第2章 6話「商店街の人との交流」
1969年、道端でのある再会、中村組との運命の出会いを経て、住み慣れた川崎から着の身着のまま平塚の「虹ケ浜」という町に移り住んできた両親と2人の姉、そして実弟と数名の若い衆たち。
移住してすぐは色々と大変だったようだが、1章末でも紹介した通り、土建業には「組持ち制度」というものがあり、元請けの会社が下請の生活の面倒を見ることが多く、我々甲斐組も例に違わず、当初は中村組に寝る場所から食べるものまで全て面倒を見てもらった。
そのため、地元では何の信用もない新参者の僕たちでも割とスムーズに生活を移すことができたと思う。特にありがたかったのは「帳面買い」だ。
平成のあたりの飯場などには、毎食の献立の作成、各食材の提供から、まかない婦などの紹介手配までを受け持ってくれる食材屋なる業者が台頭し始めたが、昭和40~50年当時はそういう業者が存在していなかった。
そのため飯場を抱える組は、まかない婦の雇用から始まり、野菜は八百屋、肉なら肉屋、魚なら魚屋と、それぞれ直接商店から自分たちの足で仕入れないといけなかったのだが、大所帯をもつ土建屋にとってはその都度支払うのは煩わしく、現金も毎度必要になる。
こうした面倒をしないよう、元請けの中村組が地元の商店街に話を付けてくれ、買い物したものを月締めで支払えるようにしてくれたのだ。
そこは「西海岸商店街」という1.2kmほどにも連なる道沿いにできた商店街。
当時はもちろん、現在においても地域の人たちのマーケットになっていて、当時から八百屋から魚屋さん、洋品店さん、自転車屋さん、床屋さんまであらゆる生活必需品が揃えられる場所であった。
地域に我々のような土建屋の飯場が集まってくるのは、商店街の人たちからも歓迎された。無論、それは様々なお金をたくさん落としてくれるからだ。
特に大所帯の肉体労働者ともなれば、従業員は大食らい。食材もお酒もまとめて買ってくれる。商店からすると「ひいき」が起きるのである。
ちなみにその一方、近所に住んでいる人たちからは、土建屋はあまり歓迎されなかったと思う。
詳しくはまた後述するが、仕事を終えた従業員たちが飯場で酒を飲み、酔っ払ってはデカい声でケンカを始めることが多かったのだ。近所の住民にしてみれば、近寄りがたい場所だったと思う。
こうして1年、虹ケ浜での生活にも徐々になじみ、商店街の人たちとの交流を続けていたある日、父はその商店街のボス的存在であった「柏木酒店」のオヤジさんから、ある提案を持ちかけられた。
すぐ近くの「『撫子原』という住所に、ある程度まとまった土地があるんだが。そこに宿舎を構えたらどうだ」との声掛けであった。
そこは、虹ケ浜からクルマでたった5分足らずのところ。商店街からもさほど遠くない距離の場所である。
川崎から移り住み、ようやく住み慣れた虹ケ浜ではあるが、さすがにこのままずっとトタン屋根の借り宿舎にいつまでも済むわけにはいかない。
そう思った父は意を決し、200坪の土地を借り上げ、自前の事務所と従業員らが寝食する飯場、そしてダンプを停めるための駐車場を設置。親方である父親は、その飯場の前面道路を隔てた真向いの貸家に居を構えた。
それと同時に、事業も基盤に乗ってきたと父親は、四男の実弟である「今村千蔵(せんぞう)」を呼び寄せ甲斐組に迎え入れた。
そして満を持して平塚市撫子原169番地の1に「有限会社甲斐組」として法人登記を行い、個人事業から法人企業となり、晴れて代表取締役となったのだ。
こうして両親と一族は、ようやく平塚に落ち着いて腰を下ろすことになったのである。
さて、そこからしばらくした1971年5月ようやくこの世に誕生する人物がいる。そう僕、今村佳広である。
両親が授かった子どもは2人姉妹。待望の第3子長男が誕生したことで心底喜んだのは父である。
本人曰く、平塚のキャバレーで3日連チャンで祝い通したそうだ。
1日目は甲斐組の若い衆を大勢連れて行きどんちゃん騒ぎ。
2日目はお世話になっている商店街などの人たちを集めて大宴会。
そして3日目は仕事関係の人たちを招待して酒盛りをしたという。
まあ、いつものごとく父には話を盛る癖があるので、どこからどこまで本当かは分からないが、さすがに3連夜飲み続けた「4日目の父」がどんな状態だったか目に浮かぶ。
「佳広(よしひろ)」という名は、山梨県にある日蓮宗「妙学寺」という檀那寺の「古屋智妙上人」というご住職からいただいた。
御年99歳で亡くなったが、本物の法力を持つ僧侶様の元を父はことあるごとに訪れていたが、僕が誕生した時も「男の子がやっと生まれた」と、名前を付けてもらいに行ったという。
その時、古屋上人は、3つの名前が書かれた紙をそれぞれ小さい袋に入れ「1つ選べ」と父に言ったという。それで引き当てられた名前が、この「佳広」という名前というわけだ。
こうして甲斐組の跡継ぎとして生まれながらに期待されていた佳広少年は、ここ撫子原の飯場で、普通の家庭と少し違った環境で成長していくことになるのだ。
生後二日目の著者(1971年)
平塚市の歩行者天国(旧国道1号線)









