飯場の子 第3章 12話 「中村組との別れ」
中村組の下請として約10年。別れは突然やってきた。
その原因は癖のある現場監督であった。名前は「エハラ」。いわゆる“下請けいじめ”が大好きな性格の悪い男なのである。どの業界にも、この手の人間はいるものだ。
当然ながら中村組内だけでなく下請け会社からの評判も良くなく、あまりの傲慢さに、「あの人とは一緒に仕事をしたくない」とする声は多方から聞こえてきていた。
甲斐組も当然ながら請負う工事によってはその監督のもと「仕事」に従事するのだが、まあ細かいことにケチをつけるわ、現場では大きな声で威張りちらし、皆を不快にする。現場の雰囲気は最悪の状況になってしまうのである。しかし、下請けの弱さかな、いずれの会社もその監督には逆らうことができなかった。
逆らえば「仕事を切られる」。それは死活問題にも繋がるから皆が悔しい気持ちの中で下を向くのだ。そんな相手に甲斐組社長である父も悶々とした思いを胸に秘めていた。
その日は父も機嫌の悪い日だった。夜間の舗装工事を皆で頑張っている中、問題監督のエハラが登場。何が彼をそれほどまでに不機嫌にさせたのか「てめえら、勝手に仕事を始めてるんじゃねえ」と、自分が大遅刻しているのもお構いなしに、甲斐組の従業員を怒鳴り散らしたのだった。このエハラの立ち振る舞いに父の我慢が吹っ飛んだ「エハラ!てめえ」の怒号とともに襟首をつかみ強烈なパンチを顔面に叩き込み殴る蹴るの暴行を加えてしまった。当然現場は騒乱状態。皆が止めに入り騒ぎは止まったのだが当人のエハラは悪態をつきまくり、現場から逃げるように去ってしまった。
理由はどうあれ「あげてしまった手」は当然なかったことにはできず。翌日に父は中村組に呼ばれることになる。当人のエハラは「一方的に殴られた」と父を非難。その話を中村組としては無視できなかったのだ。
結局甲斐組はそれ以降、中村組から仕事を切られ、さらに同社の社長から周囲の同業に「甲斐組に仕事を出すな」というお触れまで出されてしまった。
この件に関しては、かなりセンセーショナルな出来事として周囲を驚かせたらしい。中村組追放の理由の一つにはうちの父親と、中村組の2代目社長とはソリが合わなかったというのもあるだろう。
甲斐組は川崎から平塚に移って以降、中村組から仕事を請けながら業界内で知名度を上げてきたが、中村組は業界では頭3つほど突き出ている存在。影響力も絶大で、仕事の打ち切りだけでなく、こうした地元業界全体への圧力は大きな打撃になる。甲斐組にとって、立ち上げ以来最大の危機ともいうべき出来事だった。
当時、僕は小学校2年生ぐらいだったと思う。子どもに心配させてはいけないと思ったのか、父親や周りから異変などは感じなかったが、よくよく振り返ってみると、そういえばある時期から家族の間で「中村組」という名前を聞かなくなったと気付く。
もちろん、どんなことがあってもこの件において手を上げてしまった父に非があるといえるだろう。しかし、数ある同業会社の中には別な意味も含めて当時の中村組の傲慢な振る舞いに反発心を抱く人も少なくなかった。
そのうちのひとつが、平塚の中でも当時市内でバリバリやっていた土建屋、「細野興業」だった。
舗装業も請け負っていた細野興業。甲斐組が中村組から離れると聞いた同社社長は、さっそくうちの父親を呼び出し「これからどうしていくつもりなんだ。中村組が何を言おうが関係ないから、うちの仕事をやらないか」と声をかけてくれたのだ。
うちの父親が荒くれ者だということは、業界内ではもはや周知の事実。「甲斐組を使うな」というお触れも出ている。それでも「あの中村組の下請けを10年こなしてきた」というのは、業界の中では「甲斐組はタフで腕も確かなはずだ」と評価され、細野興業のように声をかけてくれる会社は少なからずあったのだ。
まさに「捨てる神あれば拾う神あり」。細野興業からの声掛けに、父も「よろしくお願いします」となり、それ以降は細野興業の下請として「第二のフェーズ」に入っていくのだった。
今、父はこの出来事を「逆にいい機会だったのでは」と振り返る。
当時は高度経済成長の時代。働き手がいなくなると困る元請の中には、下請を手放さないために、仕事が終わっても全額を支払わず「保留金」として3割ほどをいわば「人質」として預かり、次の仕事が決まるまで払わない会社があった。中村組もそのうちのひとつで、こうした縛りには甲斐組も例外ではなかったのだ。
そのため、中村組の下請として10年目を迎えた時点でも、会社としてはお金も回ってはいたのだが、現場で使用する重機もろくに買えない状況にあった。「逆に中村は自分たちを使って散々儲かったんだろうよ」、と父は言う。
さらに、この細野興業との出会いによって甲斐組がのちに大きく変わったことがある。「元請参入」だ。
それまで父は「一生下請けの舗装屋のままでいい」という思いだったそうだが、この細野興業の社長は「いや、オマエのところはこれだけの若い衆がいて、これだけの実績があるんだから絶対元請をやれ」と打診してくれたのだ。
その後、細野興業のアドバイスのもとで官公庁への入札業者の申請を行い、晴れて元請け業者の認可を持った甲斐組。そして、平塚市より初の指名を受けて入札に参加していくのだった。しかし、この元請け参入にも大いなるシキタリがあったのだ。そう、業界特有のルール「談合」だ。その壁にぶつかりながらも、甲斐組はさらに前進していく。
中村組には、無論多大な恩義がある。川崎から平塚に移り、舗装業として「甲斐組」を興せたのは、まぎれもなく中村組のおかげだ。
しかし、「下請という縛りからの解放」や「元請参入」という大きなきっかけを考えると、「もしあのまま中村組の下で働いていたら今の甲斐組はなかったのだろう」と、父はもちろん、二代目を引き継いだ僕自身もそう思うのだ。
平塚海岸にて大好きな怪獣のおもちゃを従えて親分気取りの著者(1977年当時)






