ポジティブ思考よっち社長 -4ページ目

ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

飯場の子 第7章 26話「愛と伝統のラグパンレース」
 


僕の高校時代はラグビーの記憶が9割で授業のことなどほとんど覚えてもいない。

前述したが、ラグビー部に入部したことがきっかけとなり、僕は「悪さ」から足を洗い、本格的に部活動に没頭していくのだが、ヤンチャの世界の上下関係とはまた別の厳しさが当時の日藤ラグビー部にはあった。

そこのヒエラルキーは、「1年生はしもべ、2年生は人間、3年生は神様」。監督の松久保は教祖という構造がきれいにも出来上がっているのだ。
 
ただ、入部したての1年生は、春の大会が終わる5月いっぱい頃までは「お客さん」扱い。日々の練習もそれほどキツくなく、先輩がバリバリやってる練習姿を見ながらパス練習や、時々1年生同士でラグビーの真似事のようなミニゲームをする程度だった。
 
そんな日々が過ぎた6月のある土砂降りの雨の日のこと、2年生からなぜか1年生だけ「今日は先に帰っていいぞ」と言われる日があった。
 
内心は「え?なんで?」なのだが、上級生 
はその理由を誰も教えてはくれない。
が、これはその後に「儀式」が始まることを意味する日なのであった。
 
それは「ラグパンレース」という、新2年生が僕たち新1年に仕事を引き継ぐ際に行われる、いわば「伝統儀式」なのである。
 
梅雨の時期、土砂降りの日を選んで毎年それは行われており、2年生から集めたラグビーパンツ、通称「ラグパン」を3年生がぬかるみのグラウンドに隠し、それを2年生が全裸同然の姿で泥んこになりながら奪い合うという、いかにも高校生が考えそうな儀式だった。


雨のグラウンド

 
さすがに全裸では問題もあるので海パンの下に穿くようなサポーターのみ着用を許されるのだが、遠目で見れば全裸同然の男どもがグラウンドに並んだ姿は奇行そのものである。
 
実はこの儀式は他の部活動の生徒にも有名なイベントになっており、グラウンドにほど近い校舎に多くの男女生徒が集まり大笑いしながら鑑賞会を楽しんでいるのだ。


当時のラグパン(キワドイ)

 
スタートラインに一列に並んだ男どもは必死の形相である、6月とはいえ雨のグラウンドは冷たくもあり、同じ仲間とはいえこの瞬間は敵なのだ、これから奪い合うラグパンに意識を集中させているその目は「狂気」に満ちている。
 
ルールはシンプルで、泥とともにグラウンドに隠されているラグパンを探しあて、サイズが合おうが合うまいが関係なく穿いて、スタートラインであるインゴールラインに「TRY」と叫んで飛び込めば合格である。ただ問題なのは数枚は足りないように隠してあるのだ。当然、近くにいる者同士は一人が見つけたラグパンを力ずくで奪い合うことにもなる。それはまさに阿鼻叫喚大爆笑の絵図にもなる。
 
いよいよ時は満ちて3年生の「イケー」との怒号一発。

「うおぉー」と唸り声をあげ屈強な男どもはグラウンドに踊り出るのであった。
 
グラウンドに隠され地面と同化したラグパンは簡単には見つからない、必死で地面を探すものを尻目に、足の速い男は遠く反対側のHポールにかかっているラグパンを目指して全力で駆けていく。
 
グラウンド上で叫びあい、ラグパンを奪い合い、インゴール目指して走っていく仲間を横目にウロウロと探し回るもの、早くもインゴールにトライして合格した者にはバスタオルが渡され腰に巻いて、仲間の姿を3年生の先輩と大爆笑で見ているのだ。
 
闘いの時間はそれほど長くはない、そして残り6名になったときに、先輩が新しいラグパンを1枚持ってにやにやしながらグラウンドの真ん中に出てくるのだ。それに一気に群がる6人の男ども、最後の1枚を先輩は空に向け放り投げる。

奪い合いは熾烈きわまるのだが、引きちぎるようにラグパンを手にした男は、穿く余裕もなく必死にラグパンを胸に抱いてそのままもんどりうってトライ。そしてノーサイドとなる。
 
