ポジティブ思考よっち社長 -8ページ目

ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

第2章 7話 「幼少期の遊び

 


 平塚市の「虹ケ浜から撫子原事務所移転を機に法人登記するなど、甲斐組メキメキとその力を発揮し中村組の舗装班として本格的に稼働していく。

 

この頃、別の建設会社で軌道(線路)工事をやっていた父の(四男)今村千蔵」が甲斐組に加わった


川崎から平塚に移る際に加わったすぐ下の(三男)、「今村 登に次ぐ兄弟の入社。繁忙期には父親の父(僕から見たら祖父も手伝ってくれるなど人を増やしたい時に一番先に力になってくれるのはやはり身内だ。

 

前回話した通り、僕はこの撫子原に本社移転されてから間もなく生まれた

3歳ぐらいから始まる僕の記憶として今でも鮮明に覚えているのが、当時自宅に聞こえる「朝の音」

 

自宅の目の前にある会社敷地には機材やダンプトラックなどが置いてあった。いつも朝になると飯場から10人ぐらいの作業員たちが出てきては、バタバタ現場へ行く段取りをするのだが、その際、向かいに住んでいた僕の家にもその音が一斉に聞こえ始めるのだ

 

ドッタンバッタン」という大きな作業音に交じって聞こえてくるのは、トラックのバックするあの「ピーピー」。その音と同じくらい、いやそれ以上周囲に響き渡るのは、「オーライオーライ、ストーップストーップ、おーい止めろー!!」といった叔父である専務から出される大

 

会社の回りには少なからず住宅があったが、自分のところが出した音でさえあーうるさいなぁ」と思うのだから、近所の人にはさぞ迷惑を掛けたことだろう。


それでも当時は高度経済成長期で、近所との距離も近かったため多少なりとも理解はあったが、今ではまず考えられない

 

そんな土建屋の敷地幼少期の男児にとって格好の遊び場となることは、誰の想像にも難くないだろう何せ走り回れる土地もあれば、おもちゃのダンプではなく「本物のダンプ」まであるのだから。

 

これまでに話してきた通り、僕には上に姉が2人おり、当時もよく遊んでもらっていたが、男の子は成長とともに遊び方がだんだんやんちゃになってくる。幼稚園の友達とももちろん遊んだ記憶はあるが、当時、僕遊び相手はもっぱら「いとこ」だった

 

前述した通り、当時の甲斐組には父の2人の弟も入社していた。三男で専務の今村登の長男浩之(ひろゆき)四男で常務になった今村千蔵の長男敦人あつひとにとっても甲斐組は「親の職場」である


浩之は自分の2つ下。敦人は1と、いこともあり、このヤンチャ三人組は、毎日のようにこの「親の仕事場」探検して回った。

 

土建屋の敷地内で遊ぶ以上、その環境をフルに使わない手はない。実際、敷地内には実に様々な「遊び道具」が転がっていた。

木材を見つけては適当に釘を打ち付け、飛びもしないのに「飛行機」だとはしゃぎまわったり、雑多に置かれた工事用具を利用しながら、昭和の時代の人ならば誰もが一度はやったことがあるであろう、「高鬼(高いところから別の高いところに移動する間に“鬼”に捕まったら負けという野外ゲーム)」なんかもよくした

 

中でも当時楽しかった遊びとして記憶に残っているのが「山崩しごっこ」だ。

土建屋がゆえに会社には資材として「砂の山」が盛られていることがよくあったのだが、子どもにとってそれもはや「宝の山」と変わらない。毎度そこに穴を掘ったりして遊んでいたのだが、一番楽しかったのがこの「山崩しごっこ」で、その砂山に水道のホースを突っ込み蛇口をひねっては、しばらくすると自然に内側から砂山が崩れていく現象を見のがとてつもなくワクワクするのだった。他愛もない遊びだったが、子どもにとってどうしてあんなに神秘的に見えるのだろうか


 

最終的には水浸しの砂は泥のようになり儚く流れ崩れてしまうのだが、言わずもがな、それは大人たちが仕事で使う大事な砂。当然、綺麗に乾くまで使えなくなる。ご想像通り、ものすごく怒られた。

 

もう1つ、この年の男児たちがやりたがるのが「度胸試し」である。

 

