ポジティブ思考よっち社長 -9ページ目

ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

飯場の子 4話

「人生の転機いざ平塚へ」1969

 

 

ミユキ組から独立して「甲斐組」が順調に動き始めた頃、突然、父の身に大きな転機となる出来事が起きる。ある人との「再会」だ。


 

ある日、いつものように現場作業を終えしまい支度をしていた父は、いきなり誰かに声を掛けられた。振り返るとそこに立っていたのは「ヤマさん」(仮称)という神奈川県土木部の職員だった。


 

ヤマさんは以前、神奈川県川崎土木事務所(川崎市は昭和47年に政令市になったので47年以前は県の土木事務所があった)からの仕事をしたときの担当者であった。それ以来、あまり会う機会はなかったのだが、その日たまたま父の姿を見つけて、声をかけてくれたのだ。


「おお今村じゃないか!久しぶりだな。今もミユキの仕事やっているのか?そういえば、オマエさん舗装が得意だったよな」

 

それに頷く父に、ヤマさんはこう続けた。

 

「実は、秦野市に『中村組』という結構デカい土木会社があるんだが、今、仕事を多く抱えているのにやり手がいなくて困っているらしいんだ。」



「いいか今村。これからは川崎のような『都会』よりもな『郡部』(いわゆる郊外)だ。神奈川県の西部はまだ未開拓状態。公共事業はこれから手をつけるんだ。もしオマエさんにやる気があるなら中村組を紹介してやるがどうだ?」


 

中村組は2002年に経営破綻してしまったが、当時は神奈川県の中でも指折りのゼネコンで、県西部においてはナンバーワンの会社だった。最盛期は年間200億円ほど売り上げを上げていた会社である。


 

ミユキ組から「子わかれ」して4年。時間とともに、経験と自信も一緒に積み上げてきた。若くチャレンジ精神のカタマリだった父が出した答えは、誰が考えても明らかだろう。


 

一方、先述した通り、昭和40年代の日本は経済成長の只中で、完全な売り手市場。元請による人材獲得競争は日々激しさを増していた。

それは中村組も例外ではなく、道端での再会後、ヤマさんから手渡されたメモの通り、小田急線に乗って中村組本社へ挨拶に行った。


平家作りの大きな事務所を前に緊張していた父だが中村組の扉をたたいた。


事務所にはいると建設会社らしい勢いと活気を感じたという。紹介者のヤマさんからすでに連絡が入っていたようで、工事部門の専務さんが出てきてくれ対応してくれた。


 丁寧に応接室に通され、挨拶もそこそこに矢継ぎ早に質問されたそうな。「何人くらい若い衆を集められるのか、また舗装工事の経験は?など」を確認すると、「ヨシ!今村社長、明日からでもウチに来てくれよ、飯場はウチで用意する」と、甲斐組を下請け企業にすることを即決してくれた。


 

中村組にしてみればまだ若い社長だが父のバイタリティを感じたのかもしれない。父も専務さんの即答に驚き「家族や兄弟とも相談したいので返事は早急にします」と専務さんに告げたのだが、手付けがわりか、そのまま秦野の料亭に連れて行かれ、昼間から大接待を受けたという。


 

帰りの電車の車窓に流れる夜景色を眺めながら父は中村組に行くことを決意する。


この時も母は生まれ育った川崎を出て、まだ幼き娘二人を連れて慣れない土地に行く事にも一切反対しなかったらしい。さすが土建屋の女房であると思う。


 

 そんな人生の転機ともなる大きな決断をした父だったが、この中村組との始まりは同時に、これまで世話になったミユキ組との別れを意味する。


社員時代から独立まで世話をしてくれた同社に、感謝してもしきれないほどの恩があったに違いない。これまでの感謝と礼をうんと伝え、任されていた仕事をすべてきれいに終わらせた。

 

こうして父は、母と幼き娘2人、若い衆数人、そして2台のダンプトラックとともに住み慣れた川崎を離れ、親戚も知り合いもいない土地へ引っ越す。が、その場所は中村組のある「秦野市」ではなく、隣街の「平塚市」だった。

 

