飯場の子 第7章 25話「高校入学とラグビーとの出会い」
進学先の高校として日大藤沢高校に行くきっかけになったのは、中学3年生の秋くらいにの晩に父親に呼ばれたことだった。
話も早々に「オマエ、高校はどこに行くか考えてるのか?」
勉強そっちのけで遊び惚けてはいたが、成績は真ん中くらいであった僕は、「考えた事もないけど、行けるところしか行けないんじゃないかな。」と返したのだ。
そんな僕に父はこう言うのだ。「日大藤沢はどうなんだ、お前は日大の土木に行った方がいいんだ。」などと。
また勝手に僕の未来を決めている相変わらずの父だった。しかし将来、甲斐組を継がせる二代目には、それなりの学歴をあたえたかったのだろう。
有名校で名前は知っていたが、日大藤沢など考えたこともなかった、だが私学だし専願だったら可能性はあるかも知れない。
僕は遅すぎる高校進学について考えた。そして日大藤沢を受験する事に決意した後は受験に向けて努力し始めたのだった。
合格の可能性は5割である。
複雑な思いで受験し、合格発表の日にはビビりながら無事自分の名前を発見。こうして、僕は晴れて日大藤沢高校に進学することになった。
(見事な桜並木はいまでも健在)
4月に入学式があったのだが、入学式の記憶は中学の時と同じく全くない。
ベビーブーム真っ只中の世代。クラスはとんでもなく多く、1学年15クラスで計約700人も同級生がいた。
入学早々、体育館前に1年生全員が集められた時、司会をやっていたやたらコワモテの先生の印象が残っていた。
当時の日大藤沢の学生自体は、全体的に穏やかだった。エスカレーター式で大学に行く人も多く平和だったのだ。ただ、僕が入る20年くらい前までは県内でも指折りのワル高校だったらしい。
1年生では男子と女子でクラスが分かれ、2年からは共学になるが、今度は理系・文系に分かれる。当時女子のほとんどは文系に進んでいたため、土木関係の理系をせねばならなかった僕は3年間、女子と一緒のクラスになることはなかった。
同じクラスの友人は、神奈川県中から集まっていた。自分はご存じの通り平塚市だが、他にも横浜市、藤沢市、大和市、遠くは町田市など東から来る人が多く、知ってる顔はまったくいない状態。同じ中学から日藤に入った男子は、3人しかいなかった。
高校生活最初の壁は「電車ラッシュ」だった。学校の最寄り駅は藤沢市にある「六会駅」。
(当時の小田急線車両)
電車通学が初めてだった僕は、これから毎日始まる電車通学に、初日で心が折れそうになる。小田急線の新宿方面の電車は毎朝激混み。それに乗り換えまである。
最初の2週間、本当にいやになったのだが、まあ人間の適用力はすごいもので、そんなラッシュにもいつしか慣れていった。
高校生活を乗り切る手段として「部活」に入る事を中学の担任から勧められていた。これまでに話してきた通り、中学では剣道部に所属してはいたものの、1年でドロップアウト。が、僕は入学前から部活はラグビー部に入ろうと考えていた。
当時のラグビー部入部の志望理由に多かったのは、同じころに一世を風靡した「スクールウォーズを観て」だが、僕はそうではなかった。中学校3年生の時、花園での決勝戦をたまたまテレビで観て、それでラグビーは荒々しく面白そうだな、と思ったのだ。幸いなことに、自分はガタイだけはよかったのも入部のあと押しになった。
(スクールウォーズ)
こうしてラグビー部の見学に行くことになったんだが、なんとなく抱いていた嫌な予感が的中する。
入学して最初のインパクトがあった、あのコワモテの先生が、ラグビー部の監督だったのだ。
これが僕の人生を変えてくれた恩師「松久保六男」との出会いであった。
(写真右が松久保恩師、左は大村コンちゃん)
部員は約80人。新1年生は30期生であった、当初30人くらいいたが、上下関係の厳しさに耐えられなかったヤツらが徐々に退部していき、最終的には26人に収まった。
