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ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

2章 6話「商店街の人との交流」

 

 

1969年、道端でのある再会、中村組との運命の出会いを経て、住み慣れた川崎から着の身着のまま平塚の「虹ケ浜」という町に移り住んできた両親と2人の姉、そして実弟と数名の若い衆たち。


移住してすぐは色々と大変だったようだが、1章末でも紹介した通り、土建業には「組持ち制度」というものがあり、元請けの会社が下請の生活の面倒を見ることが多く、我々甲斐組も例に違わず、当初は中村組に寝る場所から食べるものまで全て面倒を見てもらった。

 

そのため、地元では何の信用もない新参者の僕たちでも割とスムーズに生活を移すことができたと思う。特にありがたかったのは「帳面買い」だ。


平成のあたりの飯場などには、毎食の献立の作成、各食材の提供から、まかない婦などの紹介手配までを受け持ってくれる食材屋なる業者が台頭し始めたが、昭和40~50年当時はそういう業者が存在していなかった。

 

そのため飯場を抱える組は、まかない婦の雇用から始まり、野菜は八百屋、肉なら肉屋、魚なら魚屋と、それぞれ直接商店から自分たちの足で仕入れないといけなかったのだが、大所帯をもつ土建屋にとってはその都度支払うのは煩わしく、現金も毎度必要になる。


こうした面倒をしないよう、元請けの中村組が地元の商店街に話を付けてくれ、買い物したものを月締めで支払えるようにしてくれたのだ。

 

そこは「西海岸商店街」という1.2kmほどにも連なる道沿いにできた商店街。


当時はもちろん、現在においても地域の人たちのマーケットになっていて、当時から八百屋から魚屋さん、洋品店さん、自転車屋さん、床屋さんまであらゆる生活必需品が揃えられる場所であった。

 

地域に我々のような土建屋の飯場が集まってくるのは、商店街の人たちからも歓迎された。無論、それは様々なお金をたくさん落としてくれるからだ。


特に大所帯の肉体労働者ともなれば、従業員は大食らい。食材もお酒もまとめて買ってくれる。商店からすると「ひいき」が起きるのである。

 

ちなみにその一方、近所に住んでいる人たちからは、土建屋はあまり歓迎されなかったと思う。


詳しくはまた後述するが、仕事を終えた従業員たちが飯場で酒を飲み、酔っ払ってはデカい声でケンカを始めることが多かったのだ。近所の住民にしてみれば、近寄りがたい場所だったと思う。


こうして1年、虹ケ浜での生活にも徐々になじみ、商店街の人たちとの交流を続けていたある日、父はその商店街のボス的存在であった「柏木酒店」のオヤジさんから、ある提案を持ちかけられた。


すぐ近くの「『撫子原』という住所に、ある程度まとまった土地があるんだが。そこに宿舎を構えたらどうだ」との声掛けであった。

 

そこは、虹ケ浜からクルマでたった5分足らずのところ。商店街からもさほど遠くない距離の場所である。


川崎から移り住み、ようやく住み慣れた虹ケ浜ではあるが、さすがにこのままずっとトタン屋根の借り宿舎にいつまでも済むわけにはいかない。

 

そう思った父は意を決し、200坪の土地を借り上げ、自前の事務所と従業員らが寝食する飯場、そしてダンプを停めるための駐車場を設置。親方である父親は、その飯場の前面道路を隔てた真向いの貸家に居を構えた。


それと同時に、事業も基盤に乗ってきたと父親は、四男の実弟である「今村千蔵(せんぞう)」を呼び寄せ甲斐組に迎え入れた。

 

そして満を持して平塚市撫子原169番地の1に「有限会社甲斐組」として法人登記を行い、個人事業から法人企業となり、晴れて代表取締役となったのだ。


こうして両親と一族は、ようやく平塚に落ち着いて腰を下ろすことになったのである。

 

