第2章 7話 「幼少期の遊び」
平塚市の「虹ケ浜」から「撫子原」への事務所移転を機に法人登記するなど、甲斐組はメキメキとその力を発揮し、中村組の舗装班として本格的に稼働していく。
この頃、別の建設会社で軌道(線路)工事をやっていた父の弟(四男)、「今村千蔵」が甲斐組に加わった。
川崎から平塚に移る際に加わったすぐ下の弟(三男)、「今村 登」に次ぐ兄弟の入社。繁忙期には父親の父(僕から見たら祖父)も手伝ってくれるなど、人を増やしたい時に一番先に力になってくれるのは、やはり身内だ。
前回話した通り、僕はこの撫子原に本社が移転されてから間もなく生まれた。
3歳ぐらいから始まる僕の記憶として今でも鮮明に覚えているのが、当時自宅に聞こえる「朝の音」だ。
自宅の目の前にある会社敷地には機材やダンプトラックなどが置いてあった。いつも朝になると飯場から10人ぐらいの作業員たちが出てきては、バタバタと現場へ行く段取りをするのだが、その際、向かいに住んでいた僕の家にもその音が一斉に聞こえ始めるのだ。
「ドッタン、バッタン」という大きな作業音に交じって聞こえてくるのは、トラックのバックするあの「ピーピー」音。その音と同じくらい、いやそれ以上に周囲に響き渡るのは、「オーライオーライ、ストーップ…ストーップ、おーい止めろー!!」といった叔父である専務の腹底から出される大声だ。
会社の回りには少なからず住宅があったが、自分のところが出した音でさえ「あーうるさいなぁ」と思うのだから、近所の人にはさぞ迷惑を掛けたことだろう。
それでも当時は高度経済成長期で、近所との距離も近かったため多少なりとも理解はあったが、今ではまず考えられない。
そんな土建屋の敷地が幼少期の男児にとって格好の遊び場となることは、誰の想像にも難くないだろう。何せ走り回れる土地もあれば、おもちゃのダンプではなく「本物のダンプ」まであるのだから。
これまでに話してきた通り、僕には上に姉が2人おり、当時もよく遊んでもらっていたが、男の子は成長とともに遊び方がだんだん「やんちゃ」になってくる。幼稚園の友達とももちろん遊んだ記憶はあるが、当時、僕の遊び相手はもっぱら「いとこ」だった。
前述した通り、当時の甲斐組には父の2人の弟も入社していた。三男で専務の今村登の長男「浩之(ひろゆき)」、四男で常務になった今村千蔵の長男「敦人(あつひと)」にとっても甲斐組は「親の職場」である。
浩之は自分の2つ下。敦人は1つ上と、年が近いこともあり、このヤンチャ三人組は、毎日のようにこの「親の仕事場」を探検して回った。
土建屋の敷地内で遊ぶ以上、その環境をフルに使わない手はない。実際、敷地内には実に様々な「遊び道具」が転がっていた。
木材を見つけては適当に釘を打ち付け、飛びもしないのに「飛行機」だとはしゃぎまわったり、雑多に置かれた工事用具を利用しながら、昭和の時代の人ならば誰もが一度はやったことがあるであろう、「高鬼(高いところから別の高いところに移動する間に“鬼”に捕まったら負けという野外ゲーム)」なんかもよくした。
中でも当時楽しかった遊びとして記憶に残っているのが「山崩しごっこ」だ。
土建屋がゆえに会社には資材として「砂の山」が盛られていることがよくあったのだが、子どもにとってそれは、もはや「宝の山」と変わらない。毎度そこに穴を掘ったりして遊んでいたのだが、一番楽しかったのがこの「山崩しごっこ」で、その砂山に水道のホースを突っ込み蛇口をひねっては、しばらくすると自然に内側から砂山が崩れていく現象を見るのがとてつもなくワクワクするのだった。他愛もない遊びだったが、子どもにとってどうしてあんなに神秘的に見えるのだろうか。
最終的には水浸しの砂は泥のようになり儚く流れ崩れてしまうのだが、言わずもがな、それは大人たちが仕事で使う大事な砂。当然、綺麗に乾くまでは使えなくなる。ご想像通り、ものすごく怒られた。
もう1つ、この年の男児たちがやりたがるのが「度胸試し」である。
この度胸試しをするにも、当時の甲斐組は絶好の環境だった。
敷地内には超大型犬であるグレートデンがいた。大人でもたじろぐほど大きな犬だ。小さい子どもにとってはもはや怪獣である。当時、その犬にどこまで近寄れるかを3人で競い合った。
もう1つスリリングだったのは、「屋根上り」だろう。
敷地内にあった事務所の建物は、犬小屋の先から屋根に上れるようになっていて、その犬小屋から物置、トイレ、もう1つの物置の上を歩いて行くと、一番高い駐車場の屋根に行きつく。
トタン張りのプラスチックのボードでできていたため、しっかりしたところを歩いて行かないと底が抜けるのだ。それこそ落ちたらケガどころではない、一瞬たりとも気が抜けないまさに度胸試しなのである。
駐車場の屋根は2階建て以上の高さはあったと思うが、そこで僕らを待っているのは、恐怖に打ち勝った達成感と、事務所の前の道路を見下ろした時の支配感だった。
そして、その駐車場の屋根上から西の空に沈む夕日と富士山の影の美しさを眺めながら、僕は「いとこ二人に」、いつの日か「親たちが作った甲斐組を引き継いでいこう」と語りかけるのだった。
土建屋を親に持つ子どもというのは、こうした場所で遊びながらで成長していく。それは僕に限ったことではない。こうして幼少期に飯場で一緒にうんと遊んだ2人の探検仲間、「浩之と敦人」は今、甲斐組でかけがいの無い存在であり、共に会社を支えてくれている。
撫子原の本社事務所前(1976年)著者
父の自慢であった鯉のぼり
(風林火山と川中島の戦い)
近所では有名になり、写真を撮りにくる人もいた
平塚市周辺の昭和史より