当時の業界では、飯場は組(元請)が全部用意をしてくれることが多かった。これを「組持ち制度」という。そこからある程度拠点が固まり落ち着いたら、自分達で事務所や飯場を構えたりするのだが、最初に新天地へ乗り込んでくる際は、住む場所も生活に必要な物資も組(元請)が提供してくれるのだ。



例に違わず、父も中村組から飯場を提供してもらい、秦野に飯場を構えてもらう予定だったのだが、空き状況の都合上、市内で用意できなかったらしく、父たちは平塚市の海岸沿いである「虹ケ浜」という場所の掘っ立て小屋のようなプレハブに入ることになったのである。


 こうして縁もゆかりもない「平塚市」で甲斐組は新たなスタートを切ることになった。

 

 話は別になるが、実は中村組の社長も平塚に住んでいた。平塚から秦野までは、隣の市とはいえクルマで行かねばならないほどの距離。効率を考えれば当然、中村社長は秦野に住まいを構えた方がいいはずだが、社長はそれでも平塚から毎朝秦野にわざわざ通勤していたのだ。


その大きな理由は「県の合同庁舎」の存在だった。中村社長宅から中村組に行くまでの道中に、神奈川県の出先機関である平塚合庁があったのだ。


 平塚合庁には、平塚土木事務所が入っており、その県関連インフラ管轄は平塚市、伊勢原市、秦野市、大磯町、二宮町の3市2町。そのため、中村社長は時間さえあれば通勤途中に平塚土木事務所に立ち寄り、役人へ挨拶。「次はどの仕事が出るんだ」などの情報収集をしていた。これも重要な営業活動であり、自分のところが有利になるような情報を仕入れていったわけである。

 

 こうして父をはじめ、甲斐組の運命は「平塚」で大きく舵を切り始めるのだが、それまでの過程を今一度振り返ってみると、改めて「人の縁」を感じる。


たとえばあの日、父の仕事が終わる時間が5分ズレていたら、ヤマさんと道端で会うことはなく、平塚に住み移ることもなかっただろう。もっと言えば、今の甲斐組という形も変わっていたかもしれない。「今」というのは、やはり多くの人との出会いの積み重ねの上にある「縁」そのものなのだと思うのだ。

 

そしてその縁は、新天地「平塚」でも僕たちの運命を大いに変えていくのである。


父に無理矢理グレートデンにまたがされ泣く。(筆者1973年)


現在の平塚合同庁舎


昭和30年代平塚七夕まつり(十周年と書いてある)


飯場の子 第1章 3話 「川崎時代(父独立創業)1966」

 

両親が結婚してまもなく、父は勤めていたミユキ組から独立することに腹を決めた。もともと人に従うことを好まない男なので必然であったのかもしれないが、一方の母が父の独立に一切反対をしなかった事は、さすが母らしいと思える。

 

土木建築の業界において、勤めていた会社から円満独立することを「子わかれ」ともいう。要するに巷でいうところの「のれん分け」のようなもので、土建屋では独立してもその働いていた会社の「傘下」に入り、下請や外注社員のような形で仕事をもらう仕組みができる。

 

その企業独自の技術を売りにしている製造業などの分野では、社員による独立は「技術が盗まれる」「競合他社が増える」という意味で敬遠されがちだが、僕たちの業界の場合、特化した技術よりも、職人を集めて仕事がこなせるかが勝負になるのだ。

 

つまり、自分たちが育てた社員が独立して新たな施工班をつくり傘下に入ってくれれば、自社には下請を担ってくれる仲間が増えるメリットがあり、また、独立したほうにもスタート当初から仕事を受けられるという利点が生まれるのだ。

時は経済成長真っ只中。仕事はいくらでもある。若き父親は昭和40年、ミユキ組から「子わかれ」を認めてもらい、個人事業主として新しいスタートを切ることになる

 

独立に際し、まず最初にやらなければならない事は「屋号決め」だ。

もともと郷土愛の強い父、出身地である山梨県の「甲斐の国」からとった「甲斐組」にするか、生まれた「豊和村」からとった「豊和建設」にするか悩んだらしい。

若き両親、相談する人もいなかったはず。二人して安アパートの部屋で考えたのだろう、その語呂の良さと名前の力強さから、現在の「甲斐組」と決めたそうな。まさに「甲斐組」の誕生の瞬間であった。

