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ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

飯場の子 第7章 28話
「怪我と運命の11月26日」


 高校時代をラグビーに費やした僕は、普通の高校生活をエンジョイするような、バイトや合コンなどを楽しんだという思い出もない。
 
しかし、その分、他の学生には出来なかった、ハードで熱い経験をしたという自負はある。
 
そう、ラグビーと向き合いがむしゃらにやってきた。

【練習試合のワンシーン】左筆者

 
いよいよ僕らも最高学年になったのだ、「ノムラ主将」率いる日大藤沢ラグビー部30期の闘いが始まった。


【30期メンバー】

 
 遡るが、僕は2年の12月のある日、監督から呼ばれた。「ボス。お前はフッカーをやれ。」といきなりのポジションチェンジを告げられたのだ。正直、面食らった、ラグビー経験者ならわかると思うが、同じフロントローでもプロップとフッカーはかなり役目が違うのだ。
 
プロップからフッカーへの転向、そこには同期の「ヨシダ」がいる。当然レギュラー争いになるのだが、複雑な気持ちがした。


【中央が吉田(大)】

 
今までスクラムを組むたびに、隣りで力を合わせてきた仲間が、いきなりライバルになる。二人で真正面に向き合い話しあった。「正々堂々とレギュラーを取り合おう、恨みっこなしだ。」と。
 
自分でいうのもなんだが、僕らの代は強かった。
 
春の県大会も優勝候補筆頭として、神奈川新聞で報道されるほどだったのだ。



 【公式戦】
チームは自信にあふれていた、今年こそ宿敵である相模台工業を打倒して全国大会へ行くのだと、全員が確信していた。


【新人戦にて初のHOで公式戦】

【新人戦 東海大相模 23-3で勝利】

 
自信を持って、挑んだ春の県大会、フッカーになった僕は残念ながらリザーブ(補欠)であったが、我がチームは順調に勝ち進んでいく、そして準々決勝の相手は法政二高になった。強豪校ではあるが、決して引けは取らない。
 
試合の前日、練習後にメンバーの発表があった、僕はその試合に右プロップで出場することになったのだ。スクラムでは負けない自信は十分にあった。 
 
5月の土砂降りの雨の日、グラウンドコンディションは最悪。試合会場は保土ヶ谷ラグビー場である。雨の中のキックオフ、泥だらけの試合で僕たちのチームはミスを連発してしまう。
 
結果は、相手に決められたペナルティゴール1本、0対3でまさかの敗退であった。法政側はこの大番狂わせに阿鼻叫喚していた。
 
ノーサイドのホイッスルの後、ずぶ濡れで泥まみれのグラウンド上で「マジかよ…」と呟いたのを覚えている。


【春の関東大会予選まさかの敗退】保土ヶ谷ラグビー場

 
「優勝候補筆頭」とまでいわれていたのに、関東大会さえも出場できなかった。
 
まさに自分たちを過信していたのだと思う。
 
この敗北の意味を受け止めなければならない。僕たちは夏に向け、気合いを入れ直して必死に練習を続けていった。
 
 そのころ、僕にはもう1つ大きな出来事があった。6月半ばごろに、国体(オール神奈川)選抜の選考メンバーが部内で発表されるのだ。
 
監督から推薦者が呼ばれる中、なんと僕の名前があがったのだ、同期の仲間から「おおー!」と驚きの声があがった、僕自身が一番驚いて、「あの…何かの間違いじゃ。」と監督に呟いたら、部員の皆が大爆笑になった。
 
この年、うちの部からは僕を含めて6人が国体選抜メンバーになった。


【オール神奈川選抜メンバー】

 
選抜メンバーは県内各校から集まり、その数は60名はいたろうか。その中からセレクションを受けて25名がオール神奈川メンバーとなるのだ。
 
神奈川中から、腕がなる猛者が集まっていた。皆、オール神奈川を目指してギラギラしているのだ。
 
合同練習が始まる、メンバーは言わずもがな学校がバラバラ。そのため、お互いどこの学校か分からないのだ。そうすると時折、「オマエどこだよ。」とイキがったヤツが出てくることもあった。そんな時に「あー、オレ日藤だよ」というと、「あ、すみません日藤ですか。」と、いきなり敬語に変わるのだ。それほど日藤のカンバンは光っていた。
 
実際、練習でスクラムを組むと、見た目はイキがっている猛者たちも、はっきり言って、「手ごたえがない。」確かに全国レベルの強豪校と練習試合を繰り返してきた自分は「こんなに差があるんだ。」と驚いた。それだけ日藤で、厳しい練習を重ね、鍛えられていたという事が初めて分かった瞬間でもあった。
 
60人ほどいたメンバーが半分くらいまで絞られていったのだが、僕は必死に食らいつき、その中に残り続けた。
 
が、ある日事件が起きる。
 
最終選考に選ばれるラストの練習試合は雨の日だった。ぬかるんだグラウンドで、左足にタックルをくらった。「バキバキ」といういやな音がした。本来だったら曲がらない方向に曲がっている足。激しい痛みとともに崩れ落ちた。左足の靭帯をかなり酷く痛めてしまったのだ。
当然、試合は退場となり、そのまま病院送りでギプス固定となった。
 
