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ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

飯場の子 第6章 22話 「どうしようもない中学生日記 入学




 

「飯場」と共に育ち、遊び、本当に様々な経験をした小学生時代もそろそろ卒業という区切りを迎える時が近づいていた。そんなある日の夜「二人の姉」から突然訓示を受けることになる。


 

 「お前もいよいよ中学だな。どうせお前もツッパリになるんだろうから、大変だぞ~。」と、半分からかった感じで話をしてきた。二人の姉も中学時代は目立っているグループにいたので、ツッパリ組のシキタリはよくわかっているのであった。


 

 「まずは悪い先輩のパシリをやることから始まるんだよ。」といきなりパシリという意味不明な単語が飛んでくる。「とにかく浜岳は上下関係にうるさいから、先輩に目障りにされたら終わりなんだ。先輩に可愛がられるようになるんだよ。」

 

早い話が、「ツッパリになるなら覚悟していけよ。」という姉なりのエールであった。

 

時は1980年代。いわゆる「ツッパリ全盛期」である。

 この浜岳中学校には、僕の通った「なでしこ小学校」と、隣の「花水小学校」の2校が集結することになっていた。小学校卒業前になると噂話で隣の小学校のツッパリ予備軍の話が聞こえてくる。「花水の〇〇はヤバイ奴らしいぞ。」とかそんな感じだ。ただ、なでしこ小の同級にはそれなりの人材?がいたので強気だった。



なでしこ小学校の予備軍(著者中央)


 

 いじめっ子だが野球は抜群の「セト」。なにより喧嘩が趣味という「タナベ」。九州からの転校生「シゲ」。頭も腕っぷしもいい「ワキ」。運動神経抜群のお調子者「ミネオ」。そして飯場の子「ヨッチ」。この6人は特に目立っていた。


 

そんな中、いよいよ「なでしこ小学校」の卒業式を迎えた。寂しさよりも、これから始まる中学という世界がどれほどなのかギラギラした気概に満ちていた。


 

浜岳中学の入学式などの記憶はほとんど無い。それほどに気を張っていたのだと思う。


 

あらたな校舎や教室、黒板に机など、小学校とは完全に違う世界であった。そして、見慣れない花水小の生徒達。担任の先生と授業ごとに教師がかわる。算数から数学に変わっただけで頭のレベルまで上がったと勘違いしてしまうようだった。そして一番の驚きは上級生、特に3年生は男女とも「オトナ」に見えるのだ。



 

1学年は8クラスあり、僕は1年3組になった。なぜかそのクラスにはその学年のツッパリ君が集められていた担任は「鈴木先生」。ご想像の通り、学年で一番怖い先生が「見張り役」としてついたわけだ。



 

嬉しかったのは花水小であるが顔見知りの「オカジ」と「アサワ」の二人が同じクラスにいたのだ。その二人が、他のワル連中である「カツタ」や「カナメ」を紹介してくれた。お互いに牽制はしていたが、「まあよろしく」って感じになった。



 

放課後、なでしこ仲間が集まり、情報交換になる。やはり僕のクラスが断然目立っていたようだ。が、ここで異色の存在が登場する。シゲから紹介されたエザワタイチという奴であった。タイチは、転校生なので知り合いはほとんどいなかったが、すぐに打ち解けた。これまたいっぱしなワルで不良スタイルに通な男だった。



 

また中学に入学と同時に運命的な男と出会う。同じ剣道部になる「荻野宏治」通称「ヘギン」である。後述にするが、彼こそ僕の人生に深く関わる男なのだ。


荻野コウジ(通称ヘギン)13歳



 

る日の午後、1年のワル連中に集合がかかった。指令の通りに渡り廊下へ向かうと、2年生のワルがズラリと集結。ハクをつけるため、不良の学ラン姿でコチラを睨みつけ、タバコをふかしているのだ。僕は姉の忠告が頭をよぎった。そして「いよいよ始まったな。」と腹を据えた。



画像はイメージ


 

しこたまビビっている1年坊に、2年の番格が「今からお前たちにこの学校のしきたりを教えるからよ」と言い出す。

1年生全員が目立つ格好は一切禁止。先輩には必ず挨拶する、先輩は『さん付け』だ」これを学年に徹底させろ。というものだった。散々怖がらせる2年生も必死だ。1年の教育がなってないと、3年生から2年がシメられるのだから。



 