後談になるが、「かいぐみ」なだけに、「海の会社」に間違えられたり、社長の苗字なのかと聞かれたり、九州に「甲斐という氏姓が多いためか「甲斐組さんは九州の方ですか」と言われたりするのは、もはやあいさつ代わりである。

 

設立したての当時の甲斐組は、ミユキ組の資材置き場の一部を借り、バラックの事務所(詰所)とトラックを1台置かせてもらい拠点とした。無論、飯場も構えていなかったため、6,7人の若い日雇い従業員たちは皆「木賃宿」と呼ばれる簡易宿舎で寝起きしていた。部屋は小さく衛生面もいいとは言えない環境だったという。

 

そんな従業員の多くは山形県から来た若者だった。国の政策で東北4県(青森県、秋田県、山形県、岩手県)には、出稼ぎ優遇制度があったからだ。

東北には多くの農家があるが、収穫を終えて冬になると地元では仕事がなくなる。昔は農業以外の産業が現地にそれほどなかったため、各町村の役場にある出稼ぎを斡旋する課で登録・申し込みすると、大都市への出稼ぎを町役場が斡旋してくれたのだ。

 

国がこうした政策を優遇したり、地方の町役場が積極的に農家へ仕事を斡旋したりしたのには理由があった。

地方に住所をおいたまま一定期間出稼ぎに出ては戻って来る彼ら出稼ぎ労働者は、役場からしてみると「自分たちのところで生まれていないお金を税金として運んできてくれる存在」というわけだ。国もこういう制度によって、都心へ多くの労働力を送り込もうとしたのである。

 

こうして地方から多くの出稼ぎ労働者がやっては来れども、時は高度経済成長期。特に発展著しかった川崎には、土木建築における人手は全く足りなかった。

 

設立間もない甲斐組にも、例に違わず仕事がひっきりなしに舞い込み、昼間はミユキ組からの仕事、夜間は第二京浜国道の手間請け(元請が材料を支給し、下請は労務だけを請け負う方法)で道路舗装の仕事を請け負っていたらしい。とにかくがむしゃらに父は働いた、その頃、父のすぐ下の弟で、僕の叔父にあたる今村登(のぼる)も白井建設という中堅ゼネコンから呼び寄せ、二人でチカラを合わせて仕事にはげんだ。

 

そんな完全なる「売り手市場」だったことで、夜の道路舗装の仕事では、現場監督のもとへ仕事前のあいさつに行くと、口約束だけして逃げられないようにするために、その場で全工賃の半額を現金でボンと手渡ししてくる。これを「乗っ込み金(のっこみきん)」というのだが、確実に施工班を確保するための手段として当時はよく使われており、その金額は時に300万円にもなったという。当時の300万円は相当な金額。つまりはそのくらい人手の取り合いが行われていたのだ。

 

また、川崎時代で父から聞いた印象深い話もある。川崎には当時から、様々なバックグランドを持った人たちが集まっていたが、中でも大きなコミュニティを形成していたのが在日朝鮮の人たちだった。彼らの中にも土木建築に従事する人が多かったのだが、そこで父は甲斐組で仕事をしていた在日の若い衆より紹介をうけた在日朝鮮人の親方から接待を受けたことがあったという。

 

荒くれ者で知られていた同親方のもと訪れようも、迷路のような路地は独特の場。ようやくたどり着き、緊張した面持ちで親方の自宅に入っていったのだが、その緊張感とは裏腹に父はすごく歓迎されたという。

見たこともないお酒(自家製のドブロク)や食事をたんまり出され、呑んでくれ食ってくれと盛大に接待されたのだが、美味いうまいと食べていた煮込みの鍋の中から「豚の頭」がそのまま姿を現した時は、さすがの父親も心から面食らったとか。帰りは夜も更けた時間、いささか治安も良くない地域である。親方は若い衆に帰り道を付き添わせて大通りまで送ってくれたそうな。心温まるエピソードである。

 