悔しくもラグパンを取り損ねた5名に待っているのはもちろん罰ゲームなのである。
その罰ゲームはグラウンドの真横を走る小田急線の電車に向かって横一列に並び、泥だらけの姿で万歳三唱をするのだ。いやはや当時の高校生が考えそうな罰ゲームである。
 
その姿を校舎から見ている生徒もグラウンドにいる3年生も大笑いで大拍手なのだ。
2年生も真っ黒同士でみんなで大笑い。
 
なんとまあ、そんなバカげた儀式をやりとげ、2年生は「しもべ」から「人」になることを認められるのだ。


練習風景(日藤グラウンド)

 
そんな儀式が行われたことをつゆとも知らなく早上がりした1年生。翌日から、2年生の先輩達の顔つきがガラッと変わるのを感じた。
 
部活が終わる直前に2年生より「1年は部室に集合するように」と声がかかる。僕はああ始まったんだな。と感じ取った。3年生が早々に帰った後に2年生が全員残り、1年生は全員が部室に正座させられる。おどおどしている仲間は顔色も蒼くなっていた。
 
ラグパンレースで「人」に格上げした2年生が静かにドスの利いた声で言う「おまえらな、今日からが本当の日藤ラグビー部の部員になるんだ」と、そしてすべての掟を授けられるのだった。1年生はその日を境に、晴れて「お客さん」から「しもべ」になるのである。

(これはふざけている画像です)

 
翌日から、早速ラグビー部の「しもべ」としてのしきたりを守り、それまで2年生がやっていた掃除や買い物など、すべての役割をこなす日々が始まるのだ。
 
朝の生活も一気に変わる。1年生は教室よりも部室に必ず全員が登校。朝7時半くらいから上級生の上履きみがき、グラウンド整理から、ボール磨き、部室の掃除をするのだ。
 
1年生の仕事は朝だけではない。放課後の練習が終わったあとも、部室での待機はもちろん、3年生の靴を磨いておき先輩が脱いだ練習着を全部きれいにたたんで置いておくなどのこともする。練習が終わるのは6時くらいだが、仕事が終わり部室を出るのはだいたい夜8時くらい。これを毎日繰り返す。ここでついていけない数名は部を去っていくのだ。
 
その一方、練習のほうも過酷になっていく。夏を迎えるころには1年の仕事と練習でついて行くのがやっと。それでも同期との友情も生まれて楽しみもあり、がむしゃらにやっていた。

菅平合宿(2年時)

 
夏の菅平合宿や校内合宿も経験して、徐々に部員としての自信が出てくるようになる。ちなみに、この夏合宿を終えないと、手に入れられないものがあった。それが「部章(バッジ)」だった。過酷な練習に耐え、このバッジを胸に付けた時の誇らしさは、筆舌に尽くしがたいものがあった。


伝統の部章


そんな中始まった秋の県大会。花園の予選にあたる同大会を、3年生中心のレギュラーは見事に勝ち進んでいく。僕ら1年生は観客席からその雄姿を見守っていたが、部員のひとりとしてその場にいられることが非常に誇らしかった。
 
準決勝で強豪校「慶應義塾」に12対7で打ち勝ち、決勝進出が決まった。
相手は全国トップクラスの相模台工業。前半は0対0で折り返す。後半の残り10分で2トライを奪われ、0対11で惜敗、結果準優勝。

神奈川予選決勝(部誌より)


僕たちはその姿を見た時に、自分たちが相模台を倒して、必ず花園に行くんだという気持ちを強くするのだった。
 
この試合で引退する3年生たちからもらう「お前らが必ず全国に行けよ」、という言葉。先輩たちの仇は俺たちが獲ると、心に誓い、僕はこうしてラグビーにのめり込んでいくのである。

※この文章は30年以上前の話しであり、この数年後にはこのような慣習は無くなりました。

飯場の子 第7章 25話「高校入学とラグビーとの出会い」

 




 進学先の高校として日大藤沢高校に行くきっかけになったのは、中学3年生の秋くらいにの晩に父親に呼ばれたことだった。



 話も早々に「オマエ、高校はどこに行くか考えてるのか?」

 