そして集合の最後に、「明日からこのルールが守られない時は全体責任でオマエラ全員をシメるから覚悟しろ。嫌なヤツはいまから抜けろ。」と、なるのだ。



 

 平塚市にはJR東海道線の線路を挟み「南と北」に分けられる時がままある。当時は市内に14の中学校があったのだが、南エリアには浜岳と大洋の2校しかなく、あとはすべて北エリアになる。当然勢力的には、北エリアの方が大きいのである。その勢力図の中で浜岳は独特な上下の強さをつくり出し、北エリアに負けない為の団結力を持ったのかもしれない。


 

集合のあとは、各々顔見知りの先輩との個別の談話になる。


 

2年生の先輩にも顔見知りが何人かいる。もちろん小学校が一緒だから当たり前なのだ。その中のオオカワさんとは親しかったので、先輩と話しをしていた。2年の番格はトウさんという人であるとか、わからない事は俺に聞けよ。とか話してくれた。

先輩「今村・・浜岳のカンバンを汚さないように頑張れよ。」と笑顔で言ってくれた。

 


部活でもない、勉強でもない、何に頑張るのか。


 

でも自分ではわかっていた。先輩が伝えた「カンバン」の意味を誰よりもわかっていたと思う。

それは甲斐組というカンバンを背負っている父や母をみていたからだと。


 

「ああ、俺はこれから浜岳のカンバンを大事にしていくんだ。」僕は握っていた拳にさらにチカラをいれて握りしめた

 

飯場の子 第6章 21話 本社移転」




 

 甲斐組が平塚市撫子原に本社をおき、10年余の月日が流れた。その間には幾多の困難がありながらも、甲斐組は平塚市に根を張り、着実に成長をしてきた。


 

当時の甲斐組の前面道路は時間の流れと共に前後の道路整備が進み、歩道が設置され車道も拡幅するようになっていた。そのため甲斐組の本社が道路にせり出している形になっていて、それは「ボトルネック」のような状態になり通行の妨げになっていたのだ。



(撫子原時代の本社事務所1980年くらい)


 

僕が小学校年のだったと思うが、いよいよ前面道路の拡幅の工事が始まり甲斐組の本社敷地の1/3くらいが削られて、きれいな歩道と道路が出来上がったのだ。




目の前の道路がきれいになったのは普通うれしい出来事なのだが、会社の敷地がぐっと狭くなったことは、僕にとって切ない出来事でもあった。



 

僕が小学校から中学校に挙がる直前のころ、ある日の午後、突然母に新しい会社の場所を見に行くから一緒にこうか尋ねられた。その日のことはよく覚えている。ちょうどその時僕は同級生と家で遊んでいたため、「なあ、見に行こうか」となり、その友人と一緒に行くことになった。




(1980年のなでしこ小学校 西海岸地区は住宅街であった)


当時住んでいた西海岸地区から見知らぬ土地を走り抜けていくクルマ。とにかく北へ向かっていることは分かっていた、平塚市の地理もまだ理解できていない年齢である。友人と黙って揺られること20分ほどだろうか、車の窓から眺める風景は家よりも田畑の広がる「田園の風景」になっていた。そして、母がようやく広くもない道路の脇にクルマを停めた



 

「ついたよ」の言葉に車を降りて、母の後ろにつく。母は指をさし「ここが新しい会社の場所になるんだよ。」といった場所は、窪地になっている大きな畑だった。


 

周辺に見えるのは小さな川と橋、南側に数棟の団地があり、川の先にはなんやら牛舎みたいなものが見える。なんとものどかな風景だった。

 


しかし、母が指さす土地はやはりどう見ても「窪地」。道路から3メートルくらいの高低差がある。見下ろす畑と立っている道路は繋がっておらず、子どもの僕でも「どうやったらこの場所に甲斐組の本社が移転できるのだろうか」という思いになった。



 

僕の育った平塚市の西海岸地区は住宅街であり、賑わいもあったのだが、移転先にきまった場所」を見た時に、「ああ、随分と寂しい場所になるなあ。」といった思いになった。



 

会社が移ることは、前面道路が拡幅された時から聞かされていた後から知った話だが、甲斐組の本社であった撫子原の土地は借地ではあったが、営業権があったため父は補償金を受け取ったという



 