さて、そこからしばらくした1971年5月ようやくこの世に誕生する人物がいる。そう僕、今村佳広である。

 

両親が授かった子どもは2人姉妹。待望の第3子長男が誕生したことで心底喜んだのは父である。


本人曰く、平塚のキャバレーで3日連チャンで祝い通したそうだ。

 

1日目は甲斐組の若い衆を大勢連れて行きどんちゃん騒ぎ。


2日目はお世話になっている商店街などの人たちを集めて大宴会。


そして3日目は仕事関係の人たちを招待して酒盛りをしたという。

 

まあ、いつものごとく父には話を盛る癖があるので、どこからどこまで本当かは分からないが、さすがに3連夜飲み続けた「4日目の父」がどんな状態だったか目に浮かぶ。

 

「佳広(よしひろ)」という名は、山梨県にある日蓮宗「妙学寺」という檀那寺の「古屋智妙上人」というご住職からいただいた。


御年99歳で亡くなったが、本物の法力を持つ僧侶様の元を父はことあるごとに訪れていたが、僕が誕生した時も「男の子がやっと生まれた」と、名前を付けてもらいに行ったという。


その時、古屋上人は、3つの名前が書かれた紙をそれぞれ小さい袋に入れ「1つ選べ」と父に言ったという。それで引き当てられた名前が、この「佳広」という名前というわけだ。


こうして甲斐組の跡継ぎとして生まれながらに期待されていた佳広少年は、ここ撫子原の飯場で、普通の家庭と少し違った環境で成長していくことになるのだ。



生後二日目の著者(1971年)



平塚市の歩行者天国(旧国道1号線)

 

第2章

エピソード5「平塚」という土地柄

 

 

両親が2人の娘と実弟、会社の従業員を引き連れてやってきた「平塚市」。当時の生活を詳しく語る前に、まずはここでこの町について紹介したい。

 

平塚市は、神奈川県の相模湾に面した中央地域に位置する人口25.7万人の都市だ。

同県には藤沢市、相模原市などといった大きな市があるが、実は平塚市が市制になったのはこれらより先で、神奈川県の中でも横浜市、横須賀市、川崎市、平塚市の順番でかなり早かった。

 

これほど同市が発展したのには、「工業の力」がある。

 

実は平塚には明治・大正・昭和にかけて「海軍火薬廠(かいぐんかやくしょう)」という、いわゆる爆弾工場があった。海軍の軍港である横須賀に近いことが、平塚が火薬工場の用地として選ばれた主な理由だとされているのだが、そんな元軍需工場としての土壌を活かし、戦後は車両・化学関係をはじめとする大手企業が次々と誘致されるようになったのだ。

現在、その約38万坪という広大な跡地には、日産車体や横浜ゴム平塚製造所を始めとして数々の大手企業の工場が軒並み建っており、その工業地帯が当時の爆弾工場の大きさを物語っている、またその中に9万坪もある平塚総合公園もヒト区画としてスッポリおさまっているのだ。海軍火薬廠の存在は今の時代からは想像もつかない規模である。それは過去の軍事国家という足跡を伝えてくれるエリアなのかもしれない。

 

戦後、こうしてたくさんの大型工場ができると、当然働く人たちも多く同市に住み移ってくる。住む人が増えれば、必然的に生活を支えるための商業施設も増加する。こうして同市は、一時期「買い物をするなら平塚」とまで言われるくらいまでに栄えた。

 

さらに同市には工場に勤務するブルーカラーが多かったことから、飲食店や飲み屋も一気に栄えるようになった。その多さは一時、人口当たりの飲み屋の割合が日本一になったほどだ。

 

しかし、その人口増加は25万人で頭打ちとなる。その理由の1つは、電車の駅の少なさだろう。市内の鉄道駅はJR東海道線平塚駅の1駅なのだ。平塚駅からは近隣の駅に向けて放射状にバス路線が伸びてはいるが、それでもやはり10万人以上の人口を持っている市町に駅が1つしかないのは、生活する上では発展性に乏しい。この交通インフラの開発においては、今でも行政が取り組む課題として上げられている。

