飯場の子 8章29話「人生初の挫折と敗北」 | ポジティブ思考よっち社長

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飯場の子 8章29話「人生初の挫折と敗北」



 今まで見てきた通り、僕は優等生ではないながらも、一応活発な学生生活を送ってくることができた。

飯場の子として育ち、ヤンチャにラグビーにと、常に何かに集中し、常に何かに目標を持ちながら突き進んできた。
 
そんな僕だったのだが、人生の中で初の目標を失い挫折という経験を味わう事になる。



父のたっての願いは「息子を日本大学の土木学科に行かせる」こと。

そのため僕も日本大学の付属高校に入り、同大学への進学を目指すはずなのだが、元来の勉強嫌いは変わる事もなく、成績は学年でも最下位のグループに属していた。
 
ラグビーの県大会最中ではあるが、高校3年生の10月に日本大学の付属高校では統一テストという試験があった。

その結果で推薦進学ができるか否かが決まるという、すごく大事なテストなのだ。
 
テストは受けるも、結果はボロボロ。当然ながら、付属高校でも推薦枠に入れなかった。
 
ダメ元で一般受験に望みをかけ、日本大学と東京農業大学を受験したのだが、当然ながらすべて敗北。

[画像はイメージ]


結果的に現役での大学進学は叶わなかった。
 
それでも、家業を継ぐ長男として父の希望でもある日大の土木系学科に入らないとと、困惑しながら迎えた高校卒業式。

3年間の学び舎は入学した時よりひとまわり小さく感じた。懐かしいラグビーに情熱をかけた日々、まさに青春を謳歌したグラウンドと母校に別れを告げた。

[当時の日大藤沢高と日本大学農獣医学部]



「大学進学しなければ…」

浪人生となったら、まずは予備校に通うしかない。まったくお馬鹿さんな僕は予備校に入れば大学に進学できるという勝手な図式を描いていた。

そんな考えなので予備校選びも遊び感覚で、同じく浪人生になった中学からのワル仲間である「シゲ」と遊びたいがため、藤沢にある「YMCA予備校」に行こうと、これまた簡単適当に決めたのだ。


[当時の予備校の冊子]

 
しかし、大学受験を舐めていた僕はその勘違いを早々に思い知らされることになる。

予備校に通っている浪人生は僕とは全く違う人種であった、いわゆる「人間受験マシーン」の集合体なのである。

会話で聴こえてくるのは偏差値やら、合格率やら、何時間勉強したやらの話ばかりで、会話に入っていけない。ポツネンと一人で立ちすくんでいた。

科目の講義は90分。講師の言っていることが、外国語に聴こえ、全く理解不能、完全なるフリーズ状態になってしまう。


イメージ


当たり前である。学問の基礎がまったくできていない。頭は中学生ぐらいの簡単な方程式で止まっているのだ。

 講義のラスト、20分くらいの小テストが毎度ある。テスト用紙が配られ、講師の「はじめ」の合図でみんな一気に解き始める。

[イメージ]


そのシャーペンを走らせる「カリカリカリカリ…」という音が徐々に僕の心を蝕んでいくのを感じた。

[全てがぼやけて見えた]


これまで名だたる不良連中やら、ラグビーの猛者たちに揉まれ、色んな場面に対峙してきた。

若者ながらに根拠のない自信を強く持っていた僕であったが、人生のなかで本気で「逃げ出したい。」と下を向いてしまったのだ。


[イメージ]