当時の移転先を決めた経緯はよくわかっていなかったが、地元西海岸地区の市議会議員であった横山さんという人が色々骨を折ってくれたようであった。そして候補として何か所かの土地ピックアップされてきたのだが、そのうち1つが、まさに現在の甲斐組の建つ、この平塚市大島という場所だった。


 

本来、(農地)というのは普通の売買ができず、許可なく建物立ててはならない。が、この時収容移転ということもあり、「事務所と宿舎を一緒に建てる」という条件で売買になったそのためなのだが、この土地は、今後も勝手に住宅にできないという決まりがある



 

これもあとから聞いた話で、敷地は400あるのだが、土地が三角形であったり、市街化調整区域だったこともあり安めに購入することができたしかも移転補償が出たため、土地の購入はほとんど持ち出しなしでできたらしい



  ただ、やはり造成工事は必要ある。土地を3メートルくらい盛り立てないといけなかったのだが、それは土建屋の最たるもの何と言ったって本業なのだ、仕事の合間を見ながら、父と数人の職人たちで開発図面の通りに盛土や間地ブロック積を行い、立派な造成地が出来上がり、設計図の通りに本社棟や2階建ての宿舎兼食堂、トイレや風呂などを建設した。


 

 晴れて昭和58年(1983年)に新たなる拠点、現在の本社所在地でもある平塚市大島1025番地に甲斐組は本社を移転したのであった。この出来事は、甲斐組の発展成長には大きな出来事だったと今でも思う。

 


(現在の甲斐組本社)


 土建屋という仕事柄、多くのダンプが行き来しては大声や作業音が出てしまうのは必然で、撫子原のような住宅街であるよりも、現在の大島は、仕事をするうえで環境はずっといい。

 

 

しかし、この本社の移転をしたことで、僕自身にも大きな変化が生まれた。それは、物理的にも、そして心的にも僕と会社(飯場離れた」ことであった。


 

それまではと会社が真向いであったり、黒部丘に自宅が移った後でも、飯場や会社は近所といえる場所であったのだ。それこそ会社は僕もう一つの「家」であったことは間違いな、幼きときから小学生までの抱えきれない思い出が詰まった場所だった。


 

が、平塚の最南から最北、距離にして8キロ先に会社が移転したことによって、僕と甲斐組は完全に離れてしまったのだ。


 

当時、すごく寂しかったのを覚えている。今まで毎日のように過ごした場所が離れてしまうことは、子どもにとっては居場所を失ったようなものだった。


友達も「会社移転しちゃったから俺たちの遊び場もなくなっちゃったなあ」と残念がっていた。小学校高学年のころ、世間では空気銃遊びなんかが流行っていたが、甲斐組の敷地は絶好の遊び場でもあったのだ

 

この会社移転によって、甲斐組は「西海岸」から去ることになった。つまり、当然世話になっていた西海岸商店街とのお付き合いも少なくなる。ずっと世話になっていた柏木酒店と甲斐組との交流も今までとは変わってしまう


 

ただ、父が黒部自宅を買ったことで、僕はこの先、地元の浜岳中学校に行くことになり、生活の拠点は西海岸に変わりないのがうれしかった。


 

もしあの時、黒部自宅を買っていなかったら、もしかしたら僕たち家族はこの大島の近くに家を購入していたかもしれない。そうすれば、本当に西海岸商店街とも縁が切れてしまたのだろうと思う



(西海岸商店街)

 

そして僕は40代になってからではあるが、西海岸商店街の真ん中である花水台に自宅を購入することとなる、なんとまあ縁とはまさに不思議なものだそして現在も古くからの西海岸商店街の皆さんとは昔なじみのお付き合いをさせていただいている事はうれしい限りである。


 

  それでも、数十年の時が過ぎて風景は変わっても、幼い頃を過ごした撫子原の甲斐組があった場所の前を通り過ぎるときには、懐かしさで今でもチンと胸が痛むのだ。

飯場の子 6-20話 「父との絆」




 

僕の父は物心がついた時から大の釣り好きであった。


 

釣りといっても色々あるが、父の釣りはダイナミックな本格磯釣りで、主に伊豆諸島をめぐり、大型魚の底モノを狙っていたのだ。


 釣り雑誌の「月刊釣り人」に伊豆大島で「寒鯛」を釣り上げたことが記事にされた時は父が有名人にでもなったような気がして誇らしかった。


 