 

しかし、電車網が乏しい一方で、「道路の整備」は県内でも早さ・質ともに進んでいた。大手企業の誘致、人口の増加、さらに公営ギャンブルである平塚競輪場の建設運営などによって税収の多かった同市は社会インフラに掛けられる費用が他市よりも多かったのだ。ゆえにわれらが土建屋も市内に必然的に増えていったのだろう。

もう1つ、戦時中に空襲を受けたことも道路発展の一因となる。

太平洋戦争で平塚市は、先に述べた海軍火薬廠がある事から、焼夷弾を落とされた数が八王子市の次に多く、昭和20年7月の大空襲では壊滅的打撃を受け、当時の中心市街地の約70%が焼け野原と化した。これにより、ほとんどいったん更地と化した平塚は、道路の線引きを最初からやり直すことになり、それを機に街を碁盤の目にしたのだ。

 

こうして敗戦からの復興によって急発展してきた同市であった、その復興を願って中心商店街の気概ある商人達の心意気で始まった復興祭りが、かの有名な「平塚七夕まつり」だ。

 

同市や神奈川県だけでなく、もはや日本有数の夏の祭りとして知られる「湘南ひらつか七夕まつり」は、東日本大震災以前の5日間開催時は、25万人の都市に約350万人、震災後の3日間開催になって以降も150万人を超える観光客がやって来るなど、「日本三大七夕まつり」として、仙台に次いで2番目に規模が大きいと目されている。戦後からとどまる事なく開催されてきた祭りだが、コロナ災害においてのみ、やむなく開催を見送る事になったのである。

 

ちなみに、三大七夕まつりの“3番目”の席を愛知県一宮市、安生市、千葉県茂原市、などの他都市が「うちが3番手だ」「いやうちだ」と名乗りを上げるようになり、その配慮からか最近では「日本三大七夕まつり」とは言われなくなっているらしい。

 

もちろん僕も小さい頃はドキドキしながら母の手を握り連れて行ってもらった。

人混みが大嫌いな父とはあまり一緒に行く機会はなかったのだが、珍しく連れて行ってもらった。人混みと喧騒の中で七夕飾りを眺めながら進んでいると、露店の明かりに飾られフェラーリの大型パネルに目が止まったのだ、時はスーパーカーブームの最中であり、かなり高価であったにも関わらず気前よく買ってくれた父親を自慢に思えて、非常に嬉しかったのを今でも覚えている。

 

僕が生まれ育ったそんな平塚の土地柄は、地方特有の「地元色」が強い印象がある。先ほど触れた通り、工業都市がゆえに市外から労働者が移り住んでくるのも多いからか、ブルーカラーに多く見られる荒っぽい気質が強い街をつくりだした。それは血の気の多い者たちの団結力を持つ土地柄を生み出したとも思う。しかし他市から移りすみ新たな商売を始める者には、しがらみが無いだけやりやすいというポジティブな面もあるが、簡単には「仲間」として認めない閉鎖的な部分があるのも事実だ。

 

僕の両親も違わず川崎から移ってきた時も最初はよそ者扱いを受けていたという。縁もゆかりもない地で味方がおらず、やはり苦労したらしい。ただ、父親をはじめとする一統は説明してきた通りの「イケイケ」だったので、その様なしがらみがなかったことが功を奏し、人目を憚らずガンガンと付き進むのである。

 


甲斐組の飯場で砂利の山(筆者1973年)


昭和30年代の平塚駅前

終戦の日に思う


今日で日米戦争の敗戦より77年を迎える。


今年の224日に信じられないニュースが世界を駆け巡った、ロシアによるウクライナ侵攻である。世界は平和では無いと常に考えている私も、ニュースで報道される映像を見るたびに信じられない事が起きたと実感している。そして今もなお、戦争は続いているのである。