僕のオール神奈川は幻に終わった。初めて自分のラグビー選手としての実力を認められかけていた時の出来事であり、情けない気持ちと自信を失いかけていた。
 
 監督からは一言、「情けない奴じゃ。」と言われた。期待に応えられなかった悔しさに、黙って頭を下げるしかなかった。
 
オール神奈川の正式メンバーにはテクニシャンフランカーの「ニシカワ」、俊足ウイングの副将である「スガヌマ」の2名が選ばれたのだった。
 
最終学年の夏が始まった、左足を痛めていた僕は、とにかくリハビリとウエイトトレーニングと走り込みを徹底するべきなのだが、「試合に出ないといけない」と、焦っていた。ギプスが取れた直後から、テーピングを巻きながら練習に参加していたのだ。結果、夏の間に同じ部分の靭帯を3回痛めることになる。


【怪我を庇いながら練習に出続けていた】



【3年時の菅平合宿】ほぼ負け無しの30期

 
秋の全国大会県予選を目の前にして、試合に出れる状態ではなくなったのだ。
 
平成元年度、全国高校ラグビー大会神奈川県予選、98校からの頂点を決める、全国一激戦の大会である。いよいよここまで来たんだ。

3年にわたる厳しい上下関係と、すさまじき猛練習、そして監督や部員である仲間との絆。すべてをかけた闘いが始まるのだ。
 
その大会にリザーブにも入れなかった僕に、松久保監督は「花園までになんとかしろ」と声を掛けてきてくれた。その言葉に、涙が出そうになった。
 
僕ら日藤ラグビー部は3回戦からの出場となる。順調に勝ち進み、準々決勝では6強の一角である桐蔭学園に、接戦を制し16対3で勝利した。

準決勝にコマをすすめ、春に惜敗した法政二高と激突する。しかも会場は保土ヶ谷ラグビー場である。
 
僕はリザーブでもなかったので、同級生の生徒と共に、芝生のバックスタンドで試合を見ていた。春の惜敗から、菅平合宿で茗渓学園に負けた以外は全勝の同期メンバーである。仲間を信じていた。

【練習に明け暮れた日々】


キックオフから両チーム全力での戦いであった。まさに互角に近い勝負だった、やはり法政二は強かったのだ。大接戦の末、ノーサイドのホイッスルがグラウンドに鳴り響く。崩れる法政二の選手たち。結果、14対6で勝利し、決勝進出を決めた瞬間であった。
 
一緒に試合を見ていた同級生から「ボス!よかったな。花園に行けよ。」と声をかけてくれた。笑顔で「ありがとう」と答えながら、メインスタンドの方へ向かっていった。
 
試合が終わり日藤フィフティーンがメインスタンドに挨拶している後姿を、一人歩きながら眺めていた。


【当時の保土ヶ谷ラグビー場】


その姿を見た時、何とも言えない思いが、胸にこみあげてきて、大粒の涙が止まらなく流れたのだ。生まれて初めての“嬉し泣”という経験だった。エンジのジャージのメンバーの姿が、今までのなかで最高にカッコよく見えた。
 
ウイングのマムシこと「スギウラ」が振り返り、僕を見つけ「ボスーー!!」と、泣きながら抱きついてきた。その瞬間、メンバー全員に囲まれて抱き合い涙した。心の底から自分もこの一員なんだということが最高に誇らしかった。
 
この話をすると、いつも涙が止まらなくなる。
 
 一方、僕たちと対戦する相手を決めるもうひとつの準決勝では、波乱が起きていた。
なんと相模台工が慶応に負けたのだ。つまり、僕たちは決勝で慶応と対戦することになったわけだ。崩れる相模台工の選手たち。その試合をともに観ていた法政二のメンバーは「俺たちの分まで花園で大暴れしてくれ。」と言葉を残し会場を後にした。
 
運命の平成元年11月26日、決勝戦の日。
秋晴れのもと、いよいよ僕たちが「天下」を取る日が来たと試合前から意気揚々としていた。
 
相手は宿敵の「相模台工業」ではないが慶應義塾も手強い。しかも相模台工業を破り、乗りに乗っているのだ、相手にとって不足はない。
 
試合会場は神奈川の頂点を決める三ツ沢競技場である。会場は両校の応援で、超満員になっていた。
 
キックオフと同時に神奈川県のトップを決める60分の死闘が始まった。


【平成元年度 神奈川県決勝戦】三ツ沢競技場


さすがは慶應の伝統芸ともいえるタックルに一進一退の攻防戦となった。前半はリードを許したが、それほどの不安はない、しかし後半に追い上げ同点となるも、そのままノーサイドになった。

【同点トライの瞬間 フルバック高橋】

 
結果は7対7の同点で両校優勝。

うなだれる日藤、歓喜をあげる慶應。そこには両者の気持ちが表れていた。
 
全国大会の出場権はくじ引きになる。くじは、そのままグラウンドで行われるのだ。

水を打ったような三ツ沢競技場、全ての皆が、息を飲むその瞬間。

慶應のキャプテンが、両手を高々と突き上げた…


【決勝戦 両校優勝の記念写真】


僕の高校時代はラグビーに始まりラグビーに終わったと言っても過言ではない。

そして人生の転機にもなったと今でも思う。松久保監督をはじめ同期の仲間や多くの先輩や後輩たち、語り切れない想い出は本当に僕の宝物なのだ。

そして僕は今でも日藤ラグビー部OB会や平塚市ラグビーフットボール協会の一員としてラグビーにかかわって生きている。

飯場の子 第7章 27話「ラグビーに与えてもらった宝物」




 