最盛期は1年のうち3か月は釣りに出かけていたと思う。


そして釣りのスタイルは年齢と共に変化していき、「磯の王者石鯛」狙いから、磯のウワモノ狙いで「メジナやアオモノ」になり、60代にもなると「イカやワラサを狙う船釣り」になっていく、流石に70歳を超えてからは、体力的にも難しくなり釣りにはほとんど行かなくなった。


 

僕も幼い頃から釣りをするようになったのだが、その要因には、こうした釣り好きの父、そして家の近くに川や海があったからというところが大きい。が、当時それ以上に僕を釣り場へ駆り立てたのは「釣りキチ三平」という漫画だったと思う。




 

当時の子どもなら誰もが知っているこの漫画に、僕は大いに憧れた。そして小学生用の参考書のような釣り入門書があり、僕はそれをこぞって読んでいた。


 

こうして完全な釣り少年になっていた僕が、初めて本格的な夜釣りをしたのは、小学校3年生のころ。父に連れられて行った熱海の堤防だった。

例の「ライトバン」の後部座席に乗り込む。その手には、「釣りキチ三平の釣り入門書」。父を待ち出発するまでの間、その本を読みながら気持ちを昂ぶらせていた。



 

二人で車を飛ばした道中真鶴の釣具店でエサなどを買って、現地に到着。その日の熱海の堤防には人も少なかった。到着すると手早く準備をして、「ぶっこみ」という投げ釣りを始めた。父と横並びで竿を立て、アタリを待つ。釣りをした人ならわかると思うが、「釣り」をしている間は他の事は何も考えない。ただ、竿先に神経を集中させるのだ。

 



 

初めての夜釣り。期待をしていたがその日は潮がよくないのかアタリが全くない。10時を回ったくらいに父が「今日はダメだなぁ。帰るかぁ」と言った直後に父の竿にアタリが来た。慌てて合わせると、かなりの引きの強さだった。数十秒のやり取りで、かなりの大きい魚だとわかった。僕は大興奮。数分間の格闘の末、糸が切れてしまい結局逃げられてしまった。父は「デカかったなぁ、フエフキ鯛だったかもなぁ。」と興奮している僕に話していた。

その日はそのまま上がる事になったが、その迫力に、僕は完全に父との釣りに魅了された。



 

それ以降、僕は週末を利用して、父の伊豆大島への釣りに同行するようになっていった。




 

今ではアプリなどで簡単に「釣れるポイント」が検索できるが、そのころは伊豆大島の定宿から夜の自宅に電話がかかってくる。

もしも。えっ?イサキが入れ食い⁉️おお、分かった明日から行くよ」と、こんな感じだ。電話を切るとすぐに準備にかかり、翌日、目の色を変えて伊豆大島へ向かう父。


 

父が大島で釣りをしている土曜日は、学校が終わるや否や、校門前に準備万端の母が待機。ライトバンで熱海まですっ飛ばし、その後ひとりで大島行きの船に2時間乗るのだ






 僕はひとりこの船に乗るのがまた好きだった。に連れられることなく大海原を航海する時間「大人」になった気分になれたのだ。

 

大島に到着後、父と合流すると一休みろくに取らず、釣りを開始。が、月曜日には学校や仕事があるため、翌日の日曜日には島を出なければならい。



笑い話だが、そのまま釣りに没頭したかった僕たちは、「明日の船が天候不良で欠航になったから帰れない」と母に電話。母も呆れた声で応じてくれた。そして日曜日もそのまま釣りに興じることも。この手法で、最高水曜日まで学校を休んでしまった。

 

小学校4年から6年までの三年間で父と釣りを共にした日々は素晴らしい体験だったと今でも感じる



 

何よりも大自然の息吹や宇宙をリアルに感じた。磯にあたる風と波の音、海に沈んでいく夕日の美しさ。夜は満天の星空に流れる流星を見せてくれるのだ。




 

そんな磯で釣りをしている時はすべて共同作業、親子でも男同士の相棒なのである。しかしやはり子どもなのだ夜半にくる眠気には勝てない。

 

「おとう俺ねるよ」と言うと「おう、寝とけ」となる。(釣りを初めてから父をおとう、と呼ぶようになっていた)

そういう時は、近くに寝場所をつくり、満天の星空のもと、必ず持っていく携帯ラジオを聴きながら眠りにつく。


 

明け方、水平線が明るくなり携帯ラジオの音目を覚ますと、素晴らしい朝焼けの風景にひたすら釣り続ける父の後ろ姿を見るのが好きだった。



 