 勉強そっちのけで遊び惚けてはいたが、成績は真ん中くらいであった僕は、「考えた事もないけど、行けるところしか行けないんじゃないかな。」と返したのだ。

 

 そんな僕に父はこう言のだ。「日大藤沢はどうなんだ、お前は日大の土木に行った方がいいんだ。」などと。



 また勝手に僕の未来を決めている相変わらずの父だった。しかし将来、甲斐組を継がせる二代目には、それなりの学歴をあたえたかったのだろう。


 

 有名校で名前は知っていたが、日大藤沢など考えたこともなかった、だが私学だし専願だったら可能性はあるかも知れない。



 僕は遅すぎる高校進学について考えた。そして日大藤沢を受験する事に決意した後は受験に向けて努力し始めたのだった。

 

合格の可能性は5割である。

 

 複雑な思いで受験し、合格発表の日にはビビりながら無事自分の名前を発見。こうして、僕は晴れて日大藤沢高校に進学することになった。



(見事な桜並木はいまでも健在)


 4月に入学式があったのだが、入学式の記憶は中学の時と同じく全くない。


 

 ベビーブーム真っ只中の世代。クラスはとんでもなく多く、1学年15クラスで計約700人も同級生がいた。



 入学早々、体育館前に1年生全員が集められた時、司会をやっていたやたらコワモテの先生の印象が残ってい


 

 当時の日大藤沢の学生自体は、全体的に穏やかだった。エスカレーター式で大学に行く人も多く平和だったのだ。ただ、僕が入る20年くらい前までは県内でも指折りのワル高校だったらしい。


 

 1年生では男子と女子でクラスが分かれ、2年からは共学になるが、今度は理系・文系に分かれる。当時女子のほとんどは文系に進んでいたため、土木関係の理系をせねばならなかった僕は3年間、女子と一緒のクラスになることはなかった。


 

 同じクラスの友人は、神奈川県中から集まっていた。自分はご存じの通り平塚市だが、他にも横浜市、藤沢市、大和市、遠くは町田市など東から来る人が多く、知ってる顔はまったくいない状態。同じ中学から日藤に入った男子は、3人しかいなかった。

 


 高校生活最初の壁は「電車ラッシュ」だった。学校の最寄り駅は藤沢市にある「六会駅」。



(当時の小田急線車両)


 電車通学が初めてだった僕は、これから毎日始まる電車通学に、初日で心が折れそうになる。小田急線の新宿方面の電車は毎朝激混み。それに乗り換えまである。



 最初の2週間、本当にいやになったのだが、まあ人間の適用力はすごいもので、そんなラッシュにもいつしか慣れていった。


 

 高校生活を乗り切る手段として「部活」に入る事を中学の担任から勧められていた。これまでに話してきた通り、中学では剣道部に所属してはいたものの、1年でドロップアウト。が、僕は入学前から部活はラグビー部に入ろうと考えていた


 

 当時のラグビー部入部の志望理由に多かったのは、同じころに一世を風靡した「スクールウォーズを観て」だが、僕はそうではなかった。中学校3年生の時、花園での決勝戦をたまたまテレビで観て、それでラグビーは荒々しく面白そうだな、と思ったのだ。幸いなことに、自分はガタイだけはよかったのも入部のあと押しになった。



(スクールウォーズ)


 

 こうしてラグビー部の見学に行くことになったんだが、なんとなく抱いていた嫌な予感が的中する。

 

 入学して最初のインパクトがあった、あのコワモテの先生が、ラグビー部の監督だったのだ。



 これが僕の人生を変えてくれた恩師「松久保六男」との出会いであった。



(写真右が松久保恩師、左は大村コンちゃん)

 

 部員は約80人。新1年生は30期生であった、当初30人くらいいたが、上下関係の厳しさに耐えられなかったヤツらが徐々に退部していき、最終的には26人に収まった。



  この上下関係の厳しさを象徴するのが「付き人制」だ。僕もその後、3年生の「ミツオカ」さん2年生の「キムラ」さんのラインに付くことになったのだが、中学のころの上下関係とマッチしたんだろう、僕は大した違和感なく、その厳しさを受け入れることができた。



 