 

 高校の運動部、当時は強豪校になるほど上下関係は厳しく、さらに部員は個性豊かな面々になる。

 

 我が日大藤沢ラグビー部も面白い仲間が揃っていた。ここで同期の仲間に触れてみたい。


 僕たちの代のキャプテンになる心優しき男「ノムラ」、小田原出身で登下校も三年間一緒だった「フジ」、京都からの使者「イマムラシン」、あるいった意味ムードメーカー「ショウヘイ」、横須賀の変態少年「オダ」、保土ヶ谷の熱血漢「ユウジ」、しっかり者の「バーバー」、俊足ウイングで名を馳せた「スガヌマ」、藤沢の遊び人「ヨーキさん」などなど。他にも沢山いるのだが、個性的な仲間だらけの同期30期である。


部室内の同期(2年時)


 飯場の子「ヨッチ」は、中学時代はまともにスポーツなどしていない、ご存じの通りヤンチャの時代から、いきなりガチの体育会運動部に入り、体力もなく練習にはとてもついていけないのだ。ただ持ち前の?ワルなキャラと愛嬌モノで同期内では早々と「ボス」とのニックネームをつけられ、なんとなく同期内のムードメーカーとなる。

 

 先輩からはイジられキャラで、演芸マシーン3号(1,2号は大先輩にいるのだ)と名付けられ、現役世代だけではなく数年上のOB諸兄先輩まで「ボス」はラグビーの素質とは全く違う、別な意味でその存在を覚えてもらうようになっていくのだった。


菅原合宿で1学年上の先輩と(イジられ)

 

 しかし元不良のヤマっ気は残しており、1年の時は厳しさに堪え切れず練習をサボるために学校は休むは、ほかにも数々の問題を起こすのだが、松久保監督の愛の制裁で救ってもらうのだ。

 

ここで「鬼の松久保」と恐れられた恩師についても触れてみる。



恩師55歳くらいですね(部誌より)

 

 松久保監督は、生粋の薩摩隼人、鹿児島大学を卒業後、いきなり日本大学藤沢高等学校の体育教師として赴任させられ、そのまま42年間に渡り日大藤沢の教員及びラグビー部監督として、人生の多くの時間を教師と部の指導者として費やした。

 

 当時、監督は50歳くらい、部を率いて25年。赴任したての頃はどうしようもないワル高校だった頃の部員には手を焼いたと聞く。しかし、その猛者たちをラグビーを通して指導し、県内トップクラスのラグビー部に育て上げたのだ。社会に役立つ人間を育てる。を柱にしていた真の教育者だったと思う。

また、行き場のなくなったどうしようもない生徒をラグビー部に引き受けて、なんとか卒業させる事も多々あったと、僕がOBになってから他の教員や大先輩からも教えてもらった。

 

 そのような存在なので、運動部以外の生徒にも恐れられてはいたのだが、体育の授業の時間は部の指導とはちがい、やたら優しく丁寧な言葉遣いのギャップには苦笑いしてしまった。ユーモアも多々あり、誰にでも怖い存在ではなく、部員やそれ以外の問題生徒には容赦のない鉄拳を叩きこむのだ。

 

 僕が中学時代にヤンチャをしていたことも監督は知っていて、そんな体力もスポーツ経験もない自分でも、蔑視することもなく皆と同じように扱ってくれた。ただ、たまに「おい、ヨシヒロ。お前はまだ平塚のチンピラと付き合っているんか。」と喝を入れられることもあった。


菅原合宿で保護者と(部誌より)

 

 僕がOBとなってからも正月に恩師の自宅に行った時には、よく昔話を語ってくれた。その時に「手を出すのは、分かってくれる者しか出来ない。それはその生徒や部員の眼を見ればわかる。そのような部員も何人もいた。救ってやれなかったことが悔やまれると。」しみじみ二人で“黒ぢょか”で芋焼酎の熱燗を汲みあい、語り合った。


いまも尊い存在の大恩師である。


黒ぢょか

 

 

 ラグビーについてだが、1年時はとにかく厳しい練習についていけず、辞めたくなった時もあったが、同期の仲間が支えてくれた。ラグビーというスポーツは簡単に言えば「陣取り合戦」なのだが様々な体形や個性を持つポジションに分かれる。スクラムを組むFWは体格とチカラがモノを言う。バックスはスピードとパスやキックの技と視野の広さが求められる。そして全員に必要なのはタックルに向かう度胸なのだ。



同期の裕二と下は吉田ちょく

 

 僕はガタイだけはよかったのでFWのスクラムの最前列であるプロップのポジションを当てられていた。

 

 各々の個性が複雑に絡み合い、フルコンタクトでぶつかり合うまさに“格闘技”なのだ。しかし一人だけのチカラでは勝つことはできない。わがままなプレイは通用しないのだ。


校内練習試合

 