そんな当時の記憶の中でも忘れもしないのが、ある日の出来事だ。


 

夜、民宿で過ごしていると、父が釣りに行くと言い出し「0時には帰って来るから」と言い残し、一人、釣り場に出て行った。その釣場は「オーツクロ」という民宿から300メートルほどのところにある近いポイントなのだ。10時くらいには寝床についたが、なんだか心配で寝付けなかった。時計を見ると0時半であった。なんだかとても心配になり、不安が胸をよぎる。



(オーツクロ)

 

まさか海に落ちたんじゃないか……。

そんな思いでいっぱいになるが、真夜中である、怖くないわけがない。

いやしかし、もしかしたら父が助けを待っているのかもしれないという思いがかすめ、ついに僕は決意して、懐中電灯の大小二つを持って民宿から一人、オーツクロに向かった。



(民宿奥山荘よりオーツクロへの小道 昼)

 

民宿の目の前の道路は狭く、オーツクロに向かう側は漆黒の闇なのだ。大人でも躊躇するような闇に向かうと吸い込まれるような感覚になる。ライト1台を片手に持ち、もう1台を肩から下げた。その闇にいるかもしれない得体のしれないモノに「来るなら来てみろ!」と全身に気合を入れ前進した。生まれて初めて腹を括った瞬間だったかもしれない。


 

釣り場までの道中には、50メートルほど原生林の坂を下り抜ける必要がある。大した距離ではなかったが、木が風に揺られ音を立てる、大人でも怖いくらいのところを、自らを奮い立たせて突き進んだ。


 

こうして恐怖と戦いながらようやく坂にある磯場まで着くと、磯の先ヘッドライトを点けて釣りをしている父親の姿が見えたのだ。

心底ほっとしながら「おとー」と呼ぶと、その瞬間にちょうど父親の持っていたヘッドライトが切れたのだ。


 

僕の姿を見て、流石に父もびっくりしていた。まさかこんな子どもが、真夜中にここまで一人で来るとは思わなかったのだろう。


 

僕は「時間に帰ってこなかったから心配になってきたんだよ。」と言うと、「そうか、もうそんな時間か。でもまだ少しヤルから、丁度よかった。その懐中電灯置いて帰れ」と言い、結局本人は朝まで釣りを続けることに。


 

こうして帰り道はミニライトで再び1人になるわけだが、不思議なのは、行きのような恐怖はひとつもなかった。



一度来た道。父親の姿も確認できたし、原生林を登り、民宿に続く狭い道路向こうは闇ではなく宿の明かりが見える。が、怖さを感じなかった要因は、ただ一つ、行く道で得た覚悟だったのだろう。

父を心配して、漆黒の闇に向かって己を鼓舞して、突き進んだ経験が自分を成長させたのだろうと、今でも思うのだ。



 

こうした父との伊豆諸島での釣りの旅は、本当に尊い時間であったと両親に感謝する。

先述したが釣りをしている磯での二人は男同士だった。親子でも父と息子とは「ライバルであり、友でもある」のだと。この経験は大きな学びになった。



 

中学になると自我目覚め、親と行動するのが恥ずかしくなるようにそれ以降、ぱったりと父との釣行に同行しなくなった。



 

時が経ち、甲斐組に入社後も、頑固ゆえに人を褒める事もなく、悪口しか言わない父とは意見の衝突ばかりであった。



 

しかし、それでも父との関係を完全に断ち切らず、仕事も途中で投げ出さなかったのは、この少年時代に「釣り場」で過ごした「男同士のがあるからだと、強く信じている。


飯場の子19昭和の飯場の風景と自宅の引っ越し」

 



 

以前にも紹介したが、ここでもう1度の育った飯場を紹介したいと思う。 


 

飯場とは、土木作業をする若い衆たちが集団で寝泊まりするところ。端的に言えば「簡易宿舎」だ。

甲斐組飯場、業界によくあるようなプレハブ造りの平屋建てだった宿舎は2部屋に仕切られており、各々に横引きの扉があった。開けると土間がありその横には靴を置く棚があった。



 

土間を一段上がると、畳敷きで15畳くらいのスペースが広がる。いわゆる大部屋だ。当時そこに6人くらいの若い衆が共同で住んでいた。



 