この度胸試しをするにも、当時の甲斐組は絶好の環境だった。

敷地内には超大型犬であるグレートデンがいた。大人でもたじろぐほど大きな犬だ。小さい子どもにとってはもはや怪獣である。当時、その犬にどこまで近寄れるかを3人で競い合った

 

もう1つスリリングだったのは、「屋根上り」だろう。

敷地内にあった事務所の建物は、犬小屋の先から屋根に上れるようになっていて、その犬小屋から物置、トイレ、もう1つの物置の上歩いて行くと一番高い駐車場の屋根行きつく

トタン張りのプラスチックのボードでできていたため、しっかりしたところを歩いて行かないと底が抜けるのだ。それこそ落ちたらケガどころではない、一瞬たりとも気が抜けないまさに度胸試しなのである

駐車場の屋根2階建て以上の高さはあったと思うが、そこで僕らを待っているのは、恐怖に打ち勝った達成感と、事務所の前の道路を見下ろした時の支配感だった。

 

そして、その駐車場の屋根上から西の空に沈む夕日と富士山の影の美しさを眺めながら、僕はいとこ二人に」、いつの日か親たちが作った甲斐組を引き継いでいこうと語りかけるのだった。

 

土建屋を親に持つ子どもというのは、こうした場所で遊びながらで成長していく。れは僕に限ったことではない。こうして幼少期に飯場で一緒にうんと遊んだ2人の探検仲間、浩之敦人」は今、甲斐組でかけがいの無い存在であり、共に会社を支えてくれている。



撫子原の本社事務所前(1976年)著者


父の自慢であった鯉のぼり

(風林火山と川中島の戦い)

近所では有名になり、写真を撮りにくる人もいた


平塚市周辺の昭和史より

2章 6話「商店街の人との交流」

 

 

1969年、道端でのある再会、中村組との運命の出会いを経て、住み慣れた川崎から着の身着のまま平塚の「虹ケ浜」という町に移り住んできた両親と2人の姉、そして実弟と数名の若い衆たち。


移住してすぐは色々と大変だったようだが、1章末でも紹介した通り、土建業には「組持ち制度」というものがあり、元請けの会社が下請の生活の面倒を見ることが多く、我々甲斐組も例に違わず、当初は中村組に寝る場所から食べるものまで全て面倒を見てもらった。

 

そのため、地元では何の信用もない新参者の僕たちでも割とスムーズに生活を移すことができたと思う。特にありがたかったのは「帳面買い」だ。


平成のあたりの飯場などには、毎食の献立の作成、各食材の提供から、まかない婦などの紹介手配までを受け持ってくれる食材屋なる業者が台頭し始めたが、昭和40~50年当時はそういう業者が存在していなかった。

 

そのため飯場を抱える組は、まかない婦の雇用から始まり、野菜は八百屋、肉なら肉屋、魚なら魚屋と、それぞれ直接商店から自分たちの足で仕入れないといけなかったのだが、大所帯をもつ土建屋にとってはその都度支払うのは煩わしく、現金も毎度必要になる。


こうした面倒をしないよう、元請けの中村組が地元の商店街に話を付けてくれ、買い物したものを月締めで支払えるようにしてくれたのだ。

 

そこは「西海岸商店街」という1.2kmほどにも連なる道沿いにできた商店街。


当時はもちろん、現在においても地域の人たちのマーケットになっていて、当時から八百屋から魚屋さん、洋品店さん、自転車屋さん、床屋さんまであらゆる生活必需品が揃えられる場所であった。

 

地域に我々のような土建屋の飯場が集まってくるのは、商店街の人たちからも歓迎された。無論、それは様々なお金をたくさん落としてくれるからだ。


特に大所帯の肉体労働者ともなれば、従業員は大食らい。食材もお酒もまとめて買ってくれる。商店からすると「ひいき」が起きるのである。

 

ちなみにその一方、近所に住んでいる人たちからは、土建屋はあまり歓迎されなかったと思う。


詳しくはまた後述するが、仕事を終えた従業員たちが飯場で酒を飲み、酔っ払ってはデカい声でケンカを始めることが多かったのだ。近所の住民にしてみれば、近寄りがたい場所だったと思う。


こうして1年、虹ケ浜での生活にも徐々になじみ、商店街の人たちとの交流を続けていたある日、父はその商店街のボス的存在であった「柏木酒店」のオヤジさんから、ある提案を持ちかけられた。