かつて日本も大きな戦争を経験した。そして現在は国軍を持つ事も憲法で違憲とされている。


今年になって故石原慎太郎氏が国会の答弁で話していた事を思い出す。日米戦争が終わった後のニューヨークタイムズの社説の一文の説明であった。


その社説には挿し絵があり、大きなナマズのような怪物がひっくりかえり大きな口をあけていて、その口の中に米兵(GI)がゾロゾロと入っている。そして記事には「この醜き姿の化け物を我々は世界の平和のために、二度と生き返らないよう、徹底的に解体しなければならない」。とあったそうな。


今の日本の姿は大きなナマズの化け物では無いが、確かに徹底的に解体されたのかもしれない。アメリカが与えたものは「繁栄」であり、解体されたのは「魂」なのである。「魂」を解体するには教育とメディアをコントロールさえすれば難しくも無いとアメリカは証明した。


自虐史観を植え付けられた日本人は、現在でも民族の歴史に自信を持てない、またそれを口にする事もマイノリティと蔑視される。もしくは国家民族などに対して興味すら持てないのである。


祖国の「魂」を知らずして、何が民主主義なのだろうか。


この世界で起きている事実を常に真正面から捉え国民一人一人が危機感を持ち、「魂なき繁栄」から脱却しなければならない。


今こそ、自立した国家国民として毅然に教育、安全保障、災害に対応する自主憲法を制定し国民の命を守れる国にしていこうではないか。


今こそ決意の時と目覚めよ日本。


この終戦の日に思う。

かの時代に大義に生きて友愛に散華した御霊に祈りを捧げる事を忘れないように今を生きる我々も別の形ではあるものの国家の礎となり、子子孫孫の未来へ世界人類が本当の平和を迎える事が出来るように、自分自身が行動していく事を改めて誓う日とします。


令和四年八月十五日

今村佳広



飯場の子 4話

「人生の転機いざ平塚へ」1969

 

 

ミユキ組から独立して「甲斐組」が順調に動き始めた頃、突然、父の身に大きな転機となる出来事が起きる。ある人との「再会」だ。


 

ある日、いつものように現場作業を終えしまい支度をしていた父は、いきなり誰かに声を掛けられた。振り返るとそこに立っていたのは「ヤマさん」(仮称)という神奈川県土木部の職員だった。


 

ヤマさんは以前、神奈川県川崎土木事務所(川崎市は昭和47年に政令市になったので47年以前は県の土木事務所があった)からの仕事をしたときの担当者であった。それ以来、あまり会う機会はなかったのだが、その日たまたま父の姿を見つけて、声をかけてくれたのだ。


「おお今村じゃないか!久しぶりだな。今もミユキの仕事やっているのか?そういえば、オマエさん舗装が得意だったよな」

 

それに頷く父に、ヤマさんはこう続けた。

 

「実は、秦野市に『中村組』という結構デカい土木会社があるんだが、今、仕事を多く抱えているのにやり手がいなくて困っているらしいんだ。」



「いいか今村。これからは川崎のような『都会』よりもな『郡部』(いわゆる郊外)だ。神奈川県の西部はまだ未開拓状態。公共事業はこれから手をつけるんだ。もしオマエさんにやる気があるなら中村組を紹介してやるがどうだ?」


 

中村組は2002年に経営破綻してしまったが、当時は神奈川県の中でも指折りのゼネコンで、県西部においてはナンバーワンの会社だった。最盛期は年間200億円ほど売り上げを上げていた会社である。


 

ミユキ組から「子わかれ」して4年。時間とともに、経験と自信も一緒に積み上げてきた。若くチャレンジ精神のカタマリだった父が出した答えは、誰が考えても明らかだろう。


 