しかし、そんな建設業界にも仕事の繁閑には波があり、閑散期は1か月仕事がないこともある。そんな時に父がやったのが、「貨物船の船底にある倉庫部分への運搬」だった。

沖仲仕に携わっていた義兄が紹介してくれた仕事だった。稼ぎはいいのだが、これがまあキツかったらしい。灼熱の船底で、地上から降りてくる穀物の袋を手荷役する仕事。それでも父と叔父は兄弟で文句も言わず必至に働いたという。

 

こうして昭和39年から個人事業としてやってきた甲斐組の川崎時代は若き父と叔父の兄弟と日雇いの従業員数名でとにかくがむしゃらに仕事をした。そして42年には長女(由紀)翌年には次女(敦美)が誕生した。姉二人はお産婆さんの介助で出産したらしい。子ももうけヤル気あふれる父だが、元来のトッポさゆえ稼いだ金も川崎競輪と競馬にも相当注ぎ込んだとか…

 

血気盛んな20代の両親と叔父、独立起業した川崎で土建業に生きる日々、まさに甲斐組の創成期である。そんな父に転機が訪れる事など誰もまだ知らないのである。



二人の姉とお正月。父の車の上で(中央筆者)1972年(平塚市撫子原)


昭和40年代 川崎競輪場

第1章 飯場の子として生まれて 

2話「父のこと、母のこと」

 

先ほども述べた通り、甲斐組は父親が作った会社だ。ここからはまず僕の両親のこと、そして甲斐組が誕生した経緯を紹介していきたい。

 

父、今村善美(いまむらよしみ)は昭和14年6月13日、5人きょうだいの次男として、山梨県西八代郡という小さな田舎で生まれた。

 

僕の祖父、友安(ともやす)は婿養子で、非常に温厚な人だった。国鉄の職員として働いていたのだが、明治生まれでは当時珍しく高身長で、170センチ半ばほどあった。この長身と偏平足がゆえに、太平洋戦争では「戦地では動きが鈍くなるうえに見つかりやすくなる」とのことから、戦地には出ることがなかったという。

一方、祖母、好子(よしこ)のほうは四人姉妹の長女で、気が強かった。相当おっかなかったらしく、ヤンチャだった思春期の父に立ち向かっていったのは、祖父ではなく祖母だったらしい。

 

祖母の気質を受け継いだのか、父は実に気が強く、ヤンチャに育った。

高校入学と同時にボクシングジムに通い、悪いヤツらとつるみ、通っていた高校をケンカで1年のうちに退学になる。その後別の私立高校に再入学。結局1年を2回やったとのこと。

 

この2校目の高校を無事卒業(……したと父本人は言うのだが、僕はその卒業証書を一度も見たことがない)。もともと不良学生の割には頭が悪くない父は、これからの時代は土建業こそ稼げる業界になると睨みシンコウ道路という中堅の道路会社に就職元来仕事人間な男なので真面目に仕事に打ち込んだらしい、シンコウ道路時代は関東県内の建設省の新設国道工事を多数経験し道路工事の基礎技術を学んだ、その後に同郷の山梨県の知人の紹介で、川崎市にある「ミユキ組」に入社したのは、父が23歳ぐらいのころだった。

 

ミユキ組は、今はもうなくなってしまったが、当時は川崎で最大手の土木建築会社だった。そこで父は道路工事の経験から土木部門に所属することになり、大先輩たちのもとで土木の知識や技術をさらに学んでいった。

 

一方の母、尚 克子(たかしかつこ)は、昭和13年7月16日生まれ。父より1つ上で、2010年、72歳の時にガンでこの世を去った。

母は9人きょうだいの次女として川崎市で生まれ育ったが、祖父も祖母も元々は奄美大島出身。昭和時代、本土から離れていた沖縄や奄美大島には仕事がなく、仕事を求める多くの労働者たちが日本でも有数の工業地帯である川崎に集まったのだが、祖父もそのひとりで、祖母と、すでに誕生していた息子二人を連れて昭和9年に川崎に移り住んだのだ。だからと言っては何だが僕は奄美大島三世ということになる。

 

様々なバックグラウンドを持った人たちが集まっていたのに加え、戦後で混乱していたこともあり、当時の川崎には闇市などが多かった。祖父も例に違わず『男はつらいよ』の寅さんのように「露天商(テキ屋)」をしていたという。