 知らぬが仏か、日藤ラグビー部は、かなりの強豪校だった。当時それこそ神奈川県で全国屈指の強豪校「相模台工業」通称「ガミ」に追随する「日大藤沢」であり、「慶應、東海大相模、桐蔭学園、法政二高」を含む神奈川6強は全国大会でも上位を狙える存在だったのだ。



(宿敵相模台工業高校 ガミ)

 

我が日大藤沢は6学年上の24期で初の全国大会出場を掴むも、過去10年は準決勝か決勝でガミに僅差で敗れている。


 

全国一の激戦である98校が集まる神奈川県大会でも、常に優勝候補であり続けていた。



(30期メンバー)


 

当然ながら部の目標は花園制覇だった。


 

  入部後すぐに春の関東大会に向けた神奈川予選大会が5月にあったのだが、先輩たちの試合を見て、僕は初めてその強さを知った。



(イメージ)


 

と同時に、荒くれヤンチャ界とはまた違うラガーマンの真の強さに憧れた僕は背筋を正しながら「おれ、もうヤンチャの世界には戻れない」と真剣に思った。



 

 ラグビー部に入部したあとも、実は心のどこかで部活をナメていて、その間でも地元平塚の暴走族との付き合いを続けようと企てていたのだが、監督や先輩たちのラグビーに対する向かい方を見た時に、「部には迷惑かけられない」と本気で思ったのだ。


 

高校1年の7月に僕は地元の不良の先輩達に呼び出された。


 

当時僕は、彼らに「ゴールデンルーキー」並みに期待されていて、暴走族への誘いを頻繁に受けていたのだ。


 

一向に顔を出さない僕に痺れを切らした先輩達は「今村、なんで集会に来ないんだ」と威しをかけてきた。


 

息を撒く先輩達の前で「申し訳ないです。高校でラグビー部に入りました。強い部なので迷惑かけるのでチームには入れません」、と正座で詫びを入れた。


 

当然、袋叩きにされることを覚悟したのだが、先輩の1人が「いいじゃないか、真面目にやるって言ってんだから。逆に応援してやろうぜ」と言ってくれた。他のチームに入らないこと、平塚で悪さをしないことを約束させられた。


 

そして、この日を境に、僕の不良少年時代は幕を下ろしたのだった。

飯場の子 第6章 24話どうしようもない中学生日記 恋愛編




 

まあ、ヤンチャ活動に没頭し、勉強もそっちのけの飯場の子にも春は来るのである。


 

 中学1年生の時、好きな子ができた。同級生の「ヤマモトさん」という子だ

幼稚園の時も小学校の時も好きな子はいた。が、それまでの「好き」とはわけが違う。相田みつをじゃないが「だって思春期だもの」、である



授業の風景(イメージ)

 

 ヤマモトさん凄く美人というわけではないが愛嬌がありしっかりしたで、新体操部に所属。勉学の成績も学年上位の優等生だった。

かたやこちらはヤンチャ組。到底釣り合わない。が、恋というのはこういう壁があると余計に燃え上がる。



 好きな気持ちは日に日に強くなっていったのだが思いを伝える勇気がなかなか出ず、結局自分の気持ちを言えぬまま1年生は終わった


 

 2年生の夏休みあとぐらいだっただろうか、ある女子の不良グループの1人に呼び出され、こう聞かれた。ヨッチってさ、今好きな人いるの?」



「いないよ、なんで?」と返すと、どうやら同級生のマミという子が僕に好意を持っているので一度、話を聞いて欲しいとの事だった

 


女子グループ(イメージ)


 マミほとんど話したこともなく、よくは知らない女子だったが別に嫌いじゃないタイプだったので、悪い気はしなかった。どころか、初めての女子からの恋のアプローチに内心は嬉しさと、ビビり織り交ざり複雑な心境だった。


 

 さらに僕は硬派を気取っていたため、その気持ちを表面出さずクール「話くらいはいてもいいけどな」と答え

するとその後、放課後に呼び出され本人から告白され、僕は軽いノリで付き合うことにOKしてしまったまあ、中学生の恋愛というのは、だいたいこういう感じではあるが。


 