 ヤンチャ時代は男一匹の勝負が出来る。また暴れる事にも慣れてはいたのだが、モールなどで鍛えている相手に揉みくちゃにされたら、手も足も出せない。しまいには倒され、踏みつけられて体もココロもぼろぼろになる。威勢やハッタリだけでは全く通用しない世界。

独りよがりの考え、ラグビーにはそれが通用しない事を練習や試合を通して学んだ。

 

3年生が引退して、卒業。4月になり晴れて2年生となった。

 

 ラグビー部の同期の仲間と、「この1年間よく頑張ったなぁ。」と、お互いを讃えあったのだが、新1年生が入部してくるも、まだ「例の儀式」が終わっていない。僕らは慣れてきた部の仕事を黙々とこなし、1年生をお客さん扱いしながら、春の県大会に参戦していくのであった。

 

 2年生にもなると、同期との仲間関係はさらに強くなり、また先輩とも同じ釜の飯を食う仲間として絆は深くなるものだ。



桜咲く2年時に裕二と。(ジャージは新1年)

 

ハラシナ主将、率いる新チームは春の県大会でベスト8で敗退したため、関東大会への出場は出来なかった。

 

 ちなみに、あの「ラグパンレース」が行われるのは、梅雨時期の6月。2年生になった僕たちも当然、例に違わず「あの儀式」をしっかりと受けたのだ。詳しい場面は省くが、僕はなんとか合格し、罰ゲームのメンバーにはならなかった。

 

 晴れて僕らも「しもべ」から「人間」になれた時は、ようやく日々の仕事から解放される喜びは大きかったのだが、これから始まる1年生の過酷な生活に同情する気持ちも同時に生まれるのだった。

 

2年の夏の菅平合宿あたりから、かなりラグビーを楽しいと思い始めた。


2年の菅平合宿(真ん中著者、右隣は1学年下の北村)


 夏が過ぎて、秋の県大会あたりになると、補欠の候補に入れるくらいになるようになっていた。ポジションは変わらず「フロントロー」であるプロップ。

最前列でスクラムを組み合う役割を担っていた。自分で言うのもなんだが、スクラムとタックルはそれなりにできたと思う。



練習試合(校内合宿)

 

 その頃、勉強の方はというと、毎日ラグビーをするために学校に行っていたようなものだったため、正直なところ当時の授業のことはほとんど記憶にない。

 

テストの成績はいつも何科目か赤点があり、補習を受けなければならない問題児だった。

 

この問題児は、2年の2学期の中間テストで、見事にカンニング事件を起こしてしまう。

 

テスト終了後に、後ろから回って来た答案用紙を一気に写したところが見つかり、大問題に発展してしまう。担任のフルヤ先生に呼び出されたが、「カンニングくらいなら、大した事でもないな。」と僕はタカをくくっていたのだが、全科目ゼロ点扱いになると宣言され、目の前が真っ暗になった。

 

そんな僕をフルヤ先生は、ラグビー部の松久保監督のもとに連行する。

 

体育教員室に入った時に、張り詰めた空気を感じた。

 

「ああ、ヤバイ。」

 

 僕に向き合った時に鬼の形相であった監督は、正座の僕をバチバチに殴るのだった。しかしこれは愛の制裁だったのだ。

 

 その後、母親が学校に呼び出され生活指導の先生に謝罪する。

 

 学年主任の先生からは「本来なら停学の対象にもなるのだけれど、松久保先生にあれだけ制裁を受けているので、本人も反省していると思う。今回だけは停学にはしない。」との処分であった。

 

 松久保監督はあえて別の教師の前で、これでもか。とバチバチに殴ったのだったと思う。そこには間違いなく救済の愛があったのだ。

 

話を部活に戻そう。

秋の県大会も準々決勝(ベスト8)からの試合会場は、横浜の保土ヶ谷ラグビー場。神奈川県の高校ラガーにとって、まずはこの「保土ヶ谷」に行くことが目標になる。



29期の総勢(ハラシナ主将)(部誌より)

 

そして決勝の舞台は三ツ沢競技場。

 

 3年生にとっては最後の闘い。順調に勝ち上がるも、準決勝であの宿敵の相模台工業と激突、昨年の先輩たちの雪辱を果たそうとするが、0対38惜しくも準決勝で敗退。結果はベスト4で「またも敗れたり。」



全国大会 神奈川県予選準決勝 (保土ヶ谷G)

 

 こうして僕たちは先輩たちから「OBになる俺たちを、来年こそ花園に連れて行け、お前達の代なら出来る」。という夢を託された。そして、いよいよ「僕たちの出番」を迎えることになる。

 

 僕がラグビーに与えてもらった「自分を犠牲にしても、人を活かしてこそ、生かされること。」という精神は、今でも僕の心の宝物なのだ。

飯場の子 第7章 26話「愛と伝統のラグパンレース」
 


僕の高校時代はラグビーの記憶が9割で授業のことなどほとんど覚えてもいない。

前述したが、ラグビー部に入部したことがきっかけとなり、僕は「悪さ」から足を洗い、本格的に部活動に没頭していくのだが、ヤンチャの世界の上下関係とはまた別の厳しさが当時の日藤ラグビー部にはあった。

