飯場の子 第6章 21話 「本社の移転」
甲斐組が平塚市撫子原に本社をおき、10年余の月日が流れた。その間には幾多の困難がありながらも、甲斐組は平塚市に根を張り、着実に成長をしてきた。
当時の甲斐組の前面道路は時間の流れと共に前後の道路整備が進み、歩道が設置され車道も拡幅するようになっていた。そのため甲斐組の本社が道路にせり出している形になっていて、それは「ボトルネック」のような状態になり通行の妨げになっていたのだ。
(撫子原時代の本社事務所1980年くらい)
僕が小学校5年の頃だったと思うが、いよいよ前面道路の拡幅の工事が始まり甲斐組の本社敷地の1/3くらいが削られて、きれいな歩道と道路が出来上がったのだ。
目の前の道路がきれいになったのは普通うれしい出来事なのだが、会社の敷地がぐっと狭くなったことは、僕にとって切ない出来事でもあった。
僕が小学校から中学校に挙がる直前のころ、ある日の午後、突然母に「新しい会社の場所を見に行くから、一緒に行こうか」と尋ねられた。その日のことはよく覚えている。ちょうどその時、僕は同級生と家で遊んでいたため、「なあ、見に行こうか」となり、その友人と一緒に行くことになった。
(1980年のなでしこ小学校 西海岸地区は住宅街であった)
当時住んでいた西海岸地区から見知らぬ土地を走り抜けていくクルマ。とにかく北へ向かっていることは分かっていた、平塚市の地理もまだ理解できていない年齢である。友人と黙って揺られること20分ほどだろうか、車の窓から眺める風景は家よりも田畑の広がる「田園の風景」になっていた。そして、母がようやく広くもない道路の脇にクルマを停めた。
「ついたよ」の言葉に車を降りて、母の後ろにつく。母は指をさし「ここが新しい会社の場所になるんだよ。」といった場所は、窪地になっている大きな畑だった。
周辺に見えるのは小さな川と橋、南側に数棟の団地があり、川の先にはなんやら牛舎みたいなものが見える。なんとものどかな風景だった。
しかし、母が指さす土地はやはりどう見ても「窪地」だ。道路から3メートルくらいの高低差がある。見下ろす畑と立っている道路は繋がっておらず、子どもの僕でも「どうやったらこの場所に甲斐組の本社が移転できるのだろうか」という思いになった。
僕の育った平塚市の西海岸地区は住宅街であり、賑わいもあったのだが、移転先にきまった「場所」を見た時に、「ああ、随分と寂しい場所になるなあ。」といった思いになった。
会社が移ることは、前面道路が拡幅された時から聞かされていた。後から知った話だが、甲斐組の本社であった撫子原の土地は借地ではあったが、営業権があったため父は補償金を受け取ったという。
当時の移転先を決めた経緯はよくわかっていなかったが、地元西海岸地区の市議会議員であった横山さんという人が色々骨を折ってくれたようであった。そして候補として何か所かの土地がピックアップされてきたのだが、そのうち1つが、まさに現在の甲斐組の建つ、この平塚市大島という場所だった。
本来、田畑(農地)というのは普通の売買ができず、許可なく建物を立ててはならない。が、この時は収容移転ということもあり、「事務所と宿舎を一緒に建てる」という条件での、売買になった。そのためなのだが、この土地は、今後も勝手に住宅にできないという決まりがある。
これもあとから聞いた話で、敷地は400坪弱あるのだが、土地が三角形であったり、市街化調整区域だったこともあり、安めに購入することができた。しかも移転補償が出たため、土地の購入はほとんど持ち出しなしでできたらしい。
ただ、やはり造成工事は必要である。土地を3メートルくらい盛り立てないといけなかったのだが、それは土建屋の最たるもの。何と言ったって本業なのだ、仕事の合間を見ながら、父と数人の職人たちで開発図面の通りに盛土や間地ブロック積を行い、立派な造成地が出来上がり、設計図の通りに本社棟や2階建ての宿舎兼食堂、トイレや風呂などを建設した。
晴れて昭和58年(1983年)に新たなる拠点、現在の本社所在地でもある平塚市大島1025番地に甲斐組は本社を移転したのであった。この出来事は、甲斐組の発展成長には大きな出来事だったと今でも思う。
(現在の甲斐組本社)
土建屋という仕事柄、多くのダンプが行き来しては大声や作業音が出てしまうのは必然で、撫子原のような住宅街であるよりも、現在の大島は、仕事をするうえで、環境はずっといい。
しかし、この本社の移転をしたことで、僕自身にも大きな変化が生まれた。それは、物理的にも、そして心的にも「僕と会社(飯場)が離れた」ことであった。
それまでは家と会社が真向いであったり、黒部丘に自宅が移った後でも、飯場や会社は近所といえる場所であったのだ。それこそ会社は僕のもう一つの「家」であったことは間違いなく、幼きときから小学生までの抱えきれない思い出が詰まった場所だった。
が、平塚の最南から最北、距離にして8キロ先に会社が移転したことによって、僕と甲斐組は完全に離れてしまったのだ。
当時、すごく寂しかったのを覚えている。今まで毎日のように過ごした場所が離れてしまうことは、子どもにとっては居場所を失ったようなものだった。
友達も「会社移転しちゃったから俺たちの遊び場もなくなっちゃったなあ」と残念がっていた。小学校高学年のころ、世間では空気銃遊びなんかが流行っていたが、甲斐組の敷地は絶好の遊び場でもあったのだ。
この会社移転によって、甲斐組は「西海岸」から去ることになった。つまり、当然世話になっていた西海岸商店街とのお付き合いも少なくなる。ずっと世話になっていた柏木酒店と甲斐組との交流も今までとは変わってしまう。
ただ、父が黒部丘に自宅を買ったことで、僕はこの先、地元の浜岳中学校に行くことになり、生活の拠点は西海岸に変わりないのがうれしかった。
もしあの時、黒部丘に自宅を買っていなかったら、もしかしたら僕たち家族はこの大島の近くに家を購入していたかもしれない。そうすれば、本当に西海岸商店街とも縁が切れてしまったのだろうと思う。
(西海岸商店街)
そして僕は40代になってからではあるが、西海岸商店街の真ん中である花水台に自宅を購入することとなる、なんとまあ縁とはまさに不思議なものだ。そして現在も古くからの西海岸商店街の皆さんとは昔なじみのお付き合いをさせていただいている事はうれしい限りである。
それでも、数十年の時が過ぎて風景は変わっても、幼い頃を過ごした撫子原の甲斐組があった場所の前を通り過ぎるときには、懐かしさで今でもチンと胸が痛むのだ。



