 しかし、しばらくたってある事が起きてしまった。

付き合うことになって早々近くのコンビニの公衆電話に当時流行っていた「相合傘」を僕の名前とともに書き込んでいた。そのあたりは学生にとってはたまり場のようなところになっていて、同級生たちの目にすぐに留まった。



こんなのあった(イメージ)


 それが耳に入った僕はさすがに黙ってられず、「勝手に俺の名前使って落書きたらしいじゃねえか。誰がそんなことやっていいって言ったよ。今から消してこい」と荒っぽい口調で非難。彼女が顔面蒼白で消しに行った、ということもあった

 

 当時はヤンチャすることに必死。男同士とつるむことがほとんどで、マミとは二人で下校することもしない。繰り返しになるが、女子とイチャイチャするようなガラじゃなかったのだ。



(なぜか校内で集合写真が好きなのね)

 

 ただ、そんな彼女とも未だに覚えている時間がある

「相合傘事件」があったあと、人づてにマミがひどく落ち込み泣いていたと聞いた僕は、悪かったと思い、ある日の放課後、夜、時間空いてると誘ったことがあった。

 

  マミ女子の不良グループには属していたが、彼女の家庭はわりと裕福で、近くを流れる川のほとりにある「新しいマンションに住んでいた。夜の8時ぐらいに近くで待ち合わせした僕は川にかかるのふもとで煙草をふかしながら彼女を待っていた



下花水橋


 しばらくしてやってきたマミ川のほとりを海へ歩き、134号線の橋を渡って、公営駐車場の自動販売機の前で座りながら缶コーヒーむ。しばらくして川沿いの小道川上へ歩くと彼女のマンションの下に着く、そして彼女を見送る。そんなデートだった。



公営駐車場

 

 会話の内容は他愛もない学校の話と不良の話ばかり、ただぶらぶら歩き、夜の散歩だけで大したことはしていないのだが、それを鮮明に覚えているのは、恐らく時の彼女すごく喜んでいたからだろうあの時の彼女はずっと笑顔だった。



  しかしやはり僕はヤンチャ業が優先。もうすぐ3年になるころ、他校との勢力争いなどヤンチャ界も華僑に入ってくると、「こんな時に女の子にかまけてられないと」変に格好をつけて、彼女に「おれ今もう浮ついた気持ちでいられない」と告げ、お別れすることに。


 結局合わせて数回ほどしかデートせず、実質つき合った期間は半年弱くらいだっただろうか。


 でも、初めてお付き合いしたマミの事は今でも忘れられない存在だ。



 

 ヤンチャ業で女の子にかまけてられない恰好をつけたはずだったが3年生になり僕は、再びあのヤマモトさんと同じクラスになる。


そうなると勝手なものだ、封印していたはずの恋心が復活。そしてお構いなしに燃え上がる恋愛感情抑えることができない。

 

そしてその感情はピークを迎えるのだった。

それは中学最後の体育祭だった。3年生の種目である「仮装行列」。クラスの皆で作ったお神輿、体育祭が終わった翌日に海まで担いで闊歩した後夜の砂浜で燃やす、というクラスのイベントがあった



仮装行列(卒業アルバムより)

 

 砂浜で燃える神輿を皆で眺めていた。そういうムードの中、これまで伝えられなかった思いが爆発し、僕は彼女を少し離れた場所に呼び出した。



  そして夜の海辺で「おれヤマモトさんのこと好きだ」と伝えた。「これからも多分好きだと思うから。それだけ言いたかった」と


 

「付き合ってくれ」とは言えなかった。フラれることが怖くて自分の思いだけを伝えたのだ。

付き合ってくれって言わなければ「ごめんね」は言われない。そんな計算高く根性なしの僕に、彼女はひとこと「ありがとう」と言ってくれた。



夕暮れの平塚海岸

 

それから何日か経った後、彼女が手紙をくれた。

本当に嬉しかったです。これからもいい友達でいてくださいと。

 

「付き合ってくれ」とは言わなかったものの、彼女の反応から「実らぬ恋」と悟ったのだがそれでもこの手紙もらって実に清々しい気持ちになった


 

どうしようもない中学生日記もヤンチャと恋とほかに書ききれない事が本当にたくさんあった。それは青春の一遍として今も大切な思い出だ。


 

