飯場の子 第7章 28話 「怪我と運命の11月26日」 | ポジティブ思考よっち社長

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飯場の子 第7章 28話
「怪我と運命の11月26日」


 高校時代をラグビーに費やした僕は、普通の高校生活をエンジョイするような、バイトや合コンなどを楽しんだという思い出もない。
 
しかし、その分、他の学生には出来なかった、ハードで熱い経験をしたという自負はある。
 
そう、ラグビーと向き合いがむしゃらにやってきた。

【練習試合のワンシーン】左筆者

 
いよいよ僕らも最高学年になったのだ、「ノムラ主将」率いる日大藤沢ラグビー部30期の闘いが始まった。


【30期メンバー】

 
 遡るが、僕は2年の12月のある日、監督から呼ばれた。「ボス。お前はフッカーをやれ。」といきなりのポジションチェンジを告げられたのだ。正直、面食らった、ラグビー経験者ならわかると思うが、同じフロントローでもプロップとフッカーはかなり役目が違うのだ。
 
プロップからフッカーへの転向、そこには同期の「ヨシダ」がいる。当然レギュラー争いになるのだが、複雑な気持ちがした。


【中央が吉田(大)】

 
今までスクラムを組むたびに、隣りで力を合わせてきた仲間が、いきなりライバルになる。二人で真正面に向き合い話しあった。「正々堂々とレギュラーを取り合おう、恨みっこなしだ。」と。
 
自分でいうのもなんだが、僕らの代は強かった。
 
春の県大会も優勝候補筆頭として、神奈川新聞で報道されるほどだったのだ。



 【公式戦】
チームは自信にあふれていた、今年こそ宿敵である相模台工業を打倒して全国大会へ行くのだと、全員が確信していた。


【新人戦にて初のHOで公式戦】

【新人戦 東海大相模 23-3で勝利】

 
自信を持って、挑んだ春の県大会、フッカーになった僕は残念ながらリザーブ(補欠)であったが、我がチームは順調に勝ち進んでいく、そして準々決勝の相手は法政二高になった。強豪校ではあるが、決して引けは取らない。
 
試合の前日、練習後にメンバーの発表があった、僕はその試合に右プロップで出場することになったのだ。スクラムでは負けない自信は十分にあった。 
 
5月の土砂降りの雨の日、グラウンドコンディションは最悪。試合会場は保土ヶ谷ラグビー場である。雨の中のキックオフ、泥だらけの試合で僕たちのチームはミスを連発してしまう。
 
結果は、相手に決められたペナルティゴール1本、0対3でまさかの敗退であった。法政側はこの大番狂わせに阿鼻叫喚していた。
 
ノーサイドのホイッスルの後、ずぶ濡れで泥まみれのグラウンド上で「マジかよ…」と呟いたのを覚えている。


【春の関東大会予選まさかの敗退】保土ヶ谷ラグビー場

 
「優勝候補筆頭」とまでいわれていたのに、関東大会さえも出場できなかった。
 
まさに自分たちを過信していたのだと思う。
 
この敗北の意味を受け止めなければならない。僕たちは夏に向け、気合いを入れ直して必死に練習を続けていった。
 
 そのころ、僕にはもう1つ大きな出来事があった。6月半ばごろに、国体(オール神奈川)選抜の選考メンバーが部内で発表されるのだ。
 
監督から推薦者が呼ばれる中、なんと僕の名前があがったのだ、同期の仲間から「おおー!」と驚きの声があがった、僕自身が一番驚いて、「あの…何かの間違いじゃ。」と監督に呟いたら、部員の皆が大爆笑になった。
 
この年、うちの部からは僕を含めて6人が国体選抜メンバーになった。


【オール神奈川選抜メンバー】

 
選抜メンバーは県内各校から集まり、その数は60名はいたろうか。その中からセレクションを受けて25名がオール神奈川メンバーとなるのだ。
 
神奈川中から、腕がなる猛者が集まっていた。皆、オール神奈川を目指してギラギラしているのだ。
 
合同練習が始まる、メンバーは言わずもがな学校がバラバラ。そのため、お互いどこの学校か分からないのだ。そうすると時折、「オマエどこだよ。」とイキがったヤツが出てくることもあった。そんな時に「あー、オレ日藤だよ」というと、「あ、すみません日藤ですか。」と、いきなり敬語に変わるのだ。それほど日藤のカンバンは光っていた。
 
実際、練習でスクラムを組むと、見た目はイキがっている猛者たちも、はっきり言って、「手ごたえがない。」確かに全国レベルの強豪校と練習試合を繰り返してきた自分は「こんなに差があるんだ。」と驚いた。それだけ日藤で、厳しい練習を重ね、鍛えられていたという事が初めて分かった瞬間でもあった。
 
60人ほどいたメンバーが半分くらいまで絞られていったのだが、僕は必死に食らいつき、その中に残り続けた。
 
が、ある日事件が起きる。
 
最終選考に選ばれるラストの練習試合は雨の日だった。ぬかるんだグラウンドで、左足にタックルをくらった。「バキバキ」といういやな音がした。本来だったら曲がらない方向に曲がっている足。激しい痛みとともに崩れ落ちた。左足の靭帯をかなり酷く痛めてしまったのだ。
当然、試合は退場となり、そのまま病院送りでギプス固定となった。
 