この上下関係の厳しさを象徴するのが「付き人制」だ。僕もその後、3年生の「ミツオカ」さん2年生の「キムラ」さんのラインに付くことになったのだが、中学のころの上下関係とマッチしたんだろう、僕は大した違和感もなく、その厳しさを受け入れることができた。
知らぬが仏か、日藤ラグビー部は、かなりの強豪校だった。当時それこそ神奈川県で全国屈指の強豪校「相模台工業」通称「ガミ」に追随する「日大藤沢」であり、「慶應、東海大相模、桐蔭学園、法政二高」を含む神奈川6強は全国大会でも上位を狙える存在だったのだ。
(宿敵相模台工業高校 ガミ)
我が日大藤沢は6学年上の24期で初の全国大会出場を掴むも、過去10年は準決勝か決勝でガミに僅差で敗れている。
全国一の激戦である98校が集まる神奈川県大会でも、常に優勝候補であり続けていた。
(30期メンバー)
当然ながら部の目標は花園制覇だった。
入部後すぐに春の関東大会に向けた神奈川予選大会が5月にあったのだが、先輩たちの試合を見て、僕は初めてその強さを知った。
(イメージ)
と同時に、荒くれヤンチャ界とはまた違うラガーマンの真の強さに憧れた僕は背筋を正しながら「おれ、もうヤンチャの世界には戻れない」と真剣に思った。
ラグビー部に入部したあとも、実は心のどこかで部活をナメていて、その間でも地元平塚の暴走族との付き合いを続けようと企てていたのだが、監督や先輩たちのラグビーに対する向かい方を見た時に、「部には迷惑かけられない」と本気で思ったのだ。
高校1年の7月に僕は地元の不良の先輩達に呼び出された。
当時僕は、彼らに「ゴールデンルーキー」並みに期待されていて、暴走族への誘いを頻繁に受けていたのだ。
一向に顔を出さない僕に痺れを切らした先輩達は「今村、なんで集会に来ないんだ」と威しをかけてきた。
息を撒く先輩達の前で「申し訳ないです。高校でラグビー部に入りました。強い部なので迷惑かけるのでチームには入れません」、と正座で詫びを入れた。
当然、袋叩きにされることを覚悟したのだが、先輩の1人が「いいじゃないか、真面目にやるって言ってんだから。逆に応援してやろうぜ」と言ってくれた。他のチームに入らないこと、平塚で悪さをしないことを約束させられた。
そして、この日を境に、僕の不良少年時代は幕を下ろしたのだった。
飯場の子 第6章 24話「どうしようもない中学生日記 恋愛編」
まあ、ヤンチャ活動に没頭し、勉強もそっちのけの飯場の子にも春は来るのである。
中学1年生の時、好きな子ができた。同級生の「ヤマモトさん」という子だ。
幼稚園の時も小学校の時も好きな子はいた。が、それまでの「好き」とはわけが違う。相田みつをじゃないが「だって思春期だもの」、である。
授業の風景(イメージ)
ヤマモトさんは凄く美人というわけではないが、愛嬌がありしっかりした子で、新体操部に所属。勉学の成績も学年上位の優等生だった。
かたやこちらはヤンチャ組。到底釣り合わない。が、恋というのはこういう壁があると余計に燃え上がる。
好きな気持ちは日に日に強くなっていったのだが、思いを伝える勇気がなかなか出ず、結局自分の気持ちを言えぬまま1年生は終わった。
2年生の夏休みあとぐらいだっただろうか、ある女子の不良グループの1人に呼び出され、こう聞かれた。「ヨッチってさ、今好きな人いるの?」
「いないよ、なんで?」と返すと、どうやら同級生のマミという子が僕に好意を持っているので一度、話を聞いて欲しいとの事だった。
女子グループ(イメージ)
マミとはほとんど話したこともなく、よくは知らない女子だったが、別に嫌いじゃないタイプだったので、悪い気はしなかった。どころか、初めての女子からの恋のアプローチに内心は「嬉しさと、ビビり」が織り交ざり複雑な心境だった。
さらに僕は硬派を気取っていたため、その気持ちを表面に出さずクールに「話くらいは聞いてもいいけどな」と答えた。