1年時には15人くらいだった同級のツッパリ組も一人抜け二人抜けと、減っていき。3年の時には「アサワオカジミネオオギノシゲタイチカナメヨシダヨッチ」の9人になっていた。この9人は今も大切な仲間だと思っている。



文化祭のあと

 

そしてその仲間の一人、オギノコウジ通称「ヘギン」は甲斐組の副社長として今も僕の隣にいていつも支えてくれているのだ。

飯場の子 第6章 23話 どうしようない中学生日記 部活とヤンチャ




 

地元浜岳中学に入学後、すぐにツッパリ組の洗礼を無事に受け、意気揚々の生活が始まった。

 

もう1つ、小学生から中学生になって大きく生活が変わる要因として挙げられるのが「部活動」だ。





入学と同時に、各部活では早々に2年生3年生の先輩たちによる「1年生の争奪戦」が繰り広げられる。「お前はサッカー部入れよ」、「野球やってたんだろ、他に入部するなよ」と。


 

実は、僕は小学生45年のころに剣道スクールに通っていた時期があった。

我が浜岳中学校伝統ある剣道部があそのため僕も当然、同じ剣道スクールに通っていた先輩によって半ば無理やり入部させられることになった。

 

 

昭和生まれの読者ならわかると思うが、当時の運動部は先生からも先輩からもスパルタ教育が常だった。

 

うちの剣道部は基本的に道場(体育館)で練習できるのが週に回と決まってい他の部活と体育館をシェアしなければならなかったからだ。

そのため、インドアなスポーツでありながら練が多かったわけなのだがこの外練内容本当にしんどかった。


 

その筆頭がランニングだ。学校の周りを5周走らされるのだが、周回遅れになって途中歩いていると、先輩たちが腕を両サイド引っ張り合って走らされる。

さらにしんどかったのが筋トレ3年生は外練などには参加しない


そのため外練はいつも1年生と2年生のみになるのだが、3年生の目が離れる分、2年生は普段以上に1年へのしごきが強くなる。まあ、それも伝統のようなものなのだが。



足上げ腹筋、空気イス・・・30秒と言ってきながら、28、29くらいまでカウントしたころ、今度は10に戻されたり、腹に力に入れろと言われて、先輩がその腹の上を歩くなどの「虐待トレーニング」が繰り返されていた


 

今では考えられないが、当時は途中で水飲み休憩なんかとらせてくれなかった。そんな地獄の外練が2時間。終わった頃には1年生は地面にへばりつき、毎度起き上がれない状態になっていた。




 

一方、体育館が使える中練の日では朝稽古があったが、練習量は外練ほどきつくはなく、防具を着て素振りの練習その後の午後ではかかり稽古」として竹刀を持ち、打ち合いなどをする。どちらかというと1年生には中練の日がうれしかった。



 

夏になり、3年生が引退。部活が1年生と2年生だけになると、僕は新しい2年生の部長になったヤマダさんとソリが合わなくなりさらに「ヤンチャ活動」のほうに傾倒するようになった。


 

こうしてパタリと部活に行かなくなった僕を先輩黙って見過ごすわけがない

案の定、先輩から同級生の部員を通じて呼び出しがかかった

僕と一緒に練習をさぼりまくっていたワル友「オカジ」も同様に呼び出される。二人は「これただ事じゃすまないな」と察した。



呼び出された二人は、体育館横にある普段は立ち入り禁止の松林に連れて行かれ、待ち構えていた剣道部の先輩横並びで松の木にしがみつかされ、背中越しにこう宣言される

「これからお前らをヤルからな、覚悟しろよ



その言葉と同時に、先輩たちが5メートルくらい助走竹刀を背中に打ち込み始めた

10発目くらいだろうか隣から嗚咽が聞こえてくる。隣にいるオカジは悔しさと激しい痛みからさすがに目に涙をためていた

 

その横で僕は「ここは根性しかない!」と歯を食いしばり「オカジ!負けんじゃねえ」と叫んでいた

30発は食らったろうか、ようやく解放された。最後に部長のヤマダさんが「今村、、お前なかなか根性あるな」と捨て台詞を残して先輩達はその場を去った。



松林にへたりこんだ僕たちの背中は首から腿までは、血がにじんだみみずばれが数十あり、そのシゴキの激しさを物語っていた痛みと悔しさの中、互いの傷を見合いながら、僕たちは「いつかやり返してやと心に誓ったのだ。