そこのヒエラルキーは、「1年生はしもべ、2年生は人間、3年生は神様」。監督の松久保は教祖という構造がきれいにも出来上がっているのだ。
 
ただ、入部したての1年生は、春の大会が終わる5月いっぱい頃までは「お客さん」扱い。日々の練習もそれほどキツくなく、先輩がバリバリやってる練習姿を見ながらパス練習や、時々1年生同士でラグビーの真似事のようなミニゲームをする程度だった。
 
そんな日々が過ぎた6月のある土砂降りの雨の日のこと、2年生からなぜか1年生だけ「今日は先に帰っていいぞ」と言われる日があった。
 
内心は「え?なんで?」なのだが、上級生 
はその理由を誰も教えてはくれない。
が、これはその後に「儀式」が始まることを意味する日なのであった。
 
それは「ラグパンレース」という、新2年生が僕たち新1年に仕事を引き継ぐ際に行われる、いわば「伝統儀式」なのである。
 
梅雨の時期、土砂降りの日を選んで毎年それは行われており、2年生から集めたラグビーパンツ、通称「ラグパン」を3年生がぬかるみのグラウンドに隠し、それを2年生が全裸同然の姿で泥んこになりながら奪い合うという、いかにも高校生が考えそうな儀式だった。


雨のグラウンド

 
さすがに全裸では問題もあるので海パンの下に穿くようなサポーターのみ着用を許されるのだが、遠目で見れば全裸同然の男どもがグラウンドに並んだ姿は奇行そのものである。
 
実はこの儀式は他の部活動の生徒にも有名なイベントになっており、グラウンドにほど近い校舎に多くの男女生徒が集まり大笑いしながら鑑賞会を楽しんでいるのだ。


当時のラグパン(キワドイ)

 
スタートラインに一列に並んだ男どもは必死の形相である、6月とはいえ雨のグラウンドは冷たくもあり、同じ仲間とはいえこの瞬間は敵なのだ、これから奪い合うラグパンに意識を集中させているその目は「狂気」に満ちている。
 
ルールはシンプルで、泥とともにグラウンドに隠されているラグパンを探しあて、サイズが合おうが合うまいが関係なく穿いて、スタートラインであるインゴールラインに「TRY」と叫んで飛び込めば合格である。ただ問題なのは数枚は足りないように隠してあるのだ。当然、近くにいる者同士は一人が見つけたラグパンを力ずくで奪い合うことにもなる。それはまさに阿鼻叫喚大爆笑の絵図にもなる。
 
いよいよ時は満ちて3年生の「イケー」との怒号一発。

「うおぉー」と唸り声をあげ屈強な男どもはグラウンドに踊り出るのであった。
 
グラウンドに隠され地面と同化したラグパンは簡単には見つからない、必死で地面を探すものを尻目に、足の速い男は遠く反対側のHポールにかかっているラグパンを目指して全力で駆けていく。
 
グラウンド上で叫びあい、ラグパンを奪い合い、インゴール目指して走っていく仲間を横目にウロウロと探し回るもの、早くもインゴールにトライして合格した者にはバスタオルが渡され腰に巻いて、仲間の姿を3年生の先輩と大爆笑で見ているのだ。
 
闘いの時間はそれほど長くはない、そして残り6名になったときに、先輩が新しいラグパンを1枚持ってにやにやしながらグラウンドの真ん中に出てくるのだ。それに一気に群がる6人の男ども、最後の1枚を先輩は空に向け放り投げる。

奪い合いは熾烈きわまるのだが、引きちぎるようにラグパンを手にした男は、穿く余裕もなく必死にラグパンを胸に抱いてそのままもんどりうってトライ。そしてノーサイドとなる。
 
悔しくもラグパンを取り損ねた5名に待っているのはもちろん罰ゲームなのである。
その罰ゲームはグラウンドの真横を走る小田急線の電車に向かって横一列に並び、泥だらけの姿で万歳三唱をするのだ。いやはや当時の高校生が考えそうな罰ゲームである。
 
その姿を校舎から見ている生徒もグラウンドにいる3年生も大笑いで大拍手なのだ。
2年生も真っ黒同士でみんなで大笑い。
 
なんとまあ、そんなバカげた儀式をやりとげ、2年生は「しもべ」から「人」になることを認められるのだ。


練習風景(日藤グラウンド)

 
そんな儀式が行われたことをつゆとも知らなく早上がりした1年生。翌日から、2年生の先輩達の顔つきがガラッと変わるのを感じた。
 
部活が終わる直前に2年生より「1年は部室に集合するように」と声がかかる。僕はああ始まったんだな。と感じ取った。3年生が早々に帰った後に2年生が全員残り、1年生は全員が部室に正座させられる。おどおどしている仲間は顔色も蒼くなっていた。
 
ラグパンレースで「人」に格上げした2年生が静かにドスの利いた声で言う「おまえらな、今日からが本当の日藤ラグビー部の部員になるんだ」と、そしてすべての掟を授けられるのだった。1年生はその日を境に、晴れて「お客さん」から「しもべ」になるのである。

(これはふざけている画像です)