「現場で働く屈強な大人たちの日常」が詰まったこの宿舎は、子どもにとっては最高の探検場所だった。昼間の作業に皆が出ていくと、当然夕方までは部屋は無人になる。僕らはその間にこっそり部屋を探索するのだ

 



何故だか部屋はいつもカーテンがかかっていた。だから昼間でも微妙に薄暗い。窓もめったに開けずにいるの部屋に入るたび独特の「すえた匂い充満していた

当然、部屋にはエアコンなどない夏は扇風機、冬は灯油のストーブで過ごすのだ。けっして過ごしやすい環境ではないと、子どもながらに思っていた。



 

部屋に置いてあったちゃぶ台には食べかけのつまみ空き缶で作った灰皿コップ代わりに使われている空きワンカップ当時ビール高級品だったようで、彼らが飲むのは日本酒かウイスキーその一升瓶やレッドウイスキーの1リッター乱雑に置いてあった。




これも定番だが、畳の上には万年布団ちゃんと畳んでる人もいれば、そのまま引きっぱなしの人もいる。その上にスポーツ新聞、週刊誌があるのだが、時々お宝としてエロ漫画を発見することもあったいけないとはわかっているのだが好奇心に歯止めは利かない、ドキドキしながらエッチな本を見ては興奮していた。

 



その宿舎とは別に事務所棟の奥にも、1つ畳敷きの部屋があった。そこにはテレビがあり8畳以上はあったと思う。



 

この部屋に、ある時からひとりの職人さんが住み始めた。たしかサノさんという名前だったと思う。サノさんは60歳くらい短く刈った白髪頭で、型枠大工の人だったかと思うサノさんはその大きな部屋をいつも綺麗に使っていたのを覚えている職人らしく言葉数は少ないのだが、何とも言えない親しみがあり僕はサノのオジサンと呼んでいた。



 

そのサノのオジサンについては、忘れられない思い出がある。

多分、学校の勉強を全くしないことを母に叱られたのが原因だったと思うのだがある日、父親にこっぴどく怒られて学校に通うカバンや教科書ごと家を放り出されたことがあった。

恐らく午後7時は過ぎていたと思う外はもうすっかり夜であった。小学生の僕は、追い出されてもどこも行くところがない。泣きジャクリながら困った挙句、向かったのがこのサノのオジサン部屋だったのだ



 

最初は突然の訪問者に驚いていたサノのオジサンに「おとう(父親)怒られて放り出された」と泣きながら話をしたら、「それは大変だったねさあ、上がってください。」優しく迎え入れてくれた。サノのオジサン事務所の電話を使って「若(僕)はここにいますから心配しないでください」と家に電話してくれた。




 

しばらく二人で静かにテレビを眺めていたら、ヨッチくん、おじさんが一緒に謝ってあげるから、そろそろ帰ろう夜道を二人で歩いて戻っていった。

玄関口で出迎えた父は「サノさん夜分に迷惑かけて申し訳なかったです。」と笑顔で詫びていたサノのオジサンは静かに社長、(僕)も十分反省してるんで家に入れてやってください」と、父に頭を下げてくれたのだった。なんとも心暖まる職人さんとの思い出である。



 

このサノのオジサンとの出来事に少し遡るが我が家に大きな変化があった自宅の引越しであ

 



小学校4年生のある夏の日曜の朝。

突然今日はみんなで家を見に行くぞ」と始まった発言者はもちろん「父」だ。

家族全員、また何を言い出すんだ」となったのだが、話を聞くとどうやら家を買うつもりらしいことが分かった。

かねてから自宅の購入を考えていた父に、知り合いの不動産屋が紹介し、その売り家を見に行った父はその家をたいそう気に入ったらしくこれは買いだな。」と、勝手に決断とのこと。無論、母親の意見すらも聞かずにだ。



 

毎度の“行動力”に、家族は一同呆れていたのだが、反面、それまでは友達を呼ぶにも呼びにくい小さな貸家だったため、僕たち姉弟は「どんな家なんだろう」と内心ワクワクしていた。



 

しかしそんな興奮をかき消すかのように、父はこう言い放った。「歩いて行くぞ」と。

普通、「引越し」と聞けば、多少は離れた場所へ移り住むと思うところ。そのため、父以外の家族は全員、その新居までクルマで向かうと勝手に思い込んでいたのだ

訝しみながら歩き出す父について行くと、家からたった数分へ向かったところにの家はあった。

が、これまた勝手に思い描いた「ての新築」のイメージとは全く違う、超和風の平屋建てのだったのだ。



 

