第2章
エピソード5「平塚」という土地柄
両親が2人の娘と実弟、会社の従業員を引き連れてやってきた「平塚市」。当時の生活を詳しく語る前に、まずはここでこの町について紹介したい。
平塚市は、神奈川県の相模湾に面した中央地域に位置する人口25.7万人の都市だ。
同県には藤沢市、相模原市などといった大きな市があるが、実は平塚市が市制になったのはこれらより先で、神奈川県の中でも横浜市、横須賀市、川崎市、平塚市の順番でかなり早かった。
これほど同市が発展したのには、「工業の力」がある。
実は平塚には明治・大正・昭和にかけて「海軍火薬廠(かいぐんかやくしょう)」という、いわゆる爆弾工場があった。海軍の軍港である横須賀に近いことが、平塚が火薬工場の用地として選ばれた主な理由だとされているのだが、そんな元軍需工場としての土壌を活かし、戦後は車両・化学関係をはじめとする大手企業が次々と誘致されるようになったのだ。
現在、その約38万坪という広大な跡地には、日産車体や横浜ゴム平塚製造所を始めとして数々の大手企業の工場が軒並み建っており、その工業地帯が当時の爆弾工場の大きさを物語っている、またその中に9万坪もある平塚総合公園もヒト区画としてスッポリおさまっているのだ。海軍火薬廠の存在は今の時代からは想像もつかない規模である。それは過去の軍事国家という足跡を伝えてくれるエリアなのかもしれない。
戦後、こうしてたくさんの大型工場ができると、当然働く人たちも多く同市に住み移ってくる。住む人が増えれば、必然的に生活を支えるための商業施設も増加する。こうして同市は、一時期「買い物をするなら平塚」とまで言われるくらいまでに栄えた。
さらに同市には工場に勤務するブルーカラーが多かったことから、飲食店や飲み屋も一気に栄えるようになった。その多さは一時、人口当たりの飲み屋の割合が日本一になったほどだ。
しかし、その人口増加は25万人で頭打ちとなる。その理由の1つは、電車の駅の少なさだろう。市内の鉄道駅はJR東海道線平塚駅の1駅なのだ。平塚駅からは近隣の駅に向けて放射状にバス路線が伸びてはいるが、それでもやはり10万人以上の人口を持っている市町に駅が1つしかないのは、生活する上では発展性に乏しい。この交通インフラの開発においては、今でも行政が取り組む課題として上げられている。
しかし、電車網が乏しい一方で、「道路の整備」は県内でも早さ・質ともに進んでいた。大手企業の誘致、人口の増加、さらに公営ギャンブルである平塚競輪場の建設運営などによって税収の多かった同市は社会インフラに掛けられる費用が他市よりも多かったのだ。ゆえにわれらが土建屋も市内に必然的に増えていったのだろう。
もう1つ、戦時中に空襲を受けたことも道路発展の一因となる。
太平洋戦争で平塚市は、先に述べた海軍火薬廠がある事から、焼夷弾を落とされた数が八王子市の次に多く、昭和20年7月の大空襲では壊滅的打撃を受け、当時の中心市街地の約70%が焼け野原と化した。これにより、ほとんどいったん更地と化した平塚は、道路の線引きを最初からやり直すことになり、それを機に街を碁盤の目にしたのだ。
こうして敗戦からの復興によって急発展してきた同市であった、その復興を願って中心商店街の気概ある商人達の心意気で始まった復興祭りが、かの有名な「平塚七夕まつり」だ。
同市や神奈川県だけでなく、もはや日本有数の夏の祭りとして知られる「湘南ひらつか七夕まつり」は、東日本大震災以前の5日間開催時は、25万人の都市に約350万人、震災後の3日間開催になって以降も150万人を超える観光客がやって来るなど、「日本三大七夕まつり」として、仙台に次いで2番目に規模が大きいと目されている。戦後からとどまる事なく開催されてきた祭りだが、コロナ災害においてのみ、やむなく開催を見送る事になったのである。
ちなみに、三大七夕まつりの“3番目”の席を愛知県一宮市、安生市、千葉県茂原市、などの他都市が「うちが3番手だ」「いやうちだ」と名乗りを上げるようになり、その配慮からか最近では「日本三大七夕まつり」とは言われなくなっているらしい。
もちろん僕も小さい頃はドキドキしながら母の手を握り連れて行ってもらった。
人混みが大嫌いな父とはあまり一緒に行く機会はなかったのだが、珍しく連れて行ってもらった。人混みと喧騒の中で七夕飾りを眺めながら進んでいると、露店の明かりに飾られたフェラーリの大型パネルに目が止まったのだ、時はスーパーカーブームの最中であり、かなり高価であったにも関わらず気前よく買ってくれた父親を自慢に思えて、非常に嬉しかったのを今でも覚えている。
僕が生まれ育ったそんな平塚の土地柄は、地方特有の「地元色」が強い印象がある。先ほど触れた通り、工業都市がゆえに市外から労働者が移り住んでくるのも多いからか、ブルーカラーに多く見られる荒っぽい気質が強い街をつくりだした。それは血の気の多い者たちの団結力を持つ土地柄を生み出したとも思う。しかし他市から移りすみ新たな商売を始める者には、しがらみが無いだけやりやすいというポジティブな面もあるが、簡単には「仲間」として認めない閉鎖的な部分があるのも事実だ。
僕の両親も違わず川崎から移ってきた時も最初はよそ者扱いを受けていたという。縁もゆかりもない地で味方がおらず、やはり苦労したらしい。ただ、父親をはじめとする一統は説明してきた通りの「イケイケ」だったので、その様なしがらみがなかったことが功を奏し、人目を憚らずガンガンと付き進むのである。
甲斐組の飯場で砂利の山(筆者1973年)
昭和30年代の平塚駅前