 
翌日から、早速ラグビー部の「しもべ」としてのしきたりを守り、それまで2年生がやっていた掃除や買い物など、すべての役割をこなす日々が始まるのだ。
 
朝の生活も一気に変わる。1年生は教室よりも部室に必ず全員が登校。朝7時半くらいから上級生の上履きみがき、グラウンド整理から、ボール磨き、部室の掃除をするのだ。
 
1年生の仕事は朝だけではない。放課後の練習が終わったあとも、部室での待機はもちろん、3年生の靴を磨いておき先輩が脱いだ練習着を全部きれいにたたんで置いておくなどのこともする。練習が終わるのは6時くらいだが、仕事が終わり部室を出るのはだいたい夜8時くらい。これを毎日繰り返す。ここでついていけない数名は部を去っていくのだ。
 
その一方、練習のほうも過酷になっていく。夏を迎えるころには1年の仕事と練習でついて行くのがやっと。それでも同期との友情も生まれて楽しみもあり、がむしゃらにやっていた。

菅平合宿(2年時)

 
夏の菅平合宿や校内合宿も経験して、徐々に部員としての自信が出てくるようになる。ちなみに、この夏合宿を終えないと、手に入れられないものがあった。それが「部章(バッジ)」だった。過酷な練習に耐え、このバッジを胸に付けた時の誇らしさは、筆舌に尽くしがたいものがあった。


伝統の部章


そんな中始まった秋の県大会。花園の予選にあたる同大会を、3年生中心のレギュラーは見事に勝ち進んでいく。僕ら1年生は観客席からその雄姿を見守っていたが、部員のひとりとしてその場にいられることが非常に誇らしかった。
 
準決勝で強豪校「慶應義塾」に12対7で打ち勝ち、決勝進出が決まった。
相手は全国トップクラスの相模台工業。前半は0対0で折り返す。後半の残り10分で2トライを奪われ、0対11で惜敗、結果準優勝。

神奈川予選決勝(部誌より)


僕たちはその姿を見た時に、自分たちが相模台を倒して、必ず花園に行くんだという気持ちを強くするのだった。
 
この試合で引退する3年生たちからもらう「お前らが必ず全国に行けよ」、という言葉。先輩たちの仇は俺たちが獲ると、心に誓い、僕はこうしてラグビーにのめり込んでいくのである。

※この文章は30年以上前の話しであり、この数年後にはこのような慣習は無くなりました。

飯場の子 第7章 25話「高校入学とラグビーとの出会い」

 




 進学先の高校として日大藤沢高校に行くきっかけになったのは、中学3年生の秋くらいにの晩に父親に呼ばれたことだった。



 話も早々に「オマエ、高校はどこに行くか考えてるのか?」

 

 勉強そっちのけで遊び惚けてはいたが、成績は真ん中くらいであった僕は、「考えた事もないけど、行けるところしか行けないんじゃないかな。」と返したのだ。

 

 そんな僕に父はこう言のだ。「日大藤沢はどうなんだ、お前は日大の土木に行った方がいいんだ。」などと。



 また勝手に僕の未来を決めている相変わらずの父だった。しかし将来、甲斐組を継がせる二代目には、それなりの学歴をあたえたかったのだろう。


 

 有名校で名前は知っていたが、日大藤沢など考えたこともなかった、だが私学だし専願だったら可能性はあるかも知れない。



 僕は遅すぎる高校進学について考えた。そして日大藤沢を受験する事に決意した後は受験に向けて努力し始めたのだった。

 

合格の可能性は5割である。

 

 複雑な思いで受験し、合格発表の日にはビビりながら無事自分の名前を発見。こうして、僕は晴れて日大藤沢高校に進学することになった。



(見事な桜並木はいまでも健在)


 4月に入学式があったのだが、入学式の記憶は中学の時と同じく全くない。


 

 ベビーブーム真っ只中の世代。クラスはとんでもなく多く、1学年15クラスで計約700人も同級生がいた。



 入学早々、体育館前に1年生全員が集められた時、司会をやっていたやたらコワモテの先生の印象が残ってい


 

 当時の日大藤沢の学生自体は、全体的に穏やかだった。エスカレーター式で大学に行く人も多く平和だったのだ。ただ、僕が入る20年くらい前までは県内でも指折りのワル高校だったらしい。


 

 1年生では男子と女子でクラスが分かれ、2年からは共学になるが、今度は理系・文系に分かれる。当時女子のほとんどは文系に進んでいたため、土木関係の理系をせねばならなかった僕は3年間、女子と一緒のクラスになることはなかった。


 

 同じクラスの友人は、神奈川県中から集まっていた。自分はご存じの通り平塚市だが、他にも横浜市、藤沢市、大和市、遠くは町田市など東から来る人が多く、知ってる顔はまったくいない状態。同じ中学から日藤に入った男子は、3人しかいなかった。

 


 高校生活最初の壁は「電車ラッシュ」だった。学校の最寄り駅は藤沢市にある「六会駅」。



(当時の小田急線車両)


 電車通学が初めてだった僕は、これから毎日始まる電車通学に、初日で心が折れそうになる。小田急線の新宿方面の電車は毎朝激混み。それに乗り換えまである。



 最初の2週間、本当にいやになったのだが、まあ人間の適用力はすごいもので、そんなラッシュにもいつしか慣れていった。


 