一目瞭然で中古とわかるその家に、僕は拍子抜け。自分の中ではモダン洋風の新築豪邸を期待していたのに、全然新しくねーじゃねえかと。まあ、トイレだけは和式でも一応水洗便所だったので、それだけでもホッとした。



 

こうして最初はこの引越しに落胆ばかりしていたのだが、しばらく時間がすぎると、見方が徐々に変わってくる。中古ではあるが家は小さくはなかったし、玄関口立派で土地も70坪くらいあ門扉もそれなりに立派で、玄関口までも日本づくりで石畳。庭がすごく凝っていて、縁側もあり、枯山水なんかもきれい料亭みたいなイメージだった



 

少しずつ愛着が湧く中、などにニスを塗り直すなどして1か月くらいリフォーム小学校4年生秋に僕たちはいよいよ荷物をまとめて住み移った

最初の夜のことは鮮明に覚えている。雨と雷がすごく、まだ部屋割りなども決まってなかったことも手伝い、その日は家族全員で一番大きな部屋に川の字になって寝たが、非常におっかなかった。



 

後日、毎度世話になっている山梨県のお上人さんに来てもらい、部屋割りを相談。家相を見てもらい、どこを寝室にしたらいいかなど相談していた

ちょうど父が42歳の本厄の時に購入したことも心配していたが、お上人さん曰く心配ないとのこと。むしろ巡り合わせがいいし、厄年だから全部が悪いわけではないという

旧自宅から「北」移動の方角も気にしていたがその年は「北」が吉方だと言われた。



 

実際、そのに引越して以降、会社順調に発展成長していったのであった僕は10歳から19歳までの多感な時期その家で過ごした。今では築50年の古い実家。ちなみに父は今でもそこにひとりで住んでいる。

飯場の子 5章 18話 「台風の日に」



 

これは、僕が小学4年生くらいのころ、大きな台風がやって来たある日のことの話だ。

 

昨今天気予報も台風情報も日々ネットで簡単に調べることができるが当時はテレビとラジオまた新聞紙面でしか情報を得る手段がなかった。また、予報そのものも今よりは精度も低かったと思う。





その年の何号の台風だったかも覚えていないが、その日、神奈川県には大きな台風が直撃するという予報が出ていた。雨も風も非常に強い台風とのことだったのだが、当時は危機管理も今より低く、台風予報が出ていても小学校普通に授業があった。



 

朝、登校のために家の玄関を開けた瞬間に外の様子は明らかにいつもと違海岸が近い僕の家では、既に海の潮気を含んだ生暖かい空気不気味に充満していた。そして強い風が時折、吹いてくるのだ。

生徒はざわめきながら登校してくる。いつもと違う教室、そして授業は始まるも、時間が経つにつれて雨風激しくなる一方。




不安に思っていると案の定、担任の先生から「これから台風が強くなるから、今日は授業を中止して、下校とします。みんなは絶対に外に遊びになど行かずに、おとなしくしているように」と授業は早々に切り上げられ全学年、一斉に下校することになった

 

が、皆が昇降口に降りたころには、台風は想像以上威力になっていた。半端じゃない風で、雨も横殴り。いざ外に出ようと思っても、傘なんてとてもじゃないが差せない状態。もはや子どもが普通に歩いたら飛ばされるんじゃないかと言うレベルで、結局生徒たちは、昇降口で身動きが取れなくなってしまったのだ



 

学校と家が目と鼻の先という子走って下校していく。また、学校も連絡網で通知していたので親が迎えに来て一緒に帰った子もいたりしたが、下校できない生徒が多数いて昇降口は大混雑だった

僕の家は学校から歩いて7~8分くらいかかるため、その人混みで待機していたのだが、学校から連絡を受けたのだろう、僕の母親会社のライトバンで迎えに来てくれたその時に、家が近い友達を何人か乗せてくれと頼み混乱の中、なんとかることができた



車中から、振り返ると昇降口には不安な顔をした、同級生や生徒が多数残されていた。「みんなどうするのだろう」。と子どもながらに心配していたのを憶えている。


 