すぐ近くの「『撫子原』という住所に、ある程度まとまった土地があるんだが。そこに宿舎を構えたらどうだ」との声掛けであった。

 

そこは、虹ケ浜からクルマでたった5分足らずのところ。商店街からもさほど遠くない距離の場所である。


川崎から移り住み、ようやく住み慣れた虹ケ浜ではあるが、さすがにこのままずっとトタン屋根の借り宿舎にいつまでも済むわけにはいかない。

 

そう思った父は意を決し、200坪の土地を借り上げ、自前の事務所と従業員らが寝食する飯場、そしてダンプを停めるための駐車場を設置。親方である父親は、その飯場の前面道路を隔てた真向いの貸家に居を構えた。


それと同時に、事業も基盤に乗ってきたと父親は、四男の実弟である「今村千蔵(せんぞう)」を呼び寄せ甲斐組に迎え入れた。

 

そして満を持して平塚市撫子原169番地の1に「有限会社甲斐組」として法人登記を行い、個人事業から法人企業となり、晴れて代表取締役となったのだ。


こうして両親と一族は、ようやく平塚に落ち着いて腰を下ろすことになったのである。

 

さて、そこからしばらくした1971年5月ようやくこの世に誕生する人物がいる。そう僕、今村佳広である。

 

両親が授かった子どもは2人姉妹。待望の第3子長男が誕生したことで心底喜んだのは父である。


本人曰く、平塚のキャバレーで3日連チャンで祝い通したそうだ。

 

1日目は甲斐組の若い衆を大勢連れて行きどんちゃん騒ぎ。


2日目はお世話になっている商店街などの人たちを集めて大宴会。


そして3日目は仕事関係の人たちを招待して酒盛りをしたという。

 

まあ、いつものごとく父には話を盛る癖があるので、どこからどこまで本当かは分からないが、さすがに3連夜飲み続けた「4日目の父」がどんな状態だったか目に浮かぶ。

 

「佳広(よしひろ)」という名は、山梨県にある日蓮宗「妙学寺」という檀那寺の「古屋智妙上人」というご住職からいただいた。


御年99歳で亡くなったが、本物の法力を持つ僧侶様の元を父はことあるごとに訪れていたが、僕が誕生した時も「男の子がやっと生まれた」と、名前を付けてもらいに行ったという。


その時、古屋上人は、3つの名前が書かれた紙をそれぞれ小さい袋に入れ「1つ選べ」と父に言ったという。それで引き当てられた名前が、この「佳広」という名前というわけだ。


こうして甲斐組の跡継ぎとして生まれながらに期待されていた佳広少年は、ここ撫子原の飯場で、普通の家庭と少し違った環境で成長していくことになるのだ。



生後二日目の著者(1971年)



平塚市の歩行者天国(旧国道1号線)

 

第2章

エピソード5「平塚」という土地柄

 

 

両親が2人の娘と実弟、会社の従業員を引き連れてやってきた「平塚市」。当時の生活を詳しく語る前に、まずはここでこの町について紹介したい。

 

平塚市は、神奈川県の相模湾に面した中央地域に位置する人口25.7万人の都市だ。

同県には藤沢市、相模原市などといった大きな市があるが、実は平塚市が市制になったのはこれらより先で、神奈川県の中でも横浜市、横須賀市、川崎市、平塚市の順番でかなり早かった。

 

これほど同市が発展したのには、「工業の力」がある。

 

実は平塚には明治・大正・昭和にかけて「海軍火薬廠(かいぐんかやくしょう)」という、いわゆる爆弾工場があった。海軍の軍港である横須賀に近いことが、平塚が火薬工場の用地として選ばれた主な理由だとされているのだが、そんな元軍需工場としての土壌を活かし、戦後は車両・化学関係をはじめとする大手企業が次々と誘致されるようになったのだ。

現在、その約38万坪という広大な跡地には、日産車体や横浜ゴム平塚製造所を始めとして数々の大手企業の工場が軒並み建っており、その工業地帯が当時の爆弾工場の大きさを物語っている、またその中に9万坪もある平塚総合公園もヒト区画としてスッポリおさまっているのだ。海軍火薬廠の存在は今の時代からは想像もつかない規模である。それは過去の軍事国家という足跡を伝えてくれるエリアなのかもしれない。

 

