飯場の子 第2章 8話 中村組の舗装部隊「甲斐組」
中村組の傘下に入った甲斐組は、徐々に軌道に乗り始めると「舗装部隊」として大型工事を任されるまでに成長していった。多くの現場の工事を担当したが、その中でも特筆すべきなのが、海沿い国道134号線の道路拡張の打ち換え舗装工事だ。
134号線は国道ではあるが「準級国道」のため神奈川県の管轄。それを中村組の下請けとして甲斐組が施工部隊として送り込まれたのだ。
現在でもそうだが、昼間に交通量が多い既設道路の工事は、通常夜間に行われる。そのため甲斐組の構内では、夕方17~18時くらいになると従業員10人くらいがバタバタと準備を始める。
アスファルトフィニッシャーやマカダムローラー、タイヤローラーなど、舗装工事に必要な重機は中村組から提供を受けていたため、甲斐組からは、毎度荷物や砂を積んだダンプ4~5台が現場へ出動していくのだ。
現地に着くと、まずは「工事帯」をつくるところから始まる。つまり「道路規制」だ。
規制が可能になる20時になると(ちなみに現在は21時)、現場を仕切る父親の「ぅおおいクルマ止めろぉー!!」の叫び声を皮切りに、現場は「戦場」と化すのだ。
現場従業員がカラーコーンを5本くらい担ぎ上げ、それをバカバカと等間隔に置き始める。現在は長い距離での規制はできないが、1970年代当時は100メートル以上の規制も当然のように行われており、その突然始まる「界隈の大騒ぎ」に、通行人や周囲のドライバーも一斉に振り返るほどだったという。
父は現場で「アジャストマン」という舗装技術の中でも超重要な役割を担っていた。アジャストマンの卓越した「技」によって道路が平らになるか凸凹になるかという非常に重要な責任を担っていたのだ。
そのためか、父は現場に対するこだわりが半端じゃなかった。現場で気合いの入っていない従業員には容赦なく怒号を飛ばし、仕上がりが気に入らない現場は、イチからやり直すこともあったという。
さすがに時間に制限のある既設道路では難しかったようだが、田畑の中に新設道路をつくる時などは「気に入らない仕上がりはやり直し」を度々やらかしたらしい。
こうして綺麗に舗装された道路に父親は満足するのだが、一方、やり直しにかかった廃材やアスファルト合材などの材料費や重機経費は元請の中村組の負担。情熱をもっていい仕事をしようとする舗装部隊としてのプロのこだわりと、元請け中村組の工事の出来栄えに対する評価も高くなることもあり、監督さんも渋々とやり直しを認めてはいたのだろうが、恐らく中村組としては「甲斐組の社長はどうしようもねえな」と呆れていたに違いない。
そんな現場の仕事に欠かせないのは、もちろんこうした「技術」や「職人気質」なのだが、それと同じくらい必要になるのが「安全対策」だ。
読者も見かけるであろう夜間工事には定番である現場作業用の専用照明ライトが現場にはセットされているが、1970年代当時はそういった便利な「移動式照明」なるモノがなかった。特に134号線の工事は夜間で交通量も多い。仕事が進まないどころか、視界が悪いと作業員たちに危険が及ぶ可能性もある。
そこで父は、取引先の電気工事屋の「丘電機」の原澤社長と相談し、仮設街灯のような「照明設備」を考案。仮設ポールを路肩に10メーター間隔で立て、作業帯や足元を投光器ライトで明るく照らすことで、仕事の効率化と安全性を保ったのだ。この保安対策は大いに県の役人さんからも評価されたそうである。
ちなみにその株式会社丘電機は、例の商店街にある電気工事会社だ。
今でもその2代目の今井社長とは交流がある。会社同士だと50年の付き合い。地元の繋がりはやはり強い。
さらに父親はしっかり「商売人」でもあった。
100メートルの舗装打ち換え工事、平面交差の道路でやったら、6メートルの幅員だと600平米になるのだが、うちの父親は、元請けの監督の計画を差し置き、「いや200メートルやってしまいましょう」と、計画以上の仕事をしようとしていたらしい。
1日当たりの工事量を増やせば増やすほど稼げるからだ。今の頑固な父親を見ても、当時のイケイケドンどんぶりは想像に難くない。
このように、1日にどれだけの出来高を増やしてペースを上げられるか。品質や安全を確保しながらどこまで出来高を増やせるのか、全体を見据え統括する部分においては、うちの父親はすごいものがあった。
そんな父親が、5,6歳の子どもにはすでに格好よく見えていたんだろう。当時の僕は、現場の重機に乗せてとよくせがんでいた。
特に国道134号線の工事現場は自宅から歩いて10分もかからない場所にあったため、夜間に工事があると、母親に現場に連れて行ってもらっていた。
将来跡を継ぐ息子が乗りたいと言えば、あの父親が「邪魔だ」と帰らすワケがない。「おーヨッチくん(僕のニックネームである)は二代目だもんな、来い来い」と喜びながら全くサイズの合わないヘルメットを僕の頭にかぶせ、アスファルトフィニッシャーに乗せてくれたのは今でも鮮明に記憶に刻まれている。
当然、オペレーターさんの膝にまたがり、握らされたハンドルでは重機は操作できないのだが、気分はもはや一丁前の「ガテン系」である。
そんな、夜間の公共工事に参加する小さな子どもを見た中村組の監督や現場の従業員、そして通りすがりの通行人やクルマの運転手までもが、指差しながら大爆笑するのだ。
そんな皆の笑顔を見るのが、僕はたまらなく好きだった。
中村組の林道舗装工事の現場にて(昭和48年著者)
昭和40年代の舗装現場