 

中学の出来事ではあるものの、僕にとってあそこでナキをれなかったことは、自分の変な意味での自信になった。「引いちゃいけないという姿勢を貫けたという意味では誇らしかった。



そんなシゴキにもめげずに部活をさぼり続け、結局1年の3学期に僕は剣道部を自ら退部したのだった


 

夏休みくらいから僕のヤンチャ活動は本格的になっていた、ワル先輩からの誘いもあり、夜になると親の目を盗んでは外出するようなっていた。



先輩の家で煙草をふかしながら、喧嘩の武勇伝やさらに上の先輩達の悪かった話を聞かされる。





また当時は不良暴走族もまだ盛んな時代であり、「雑誌のヤングオート」やヤングマガジンの「ビーバップハイスクール」などの話で盛り上がっていた。






当然ながら勉強なんかはそっちのけで、放課後は不良のたまり場のような学生服屋やゲームセンターなどを仲間と一緒に遊び惚け、夜は先輩たちとつるむような日常だった。


 

まあ、たまり場にいれば当然、他校のツッパリ連中とのもめごとになる。その場で喧嘩乱闘まではないが、因縁の付けあいになる。ここは結構気合の勝負で、下を向かなければ何とかなるし、そのまま意気投合する奴らもいた。


 

2年生にもなると不良のスタイルも先輩から許可を受け堂々と着飾るようになる。中ラン・ドカンに短ラン・ボンタンなど学ラン自慢を楽しむのだ


著者14歳

 

外でもめた因縁付けから他校の連中を制圧に繰り出し、平塚市内の中学のワル連中自分たちのグループ入れて勢力を拡大していくまったく馬鹿のようなことなのだが、自分なりにツッパリ道を真面目にやっていた。



著者15歳

 

そんな中で中学3年になるころには、浜岳のイマムラの名前は市内にそれなり通っていて、隣接市の伊勢原から平塚との揉め事の仲裁に入って欲しいなどの連絡までくる始末だった。


 

警察にも厄介になり、親にも迷惑をかけていたが、自分たちなりに非行少年と不良少年は違うと「掟」みたいなものは守っていた。それが自慢にもならないのだが、波乱に溢れたどうしようもない中学生日記を日々つづっていたのだ

飯場の子 第6章 22話 「どうしようもない中学生日記 入学




 

「飯場」と共に育ち、遊び、本当に様々な経験をした小学生時代もそろそろ卒業という区切りを迎える時が近づいていた。そんなある日の夜「二人の姉」から突然訓示を受けることになる。


 

 「お前もいよいよ中学だな。どうせお前もツッパリになるんだろうから、大変だぞ~。」と、半分からかった感じで話をしてきた。二人の姉も中学時代は目立っているグループにいたので、ツッパリ組のシキタリはよくわかっているのであった。


 

 「まずは悪い先輩のパシリをやることから始まるんだよ。」といきなりパシリという意味不明な単語が飛んでくる。「とにかく浜岳は上下関係にうるさいから、先輩に目障りにされたら終わりなんだ。先輩に可愛がられるようになるんだよ。」

 

早い話が、「ツッパリになるなら覚悟していけよ。」という姉なりのエールであった。

 

時は1980年代。いわゆる「ツッパリ全盛期」である。

 この浜岳中学校には、僕の通った「なでしこ小学校」と、隣の「花水小学校」の2校が集結することになっていた。小学校卒業前になると噂話で隣の小学校のツッパリ予備軍の話が聞こえてくる。「花水の〇〇はヤバイ奴らしいぞ。」とかそんな感じだ。ただ、なでしこ小の同級にはそれなりの人材?がいたので強気だった。



なでしこ小学校の予備軍(著者中央)


 

 いじめっ子だが野球は抜群の「セト」。なにより喧嘩が趣味という「タナベ」。九州からの転校生「シゲ」。頭も腕っぷしもいい「ワキ」。運動神経抜群のお調子者「ミネオ」。そして飯場の子「ヨッチ」。この6人は特に目立っていた。