するとその後、放課後に呼び出されて本人から告白され、僕は軽いノリで付き合うことにOKしてしまった。まあ、中学生の恋愛というのは、だいたいこういう感じではあるが。
しかし、しばらくたってある事が起きてしまった。
付き合うことになって早々、近くのコンビニの公衆電話に当時流行っていた「相合傘」を僕の名前とともに書き込んでいた。そのあたりは学生にとってはたまり場のようなところになっていて、同級生たちの目にすぐに留まった。
こんなのあった(イメージ)
当時はヤンチャすることに必死。男同士とつるむことがほとんどで、マミとは二人で下校することもしない。繰り返しになるが、女子とイチャイチャするようなガラじゃなかったのだ。
(なぜか校内で集合写真が好きなのね)
ただ、そんな彼女とも未だに覚えている時間がある。
「相合傘事件」があったあと、人づてにマミがひどく落ち込み泣いていたと聞いた僕は、悪かったと思い、ある日の放課後、「夜、時間空いてるか?」と誘ったことがあった。
マミは女子の不良グループには属していたが、彼女の家庭はわりと裕福で、近くを流れる川のほとりにある「新しいマンション」に住んでいた。夜の8時ぐらいに近くで待ち合わせした僕は、川にかかる橋のふもとで煙草をふかしながら彼女を待っていた。
下花水橋
しばらくしてやってきたマミと川のほとりを海へ歩き、134号線の橋を渡って、公営駐車場の自動販売機の前で座りながら缶コーヒーを飲む。しばらくして川沿いの小道を川上へ歩くと彼女のマンションの下に着く、そして彼女を見送る。そんなデートだった。
公営駐車場
会話の内容は他愛もない学校の話と不良の話ばかり、ただぶらぶら歩き、夜の散歩だけで大したことはしていないのだが、それを鮮明に覚えているのは、恐らくその時の彼女がすごく喜んでいたからだろう。あの時の彼女はずっと笑顔だった。
しかし、やはり僕はヤンチャ業が優先。もうすぐ3年になるころ、他校との勢力争いなど、ヤンチャ界も華僑に入ってくると、「こんな時に女の子にかまけてられないと」変に格好をつけて、彼女に「おれ、今もう浮ついた気持ちでいられない。」と告げ、お別れすることに。
結局合わせて数回ほどしかデートせず、実質つき合った期間は半年弱くらいだっただろうか。
でも、初めてお付き合いしたマミの事は今でも忘れられない存在だ。
ヤンチャ業で女の子にかまけてられないと恰好をつけたはずだったが、3年生になり僕は、再びあのヤマモトさんと同じクラスになる。
そうなると勝手なものだ、封印していたはずの恋心が復活。そしてお構いなしに燃え上がる恋愛感情は抑えることができない。
そしてその感情はピークを迎えるのだった。
それは中学最後の体育祭だった。3年生の種目である「仮装行列」。クラスの皆で作ったお神輿を、体育祭が終わった翌日に海まで担いで闊歩した後、夜の砂浜で燃やす、というクラスのイベントがあった。
仮装行列(卒業アルバムより)
砂浜で燃える神輿を皆で眺めていた。そういうムードの中、これまで伝えられなかった思いが爆発し、僕は彼女を少し離れた場所に呼び出した。
そして夜の海辺で「おれヤマモトさんのことが好きだ」と伝えた。「これからも多分好きだと思うから。それだけ言いたかった」と。
「付き合ってくれ」とは言えなかった。フラれることが怖くて自分の思いだけを伝えたのだ。
付き合ってくれって言わなければ「ごめんね」は言われない。そんな計算高く根性なしの僕に、彼女はひとこと「ありがとう」と言ってくれた。
夕暮れの平塚海岸
それから何日か経った後、彼女が手紙をくれた。
「本当に嬉しかったです。これからもいい友達でいてください」と。
「付き合ってくれ」とは言わなかったものの、彼女の反応から「実らぬ恋」と悟ったのだが、それでもこの手紙をもらって実に清々しい気持ちになった。
どうしようもない中学生日記もヤンチャと恋とほかに書ききれない事が本当にたくさんあった。それは青春の一遍として今も大切な思い出だ。
