飯場の子 第3章 9話 「ドバシのおばちゃん」
ブルーカラーの現場には、実に様々な人間ドラマが交差する。色んな事情を抱えてやって来る人も少なくないせいか、従業員たちの出入りが激しいのも特徴の1つだ。
甲斐組にも例に違わず、多種多様の人が集まり、そして去って行った。それがゆえに僕の周りには、生まれた時から「家族以外の大人」が常に身近にいた。
彼らが集う会社の飯場は、小さな子どもにとって近寄りがたい場所であり、そしてその反面、刺激的でもある。
夕飯後、皿洗いのために時折飯場に入る母親の後ろにくっついて行くと、仕事が終わり一杯やりながら談笑している若い衆たちが「おう2代目」「なんだ一杯やるか」なんてからかってくる。相手にしてくれて嬉しいものの、やっぱり少し恥ずかしく、怖かった。
しかし、そんな大人たちの中に、ただ1人恐怖を感じさせない人がいた。それが「ドバシのおばちゃん」だ。
誰かの奥さんとかではなく、飯場の「まかない担当」として働いていた女性だったのだが、なぜか彼女にだけは母親の後ろに隠れずとも堂々と会いに行けた。恐怖や恥じらいどころか、癒しすら感じていたのだ。
あの時代の飯場の食堂は、言っちゃなんだがどこも今ほど衛生的ではなかった。うちのそれもご多分に漏れず、エアコンもない時代であり床は打ちっぱなしのコンクリートであった。夏でもなぜか床はひんやりしていた、これは水で掃除をしやすくするために機能的だったのだろう。
天井からはハエ取り紙がぶら下がっており、床の隙間にはネズミ捕りなんかもあった、大きなガスの五徳コンロが2つあり大型の鍋とフライパンなどが置いてある、炊飯器はこれもガス式で大型のものが2台あった。
1970年代にしてはかなり大きめの冷蔵庫が置いてあったため、比較的作業はしやすかったのではないだろうか。
ドバシのおばちゃんは、そこで寝泊まりしている従業員10人分くらいのご飯を1人でつくっていた。
現場は朝が早い、その前にご飯を炊き始めるのだ、まかないさんはいったい何時に起きていたのか、相当早くから起きて仕事をしていたのだろう。
朝ごはんはオーソドックスに白ご飯、納豆、味噌汁、生卵、漬物など。昼飯はジュラルミン箱2段の弁当を用意してある、1箱はおかず、もうひと箱はご飯と漬物が入っていた。現場の従業員はその弁当箱を新聞紙にくるんで各々バッグや袋に入れて現場に持って行くのだ。夕食はご飯に味噌汁、そしてテーブルに数種類のおかずを並べ、若い衆がそれを自分で取って行くスタイルだった。
毎日3食。待っているのは体力勝負の男性土木作業員である。言わずもがな、食欲旺盛な人たちばかり。ある程度の調理環境が整っていたとはいえ、きっと大変だっただろう。笑い事ではないが、ひと月でお米何キロ使っていたのだろうと想像もできないものである。
幼かった当時の僕は、そんな彼女の忙しさもお構いなしに、しょっちゅう飯場に顔を出しに行っては、相手にしてもらっていた。
毎日幼稚園が終わると、自宅ではなく真っ先に会社の事務所に行き、電話番と事務をしている母親に「ただいま」の報告をしたあと、すぐに向かっていたのは、やはり飯場の食堂にいるドバシのおばちゃんのところだった。
お腹がすいていたら、「おむすび作って」とせがんだりもした。すると文句1つ言うことなく、ドバシのおばちゃんはサッと小さな皿に塩結びを作って出してくれたのだが、これが本当に美味しかった。
食堂にあるパイプ椅子にちょこんと座り、そのおむすびを頬張りながら、その日に幼稚園であったこと、自分の友人のことなど、一方的に話す幼き少年の話をうなずきながら聞いてもらっていた。ひとしきりに話をし、お腹も心もいっぱいになると、満足して遊びに行ってしまう気分屋に、彼女はいつもただ黙ってつき合ってくれた。
本当に不思議なのだが年少期、数いた歴代の食堂のまかないさんの中でドバシのおばちゃん以外の記憶が全くない。いや、なぜかドバシのおばちゃんの記憶だけは鮮明に残っていると言うべきなのかもしれない。
とはいえ、顔は全く覚えていない。僕が4~5歳くらいから、しばらく働いていたと思うが、白いかっぽう着を着ていたこと以外は、正直どんな姿だったか、何歳くらいだったかも含めてほとんど思い出せない。
恐らく小学校に入るくらいの時にいなくなってしまっていたドバシのおばちゃん。
それでもこうして長い年月が経っても彼女のことを忘れられないのは、もしかすると荒々しい飯場や土建業と向き合っている暮らしの中で、ひんやりと静かな昼間の食堂の空間とあの「塩のおむすび」の美味さが、子どもながらに安らぎの場所であったと心の深い場所に残っているのかもしれない。
平塚海岸にて(箱根駅伝中継場前あたり)著者1976年頃
飯場が出てくるマンガ