しかしそんな祖父が41歳、まだ母が8歳の時に亡くなると、一家はそこから貧乏生活を強いられることになる。

母を含め、きょうだいたちは片親の子たちが通うカトリック系の「星美学園」という学校に通った。アメリカが戦後に戦災孤児のために支援していた学校らしい。

 

母は中学を卒業すると、夜間学校に通いながら「日本食塩(現JTの子会社」に事務員として勤めたのだが、この昼間の仕事と掛け持つかたちで、夜は「オスカー」というキャバレーで働くようになった。ここが、父と母が出会った場所だ。

当時のキャバレーの客層は当然荒っぽく、やくざ稼業やブルーカラーの職人系の人が多く、土建業の監督だった父もそこに仲間を連れてよくやってきていたのだ。

 

明るく天真爛漫な母を気に入った父は、母を初デートに誘う。が、父曰く、その初デート当日、母は大遅刻したのだそうだ。

言わずもがな、当時は携帯のない時代。日時を合わせて待ち合せたのにもかかわらず、待てど暮らせど全くやってこない母に、気の短さでいえば筋金入りの父が2時間待たされた、という。が、先述通り母は亡くなっており、もはや「欠席裁判」でしかない、恐らく2時間は話をかなり盛っているだろうというのが息子である僕の見立てだ。

母を待つ間、父は何度何度も帰ろうと思ったのだそうだが、これが運命なのだろう、そんな父が母をなぜか待ったのだ。待ち合わせに大遅刻するも、大きな声で「イマムラサーン!」と手を振って笑顔で母は現れたそうな、そんな母を父は少し複雑な笑顔で迎えたのだろうと思う。

 

一方の母は、父の作った土木の設計図面を見た時、「この人は仕事ができる」と直感的に思ったそうだ。

確かに父は、ヤンチャでどうしようもない人なのだが、字も絵もうまく、図面が驚くほどきれいで、そこらへんのセンスは見るものたちを驚かせた。母もそういう才能に惹かれていったのだろう。

 

母は川崎生まれのため「都会っ子」である一方、父は山梨県の田舎育ち。飲みのデートのたび、行きつけの店でバーテンの「ゴローちゃん」に「いつものやつ作ってあげて」なんてカッコつける母に、父は「トッポイ女だな」と感じていたみたいだ。ただ、そのくらいの女性のほうが自分には合うだろうと、母への愛情を深めていったという。

 

こうして交際を続け、二人は晴れて結ばれることになる。

そうなると父がやらねばならないのが、母の家族への挨拶だ。

が、当時、母の面倒を見ていた鳶職の義兄(郁秀いくひで)も例に違わず「ヤンチャ」で、父が兄にあいさつに行ったら、刺青がびっちり入った義兄が一連の話を聴くと、日本刀をスラリと差し向け、「お前、うちの妹を粗末に扱ったら命とるぞ」と脅されたという。しかし、何度も言うように父も「ヤンチャ」。母の家族にはすぐに気に入られ、昭和39年7月31日、父が25歳、母が26歳の時に無事結婚し所帯を持つことになる。

 

ちなみにこれも欠席裁判なのだが、父いわく、母は勝手に川崎の区役所に婚姻届を出してしまったという。事後報告だったと。しかし大袈裟好きの父のこと、本当のところはいつも定かではないのだ。



川崎のグランドキャバレーオスカー(昭和33年)



ドラム缶に乗せられて(著者)

 この国を憂い、真剣に考え行動してきた大いなる指導者も、一撃の凶弾に倒れる。そして犯行者には大義もなければ信条もない、一人の身勝手な行動がこの国の行先に影響を与えてしまった。

まさにこの出来事から国民が感じ考え、何かを得るものに導かなければならない。それが生命を掛けて、政治家として生ききった、安倍先生の何よりの足跡になるのではなかろうか。

いまはただ鎮魂。

そして必ずや、自立国家を目指す新たなる指導者が現れる事を信じます。

令和四年七月八日
今村佳広




飯場の子

1章 飯場の子と生まれて 

エピソード1



「土建屋とは」

 

 