1年時には15人くらいだった同級のツッパリ組も一人抜け二人抜けと、減っていき。3年の時には「アサワ、オカジ、ミネオ、オギノ、シゲ、タイチ、カナメ、ヨシダ、ヨッチ」の9人になっていた。この9人は今も大切な仲間だと思っている。
文化祭のあと
そしてその仲間の一人、オギノコウジ通称「ヘギン」は甲斐組の副社長として今も僕の隣にいて、いつも支えてくれているのだ。
飯場の子 第6章 23話 「どうしようもない中学生日記 部活とヤンチャ編」
地元浜岳中学に入学後、すぐにツッパリ組の洗礼を無事に受け、意気揚々の生活が始まった。
もう1つ、小学生から中学生になって大きく生活が変わる要因として挙げられるのが「部活動」だ。
入学と同時に、各部活では早々に2年生3年生の先輩たちによる「1年生の争奪戦」が繰り広げられる。「お前はサッカー部入れよ」、「野球やってたんだろ、他に入部するなよ」と。
実は、僕は小学生4、5年のころに剣道スクールに通っていた時期があった。
我が浜岳中学校にも伝統ある剣道部があり、そのため僕も当然、同じ剣道スクールに通っていた先輩によって半ば無理やり入部させられることになった。
昭和生まれの読者ならわかると思うが、当時の「運動部」は先生からも先輩からもスパルタ教育が常だった。
うちの剣道部は、基本的に道場(体育館)で練習できるのが週に3回と決まっていた。他の部活と体育館をシェアしなければならなかったからだ。
そのため、インドアなスポーツでありながら外練が多かったわけなのだが、この外練の内容が本当にしんどかった。
その筆頭がランニングだ。学校の周りを5周走らされるのだが、周回遅れになって途中歩いていると、先輩たちが腕を両サイド引っ張り合って走らされる。
さらにしんどかったのが筋トレ。3年生は外練などには参加しない。
そのため外練はいつも1年生と2年生のみになるのだが、3年生の目が離れる分、2年生は普段以上に1年生へのしごきが強くなる。まあ、それも伝統のようなものなのだが。
足上げ腹筋、空気イス・・・30秒と言っておきながら、28、29くらいまでカウントしたころ、今度は10に戻されたり、腹に力に入れろと言われて、先輩がその腹の上を歩くなどの「虐待トレーニング」が繰り返されていた。
今では考えられないが、当時は途中で水飲み休憩なんかとらせてくれなかった。そんな地獄の外練が2時間。終わった頃には1年生は地面にへばりつき、毎度起き上がれない状態になっていた。
一方、体育館が使える中練の日では朝稽古があったが、練習量は外練ほどきつくはなく、防具を着て素振りの練習。その後の午後では「かかり稽古」として竹刀を持ち、打ち合いなどをする。どちらかというと1年生には中練の日がうれしかった。
夏になり、3年生が引退。部活が1年生と2年生だけになると、僕は新しい2年生の部長になったヤマダさんとソリが合わなくなり、さらに「ヤンチャ活動」のほうに傾倒するようになった。
こうしてパタリと部活に行かなくなった僕を先輩達が黙って見過ごすわけがない。
案の定、先輩から同級生の部員を通じて呼び出しがかかった。
僕と一緒に練習をさぼりまくっていたワル友「オカジ」も同様に呼び出される。二人は「これはただ事じゃすまないな」と察した。
呼び出された二人は、体育館横にある普段は立ち入り禁止の松林に連れて行かれ、待ち構えていた剣道部の先輩達に横並びで松の木にしがみつかされ、背中越しにこう宣言される。
「これからお前らをヤルからな、覚悟しろよ」
その言葉と同時に、先輩たちが5メートルくらい助走し、竹刀を背中に打ち込み始めた。
10発目くらいだろうか、隣から嗚咽が聞こえてくる。隣にいるオカジは悔しさと激しい痛みからさすがに目に涙をためていた。
その横で僕は「ここは根性しかない!」と歯を食いしばり「オカジ!負けんじゃねえ」と叫んでいた。