一方、先述した通り、昭和40年代の日本は経済成長の只中で、完全な売り手市場。元請による人材獲得競争は日々激しさを増していた。

それは中村組も例外ではなく、道端での再会後、ヤマさんから手渡されたメモの通り、小田急線に乗って中村組本社へ挨拶に行った。


平家作りの大きな事務所を前に緊張していた父だが中村組の扉をたたいた。


事務所にはいると建設会社らしい勢いと活気を感じたという。紹介者のヤマさんからすでに連絡が入っていたようで、工事部門の専務さんが出てきてくれ対応してくれた。


 丁寧に応接室に通され、挨拶もそこそこに矢継ぎ早に質問されたそうな。「何人くらい若い衆を集められるのか、また舗装工事の経験は?など」を確認すると、「ヨシ!今村社長、明日からでもウチに来てくれよ、飯場はウチで用意する」と、甲斐組を下請け企業にすることを即決してくれた。


 

中村組にしてみればまだ若い社長だが父のバイタリティを感じたのかもしれない。父も専務さんの即答に驚き「家族や兄弟とも相談したいので返事は早急にします」と専務さんに告げたのだが、手付けがわりか、そのまま秦野の料亭に連れて行かれ、昼間から大接待を受けたという。


 

帰りの電車の車窓に流れる夜景色を眺めながら父は中村組に行くことを決意する。


この時も母は生まれ育った川崎を出て、まだ幼き娘二人を連れて慣れない土地に行く事にも一切反対しなかったらしい。さすが土建屋の女房であると思う。


 

 そんな人生の転機ともなる大きな決断をした父だったが、この中村組との始まりは同時に、これまで世話になったミユキ組との別れを意味する。


社員時代から独立まで世話をしてくれた同社に、感謝してもしきれないほどの恩があったに違いない。これまでの感謝と礼をうんと伝え、任されていた仕事をすべてきれいに終わらせた。

 

こうして父は、母と幼き娘2人、若い衆数人、そして2台のダンプトラックとともに住み慣れた川崎を離れ、親戚も知り合いもいない土地へ引っ越す。が、その場所は中村組のある「秦野市」ではなく、隣街の「平塚市」だった。

 

当時の業界では、飯場は組(元請)が全部用意をしてくれることが多かった。これを「組持ち制度」という。そこからある程度拠点が固まり落ち着いたら、自分達で事務所や飯場を構えたりするのだが、最初に新天地へ乗り込んでくる際は、住む場所も生活に必要な物資も組(元請)が提供してくれるのだ。



例に違わず、父も中村組から飯場を提供してもらい、秦野に飯場を構えてもらう予定だったのだが、空き状況の都合上、市内で用意できなかったらしく、父たちは平塚市の海岸沿いである「虹ケ浜」という場所の掘っ立て小屋のようなプレハブに入ることになったのである。


 こうして縁もゆかりもない「平塚市」で甲斐組は新たなスタートを切ることになった。

 

 話は別になるが、実は中村組の社長も平塚に住んでいた。平塚から秦野までは、隣の市とはいえクルマで行かねばならないほどの距離。効率を考えれば当然、中村社長は秦野に住まいを構えた方がいいはずだが、社長はそれでも平塚から毎朝秦野にわざわざ通勤していたのだ。


その大きな理由は「県の合同庁舎」の存在だった。中村社長宅から中村組に行くまでの道中に、神奈川県の出先機関である平塚合庁があったのだ。


 平塚合庁には、平塚土木事務所が入っており、その県関連インフラ管轄は平塚市、伊勢原市、秦野市、大磯町、二宮町の3市2町。そのため、中村社長は時間さえあれば通勤途中に平塚土木事務所に立ち寄り、役人へ挨拶。「次はどの仕事が出るんだ」などの情報収集をしていた。これも重要な営業活動であり、自分のところが有利になるような情報を仕入れていったわけである。

 