人間は一旦下を向いてしまうと自力で上を向くことは、なかなかできない。
 
はじめて「行き詰った。」僕は、いわゆる今でいう「うつ病」になってしまったのだ。

予備校に通い1か月もたたず、完全にノックアウトで不登校。

その拒絶反応はすごいもので、予備校の門を見るだけでめまいが起きるのである。そして僕は「浪人生」ではなく「半端者」になってしまった。
 
その後、僕は藤沢駅をウロウロしては、喫茶店やゲームセンターなどで時間をつぶし、何もしない日々を送る。予備校には体の具合が悪いと言い続けていた。

だからと言っては何だが僕は「不登校」になってしまう学生の気持ちが少しは理解できる。

流石に予備校から母親にも連絡が入りサボりがバレたが、叱咤されるもどうしようも無く、寝ても覚めても頭の中がぼーっとした日々が続いていた。

完全なる「敗北」であった。
 


…しかし、突然にそんな生活から脱却するキッカケが起きる。
 
このころ暇を持て余す僕は、時々平塚市のはずれにある甲斐組の本社へバスで行き、飯場にちょこちょこ顔を出すようになっていた、中学からのワル仲間、通称「ヘギン」こと荻野が4月から甲斐組に正式入社していたのだ。


[イメージ]


仕事が終わった彼を訪ねて「どうしたもんか。。」と飯場で泣き言を聞いてもらっていた。
 
そうしたある日、会社のクルマを「ヘギン」と二人で洗車したことがあった。が、その洗車している時の集中状態が非常に楽しく、そこはかとない充実感を抱いたのだ。
 
その瞬間、「あ、俺このままじゃだめだ。」という意思が湧いた。
前にも行けない後ろにもいけない状態から脱しないと。と真剣に思ったのであった。
 
そうなれば腹をくくり、両親に大学進学を諦めることを伝えると決めた。
 
その時、同時に思案した事があった。
それは「日本列島旅修行」だった。
 
大学に行くはずの時間を旅修行で人生経験をつむんだ!と思いついたのだ。

そこで、3年間と時間を決めて、全国を住み込みのアルバイトをしながら、1か月くらいおきに場所を変え、1年で12回、3年で36か所を回り、大きくなって帰って来ようと考えたのだ。
 
その計画に本気になり、日本地図を買ってきては広げて、静岡から始まるルートなんかもノートに書き始めて計画を練っていく。




止まっていた自分に、新たな目標ができた。その壮大な計画づくりのおかげで「うつ状態」からも脱却できたのだ。
 
そんな旅修行を、ひと通り頭に描き終えた8月のある日、両親に決意表明。
 
「オレ、申し訳ないけど大学には行きたくない、予備校も辞める。これから日本一周旅をして色んな経験を積んでくる。」
 
そう伝えた。オヤジは黙って聞いていた。お袋は「大学には行ってほしい」と涙ながらに話す。気丈なお袋の涙声には心に針が刺さるような思いがした。
 
中学校でヤンチャ、高校でラグビーに出会い、ようやく更生したのに、大学に行かずにまたダメになるのか、と思っていたに違いない。

黙って聞いていた父親が激怒した。
 
「大学には行かない、仕事もしない、遊び歩きたいとは何事だ!お前の同級生の荻野は毎日泥だらけになって現場でしごかれながらやってるのに、てめえがほっつき歩くとはどういうことだ」と。

 そして、父親はまくしたてるようにこんな選択を迫って来た。
 
「てめえ、今この場で、大学に行くか、うちの会社に入るか、さもなければ勘当してやるから明日から家を出ていくか、この場で決めろ。」

土建屋の親方である暴れ者のオヤジの啖呵は半端なものではなかった。
 
その勢いに気押された僕は、居直る事など出来るはずもなく、その場で、「分かった…オレ、会社に入るよ。」となったのだ。
 
 オヤジから「二代目だからと、特別扱いはしない、飯場詰めからやるんだ。」と言われた僕は、腹を決めた。

運転免許は取らせてほしいと頼み、自動車学校に通い始めた、やたら運転慣れしていた僕に、教官は「君なー、無免でかなり運転してただろ」と、からかわれた。自動車免許は、やく1か月で取得出来た。
 
選んだ道に、後悔はなかった。ただ大学進学を願っていたお袋の涙には心から「すまない。」と思った。


こうして平成2年10月に19歳の飯場の子は「飯場の住人」となり、甲斐組に入社する。

挫折と敗北をバネにして、土建屋の二代目として新たな人生のステージに踏み出したのだ。