30発は食らったろうか、ようやく解放された。最後に部長のヤマダさんが「今村、、お前なかなか根性あるな。」と捨て台詞を残して先輩達はその場を去った。
松林にへたりこんだ僕たちの背中は首から腿までは、血がにじんだみみずばれが数十あり、そのシゴキの激しさを物語っていた。痛みと悔しさの中、互いの傷を見合いながら、僕たちは「いつかやり返してやる」と心に誓ったのだ。
中学の出来事ではあるものの、僕にとってあそこでナキをいれなかったことは、自分の変な意味での自信になった。「引いちゃいけない」という姿勢を貫けたという意味では誇らしかった。
そんなシゴキにもめげずに部活をさぼり続け、結局1年の3学期に僕は剣道部を自ら退部したのだった。
夏休みくらいから僕のヤンチャ活動は本格的になっていた、ワル先輩からの誘いもあり、夜になると親の目を盗んでは外出するようになっていた。
先輩の家で煙草をふかしながら、喧嘩の武勇伝や、さらに上の先輩達の悪かった話を聞かされる。
また当時は不良・暴走族もまだ盛んな時代であり、「雑誌のヤングオート」やヤングマガジンの「ビーバップハイスクール」などの話で盛り上がっていた。
当然ながら勉強なんかはそっちのけで、放課後は不良のたまり場のような学生服屋やゲームセンターなどを仲間と一緒に遊び惚け、夜は先輩たちとつるむような日常だった。
まあ、たまり場にいれば当然、他校のツッパリ連中とのもめごとになる。その場で喧嘩乱闘まではないが、因縁の付けあいになる。ここは結構気合の勝負で、下を向かなければ何とかなるし、そのまま意気投合する奴らもいた。
2年生にもなると不良のスタイルも先輩から許可を受け堂々と着飾るようになる。中ラン・ドカンに短ラン・ボンタンなど学ラン自慢を楽しむのだ。
著者14歳
外でもめた因縁付けから他校の連中を制圧に繰り出し、平塚市内の中学のワル連中を自分たちのグループに入れて勢力を拡大していく。まったく馬鹿のようなことなのだが、自分なりにツッパリ道を真面目にやっていた。
著者15歳
そんな中で中学3年になるころには、浜岳のイマムラの名前は市内にそれなり通っていて、隣接市の伊勢原からも平塚との揉め事の仲裁に入って欲しいなどの連絡までくる始末だった。
警察にも厄介になり、親にも迷惑をかけていたが、自分たちなりに非行少年と不良少年は違うと「掟」みたいなものは守っていた。それが自慢にもならないのだが、波乱に溢れたどうしようもない中学生日記を日々つづっていたのだ。
飯場の子 第6章 22話 「どうしようもない中学生日記 入学編」
「飯場」と共に育ち、遊び、本当に様々な経験をした小学生時代もそろそろ卒業という区切りを迎える時が近づいていた。そんなある日の夜「二人の姉」から突然訓示を受けることになる。
「お前もいよいよ中学だな。どうせお前もツッパリになるんだろうから、大変だぞ~。」と、半分からかった感じで話をしてきた。二人の姉も中学時代は目立っているグループにいたので、ツッパリ組のシキタリはよくわかっているのであった。
「まずは悪い先輩のパシリをやることから始まるんだよ。」といきなりパシリという意味不明な単語が飛んでくる。「とにかく浜岳は上下関係にうるさいから、先輩に目障りにされたら終わりなんだ。先輩に可愛がられるようになるんだよ。」
早い話が、「ツッパリになるなら覚悟していけよ。」という姉なりのエールであった。
時は1980年代。いわゆる「ツッパリ全盛期」である。
この浜岳中学校には、僕の通った「なでしこ小学校」と、隣の「花水小学校」の2校が集結することになっていた。小学校卒業前になると噂話で隣の小学校のツッパリ予備軍の話が聞こえてくる。「花水の〇〇はヤバイ奴らしいぞ。」とかそんな感じだ。ただ、なでしこ小の同級にはそれなりの人材?がいたので強気だった。
なでしこ小学校の予備軍(著者中央)
いじめっ子だが野球は抜群の「セト」。なにより喧嘩が趣味という「タナベ」。九州からの転校生「シゲ」。頭も腕っぷしもいい「ワキ」。運動神経抜群のお調子者「ミネオ」。そして飯場の子「ヨッチ」。この6人は特に目立っていた。
