電話を借りてレスキューを呼ぶしかないのだが、集落のような場所で家はまばら一番近い家まで歩いて行けるのかすら分からない状態だった。


 

と僕は頭をかかえしばらく2人途方にくれてしまった。なんとかしないといけない気持ちはあっても、小学校年生ではクルマを持ち上げるも、母に策を提案する知恵もない。



聞こえてくるのは暗闇から「ゴー」という渓谷の流れる音だけ。普段は心地よささえ覚える音が、やたらとうるさく、そして怖く感じたのを覚えている。


 

こうして10分ほど経っただろうか。なんと、たまた対向車線にクルマのライトが光って見えたのだった。この機会を逃したら、次がいつになるかは分からない。素早くクルマを降りた母は、その対向車に助けを求め停車させることに成功。夜のその道対向車に出会たことは本当にラッキーだったのだが、さらに幸いなことに、そのクルマには大人の男性が4人乗っていたのだ


 

母が状況を説明すると、彼らはすぐさまクルマから降りてきてこれじゃぁ動けないよな、こんなのお安い御用だよ」と、4人でクルマをひょいと持ち上げ、あっという間に道に戻してくれたのだその時の男4人組の頼もしさは今でも忘れない。


 

「奥さん気を付けてな、この先まだこういう道あるから」


 

そう言い残すと、彼らは背中を向けて自分たちのクルマのほうへ向かっていく。真っ暗で顔もよく見えない。その時だった。母はおもむろにクルマに置いてあるバッグから1万円札をとり彼らを追いかけたのだった


 

いやいやいいよいいよ、そんなつもりで助けたわけじゃないから」と、男性たちがそのお金を母のほうへ押し返す。が、何度断っても頭を下げ続けて姿勢を変えない母に、彼らも「参ったな、かえって申し訳なかったね。ありがとう」とようやくそのお金を受け取ったのだ。


 

彼らのクルマがブーンと走り去った後に、母は「よしひろ助かったね」と僕のことも心配していたのだろうその顔は心から安堵していた。僕も同じく心底助かったと胸をなでおろしていた。


 

しかしこの一連の出来事の中で子どもながらに僕の心に突き刺さることが起きたのだ。


助けてもらったとはいえ、通りすがりの他人である、その人たちに頭を下げ続けお金を手渡す母の姿を見て「この母の行いは正し、尊いもの」だと、誰から教わることもなく自分の心の中にその気持ちが宿った瞬間であった。


 

以前にも紹介したが、母は家が貧しく、中学を出て日本食塩JTの子会社)で事務職として働きながら、夜はキャバレーでアルバイトしていた苦労人だ。が、貧乏だからといって金に執着することなく、常に「仁」の人だった。


 

あの時の出来事のおかげで僕は今、誰かに何かをしてもらったら、必ずお礼をするようにしている。格好をつけるわけではないが、様々な場所で、楽しく過ごさせてもらったらお釣りも、いただかないようにしている。


間違いないことは、僕たちは「ありがとう」と思うものに対してお金を支払い、また「ありがとう」と言われることに対してお金を頂いているのだ。お金の行き来とは「ありがとう伝え合いをしているというと同じなのだと思う。




 

 

金は使い方によってその価値は上がりも下がりもする、そう教えてくれたのも、今僕の商売人魂の土台を作ってくれたの間違いなく母だ。



 お金の価値は人によって様々だが、もしあの時、母が言葉でお礼だけ言って助けてもらった人たちを見送って「よしひろ、タダで助けてもらってラッキーだったね」と僕につげたとしたら、今の自分がもっている「カネ」に対する感覚も違っていたかもしれない。



 この脱輪事件は、そのくらい大きい出来事だった。

 

僕は母から「商売人の魂」と父から「モノづくりにこだわる職人魂」を受け継いだと思う。

 

 父もお金に執着心がなく大盤振る舞いが大好きな男なのだが、前述にもあるがモノづくりをする職人として仕事に対するこだわりは強烈極まりない



 その商売人と職人の魂の狭間で父と大きくぶつかっていくのである。その話はまた改めて紹介したいと思う。



姉の幼稚園遠足に同行の著者(左姉、右は母)

飯場の子 第4章 15話 坊主頭への疑問と初めての入院経験

 

 

写真を見ると分かるのだが、僕は小さい頃ずっと坊主頭だった。


 

今の時代坊主頭の子どもはかなりいるが、1970年代はほとんど見たことがなかった。意外だと思われるかもしれないが、当時はお坊ちゃん狩りが主流幼稚園クラス写真を見ても坊主は僕以外、誰一人としていなのだ



その理由は定かではないが、おそらく坊主に対する「イメージ」だろう。「床屋に行かせるカネがない家の子の髪型高度経済成長の時代には坊主に対して貧しいイメージがあったのかもしれない。

 


んな時代の中で、僕はずっと坊主頭にさせられていたわけだ写真で確認すると、だいたい小学校4年まで坊主が続くしかも僕は、わざわざ床屋に行って坊主頭に刈ってもらっていたのだ。


 

そのため、幼き頃より「お坊さんのうちの子」と勘違いされていたことも少なくない友達の家に遊びに行った時、「今村君のおうちはお寺さんなの?」と、マルコメみその影響もあったのか、お母さんたちから何回か聞かれたものだ。そのたびに「そうじゃないです」と説明をするのが面倒だった


 

幾度となくこのような経験があり、当初は違和感など全くなかったのだが、小学校3~4年生くらいになると徐々に自分の髪型に疑問をもつようになる



そのきっかけは、小学校4年くらいから仲良くなった「マサルくんという先輩の存在だ。この2歳年上のマサルくんこれまたいっぱしのワル小学生だったのだがその髪型がカッコいい「少し髪をばした角刈り」だったのだ