 こうして父をはじめ、甲斐組の運命は「平塚」で大きく舵を切り始めるのだが、それまでの過程を今一度振り返ってみると、改めて「人の縁」を感じる。


たとえばあの日、父の仕事が終わる時間が5分ズレていたら、ヤマさんと道端で会うことはなく、平塚に住み移ることもなかっただろう。もっと言えば、今の甲斐組という形も変わっていたかもしれない。「今」というのは、やはり多くの人との出会いの積み重ねの上にある「縁」そのものなのだと思うのだ。

 

そしてその縁は、新天地「平塚」でも僕たちの運命を大いに変えていくのである。


父に無理矢理グレートデンにまたがされ泣く。(筆者1973年)


現在の平塚合同庁舎


昭和30年代平塚七夕まつり(十周年と書いてある)


飯場の子 第1章 3話 「川崎時代(父独立創業)1966」

 

両親が結婚してまもなく、父は勤めていたミユキ組から独立することに腹を決めた。もともと人に従うことを好まない男なので必然であったのかもしれないが、一方の母が父の独立に一切反対をしなかった事は、さすが母らしいと思える。

 

土木建築の業界において、勤めていた会社から円満独立することを「子わかれ」ともいう。要するに巷でいうところの「のれん分け」のようなもので、土建屋では独立してもその働いていた会社の「傘下」に入り、下請や外注社員のような形で仕事をもらう仕組みができる。

 

その企業独自の技術を売りにしている製造業などの分野では、社員による独立は「技術が盗まれる」「競合他社が増える」という意味で敬遠されがちだが、僕たちの業界の場合、特化した技術よりも、職人を集めて仕事がこなせるかが勝負になるのだ。

 

つまり、自分たちが育てた社員が独立して新たな施工班をつくり傘下に入ってくれれば、自社には下請を担ってくれる仲間が増えるメリットがあり、また、独立したほうにもスタート当初から仕事を受けられるという利点が生まれるのだ。

時は経済成長真っ只中。仕事はいくらでもある。若き父親は昭和40年、ミユキ組から「子わかれ」を認めてもらい、個人事業主として新しいスタートを切ることになる

 

独立に際し、まず最初にやらなければならない事は「屋号決め」だ。

もともと郷土愛の強い父、出身地である山梨県の「甲斐の国」からとった「甲斐組」にするか、生まれた「豊和村」からとった「豊和建設」にするか悩んだらしい。

若き両親、相談する人もいなかったはず。二人して安アパートの部屋で考えたのだろう、その語呂の良さと名前の力強さから、現在の「甲斐組」と決めたそうな。まさに「甲斐組」の誕生の瞬間であった。

後談になるが、「かいぐみ」なだけに、「海の会社」に間違えられたり、社長の苗字なのかと聞かれたり、九州に「甲斐という氏姓が多いためか「甲斐組さんは九州の方ですか」と言われたりするのは、もはやあいさつ代わりである。

 

設立したての当時の甲斐組は、ミユキ組の資材置き場の一部を借り、バラックの事務所(詰所)とトラックを1台置かせてもらい拠点とした。無論、飯場も構えていなかったため、6,7人の若い日雇い従業員たちは皆「木賃宿」と呼ばれる簡易宿舎で寝起きしていた。部屋は小さく衛生面もいいとは言えない環境だったという。

 

そんな従業員の多くは山形県から来た若者だった。国の政策で東北4県(青森県、秋田県、山形県、岩手県)には、出稼ぎ優遇制度があったからだ。

東北には多くの農家があるが、収穫を終えて冬になると地元では仕事がなくなる。昔は農業以外の産業が現地にそれほどなかったため、各町村の役場にある出稼ぎを斡旋する課で登録・申し込みすると、大都市への出稼ぎを町役場が斡旋してくれたのだ。

 

