飯場の子 第1章 3話 「川崎時代(父独立創業)1966」
両親が結婚してまもなく、父は勤めていたミユキ組から独立することに腹を決めた。もともと人に従うことを好まない男なので必然であったのかもしれないが、一方の母が父の独立に一切反対をしなかった事は、さすが母らしいと思える。
土木建築の業界において、勤めていた会社から円満独立することを「子わかれ」ともいう。要するに巷でいうところの「のれん分け」のようなもので、土建屋では独立してもその働いていた会社の「傘下」に入り、下請や外注社員のような形で仕事をもらう仕組みができる。
その企業独自の技術を売りにしている製造業などの分野では、社員による独立は「技術が盗まれる」「競合他社が増える」という意味で敬遠されがちだが、僕たちの業界の場合、特化した技術よりも、職人を集めて仕事がこなせるかが勝負になるのだ。
つまり、自分たちが育てた社員が独立して新たな施工班をつくり傘下に入ってくれれば、自社には下請を担ってくれる仲間が増えるメリットがあり、また、独立したほうにもスタート当初から仕事を受けられるという利点が生まれるのだ。
時は経済成長真っ只中。仕事はいくらでもある。若き父親は昭和40年、ミユキ組から「子わかれ」を認めてもらい、個人事業主として新しいスタートを切ることになる。
独立に際し、まず最初にやらなければならない事は「屋号決め」だ。
もともと郷土愛の強い父、出身地である山梨県の「甲斐の国」からとった「甲斐組」にするか、生まれた「豊和村」からとった「豊和建設」にするか悩んだらしい。
若き両親、相談する人もいなかったはず。二人して安アパートの部屋で考えたのだろう、その語呂の良さと名前の力強さから、現在の「甲斐組」と決めたそうな。まさに「甲斐組」の誕生の瞬間であった。
後談になるが、「かいぐみ」なだけに、「海の会社」に間違えられたり、社長の苗字なのかと聞かれたり、九州には「甲斐」という氏姓が多いためか「甲斐組さんは九州の方ですか」と言われたりするのは、もはやあいさつ代わりである。
設立したての当時の甲斐組は、ミユキ組の資材置き場の一部を借り、バラックの事務所(詰所)とトラックを1台置かせてもらい拠点とした。無論、飯場も構えていなかったため、6,7人の若い日雇い従業員たちは皆「木賃宿」と呼ばれる簡易宿舎で寝起きしていた。部屋は小さく衛生面もいいとは言えない環境だったという。
そんな従業員の多くは山形県から来た若者だった。国の政策で東北4県(青森県、秋田県、山形県、岩手県)には、出稼ぎ優遇制度があったからだ。
東北には多くの農家があるが、収穫を終えて冬になると地元では仕事がなくなる。昔は農業以外の産業が現地にそれほどなかったため、各町村の役場にある出稼ぎを斡旋する課で登録・申し込みすると、大都市への出稼ぎを町役場が斡旋してくれたのだ。
国がこうした政策を優遇したり、地方の町役場が積極的に農家へ仕事を斡旋したりしたのには理由があった。
地方に住所をおいたまま一定期間出稼ぎに出ては戻って来る彼ら出稼ぎ労働者は、役場からしてみると「自分たちのところで生まれていないお金を税金として運んできてくれる存在」というわけだ。国もこういう制度によって、都心へ多くの労働力を送り込もうとしたのである。
こうして地方から多くの出稼ぎ労働者がやっては来れども、時は高度経済成長期。特に発展著しかった川崎には、土木建築における人手は全く足りなかった。
設立間もない甲斐組にも、例に違わず仕事がひっきりなしに舞い込み、昼間はミユキ組からの仕事、夜間は第二京浜国道の手間請け(元請が材料を支給し、下請は労務だけを請け負う方法)で道路舗装の仕事を請け負っていたらしい。とにかくがむしゃらに父は働いた、その頃、父のすぐ下の弟で、僕の叔父にあたる今村登(のぼる)も白井建設という中堅ゼネコンから呼び寄せ、二人でチカラを合わせて仕事にはげんだ。
そんな完全なる「売り手市場」だったことで、夜の道路舗装の仕事では、現場監督のもとへ仕事前のあいさつに行くと、口約束だけして逃げられないようにするために、その場で全工賃の半額を現金でボンと手渡ししてくる。これを「乗っ込み金(のっこみきん)」というのだが、確実に施工班を確保するための手段として当時はよく使われており、その金額は時に300万円にもなったという。当時の300万円は相当な金額。つまりはそのくらい人手の取り合いが行われていたのだ。
また、川崎時代で父から聞いた印象深い話もある。川崎には当時から、様々なバックグランドを持った人たちが集まっていたが、中でも大きなコミュニティを形成していたのが在日朝鮮の人たちだった。彼らの中にも土木建築に従事する人が多かったのだが、そこで父は甲斐組で仕事をしていた在日の若い衆より紹介をうけた在日朝鮮人の親方から接待を受けたことがあったという。
荒くれ者で知られていた同親方のもと訪れようも、迷路のような路地は独特の場。ようやくたどり着き、緊張した面持ちで親方の自宅に入っていったのだが、その緊張感とは裏腹に父はすごく歓迎されたという。
見たこともないお酒(自家製のドブロク)や食事をたんまり出され、呑んでくれ食ってくれと盛大に接待されたのだが、美味いうまいと食べていた煮込みの鍋の中から「豚の頭」がそのまま姿を現した時は、さすがの父親も心から面食らったとか。帰りは夜も更けた時間、いささか治安も良くない地域である。親方は若い衆に帰り道を付き添わせて大通りまで送ってくれたそうな。心温まるエピソードである。
しかし、そんな建設業界にも仕事の繁閑には波があり、閑散期は1か月仕事がないこともある。そんな時に父がやったのが、「貨物船の船底にある倉庫部分への運搬」だった。
沖仲仕に携わっていた義兄が紹介してくれた仕事だった。稼ぎはいいのだが、これがまあキツかったらしい。灼熱の船底で、地上から降りてくる穀物の袋を手荷役する仕事。それでも父と叔父は兄弟で文句も言わず必至に働いたという。
こうして昭和39年から個人事業としてやってきた甲斐組の川崎時代は若き父と叔父の兄弟と日雇いの従業員数名でとにかくがむしゃらに仕事をした。そして42年には長女(由紀)翌年には次女(敦美)が誕生した。姉二人はお産婆さんの介助で出産したらしい。子ももうけヤル気あふれる父だが、元来のトッポさゆえ稼いだ金も川崎競輪と競馬にも相当注ぎ込んだとか…
血気盛んな20代の両親と叔父、独立起業した川崎で土建業に生きる日々、まさに甲斐組の創成期である。そんな父に転機が訪れる事など誰もまだ知らないのである。
二人の姉とお正月。父の車の上で(中央筆者)1972年(平塚市撫子原)
昭和40年代 川崎競輪場