土建屋とは、いわゆる「土木・建築」に関連する事業を請け負う会社の俗称だ。

分かりやすく言えば、鳶や大工、鉄筋屋、左官屋などの職人衆がそれに当たり、トンネル、ダム、道路、また建築物などを造ることを生業にしている。

 

今は「材工請負」で、材料・工事を両方とも受けるように変わっていったが、当時の土建屋は、どちらかというと材工請負ではなく、手間請けをやることが多く、「役所や企業から仕事を請けた大きい会社の下請」要は職人衆を集めるというのが地元の土建屋の役割だった。土建屋の他の呼び方で「請負師や名義人」とも呼ばれたと聞いている。

 

僕の父親が土建屋を始めたのは1960年代の高度経済成長真っ只中。エネルギー革命や炭鉱閉鎖などで石炭がなくなっていき、建設会社の許可業者数が急増していた時期だ。1990年ぐらいまでの間は許可業者数がどんどん増え、全国で50万社ぐらいあったと思う。

 

この経済成長が意味するところは要するに、右肩上がりで成長していった建設業界は、「雇用の受け皿」でもあったということだ。炭鉱の現場からも労働者が移り、建設業就労人口のピークは1997年で685万人。全人口の5.7%以上、全産業人口の十数%にもなる、国の基幹産業だった。

 

土建屋は多くの職人さんを抱え、地元の労働者や労働力をいわば「確保」している場所というようなところだった。

言っちゃなんだが、作業員には荒くれ者が多かった。いわゆる危険な力仕事だから当然腕っぷしや度胸がなければできない、となれば必然的に頭を使う仕事よりもスコップやつるはしで日々地面と戦う重労働を得意とするタフガイの集団なのだ。

 

当時、土建業の社会的な地位は低かったと思う。なぜなら働く人々が、それこそ事件を起こしかねない者も多くいたし、犯罪経験者も少なくない、その様な者たちが飯場という宿舎で共同生活をしているもんだから近所の住民が「白い目」で見るのも当然である。

土木業の屋号は○○組(うちは甲斐組)や○○土建であったり(今でも変わらないが)どちらかというと建築業を主体としているのは○○工務店(大工業)や○○建設という屋号であった。専門職である鳶工なども○○組が多かった気がする。

 

特に土木作業員は「土方」との呼称もありそれは職業差別的用語にもなっている。しかし戦後の荒廃されてしまった国土を再整備してより良い住環境を取り戻すことも国民の求めるところで、時の政府も国土建設には並々ならぬ努力をしていたのだろう。そのような時代には建設労働者の確保と育成は大きな役目を果たしていたのだ。よく昔食べていく事に困ったら「日雇いの土方をしてでも食っていける」みたいな言葉も僕が子どものころ記憶にあるフレーズだ。しかしそこで働く荒くれどもはやはり個性も強く、一か所で長く働く者も少なく転々と住み込みで素性も問われずに働ける土建屋を渡り歩くもの多かった。そして犯罪系のニュースが報道されると「犯人は一見土木作業員風の男」みたいなニュースが多かったのは事実だ。それゆえに社会的立場は低くても仕方ないとも思う。ニュースでの呼称は変化したが今でも似通った報道がされると胸が痛むものだ。

 

しかし土建屋の社会的役割は決して低くはなかった、建設業でない人々から見れば東京タワーも首都高も青函トンネルも東京ドームも大手ゼネコンが建設したと認識しているはず、それは間違ってはいないが現場の最先端で仕事をしているのは職人集団である土建屋の労働者たちであった。彼らの決死の努力がなければすべての建造物は完成していない。そして危険な現場で命を落とすものも数多くいたのである・・・

昨今の異常気象による災害時も最先端で危険に顧みず復旧作業に向かうのは土建屋の労働者なのだ。

 

そんな国土再整備の時代、全国で土建屋が増えていき各地域で必ずは飯場なるものがあったはずなのだ。昭和生まれの読者の皆さんなら一度は目にしたこともあると思う。

 

僕は現在、父親から預かりし甲斐組の社長をさせてもらっている。人様には「地元密着の建設会社でございます」と紹介しているが、いまだに鉛筆よりスコップが得意なタフガイの集団であることは間違いなく、それを誇りに思っている。

そしてなによりも僕は土建屋という呼称のほうが断然好きなのである。