 

僕はそのマサルくん髪型に憧れ通っていた同じ床屋の店主にマサルくんみたいな髪型にしてくれるかな」と少し照れながら言ってみたら「おお、ヨッチくんも色気づいてきたな」僕をからかっていた。そして店主はしっかりと、マサルくんに告げ口。数日後顔を合わせたマサルくんが「おいヨッチ、お前床屋俺みたいな髪型にしろって言ったらしいな」と言ってきた。「いやー」と照れていた僕に、子分が同じ髪型にしたがったのが相当嬉しかったの「お前もそのほうがカッコいいよ」と言いながら、やたらとニヤニヤしていたのを思い出す。

 


ちなみに小学校にあがる、なぜ自分はずっと坊主なのか一度父親に聞いたことがある。返ってきた答えはこうだ。

それはな、坊主じゃないんだよ、ブンタ刈りっていうんだ

無論この「文太」は俳優の「菅原文太」のことなのだ当たり前だが、は当時彼を知らなかった。たまたま家で飼っていたインコが「ブンタ」という名前だったため、僕の頭の中はインコの「ブンタ」と僕の髪型何の関係があるのか、理解不能になり、たまらず母親にそのことを話したら大笑いしながら、それは映画俳優の「菅原文太さん」っていう人のことだよと、教えてくれた



その時に、少しほっとした傍ら、訳も分からず自分の坊主頭が急に偉くなったように思えたのだった

 


結局当時はなぜ父親が僕を坊主にしたのかよく分からなかったのだが、今思えばそれは他でもなく、「自分の息子だから、なのだと思うというのも父親自身ずっと坊主だったのだ僕を坊主にさせていたのは自分の真似をさせたがる親の心理だったのかもしれない。ちなみに父は、今でも白髪の坊主頭なのだ


 

そんな小学校時代の思い出としてもう1つ大きく残っているのは「初めての入院」である。



僕は、扁桃腺を取る手術をした。小学校2年のころだ。

 

もともと年に数度、扁桃腺肥大を起こしては、よく高熱を出していた。発症すると唾も呑めないくらい強い痛みが襲ってくる。そのたびに薬を塗ってもらいに耳鼻科行くのだが曰く、高熱を起こすと僕はよく「熱痙攣起こしていたという。悪寒唇は紫色になガチガチと音を立て全身を震わせなが、唸り苦しむ僕の姿を見るたび、姉たちおっかなくてしょうがなかったという。


 

こうして何度も高熱を繰り返す僕に、医者は両親に「扁桃腺の手術を提案したのだ小学校2年生の2学期、学校を10日ほど休み、手術をすることになった

本人は当時よく分かっていなかったが、その手術さえやれば、これまでの痛みがなくなることを聞き、最初は当然嫌がっていたのだが、それならばと了解。平塚市民病院に1週間入院することになった


 

病院には小児病棟がなかった時代大人と一緒の部屋で入院生活を送ることになったのだが、これが怖い怖い

まず病院が怖い。いわずもがな、子どもにとっては不気味でしかない病院は2日間だけ母親の付き添いを許してくれたが、病室の独特なアルコールの匂い体の弱った知らない人たちとの共同生活。自分自身は手術のための入院でピンピンしていたため周囲の人とのギャップにより困惑したのかもしれない


 

心の支えになったのは、自宅の隣のかしわぎ酒店の娘婿「おにいちゃん」との「ある約束」だ。


入院前に不安がる僕は「もしちゃんと手術ができたらめんこ100枚買ってくれる?おにいちゃんにねだったのだ「よーし、めんこ100枚だな、我慢できたらプレゼントする」と気持ちよく請け合ってくれた。大人とすればめんこを100枚買ったところで大した金額にはならない。が、数枚買って溜めていくにとって100もはや「。それが嬉しく、辛い時はそのまだ見ぬめんこを思い浮かべて耐えることができた。


 

手術をしたのは入院3日目。無論、麻酔をしているためその時の記憶はないが、術後、目を覚ました時に喉や鼻にガーゼ入っていて、すごくきつかった記憶があるが、小さい子どもは回復早い。翌朝、先生にそのガーゼを取ってもらうと、即座にいちご牛乳を無断で飲み、さらにその夜には寿司を出前で注文。この子どもの自由奔放で見事な回復ぶりに、病室中大笑いだった。


 

しかし、僕はこの寿司よりも嬉しかったのがある。そう、「あの約束」だ。

その夜、すしと一緒に登場したのが、段ボールいっぱいに入っためんこを携えたかしわぎ酒店のおにいちゃん。4つほど束になってい100枚のめんこは、もはや「小判の山」。寿司を食いながら1枚1枚絵柄を確認する姿を、周囲の大人たちはほほえましく見ていてくれていた。


 

こうして僕は順調に回復し、無事に6日目に退院。この手術のおかげで本当にそれ以降、僕は高熱を出さなくなったのだ。が、その代わりに待ちうけていたものがある。体質の変化」だった

 


僕はかなり太っているが、この手術前まではずっとやせ体質だった。ただ、飯はよく食べていたので、いわゆる「痩せの大食い」なのだが、この手術以降、みごとに体重は増加していき「肥満体質」になっていったのだ。僕は自分でいうのもなんだがスポーツは万能な方で、それなりの自信を持っていたのだがまんまるヨッチくん」に変貌していき、スポーツ万能群から脱落していく自分に複雑な心境を持っていた。


 

しかし父は「男はなガタイがいい方が貫禄がっていいんだ」とかなり気弱になっていた僕の背中を押してくれた。



その言葉が効いたのだろう、さらにヨッチ少年は「ガキ大将」の気質に拍車がかかっていくのである。さすがは土建屋の親方教えだと今でもありがたく思うのだ。



寒川神社にて