飯場の子 4話
「人生の転機いざ平塚へ」1969年
ミユキ組から独立して「甲斐組」が順調に動き始めた頃、突然、父の身に大きな転機となる出来事が起きる。ある人との「再会」だ。
ある日、いつものように現場作業を終えしまい支度をしていた父は、いきなり誰かに声を掛けられた。振り返るとそこに立っていたのは「ヤマさん」(仮称)という神奈川県土木部の職員だった。
ヤマさんは以前、神奈川県川崎土木事務所(川崎市は昭和47年に政令市になったので47年以前は県の土木事務所があった)からの仕事をしたときの担当者であった。それ以来、あまり会う機会はなかったのだが、その日たまたま父の姿を見つけて、声をかけてくれたのだ。
「おお今村じゃないか!久しぶりだな。今もミユキの仕事やっているのか?そういえば、オマエさん舗装が得意だったよな」
それに頷く父に、ヤマさんはこう続けた。
「実は、秦野市に『中村組』という結構デカい土木会社があるんだが、今、仕事を多く抱えているのにやり手がいなくて困っているらしいんだ。」
「いいか今村。これからは川崎のような『都会』よりもな『郡部』(いわゆる郊外)だ。神奈川県の西部はまだ未開拓状態。公共事業はこれから手をつけるんだ。もしオマエさんにやる気があるなら中村組を紹介してやるがどうだ?」
中村組は2002年に経営破綻してしまったが、当時は神奈川県の中でも指折りのゼネコンで、県西部においてはナンバーワンの会社だった。最盛期は年間200億円ほど売り上げを上げていた会社である。
ミユキ組から「子わかれ」して4年。時間とともに、経験と自信も一緒に積み上げてきた。若くチャレンジ精神のカタマリだった父が出した答えは、誰が考えても明らかだろう。
一方、先述した通り、昭和40年代の日本は経済成長の只中で、完全な売り手市場。元請による人材獲得競争は日々激しさを増していた。
それは中村組も例外ではなく、道端での再会後、ヤマさんから手渡されたメモの通り、小田急線に乗って中村組本社へ挨拶に行った。
平家作りの大きな事務所を前に緊張していた父だが中村組の扉をたたいた。
事務所にはいると建設会社らしい勢いと活気を感じたという。紹介者のヤマさんからすでに連絡が入っていたようで、工事部門の専務さんが出てきてくれ対応してくれた。
丁寧に応接室に通され、挨拶もそこそこに矢継ぎ早に質問されたそうな。「何人くらい若い衆を集められるのか、また舗装工事の経験は?など」を確認すると、「ヨシ!今村社長、明日からでもウチに来てくれよ、飯場はウチで用意する」と、甲斐組を下請け企業にすることを即決してくれた。
中村組にしてみればまだ若い社長だが父のバイタリティを感じたのかもしれない。父も専務さんの即答に驚き「家族や兄弟とも相談したいので返事は早急にします」と専務さんに告げたのだが、手付けがわりか、そのまま秦野の料亭に連れて行かれ、昼間から大接待を受けたという。
帰りの電車の車窓に流れる夜景色を眺めながら父は中村組に行くことを決意する。
この時も母は生まれ育った川崎を出て、まだ幼き娘二人を連れて慣れない土地に行く事にも一切反対しなかったらしい。さすが土建屋の女房であると思う。
そんな人生の転機ともなる大きな決断をした父だったが、この中村組との始まりは同時に、これまで世話になったミユキ組との別れを意味する。
社員時代から独立まで世話をしてくれた同社に、感謝してもしきれないほどの恩があったに違いない。これまでの感謝と礼をうんと伝え、任されていた仕事をすべてきれいに終わらせた。
こうして父は、母と幼き娘2人、若い衆数人、そして2台のダンプトラックとともに住み慣れた川崎を離れ、親戚も知り合いもいない土地へ引っ越す。が、その場所は中村組のある「秦野市」ではなく、隣街の「平塚市」だった。
当時の業界では、飯場は組(元請)が全部用意をしてくれることが多かった。これを「組持ち制度」という。そこからある程度拠点が固まり落ち着いたら、自分達で事務所や飯場を構えたりするのだが、最初に新天地へ乗り込んでくる際は、住む場所も生活に必要な物資も組(元請)が提供してくれるのだ。
例に違わず、父も中村組から飯場を提供してもらい、秦野に飯場を構えてもらう予定だったのだが、空き状況の都合上、市内で用意できなかったらしく、父たちは平塚市の海岸沿いである「虹ケ浜」という場所の掘っ立て小屋のようなプレハブに入ることになったのである。
こうして縁もゆかりもない「平塚市」で甲斐組は新たなスタートを切ることになった。
話は別になるが、実は中村組の社長も平塚に住んでいた。平塚から秦野までは、隣の市とはいえクルマで行かねばならないほどの距離。効率を考えれば当然、中村社長は秦野に住まいを構えた方がいいはずだが、社長はそれでも平塚から毎朝秦野にわざわざ通勤していたのだ。
その大きな理由は「県の合同庁舎」の存在だった。中村社長宅から中村組に行くまでの道中に、神奈川県の出先機関である平塚合庁があったのだ。
平塚合庁には、平塚土木事務所が入っており、その県関連インフラ管轄は平塚市、伊勢原市、秦野市、大磯町、二宮町の3市2町。そのため、中村社長は時間さえあれば通勤途中に平塚土木事務所に立ち寄り、役人へ挨拶。「次はどの仕事が出るんだ」などの情報収集をしていた。これも重要な営業活動であり、自分のところが有利になるような情報を仕入れていったわけである。
こうして父をはじめ、甲斐組の運命は「平塚」で大きく舵を切り始めるのだが、それまでの過程を今一度振り返ってみると、改めて「人の縁」を感じる。
たとえばあの日、父の仕事が終わる時間が5分ズレていたら、ヤマさんと道端で会うことはなく、平塚に住み移ることもなかっただろう。もっと言えば、今の甲斐組という形も変わっていたかもしれない。「今」というのは、やはり多くの人との出会いの積み重ねの上にある「縁」そのものなのだと思うのだ。
そしてその縁は、新天地「平塚」でも僕たちの運命を大いに変えていくのである。
父に無理矢理グレートデンにまたがされ泣く。(筆者1973年)
現在の平塚合同庁舎
昭和30年代平塚七夕まつり(十周年と書いてある)








