飯場の子 第7章 27話「ラグビーに与えてもらった宝物」 | ポジティブ思考よっち社長

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飯場の子 第7章 27話「ラグビーに与えてもらった宝物」




 

 

 高校の運動部、当時は強豪校になるほど上下関係は厳しく、さらに部員は個性豊かな面々になる。

 

 我が日大藤沢ラグビー部も面白い仲間が揃っていた。ここで同期の仲間に触れてみたい。


 僕たちの代のキャプテンになる心優しき男「ノムラ」、小田原出身で登下校も三年間一緒だった「フジ」、京都からの使者「イマムラシン」、あるいった意味ムードメーカー「ショウヘイ」、横須賀の変態少年「オダ」、保土ヶ谷の熱血漢「ユウジ」、しっかり者の「バーバー」、俊足ウイングで名を馳せた「スガヌマ」、藤沢の遊び人「ヨーキさん」などなど。他にも沢山いるのだが、個性的な仲間だらけの同期30期である。


部室内の同期(2年時)


 飯場の子「ヨッチ」は、中学時代はまともにスポーツなどしていない、ご存じの通りヤンチャの時代から、いきなりガチの体育会運動部に入り、体力もなく練習にはとてもついていけないのだ。ただ持ち前の?ワルなキャラと愛嬌モノで同期内では早々と「ボス」とのニックネームをつけられ、なんとなく同期内のムードメーカーとなる。

 

 先輩からはイジられキャラで、演芸マシーン3号(1,2号は大先輩にいるのだ)と名付けられ、現役世代だけではなく数年上のOB諸兄先輩まで「ボス」はラグビーの素質とは全く違う、別な意味でその存在を覚えてもらうようになっていくのだった。


菅原合宿で1学年上の先輩と(イジられ)

 

 しかし元不良のヤマっ気は残しており、1年の時は厳しさに堪え切れず練習をサボるために学校は休むは、ほかにも数々の問題を起こすのだが、松久保監督の愛の制裁で救ってもらうのだ。

 

ここで「鬼の松久保」と恐れられた恩師についても触れてみる。



恩師55歳くらいですね(部誌より)

 

 松久保監督は、生粋の薩摩隼人、鹿児島大学を卒業後、いきなり日本大学藤沢高等学校の体育教師として赴任させられ、そのまま42年間に渡り日大藤沢の教員及びラグビー部監督として、人生の多くの時間を教師と部の指導者として費やした。

 

 当時、監督は50歳くらい、部を率いて25年。赴任したての頃はどうしようもないワル高校だった頃の部員には手を焼いたと聞く。しかし、その猛者たちをラグビーを通して指導し、県内トップクラスのラグビー部に育て上げたのだ。社会に役立つ人間を育てる。を柱にしていた真の教育者だったと思う。

また、行き場のなくなったどうしようもない生徒をラグビー部に引き受けて、なんとか卒業させる事も多々あったと、僕がOBになってから他の教員や大先輩からも教えてもらった。

 

 そのような存在なので、運動部以外の生徒にも恐れられてはいたのだが、体育の授業の時間は部の指導とはちがい、やたら優しく丁寧な言葉遣いのギャップには苦笑いしてしまった。ユーモアも多々あり、誰にでも怖い存在ではなく、部員やそれ以外の問題生徒には容赦のない鉄拳を叩きこむのだ。

 

 僕が中学時代にヤンチャをしていたことも監督は知っていて、そんな体力もスポーツ経験もない自分でも、蔑視することもなく皆と同じように扱ってくれた。ただ、たまに「おい、ヨシヒロ。お前はまだ平塚のチンピラと付き合っているんか。」と喝を入れられることもあった。


菅原合宿で保護者と(部誌より)

 

 僕がOBとなってからも正月に恩師の自宅に行った時には、よく昔話を語ってくれた。その時に「手を出すのは、分かってくれる者しか出来ない。それはその生徒や部員の眼を見ればわかる。そのような部員も何人もいた。救ってやれなかったことが悔やまれると。」しみじみ二人で“黒ぢょか”で芋焼酎の熱燗を汲みあい、語り合った。


いまも尊い存在の大恩師である。


黒ぢょか

 

 

 ラグビーについてだが、1年時はとにかく厳しい練習についていけず、辞めたくなった時もあったが、同期の仲間が支えてくれた。ラグビーというスポーツは簡単に言えば「陣取り合戦」なのだが様々な体形や個性を持つポジションに分かれる。スクラムを組むFWは体格とチカラがモノを言う。バックスはスピードとパスやキックの技と視野の広さが求められる。そして全員に必要なのはタックルに向かう度胸なのだ。



同期の裕二と下は吉田ちょく

 

 僕はガタイだけはよかったのでFWのスクラムの最前列であるプロップのポジションを当てられていた。

 