 

そんな中、いよいよ「なでしこ小学校」の卒業式を迎えた。寂しさよりも、これから始まる中学という世界がどれほどなのかギラギラした気概に満ちていた。


 

浜岳中学の入学式などの記憶はほとんど無い。それほどに気を張っていたのだと思う。


 

あらたな校舎や教室、黒板に机など、小学校とは完全に違う世界であった。そして、見慣れない花水小の生徒達。担任の先生と授業ごとに教師がかわる。算数から数学に変わっただけで頭のレベルまで上がったと勘違いしてしまうようだった。そして一番の驚きは上級生、特に3年生は男女とも「オトナ」に見えるのだ。



 

1学年は8クラスあり、僕は1年3組になった。なぜかそのクラスにはその学年のツッパリ君が集められていた担任は「鈴木先生」。ご想像の通り、学年で一番怖い先生が「見張り役」としてついたわけだ。



 

嬉しかったのは花水小であるが顔見知りの「オカジ」と「アサワ」の二人が同じクラスにいたのだ。その二人が、他のワル連中である「カツタ」や「カナメ」を紹介してくれた。お互いに牽制はしていたが、「まあよろしく」って感じになった。



 

放課後、なでしこ仲間が集まり、情報交換になる。やはり僕のクラスが断然目立っていたようだ。が、ここで異色の存在が登場する。シゲから紹介されたエザワタイチという奴であった。タイチは、転校生なので知り合いはほとんどいなかったが、すぐに打ち解けた。これまたいっぱしなワルで不良スタイルに通な男だった。



 

また中学に入学と同時に運命的な男と出会う。同じ剣道部になる「荻野宏治」通称「ヘギン」である。後述にするが、彼こそ僕の人生に深く関わる男なのだ。


荻野コウジ(通称ヘギン)13歳



 

る日の午後、1年のワル連中に集合がかかった。指令の通りに渡り廊下へ向かうと、2年生のワルがズラリと集結。ハクをつけるため、不良の学ラン姿でコチラを睨みつけ、タバコをふかしているのだ。僕は姉の忠告が頭をよぎった。そして「いよいよ始まったな。」と腹を据えた。



画像はイメージ


 

しこたまビビっている1年坊に、2年の番格が「今からお前たちにこの学校のしきたりを教えるからよ」と言い出す。

1年生全員が目立つ格好は一切禁止。先輩には必ず挨拶する、先輩は『さん付け』だ」これを学年に徹底させろ。というものだった。散々怖がらせる2年生も必死だ。1年の教育がなってないと、3年生から2年がシメられるのだから。



 

そして集合の最後に、「明日からこのルールが守られない時は全体責任でオマエラ全員をシメるから覚悟しろ。嫌なヤツはいまから抜けろ。」と、なるのだ。



 

 平塚市にはJR東海道線の線路を挟み「南と北」に分けられる時がままある。当時は市内に14の中学校があったのだが、南エリアには浜岳と大洋の2校しかなく、あとはすべて北エリアになる。当然勢力的には、北エリアの方が大きいのである。その勢力図の中で浜岳は独特な上下の強さをつくり出し、北エリアに負けない為の団結力を持ったのかもしれない。


 

集合のあとは、各々顔見知りの先輩との個別の談話になる。


 

2年生の先輩にも顔見知りが何人かいる。もちろん小学校が一緒だから当たり前なのだ。その中のオオカワさんとは親しかったので、先輩と話しをしていた。2年の番格はトウさんという人であるとか、わからない事は俺に聞けよ。とか話してくれた。

先輩「今村・・浜岳のカンバンを汚さないように頑張れよ。」と笑顔で言ってくれた。

 


部活でもない、勉強でもない、何に頑張るのか。


 

でも自分ではわかっていた。先輩が伝えた「カンバン」の意味を誰よりもわかっていたと思う。

それは甲斐組というカンバンを背負っている父や母をみていたからだと。


 

「ああ、俺はこれから浜岳のカンバンを大事にしていくんだ。」僕は握っていた拳にさらにチカラをいれて握りしめた