 高校生活を乗り切る手段として「部活」に入る事を中学の担任から勧められていた。これまでに話してきた通り、中学では剣道部に所属してはいたものの、1年でドロップアウト。が、僕は入学前から部活はラグビー部に入ろうと考えていた


 

 当時のラグビー部入部の志望理由に多かったのは、同じころに一世を風靡した「スクールウォーズを観て」だが、僕はそうではなかった。中学校3年生の時、花園での決勝戦をたまたまテレビで観て、それでラグビーは荒々しく面白そうだな、と思ったのだ。幸いなことに、自分はガタイだけはよかったのも入部のあと押しになった。



(スクールウォーズ)


 

 こうしてラグビー部の見学に行くことになったんだが、なんとなく抱いていた嫌な予感が的中する。

 

 入学して最初のインパクトがあった、あのコワモテの先生が、ラグビー部の監督だったのだ。



 これが僕の人生を変えてくれた恩師「松久保六男」との出会いであった。



(写真右が松久保恩師、左は大村コンちゃん)

 

 部員は約80人。新1年生は30期生であった、当初30人くらいいたが、上下関係の厳しさに耐えられなかったヤツらが徐々に退部していき、最終的には26人に収まった。



  この上下関係の厳しさを象徴するのが「付き人制」だ。僕もその後、3年生の「ミツオカ」さん2年生の「キムラ」さんのラインに付くことになったのだが、中学のころの上下関係とマッチしたんだろう、僕は大した違和感なく、その厳しさを受け入れることができた。



 

 知らぬが仏か、日藤ラグビー部は、かなりの強豪校だった。当時それこそ神奈川県で全国屈指の強豪校「相模台工業」通称「ガミ」に追随する「日大藤沢」であり、「慶應、東海大相模、桐蔭学園、法政二高」を含む神奈川6強は全国大会でも上位を狙える存在だったのだ。



(宿敵相模台工業高校 ガミ)

 

我が日大藤沢は6学年上の24期で初の全国大会出場を掴むも、過去10年は準決勝か決勝でガミに僅差で敗れている。


 

全国一の激戦である98校が集まる神奈川県大会でも、常に優勝候補であり続けていた。



(30期メンバー)


 

当然ながら部の目標は花園制覇だった。


 

  入部後すぐに春の関東大会に向けた神奈川予選大会が5月にあったのだが、先輩たちの試合を見て、僕は初めてその強さを知った。



(イメージ)


 

と同時に、荒くれヤンチャ界とはまた違うラガーマンの真の強さに憧れた僕は背筋を正しながら「おれ、もうヤンチャの世界には戻れない」と真剣に思った。



 

 ラグビー部に入部したあとも、実は心のどこかで部活をナメていて、その間でも地元平塚の暴走族との付き合いを続けようと企てていたのだが、監督や先輩たちのラグビーに対する向かい方を見た時に、「部には迷惑かけられない」と本気で思ったのだ。


 

高校1年の7月に僕は地元の不良の先輩達に呼び出された。


 

当時僕は、彼らに「ゴールデンルーキー」並みに期待されていて、暴走族への誘いを頻繁に受けていたのだ。


 

一向に顔を出さない僕に痺れを切らした先輩達は「今村、なんで集会に来ないんだ」と威しをかけてきた。


 

息を撒く先輩達の前で「申し訳ないです。高校でラグビー部に入りました。強い部なので迷惑かけるのでチームには入れません」、と正座で詫びを入れた。


 

当然、袋叩きにされることを覚悟したのだが、先輩の1人が「いいじゃないか、真面目にやるって言ってんだから。逆に応援してやろうぜ」と言ってくれた。他のチームに入らないこと、平塚で悪さをしないことを約束させられた。


 

そして、この日を境に、僕の不良少年時代は幕を下ろしたのだった。

飯場の子 第6章 24話どうしようもない中学生日記 恋愛編




 

まあ、ヤンチャ活動に没頭し、勉強もそっちのけの飯場の子にも春は来るのである。


 

 中学1年生の時、好きな子ができた。同級生の「ヤマモトさん」という子だ

幼稚園の時も小学校の時も好きな子はいた。が、それまでの「好き」とはわけが違う。相田みつをじゃないが「だって思春期だもの」、である



授業の風景(イメージ)

 

 ヤマモトさん凄く美人というわけではないが愛嬌がありしっかりしたで、新体操部に所属。勉学の成績も学年上位の優等生だった。

かたやこちらはヤンチャ組。到底釣り合わない。が、恋というのはこういう壁があると余計に燃え上がる。



 好きな気持ちは日に日に強くなっていったのだが思いを伝える勇気がなかなか出ず、結局自分の気持ちを言えぬまま1年生は終わった


 

 2年生の夏休みあとぐらいだっただろうか、ある女子の不良グループの1人に呼び出され、こう聞かれた。ヨッチってさ、今好きな人いるの?」



「いないよ、なんで?」と返すと、どうやら同級生のマミという子が僕に好意を持っているので一度、話を聞いて欲しいとの事だった

 


女子グループ(イメージ)


