第1章 飯場の子として生まれて
2話「父のこと、母のこと」
先ほども述べた通り、甲斐組は父親が作った会社だ。ここからはまず僕の両親のこと、そして甲斐組が誕生した経緯を紹介していきたい。
父、今村善美(いまむらよしみ)は昭和14年6月13日、5人きょうだいの次男として、山梨県西八代郡という小さな田舎で生まれた。
僕の祖父、友安(ともやす)は婿養子で、非常に温厚な人だった。国鉄の職員として働いていたのだが、明治生まれでは当時珍しく高身長で、170センチ半ばほどあった。この長身と偏平足がゆえに、太平洋戦争では「戦地では動きが鈍くなるうえに見つかりやすくなる」とのことから、戦地には出ることがなかったという。
一方、祖母、好子(よしこ)のほうは四人姉妹の長女で、気が強かった。相当おっかなかったらしく、ヤンチャだった思春期の父に立ち向かっていったのは、祖父ではなく祖母だったらしい。
祖母の気質を受け継いだのか、父は実に気が強く、ヤンチャに育った。
高校入学と同時にボクシングジムに通い、悪いヤツらとつるみ、通っていた高校をケンカで1年のうちに退学になる。その後別の私立高校に再入学。結局1年を2回やったとのこと。
この2校目の高校を無事卒業(……したと父本人は言うのだが、僕はその卒業証書を一度も見たことがない)。もともと不良学生の割には頭が悪くない父は、これからの時代は土建業こそ稼げる業界になると睨み、シンコウ道路という中堅の道路会社に就職をした、元来仕事人間な男なので真面目に仕事に打ち込んだらしい、シンコウ道路時代は関東県内の建設省の新設国道工事を多数経験し道路工事の基礎技術を学んだ、その後に同郷の山梨県の知人の紹介で、川崎市にある「ミユキ組」に入社したのは、父が23歳ぐらいのころだった。
ミユキ組は、今はもうなくなってしまったが、当時は川崎で最大手の土木建築会社だった。そこで父は道路工事の経験から土木部門に所属することになり、大先輩たちのもとで土木の知識や技術をさらに学んでいった。
一方の母、尚 克子(たかしかつこ)は、昭和13年7月16日生まれ。父より1つ上で、2010年、72歳の時にガンでこの世を去った。
母は9人きょうだいの次女として川崎市で生まれ育ったが、祖父も祖母も元々は奄美大島出身。昭和時代、本土から離れていた沖縄や奄美大島には仕事がなく、仕事を求める多くの労働者たちが日本でも有数の工業地帯である川崎に集まったのだが、祖父もそのひとりで、祖母と、すでに誕生していた息子二人を連れて昭和9年に川崎に移り住んだのだ。だからと言っては何だが僕は奄美大島三世ということになる。
様々なバックグラウンドを持った人たちが集まっていたのに加え、戦後で混乱していたこともあり、当時の川崎には闇市などが多かった。祖父も例に違わず『男はつらいよ』の寅さんのように「露天商(テキ屋)」をしていたという。
しかしそんな祖父が41歳、まだ母が8歳の時に亡くなると、一家はそこから貧乏生活を強いられることになる。
母を含め、きょうだいたちは片親の子たちが通うカトリック系の「星美学園」という学校に通った。アメリカが戦後に戦災孤児のために支援していた学校らしい。
母は中学を卒業すると、夜間学校に通いながら「日本食塩(現JTの子会社)」に事務員として勤めたのだが、この昼間の仕事と掛け持つかたちで、夜は「オスカー」というキャバレーで働くようになった。ここが、父と母が出会った場所だ。
当時のキャバレーの客層は当然荒っぽく、やくざ稼業やブルーカラーの職人系の人が多く、土建業の監督だった父もそこに仲間を連れてよくやってきていたのだ。
明るく天真爛漫な母を気に入った父は、母を初デートに誘う。が、父曰く、その初デート当日、母は大遅刻したのだそうだ。
言わずもがな、当時は携帯のない時代。日時を合わせて待ち合せたのにもかかわらず、待てど暮らせど全くやってこない母に、気の短さでいえば筋金入りの父が2時間待たされた、という。が、先述通り母は亡くなっており、もはや「欠席裁判」でしかない、恐らく2時間は話をかなり盛っているだろうというのが息子である僕の見立てだ。
母を待つ間、父は何度も何度も帰ろうと思ったのだそうだが、これが運命なのだろう、そんな父が母をなぜか待ったのだ。待ち合わせに大遅刻?するも、大きな声で「イマムラサーン!」と手を振って笑顔で母は現れたそうな、そんな母を父は少し複雑な笑顔で迎えたのだろうと思う。
一方の母は、父の作った土木の設計図面を見た時、「この人は仕事ができる」と直感的に思ったそうだ。
確かに父は、ヤンチャでどうしようもない人なのだが、字も絵もうまく、図面が驚くほどきれいで、そこらへんのセンスは見るものたちを驚かせた。母もそういう才能に惹かれていったのだろう。
母は川崎生まれのため「都会っ子」である一方、父は山梨県の田舎育ち。飲みのデートのたび、行きつけの店でバーテンの「ゴローちゃん」に「いつものやつ作ってあげて」なんてカッコつける母に、父は「トッポイ女だな」と感じていたみたいだ。ただ、そのくらいの女性のほうが自分には合うだろうと、母への愛情を深めていったという。
こうして交際を続け、二人は晴れて結ばれることになる。
そうなると父がやらねばならないのが、母の家族への挨拶だ。
が、当時、母の面倒を見ていた鳶職の義兄(郁秀いくひで)も例に違わず「ヤンチャ」で、父が兄にあいさつに行ったら、刺青がびっちり入った義兄が一連の話を聴くと、日本刀をスラリと差し向け、「お前、うちの妹を粗末に扱ったら命とるぞ」と脅されたという。しかし、何度も言うように父も「ヤンチャ」。母の家族にはすぐに気に入られ、昭和39年7月31日、父が25歳、母が26歳の時に無事結婚し所帯を持つことになる。
ちなみにこれも「欠席裁判」なのだが、父いわく、母は勝手に川崎の区役所に婚姻届を出してしまったという。事後報告だったとか。しかし大袈裟好きの父のこと、本当のところはいつも定かではないのだ。
川崎のグランドキャバレーオスカー(昭和33年)
ドラム缶に乗せられて(著者)
