戦後、こうしてたくさんの大型工場ができると、当然働く人たちも多く同市に住み移ってくる。住む人が増えれば、必然的に生活を支えるための商業施設も増加する。こうして同市は、一時期「買い物をするなら平塚」とまで言われるくらいまでに栄えた。

 

さらに同市には工場に勤務するブルーカラーが多かったことから、飲食店や飲み屋も一気に栄えるようになった。その多さは一時、人口当たりの飲み屋の割合が日本一になったほどだ。

 

しかし、その人口増加は25万人で頭打ちとなる。その理由の1つは、電車の駅の少なさだろう。市内の鉄道駅はJR東海道線平塚駅の1駅なのだ。平塚駅からは近隣の駅に向けて放射状にバス路線が伸びてはいるが、それでもやはり10万人以上の人口を持っている市町に駅が1つしかないのは、生活する上では発展性に乏しい。この交通インフラの開発においては、今でも行政が取り組む課題として上げられている。

 

しかし、電車網が乏しい一方で、「道路の整備」は県内でも早さ・質ともに進んでいた。大手企業の誘致、人口の増加、さらに公営ギャンブルである平塚競輪場の建設運営などによって税収の多かった同市は社会インフラに掛けられる費用が他市よりも多かったのだ。ゆえにわれらが土建屋も市内に必然的に増えていったのだろう。

もう1つ、戦時中に空襲を受けたことも道路発展の一因となる。

太平洋戦争で平塚市は、先に述べた海軍火薬廠がある事から、焼夷弾を落とされた数が八王子市の次に多く、昭和20年7月の大空襲では壊滅的打撃を受け、当時の中心市街地の約70%が焼け野原と化した。これにより、ほとんどいったん更地と化した平塚は、道路の線引きを最初からやり直すことになり、それを機に街を碁盤の目にしたのだ。

 

こうして敗戦からの復興によって急発展してきた同市であった、その復興を願って中心商店街の気概ある商人達の心意気で始まった復興祭りが、かの有名な「平塚七夕まつり」だ。

 

同市や神奈川県だけでなく、もはや日本有数の夏の祭りとして知られる「湘南ひらつか七夕まつり」は、東日本大震災以前の5日間開催時は、25万人の都市に約350万人、震災後の3日間開催になって以降も150万人を超える観光客がやって来るなど、「日本三大七夕まつり」として、仙台に次いで2番目に規模が大きいと目されている。戦後からとどまる事なく開催されてきた祭りだが、コロナ災害においてのみ、やむなく開催を見送る事になったのである。

 

ちなみに、三大七夕まつりの“3番目”の席を愛知県一宮市、安生市、千葉県茂原市、などの他都市が「うちが3番手だ」「いやうちだ」と名乗りを上げるようになり、その配慮からか最近では「日本三大七夕まつり」とは言われなくなっているらしい。

 

もちろん僕も小さい頃はドキドキしながら母の手を握り連れて行ってもらった。

人混みが大嫌いな父とはあまり一緒に行く機会はなかったのだが、珍しく連れて行ってもらった。人混みと喧騒の中で七夕飾りを眺めながら進んでいると、露店の明かりに飾られフェラーリの大型パネルに目が止まったのだ、時はスーパーカーブームの最中であり、かなり高価であったにも関わらず気前よく買ってくれた父親を自慢に思えて、非常に嬉しかったのを今でも覚えている。

 

僕が生まれ育ったそんな平塚の土地柄は、地方特有の「地元色」が強い印象がある。先ほど触れた通り、工業都市がゆえに市外から労働者が移り住んでくるのも多いからか、ブルーカラーに多く見られる荒っぽい気質が強い街をつくりだした。それは血の気の多い者たちの団結力を持つ土地柄を生み出したとも思う。しかし他市から移りすみ新たな商売を始める者には、しがらみが無いだけやりやすいというポジティブな面もあるが、簡単には「仲間」として認めない閉鎖的な部分があるのも事実だ。

 

僕の両親も違わず川崎から移ってきた時も最初はよそ者扱いを受けていたという。縁もゆかりもない地で味方がおらず、やはり苦労したらしい。ただ、父親をはじめとする一統は説明してきた通りの「イケイケ」だったので、その様なしがらみがなかったことが功を奏し、人目を憚らずガンガンと付き進むのである。

 


甲斐組の飯場で砂利の山(筆者1973年)