そんな中、いよいよ「なでしこ小学校」の卒業式を迎えた。寂しさよりも、これから始まる中学という世界がどれほどなのか、ギラギラした気概に満ちていた。
浜岳中学の入学式などの記憶はほとんど無い。それほどに気を張っていたのだと思う。
あらたな校舎や教室、黒板に机など、小学校とは完全に違う世界であった。そして、見慣れない花水小の生徒達。担任の先生と授業ごとに教師がかわる。算数から数学に変わっただけで頭のレベルまで上がったと勘違いしてしまうようだった。そして一番の驚きは上級生、特に3年生は男女とも「オトナ」に見えるのだ。
1学年は8クラスあり、僕は1年3組になった。なぜかそのクラスにはその学年のツッパリ君が集められていた。担任は「鈴木先生」。ご想像の通り、学年で一番怖い先生が「見張り役」としてついたわけだ。
嬉しかったのは花水小であるが顔見知りの「オカジ」と「アサワ」の二人が同じクラスにいたのだ。その二人が、他のワル連中である「カツタ」や「カナメ」を紹介してくれた。お互いに牽制はしていたが、「まあよろしく」って感じになった。
放課後、なでしこ仲間が集まり、情報交換になる。やはり僕のクラスが断然目立っていたようだ。が、ここで異色の存在が登場する。シゲから紹介された「エザワタイチ」という奴であった。タイチは、転校生なので知り合いはほとんどいなかったが、すぐに打ち解けた。これまたいっぱしなワルで不良スタイルに通な男だった。
また中学に入学と同時に運命的な男と出会う。同じ剣道部になる「荻野宏治」通称「ヘギン」である。後述にするが、彼こそ僕の人生に深く関わる男なのだ。
荻野コウジ(通称ヘギン)13歳
ある日の午後、1年のワル連中に集合がかかった。指令の通りに渡り廊下へ向かうと、2年生のワルがズラリと集結。ハクをつけるため、不良の学ラン姿でコチラを睨みつけ、タバコをふかしているのだ。僕は姉の忠告が頭をよぎった。そして「いよいよ始まったな。」と腹を据えた。
画像はイメージ
しこたまビビっている1年坊に、2年の番格が「今からお前たちにこの学校のしきたりを教えるからよ」と言い出す。
「1年生全員が目立つ格好は一切禁止。先輩には必ず挨拶する、先輩は『さん付け』だ」これを学年に徹底させろ。というものだった。散々怖がらせる2年生も必死だ。1年の教育がなってないと、3年生から2年がシメられるのだから。
そして集合の最後に、「明日からこのルールが守られない時は全体責任でオマエラ全員をシメるから覚悟しろ。嫌なヤツはいまから抜けろ。」と、なるのだ。
平塚市にはJR東海道線の線路を挟み「南と北」に分けられる時がままある。当時は市内に14の中学校があったのだが、南エリアには浜岳と大洋の2校しかなく、あとはすべて北エリアになる。当然勢力的には、北エリアの方が大きいのである。その勢力図の中で浜岳は独特な上下の強さをつくり出し、北エリアに負けない為の団結力を持ったのかもしれない。
集合のあとは、各々顔見知りの先輩との個別の談話になる。
2年生の先輩にも顔見知りが何人かいる。もちろん小学校が一緒だから当たり前なのだ。その中のオオカワさんとは親しかったので、先輩と話しをしていた。2年の番格はカトウさんという人であるとか、「わからない事は俺に聞けよ。」とか話してくれた。
先輩は「今村・・浜岳のカンバンを汚さないように頑張れよ。」と笑顔で言ってくれた。
部活でもない、勉強でもない、何に頑張るのか。
でも自分ではわかっていた。先輩が伝えた「カンバン」の意味を誰よりもわかっていたと思う。
それは甲斐組というカンバンを背負っている父や母をみていたからだと。
「ああ、、俺はこれから浜岳のカンバンを大事にしていくんだ。」僕は握っていた拳にさらにチカラをいれて握りしめた。




