 マミほとんど話したこともなく、よくは知らない女子だったが別に嫌いじゃないタイプだったので、悪い気はしなかった。どころか、初めての女子からの恋のアプローチに内心は嬉しさと、ビビり織り交ざり複雑な心境だった。


 

 さらに僕は硬派を気取っていたため、その気持ちを表面出さずクール「話くらいはいてもいいけどな」と答え

するとその後、放課後に呼び出され本人から告白され、僕は軽いノリで付き合うことにOKしてしまったまあ、中学生の恋愛というのは、だいたいこういう感じではあるが。


 

 しかし、しばらくたってある事が起きてしまった。

付き合うことになって早々近くのコンビニの公衆電話に当時流行っていた「相合傘」を僕の名前とともに書き込んでいた。そのあたりは学生にとってはたまり場のようなところになっていて、同級生たちの目にすぐに留まった。



こんなのあった(イメージ)


 それが耳に入った僕はさすがに黙ってられず、「勝手に俺の名前使って落書きたらしいじゃねえか。誰がそんなことやっていいって言ったよ。今から消してこい」と荒っぽい口調で非難。彼女が顔面蒼白で消しに行った、ということもあった

 

 当時はヤンチャすることに必死。男同士とつるむことがほとんどで、マミとは二人で下校することもしない。繰り返しになるが、女子とイチャイチャするようなガラじゃなかったのだ。



(なぜか校内で集合写真が好きなのね)

 

 ただ、そんな彼女とも未だに覚えている時間がある

「相合傘事件」があったあと、人づてにマミがひどく落ち込み泣いていたと聞いた僕は、悪かったと思い、ある日の放課後、夜、時間空いてると誘ったことがあった。

 

  マミ女子の不良グループには属していたが、彼女の家庭はわりと裕福で、近くを流れる川のほとりにある「新しいマンションに住んでいた。夜の8時ぐらいに近くで待ち合わせした僕は川にかかるのふもとで煙草をふかしながら彼女を待っていた



下花水橋


 しばらくしてやってきたマミ川のほとりを海へ歩き、134号線の橋を渡って、公営駐車場の自動販売機の前で座りながら缶コーヒーむ。しばらくして川沿いの小道川上へ歩くと彼女のマンションの下に着く、そして彼女を見送る。そんなデートだった。



公営駐車場

 

 会話の内容は他愛もない学校の話と不良の話ばかり、ただぶらぶら歩き、夜の散歩だけで大したことはしていないのだが、それを鮮明に覚えているのは、恐らく時の彼女すごく喜んでいたからだろうあの時の彼女はずっと笑顔だった。



  しかしやはり僕はヤンチャ業が優先。もうすぐ3年になるころ、他校との勢力争いなどヤンチャ界も華僑に入ってくると、「こんな時に女の子にかまけてられないと」変に格好をつけて、彼女に「おれ今もう浮ついた気持ちでいられない」と告げ、お別れすることに。


 結局合わせて数回ほどしかデートせず、実質つき合った期間は半年弱くらいだっただろうか。


 でも、初めてお付き合いしたマミの事は今でも忘れられない存在だ。



 

 ヤンチャ業で女の子にかまけてられない恰好をつけたはずだったが3年生になり僕は、再びあのヤマモトさんと同じクラスになる。


そうなると勝手なものだ、封印していたはずの恋心が復活。そしてお構いなしに燃え上がる恋愛感情抑えることができない。

 

そしてその感情はピークを迎えるのだった。

それは中学最後の体育祭だった。3年生の種目である「仮装行列」。クラスの皆で作ったお神輿、体育祭が終わった翌日に海まで担いで闊歩した後夜の砂浜で燃やす、というクラスのイベントがあった



仮装行列(卒業アルバムより)

 

 砂浜で燃える神輿を皆で眺めていた。そういうムードの中、これまで伝えられなかった思いが爆発し、僕は彼女を少し離れた場所に呼び出した。



  そして夜の海辺で「おれヤマモトさんのこと好きだ」と伝えた。「これからも多分好きだと思うから。それだけ言いたかった」と


 

「付き合ってくれ」とは言えなかった。フラれることが怖くて自分の思いだけを伝えたのだ。

付き合ってくれって言わなければ「ごめんね」は言われない。そんな計算高く根性なしの僕に、彼女はひとこと「ありがとう」と言ってくれた。



夕暮れの平塚海岸

 

それから何日か経った後、彼女が手紙をくれた。

本当に嬉しかったです。これからもいい友達でいてくださいと。

 

「付き合ってくれ」とは言わなかったものの、彼女の反応から「実らぬ恋」と悟ったのだがそれでもこの手紙もらって実に清々しい気持ちになった


 

どうしようもない中学生日記もヤンチャと恋とほかに書ききれない事が本当にたくさんあった。それは青春の一遍として今も大切な思い出だ。


 

1年時には15人くらいだった同級のツッパリ組も一人抜け二人抜けと、減っていき。3年の時には「アサワオカジミネオオギノシゲタイチカナメヨシダヨッチ」の9人になっていた。この9人は今も大切な仲間だと思っている。



文化祭のあと

 

そしてその仲間の一人、オギノコウジ通称「ヘギン」は甲斐組の副社長として今も僕の隣にいていつも支えてくれているのだ。