僕のオール神奈川は幻に終わった。初めて自分のラグビー選手としての実力を認められかけていた時の出来事であり、情けない気持ちと自信を失いかけていた。
 
 監督からは一言、「情けない奴じゃ。」と言われた。期待に応えられなかった悔しさに、黙って頭を下げるしかなかった。
 
オール神奈川の正式メンバーにはテクニシャンフランカーの「ニシカワ」、俊足ウイングの副将である「スガヌマ」の2名が選ばれたのだった。
 
最終学年の夏が始まった、左足を痛めていた僕は、とにかくリハビリとウエイトトレーニングと走り込みを徹底するべきなのだが、「試合に出ないといけない」と、焦っていた。ギプスが取れた直後から、テーピングを巻きながら練習に参加していたのだ。結果、夏の間に同じ部分の靭帯を3回痛めることになる。


【怪我を庇いながら練習に出続けていた】



【3年時の菅平合宿】ほぼ負け無しの30期

 
秋の全国大会県予選を目の前にして、試合に出れる状態ではなくなったのだ。
 
平成元年度、全国高校ラグビー大会神奈川県予選、98校からの頂点を決める、全国一激戦の大会である。いよいよここまで来たんだ。

3年にわたる厳しい上下関係と、すさまじき猛練習、そして監督や部員である仲間との絆。すべてをかけた闘いが始まるのだ。
 
その大会にリザーブにも入れなかった僕に、松久保監督は「花園までになんとかしろ」と声を掛けてきてくれた。その言葉に、涙が出そうになった。
 
僕ら日藤ラグビー部は3回戦からの出場となる。順調に勝ち進み、準々決勝では6強の一角である桐蔭学園に、接戦を制し16対3で勝利した。

準決勝にコマをすすめ、春に惜敗した法政二高と激突する。しかも会場は保土ヶ谷ラグビー場である。
 
僕はリザーブでもなかったので、同級生の生徒と共に、芝生のバックスタンドで試合を見ていた。春の惜敗から、菅平合宿で茗渓学園に負けた以外は全勝の同期メンバーである。仲間を信じていた。

【練習に明け暮れた日々】


キックオフから両チーム全力での戦いであった。まさに互角に近い勝負だった、やはり法政二は強かったのだ。大接戦の末、ノーサイドのホイッスルがグラウンドに鳴り響く。崩れる法政二の選手たち。結果、14対6で勝利し、決勝進出を決めた瞬間であった。
 
一緒に試合を見ていた同級生から「ボス!よかったな。花園に行けよ。」と声をかけてくれた。笑顔で「ありがとう」と答えながら、メインスタンドの方へ向かっていった。
 
試合が終わり日藤フィフティーンがメインスタンドに挨拶している後姿を、一人歩きながら眺めていた。


【当時の保土ヶ谷ラグビー場】


その姿を見た時、何とも言えない思いが、胸にこみあげてきて、大粒の涙が止まらなく流れたのだ。生まれて初めての“嬉し泣”という経験だった。エンジのジャージのメンバーの姿が、今までのなかで最高にカッコよく見えた。
 
ウイングのマムシこと「スギウラ」が振り返り、僕を見つけ「ボスーー!!」と、泣きながら抱きついてきた。その瞬間、メンバー全員に囲まれて抱き合い涙した。心の底から自分もこの一員なんだということが最高に誇らしかった。
 
この話をすると、いつも涙が止まらなくなる。
 
 一方、僕たちと対戦する相手を決めるもうひとつの準決勝では、波乱が起きていた。
なんと相模台工が慶応に負けたのだ。つまり、僕たちは決勝で慶応と対戦することになったわけだ。崩れる相模台工の選手たち。その試合をともに観ていた法政二のメンバーは「俺たちの分まで花園で大暴れしてくれ。」と言葉を残し会場を後にした。
 
運命の平成元年11月26日、決勝戦の日。
秋晴れのもと、いよいよ僕たちが「天下」を取る日が来たと試合前から意気揚々としていた。
 
相手は宿敵の「相模台工業」ではないが慶應義塾も手強い。しかも相模台工業を破り、乗りに乗っているのだ、相手にとって不足はない。
 
試合会場は神奈川の頂点を決める三ツ沢競技場である。会場は両校の応援で、超満員になっていた。
 
キックオフと同時に神奈川県のトップを決める60分の死闘が始まった。


【平成元年度 神奈川県決勝戦】三ツ沢競技場


さすがは慶應の伝統芸ともいえるタックルに一進一退の攻防戦となった。前半はリードを許したが、それほどの不安はない、しかし後半に追い上げ同点となるも、そのままノーサイドになった。

【同点トライの瞬間 フルバック高橋】

 
結果は7対7の同点で両校優勝。

うなだれる日藤、歓喜をあげる慶應。そこには両者の気持ちが表れていた。
 
全国大会の出場権はくじ引きになる。くじは、そのままグラウンドで行われるのだ。

水を打ったような三ツ沢競技場、全ての皆が、息を飲むその瞬間。

慶應のキャプテンが、両手を高々と突き上げた…


【決勝戦 両校優勝の記念写真】


僕の高校時代はラグビーに始まりラグビーに終わったと言っても過言ではない。

そして人生の転機にもなったと今でも思う。松久保監督をはじめ同期の仲間や多くの先輩や後輩たち、語り切れない想い出は本当に僕の宝物なのだ。

そして僕は今でも日藤ラグビー部OB会や平塚市ラグビーフットボール協会の一員としてラグビーにかかわって生きている。