 各々の個性が複雑に絡み合い、フルコンタクトでぶつかり合うまさに“格闘技”なのだ。しかし一人だけのチカラでは勝つことはできない。わがままなプレイは通用しないのだ。


校内練習試合

 

 ヤンチャ時代は男一匹の勝負が出来る。また暴れる事にも慣れてはいたのだが、モールなどで鍛えている相手に揉みくちゃにされたら、手も足も出せない。しまいには倒され、踏みつけられて体もココロもぼろぼろになる。威勢やハッタリだけでは全く通用しない世界。

独りよがりの考え、ラグビーにはそれが通用しない事を練習や試合を通して学んだ。

 

3年生が引退して、卒業。4月になり晴れて2年生となった。

 

 ラグビー部の同期の仲間と、「この1年間よく頑張ったなぁ。」と、お互いを讃えあったのだが、新1年生が入部してくるも、まだ「例の儀式」が終わっていない。僕らは慣れてきた部の仕事を黙々とこなし、1年生をお客さん扱いしながら、春の県大会に参戦していくのであった。

 

 2年生にもなると、同期との仲間関係はさらに強くなり、また先輩とも同じ釜の飯を食う仲間として絆は深くなるものだ。



桜咲く2年時に裕二と。(ジャージは新1年)

 

ハラシナ主将、率いる新チームは春の県大会でベスト8で敗退したため、関東大会への出場は出来なかった。

 

 ちなみに、あの「ラグパンレース」が行われるのは、梅雨時期の6月。2年生になった僕たちも当然、例に違わず「あの儀式」をしっかりと受けたのだ。詳しい場面は省くが、僕はなんとか合格し、罰ゲームのメンバーにはならなかった。

 

 晴れて僕らも「しもべ」から「人間」になれた時は、ようやく日々の仕事から解放される喜びは大きかったのだが、これから始まる1年生の過酷な生活に同情する気持ちも同時に生まれるのだった。

 

2年の夏の菅平合宿あたりから、かなりラグビーを楽しいと思い始めた。


2年の菅平合宿(真ん中著者、右隣は1学年下の北村)


 夏が過ぎて、秋の県大会あたりになると、補欠の候補に入れるくらいになるようになっていた。ポジションは変わらず「フロントロー」であるプロップ。

最前列でスクラムを組み合う役割を担っていた。自分で言うのもなんだが、スクラムとタックルはそれなりにできたと思う。



練習試合(校内合宿)

 

 その頃、勉強の方はというと、毎日ラグビーをするために学校に行っていたようなものだったため、正直なところ当時の授業のことはほとんど記憶にない。

 

テストの成績はいつも何科目か赤点があり、補習を受けなければならない問題児だった。

 

この問題児は、2年の2学期の中間テストで、見事にカンニング事件を起こしてしまう。

 

テスト終了後に、後ろから回って来た答案用紙を一気に写したところが見つかり、大問題に発展してしまう。担任のフルヤ先生に呼び出されたが、「カンニングくらいなら、大した事でもないな。」と僕はタカをくくっていたのだが、全科目ゼロ点扱いになると宣言され、目の前が真っ暗になった。

 

そんな僕をフルヤ先生は、ラグビー部の松久保監督のもとに連行する。

 

体育教員室に入った時に、張り詰めた空気を感じた。

 

「ああ、ヤバイ。」

 

 僕に向き合った時に鬼の形相であった監督は、正座の僕をバチバチに殴るのだった。しかしこれは愛の制裁だったのだ。

 

 その後、母親が学校に呼び出され生活指導の先生に謝罪する。

 

 学年主任の先生からは「本来なら停学の対象にもなるのだけれど、松久保先生にあれだけ制裁を受けているので、本人も反省していると思う。今回だけは停学にはしない。」との処分であった。

 

 松久保監督はあえて別の教師の前で、これでもか。とバチバチに殴ったのだったと思う。そこには間違いなく救済の愛があったのだ。

 

話を部活に戻そう。

秋の県大会も準々決勝(ベスト8)からの試合会場は、横浜の保土ヶ谷ラグビー場。神奈川県の高校ラガーにとって、まずはこの「保土ヶ谷」に行くことが目標になる。



29期の総勢(ハラシナ主将)(部誌より)

 

そして決勝の舞台は三ツ沢競技場。

 

 3年生にとっては最後の闘い。順調に勝ち上がるも、準決勝であの宿敵の相模台工業と激突、昨年の先輩たちの雪辱を果たそうとするが、0対38惜しくも準決勝で敗退。結果はベスト4で「またも敗れたり。」



全国大会 神奈川県予選準決勝 (保土ヶ谷G)

 

 こうして僕たちは先輩たちから「OBになる俺たちを、来年こそ花園に連れて行け、お前達の代なら出来る」。という夢を託された。そして、いよいよ「僕たちの出番」を迎えることになる。

 

 僕がラグビーに与えてもらった「自分を犠牲にしても、人を活かしてこそ、生かされること。」という精神は、今でも僕の心の宝物なのだ。