昭和30年代の平塚駅前

終戦の日に思う


今日で日米戦争の敗戦より77年を迎える。


今年の224日に信じられないニュースが世界を駆け巡った、ロシアによるウクライナ侵攻である。世界は平和では無いと常に考えている私も、ニュースで報道される映像を見るたびに信じられない事が起きたと実感している。そして今もなお、戦争は続いているのである。


かつて日本も大きな戦争を経験した。そして現在は国軍を持つ事も憲法で違憲とされている。


今年になって故石原慎太郎氏が国会の答弁で話していた事を思い出す。日米戦争が終わった後のニューヨークタイムズの社説の一文の説明であった。


その社説には挿し絵があり、大きなナマズのような怪物がひっくりかえり大きな口をあけていて、その口の中に米兵(GI)がゾロゾロと入っている。そして記事には「この醜き姿の化け物を我々は世界の平和のために、二度と生き返らないよう、徹底的に解体しなければならない」。とあったそうな。


今の日本の姿は大きなナマズの化け物では無いが、確かに徹底的に解体されたのかもしれない。アメリカが与えたものは「繁栄」であり、解体されたのは「魂」なのである。「魂」を解体するには教育とメディアをコントロールさえすれば難しくも無いとアメリカは証明した。


自虐史観を植え付けられた日本人は、現在でも民族の歴史に自信を持てない、またそれを口にする事もマイノリティと蔑視される。もしくは国家民族などに対して興味すら持てないのである。


祖国の「魂」を知らずして、何が民主主義なのだろうか。


この世界で起きている事実を常に真正面から捉え国民一人一人が危機感を持ち、「魂なき繁栄」から脱却しなければならない。


今こそ、自立した国家国民として毅然に教育、安全保障、災害に対応する自主憲法を制定し国民の命を守れる国にしていこうではないか。


今こそ決意の時と目覚めよ日本。


この終戦の日に思う。

かの時代に大義に生きて友愛に散華した御霊に祈りを捧げる事を忘れないように今を生きる我々も別の形ではあるものの国家の礎となり、子子孫孫の未来へ世界人類が本当の平和を迎える事が出来るように、自分自身が行動していく事を改めて誓う日とします。


令和四年八月十五日

今村佳広



飯場の子 4話

「人生の転機いざ平塚へ」1969

 

 

ミユキ組から独立して「甲斐組」が順調に動き始めた頃、突然、父の身に大きな転機となる出来事が起きる。ある人との「再会」だ。


 

ある日、いつものように現場作業を終えしまい支度をしていた父は、いきなり誰かに声を掛けられた。振り返るとそこに立っていたのは「ヤマさん」(仮称)という神奈川県土木部の職員だった。


 

ヤマさんは以前、神奈川県川崎土木事務所(川崎市は昭和47年に政令市になったので47年以前は県の土木事務所があった)からの仕事をしたときの担当者であった。それ以来、あまり会う機会はなかったのだが、その日たまたま父の姿を見つけて、声をかけてくれたのだ。


「おお今村じゃないか!久しぶりだな。今もミユキの仕事やっているのか?そういえば、オマエさん舗装が得意だったよな」

 

それに頷く父に、ヤマさんはこう続けた。

 

「実は、秦野市に『中村組』という結構デカい土木会社があるんだが、今、仕事を多く抱えているのにやり手がいなくて困っているらしいんだ。」



「いいか今村。これからは川崎のような『都会』よりもな『郡部』(いわゆる郊外)だ。神奈川県の西部はまだ未開拓状態。公共事業はこれから手をつけるんだ。もしオマエさんにやる気があるなら中村組を紹介してやるがどうだ?」


 

中村組は2002年に経営破綻してしまったが、当時は神奈川県の中でも指折りのゼネコンで、県西部においてはナンバーワンの会社だった。最盛期は年間200億円ほど売り上げを上げていた会社である。


 

ミユキ組から「子わかれ」して4年。時間とともに、経験と自信も一緒に積み上げてきた。若くチャレンジ精神のカタマリだった父が出した答えは、誰が考えても明らかだろう。


 