国がこうした政策を優遇したり、地方の町役場が積極的に農家へ仕事を斡旋したりしたのには理由があった。

地方に住所をおいたまま一定期間出稼ぎに出ては戻って来る彼ら出稼ぎ労働者は、役場からしてみると「自分たちのところで生まれていないお金を税金として運んできてくれる存在」というわけだ。国もこういう制度によって、都心へ多くの労働力を送り込もうとしたのである。

 

こうして地方から多くの出稼ぎ労働者がやっては来れども、時は高度経済成長期。特に発展著しかった川崎には、土木建築における人手は全く足りなかった。

 

設立間もない甲斐組にも、例に違わず仕事がひっきりなしに舞い込み、昼間はミユキ組からの仕事、夜間は第二京浜国道の手間請け(元請が材料を支給し、下請は労務だけを請け負う方法)で道路舗装の仕事を請け負っていたらしい。とにかくがむしゃらに父は働いた、その頃、父のすぐ下の弟で、僕の叔父にあたる今村登(のぼる)も白井建設という中堅ゼネコンから呼び寄せ、二人でチカラを合わせて仕事にはげんだ。

 

そんな完全なる「売り手市場」だったことで、夜の道路舗装の仕事では、現場監督のもとへ仕事前のあいさつに行くと、口約束だけして逃げられないようにするために、その場で全工賃の半額を現金でボンと手渡ししてくる。これを「乗っ込み金(のっこみきん)」というのだが、確実に施工班を確保するための手段として当時はよく使われており、その金額は時に300万円にもなったという。当時の300万円は相当な金額。つまりはそのくらい人手の取り合いが行われていたのだ。

 

また、川崎時代で父から聞いた印象深い話もある。川崎には当時から、様々なバックグランドを持った人たちが集まっていたが、中でも大きなコミュニティを形成していたのが在日朝鮮の人たちだった。彼らの中にも土木建築に従事する人が多かったのだが、そこで父は甲斐組で仕事をしていた在日の若い衆より紹介をうけた在日朝鮮人の親方から接待を受けたことがあったという。

 

荒くれ者で知られていた同親方のもと訪れようも、迷路のような路地は独特の場。ようやくたどり着き、緊張した面持ちで親方の自宅に入っていったのだが、その緊張感とは裏腹に父はすごく歓迎されたという。

見たこともないお酒(自家製のドブロク)や食事をたんまり出され、呑んでくれ食ってくれと盛大に接待されたのだが、美味いうまいと食べていた煮込みの鍋の中から「豚の頭」がそのまま姿を現した時は、さすがの父親も心から面食らったとか。帰りは夜も更けた時間、いささか治安も良くない地域である。親方は若い衆に帰り道を付き添わせて大通りまで送ってくれたそうな。心温まるエピソードである。

 

しかし、そんな建設業界にも仕事の繁閑には波があり、閑散期は1か月仕事がないこともある。そんな時に父がやったのが、「貨物船の船底にある倉庫部分への運搬」だった。

沖仲仕に携わっていた義兄が紹介してくれた仕事だった。稼ぎはいいのだが、これがまあキツかったらしい。灼熱の船底で、地上から降りてくる穀物の袋を手荷役する仕事。それでも父と叔父は兄弟で文句も言わず必至に働いたという。

 

こうして昭和39年から個人事業としてやってきた甲斐組の川崎時代は若き父と叔父の兄弟と日雇いの従業員数名でとにかくがむしゃらに仕事をした。そして42年には長女(由紀)翌年には次女(敦美)が誕生した。姉二人はお産婆さんの介助で出産したらしい。子ももうけヤル気あふれる父だが、元来のトッポさゆえ稼いだ金も川崎競輪と競馬にも相当注ぎ込んだとか…

 

血気盛んな20代の両親と叔父、独立起業した川崎で土建業に生きる日々、まさに甲斐組の創成期である。そんな父に転機が訪れる事など誰もまだ知らないのである。



二人の姉とお正月。父の車の上で(中央筆者)1972年(平塚市撫子原)


昭和40年代 川崎競輪場