同乗させた友人を各家に降ろした後、ライトバンは会社に到着。事務所には、台風で仕事ができないテレビで台風ニュースを見ていた。

僕は、台風による下校の興奮冷めやらぬまま、父に今日の出来事を話した。猛烈な雨風のこと、授業の打ち切りのことそれを落ち着いた様子でく父。が、昇降口にまだ残されているたくさんの生徒たち話がぶと父の様子が一遍した

何を考えたのか、いきなりヨシヒロ行くぞ」と僕に声をかけ、おもむろにライトバンに二人で飛び乗ると横殴りの雨の中、学校に向かったのだ


 

僕は「この人は一体何をする気なんだ」とただただ唖然。そんな僕を尻目に、父は学校に着くや否や、昇降口の前でクルマを停めた。そこにはまだ十数名の生徒が残されていたのだ。父は車を降りながら「おい、センコーは何やってんだ」と大きな声を出し昇降口へと入っていった。


 

びっくりしている生徒を横目に、父は職員室に向かったのだ何の騒ぎだと集まってきた先生にこう叫んだ。


 

おめえら職員室でぬくぬくしやがってこの暴風雨の中、子どもたちを勝手に帰らせるやつがあるか。あんたらだって学校までクルマで来てるんじゃねえか。みんな乗せて帰るくらいのことしねえのかと先生たちを一喝。僕は父の後姿を見ながら呆然としていた。

 



言わずもがな、僕はこの学校の生徒である。自分の学校で「校長出せ」と怒鳴り込む父を見上げながら、素直に「この人ヤバイなぁ」と思った。が、それと同時に「の言ってることは間違ってない」とも感じた。

 



ただ、先生たちにもルールがあって、勝手なことができないのだろう。連絡の取れない親御さんもいて、大変だっただと思う。慌てて駆け付けた教頭先生が、「いやいや、今村さん、落ち着いてください」となだめる。他の先生も圧倒されていて黙って見ているしかできない



父はおもむろにあんたらが出来ないなら、これから俺が子どもたちを送り届ける」といって制止する先生を振り切今度は僕を学校に置いたままライトバンに乗って走り去っていった。



先生達も「どうなるやらと、昇降口で残された生徒たちと一緒にいた」10分くらいだろうかグォーンというエンジン音とともに会社のダンプトラック4台暴風の中に現れたのだ。父は先頭のダンプに乗っており雨の中降りて来るや否や若い衆に指示を出し、子どもたちを家の近い人数に区割りして「おーいクルマに乗せろー!」と呼びかけたのだ。

  


 

「おれが全員送り届けてやる

もうこうなったら先生も何も言えず、その状況を見守るだけだった。


 

すると、昇降口にいた子どもたちは大興奮。キャッキャとダンプの前に集まると、若い衆が各クルマの荷台に子どもたちを56人ずつ乗せ始めた。

板のままじゃだめだと思ったのか、荷台の床にはブルーシートが敷かれており、子どもが乗った後にはその上からもブルーシートをかけ、暴風雨の中、父は昇降口に残された生徒たちを本当に自宅近くまで見事に送り届けたのだった。


 

その時に僕も生徒の皆と荷台に乗ってだが、一緒に乗っていた友人や生徒たちからヨッチくんお父さんはすごいなーありがとう。と言葉を掛けられた。

僕は「いや」と照れるだけだったが、その時父親と若い衆が最高に格好良く、そして「甲斐組」という看板を心から誇らしく感じた。

 

 

この出来事は、今では認められない行為であることは間違いない。しかし、まだまだ皆が助け合わなければならない時代には地域を支えるナニかが必要なことでもあったのだろう現に賛否はあったが、後日ダンプで送った生徒の保護者や商店街の人たちからもお礼と称賛の声が上がったのだ。

 


この経験僕自身には忘れ事がない大きなインパクトであった。そして僕自身家業に携わってからも地域の土建屋の役割として災害には第一線で動く会社でありたいと強く意識するようになった。

甲斐組は職人、ダンプもたくさん抱え、いわゆる実働部隊だ。もし有事のことが起きた場合、一番すぐに動けるのは、僕たちのような地元の土建屋なのだ

 



僕たちはただビジネスとして公共インフラをつくる存在だけではない。地域の人々の笑顔を「創る、増やす、守る」存在なのだと思う。

 


父からはこの台風の日」の出来事を通して「土建屋の存在意義」を学んだことは間違いない。



そして「甲斐組」は二代目になった現在も台風や異常気象時に社員一丸となって地域の第一線で活躍している。