一方、先述した通り、昭和40年代の日本は経済成長の只中で、完全な売り手市場。元請による人材獲得競争は日々激しさを増していた。

それは中村組も例外ではなく、道端での再会後、ヤマさんから手渡されたメモの通り、小田急線に乗って中村組本社へ挨拶に行った。


平家作りの大きな事務所を前に緊張していた父だが中村組の扉をたたいた。


事務所にはいると建設会社らしい勢いと活気を感じたという。紹介者のヤマさんからすでに連絡が入っていたようで、工事部門の専務さんが出てきてくれ対応してくれた。


 丁寧に応接室に通され、挨拶もそこそこに矢継ぎ早に質問されたそうな。「何人くらい若い衆を集められるのか、また舗装工事の経験は?など」を確認すると、「ヨシ!今村社長、明日からでもウチに来てくれよ、飯場はウチで用意する」と、甲斐組を下請け企業にすることを即決してくれた。


 

中村組にしてみればまだ若い社長だが父のバイタリティを感じたのかもしれない。父も専務さんの即答に驚き「家族や兄弟とも相談したいので返事は早急にします」と専務さんに告げたのだが、手付けがわりか、そのまま秦野の料亭に連れて行かれ、昼間から大接待を受けたという。


 

帰りの電車の車窓に流れる夜景色を眺めながら父は中村組に行くことを決意する。


この時も母は生まれ育った川崎を出て、まだ幼き娘二人を連れて慣れない土地に行く事にも一切反対しなかったらしい。さすが土建屋の女房であると思う。


 

 そんな人生の転機ともなる大きな決断をした父だったが、この中村組との始まりは同時に、これまで世話になったミユキ組との別れを意味する。


社員時代から独立まで世話をしてくれた同社に、感謝してもしきれないほどの恩があったに違いない。これまでの感謝と礼をうんと伝え、任されていた仕事をすべてきれいに終わらせた。

 

こうして父は、母と幼き娘2人、若い衆数人、そして2台のダンプトラックとともに住み慣れた川崎を離れ、親戚も知り合いもいない土地へ引っ越す。が、その場所は中村組のある「秦野市」ではなく、隣街の「平塚市」だった。

 

当時の業界では、飯場は組(元請)が全部用意をしてくれることが多かった。これを「組持ち制度」という。そこからある程度拠点が固まり落ち着いたら、自分達で事務所や飯場を構えたりするのだが、最初に新天地へ乗り込んでくる際は、住む場所も生活に必要な物資も組(元請)が提供してくれるのだ。



例に違わず、父も中村組から飯場を提供してもらい、秦野に飯場を構えてもらう予定だったのだが、空き状況の都合上、市内で用意できなかったらしく、父たちは平塚市の海岸沿いである「虹ケ浜」という場所の掘っ立て小屋のようなプレハブに入ることになったのである。


 こうして縁もゆかりもない「平塚市」で甲斐組は新たなスタートを切ることになった。

 

 話は別になるが、実は中村組の社長も平塚に住んでいた。平塚から秦野までは、隣の市とはいえクルマで行かねばならないほどの距離。効率を考えれば当然、中村社長は秦野に住まいを構えた方がいいはずだが、社長はそれでも平塚から毎朝秦野にわざわざ通勤していたのだ。


その大きな理由は「県の合同庁舎」の存在だった。中村社長宅から中村組に行くまでの道中に、神奈川県の出先機関である平塚合庁があったのだ。


 平塚合庁には、平塚土木事務所が入っており、その県関連インフラ管轄は平塚市、伊勢原市、秦野市、大磯町、二宮町の3市2町。そのため、中村社長は時間さえあれば通勤途中に平塚土木事務所に立ち寄り、役人へ挨拶。「次はどの仕事が出るんだ」などの情報収集をしていた。これも重要な営業活動であり、自分のところが有利になるような情報を仕入れていったわけである。

 

 こうして父をはじめ、甲斐組の運命は「平塚」で大きく舵を切り始めるのだが、それまでの過程を今一度振り返ってみると、改めて「人の縁」を感じる。


たとえばあの日、父の仕事が終わる時間が5分ズレていたら、ヤマさんと道端で会うことはなく、平塚に住み移ることもなかっただろう。もっと言えば、今の甲斐組という形も変わっていたかもしれない。「今」というのは、やはり多くの人との出会いの積み重ねの上にある「縁」そのものなのだと思うのだ。

 

そしてその縁は、新天地「平塚」でも僕たちの運命を大いに変えていくのである。


父に無理矢理グレートデンにまたがされ泣く。(筆者1973年)


現在の平塚合同庁舎


昭和30年代平塚七夕まつり(十周年と書いてある)